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{{otheruses|おもに山梨県でバス運営を行なっている企業|そのほかの山交|山交|}}
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|社名 = 山梨交通株式会社
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|英文社名 = Yamanashi Kotsu Limited
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|郵便番号= 400-0035
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|本社所在地 = 山梨県甲府市飯田三丁目2番34号
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|事業内容 = 乗合バス事業、貸切バス事業、飲食業、自動車教習事業、不動産業 他
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|代表者 = 小澤 建雄(代表取締役会長)<br/>高野 三雄(代表取締役社長)
高野 三雄(代表取締役社長)
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|関連会社 = 国際興業 / [[富士屋ホテル]]
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|外部リンク = http://yamanashikotsu.co.jp/
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[[File:Yamanashi-Kotsu Co., Ltd. Head Office Kofu-City.JPG|thumb|280px|山梨交通株式会社本社(甲府市飯田)]]
[[画像:Chuo-Highway-Bus-Yamanashikotsu.jpg|thumb|250px|right|山梨交通の高速バス]]
'''山梨交通株式会社'''(やまなしこうつう)は、[[山梨県]]の[[甲府盆地]]を中心とした地域、いわゆる[[国中地方]]の峡中・峡西地域において[[路線バス]]や[[貸切バス]]の運行を行っている<ref name="33-31"/>[[国際興業]]グループの[[バス (交通機関)|バス]]事業者である。
[[Image:Yamanashi Kotsu.jpg|thumb|right|250px|山梨交通の路線バス]]
[[画像:Digital-Fare-Board-YamanashiKotsu.jpg|thumb|right|250px|運賃表は10円単位の表示]]
'''山梨交通'''(やまなしこうつう)は、[[山梨県]]の[[甲府盆地]]内を中心とした路線バス網と首都圏・名古屋・関西圏への高速バスを運営する[[バス_(交通機関)|バス]][[会社]]であり、[[国際興業]]の傘下にある。地元では「山交(やまこう)」の愛称で呼ばれている。


地域内の路線以外にも[[中央自動車道]]を経由して各方面に向かう[[高速バス]]や<ref name="60-43"/>、[[東京国際空港]]・[[成田国際空港]]への[[空港連絡バス]]を運行する<ref name="60-44"/>。かつては[[軌道法|軌道]]事業([[山梨交通電車線|電車線]])を行っていたほか、国中地方全域に路線バス網を展開していたが、電車線は1962年に廃止され<ref name="60-49"/>、峡北・峡東・峡南の各地域の路線については[[廃止代替バス|代替バスや自治体バス]]への移行が進められた<ref name="33-34"/>。1990年代以降は日本のバス業界における先駆的な施策も打ち出している<ref name="60-36"/>。
== 沿革 ==
'''山梨交通'''は戦時中の企業統制により、'''山梨開発協会'''を中心に県内のバス会社数社と甲府駅前~甲斐青柳間の鉄道を運営していた[[山梨交通電車線|峡西電気鉄道]]を統合して[[1945年]](昭和20年)5月1日に誕生した。


== 歴史 ==
その後、[[伊勢湾台風]]等により'''線路流出'''等の甚大な被害を受けて赤字に転落した[[山梨交通電車線|電車線]]の廃止を[[1961年]](昭和36年)1月の株主総会で表明し、[[1962年]](昭和37年)6月30日をもって鉄道廃止、バス切り替えを行った。
{{main2|馬車鉄道の詳細な歴史|山梨馬車鉄道|電車線の詳細な歴史|山梨交通電車線}}


=== 創業期 ===
なお、この過程で経営危機に陥った同社に対し、[[山梨県]][[東山梨郡]][[勝沼町]]出身で[[国際興業]]社主だった[[小佐野賢治]]が県内有力者数名に請われて株式を買い集めた。これに防戦する経営陣は[[西武鉄道]]会長の[[堤康次郎]]を担ぎ出して対応し、いわゆる経営争奪戦が行われ、この最中に開かれた株主総会では滅多に感情を表さない小佐野が会社側株主に取り囲まれる中怒声で「異議あり」を連発した。結局この争奪戦に勝利した小佐野が1961年(昭和36年)会長に就任。会社は国際興業グループの一員となった。
[[File:Yamanashi Horse Tram Kofu-City circa 1918.JPG|thumb|甲府市八日町[[甲州街道]](現在の[[城東通り (甲府市)|城東通り]])に敷設された山梨馬車鉄道(現在の[[中央 (甲府市)|中央3丁目]])付近。[[大正]]7年頃の撮影。]]
国中地方における公共交通の創始期となるのは、[[明治]]時代の後期に乗合馬車が多数設立された頃である<ref name="60-13"/>。


軌道事業については、[[1897年]]に設立された'''[[山梨馬車鉄道]]'''が[[1898年]]に[[甲府市|甲府]]と[[石和町|石和]]の間で運行を開始したのが初となる<ref name="60-13"/>。[[1899年]]には鰍沢馬車鉄道が[[鰍沢町|鰍沢]]と[[田富町|小井川]]の間に開業した<ref name="60-13"/>が、鰍沢馬車鉄道は[[1903年]]に山梨馬車鉄道に買収され<ref name="60-13"/>、その後山梨馬車鉄道で甲府市内の柳町二丁目と小井川を結ぶ路線を開設して、既存路線と接続した<ref name="60-13"/>。しかし、[[1903年]]に[[中央本線]]が甲府まで延伸されると、山梨馬車鉄道の甲府と石和を結ぶ路線が打撃を受けた<ref name="60-13"/>。このため、山梨馬車鉄道は路線の縮小を行った上で、[[1906年]]に設立された'''山梨軽便鉄道'''に事業を譲渡した<ref name="60-13"/>。
その後の経営は良好で一時は甲府~静岡間を直通する急行バスを[[静岡鉄道]]と共同で1時間おきに運転し、県中西部のほぼ全域をくまなく網羅していたが[[モータリゼーション]]と度重なる運賃の値上げ・減便で利用者が減少、1990年代には大規模な不採算路線の廃止・'''山交タウンコーチ'''をはじめとする子会社への委譲も行われ、一部路線は[[増穂町]](現[[富士川町]])や中富町(現[[身延町]])などの町営バスに移管された。<br/>現在では甲府市内と一部の郊外路線を除いては朝夕でも利用者が少なく、収益率の悪い路線バス事業から収益率の良い高速バス事業へとシフトしている。<br/>
また近年では、利用者底上げの為に[[学生定期券]]の大幅値下げと通学用1年定期券の発売や600円以上の区間の通学定期券は600円とみなして計算する等、主に学生を対象とした戦略に動いている。現在は通勤定期券も600円以上の区間を600円とみなして計算する制度が導入されている。


山梨軽便鉄道はしばらくは甲府と鰍沢を結ぶ路線を中心に営業していたが、電気運転への転換を目論み、[[1920年]]12月に甲府から石和・小井川への電気軌道の敷設申請を行った<ref name="60-13"/>。しかし、この計画への許可が下りる前に、甲府電車軌道の計画が持ち上がった。甲府電車軌道はまだ会社設立こそされていなかったものの、より大きい資本力を有する上、、区間も甲府から石和まで、甲府から[[櫛形町|小笠原]]を経由して鰍沢へ向かうという内容で、山梨軽便鉄道の計画と競合するものであった<ref name="60-13"/>。しかも、この時期には[[富士身延鉄道]]が身延から甲府までの延伸を計画しており、山梨軽便鉄道が対抗できなくなることは明らかとみられた<ref name="60-13"/>。そこで、山梨県と甲府市の斡旋により<ref name="60-1314"/>、その事業を甲府電気軌道に譲渡することにした<ref name="60-14"/>。
[[2000年]][[2月28日]]より、高速路線以外の路線バスを対象に、独自の[[バスICカード (山梨交通)|バスICカード]]の導入が開始された。現在では山梨交通本体とともに、山交タウンコーチ(静岡県内の路線を含む)でも利用可能になっている。2002年4月からは、世界で初めて国際ブランドの[[クレジットカード]]([[マスターカード]])と乗車用カードが一体となった「山梨交通[[OMCカード]]」の発行も開始された。一方、高速路線の甲府~新宿線では、[[2008年]][[3月19日]]から[[PASMO]]が導入されている。(車輌運用の都合上、一部高速車にはPASMO精算端末が搭載されていないので要注意→甲府駅・新宿西口以外の途中停留所でその車輌に当たったら現金精算となる。)


[[File:Automobile Transport Co., Yamanashi circa 1917.JPG|thumb|山梨自動車運輸社屋。甲府市泉町(現在の[[美術館通り (山梨県)|美術館通り]]沿い、[[相生 (甲府市)|相生]]地区)にあった。[[大正]]6年頃の撮影。]]
[[2006年]]2月より甲府駅から敷島営業所の区間で[[公共車両優先システム]]が導入された。これは当該区間を走行するバスの情報が[[山梨県警察]]の交通管制センターに送られ、交差点を通過する際に信号機をコントロールして、優先的に青にするシステムである。これにより当該区間の遅延解消を図るとともに、今後導入路線を拡大していく予定である。
一方、[[1913年]]には[[大月市|大原村(2011年時点の大月市猿橋)]]において自動車の試運転が出願され<ref name="60-14"/>、[[1916年]]には甲府市内で[[芸妓]]置屋が送迎のために貸切自動車の営業を開始しており<ref name="60-14"/>、同年12月には[[武川村 (山梨県)|武川村]]で不定期運行の乗合自動車が営業を開始した<ref name="60-14"/>。これが山梨県におけるバス事業の始まりとみられており<ref name="60-14"/>、[[1917年]]には'''山梨自動車運輸'''がフォード4台で甲府市から小笠原を経由して[[白根町|倉庫町]]に至る路線の運行を開始した<ref name="60-1415"/>。この山梨自動車運輸が、山梨交通の直接のルーツとなる会社であり<ref name="60-15"/>、山梨県内における本格的なバス事業の始まりでもある<ref name="60-15"/>。同年には甲府自動車運輸と山梨自動車が営業を開始した<ref name="33-31"/>ほか、山梨軽便鉄道も自動車営業を開始しており<ref name="60-15"/>、[[1919年]]には[[白州町]]で甲信自動車運輸が<ref name="33-31"/>、[[須玉町]]で百観音自動車が営業を開始している<ref name="60-15"/>など、山梨県における自動車事業の展開は全国的にも比較的早かった<ref name="33-31"/>。


甲府電車軌道は[[1923年]]に発足し、[[1925年]]に山梨軽便鉄道と合併した<ref name="60-14"/>。[[1926年]]8月には甲府市内の柳町から[[増穂村]]の青柳にいたる軌道敷設許可を得た上で、[[1928年]]に着工した<ref name="60-14"/>。また、[[1929年]]には商号を'''山梨電気鉄道'''と変更し、青柳から鰍沢にいたる区間の延長申請を行っている<ref name="60-14"/>。[[1930年]]5月には、甲府市貢川と[[甲西町 (山梨県)|大井村]]を結ぶ区間において、電車による営業を開始した<ref name="60-14"/>。その後も小刻みに路線を延長し、[[1932年]]12月26日には甲府と青柳の区間が全通している<ref name="60-14"/>。一方、富士身延鉄道が1928年3月に甲府まで全通した<ref name="60-14"/>ことに伴い、馬車鉄道は甲府から鰍沢までの路線が1928年中に、甲府から石和までの路線も1930年には廃止されている<ref name="60-14"/>。また、青柳以遠の区間については何度か資金難のために着工を延期はしたものの、[[1936年]]には着工不能が確定的となったため特許が取り消されている<ref name="60-14"/>。
運賃表示は、10円を1ポイントとして表示する独自の方式'''(ポイント方式)'''を採用しており(例:100円→「10」、1750円→「175」など)、路線バス車内には'''「運賃は10円単位です」'''という掲示が至るところに見られる。これは旧来の運賃表示幕時代からの流れである。運賃表示幕は全車がデジタル運賃表示器に置き替わったものの、運賃の7セグメント表示が3桁タイプであり、4桁表示が必要な1000円以上の運賃を表示するための策ともいわれている。これらは有力な説であるが、具体的な理由は不明である。
=== 年表 ===
* [[1917年]](大正6年)6月 山梨自動車運輸株式会社を設立し、甲府駅 - 小笠原(現・[[南アルプス市]])間のバス運行を開始する。
* [[1924年]](大正13年)山梨自動車運輸は鰍沢乗合自動車を合併する。
* [[1925年]](大正14年)2月1日 甲府電車軌道株式会社を設立する。
* [[1926年]](大正15年)7月 山梨公衆自動車株式会社設立する。
* [[1927年]](昭和2年)6月 山梨自動車運輸と山梨公衆自動車、御岳開発組合が合併し、株式会社山梨開発協会を設立する。
* [[1929年]](昭和4年)4月 甲府電車軌道が山梨電気鉄道に改称する。
* [[1938年]](昭和13年)5月 峡西電気鉄道が設立される。
* [[1938年]](昭和13年)6月 峡西電気鉄道が山梨電気鉄道を買収する。
* [[1945年]](昭和20年)5月 山梨開発協会、峡西電気鉄道、身延自動車を合併し、百観音自動車、中央自動車商会、クラブ自動車、小澤照雄(小澤自動車商業(現・合同タクシー))、下部温泉自動車、若月荘を統合した山梨交通として事業を開始する。なお、契約自体は1943年11月に行われている。


この時期はバス事業においても開業が相次いでおり、1923年には鰍沢に鰍沢乗合自動車が開業したが、ほどなく山梨自動車運輸に併合されている。このほか、同年には[[勝沼町|勝沼]]にマルエス自動車商会、[[塩山市|塩山]]には鈴木自動車商会が開業しており<ref name="33-31"/>、1925年には[[山梨市|日下部町]]に雨宮自動車商会、[[身延町]]には身延自動車が開業<ref name="60-15"/>、1926年には甲府市の御岳開発組合が[[昇仙峡]]探勝バスの運行を開始している<ref name="60-15"/>。元号が[[昭和]]に変わってからもバス事業の創業が続き、1929年には[[白根町]]でクラブ自動車<ref name="33-31"/>、[[下部町]]には下部温泉自動車が開業している<ref name="60-1516"/>ほか、1933年には[[富士急行|富士山麓電気鉄道(当時)]]の経営者である[[堀内良平]]が御坂国道バスを設立し、[[御坂峠]]を越えて甲府と[[富士吉田市|上吉田]]を結ぶ路線を運行開始している<ref name="72-20"/>ほか、芝川町にて運行を開始した富士川自動車や甲府市に設立された山梨公衆自動車など<ref name="33-31"/>、7社がこの時期までに開業している<ref name="60-16"/>。山梨電気鉄道も商号変更前の1927年ごろから数回にわたってバス事業の申請を行っているが許可されていない<ref name="60-16"/>。
== 営業所 ==
=== 現行営業所 ===
{| class="wikitable"
|-
!営業所名||所在地||備考
|-
|'''[[山梨交通敷島営業所|敷島営業所]]'''||[[甲斐市]]島上条||山梨交通観光バスと施設を共有
|-
|'''[[山梨交通伊勢町営業所|伊勢町営業所]]'''||甲府市住吉||山梨貸切自動車と施設を共有
|-
|'''[[山梨交通塩山営業所|塩山営業所]]'''||[[甲州市]]塩山下於曽||山梨貸切自動車と施設を共有
|-
|'''[[山梨交通鰍沢営業所|鰍沢営業所]]'''||[[南巨摩郡]][[富士川町]]鰍沢||山交タウンコーチと施設を共有
|}
*全車山梨ナンバー


=== 廃止・移管営業所 ===
=== 自主統合の流れ ===
[[File:Development Association, Yamanashi circa 1928.JPG|thumb|山梨開発協会。[[昭和]]3年頃の撮影。]]
* 貢川営業所‐[[1990年]](平成2年)に竜王営業所と統合し、敷島営業所に移転。現在は[[コジマ]]NEW甲府店として営業中。
こうした小規模なバス事業者の乱立は、競合による疲弊を招くことになった<ref name="33-31"/>。甲府と勝沼を結ぶ路線などでは3社が競合し、運賃のダンピングなどによる乗客の争奪戦が激化し、バス事業者の経営を圧迫する結果となった<ref name="60-16"/>。そのうち、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併する気運が現れ始めた<ref name="33-31"/>。こうした方向性は、「交通企業の合理化と交通事業の統制」を目的として、[[1931年]]に公布され、[[1933年]]10月から施行された[[自動車交通事業法]]の精神である1路線1営業主義にも叶うものであった<ref name="60-16"/>。
* 竜王営業所‐貢川営業所と統合し、敷島営業所に移転。
* 湯村営業所‐[[1989年]](平成元年)5月10日付で竜王営業所へ移転。現在は[[オギノ]]湯村ショッピングセンターとして営業中。
* 甲府貸切営業所‐貸切バス専用。
* 富士吉田営業所‐[[2000年]](平成12年)廃止。
* 韮崎営業所‐現在は[[山交タウンコーチ韮崎営業所]]。
* 身延営業所‐現在は[[山交タウンコーチ身延営業所]]。
* 静岡営業所‐現在は[[山交タウンコーチ静岡営業所]]。
* 芝川営業所‐貸切バス専用。
* 東京営業所‐貸切バス専用。[[1971年]](昭和46年)に国際興業へ譲渡。


自動車交通事業法の成立以前に、1927年に山梨自動車運輸は山梨公衆自動車と御岳開発組合と合併して'''山梨開発協会'''を設立、1929年にはマルエス自動車商会・鈴木自動車商会・雨宮自動車商会が合併して東部乗合自動車を設立した<ref name="60-16"/>。さらに1931年には東部乗合自動車が山梨開発協会と合併した<ref name="60-1617"/>のを端緒として、山梨開発協会が国中地方のバス事業をまとめる統合主体となっていった<ref name="60-17"/>。峡南地域でも、身延自動車が1929年から1931年にかけて、身延弘通と富士川自動車を合併している<ref name="60-17"/>。
== 定期路線バス ==
=== 甲府エリア ===
基本的に'''循環系統'''と'''一般系統'''に分かれている。循環系統は営業所から甲府駅へ向かい、そこから名前の通り周辺を一周した後に甲府駅へ戻り、そこから営業所へ帰るというパターンになっている。45系統「鰍沢営業所~十五所~アルプス通り~一高前線」を除き、全路線が甲府駅を発着または経由する。甲府駅を名乗るバス停は'''甲府駅南口(バスターミナル)'''、'''甲府駅北口'''、'''甲府駅陸橋'''の3停留所があり、ほとんどの路線は甲府駅南口を発着・経由するが、10~15・18・67・68の各系統は甲府駅陸橋・甲府駅北口を経由する。また、16・17・62・66の各系統は塚原行きは甲府駅陸橋・甲府駅北口を経由し、伊勢町営業所方面行きは甲府駅北口・甲府駅南口を経由する。運転間隔にはばらつきがあり、伊勢町や貢川など住宅密集地を経由する路線は時間帯によっては数分間隔で走行しているが、系統によっては2~3時間間隔や1日数本しか走行しない路線もある。また、高頻度で運転している区間も最終のバスが20時台と早いところがほとんどである。


一方、山梨電気鉄道は山梨開発協会のバスと競合したため経営難に陥り<ref name="60-17"/>、1936年には主たる債権者であった[[日本興業銀行]]の申請によって鉄道省の強制管理下に入ることになった<ref name="60-17"/>。[[1937年]]には日本興業銀行から山梨電気鉄道の競売申請が裁判所に申し立てられ、[[1938年]]5月に設立された'''峡西電気鉄道'''によって落札された<ref name="60-17"/>。これによって、甲府から青柳までの電車の運行は峡西電気鉄道の経営に移行した<ref name="60-17"/>。
甲府エリアを走行している路線については[[甲府駅バスターミナル]]または[[甲府駅#バス|甲府駅バス停]]を、詳細な区間については各営業所の項目を参照。


他方、バス事業の統合も山梨開発協会によって進められ、1933年に輿石自動車を、1935年には甲府自動車運輸を合併した<ref name="60-17"/>。これにより、山梨開発協会は甲府市周辺と峡東地域の大半の路線を運行する事業者となった<ref name="60-17"/>。
系統番号の10の位は、(営業所から甲府駅まで来た後、)甲府駅から向かう方面別になっている。
* 00番台:一高前方面行
* 10番台:山梨大学・国立病院方面行
* 20番台:飯田三丁目方面行
* 30番台:山梨県立美術館方面行
* 40番台:農林高校方面行
* 50番台:飯豊橋・千秋橋・後屋団地方面行
* 60・70番台:彩火橋・伊勢町営業所方面行
* 80番台:甲府市総合市民会館方面行
* 90番台:善光寺入口・山梨学院大学方面行
<!-- 誰かうまい表現できる方いましたら、書き換えてくださいm(__)m -->


=== その他エリア ===
=== 戦時統合へ ===
戦時体制になり、[[1939年]]に[[陸上交通事業調整法]]が公布される<ref name="60-18"/>前後には、バス事業の統合の動きはさらに加速し<ref name="60-17"/>、1938年に八ヶ岳自動車とアサヒ自動車が、1939年には台ケ原自動車が山梨開発協会に合併することになり、峡北地域のバス事業もほぼ山梨開発協会に統合されることになった<ref name="60-17"/>。[[1942年]]までにさらに2社が合併している<ref name="60-17"/>。
甲府以外にも[[塩山駅]]、[[韮崎駅]]、[[身延駅]]、[[富士川駅]]などを起点とする路線バスがあるが、[[1980年代]]に整理・縮小されたうえ[[2000年代]]までにごく一部を除き[[山梨貸切自動車]](塩山)や[[山交タウンコーチ]](韮崎、身延、静岡)などといった子会社へ移管している。


一方、日中戦争が勃発した[[1937年]]以降は燃料事情が悪化し、燃料統制が行なわれることになった<ref name="60-17"/>。このため、1939年以降はバスの代用燃料化が進められた<ref name="60-17"/>。これと同時期に、[[不要不急路線]]の休止も進められ、鉄道と完全に並行する路線や観光路線などは相次いで休止されていった<ref name="60-17"/>。[[1944年]]ごろには甲府市内で残された路線に乗客が殺到し<ref name="60-1718"/>、どのバスも超満員となる事態になった<ref name="60-18"/>ため、近距離旅客の制限まで行われたという<ref name="60-18"/>。
路線や区間については各子会社の項目を参照。


1942年には[[鉄道省]]通牒により強制統合が進められることとなったが、この時に山梨県では甲府地方・岳麓地方の2ブロックに分けられる事となった<ref name="33-32"/>。岳麓地方では富士山麓電気鉄道が統合主体となった<ref name="72-2021"/>が、甲府地方では山梨開発協会・峡西電気鉄道・身延自動車の3社が合併し、これに小規模事業者である6社が事業譲渡する方法をとることになった<ref name="60-18"/>。これに伴い、[[1943年]]からは資産評価の作業が開始された<ref name="60-18"/>が、会社の規模による各社間の思惑の相違<ref name="60-19"/>、資産評価基準に対する不満<ref name="60-19"/>、さらに事業形態の異なる自動車事業と軌道事業の統合における支障などがあった<ref name="60-19"/>ため、当初1944年5月に予定していた統合を延期せざるを得ない状況に陥った<ref name="60-19"/>。そこで、1944年10月には統合に関する一切を関係各社から山梨県に一任すると申し出た<ref name="60-19"/>。山梨県ではこれを受け入れ、山梨開発協会を存続会社として峡西電気鉄道・身延自動車を吸収合併し、他社はこれに現物出資するという形態での統合を決定した<ref name="60-19"/>。このような経過を経て、[[1945年]]2月1日に'''山梨交通'''が発足した<ref name="33-32"/>。ただし、統合前の1944年の時点で既に「山梨交通」という社名が一部で使用された記録が残っている<ref name="60-19"/>。
== 長距離高速バス ==
=== 中央高速バス ===
[[中央高速バス]]の歴史は古く、1959年に臨時急行バスとして新宿~甲府・昇仙峡間が開設。その後[[中央自動車道]]経由に変更されたうえで現在に至る。なお中央高速バスは京王電鉄バスグループの登録商標であるため、必ず京王電鉄バスグループとの共同運行との形をとっている。特筆すべきなのは諏訪岡谷線や伊那線といった山梨県内を通過する路線にも参入している(特に伊那線は山梨県内に停車地が存在しない)ことである。
{|class="wikitable"
!愛称/路線名!!運行区間!!共同運行会社
|-
|新宿線※1||[[新宿高速バスターミナル|新宿高速BT]]([[新宿駅]])⇔[[甲府駅]]・[[湯村温泉 (山梨県)|湯村温泉]]※2||[[京王バス東]]・[[富士急平和観光]]
|-
|身延線||新宿高速BT⇔[[南アルプス市|南アルプス市役所]]・[[久遠寺|身延山]]・[[身延駅]]||京王バス東
|-
|北杜白州線||新宿高速BT⇔[[白根インターチェンジ|白根IC]]西・[[韮崎市|韮崎本町]]・[[道の駅はくしゅう|白州]]||-※3
|-
|諏訪岡谷線||新宿高速BT⇔[[上諏訪駅]]・[[岡谷駅]]||京王バス東・[[フジエクスプレス]]・[[諏訪バス]]・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]
|-
|伊那線||新宿高速BT⇔[[伊那バスターミナル|伊那BT]]・[[駒ヶ根市|駒ヶ根車庫]]||京王バス東・[[フジエクスプレス]]・[[伊那バス]]・[[信南交通]]
|-
|}
* ※1:石和駅経由と甲府南経由がある。
* ※2:湯村温泉へは1日3往復のみ。他は甲府駅発着。
* ※3:山梨交通の単独運行であるが、京王電鉄バスが営業協力をしているため中央高速バスに分類されている。


=== 戦後の復興 ===
◎甲府線[[中央高速バス#トクワリきっぷ|トクワリきっぷ]]が使用できない土休日は、諏訪岡谷線の双葉東・昭和⇔中央道八王子~新宿西口間の往復乗車券を甲府駅窓口・[[岡島百貨店]]や[[オギノ]]店内の[[山交トラベル]]・コンビニ決済・ネット&クレジット決済等で‘事前購入’して節約→自宅から双葉東・昭和までは自家用車等でアクセス、するユーザーも多い。
[[File:Yamanashi Kotsu Railway Line circa 1946.JPG|thumb|戦後間もない頃の甲府駅前を走る山梨交通電車線。昭和21年頃の撮影。]]
統合して新会社となった山梨交通は、国中地方の軌道とバスを独占する交通機関となっており<ref name="33-32"/>、バス事業では統合された事業者の1つである身延自動車の営業エリアの関係から[[静岡県]]の一部にも乗り入れ<ref name="60-20"/>、55路線173台を有する一大バス事業者となった<ref name="33-32"/>が、実際には29路線が休止となっており<ref name="33-32"/>、実働車両も35台しかない有様であった<ref name="60-20"/>。これに対し、電車線は1945年7月の空襲時においても車両が被災を免れていた<ref name="60-22"/>。


いずれも終戦後に復旧整備が開始されることとなり、バス路線は[[1946年]]10月に甲府から[[境川村|境川]]への路線が運行を再開したのを皮切りとして<ref name="33-32"/>、休止路線の再開が進められた。[[1947年]]には新路線の開設も行われ<ref name="60-20"/>、休止路線の再開と新路線の開設が並行して行われるようになり<ref name="60-20"/>、[[1952年]]には休止路線の運行再開は完了した<ref name="60-21"/>。これに対して、電車線はバスより早い1947年には戦前の状態に復旧している<ref name="60-22"/>。
=== その他高速バス ===
[[Image:U-LV771R-YamanashiKotsu-C673.jpg|thumb|250px|right|竜王・甲府 - さいたま線]]
中央高速バス以外の路線については1990年代まで開設されていなかったが、2000年に夜行高速バスとして[[クリスタルライナー]]が開設され、それが成功すると次々と路線が開設されていった。現在は定期4路線、季節1路線が存在している(クリスタルライナーのみ昼夜便、他は昼便のみ)。またかつては横浜、長野、大宮方面の高速バスも運行していた。


[[1950年]]からは戦時中に休止されていた貸切バス事業を再開<ref name="60-21"/>、1952年には[[久遠寺|身延山]]開宗700年記念祭や山梨平和博覧会などにあわせて新車を6台導入するなどして輸送力を増強した<ref name="60-21"/>。
{|class="wikitable"

!愛称/路線名!!運行区間!!共同運行会社
=== 発展 ===
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[[1954年]]には富士山麓電気鉄道との共同出資により、貸切バス専業の'''山梨観光自動車'''を設立した<ref name="33-33"/>。[[1958年]]には芝川営業所の貸切バス事業認可が得られた<ref name="60-23"/>ことから、静岡県下である[[芝川町]]・[[富士宮市]]にも山梨交通本体の貸切バスの事業区域が拡大されることとなった<ref name="60-23"/>。
|[[クリスタルライナー]]||甲府駅⇔[[京都駅]]・[[東梅田駅|大阪梅田]]・[[JR難波駅|なんば]]・[[大阪阿部野橋駅|あべの橋]]・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]※1||[[近鉄バス]]

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電車線においては、1952年3月に国鉄[[甲府駅]]構内借用許可を得て、甲府駅構内への乗り入れを計画した<ref name="60-22"/>。当初は同年中に乗り入れる計画であった<ref name="60-22"/>が、国鉄側の施設の移転や道路整備の状況などの問題があり、[[1953年]]9月に市内のルート変更を行った上で甲府駅へ乗り入れを開始<ref name="60-22"/>、甲府駅前のバス乗り場も電車線の駅に集約した<ref name="60-22"/>。なお、1954年には甲府市内の[[併用軌道]]区間の単線化が行われている<ref name="60-22"/>。
|[[名古屋ライナー甲府号]]※2||[[竜王駅]]・甲府駅⇔[[桃花台バスストップ|桃花台]]・[[名古屋駅]]太閤通口||[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]]

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1950年代になるとバス路線の新設が多くなり、[[1955年]]までには[[扇状地]]を遡るように[[積翠寺温泉|積翠寺]]・[[芦安村|芦安]]・[[韮崎市|穂坂]]・[[増富温泉|増富]]・[[小淵沢町|小淵沢]]・[[南部町 (山梨県)|内船]]・[[上九一色村|上九一色]]へと乗り入れを開始<ref name="33-32"/>、[[1960年]]までにはさらに[[早川町|奈良田]]・[[長坂町|小泉]]・[[高根町|清里]]・[[山梨市|切差]]へと路線網を拡大した<ref name="33-32"/>。また、この時期は長距離バス路線への進出も目立ち、[[1954年]]7月1日から[[しずてつジャストライン|静岡鉄道]]との相互乗り入れによって甲府と[[静岡市|静岡]]の間を結ぶ急行バス([[静岡甲府線]])の運行を開始した<ref name="33-32"/>ほか、[[1958年]]12月に[[国道20号]]の[[笹子トンネル|新笹子トンネル]]が開通したことを契機として<ref name="60-23"/>、甲府と[[大月市|大月]]を結ぶ路線を富士山麓電気鉄道(当時)との相互乗り入れによって運行を開始した<ref name="60-23"/>。1959年2月からは[[諏訪バス|諏訪自動車(当時)]]との相互乗り入れによって甲府と上諏訪を結ぶ路線を<ref name="60-23"/>、同年6月には[[千曲バス|千曲自動車(当時)]]との相互乗り入れにより甲府と小諸を結ぶ路線の運行を開始した<ref name="60-23"/>。また、新笹子トンネルの開通を前提に富士山麓電気鉄道(当時)および[[京王電鉄バス|京王帝都電鉄(当時)]]との3社で申請していた新宿と昇仙峡を結ぶ路線の免許が下りた<ref name="60-23"/>ことから、1959年7月5日から日曜・祝日のみ運行の季節路線として運行を開始した<ref name="60-23"/>が、これが[[中央高速バス]]甲府線の原型ともいえる路線である<ref name="bj4-24"/>。
|[[竜王・甲府 - 羽田空港線]]||竜王駅・甲府駅⇔[[東京国際空港|羽田空港]]||[[京浜急行バス]]

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しかし、このバス路線網の拡大の一方で、電車線の利用客が山間部まで直通するバスに転移し、電車線の経営状況は悪化していった<ref name="60-4849"/>。その上、1959年には台風7号によって貢川の車庫の倒壊や路盤流失などの被害があった<ref name="60-49"/>ほか、復旧途上に[[伊勢湾台風|台風15号]]が被害を与え、復旧費用が嵩んだために電車線の経営状況の悪化に拍車をかけることになった<ref name="60-49"/>。そのような状況下、「ボロ電<ref group="注釈" name="ボロ電">沿線住民は電車線をこのように呼んでいた。[[#60th|『山梨交通60年史』 p.48]]の記述では、山梨馬車鉄道も「ガタ馬車」と呼ばれていたことにもふれており、この呼び方は「甲州人独特の親しみを込めた表現ではないか」と推測されている。</ref>を都会的な電車にしよう」と<ref name="rj501-155"/>、当時の山梨県から見て「都会の電車」であった[[国鉄101系電車]]に似せたオレンジ色1色に車両の色を変更する<ref name="rj501-155"/>、といったことも行なわれていた。
|[[竜王・甲府 - 成田空港線]]||竜王駅・甲府駅⇔[[成田国際空港|成田空港]]||[[千葉交通]]

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この頃の山梨交通では関連事業にも着手している。観光業務に重点をおくという方向性のもと、[[八ヶ岳]]山麓にバンガローや観光バスセンターの建設に着手した<ref name="60-24"/>ほか、[[帝都高速度交通営団|地下鉄]][[池袋駅]]構内に観光案内所を開設した<ref name="60-24"/>。
|東京駅 - 清里・八ヶ岳高原線※3||[[東京駅]]八重洲口⇔[[清里駅]]・[[野辺山駅]]・八ヶ岳高原ロッジ||-

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=== 1960年代 ===
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==== 山交騒動 ====
* ※1:USJへは甲府駅発夜行便のみ。他はあべの橋発着。
電車線はバスとの競合や自然災害などで不振であった<ref name="60-24"/>ものの、バス事業については[[黒字]]を計上し<ref name="60-24"/>、1960年代に入る頃には、山梨交通は県内では最大の企業となっていた<ref name="33-33"/>。しかし、この時期の山梨交通の経営状態はかなり悪化していた<ref name="60-24"/>。当時の経営者の[[放漫経営]]に問題があったといわれており<ref name="60-24"/>、[[日本の地方議会議員|県会議員]]や大[[株主]]の依頼を受け<ref name="33-33"/>、[[国際興業]]の社主であった[[小佐野賢治]]が山梨交通の再建にあたることになった<ref name="33-33"/>。小佐野賢治は山梨交通の[[株式]]を40万株取得し<ref name="60-24"/>、[[1959年]]9月に当時の社長の河西俊夫と会談して取締役としての参加を申し出た<ref name="60-24"/>。この時点で、既に小佐野賢治は山梨交通の個人筆頭株主であった<ref name="60-24"/>。
* ※2:山梨交通サイトでは「竜王・甲府 - 名古屋線」とアナウンス。

* ※3:季節運転(夏季のみ)
小佐野賢治は山梨県出身であり、山梨交通の経営に参加する目的も「郷土の企業発展と観光振興に力を貸したい」というものであった<ref name="33-33"/>が、当時の経営陣は東京の事業家の進出に危機感を抱き<ref name="33-33"/>、社長一族が主導権を握る目的で、[[堤康次郎]]に全面的支援の約束を取り付けた上で株式の買占めにかかり<ref name="60-24"/>、事態は「株主総会までにどちらがどこまで株式を買い集められるか」<ref name="60-2425"/>という小佐野賢治と河西の株式争奪戦の様相を呈した<ref name="33-33"/><ref group="注釈">小佐野賢治が[[東京急行電鉄]]の実質的な創業者である[[五島慶太]]と親交があったことから、東急と西武の対立が飛び火した感もあった、ともみられている([[#60th|『山梨交通60年史』 p.24]])。</ref>。さらに、河西は株主総会直前に取締役会で静岡市に設立された駿河観光の買収を決議した<ref name="60-25"/>が、この駿河観光は実態のない会社で、河西の持株比率を高める策略であった<ref name="60-25"/>。
=== かつて運行していた高速バス ===

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1960年の[[株主総会]]では河西が召集した[[西武鉄道]]の社員が大半を占めている状況下で行われ<ref name="60-25"/>、駿河観光の買収は可決された<ref name="60-25"/>が、小佐野賢治はこの議決について[[執行停止]]の仮処分を申請し、法廷闘争へ移行する事態となった<ref name="60-25"/>。新聞では小佐野賢治と山梨交通の双方から声明文が出され、多くの山梨県民に「山交騒動」としてこの状況が知られることになった<ref name="60-25"/><ref group="注釈">これは後に[[熊王徳平]]の『虎と狼』など、小説の題材にもなっている([[#60th|『山梨交通60年史』 p.25]])。</ref>。
!愛称/路線名!!運行区間!!共同運行会社

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同年6月の判決では小佐野賢治の主張が全面的に認められ、9月に行われて株主総会で駿河観光の合併話は解消された<ref name="60-25"/>。この時点で、山梨交通の持株比率は小佐野賢治と堤の両者がほぼ同率で所有しており、両者とも筆頭株主となっていた<ref name="60-25"/>が、その後の話し合いにより堤の持株は小佐野賢治に譲られ、堤は山梨交通から全面的に手を引いた<ref name="60-25"/>。これにより、小佐野賢治は山梨交通の株式を100%取得したことになった<ref name="60-25"/>。
|清里・甲府‐横浜線||[[清里高原|清里]]・甲府駅⇔[[横浜駅]]||[[京浜急行バス]]

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==== 国際興業傘下で再建 ====
|[[長野 - 甲府線]]||竜王駅・甲府駅⇔[[長野駅]]・[[善光寺|善光寺大門]]||[[川中島バス]]
山梨交通を掌中に収めた小佐野賢治は、国際興業から役員を徐々に送り込んだ<ref name="60-25"/>。[[1961年]]の株主総会で副社長に国際興業の専務だった小佐野栄が就任<ref name="60-25"/>、続いて同年11月には小佐野賢治が会長に就任した<ref name="60-25"/>。さらに、翌1962年の株主総会で旧経営陣は全て退陣し、社長に小佐野栄が就任した<ref name="60-25"/>。こうして、山梨交通は国際興業グループとして再出発することになった。
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経営内容の刷新を図るべく、まず1961年には静岡資本の甲府松菱デパートを買収した<ref name="60-25"/>。続いて、経営状況の抜本的な改革として<ref name="60-26"/>、再生の見込みが立たない電車線については廃止することになり<ref name="33-33"/>、1961年から沿線自治体との折衝を開始<ref name="60-49"/>、[[1962年]]5月には運輸省と建設省の許可も得られた<ref name="60-49"/>ことから、同年6月30日限りで「ボロ電」<ref group="注釈" name="ボロ電"/>として親しまれてきた電車線は廃止された<ref name="60-49"/>。[[1965年]]には[[甲府駅前駅|甲府駅前の電車線乗り場]]跡地に甲府松菱デパートを移転した上で、山交百貨店としてオープンさせた<ref name="60-26"/>。
|竜王・甲府 - 川越・さいたま線※1||竜王駅・甲府駅⇔[[川越駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[さいたま新都心駅]]||-※1

|}
電車線の廃止後も、路線バスの拡充は進められた。主な路線だけでも、[[1963年]]に[[芦川村]]・古市場へ乗り入れを開始<ref name="60-26"/>、[[1964年]]には芦安から[[夜叉神峠]]登山口までの路線を開設し<ref name="60-26"/>、同年には静岡県内でも[[富士川町 (静岡県)|富士川町]]から蒲原病院([[蒲原町]])へ路線延長された<ref name="60-26"/>。1965年には鶯宿([[芦川村]])へ乗り入れ<ref name="60-26"/>、[[1966年]]には[[西東京バス]]との[[共同運行|相互乗り入れ]]により[[奥多摩駅|氷川]]と塩山を結ぶ路線を開設<ref name="33-33"/>、[[1967年]]には夜叉神峠登山口から広河原ロッジへ路線延長が行なわれている<ref name="33-33"/>。
* ※1:埼玉県側の予約・発券業務は、[[西武バス]]が担当していた。

貸切バス事業についても、1962年には[[東京都]][[板橋区]]に東京営業所を開設して東京進出を果たし<ref name="60-27"/>、1965年9月には[[富士吉田市|富士吉田]]にも貸切バス営業所が開設され、富士山麓での営業拠点となった<ref name="60-27"/>。甲府の貸切バス営業拠点についても、[[1970年]]には貢川・湯村・伊勢町の各営業所の貸切バス事業を統合して甲府観光営業所を設けた<ref name="60-27"/>。

この頃には関連事業についても強化され、1961年には甲府自動車教習所を買収して山梨交通自動車教習所として営業を開始<ref name="60-27"/>、1962年には湯村温泉の旅館である昇仙閣の経営にも参加し<ref name="60-27"/>、清里高原にはセンターロッジやバンガローを建設した<ref name="60-27"/>ほか、1965年には八ヶ岳スケートセンターを開設した<ref name="60-27"/>。また、タクシー事業においても、戦時統合中のタクシー事業者の統合により設立されていた山梨貸切自動車に1962年から経営参加している<ref name="60-27"/>。

バス事業を拡大してゆくうち、車掌の要因不足に悩まされることになった<ref name="60-28"/>。また、増収努力は効果を挙げていた<ref name="60-28"/>ものの、収支面では赤字基調となっていた<ref name="60-28"/>ことから、人件費削減による合理化対策として[[ワンマン運転|ワンマンバス]]の導入を行なうことになった<ref name="60-28"/>。1965年から労使交渉などの準備を行い<ref name="60-28"/>、[[1966年]]5月から甲府市内の路線において整理券方式後払いによるワンマンバスの運行を開始した<ref name="60-28"/>。

=== 1970年代 ===
==== モータリゼーションの進展 ====
1970年代に入る頃から、山梨県下においても[[自家用自動車|自家用車]]の普及、いわゆる[[モータリゼーション]]の進展が見られ<ref name="60-30"/>、路線バスの乗客数は減少し始めた<ref name="60-30"/>。しかし、貸切バスの需要はまだ旺盛であった<ref name="60-31"/>ことから、効率化を進める一方で、伸びるニーズを捉えることが必要とされた<ref name="60-31"/>。1972年には東京営業所を[[国際興業観光バス|国際興業]]に譲渡して撤退する<ref name="33-34"/>一方で、山梨県内では[[ハイデッカー]]や豪華車両の投入などの強化を図っている<ref name="60-32"/>。

路線バスのワンマン化は、1970年代の半ば頃には[[狭隘路線]]を除けばほぼ終了していた<ref name="60-31"/>ことから、[[1978年]]からは道路に合わせてバスのほうを中型化、あるいは小型化することでワンマン基準に適合させる方策がとられるようになった<ref name="33-34"/>。また、出先での車両の駐泊<ref group="注釈">バス路線の終点で、最終便を翌朝の始発便で戻すため、バスをそこに止めて乗務員も一泊すること。</ref>なども順次廃止され<ref name="60-31"/>、一部は現地在住の乗務員が始発便と最終便を担当するように変更した<ref name="60-31"/>ほか、営業所も統廃合が行われた<ref name="60-31"/>。また、サービス向上のために、停留所以外でも自由に乗り降りが可能な[[フリー乗降制|自由乗降バス]]を1978年から導入を開始<ref name="60-31"/>、ほどなく甲府市内と幹線道路以外はほとんどの区間が自由乗降区間となった<ref name="60-31"/>。同年からは使用時間を限定する代わりに割引率を高く設定した「[[回数乗車券#バス|買物回数券]]」も導入された<ref name="60-31"/>。

また、不採算路線については休廃止が進められることとなり、[[1971年]]6月に内船と寄畑を結ぶ区間が廃止されたのを皮切りとして<ref name="60-32"/>、同年度内に身延から芝川までの区間が廃止となり<ref name="60-32"/>、静岡県内の一般路線は他の山梨交通の路線と接続しない孤立した路線網となった。1972年度には塩山・山梨市から栗合・御坂への路線や早川橋と下部を結ぶ区間が<ref name="60-32"/>、[[1973年]]度には貢川から鶯宿・奈良原へ向かう路線が<ref name="60-32"/>、[[1974年]]度には湯村から増富への路線などが廃止された<ref name="60-32"/>。この時期に28路線が休廃止となったが、ほとんどが峡北・峡南地域の路線であった<ref name="33-34"/>。また、長距離バスも利用者減少のため、1971年9月に甲府と上諏訪を結ぶ路線が休止された<ref name="60-29"/><ref group="注釈">1974年に正式に廃止([[#60th|『山梨交通60年史』 p.29]])。</ref>のをはじめとして、1972年1月には甲府と小諸を結ぶ路線が<ref name="33-34"/>、同年4月には塩山と氷川を結ぶ路線が<ref name="60-29"/>、1978年には甲府と大月を結ぶ路線も廃止された<ref name="33-34"/>。また、静岡と山梨を結ぶ路線([[静岡甲府線]])については、[[1979年]]に山梨交通が撤退<ref name="60-29"/>、その後は静岡鉄道の単独運行となった<ref name="60-29"/><ref group="注釈">1990年に静岡鉄道も撤退した([[#60th|『山梨交通60年史』 p.29]])。</ref>。

その一方で、1969年に[[中央自動車道]]が一部開通したことに伴い、昇仙峡と新宿を結ぶ急行バスは大月以東は中央自動車道経由に変更された<ref name="60-28"/>。また、[[御岳昇仙峡有料道路|昇仙峡グリーンライン]]の開通に伴い、[[1972年]]4月には貢川からグリーンラインを経由して昇仙峡へ向かう路線が開設された<ref name="60-31"/>ほか、[[1973年]]には定期観光バスの運行も開始された<ref name="33-34"/>。

==== 高速バスへの参入 ====
[[1978年]]に中央自動車道が笹子トンネルを抜けて[[勝沼インターチェンジ|勝沼]]まで開通したのを機に、それまで季節運行だった新宿と昇仙峡を結ぶ路線を定期運行の[[高速バス]]路線として発展させる形で、1978年[[4月22日]]から山梨交通・富士急行・京王帝都電鉄(当時)の3社共同運行による[[中央高速バス]]甲府線の運行を開始した<ref name="60-29"/>。この路線では、予約システムを3社で統一し、甲府での予約業務は山梨交通が一括して行なうことになった<ref name="60-29"/>。当初各社3往復ずつの9往復で運行開始した<ref name="60-29"/>甲府線は、利用者も順調に増加したことから年毎に増便され<ref name="33-34"/>、[[1985年]]には30往復にまで成長していた<ref name="60-30"/>。

中央自動車道が全通すると、新宿と長野県を結ぶ高速バスが注目され<ref name="60-30"/>、京王帝都電鉄(当時)と[[伊那バス]]・[[信南交通]]が新宿と伊那・飯田を結ぶ路線(中央高速バス伊那・飯田線)の運行を計画していた<ref name="60-30"/>。当時はまだ長距離路線におけるルールのようなものが確立しておらず<ref name="60-30"/>、山梨交通では伊那・飯田線への参入を希望した<ref name="60-30"/>。同路線には富士急行・[[諏訪バス]]も参入を希望しており<ref name="60-30"/>、紆余曲折はあったものの、[[1984年]]12月に伊那・飯田線が開業した際に、山梨交通では新宿と駒ヶ根を結ぶ系統の1往復を担当することになった<ref name="33-34"/>。その後[[1986年]]には新宿と諏訪地区を結ぶ路線(中央高速バス諏訪岡谷線)の運行が計画された<ref name="60-30"/>が、この路線は山梨県内でも乗降を扱うことから、当初より山梨交通も参入することで計画され<ref name="60-30"/>、1986年11月の暫定運行開始<ref group="注釈">この時は伊那線の運行系統新設扱いで、運行区間も中央道茅野までであった([[#鈴木4-1|『バス・ジャパン』通巻4号 p.26]])。</ref>から1往復を担当することになった<ref name="33-34"/>。

[[1989年]]8月には、季節運行で[[東京駅バスのりば|東京駅]]から清里へ直通する高速バスを[[ジェイアールバス関東]]と共同で運行を開始<ref name="33-34"/>、[[1990年]]からは[[横浜駅]]から清里への高速バスを[[京浜急行バス|京浜急行電鉄(当時)]]との共同で運行を開始した<ref name="33-34"/>。

=== 1980年代 ===
==== 関連事業の再編成 ====
1980年代に入ると、関連事業の再編成も行われた。

[[1980年]]には甲府駅前に立体駐車場を開業<ref name="60-33"/>、1981年には中央自動車道の双葉サービスエリア下り線にレストラン山交をオープンさせた<ref name="60-33"/>。また、1986年には甲府駅前のバスターミナルを新築した<ref name="60-33"/>ほか、山交百貨店も全面的に建て替えが行われて1989年にオープンした<ref name="60-33"/>。その一方で、八ヶ岳スケートセンターは[[1981年]]に営業を休止している<ref name="60-33"/>。

また、1989年には湯村営業所を竜王に移転して、跡地にはダイエーとフランチャイズ契約を結んだ上で湯村ショッピングセンターを1990年に開業した<ref name="60-33"/>ほか、[[1993年]]から[[1995年]]にかけては貢川営業所と甲府観光営業所を敷島営業所に統合し、跡地には貢川ショッピングセンターを開業した<ref name="60-33"/>。また、1990年には清里高原富士屋ホテルを開業した<ref name="60-33"/>。

また、系列の貸切バス専業事業者であった山梨観光自動車は、1989年に富士急行の保有していた全株式を山梨交通が譲受し、山梨交通直系の事業者となった<ref name="33-35"/>。これにあわせて、富士急行は1985年に[[富士急平和観光|平和観光自動車(当時)]]を設立した<ref name="72-28"/>。

==== 続く一般路線バスの縮小 ====
一方、一般路線バスの縮小傾向は続いていた。

1982年度には15系統<ref name="60-32"/>、1983年度に16系統<ref name="60-32"/>、1984年度には25系統が廃止となり<ref name="60-32"/>、[[富沢町]]・[[南部町 (山梨県)|南部町]]・下部町・[[三珠町]]・[[中富町]]・[[大泉村 (山梨県)|大泉村]]・長坂町・鰍沢町では山梨交通の路線がなくなった後に、[[道路運送法]]101条に基づいて、[[自家用バス]]を使用した[[廃止代替バス]](自治体バス)の運行を開始した<ref name="60-33"/>。

[[平成]]に入ると、第3種生活路線の国庫補助期限切れなどにより、さらに路線の廃止が進められる事になった<ref name="60-34"/>。1989年には芦川村への路線を廃止<ref name="60-34"/>、1990年には韮崎と小笠原を結ぶ路線が廃止された<ref name="60-34"/>。[[1991年]]からは自治体バスへの移行だけではなく、道路運送法24条の2を適用した貸切免許による代替バス運行(貸切代替バス)も行なわれるようになり<ref name="60-35"/>、長坂と小淵沢を結ぶ路線や百観音から日野春方面への路線が<ref name="60-3435"/>、自治体からの委託による貸切代替バスでの運行に切り替えられた<ref name="60-35"/>。その後も不採算路線に対する自治体バスや貸切代替バスへの移行は続き、[[1995年]]には鰍沢と身延の間の路線がつながらなくなった<ref name="60-35"/>。さらに、1995年10月には[[牧丘町]]の路線が廃止された際に、地元のタクシー会社に委託することになった<ref name="60-35"/>ため、既に運行されていた塩山地区の貸切代替バスから山梨交通が撤退した<ref name="60-35"/>。[[1997年]]には[[山梨市]]から山梨交通は全面撤退した<ref name="60-35"/>。

こうした路線縮小の結果、山梨交通の路線は甲府市を中心に鰍沢・勝沼方面と、韮崎・塩山・身延・富士宮近辺の路線だけが残る状態となり<ref name="60-35"/>、400台近くあった路線バス車両も150台程度に半減してしまった<ref name="33-35"/>。

=== 1990年代 ===
==== 路線バスへの新機軸導入 ====
このように、1990年代前半までの山梨交通の路線バスは縮小均衡策が目立っていた<ref name="60-36"/>。しかし、残存路線については新しい営業政策により積極的な改善を行なう方向性に転換することになった<ref name="60-36"/>。

[[ファイル:KC-LR333Jkai YamanashiKotsu C666 CNG.jpg<!--この画像の車両が導入開始当初の1998年式です-->|thumb|1998年から導入が開始されたCNGバス]]
1993年6月には山梨県の補助を得た上で車椅子リフト付きのバス3台が導入された<ref name="60-36"/>が、これは日本の民営バス事業者では初めてとなる車椅子リフト付き路線バス車両であった<ref name="bm10-49"/>。[[1996年]]には貸切バスにおいても車椅子リフト付きの車両が導入された<ref name="60-36"/>。また、[[1998年]]からは圧縮[[天然ガス]]を燃料として使用する[[天然ガス自動車|CNGバス]]の導入を開始した<ref name="60-36"/>が、山梨県が低公害車両への補助制度を確立した<ref name="60-36"/>ことにより、CNGバスは徐々に増加してゆくことになる<ref name="60-37"/>。また、[[東京ガス]]とタイアップした上で整備工場内にCNG充填所を建設し<ref name="60-3637"/>、運営は山梨交通が受託することになった<ref name="60-37"/>。

また、[[1997年]]からは甲府市内への通勤流動に対する[[パークアンドライド]]の実験を開始した<ref name="60-39"/>ほか、甲府商工会議所が主体となって運行を開始した無料循環バス「レトボン」や、高根町が主体となって運行する「清里ピクニックバス」などの運行を山梨交通が受託する<ref name="60-37"/>など、地域とのタイアップによる施策もみられるようになった。

路線バスの運賃面でも、甲府駅や韮崎駅から1kmの区間について[[100円バス|ワンコイン運賃(100円)]]を導入した<ref name="60-38"/>ほか、高齢者向けに一般路線バス全線を利用可能な「ゴールド定期」の発売を開始<ref name="33-35"/>、さらに「通学1年定期」の設定も行われた<ref name="60-38"/>ほか、[[2003年]]度からは普通運賃が600円以上となる区間の定期券においては全て600円の運賃として計算するという、定期券の上限運賃を設定した<ref name="60-39"/>。また、この年の夏からは小児運賃を一律50円にする施策も行なわれた<ref name="60-39"/>。

==== 営業拠点とグループ会社の再編成 ====
一方、残存路線についてもさらにコストダウンを図る必要があった<ref name="60-40"/>。山梨交通では傘下のタクシー事業者や貸切バス事業者に着目した<ref name="60-40"/>。

まず1995年には身延営業所の貸切代替バスを全て山交タクシーに移管<ref name="b2-276"/>、1996年には塩山営業所管内の路線を[[山梨貸切自動車]]へ移管した<ref name="60-40"/>。さらに1997年には敷島営業所管内の不採算路線を山梨観光自動車に<ref name="60-40"/>、韮崎営業所管内の一部路線を山交タクシーの貸切代替バスに移管した<ref name="60-40"/>。さらに、[[1999年]]からは身延営業所の業務を全て山交タクシーに移管し<ref name="33-35"/>、塩山営業所は山梨貸切自動車に管理委託、韮崎・鰍沢・静岡の各営業所を山交タクシーに管理委託した<ref name="60-40"/>。このような流れの中、[[2002年]]に山交タクシーは'''[[山交タウンコーチ]]'''に社名を変更し<ref name="60-40"/>、同年には韮崎営業所と静岡営業所は山交タウンコーチに移管された<ref name="bm10-57"/>。

これらの施策により、山梨交通は新会社を設立することなく分社化と同じ効果を挙げた<ref name="b2-276"/>。

貸切バスについても、1998年には鰍沢・塩山の両営業所の貸切バス事業を廃止した<ref name="60-40"/>ほか、2000年には富士吉田営業所を廃止<ref name="60-40"/>、2002年10月からは敷島営業所の貸切バス部門を山梨観光自動車に統合した上で<ref name="60-4041"/>、山梨観光自動車は'''[[山梨交通観光バス]]'''に社名変更した<ref name="60-41"/>。

=== 2000年代 ===
==== 日本初のバスICカード本格的導入 ====
{{Double image aside|right|YamanashiKotsu-Bus-IC-card-EntranceReaderWriter.JPG|120|YamanashiKotsu-Bus-IC-card-ExitReaderWriter.JPG|120|バスICカードのカードリーダー}}
山梨交通では1998年より[[レシップ|三陽電気製作所(当時)]]・[[NTTデータ]]と共同で[[ICカード]]乗車券の計画を進め、1999年には実車試験も行っていた<ref name="b1-289"/>。この結果を踏まえて、2000年2月28日から「[[バスICカード (山梨交通)|バスICカード]]」の運用を開始した<ref name="60-41"/>。バスにおけるICカード乗車券は、1997年の静岡県[[豊田町 (静岡県)|豊田町]]、1998年の[[東急トランセ]]、1999年の[[道北バス]]などで実用化されていたが、いずれも回数券機能のみであった<ref name="b1-289"/>。回数券と定期券の一体化を図った上で、広域のバス路線網において実用化されたのは、日本では山梨交通が初めての事例であった<ref name="60-41"/>。同年中には広河原線を除く山梨県内の全路線で利用可能となり<ref name="60-42"/>、2002年にはクレジットカードとも一体化<ref name="60-42"/>、さらに[[2003年]]には静岡県内の路線でも利用可能となった<ref name="60-93"/>。また、社員証もICカード化された<ref name="bm10-46"/>ほか、ICカードのシステムと連動させて、デジタル式運賃表示器のデータを位置情報として提供するという、バスロケーションシステムの運用も開始している<ref name="60-4243"/>。

ICカード導入後、それまで減少傾向であった一般路線バスの利用者数が横ばい傾向となり<ref name="60-43"/>、日本全国からバスICカードシステムの視察に訪れる<ref name="60-43"/>など、日本のバス業界の注目を集めた。ICカードの導入は、社員の士気向上にもつながった<ref name="60-43"/>。

==== 高速バスの新展開 ====
一方、2000年9月30日からは甲府と大阪を結ぶ夜行高速バス「[[クリスタルライナー]]」の運行を開始した<ref name="60-43"/>。大阪方面への夜行高速バス構想自体はそれ以前から存在しており<ref name="60-43"/>、運行距離が450km未満であったため途中休憩を長く確保することでワンマン運行が可能であった<ref name="b1-210"/>こと、運賃も東京と大阪を結ぶ路線と比較すると高めながら、JR鉄道線を乗り継ぐよりも安く設定した<ref name="b1-211"/>ことにより、採算ラインを1便当たり17人に設定することが可能となった<ref name="b1-211"/>。運行を開始した後に停留所の追加なども行った結果、1便平均20人以上の利用者数で定着した<ref name="60-44"/>。また、2001年からは[[東京国際空港|羽田空港]]への空港連絡バスを<ref name="60-44"/>、2002年からは[[成田国際空港|成田空港]]への空港連絡バスの運行も開始した<ref name="60-44"/>ほか、2003年には甲府と名古屋を結ぶ高速バス路線<ref name="60-45"/>、[[2004年]]からは新宿と身延山を結ぶ路線の運行も開始している<ref name="60-45"/>。

[[2005年]]には、山梨県内のバス事業者としては初めて「[[グリーン経営認証]]」を取得した<ref name="60-45"/>。当初は山梨交通本体だけであったが、同年中には山梨交通観光バス・山梨貸切自動車・山交タウンコーチなどのグループ各社も認証を取得している<ref name="60-46"/>。

=== 2010年代 ===
==== 日本初の水素燃料バス営業運行 ====
2012年4月9日から、山梨交通では[[水素自動車|水素燃料バス]]の営業運行を開始した<ref name="rj549-159"/>。これはディーゼルエンジンを[[水素燃料エンジン]]に改造したバス1台を導入し、[[水素燃料]]の使用による二酸化炭素削減効果や事業性・採算性、他地域への波及性に対する検証を行うために実証運行に踏み切った<ref name="rj549-159"/>もので、導入に当たっては[[環境省]]の委託事業である「チャレンジ25地域づくり事業」を活用している<ref name="rj549-159"/>。日本における水素燃料バスの公道走行は[[東京都市大学]]の送迎バスに続く2例目であり、路線バスで営業運行するのは日本で初めての事例となる<ref name="rj549-159"/>。

== 企業概説 ==
=== 軌道事業 ===
{{main|山梨交通電車線}}
前身となる[[山梨馬車鉄道]]が[[1898年]]に馬車鉄道として運行を開始したのが端緒である<ref name="60-13"/>。その後、1930年からは電車による運行を開始した<ref name="60-14"/>が、1962年6月30日限りで廃止された<ref name="60-49"/>。

=== 一般路線バス事業 ===
<!--ここで詳細に書く必要はない。詳細に書くために各営業所などの記事が存在する-->
甲府盆地を主要なエリアとしており、2005年時点では100系統ほどの路線を運行している<ref name="bm10-46"/>。甲府以外では、[[塩山駅]]、[[韮崎駅]]、[[身延駅]]、[[富士川駅]]などを起点とする路線バスがあるが、[[1980年代]]に整理・縮小されたうえ[[2000年代]]までにごく一部を除き[[山梨貸切自動車]](塩山)や[[山交タウンコーチ]](韮崎、身延、静岡)などといった子会社へ移管している。

路線や区間については各営業所および子会社の項目を参照。

=== 高速バス事業 ===
{{seealso|中央高速バス}}

1959年に季節運行の急行バスとして新宿~甲府・昇仙峡間が開設されており<ref name="60-23"/>、その後[[中央自動車道]]経由に変更していた<ref name="60-28"/>が、これを発展させた形で[[中央高速バス]]甲府線として運行を開始した<ref name="60-29"/>のが、山梨交通の高速バスの端緒である。中央高速バス以外の路線については、2000年に夜行高速バスとして[[クリスタルライナー]]が開設され<ref name="60-92"/>、その後も次々と路線が開設された。

; 中央高速バス甲府線([[新宿高速バスターミナル|新宿]] - [[甲府駅|甲府]]・[[湯村温泉 (山梨県)|湯村温泉]]):1978年4月22日より運行開始<ref name="60-89"/>。当初9往復であった<ref name="60-29"/>が、一時期は30往復にまで増便された<ref name="60-30"/>。当初は自社便を自社の収入とするシステムであったため、ダイヤ改正がなくても担当便を1年ごとにずらす方式をとっていた<ref name="60-29"/>。当初は石和経由便のみであったが、1983年1月19日から甲府南経由便も設定された<ref name="60-30"/>。2002年6月1日からは一部便を湯村温泉へ延長<ref name="60-93"/>。[[京王バス東]](運行開始当初は京王帝都電鉄)・[[富士急平和観光]](運行開始当初は富士急行)との共同運行。
; 中央高速バス身延線(新宿 - [[南アルプス市|南アルプス]]・[[身延町|身延]]):2004年8月6日に運行開始<ref name="60-93"/>。当初は山梨交通の単独運行であったが、同年11月から京王バス東との共同運行路線となった<ref name="60-45"/>。
; 中央高速バス北杜白州線(新宿 - [[韮崎市|韮崎]]・[[道の駅はくしゅう|白州]]):山梨交通の単独運行。
; 中央高速バス諏訪岡谷線(新宿 - [[上諏訪駅|上諏訪]]・[[岡谷駅|岡谷]]):1987年7月1日から運行開始<ref name="60-90"/>。京王バス東(運行開始当初は京王帝都電鉄)・[[フジエクスプレス]](運行開始当初は富士急行)・[[諏訪バス]]・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]との共同運行。
; 中央高速バス伊那線(新宿 - [[伊那バスターミナル|伊那]]・[[駒ヶ根市|駒ヶ根]]):1984年12月14日より運行開始<ref name="60-89"/>。京王バス東(運行開始当初は京王帝都電鉄)・フジエクスプレス(運行開始当初は富士急行)・[[伊那バス]]・[[信南交通]]との共同運行。
; 京都・大阪線<!--案内上の呼称ではなく社内での呼称-->「[[クリスタルライナー]]」(甲府 - 京都・大阪):2000年9月30日より運行を開始した<ref name="60-43"/>、山梨交通では初となる夜行高速バス。2001年9月20日からは須玉IC経由に変更<ref name="60-92"/>、2004年3月19日からは昼行便も設定された<ref name="60-93"/>。[[近鉄バス]]との共同運行。
; 名古屋線<!--案内上の呼称ではなく社内での呼称-->「[[名古屋ライナー甲府号]]」([[竜王駅|竜王]]・甲府 - 名古屋):2003年4月5日に運行開始<ref name="60-93"/>。当初は山梨交通の単独運行<ref name="60-45"/>。
; [[竜王・甲府 - 羽田空港線|羽田空港線]]<!--案内上の呼称ではなく社内での呼称-->(竜王・甲府 - 羽田空港):2001年7月18日に運行開始<ref name="60-92"/>。[[京浜急行バス]](運行開始当初は京浜急行電鉄)との共同運行。
; [[竜王・甲府 - 成田空港線|成田空港線]]<!--案内上の呼称ではなく社内での呼称-->(竜王・甲府 - 成田空港):2002年9月19日に運行開始<ref name="60-93"/>。[[千葉交通]]との共同運行。
; [[静岡甲府線|甲府〰静岡線]]<!--プレスリリースでの呼称-->(竜王・甲府 - 静岡):期間限定で2012年7月20日より運行開始<ref name="YK20120629">{{cite press release|author=|date=2012-06-29|url=http://yamanashikotsu.co.jp/noriai/shizuoka20120720.htm|title=22年ぶりの復活!高速バス「甲府~静岡線」運行開始のお知らせ|publisher=山梨交通|language=日本語|accessdate=2012-07-24}}</ref>。[[しずてつジャストライン]]との共同運行。

==== かつて運行していた高速バス ====
; 中央高速バス茅野線(新宿 - [[茅野バスストップ|中央道茅野]]):1986年11月1日に運行開始<ref name="bj4-26"/>。諏訪岡谷線の運行開始に伴い、1987年7月1日で廃止<ref name="60-90"/>。
; 東京 - 清里・八ヶ岳高原:季節運行により1989年8月1日に運行開始<ref name="60-90"/>。JRバス関東との共同運行で、当初は清里までであったが、1993年5月20日からは八ヶ岳高原へ延長<ref name="60-90"/>。
; 横浜 - 清里:季節運行により1990年7月21日に運行開始<ref name="60-90"/>。京浜急行電鉄<!--廃止時点では、まだ京浜急行バスに分社化されていなかった-->との共同運行であったが、1999年7月20日付けで廃止<ref name="60-92"/>。
; [[長野 - 甲府線]]:2006年4月21日より運行開始、2007年10月31日限りで運行休止<ref name="YK20070910">{{cite press release|author=|date=2007-09-10|url=http://yamanashikotsu.co.jp/noriai/naganokyushi.htm|title=高速バス「甲府-長野・善光寺線」運行休止のお知らせ|publisher=山梨交通|language=日本語|accessdate=2012-07-24}}</ref>。
; 竜王・甲府 - 川越・さいたま線:2007年11月1日より運行開始、2009年10月31日限りで運行休止。

=== その他事業 ===
* ニッポンレンタカー山交([[ニッポンレンタカー]]とFC契約)
* [[山交百貨店]]

== バス事業所 ==
山梨交通観光バス・山交タウンコーチ・山梨貸切自動車を含めて、山梨県内に7箇所、静岡県内に1箇所の運行拠点を有している<ref name="bm10-54"/>。

=== 営業所一覧 ===
2005年時点でのバス事業所は以下の通りである。
; [[山梨交通敷島営業所]]:1992年に竜王営業所を移転して開設された<ref name="bm10-54"/>、山梨交通最大の営業所<ref name="bm10-54"/>。甲府市内の路線バスと高速バスを担当する<ref name="bm10-54"/>。
; [[山梨交通伊勢町営業所]]:1953年に開設された<ref name="bm10-54"/>、甲府市内の路線バスを担当する営業所<ref name="bm10-54"/>。2002年からは山梨貸切自動車に管理委託されている<ref name="bm10-54"/>。
; [[山梨交通鰍沢営業所]]:1945年に発足<ref name="bm10-54"/>、旧鰍沢町内発着の路線バスを担当する<ref name="bm10-55"/>。2002年からは山交タウンコーチに管理委託されている<ref name="bm10-55"/>。
; [[山梨交通塩山営業所]]:1945年に発足<ref name="bm10-54"/>、旧塩山市内発着の路線バスを担当する<ref name="bm10-55"/>。1999年からは山梨観光自動車に<ref name="bm10-55"/>、2002年からは山梨貸切自動車に管理委託されている<ref name="bm10-55"/>。
; [[山梨交通観光バス]]甲府営業所:1995年に甲府観光営業所を移転して、山梨交通敷島営業所に併設された<ref name="bm10-54"/>。貸切バス以外にも、甲府近辺の不採算路線を一部担当する<ref name="60-40"/>。
; [[山交タウンコーチ韮崎営業所]]:1955年に山梨交通韮崎営業所として開設され<ref name="bm10-55"/>、2000年からは山交タクシーに管理委託され<ref name="bm10-55"/>、2002年に山交タウンコーチに移管された<ref name="bm10-55"/>。[[韮崎市]]発着の路線バスを担当する<ref name="bm10-55"/>。
; [[山交タウンコーチ身延営業所]]:1964年に山梨交通身延営業所として開設され<ref name="bm10-55"/>、1998年からは山交タクシーに移管された<ref name="bm10-55"/>。[[身延町]]発着の路線バスを担当する<ref name="bm10-55"/>。
; [[山交タウンコーチ静岡営業所]]:1962年に山梨交通富士宮営業所として開設された。<ref name="60-27"/>。2000年からは山交タクシーに管理委託され<ref name="bm10-56"/>、さらに2002年からは山交タウンコーチに管理委託されている<ref name="bm10-56"/>。[[富士宮市]]発着の路線バスを担当する<ref name="bm10-55"/>。

=== 廃止された営業所 ===
いずれも山梨交通の営業所。廃止順に列記する。
; 甲府営業所:1970年12月9日付で廃止<ref name="60-88"/>。
; 東京営業所:貸切バス専門の営業所で、1962年3月15日に開設<ref name="60-87"/>、1972年5月31日付で国際興業へ譲渡<ref name="60-88"/>。
; 芝川営業所:1955年8月2日に開設<ref name="60-85"/>。1978年7月18日付で廃止<ref name="60-89"/>。
; 湯村営業所:1959年4月1日に開設<ref name="60-86"/>。1989年5月10日付で移転の上竜王営業所となる<ref name="60-90"/>。跡地には商業施設を建設<ref name="60-33"/><ref group="注釈">現在は[[オギノ]]湯村ショッピングセンターとして営業中。</ref>。
; 竜王営業所:1989年5月10日付で湯村営業所を移転して開設<ref name="60-90"/>。1992年8月10日に移転の上敷島営業所となる<ref name="60-90"/>。
; 貢川営業所:1955年6月20日に開設<ref name="60-85"/>。1994年12月23日付で敷島営業所に統合<ref name="60-91"/>、跡地には商業施設を建設<ref name="60-33"/><ref group="注釈">現在は[[コジマ]]NEW甲府店として営業中。</ref>。
; 甲府貸切営業所:貸切バス専門の営業所で、1970年12月9日に貢川営業所に隣接して開設<ref name="60-88"/>。1995年12月15日付で敷島営業所に統合<ref name="60-91"/>。
; 富士吉田営業所:貸切バス専門の営業所で、1965年9月1日に開設<ref name="60-88"/>。2000年3月15日付で廃止<ref name="60-92"/>。


== 車両 ==
== 車両 ==
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
本項では、山梨交通およびグループ各社([[山梨交通観光バス]]・[[山梨貸切自動車]]・[[山交タウンコーチ]])についての車両概要を記述する。
本項では、山梨交通およびグループ各社([[山梨交通観光バス]]・[[山梨貸切自動車]]・[[山交タウンコーチ]])についての車両概要を記述する。また、便宜上、路線バス車両については「路線車」、高速路線バス車両については「高速車」、貸切バス車両については「貸切車」と表記する。


=== 特徴 ===
=== 車両史 ===
==== 創業期から終戦直後 ====
[[国際興業]]グループのため、純正車体の[[いすゞ自動車|いすゞ]]車が中心である。山梨県が独自の補助金制度を導入していることもあり、[[天然ガス自動車|天然ガスバス(CNGバス)]]の所属台数は2011年11月現在で28台に達し、1社単独では最大のユーザーとなっていた(地域子会社を含めた場合は[[富士急行]]グループが最大)が、路線の移管と同時にCNGバスが移籍するケースも見られるようになっている。リフト付路線車両も[[1993年]]に民営バスとして初めて導入した。また[[ノンステップバス]]も積極的に導入されており、2000年以降に新車で導入された路線バス車両は静岡県内に導入される車両を除いて全てCNGノンステップバス(大型・中型とも)となっている。
山梨交通の直接のルーツとなる山梨自動車運輸では、[[フォード]]4台を使用して運行を開始した<ref name="60-15"/>。


燃料事情が悪化した戦時中は、バスの代用燃料化が行われていた<ref name="60-17"/>。代用燃料については木炭が主体で<ref name="60-17"/>、他に薪や石炭が利用されていたとされている<ref name="60-17"/>。この頃には国産車として[[トヨタ]]の車両が使用されていた記録が残っている<ref name="60-19"/>。
以前は新車導入のみであったが、近年は主に移籍車を導入している。路線バスでは主に親会社の国際興業から大型バスが移籍してくることが多いが(2007年には大型[[ノンステップバス]]も移籍してきた)、[[川崎市交通局]]からの移籍車も少数ある。高速車・貸切車には[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[淡路交通]]などから譲受した車両もあり、特にイースタン観光からの転籍車は[[富士重工]]製車体である。また、夜行高速バスの運行開始にあたっては、[[近鉄バス]]から[[日野・セレガ#後期型(P-RU60/63B系)|日野・グランデッカ]]が転入した。さらに、2008年には[[国際興業大阪]]より[[日野・セレガ]]が転入し、話題となっている。尚、一般路線の自社購入車で大型方向幕を採用した車両は、前面だけでなく後面も大型化している。


==== 戦後の復興期から高度成長期 ====
この他、コミュニティバスや循環バスの車両で、[[日産・シビリアン]]や[[三菱ふそう・エアロミディ]]、[[クセニッツ]]車が在籍している。また、近年まで山梨観光自動車がいすゞ車以外を導入していた関係で、貸切車に[[三菱ふそう・エアロスターMM|三菱ふそう・エアロミディMM]]が1台だけ残存している。
戦後の1950年前後には、[[いすゞ自動車|いすゞ]][[いすゞ・BX|BX91型]]・[[トヨタ自動車|トヨタ]]BL型・[[日産自動車|日産]]390型などが使用されていた<ref name="60-65"/>。1952年から再開された貸切車には、大型ボンネットバスである[[三菱自動車工業|三菱ふそう]]B23型が採用された<ref name="60-65"/>。また、この時期からリヤエンジンバスの導入が始まり、[[日産ディーゼル工業|民生]]BR32型などが導入されている。1954年以降は、[[日野自動車|日野]]のセンターアンダフロアエンジンバスであるBK11型が路線車の主力として導入された<ref name="60-66"/>。この頃から全長が10m級の大型車の導入も開始されている<ref name="60-65"/>一方、[[ボンネットバス]]の導入は1963年式を最後に終了している<ref name="60-66"/>。


1960年代には、いすゞBA741型が路線車の主力となっていた<ref name="60-67"/>。この時期以降、山梨交通のいすゞ車は[[いすゞバス製造|川崎]]車体で導入される<ref name="60-67"/>。また、この時期までは路線車と貸切車の車体スタイルは共通であった<ref name="60-67"/>が、このあとは別の車体スタイルとなる。また、特定の路線のための車両も導入されており、1966年には塩山と氷川を結ぶ路線の専用車として[[三菱ふそう・エアロミディMK|三菱ふそうMR620型]]が<ref name="60-68"/>、広河原専用に[[いすゞ・エルガLT|いすゞBA01N型]]が導入されている<ref name="60-68"/>。この時期の貸切車では、デラックス観光バスとして[[いすゞ・スーパークルーザー#BU/BH系|いすゞBU15P型]]などが導入されていた<ref name="60-67"/>一方で、小口貸切用として[[いすゞ・エルフ|いすゞエルフ]]にバス車体を架装した貸切車も導入された<ref name="60-67"/>。この時期に国際興業の傘下に入ったことから、山梨交通におけるいすゞ以外のメーカーの車両は、1960年代後半に貸切車として導入された[[三菱ふそう・エアロエース|三菱ふそうB905N型]]を最後に途絶えることになる<ref name="60-67"/>。
なお、現在国際興業グループでは、子会社のバスを国際興業カラーに統一しつつあり、その先駆けとなったのが山梨交通だった。


=== 路線バス ===
==== ワンマン化から路線バス網縮小期まで ====
1966年にワンマンバスが導入されたことに伴い、前中扉仕様<ref group="注釈" name="前中扉">前扉と中扉を配置した仕様。</ref>の車両導入が開始された<ref group="注釈">ただし、当初は前乗り前降り方式であった([[#60th|『山梨交通60年史』 p.28]])。乗降方式が中乗り前降り方式になったのは1982年以降である([[#60th|『山梨交通60年史』 p.31]])。</ref>。当初は車掌が乗務するツーマン運行も考慮し、方向幕は中扉の上部に設置されていた<ref name="60-69"/>。1978年からはワンマン運行の拡大にともない、中型バスもワンマン化対応となった<ref name="60-70"/>。大型路線バスの導入はこの頃から1989年まで途絶える<ref name="60-76"/>。
車両の色は一部の路線バスは独自のカラーになっているがその他は国際興業グループのカラーになっている。当初は国際興業からの転籍車については薄いグリーンが草色となっている国際興業時代そのままのカラーリングであったが、CNGバス導入を機に黄緑色(国際興業ノンステップバスの色)に変更された。自社オリジナル車では曲線的なデザイン、転籍車は直線的なデザインとなっているが、2007年に転入した[[ノンステップバス]]は国際興業在籍当時から黄緑色で曲線的なデザインである。


この頃には中央高速バス甲府線の運航が開始され、山梨交通では当初より[[いすゞ・スーパークルーザー|いすゞ・CRA580型]][[ハイデッカー]]を導入した<ref name="bj4-30"/>が、当時の高速バスではハイデッカーはまだ稀少な存在であった<ref name="60-29"/>。
=== 高速バス ===
以前から国際興業標準色(ブルーリボンカラー)であるが、[[いすゞ・スーパークルーザー|スーパークルーザー]]および[[いすゞ・ガーラ|ガーラ]]導入後は、フロントガラス下部から側面にかけてをブロンズ色としている(SUPER CRUISERやGALAのロゴが入る)他、側面のロゴの書体も異なり、[[ぶどう]]のステッカー([[クリスタルライナー]]専用車のみ甲府市の鳥である[[カワセミ]])を貼付しているため、国際興業グループ他社とは若干印象が異なる。一部の高速バスに[[武田信玄]](風林火山)や[[身延山]]のシールが貼っている。


=== 観光バス ===
=== 1980年代以降の車両概説 ===
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします-->
基本デザインは高速バス用車両と変わらないが、[[YBS T&L]]用(ガーラ)と[[ヴァンフォーレ甲府]]用(スーパークルーザーとガーラの2台)のみデザインが異なる。YBS T&L用は白地に[[山日YBSグループ]]の赤いロゴが貼り付けされており、専らYBS T&Lのツアーのみに使用されている(YBS T&Lが車両を保有し、山梨交通に運行・整備を委託しているため)。ヴァンフォーレ甲府用は車両自体は山梨交通所有のため基本デザインこそ国際興業標準色であるが、側面のブドウの部分がヴァンフォーレ甲府のエンブレム、前面フロントガラス下部および側面後方部にはヴァンフォーレ甲府のロゴが貼付されている。さらに選手を乗せているときは前面フロントガラス上部に大型フラッグを掲出し、運転席部分には[[ヴァンくん]]人形が置かれている。なお、ヴァンフォーレ甲府が使用しないときは他の車両と共通して使用されている。
[[国際興業]]グループに入ってからは、新車の導入は基本的に[[いすゞ自動車|いすゞ]]車に統一されている<ref name="60-25"/>が、譲り受けた車両や受託運行用の車両においてはこの限りではない。

==== 路線車の仕様 ====
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
路線バスは前中扉仕様<ref group="注釈" name="前中扉"/>・中扉は引き戸が基本仕様であるが、1989年から1994年までに導入された車両では前後扉仕様<ref group="注釈" name="前後扉">前扉と後扉を配置した仕様。</ref>で導入を行っていた<ref name="33-40"/>。冷房車は1977年以降の新車で導入された<ref name="60-69"/>。1980年代は大型車の導入は行われていなかった<ref name="60-76"/>が、1989年からは大型車の導入も再開された<ref name="60-72"/>。細かい仕様の違いとしては、1981年式から前面方向幕の幅が広くなり<ref name="60-70"/>、1983年式からは天地方向にも拡大した大型方向幕となり<ref name="60-70"/>、1988年からは後部方向幕の装備も開始された<ref name="60-76"/><ref group="注釈">後面も大型方向幕である。</ref>。また、扉脇の出入口表示については、1987年式までは電照式だった<ref name="60-76"/>ものを1988年からは表示板に変更した。このほか、身延地区の路線用として[[日野・リエッセ#レインボーRB・AB系|日野レインボーRB]]の導入実績がある<ref name="60-76"/>。

2001年以降に新車で導入された路線バス車両は全てノンステップバス(大型・中型とも)となっており<ref name="60-37"/>、静岡県内に導入される車両を除いて全て[[天然ガス自動車|天然ガスバス(CNGバス)]]である。その一方、1998年までは新車のみの導入であったが、1999年からは[[中古車]]の導入が開始された<ref name="60-62"/>。路線バスでは主に親会社の[[国際興業バス|国際興業]]から移籍してくることが多いが<ref group="注釈">2007年に大型[[ノンステップバス]]が、2012年に大型と中型のCNGノンステップバスが移籍してきた。</ref>、[[川崎市交通局]]からの移籍車も存在する<ref name="bm10-49"/>。

また、コミュニティバス用や受託運行用の車両としては、協同観光バスから購入した[[クセニッツ]]CITY-III<ref name="60-77"/>や[[日産・シビリアン|日産シビリアン]]クラシックバス<ref name="60-77"/>、日野製のレトロバス<ref name="60-77"/>等の導入実績がある。

車椅子リフトバス・CNGバス・水素燃料バスについては[[#特徴的な車両|後述]]。


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ファイル:C758.JPG|国際興業から移籍してきた大型[[ノンステップバス]](山梨交通鰍沢営業所・C758)
Image:TSD40-YamanashiKotsu-C706.jpg|1950年代前半までの塗装デザイン C706
ファイル:C794.jpg|国際興業から移籍してきた中型[[ワンステップバス]](山梨交通伊勢町営業所・C794)
画像:Yamanashikotsu C486 restored.jpg|創立60周年を記念して復元された1950年代後半から1988年までの塗装デザイン C486
ファイル:U-LV324K-YamanashiKotsu-C729.JPG|川崎市営バスから移籍した[[ヴァンフォーレ甲府]]ラッピング車(山梨交通敷島営業所・C729)
画像:Yamanashikotsu.jpg|1988年から1999年までの標準色 C615
ファイル:KC-GDIJJCA-YamanashiKotsu.jpg|清里でのピクニックバス専用車 (山梨交通敷島営業所・1498)
Image:PA-LR234J1-YamakohTownCoach-C732.jpg|1999年以降は国際興業と同様のデザイン。山交タウンコーチに移籍したCNGノンステップバス C732
Image:KC-LV832L-YamanashiKotsu-C756.jpg|国際興業から移籍してきた大型[[ノンステップバス]] C756
Image:U-LV771R-YamaKoKanko-69-FHI.jpg|イースタン観光からの転籍車は富士重工製車体 山交観光69
Image:KL-LV774R2-YamanashiKotsu-C695.jpg|夜行高速バス車両 C695
Image:KC-GDIJJCA-YamanashiKotsu.jpg|清里でのピクニックバス専用車 1498
Image:U-LV324K-YamanashiKotsu-C729.JPG|川崎市営バスから移籍したC729 [[ヴァンフォーレ甲府]]ラッピング車
Image:U-LV324K-YamanashiKotsu-C726.JPG|国際興業から移籍してきたC726 座席が増設されている
Image:YamanashiKotsuB431-YBS-Tour.JPG|山交観光B431 [[YBS T&L|YBSツアー]]用
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==== 高速車・貸切車 ====
== その他 ==
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
1995年に公開されたアニメ映画「[[MEMORIES]]」内の作品「最臭兵器」内において、主人公が山梨交通の路線バスに乗って研究所へ向かうシーンがある。なお、デザインは当時の標準色であり、現在の国際興業標準とは異なる。
高速車・貸切車には[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[淡路交通]]などから譲受した車両もあり<ref name="60-78"/>、特にイースタン観光から譲受した貸切車は[[富士重工]]製車体であった<ref name="60-82"/>。また、夜行高速バスの運行開始にあたっては、[[近鉄バス]]から[[日野・セレガ#後期型(P-RU60/63B系)|日野・グランデッカ]]が転入し、新路線開設時のリスク軽減に役立った<ref name="bm10-49"/>。さらに、2008年には[[国際興業大阪]]より[[日野・セレガ]]が転入した。


また、1989年までは山梨観光自動車がいすゞ車以外を導入していた関係で、貸切車に[[三菱ふそう・エアロスターMM|三菱ふそう・エアロミディMM]]が1台だけ残存していた。
60周年を記念して復元された旧塗色車両は、[[サントリー]]の製品「[[サントリー天然水|南アルプスの天然水]]」のテレビコマーシャルでも使用されている。また、[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ「[[だいすき!! ゆずの子育て日記#テレビドラマ|だいすき!!]]」第6話でも登場している。
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ファイル:C767.JPG|夜行高速バス「[[クリスタルライナー]]」1号車専用車両(山梨交通敷島営業所・C767)
ファイル:KL-LV774R2-YamanashiKotsu-C695.jpg|夜行高速バス「[[クリスタルライナー]]」(山梨交通敷島営業所・C695)
ファイル:YamanashiKotsuB431-YBS-Tour.JPG| [[YBS T&L|YBSツアー]]専用観光バス「わっピィ1号」(山梨交通観光バス甲府営業所・B431)
ファイル:Wappy2.jpg| YBSツアー専用観光バス「わっピィ2号」(山梨交通観光バス甲府営業所・B452)。後方は「わっピィ1号」。
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=== 特徴的な車両 ===
2007年12月31日に[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で放送された『[[笑ってはいけないシリーズ|ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]] 絶対に笑ってはいけない病院24時』において、ガキ使メンバーが乗車したバスに[[いすゞ・エルガミオ]][[天然ガス自動車|CNG]][[ノンステップバス]] (C754)が使用された。
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
[[ファイル:PA-LR234J1-YamakohTownCoach-C732.jpg|thumb|中型CNGノンステップバス(山交タウンコーチ韮崎営業所・C732)]]
山梨県が独自の補助金制度を導入していることもあり、特殊な車両の導入においては、日本のバス業界でも初期の導入となるケースが見られる<ref name="60-36"/>。
; 車椅子リフトつき車両:1993年6月に3台が導入されたが、これは民営バス事業者では日本で初の導入事例であった<ref name="60-36"/>。その後、1994年・1995年に2台ずつが追加導入されている<ref name="60-73"/>。
; [[天然ガス自動車|CNGバス]]:CNGバスは同じ山梨県内の[[富士急行]]に続き、1999年から導入を開始している。1999年から2000年にかけて導入された14台は標準床仕様で<ref name="60-37"/>、当時まだ開発されたばかりであったいすゞ製の中型CNGバスを導入したが、いすゞ中型CNGバスの導入は日本で初めてである<ref name="60-36"/>。さらに2001年以降はいすゞ製の中型CNGノンステップバスを採用したが、これもいすゞが開発した中型CNGノンステップバスでは最初の導入事例である<ref name="60-37"/>。2002年には大型CNGノンステップバスも導入され、2006年の時点では保有する路線バス車両の20[[パーセント|%]]以上がCNGバスとなっており<ref name="60-37"/>、1社単独では最大のCNGバス導入事業者であった<ref group="注釈">地域子会社を含めた場合は[[富士急行]]グループが最大。</ref>。近年は路線の移管と同時にCNGバスが移籍するケースも見られるようになっている。
; [[水素自動車|水素燃料バス]]:2012年4月9日から実証運行として導入された、日本で初めての営業運行となる水素燃料バスである<ref name="rj549-159"/>。車両自体は2000年式の[[日野・リエッセ|日野リエッセ]]<!--ちなみに車番はC805(KK-RX4JFE改)-->を改造したもの<ref name="rj549-159"/>で、伊勢町営業所に配置された<ref name="rj549-159"/>。


== 関連会社 ==
=== 車両塗装 ===
==== 路線車の塗装 ====
* [[山梨交通観光バス]]
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
* [[山交タウンコーチ]]
戦後の塗装デザインは、緑色をベースとして、屋根と窓回りに山吹色に近い黄色、裾にはオレンジ色で波形としたデザインであった<ref name="60-57"/>。この色は1968年頃まで使用された<ref name="60-57"/>。
* [[山梨貸切自動車]](山梨県内タクシー事業者最大手)
* [[山交トラベルサービス]]
* ニッポンレンタカー山交([[ニッポンレンタカー]]とFC契約)
* [[山交百貨店]]


1954年にはパールホワイトにローズピンクのラインとグレーの翼模様を入れたデザインが導入された<ref name="60-58"/>。当初は貸切車のデザインであった<ref name="60-58"/>が、路線車もこのデザインに変更された<ref name="60-58"/>。ただし、塗り替えはほとんど行われなかったため、先代のカラーリングもしばらくは見ることができた<ref name="60-57"/>。
== 参考文献 ==
* 「山梨交通60年史~甲府盆地の暮らしとともに」監修:山梨交通・発行:[[バス・ジャパン|BJエディターズ]]


1988年から採用された塗装デザインは、クリーム色をベースとして、ブルーのラインを後部で立ち上がるようにデザインし、腰板前方にはワインレッドを配した上、ブドウのステッカーを貼付したものであった<ref name="60-60"/>。その前のカラーリングの車両も1995年までに塗り替えが行われた<ref name="60-60"/>。
== 外部リンク ==

1999年に国際興業から譲受した[[いすゞ・キュービックLT|いすゞキュービックLT]]は薄いグリーンが草色となっている国際興業のカラーリングそのままで導入されており<ref name="33-40"/>、その後の1999年に導入したCNGバスのモデルチェンジを機に、国際興業のノンステップバスで採用された黄緑色の使用されているデザインに変更された<ref name="60-62"/>。これは、国際興業グループで子会社のバスを国際興業カラーに統一する先駆けとなったものといえる。
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ファイル:TSD40-YamanashiKotsu-C706.jpg|1950年代前半までの塗装デザイン(山梨交通敷島営業所・C706)
ファイル:Yamanashikotsu C486 restored.jpg|創立60周年を記念して復元された1950年代後半から1988年までの塗装デザイン(山梨交通敷島営業所・C486)
ファイル:U-LR332J YamanashiKotsu C643.jpg|1988年から1999年までの標準色(山梨交通敷島営業所・C643)
ファイル:U-LV324K-YamanashiKotsu-C726.JPG|1999年以降は国際興業と同様のデザイン(山梨交通敷島営業所・C726)
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==== 高速車・貸切車の塗装 ====
<!--車両の記述には極力出典を明記していただきますようお願いします。画像は出典にはなりませんので念のため-->
{{Double image aside|right|P-LV719R-YamanashiKotsu-C386.jpg|180|U-LV771R-YamanashiKotsu-C673.jpg|180|自社発注のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下はブロンズ、バンパーは白|譲受車のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下は白、バンパーは黒}}
高速車・貸切車については、国際興業グループ入りするまでは路線車と同じデザインであった。なお、山梨観光自動車はクリームに赤と白を配した独自のデザインが採用されていた<ref name="60-58"/>。

国際興業グループ入りしてからの高速車・貸切車は国際興業標準色(ブルーリボンカラー)であるが、[[いすゞ・スーパークルーザー|スーパークルーザー]]スーパーハイデッカーおよび[[いすゞ・ガーラ|ガーラ]]導入後の自社発注車両では、フロントガラス下部から側面にかけてをブロンズ色としている<ref name="60-61"/>他、側面のロゴの書体も異なり、[[ぶどう]]のステッカーを貼付している<ref name="60-61"/><ref group="注釈">[[クリスタルライナー]]専用車のみ甲府市の鳥である[[カワセミ]]のステッカー。</ref>ため、国際興業グループ他社とは若干印象が異なる。スーパークルーザーでもハイデッカーについてはフロントガラスの下は白・バンパーは黒としている<ref name="bm10-53"/>。国際興業グループ他社から転入した車両はそのままのデザインで使用している。近年導入されたバスには「Kokusai Kogyo Group」と国際興業グループのロゴが入っているほか、一部の高速バスに[[武田信玄]](風林火山)や[[身延山]]のシールが貼られている。

貸切車のうち、[[YBS T&L]]用(ガーラと2代目ガーラの2台)と[[ヴァンフォーレ甲府]]用(スーパークルーザーとガーラの2台)のみデザインが異なる。YBS T&L用は白地に[[山日YBSグループ]]の赤いロゴが貼り付けされており<ref name="60-80"/>、専らYBS T&Lのツアーのみに使用されている<ref group="注釈">YBS T&Lが車両を保有し、山梨交通に運行・整備を委託しているため。</ref>。ヴァンフォーレ甲府用は車両自体は山梨交通所有のため基本デザインこそ国際興業標準色であるが、側面のブドウの部分がヴァンフォーレ甲府のエンブレム、前面フロントガラス下部および側面後方部にはヴァンフォーレ甲府のロゴが貼付されている。これらのバスはヴァンフォーレ甲府の選手・スタッフが遠征する時に使われ、選手を乗せているときは前面フロントガラス上部に大型フラッグを掲出し、運転席部分には[[ヴァンくん]]人形が置かれている。なお、ヴァンフォーレ甲府が使用しないときは他の車両と共通で使用されている。

=== 社番記号 ===
山梨交通の所属車両に付けられている記号は、「英文字1字」+「3桁以内の数字」で構成される<ref name="60-72"/>。ただし、コミュニティバスやグループ各社では、登録番号がそのまま使用される<ref name="60-72"/>。先頭の英文字については以下の法則による<ref name="33-40"/>。
* A…乗合ツーマン車(現存車なし)
* B…貸切車
* C…乗合ワンマン車

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="60-13">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.13]]</ref>
<ref name="60-1314">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.13-14]]</ref>
<ref name="60-14">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.14]]</ref>
<ref name="60-1415">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.14-15]]</ref>
<ref name="60-15">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.15]]</ref>
<ref name="60-1516">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.15-16]]</ref>
<ref name="60-16">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.16]]</ref>
<ref name="60-1617">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.16-17]]</ref>
<ref name="60-17">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.17]]</ref>
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<ref name="60-18">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.18]]</ref>
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<ref name="60-22">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.22]]</ref>
<ref name="60-23">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.23]]</ref>
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<ref name="60-25">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.25]]</ref>
<ref name="60-26">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.26]]</ref>
<ref name="60-27">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.27]]</ref>
<ref name="60-28">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.28]]</ref>
<ref name="60-29">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.29]]</ref>
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<ref name="60-31">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.31]]</ref>
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<ref name="60-33">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.33]]</ref>
<ref name="60-34">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.34]]</ref>
<ref name="60-3435">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.34-35]]</ref>
<ref name="60-35">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.35]]</ref>
<ref name="60-36">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.36]]</ref>
<ref name="60-3637">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.36-37]]</ref>
<ref name="60-37">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.37]]</ref>
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<ref name="60-39">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.39]]</ref>
<ref name="60-40">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.40]]</ref>
<ref name="60-4041">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.40-41]]</ref>
<ref name="60-41">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.41]]</ref>
<ref name="60-42">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.42]]</ref>
<ref name="60-4243">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.42-43]]</ref>
<ref name="60-43">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.43]]</ref>
<ref name="60-44">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.44]]</ref>
<ref name="60-45">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.45]]</ref>
<ref name="60-46">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.46]]</ref>
<ref name="60-4849">[[#60th|『山梨交通60年史』 pp.48-49]]</ref>
<ref name="60-49">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.49]]</ref>
<ref name="60-57">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.57]]</ref>
<ref name="60-58">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.58]]</ref>
<ref name="60-60">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.60]]</ref>
<ref name="60-61">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.61]]</ref>
<ref name="60-62">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.62]]</ref>
<ref name="60-65">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.65]]</ref>
<ref name="60-66">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.66]]</ref>
<ref name="60-67">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.67]]</ref>
<ref name="60-68">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.68]]</ref>
<ref name="60-69">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.69]]</ref>
<ref name="60-70">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.70]]</ref>
<ref name="60-72">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.72]]</ref>
<ref name="60-73">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.73]]</ref>
<ref name="60-76">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.76]]</ref>
<ref name="60-77">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.77]]</ref>
<ref name="60-78">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.78]]</ref>
<ref name="60-80">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.80]]</ref>
<ref name="60-82">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.82]]</ref>
<ref name="60-85">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.85]]</ref>
<ref name="60-86">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.86]]</ref>
<ref name="60-87">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.87]]</ref>
<ref name="60-88">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.88]]</ref>
<ref name="60-89">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.89]]</ref>
<ref name="60-90">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.90]]</ref>
<ref name="60-91">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.91]]</ref>
<ref name="60-92">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.92]]</ref>
<ref name="60-93">[[#60th|『山梨交通60年史』 p.93]]</ref>
<ref name="rj501-155">[[#鈴木501|『鉄道ジャーナル』通巻501号 p.155]]</ref>
<ref name="b1-210">[[#鈴木2001|『路線バスの現在・未来』 p.210]]</ref>
<ref name="b1-211">[[#鈴木2001|『路線バスの現在・未来』 p.211]]</ref>
<ref name="b1-289">[[#鈴木2001|『路線バスの現在・未来』 p.289]]</ref>
<ref name="b2-276">[[#鈴木2001-2|『路線バスの現在・未来 PART2』 p.276]]</ref>
<ref name="bj4-24">[[#鈴木4-1|『バス・ジャパン』通巻4号 p.24]]</ref>
<ref name="bj4-26">[[#鈴木4-1|『バス・ジャパン』通巻4号 p.26]]</ref>
<ref name="bj4-30">[[#鈴木4-2|『バス・ジャパン』通巻4号 p.30]]</ref>
<ref name="33-31">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.31]]</ref>
<ref name="33-32">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.32]]</ref>
<ref name="33-33">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.33]]</ref>
<ref name="33-34">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.34]]</ref>
<ref name="33-35">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.35]]</ref>
<ref name="33-40">[[#BJ2001|『バスジャパン・ニューハンドブック33』 p.40]]</ref>
<ref name="72-20">[[#BJ2001|『バスジャパン・ハンドブックR72』 p.20]]</ref>
<ref name="72-2021">[[#BJ2001|『バスジャパン・ハンドブックR72』 pp.20-21]]</ref>
<ref name="72-28">[[#BJ2001|『バスジャパン・ハンドブックR72』 p.28]]</ref>
<ref name="bm10-46">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.46]]</ref>
<ref name="bm10-49">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.49]]</ref>
<ref name="bm10-53">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.53]]</ref>
<ref name="bm10-54">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.54]]</ref>
<ref name="bm10-55">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.55]]</ref>
<ref name="bm10-56">[[#BM10|『バスマガジン』通巻10号 p.56]]</ref>
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== 参考文献 ==
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=== 書籍 ===
* {{Cite book|和書|author =[[鈴木文彦]] |authorlink = |coauthors = |year = 2001|title = 路線バスの現在・未来|publisher = グランプリ出版|ref = 鈴木2001|id = |isbn = 4876872171}}
* {{Cite book|和書|author =鈴木文彦 |authorlink = |coauthors = |year = 2001|title = 路線バスの現在・未来 PART2|publisher = グランプリ出版|ref = 鈴木2001-2|id = |isbn = 4876872279}}
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=== 雑誌記事 ===
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* {{Cite journal|和書|author=鈴木文彦 |year=1987 |month=4 |title=中央ハイウェイバスの車両|journal=バス・ジャパン |issue=4 |pages=30-31 |publisher=バス・ジャパン刊行会 |ref = 鈴木4-2|isbn =4795277591}}
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* {{Cite journal|和書|author=日本バス友の会|coauthors=鈴木文彦 |year=2012|month=7 |title=Bus Corner |journal=鉄道ジャーナル |issue=549 |pages=159-161 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木549}}
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== 外部リンク ==
* [http://yamanashikotsu.co.jp/ 山梨交通](公式サイト)
* [http://yamanashikotsu.co.jp/ 山梨交通](公式サイト)
* [http://805bus.com/ 山梨交通バスロケーションシステム]([[携帯電話]]やパソコンのwebブラウザを用いて、路線バスの接近情報を案内するシステム。)
* [http://busmaps.jp/yamanashi/ やまなしバスンシェルジュ]([[携帯電話]]やパソコンのwebブラウザを用いて、路線バスの接近情報を案内するシステム。山交グループに加え、富士急グループも検索できる。)
* [http://yamanashikotsu.co.jp/ds 山梨交通自動車学校]
* [http://yamanashikotsu.co.jp/ds 山梨交通自動車学校]
* [http://www.yamako-dept.jp/ 山交百貨店]
* [http://www.yamako-dept.jp/ 山交百貨店]

2012年8月4日 (土) 05:17時点における版

山梨交通株式会社
Yamanashi Kotsu Limited
種類 株式会社
略称 山交
本社所在地 日本の旗 日本
400-0035
山梨県甲府市飯田三丁目2番34号
設立 1945年5月1日
業種 陸運業
法人番号 3090001002199 ウィキデータを編集
事業内容 乗合バス事業、貸切バス事業、飲食業、旅行業、自動車教習事業、不動産業 他
代表者 小澤 建雄(代表取締役会長)
高野 三雄(代表取締役社長)
資本金 9,600万円
主要株主 国際興業
主要子会社 山梨交通観光バス
山交タウンコーチ
山梨貸切自動車
関係する人物 小佐野賢治
外部リンク http://yamanashikotsu.co.jp/
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山梨交通株式会社本社(甲府市飯田)

山梨交通株式会社(やまなしこうつう)は、山梨県甲府盆地を中心とした地域、いわゆる国中地方の峡中・峡西地域において路線バス貸切バスの運行を行っている[1]国際興業グループのバス事業者である。

地域内の路線以外にも中央自動車道を経由して各方面に向かう高速バス[2]東京国際空港成田国際空港への空港連絡バスを運行する[3]。かつては軌道事業(電車線)を行っていたほか、国中地方全域に路線バス網を展開していたが、電車線は1962年に廃止され[4]、峡北・峡東・峡南の各地域の路線については代替バスや自治体バスへの移行が進められた[5]。1990年代以降は日本のバス業界における先駆的な施策も打ち出している[6]

歴史

創業期

甲府市八日町甲州街道(現在の城東通り)に敷設された山梨馬車鉄道(現在の中央3丁目)付近。大正7年頃の撮影。

国中地方における公共交通の創始期となるのは、明治時代の後期に乗合馬車が多数設立された頃である[7]

軌道事業については、1897年に設立された山梨馬車鉄道1898年甲府石和の間で運行を開始したのが初となる[7]1899年には鰍沢馬車鉄道が鰍沢小井川の間に開業した[7]が、鰍沢馬車鉄道は1903年に山梨馬車鉄道に買収され[7]、その後山梨馬車鉄道で甲府市内の柳町二丁目と小井川を結ぶ路線を開設して、既存路線と接続した[7]。しかし、1903年中央本線が甲府まで延伸されると、山梨馬車鉄道の甲府と石和を結ぶ路線が打撃を受けた[7]。このため、山梨馬車鉄道は路線の縮小を行った上で、1906年に設立された山梨軽便鉄道に事業を譲渡した[7]

山梨軽便鉄道はしばらくは甲府と鰍沢を結ぶ路線を中心に営業していたが、電気運転への転換を目論み、1920年12月に甲府から石和・小井川への電気軌道の敷設申請を行った[7]。しかし、この計画への許可が下りる前に、甲府電車軌道の計画が持ち上がった。甲府電車軌道はまだ会社設立こそされていなかったものの、より大きい資本力を有する上、、区間も甲府から石和まで、甲府から小笠原を経由して鰍沢へ向かうという内容で、山梨軽便鉄道の計画と競合するものであった[7]。しかも、この時期には富士身延鉄道が身延から甲府までの延伸を計画しており、山梨軽便鉄道が対抗できなくなることは明らかとみられた[7]。そこで、山梨県と甲府市の斡旋により[8]、その事業を甲府電気軌道に譲渡することにした[9]

山梨自動車運輸社屋。甲府市泉町(現在の美術館通り沿い、相生地区)にあった。大正6年頃の撮影。

一方、1913年には大原村(2011年時点の大月市猿橋)において自動車の試運転が出願され[9]1916年には甲府市内で芸妓置屋が送迎のために貸切自動車の営業を開始しており[9]、同年12月には武川村で不定期運行の乗合自動車が営業を開始した[9]。これが山梨県におけるバス事業の始まりとみられており[9]1917年には山梨自動車運輸がフォード4台で甲府市から小笠原を経由して倉庫町に至る路線の運行を開始した[10]。この山梨自動車運輸が、山梨交通の直接のルーツとなる会社であり[11]、山梨県内における本格的なバス事業の始まりでもある[11]。同年には甲府自動車運輸と山梨自動車が営業を開始した[1]ほか、山梨軽便鉄道も自動車営業を開始しており[11]1919年には白州町で甲信自動車運輸が[1]須玉町で百観音自動車が営業を開始している[11]など、山梨県における自動車事業の展開は全国的にも比較的早かった[1]

甲府電車軌道は1923年に発足し、1925年に山梨軽便鉄道と合併した[9]1926年8月には甲府市内の柳町から増穂村の青柳にいたる軌道敷設許可を得た上で、1928年に着工した[9]。また、1929年には商号を山梨電気鉄道と変更し、青柳から鰍沢にいたる区間の延長申請を行っている[9]1930年5月には、甲府市貢川と大井村を結ぶ区間において、電車による営業を開始した[9]。その後も小刻みに路線を延長し、1932年12月26日には甲府と青柳の区間が全通している[9]。一方、富士身延鉄道が1928年3月に甲府まで全通した[9]ことに伴い、馬車鉄道は甲府から鰍沢までの路線が1928年中に、甲府から石和までの路線も1930年には廃止されている[9]。また、青柳以遠の区間については何度か資金難のために着工を延期はしたものの、1936年には着工不能が確定的となったため特許が取り消されている[9]

この時期はバス事業においても開業が相次いでおり、1923年には鰍沢に鰍沢乗合自動車が開業したが、ほどなく山梨自動車運輸に併合されている。このほか、同年には勝沼にマルエス自動車商会、塩山には鈴木自動車商会が開業しており[1]、1925年には日下部町に雨宮自動車商会、身延町には身延自動車が開業[11]、1926年には甲府市の御岳開発組合が昇仙峡探勝バスの運行を開始している[11]。元号が昭和に変わってからもバス事業の創業が続き、1929年には白根町でクラブ自動車[1]下部町には下部温泉自動車が開業している[12]ほか、1933年には富士山麓電気鉄道(当時)の経営者である堀内良平が御坂国道バスを設立し、御坂峠を越えて甲府と上吉田を結ぶ路線を運行開始している[13]ほか、芝川町にて運行を開始した富士川自動車や甲府市に設立された山梨公衆自動車など[1]、7社がこの時期までに開業している[14]。山梨電気鉄道も商号変更前の1927年ごろから数回にわたってバス事業の申請を行っているが許可されていない[14]

自主統合の流れ

山梨開発協会。昭和3年頃の撮影。

こうした小規模なバス事業者の乱立は、競合による疲弊を招くことになった[1]。甲府と勝沼を結ぶ路線などでは3社が競合し、運賃のダンピングなどによる乗客の争奪戦が激化し、バス事業者の経営を圧迫する結果となった[14]。そのうち、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併する気運が現れ始めた[1]。こうした方向性は、「交通企業の合理化と交通事業の統制」を目的として、1931年に公布され、1933年10月から施行された自動車交通事業法の精神である1路線1営業主義にも叶うものであった[14]

自動車交通事業法の成立以前に、1927年に山梨自動車運輸は山梨公衆自動車と御岳開発組合と合併して山梨開発協会を設立、1929年にはマルエス自動車商会・鈴木自動車商会・雨宮自動車商会が合併して東部乗合自動車を設立した[14]。さらに1931年には東部乗合自動車が山梨開発協会と合併した[15]のを端緒として、山梨開発協会が国中地方のバス事業をまとめる統合主体となっていった[16]。峡南地域でも、身延自動車が1929年から1931年にかけて、身延弘通と富士川自動車を合併している[16]

一方、山梨電気鉄道は山梨開発協会のバスと競合したため経営難に陥り[16]、1936年には主たる債権者であった日本興業銀行の申請によって鉄道省の強制管理下に入ることになった[16]1937年には日本興業銀行から山梨電気鉄道の競売申請が裁判所に申し立てられ、1938年5月に設立された峡西電気鉄道によって落札された[16]。これによって、甲府から青柳までの電車の運行は峡西電気鉄道の経営に移行した[16]

他方、バス事業の統合も山梨開発協会によって進められ、1933年に輿石自動車を、1935年には甲府自動車運輸を合併した[16]。これにより、山梨開発協会は甲府市周辺と峡東地域の大半の路線を運行する事業者となった[16]

戦時統合へ

戦時体制になり、1939年陸上交通事業調整法が公布される[17]前後には、バス事業の統合の動きはさらに加速し[16]、1938年に八ヶ岳自動車とアサヒ自動車が、1939年には台ケ原自動車が山梨開発協会に合併することになり、峡北地域のバス事業もほぼ山梨開発協会に統合されることになった[16]1942年までにさらに2社が合併している[16]

一方、日中戦争が勃発した1937年以降は燃料事情が悪化し、燃料統制が行なわれることになった[16]。このため、1939年以降はバスの代用燃料化が進められた[16]。これと同時期に、不要不急路線の休止も進められ、鉄道と完全に並行する路線や観光路線などは相次いで休止されていった[16]1944年ごろには甲府市内で残された路線に乗客が殺到し[18]、どのバスも超満員となる事態になった[17]ため、近距離旅客の制限まで行われたという[17]

1942年には鉄道省通牒により強制統合が進められることとなったが、この時に山梨県では甲府地方・岳麓地方の2ブロックに分けられる事となった[19]。岳麓地方では富士山麓電気鉄道が統合主体となった[20]が、甲府地方では山梨開発協会・峡西電気鉄道・身延自動車の3社が合併し、これに小規模事業者である6社が事業譲渡する方法をとることになった[17]。これに伴い、1943年からは資産評価の作業が開始された[17]が、会社の規模による各社間の思惑の相違[21]、資産評価基準に対する不満[21]、さらに事業形態の異なる自動車事業と軌道事業の統合における支障などがあった[21]ため、当初1944年5月に予定していた統合を延期せざるを得ない状況に陥った[21]。そこで、1944年10月には統合に関する一切を関係各社から山梨県に一任すると申し出た[21]。山梨県ではこれを受け入れ、山梨開発協会を存続会社として峡西電気鉄道・身延自動車を吸収合併し、他社はこれに現物出資するという形態での統合を決定した[21]。このような経過を経て、1945年2月1日に山梨交通が発足した[19]。ただし、統合前の1944年の時点で既に「山梨交通」という社名が一部で使用された記録が残っている[21]

戦後の復興

戦後間もない頃の甲府駅前を走る山梨交通電車線。昭和21年頃の撮影。

統合して新会社となった山梨交通は、国中地方の軌道とバスを独占する交通機関となっており[19]、バス事業では統合された事業者の1つである身延自動車の営業エリアの関係から静岡県の一部にも乗り入れ[22]、55路線173台を有する一大バス事業者となった[19]が、実際には29路線が休止となっており[19]、実働車両も35台しかない有様であった[22]。これに対し、電車線は1945年7月の空襲時においても車両が被災を免れていた[23]

いずれも終戦後に復旧整備が開始されることとなり、バス路線は1946年10月に甲府から境川への路線が運行を再開したのを皮切りとして[19]、休止路線の再開が進められた。1947年には新路線の開設も行われ[22]、休止路線の再開と新路線の開設が並行して行われるようになり[22]1952年には休止路線の運行再開は完了した[24]。これに対して、電車線はバスより早い1947年には戦前の状態に復旧している[23]

1950年からは戦時中に休止されていた貸切バス事業を再開[24]、1952年には身延山開宗700年記念祭や山梨平和博覧会などにあわせて新車を6台導入するなどして輸送力を増強した[24]

発展

1954年には富士山麓電気鉄道との共同出資により、貸切バス専業の山梨観光自動車を設立した[25]1958年には芝川営業所の貸切バス事業認可が得られた[26]ことから、静岡県下である芝川町富士宮市にも山梨交通本体の貸切バスの事業区域が拡大されることとなった[26]

電車線においては、1952年3月に国鉄甲府駅構内借用許可を得て、甲府駅構内への乗り入れを計画した[23]。当初は同年中に乗り入れる計画であった[23]が、国鉄側の施設の移転や道路整備の状況などの問題があり、1953年9月に市内のルート変更を行った上で甲府駅へ乗り入れを開始[23]、甲府駅前のバス乗り場も電車線の駅に集約した[23]。なお、1954年には甲府市内の併用軌道区間の単線化が行われている[23]

1950年代になるとバス路線の新設が多くなり、1955年までには扇状地を遡るように積翠寺芦安穂坂増富小淵沢内船上九一色へと乗り入れを開始[19]1960年までにはさらに奈良田小泉清里切差へと路線網を拡大した[19]。また、この時期は長距離バス路線への進出も目立ち、1954年7月1日から静岡鉄道との相互乗り入れによって甲府と静岡の間を結ぶ急行バス(静岡甲府線)の運行を開始した[19]ほか、1958年12月に国道20号新笹子トンネルが開通したことを契機として[26]、甲府と大月を結ぶ路線を富士山麓電気鉄道(当時)との相互乗り入れによって運行を開始した[26]。1959年2月からは諏訪自動車(当時)との相互乗り入れによって甲府と上諏訪を結ぶ路線を[26]、同年6月には千曲自動車(当時)との相互乗り入れにより甲府と小諸を結ぶ路線の運行を開始した[26]。また、新笹子トンネルの開通を前提に富士山麓電気鉄道(当時)および京王帝都電鉄(当時)との3社で申請していた新宿と昇仙峡を結ぶ路線の免許が下りた[26]ことから、1959年7月5日から日曜・祝日のみ運行の季節路線として運行を開始した[26]が、これが中央高速バス甲府線の原型ともいえる路線である[27]

しかし、このバス路線網の拡大の一方で、電車線の利用客が山間部まで直通するバスに転移し、電車線の経営状況は悪化していった[28]。その上、1959年には台風7号によって貢川の車庫の倒壊や路盤流失などの被害があった[4]ほか、復旧途上に台風15号が被害を与え、復旧費用が嵩んだために電車線の経営状況の悪化に拍車をかけることになった[4]。そのような状況下、「ボロ電[注釈 1]を都会的な電車にしよう」と[29]、当時の山梨県から見て「都会の電車」であった国鉄101系電車に似せたオレンジ色1色に車両の色を変更する[29]、といったことも行なわれていた。

この頃の山梨交通では関連事業にも着手している。観光業務に重点をおくという方向性のもと、八ヶ岳山麓にバンガローや観光バスセンターの建設に着手した[30]ほか、地下鉄池袋駅構内に観光案内所を開設した[30]

1960年代

山交騒動

電車線はバスとの競合や自然災害などで不振であった[30]ものの、バス事業については黒字を計上し[30]、1960年代に入る頃には、山梨交通は県内では最大の企業となっていた[25]。しかし、この時期の山梨交通の経営状態はかなり悪化していた[30]。当時の経営者の放漫経営に問題があったといわれており[30]県会議員や大株主の依頼を受け[25]国際興業の社主であった小佐野賢治が山梨交通の再建にあたることになった[25]。小佐野賢治は山梨交通の株式を40万株取得し[30]1959年9月に当時の社長の河西俊夫と会談して取締役としての参加を申し出た[30]。この時点で、既に小佐野賢治は山梨交通の個人筆頭株主であった[30]

小佐野賢治は山梨県出身であり、山梨交通の経営に参加する目的も「郷土の企業発展と観光振興に力を貸したい」というものであった[25]が、当時の経営陣は東京の事業家の進出に危機感を抱き[25]、社長一族が主導権を握る目的で、堤康次郎に全面的支援の約束を取り付けた上で株式の買占めにかかり[30]、事態は「株主総会までにどちらがどこまで株式を買い集められるか」[31]という小佐野賢治と河西の株式争奪戦の様相を呈した[25][注釈 2]。さらに、河西は株主総会直前に取締役会で静岡市に設立された駿河観光の買収を決議した[32]が、この駿河観光は実態のない会社で、河西の持株比率を高める策略であった[32]

1960年の株主総会では河西が召集した西武鉄道の社員が大半を占めている状況下で行われ[32]、駿河観光の買収は可決された[32]が、小佐野賢治はこの議決について執行停止の仮処分を申請し、法廷闘争へ移行する事態となった[32]。新聞では小佐野賢治と山梨交通の双方から声明文が出され、多くの山梨県民に「山交騒動」としてこの状況が知られることになった[32][注釈 3]

同年6月の判決では小佐野賢治の主張が全面的に認められ、9月に行われて株主総会で駿河観光の合併話は解消された[32]。この時点で、山梨交通の持株比率は小佐野賢治と堤の両者がほぼ同率で所有しており、両者とも筆頭株主となっていた[32]が、その後の話し合いにより堤の持株は小佐野賢治に譲られ、堤は山梨交通から全面的に手を引いた[32]。これにより、小佐野賢治は山梨交通の株式を100%取得したことになった[32]

国際興業傘下で再建

山梨交通を掌中に収めた小佐野賢治は、国際興業から役員を徐々に送り込んだ[32]1961年の株主総会で副社長に国際興業の専務だった小佐野栄が就任[32]、続いて同年11月には小佐野賢治が会長に就任した[32]。さらに、翌1962年の株主総会で旧経営陣は全て退陣し、社長に小佐野栄が就任した[32]。こうして、山梨交通は国際興業グループとして再出発することになった。

経営内容の刷新を図るべく、まず1961年には静岡資本の甲府松菱デパートを買収した[32]。続いて、経営状況の抜本的な改革として[33]、再生の見込みが立たない電車線については廃止することになり[25]、1961年から沿線自治体との折衝を開始[4]1962年5月には運輸省と建設省の許可も得られた[4]ことから、同年6月30日限りで「ボロ電」[注釈 1]として親しまれてきた電車線は廃止された[4]1965年には甲府駅前の電車線乗り場跡地に甲府松菱デパートを移転した上で、山交百貨店としてオープンさせた[33]

電車線の廃止後も、路線バスの拡充は進められた。主な路線だけでも、1963年芦川村・古市場へ乗り入れを開始[33]1964年には芦安から夜叉神峠登山口までの路線を開設し[33]、同年には静岡県内でも富士川町から蒲原病院(蒲原町)へ路線延長された[33]。1965年には鶯宿(芦川村)へ乗り入れ[33]1966年には西東京バスとの相互乗り入れにより氷川と塩山を結ぶ路線を開設[25]1967年には夜叉神峠登山口から広河原ロッジへ路線延長が行なわれている[25]

貸切バス事業についても、1962年には東京都板橋区に東京営業所を開設して東京進出を果たし[34]、1965年9月には富士吉田にも貸切バス営業所が開設され、富士山麓での営業拠点となった[34]。甲府の貸切バス営業拠点についても、1970年には貢川・湯村・伊勢町の各営業所の貸切バス事業を統合して甲府観光営業所を設けた[34]

この頃には関連事業についても強化され、1961年には甲府自動車教習所を買収して山梨交通自動車教習所として営業を開始[34]、1962年には湯村温泉の旅館である昇仙閣の経営にも参加し[34]、清里高原にはセンターロッジやバンガローを建設した[34]ほか、1965年には八ヶ岳スケートセンターを開設した[34]。また、タクシー事業においても、戦時統合中のタクシー事業者の統合により設立されていた山梨貸切自動車に1962年から経営参加している[34]

バス事業を拡大してゆくうち、車掌の要因不足に悩まされることになった[35]。また、増収努力は効果を挙げていた[35]ものの、収支面では赤字基調となっていた[35]ことから、人件費削減による合理化対策としてワンマンバスの導入を行なうことになった[35]。1965年から労使交渉などの準備を行い[35]1966年5月から甲府市内の路線において整理券方式後払いによるワンマンバスの運行を開始した[35]

1970年代

モータリゼーションの進展

1970年代に入る頃から、山梨県下においても自家用車の普及、いわゆるモータリゼーションの進展が見られ[36]、路線バスの乗客数は減少し始めた[36]。しかし、貸切バスの需要はまだ旺盛であった[37]ことから、効率化を進める一方で、伸びるニーズを捉えることが必要とされた[37]。1972年には東京営業所を国際興業に譲渡して撤退する[5]一方で、山梨県内ではハイデッカーや豪華車両の投入などの強化を図っている[38]

路線バスのワンマン化は、1970年代の半ば頃には狭隘路線を除けばほぼ終了していた[37]ことから、1978年からは道路に合わせてバスのほうを中型化、あるいは小型化することでワンマン基準に適合させる方策がとられるようになった[5]。また、出先での車両の駐泊[注釈 4]なども順次廃止され[37]、一部は現地在住の乗務員が始発便と最終便を担当するように変更した[37]ほか、営業所も統廃合が行われた[37]。また、サービス向上のために、停留所以外でも自由に乗り降りが可能な自由乗降バスを1978年から導入を開始[37]、ほどなく甲府市内と幹線道路以外はほとんどの区間が自由乗降区間となった[37]。同年からは使用時間を限定する代わりに割引率を高く設定した「買物回数券」も導入された[37]

また、不採算路線については休廃止が進められることとなり、1971年6月に内船と寄畑を結ぶ区間が廃止されたのを皮切りとして[38]、同年度内に身延から芝川までの区間が廃止となり[38]、静岡県内の一般路線は他の山梨交通の路線と接続しない孤立した路線網となった。1972年度には塩山・山梨市から栗合・御坂への路線や早川橋と下部を結ぶ区間が[38]1973年度には貢川から鶯宿・奈良原へ向かう路線が[38]1974年度には湯村から増富への路線などが廃止された[38]。この時期に28路線が休廃止となったが、ほとんどが峡北・峡南地域の路線であった[5]。また、長距離バスも利用者減少のため、1971年9月に甲府と上諏訪を結ぶ路線が休止された[39][注釈 5]のをはじめとして、1972年1月には甲府と小諸を結ぶ路線が[5]、同年4月には塩山と氷川を結ぶ路線が[39]、1978年には甲府と大月を結ぶ路線も廃止された[5]。また、静岡と山梨を結ぶ路線(静岡甲府線)については、1979年に山梨交通が撤退[39]、その後は静岡鉄道の単独運行となった[39][注釈 6]

その一方で、1969年に中央自動車道が一部開通したことに伴い、昇仙峡と新宿を結ぶ急行バスは大月以東は中央自動車道経由に変更された[35]。また、昇仙峡グリーンラインの開通に伴い、1972年4月には貢川からグリーンラインを経由して昇仙峡へ向かう路線が開設された[37]ほか、1973年には定期観光バスの運行も開始された[5]

高速バスへの参入

1978年に中央自動車道が笹子トンネルを抜けて勝沼まで開通したのを機に、それまで季節運行だった新宿と昇仙峡を結ぶ路線を定期運行の高速バス路線として発展させる形で、1978年4月22日から山梨交通・富士急行・京王帝都電鉄(当時)の3社共同運行による中央高速バス甲府線の運行を開始した[39]。この路線では、予約システムを3社で統一し、甲府での予約業務は山梨交通が一括して行なうことになった[39]。当初各社3往復ずつの9往復で運行開始した[39]甲府線は、利用者も順調に増加したことから年毎に増便され[5]1985年には30往復にまで成長していた[36]

中央自動車道が全通すると、新宿と長野県を結ぶ高速バスが注目され[36]、京王帝都電鉄(当時)と伊那バス信南交通が新宿と伊那・飯田を結ぶ路線(中央高速バス伊那・飯田線)の運行を計画していた[36]。当時はまだ長距離路線におけるルールのようなものが確立しておらず[36]、山梨交通では伊那・飯田線への参入を希望した[36]。同路線には富士急行・諏訪バスも参入を希望しており[36]、紆余曲折はあったものの、1984年12月に伊那・飯田線が開業した際に、山梨交通では新宿と駒ヶ根を結ぶ系統の1往復を担当することになった[5]。その後1986年には新宿と諏訪地区を結ぶ路線(中央高速バス諏訪岡谷線)の運行が計画された[36]が、この路線は山梨県内でも乗降を扱うことから、当初より山梨交通も参入することで計画され[36]、1986年11月の暫定運行開始[注釈 7]から1往復を担当することになった[5]

1989年8月には、季節運行で東京駅から清里へ直通する高速バスをジェイアールバス関東と共同で運行を開始[5]1990年からは横浜駅から清里への高速バスを京浜急行電鉄(当時)との共同で運行を開始した[5]

1980年代

関連事業の再編成

1980年代に入ると、関連事業の再編成も行われた。

1980年には甲府駅前に立体駐車場を開業[40]、1981年には中央自動車道の双葉サービスエリア下り線にレストラン山交をオープンさせた[40]。また、1986年には甲府駅前のバスターミナルを新築した[40]ほか、山交百貨店も全面的に建て替えが行われて1989年にオープンした[40]。その一方で、八ヶ岳スケートセンターは1981年に営業を休止している[40]

また、1989年には湯村営業所を竜王に移転して、跡地にはダイエーとフランチャイズ契約を結んだ上で湯村ショッピングセンターを1990年に開業した[40]ほか、1993年から1995年にかけては貢川営業所と甲府観光営業所を敷島営業所に統合し、跡地には貢川ショッピングセンターを開業した[40]。また、1990年には清里高原富士屋ホテルを開業した[40]

また、系列の貸切バス専業事業者であった山梨観光自動車は、1989年に富士急行の保有していた全株式を山梨交通が譲受し、山梨交通直系の事業者となった[41]。これにあわせて、富士急行は1985年に平和観光自動車(当時)を設立した[42]

続く一般路線バスの縮小

一方、一般路線バスの縮小傾向は続いていた。

1982年度には15系統[38]、1983年度に16系統[38]、1984年度には25系統が廃止となり[38]富沢町南部町・下部町・三珠町中富町大泉村・長坂町・鰍沢町では山梨交通の路線がなくなった後に、道路運送法101条に基づいて、自家用バスを使用した廃止代替バス(自治体バス)の運行を開始した[40]

平成に入ると、第3種生活路線の国庫補助期限切れなどにより、さらに路線の廃止が進められる事になった[43]。1989年には芦川村への路線を廃止[43]、1990年には韮崎と小笠原を結ぶ路線が廃止された[43]1991年からは自治体バスへの移行だけではなく、道路運送法24条の2を適用した貸切免許による代替バス運行(貸切代替バス)も行なわれるようになり[44]、長坂と小淵沢を結ぶ路線や百観音から日野春方面への路線が[45]、自治体からの委託による貸切代替バスでの運行に切り替えられた[44]。その後も不採算路線に対する自治体バスや貸切代替バスへの移行は続き、1995年には鰍沢と身延の間の路線がつながらなくなった[44]。さらに、1995年10月には牧丘町の路線が廃止された際に、地元のタクシー会社に委託することになった[44]ため、既に運行されていた塩山地区の貸切代替バスから山梨交通が撤退した[44]1997年には山梨市から山梨交通は全面撤退した[44]

こうした路線縮小の結果、山梨交通の路線は甲府市を中心に鰍沢・勝沼方面と、韮崎・塩山・身延・富士宮近辺の路線だけが残る状態となり[44]、400台近くあった路線バス車両も150台程度に半減してしまった[41]

1990年代

路線バスへの新機軸導入

このように、1990年代前半までの山梨交通の路線バスは縮小均衡策が目立っていた[6]。しかし、残存路線については新しい営業政策により積極的な改善を行なう方向性に転換することになった[6]

1998年から導入が開始されたCNGバス

1993年6月には山梨県の補助を得た上で車椅子リフト付きのバス3台が導入された[6]が、これは日本の民営バス事業者では初めてとなる車椅子リフト付き路線バス車両であった[46]1996年には貸切バスにおいても車椅子リフト付きの車両が導入された[6]。また、1998年からは圧縮天然ガスを燃料として使用するCNGバスの導入を開始した[6]が、山梨県が低公害車両への補助制度を確立した[6]ことにより、CNGバスは徐々に増加してゆくことになる[47]。また、東京ガスとタイアップした上で整備工場内にCNG充填所を建設し[48]、運営は山梨交通が受託することになった[47]

また、1997年からは甲府市内への通勤流動に対するパークアンドライドの実験を開始した[49]ほか、甲府商工会議所が主体となって運行を開始した無料循環バス「レトボン」や、高根町が主体となって運行する「清里ピクニックバス」などの運行を山梨交通が受託する[47]など、地域とのタイアップによる施策もみられるようになった。

路線バスの運賃面でも、甲府駅や韮崎駅から1kmの区間についてワンコイン運賃(100円)を導入した[50]ほか、高齢者向けに一般路線バス全線を利用可能な「ゴールド定期」の発売を開始[41]、さらに「通学1年定期」の設定も行われた[50]ほか、2003年度からは普通運賃が600円以上となる区間の定期券においては全て600円の運賃として計算するという、定期券の上限運賃を設定した[49]。また、この年の夏からは小児運賃を一律50円にする施策も行なわれた[49]

営業拠点とグループ会社の再編成

一方、残存路線についてもさらにコストダウンを図る必要があった[51]。山梨交通では傘下のタクシー事業者や貸切バス事業者に着目した[51]

まず1995年には身延営業所の貸切代替バスを全て山交タクシーに移管[52]、1996年には塩山営業所管内の路線を山梨貸切自動車へ移管した[51]。さらに1997年には敷島営業所管内の不採算路線を山梨観光自動車に[51]、韮崎営業所管内の一部路線を山交タクシーの貸切代替バスに移管した[51]。さらに、1999年からは身延営業所の業務を全て山交タクシーに移管し[41]、塩山営業所は山梨貸切自動車に管理委託、韮崎・鰍沢・静岡の各営業所を山交タクシーに管理委託した[51]。このような流れの中、2002年に山交タクシーは山交タウンコーチに社名を変更し[51]、同年には韮崎営業所と静岡営業所は山交タウンコーチに移管された[53]

これらの施策により、山梨交通は新会社を設立することなく分社化と同じ効果を挙げた[52]

貸切バスについても、1998年には鰍沢・塩山の両営業所の貸切バス事業を廃止した[51]ほか、2000年には富士吉田営業所を廃止[51]、2002年10月からは敷島営業所の貸切バス部門を山梨観光自動車に統合した上で[54]、山梨観光自動車は山梨交通観光バスに社名変更した[55]

2000年代

日本初のバスICカード本格的導入

バスICカードのカードリーダー バスICカードのカードリーダー
バスICカードのカードリーダー

山梨交通では1998年より三陽電気製作所(当時)NTTデータと共同でICカード乗車券の計画を進め、1999年には実車試験も行っていた[56]。この結果を踏まえて、2000年2月28日から「バスICカード」の運用を開始した[55]。バスにおけるICカード乗車券は、1997年の静岡県豊田町、1998年の東急トランセ、1999年の道北バスなどで実用化されていたが、いずれも回数券機能のみであった[56]。回数券と定期券の一体化を図った上で、広域のバス路線網において実用化されたのは、日本では山梨交通が初めての事例であった[55]。同年中には広河原線を除く山梨県内の全路線で利用可能となり[57]、2002年にはクレジットカードとも一体化[57]、さらに2003年には静岡県内の路線でも利用可能となった[58]。また、社員証もICカード化された[59]ほか、ICカードのシステムと連動させて、デジタル式運賃表示器のデータを位置情報として提供するという、バスロケーションシステムの運用も開始している[60]

ICカード導入後、それまで減少傾向であった一般路線バスの利用者数が横ばい傾向となり[2]、日本全国からバスICカードシステムの視察に訪れる[2]など、日本のバス業界の注目を集めた。ICカードの導入は、社員の士気向上にもつながった[2]

高速バスの新展開

一方、2000年9月30日からは甲府と大阪を結ぶ夜行高速バス「クリスタルライナー」の運行を開始した[2]。大阪方面への夜行高速バス構想自体はそれ以前から存在しており[2]、運行距離が450km未満であったため途中休憩を長く確保することでワンマン運行が可能であった[61]こと、運賃も東京と大阪を結ぶ路線と比較すると高めながら、JR鉄道線を乗り継ぐよりも安く設定した[62]ことにより、採算ラインを1便当たり17人に設定することが可能となった[62]。運行を開始した後に停留所の追加なども行った結果、1便平均20人以上の利用者数で定着した[3]。また、2001年からは羽田空港への空港連絡バスを[3]、2002年からは成田空港への空港連絡バスの運行も開始した[3]ほか、2003年には甲府と名古屋を結ぶ高速バス路線[63]2004年からは新宿と身延山を結ぶ路線の運行も開始している[63]

2005年には、山梨県内のバス事業者としては初めて「グリーン経営認証」を取得した[63]。当初は山梨交通本体だけであったが、同年中には山梨交通観光バス・山梨貸切自動車・山交タウンコーチなどのグループ各社も認証を取得している[64]

2010年代

日本初の水素燃料バス営業運行

2012年4月9日から、山梨交通では水素燃料バスの営業運行を開始した[65]。これはディーゼルエンジンを水素燃料エンジンに改造したバス1台を導入し、水素燃料の使用による二酸化炭素削減効果や事業性・採算性、他地域への波及性に対する検証を行うために実証運行に踏み切った[65]もので、導入に当たっては環境省の委託事業である「チャレンジ25地域づくり事業」を活用している[65]。日本における水素燃料バスの公道走行は東京都市大学の送迎バスに続く2例目であり、路線バスで営業運行するのは日本で初めての事例となる[65]

企業概説

軌道事業

前身となる山梨馬車鉄道1898年に馬車鉄道として運行を開始したのが端緒である[7]。その後、1930年からは電車による運行を開始した[9]が、1962年6月30日限りで廃止された[4]

一般路線バス事業

甲府盆地を主要なエリアとしており、2005年時点では100系統ほどの路線を運行している[59]。甲府以外では、塩山駅韮崎駅身延駅富士川駅などを起点とする路線バスがあるが、1980年代に整理・縮小されたうえ2000年代までにごく一部を除き山梨貸切自動車(塩山)や山交タウンコーチ(韮崎、身延、静岡)などといった子会社へ移管している。

路線や区間については各営業所および子会社の項目を参照。

高速バス事業

1959年に季節運行の急行バスとして新宿~甲府・昇仙峡間が開設されており[26]、その後中央自動車道経由に変更していた[35]が、これを発展させた形で中央高速バス甲府線として運行を開始した[39]のが、山梨交通の高速バスの端緒である。中央高速バス以外の路線については、2000年に夜行高速バスとしてクリスタルライナーが開設され[66]、その後も次々と路線が開設された。

中央高速バス甲府線(新宿 - 甲府湯村温泉
1978年4月22日より運行開始[67]。当初9往復であった[39]が、一時期は30往復にまで増便された[36]。当初は自社便を自社の収入とするシステムであったため、ダイヤ改正がなくても担当便を1年ごとにずらす方式をとっていた[39]。当初は石和経由便のみであったが、1983年1月19日から甲府南経由便も設定された[36]。2002年6月1日からは一部便を湯村温泉へ延長[58]京王バス東(運行開始当初は京王帝都電鉄)・富士急平和観光(運行開始当初は富士急行)との共同運行。
中央高速バス身延線(新宿 - 南アルプス身延
2004年8月6日に運行開始[58]。当初は山梨交通の単独運行であったが、同年11月から京王バス東との共同運行路線となった[63]
中央高速バス北杜白州線(新宿 - 韮崎白州
山梨交通の単独運行。
中央高速バス諏訪岡谷線(新宿 - 上諏訪岡谷
1987年7月1日から運行開始[68]。京王バス東(運行開始当初は京王帝都電鉄)・フジエクスプレス(運行開始当初は富士急行)・諏訪バスJRバス関東との共同運行。
中央高速バス伊那線(新宿 - 伊那駒ヶ根
1984年12月14日より運行開始[67]。京王バス東(運行開始当初は京王帝都電鉄)・フジエクスプレス(運行開始当初は富士急行)・伊那バス信南交通との共同運行。
京都・大阪線「クリスタルライナー」(甲府 - 京都・大阪)
2000年9月30日より運行を開始した[2]、山梨交通では初となる夜行高速バス。2001年9月20日からは須玉IC経由に変更[66]、2004年3月19日からは昼行便も設定された[58]近鉄バスとの共同運行。
名古屋線「名古屋ライナー甲府号」(竜王・甲府 - 名古屋)
2003年4月5日に運行開始[58]。当初は山梨交通の単独運行[63]
羽田空港線(竜王・甲府 - 羽田空港)
2001年7月18日に運行開始[66]京浜急行バス(運行開始当初は京浜急行電鉄)との共同運行。
成田空港線(竜王・甲府 - 成田空港)
2002年9月19日に運行開始[58]千葉交通との共同運行。
甲府〰静岡線(竜王・甲府 - 静岡)
期間限定で2012年7月20日より運行開始[69]しずてつジャストラインとの共同運行。

かつて運行していた高速バス

中央高速バス茅野線(新宿 - 中央道茅野
1986年11月1日に運行開始[70]。諏訪岡谷線の運行開始に伴い、1987年7月1日で廃止[68]
東京 - 清里・八ヶ岳高原
季節運行により1989年8月1日に運行開始[68]。JRバス関東との共同運行で、当初は清里までであったが、1993年5月20日からは八ヶ岳高原へ延長[68]
横浜 - 清里
季節運行により1990年7月21日に運行開始[68]。京浜急行電鉄との共同運行であったが、1999年7月20日付けで廃止[66]
長野 - 甲府線
2006年4月21日より運行開始、2007年10月31日限りで運行休止[71]
竜王・甲府 - 川越・さいたま線
2007年11月1日より運行開始、2009年10月31日限りで運行休止。

その他事業

バス事業所

山梨交通観光バス・山交タウンコーチ・山梨貸切自動車を含めて、山梨県内に7箇所、静岡県内に1箇所の運行拠点を有している[72]

営業所一覧

2005年時点でのバス事業所は以下の通りである。

山梨交通敷島営業所
1992年に竜王営業所を移転して開設された[72]、山梨交通最大の営業所[72]。甲府市内の路線バスと高速バスを担当する[72]
山梨交通伊勢町営業所
1953年に開設された[72]、甲府市内の路線バスを担当する営業所[72]。2002年からは山梨貸切自動車に管理委託されている[72]
山梨交通鰍沢営業所
1945年に発足[72]、旧鰍沢町内発着の路線バスを担当する[73]。2002年からは山交タウンコーチに管理委託されている[73]
山梨交通塩山営業所
1945年に発足[72]、旧塩山市内発着の路線バスを担当する[73]。1999年からは山梨観光自動車に[73]、2002年からは山梨貸切自動車に管理委託されている[73]
山梨交通観光バス甲府営業所
1995年に甲府観光営業所を移転して、山梨交通敷島営業所に併設された[72]。貸切バス以外にも、甲府近辺の不採算路線を一部担当する[51]
山交タウンコーチ韮崎営業所
1955年に山梨交通韮崎営業所として開設され[73]、2000年からは山交タクシーに管理委託され[73]、2002年に山交タウンコーチに移管された[73]韮崎市発着の路線バスを担当する[73]
山交タウンコーチ身延営業所
1964年に山梨交通身延営業所として開設され[73]、1998年からは山交タクシーに移管された[73]身延町発着の路線バスを担当する[73]
山交タウンコーチ静岡営業所
1962年に山梨交通富士宮営業所として開設された。[34]。2000年からは山交タクシーに管理委託され[74]、さらに2002年からは山交タウンコーチに管理委託されている[74]富士宮市発着の路線バスを担当する[73]

廃止された営業所

いずれも山梨交通の営業所。廃止順に列記する。

甲府営業所
1970年12月9日付で廃止[75]
東京営業所
貸切バス専門の営業所で、1962年3月15日に開設[76]、1972年5月31日付で国際興業へ譲渡[75]
芝川営業所
1955年8月2日に開設[77]。1978年7月18日付で廃止[67]
湯村営業所
1959年4月1日に開設[78]。1989年5月10日付で移転の上竜王営業所となる[68]。跡地には商業施設を建設[40][注釈 8]
竜王営業所
1989年5月10日付で湯村営業所を移転して開設[68]。1992年8月10日に移転の上敷島営業所となる[68]
貢川営業所
1955年6月20日に開設[77]。1994年12月23日付で敷島営業所に統合[79]、跡地には商業施設を建設[40][注釈 9]
甲府貸切営業所
貸切バス専門の営業所で、1970年12月9日に貢川営業所に隣接して開設[75]。1995年12月15日付で敷島営業所に統合[79]
富士吉田営業所
貸切バス専門の営業所で、1965年9月1日に開設[75]。2000年3月15日付で廃止[66]

車両

本項では、山梨交通およびグループ各社(山梨交通観光バス山梨貸切自動車山交タウンコーチ)についての車両概要を記述する。また、便宜上、路線バス車両については「路線車」、高速路線バス車両については「高速車」、貸切バス車両については「貸切車」と表記する。

車両史

創業期から終戦直後

山梨交通の直接のルーツとなる山梨自動車運輸では、フォード4台を使用して運行を開始した[11]

燃料事情が悪化した戦時中は、バスの代用燃料化が行われていた[16]。代用燃料については木炭が主体で[16]、他に薪や石炭が利用されていたとされている[16]。この頃には国産車としてトヨタの車両が使用されていた記録が残っている[21]

戦後の復興期から高度成長期

戦後の1950年前後には、いすゞBX91型トヨタBL型・日産390型などが使用されていた[80]。1952年から再開された貸切車には、大型ボンネットバスである三菱ふそうB23型が採用された[80]。また、この時期からリヤエンジンバスの導入が始まり、民生BR32型などが導入されている。1954年以降は、日野のセンターアンダフロアエンジンバスであるBK11型が路線車の主力として導入された[81]。この頃から全長が10m級の大型車の導入も開始されている[80]一方、ボンネットバスの導入は1963年式を最後に終了している[81]

1960年代には、いすゞBA741型が路線車の主力となっていた[82]。この時期以降、山梨交通のいすゞ車は川崎車体で導入される[82]。また、この時期までは路線車と貸切車の車体スタイルは共通であった[82]が、このあとは別の車体スタイルとなる。また、特定の路線のための車両も導入されており、1966年には塩山と氷川を結ぶ路線の専用車として三菱ふそうMR620型[83]、広河原専用にいすゞBA01N型が導入されている[83]。この時期の貸切車では、デラックス観光バスとしていすゞBU15P型などが導入されていた[82]一方で、小口貸切用としていすゞエルフにバス車体を架装した貸切車も導入された[82]。この時期に国際興業の傘下に入ったことから、山梨交通におけるいすゞ以外のメーカーの車両は、1960年代後半に貸切車として導入された三菱ふそうB905N型を最後に途絶えることになる[82]

ワンマン化から路線バス網縮小期まで

1966年にワンマンバスが導入されたことに伴い、前中扉仕様[注釈 10]の車両導入が開始された[注釈 11]。当初は車掌が乗務するツーマン運行も考慮し、方向幕は中扉の上部に設置されていた[84]。1978年からはワンマン運行の拡大にともない、中型バスもワンマン化対応となった[85]。大型路線バスの導入はこの頃から1989年まで途絶える[86]

この頃には中央高速バス甲府線の運航が開始され、山梨交通では当初よりいすゞ・CRA580型ハイデッカーを導入した[87]が、当時の高速バスではハイデッカーはまだ稀少な存在であった[39]

1980年代以降の車両概説

国際興業グループに入ってからは、新車の導入は基本的にいすゞ車に統一されている[32]が、譲り受けた車両や受託運行用の車両においてはこの限りではない。

路線車の仕様

路線バスは前中扉仕様[注釈 10]・中扉は引き戸が基本仕様であるが、1989年から1994年までに導入された車両では前後扉仕様[注釈 12]で導入を行っていた[88]。冷房車は1977年以降の新車で導入された[84]。1980年代は大型車の導入は行われていなかった[86]が、1989年からは大型車の導入も再開された[89]。細かい仕様の違いとしては、1981年式から前面方向幕の幅が広くなり[85]、1983年式からは天地方向にも拡大した大型方向幕となり[85]、1988年からは後部方向幕の装備も開始された[86][注釈 13]。また、扉脇の出入口表示については、1987年式までは電照式だった[86]ものを1988年からは表示板に変更した。このほか、身延地区の路線用として日野レインボーRBの導入実績がある[86]

2001年以降に新車で導入された路線バス車両は全てノンステップバス(大型・中型とも)となっており[47]、静岡県内に導入される車両を除いて全て天然ガスバス(CNGバス)である。その一方、1998年までは新車のみの導入であったが、1999年からは中古車の導入が開始された[90]。路線バスでは主に親会社の国際興業から移籍してくることが多いが[注釈 14]川崎市交通局からの移籍車も存在する[46]

また、コミュニティバス用や受託運行用の車両としては、協同観光バスから購入したクセニッツCITY-III[91]日産シビリアンクラシックバス[91]、日野製のレトロバス[91]等の導入実績がある。

車椅子リフトバス・CNGバス・水素燃料バスについては後述

高速車・貸切車

高速車・貸切車にはJRバス関東淡路交通などから譲受した車両もあり[92]、特にイースタン観光から譲受した貸切車は富士重工製車体であった[93]。また、夜行高速バスの運行開始にあたっては、近鉄バスから日野・グランデッカが転入し、新路線開設時のリスク軽減に役立った[46]。さらに、2008年には国際興業大阪より日野・セレガが転入した。

また、1989年までは山梨観光自動車がいすゞ車以外を導入していた関係で、貸切車に三菱ふそう・エアロミディMMが1台だけ残存していた。

特徴的な車両

中型CNGノンステップバス(山交タウンコーチ韮崎営業所・C732)

山梨県が独自の補助金制度を導入していることもあり、特殊な車両の導入においては、日本のバス業界でも初期の導入となるケースが見られる[6]

車椅子リフトつき車両
1993年6月に3台が導入されたが、これは民営バス事業者では日本で初の導入事例であった[6]。その後、1994年・1995年に2台ずつが追加導入されている[94]
CNGバス
CNGバスは同じ山梨県内の富士急行に続き、1999年から導入を開始している。1999年から2000年にかけて導入された14台は標準床仕様で[47]、当時まだ開発されたばかりであったいすゞ製の中型CNGバスを導入したが、いすゞ中型CNGバスの導入は日本で初めてである[6]。さらに2001年以降はいすゞ製の中型CNGノンステップバスを採用したが、これもいすゞが開発した中型CNGノンステップバスでは最初の導入事例である[47]。2002年には大型CNGノンステップバスも導入され、2006年の時点では保有する路線バス車両の20%以上がCNGバスとなっており[47]、1社単独では最大のCNGバス導入事業者であった[注釈 15]。近年は路線の移管と同時にCNGバスが移籍するケースも見られるようになっている。
水素燃料バス
2012年4月9日から実証運行として導入された、日本で初めての営業運行となる水素燃料バスである[65]。車両自体は2000年式の日野リエッセを改造したもの[65]で、伊勢町営業所に配置された[65]

車両塗装

路線車の塗装

戦後の塗装デザインは、緑色をベースとして、屋根と窓回りに山吹色に近い黄色、裾にはオレンジ色で波形としたデザインであった[95]。この色は1968年頃まで使用された[95]

1954年にはパールホワイトにローズピンクのラインとグレーの翼模様を入れたデザインが導入された[96]。当初は貸切車のデザインであった[96]が、路線車もこのデザインに変更された[96]。ただし、塗り替えはほとんど行われなかったため、先代のカラーリングもしばらくは見ることができた[95]

1988年から採用された塗装デザインは、クリーム色をベースとして、ブルーのラインを後部で立ち上がるようにデザインし、腰板前方にはワインレッドを配した上、ブドウのステッカーを貼付したものであった[97]。その前のカラーリングの車両も1995年までに塗り替えが行われた[97]

1999年に国際興業から譲受したいすゞキュービックLTは薄いグリーンが草色となっている国際興業のカラーリングそのままで導入されており[88]、その後の1999年に導入したCNGバスのモデルチェンジを機に、国際興業のノンステップバスで採用された黄緑色の使用されているデザインに変更された[90]。これは、国際興業グループで子会社のバスを国際興業カラーに統一する先駆けとなったものといえる。

高速車・貸切車の塗装

自社発注のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下はブロンズ、バンパーは白 譲受車のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下は白、バンパーは黒
自社発注のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下はブロンズ、バンパーは白
譲受車のスーパークルーザーSHDではフロントガラスの下は白、バンパーは黒

高速車・貸切車については、国際興業グループ入りするまでは路線車と同じデザインであった。なお、山梨観光自動車はクリームに赤と白を配した独自のデザインが採用されていた[96]

国際興業グループ入りしてからの高速車・貸切車は国際興業標準色(ブルーリボンカラー)であるが、スーパークルーザースーパーハイデッカーおよびガーラ導入後の自社発注車両では、フロントガラス下部から側面にかけてをブロンズ色としている[98]他、側面のロゴの書体も異なり、ぶどうのステッカーを貼付している[98][注釈 16]ため、国際興業グループ他社とは若干印象が異なる。スーパークルーザーでもハイデッカーについてはフロントガラスの下は白・バンパーは黒としている[99]。国際興業グループ他社から転入した車両はそのままのデザインで使用している。近年導入されたバスには「Kokusai Kogyo Group」と国際興業グループのロゴが入っているほか、一部の高速バスに武田信玄(風林火山)や身延山のシールが貼られている。

貸切車のうち、YBS T&L用(ガーラと2代目ガーラの2台)とヴァンフォーレ甲府用(スーパークルーザーとガーラの2台)のみデザインが異なる。YBS T&L用は白地に山日YBSグループの赤いロゴが貼り付けされており[100]、専らYBS T&Lのツアーのみに使用されている[注釈 17]。ヴァンフォーレ甲府用は車両自体は山梨交通所有のため基本デザインこそ国際興業標準色であるが、側面のブドウの部分がヴァンフォーレ甲府のエンブレム、前面フロントガラス下部および側面後方部にはヴァンフォーレ甲府のロゴが貼付されている。これらのバスはヴァンフォーレ甲府の選手・スタッフが遠征する時に使われ、選手を乗せているときは前面フロントガラス上部に大型フラッグを掲出し、運転席部分にはヴァンくん人形が置かれている。なお、ヴァンフォーレ甲府が使用しないときは他の車両と共通で使用されている。

社番記号

山梨交通の所属車両に付けられている記号は、「英文字1字」+「3桁以内の数字」で構成される[89]。ただし、コミュニティバスやグループ各社では、登録番号がそのまま使用される[89]。先頭の英文字については以下の法則による[88]

  • A…乗合ツーマン車(現存車なし)
  • B…貸切車
  • C…乗合ワンマン車

脚注

注釈

  1. ^ a b 沿線住民は電車線をこのように呼んでいた。『山梨交通60年史』 p.48の記述では、山梨馬車鉄道も「ガタ馬車」と呼ばれていたことにもふれており、この呼び方は「甲州人独特の親しみを込めた表現ではないか」と推測されている。
  2. ^ 小佐野賢治が東京急行電鉄の実質的な創業者である五島慶太と親交があったことから、東急と西武の対立が飛び火した感もあった、ともみられている(『山梨交通60年史』 p.24)。
  3. ^ これは後に熊王徳平の『虎と狼』など、小説の題材にもなっている(『山梨交通60年史』 p.25)。
  4. ^ バス路線の終点で、最終便を翌朝の始発便で戻すため、バスをそこに止めて乗務員も一泊すること。
  5. ^ 1974年に正式に廃止(『山梨交通60年史』 p.29)。
  6. ^ 1990年に静岡鉄道も撤退した(『山梨交通60年史』 p.29)。
  7. ^ この時は伊那線の運行系統新設扱いで、運行区間も中央道茅野までであった(『バス・ジャパン』通巻4号 p.26)。
  8. ^ 現在はオギノ湯村ショッピングセンターとして営業中。
  9. ^ 現在はコジマNEW甲府店として営業中。
  10. ^ a b 前扉と中扉を配置した仕様。
  11. ^ ただし、当初は前乗り前降り方式であった(『山梨交通60年史』 p.28)。乗降方式が中乗り前降り方式になったのは1982年以降である(『山梨交通60年史』 p.31)。
  12. ^ 前扉と後扉を配置した仕様。
  13. ^ 後面も大型方向幕である。
  14. ^ 2007年に大型ノンステップバスが、2012年に大型と中型のCNGノンステップバスが移籍してきた。
  15. ^ 地域子会社を含めた場合は富士急行グループが最大。
  16. ^ クリスタルライナー専用車のみ甲府市の鳥であるカワセミのステッカー。
  17. ^ YBS T&Lが車両を保有し、山梨交通に運行・整備を委託しているため。

出典

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参考文献

書籍

雑誌記事

  • 鈴木文彦「中央ハイウェイバスの成長と課題」『バス・ジャパン』第4号、バス・ジャパン刊行会、1987年4月、24-29頁、ISBN 4795277591 
  • 鈴木文彦「中央ハイウェイバスの車両」『バス・ジャパン』第4号、バス・ジャパン刊行会、1987年4月、30-31頁、ISBN 4795277591 
  • 鈴木文彦「私の取材メモ 車両のカラーと地方色」『鉄道ジャーナル』第501号、鉄道ジャーナル社、2008年7月、155頁。 
  • 日本バス友の会、鈴木文彦「Bus Corner」『鉄道ジャーナル』第549号、鉄道ジャーナル社、2012年7月、159-161頁。 
  • 「おじゃまします!バス会社潜入レポート Vol.10 山梨交通」『バスマガジン』第10号、三推社講談社、2005年3月、45-61頁、ISBN 4063662233 

外部リンク