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「ヘリオガバルス」の版間の差分

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{{Otheruseslist|ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス|[[シリア]]のエメサ(現在の[[ホムス]])で崇拝された太陽神エル・ガバル(El-Gabal;山の神の意)|ヘーリオス}}
{{Otheruseslist|ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス|[[シリア]]のエメサ(現在の[[ホムス]])で崇拝された太陽神エル・ガバル(El-Gabal;山の神の意)|ヘーリオス}}
{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
| 人名 = ヘリオガバルス
| 人名 = ヘリオガバルス(エラガバルス)
| 各国語表記 = {{lang|la|'''Heliogabalus'''}}
| 各国語表記 = {{lang|la|'''Heliogabalus''' ('''Elagabalus''')}}
| 君主号 = ローマ皇帝
| 君主号 = ローマ皇帝
| 画像 = Elagabalo (203 o 204-222 d.C) - Musei capitolini - Foto Giovanni Dall'Orto - 15-08-2000 .jpg
| 画像 = Elagabalo (203 o 204-222 d.C) - Musei capitolini - Foto Giovanni Dall'Orto - 15-08-2000 .jpg
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| 在位 = [[218年]] - [[222年]]
| 在位 = [[218年]] - [[222年]]
| 戴冠日 =
| 戴冠日 =
| 別号 = ウァリウス・アウィトゥス・バッス<BR>''Varius Avitus Bassianus''
| 別号 = ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス<BR>''Varius Avitus Bassianus''
| 全名 = カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス<BR>''Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus''
| 全名 = カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス<BR>''Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus''
| 継承者 = [[アレクサンデル・セウェルス]]
| 継承者 = [[アレクサンデル・セウェルス]]
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| 配偶者3 =[[:en:Annia Aurelia Faustina|アンニア・アウレリア・ファウスティナ]]
| 配偶者3 =[[:en:Annia Aurelia Faustina|アンニア・アウレリア・ファウスティナ]]
| 配偶者4 =[[:en:Hierocles (charioteer)|ヒエロクレス]](男性)
| 配偶者4 =[[:en:Hierocles (charioteer)|ヒエロクレス]](男性)
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| 王朝 =[[セウェルス朝]]
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| 母親 = [[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス・バッシアナ]]
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| 出生日 = [[203年]][[3月20日]]
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'''マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス'''({{lang-la|Marcus Aurelius Antoninus Augustus}}<ref>In [[Classical Latin]], Elagabalus' name would be inscribed as <small>MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS</small>.</ref>、[[203年]][[3月20日]] - [[222年]][[3月11日]])は、第23代ローマ皇帝で、[[セウェルス朝]]の第3代当主。'''ヘリオガバルス'''('''Heliogabalus''')という渾名で呼ばれるが多く、これは[[オリエント]]における[[ヘーリオス]]信仰派生系である太陽神[[エル・ガバル]]を信仰したことに由来する。
'''マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス'''({{lang-la|''Marcus Aurelius Antoninus Augustus''}}<ref>In [[Classical Latin]], Elagabalus' name would be inscribed as <small>MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS</small>.</ref>、[[203年]][[3月20日]] - [[222年]][[3月11日]])は、[[ローマ帝国]]第23代皇帝で、[[セウェルス朝]]の第3代当主。'''ヘリオガバルス'''(''Heliogabalus'' )、または'''エラガバルス'''(''Elagabalus'' )という[[渾名]]・[[通称]]で呼ばれることが多く、これは[[オリエント]]における[[ヘーリオス]]信仰より派生した[[太陽神]]の[[エル・ガバル]](「[[山の神]]」の意)を信仰したことに由来する<ref name=tsuru24>[[#鶴岡|鶴岡(2012)pp.24-31]]</ref>


[[セウェルス朝]]の初代皇帝[[セプティミウス・セウェルス]]の外戚あるバッシアヌス家出身で、元の本名は'''ウァリウス・アウィトゥス・バッス'''といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家追放されが、彼の母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]は密かに復権の謀議を画策した。血統上、カラカラ帝の従兄弟にあたるソエミアスは自身が夫とけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝の落胤であると主張して反乱を起こした。戦いは帝位を得ていたマクリヌスの敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目に僅か14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。
[[セウェルス朝]]の初代皇帝[[セプティミウス・セウェルス]]の[[外戚]]にるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名は'''ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス'''(''Varius Avitus Bassianus'')といった。セウェルスの長男であった[[カラカラ帝]]が暴政の末に[[暗殺]]されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されが、彼の母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]は密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した<ref group="注釈">セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスは、非ヨーロッパ人で初めて帝位に就いた[[セム語派|セム系]]のローマ皇帝で、皇帝就任以前は財務官やシリア軍団長を歴任した。セプティミウス・セウェルスは人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の子孫を名乗ることで、みずからの出自の属州的要素を薄めようとした。[[#松本|松本(1989)p.132]]</ref>。血統上、カラカラ帝の従にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラ隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌスの敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。


しかし彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されるとなった。ヘリオガバルスはめて退廃的性生活へと没頭し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった。また宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエルガバルを主神とするなど極端な政策を行った。
しかし彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった<ref name=kimura>[[#木村|木村(1988)p.658]]</ref>。また、[[宗教]]面でも従来の[[慣習]][[制度]]を全て無視してエルガバルを主神とするなど極端な政策を行った。


ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるとられているが<ref name=emperorsatbay>{{cite book |title=The Roman Empire at Bay: Ad 180?395 |first=David Stone |last=Potter |year=2004 |publisher=Routledge |isbn=0-415-10057-7}}</ref>、後世の歴史家も余り中立的ヘリオガバルスへ触れる事[[エドワード・ギボン]]にっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として'''最悪の暴君'''と評価している<ref name="Gibbon">Gibbon, Edward. ''Decline and Fall of the Roman Empire'', Vol. 1, Chapter 6.</ref>。「ヘリオガバルスという名印象は、彼自身退廃によって決定付けられた」と[[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]は評している<ref>Niebuhr, B.G. ''History of Rome'', p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."</ref>
ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるともみられているが<ref name=emperorsatbay>{{cite book |title=The Roman Empire at Bay: Ad 180?395 |first=David Stone |last=Potter |year=2004 |publisher=Routledge |isbn=0-415-10057-7}}</ref>、後世の歴史家から祭儀ふけって政治を顧みなかった皇帝として決して評判ない<ref name=kimura/><ref name=matsumoto>[[#松本|松本(1989)pp.132-137]]</ref>。『[[ローマ帝国衰亡史]]』で知られる[[18世紀]][[イギリス]]の歴史家[[エドワード・ギボン]]にいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として最悪の暴君評価を下している<ref name="Gibbon">Gibbon, Edward. ''Decline and Fall of the Roman Empire'', Vol. 1, Chapter 6.</ref>。[[19世紀]]前半[[ドイツ]]歴史家[[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]もまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の退廃について言及している<ref name=niebuhr>Niebuhr, B.G. ''History of Rome'', p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."</ref><ref group="注釈">ニーブールは、19世紀に活躍した[[コペンハーゲン]]出身のドイツの歴史家で、しばしば[[近代歴史学]]の祖のひとりと評される。</ref>。


==生涯==
== 生涯 ==
=== 生い立ちと皇帝即位までの経緯 ===
{{See|セウェルス朝}}
{{See|セウェルス朝}}
ヘリオガバルスは元老議員[[:en:Sextus Varius Marcellus|セクストゥス・ウァリウス・マルケ]]と、[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]の子として[[203年]]に生まれた<ref name="herodian-history-v-3">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre503.html V.3]</ref>。父マルケルスは騎士階級出身で、に元老院入りを果たした人物であった。母方の祖母[[ユリア・マエサ]]はセウェルス朝の開祖[[セプティミウス・セウェルス]]の皇妃[[ユリア・ドムナ]]のであった<ref name="dio-history-lxxix-30">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-30 LXXIX.30]</ref>。って母ソエミアスはセウェルスの嫡男である[[カラカラ]]とは[[従弟]]の関係にあり、皇帝家の一員であった<ref name="herodian-history-v-3"/>。幼少期のオガバルスは一族の生業である神官として養育されたとられてる。
皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)、[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員の父{{仮リンク|セクストゥス・ウァリウス・マルケ|en|Sextus Varius Marcellus}}と母{{仮リンク|ユリア・ソエミアス|en|Julia Soaemias}}の子として[[203年]]に[[シリア]]のエメサ(現在の[[ホムス]])で生まれた<ref name=tsuru24/><ref name="herodian-history-v-3">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre503.html V.3]</ref>。父マルケルスは[[騎士]]階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母[[ユリア・マエサ]]はエメサの町の[[祭司|大祭司]][[ユリウス・バッシアヌス]]の娘で、セウェルス朝の開祖[[セプティミウス・セウェルス]]の皇妃[[ユリア・ドムナ]]のであった<ref name=kimura/><ref name="dio-history-lxxix-30">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-30 LXXIX.30]</ref>。したがって、彼のユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男である[[カラカラ]]とは[[従弟]]の関係にあり、皇帝家の一員であった<ref name="herodian-history-v-3"/>。幼少期のウァウス・アウィトゥスは母方一族の生業である[[神官]]として養育されたとられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった<ref name=tsuru24/>。少年は長じ太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした<ref name=tsuru24/>。やがて皇帝とな少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていた<ref name=hidemura418>[[#秀村|秀村(1974)pp.418-420]]</ref>


[[217年]]、カラカラ帝[[ゲタ]]帝を殺害するなどの暴政によって元老院の信望を失うと皇帝は暗殺され近衛隊長[[マクリヌス|マルクス・オペリウス・マクリヌス]]が新たな皇帝となった。
残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で[[ゲタ]]帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失[[217年]][[4月8日]]、[[メソポタミア]]の[[ハッラーン]]で暗殺された<ref name=tsuru24/><ref name=matsumoto/>。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝には[[クーデター]]の首謀者であった[[近衛兵|近衛隊]]隊長[[マクリヌス|マルクス・オペリウス・マクリヌス]]が即位し<ref name=tsuru24/>


[[Image:Elagabalus Denarius Fides.jpg|thumb|left|300px|ヘリオガバルス帝を描いた[[デナリウス]]。彼の発行した通貨の多くには軍の忠誠を謳った文言が刻まれており、カラカラ帝の威光による軍の支持を重要視していた様子がえる。]]
[[ファイル:Elagabalus Denarius Fides.jpg|thumb|left|300px|ヘリオガバルス帝を描いた[[デナリウス]]。彼の発行した通貨の多くには軍の忠誠を謳った文言が刻まれており、カラカラ帝の威光による軍の支持を重要視していた様子がうかがえる。]]
即位したマクリヌス帝はセウェルス一族を宮殿から一掃するで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした<ref name="herodian-history-v-3"/>。だが中東の属州シリアへと幽閉されたセウェルス一族の、カラカラ帝の叔母[[ユリア・マエサ]]は孫であるヘリオガバルスを帝位にける謀らしていた<ref name="herodian-history-v-3"/>。オガバルは既に先カラカラとは[[女系]]を通じて親族あったが、帝位継承を更に正当化するべくマエサ意向を受けたソエミスは自らが従兄弟の妾であり、ヘリオガバルスが先帝の落胤であると主張した<ref name="herodian-history-v-3"/>。続いマエサはセウェルス家の富を駆使し、第3軍団「[[第3軍団ガッリカ|ガッリカ]]」の兵士や将軍買収して戦力を調達し。5月16日、軍団指揮官[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|ヴァレリウス・エウティキアヌス]]はヘリオガバルスへ忠誠正式に宣言した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-31 LXXIX.31]</ref>。挙兵に際し、ヘリオガバルスは「ヴァリウス・アウィトゥス・バッシヌス」とう名前を、カラカラの本名に準えて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」に改名した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-32 LXXIX.32]</ref>。
即位したマクリヌス帝は、[[北アフリカ]]の[[マウレタニア]]の出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした<ref name="herodian-history-v-3"/><ref name=hidemura418/>。それに対し、[[中東]]の属州シリア幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の叔母[[ユリア・マエサ]]はみずからの孫であるヘリオガバルスを帝位にける謀をめぐらした<ref name="herodian-history-v-3"/>。マクス帝は、その子息[[ディドゥメニアヌス]]と共同統治したが、東方大国[[パルティ]]に敗れ屈辱的な[[講和]]を結んだ、軍隊から信頼失っていた<ref name=hidemura418/>。


14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは[[女系]]を通じて親族であったが、[[未亡人]]となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラの[[妾]]だったと公言し、少年は先帝と[[密通]]して生まれたカラカラの[[落胤]]であると主張した<ref name=tsuru24/><ref name=kimura/><ref name="herodian-history-v-3"/>。これは、少年の[[祖母]]にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである<ref name=tsuru24/><ref group="注釈">ヘリオガバルスを皇帝にすえるという考えは、当初ユリア・マエサの愛人ガンニュスが発したものといわれている。ガンニュスは皇帝のローマ入城前、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑された。</ref>。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家の[[富]]を駆使して第3軍団「[[第3軍団ガッリカ|ガッリカ]]」の[[兵士]]や[[将軍]]を買収して自陣営の戦力を調達した。
ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、遠征軍内で軍団兵による内乱が発生してしまった。指揮官は暗殺され、兵士達は指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した<ref name="herodian-history-v-4">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre504.html V.4]</ref>。軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱を発狂した神官による暴挙とする手紙を元老院に書き送った<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-36 LXXIX.36]</ref>。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍とは異なりヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-38 LXXIX.38]</ref>。


[[218年]][[5月16日]]の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した<ref name=tsuru24/>。それに対し、軍団指揮官の[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|ヴァレリウス・エウティキアヌス]]はウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-31 LXXIX.31]</ref>。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-32 LXXIX.32]</ref>。
元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「[[:en:Legio II Parthica|パルティカ]]」の裏切りによって[[:en:Battle of Antioch (218)|アンティオキアの戦い]]において敗北した<ref name="herodian-history-v-4"/>。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ処刑された<ref name="herodian-history-v-4"/>。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子息[[ディドゥメニアヌス]]も処刑された<ref name="herodian-history-v-4"/>。


ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した<ref name="herodian-history-v-4">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre504.html V.4]</ref>。[[オリエント]]諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである<ref name=hidemura418/>。
アンティオキアでの勝利を持ってヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した<ref name="dio-history-lxxx-2">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-2 LXXX.2]</ref>。ローマの法に完全に違反した行為であったが、3世紀の皇帝達にはしばしば見られた行為ではあった。また同時にマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-1 LXXX.1]</ref>。結局の所、元老院は既成事実を追認する形でヘリオガバルスの帝位、そしてカラカラ帝の実子である事を承認した<ref name="herodian-history-v-5">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre505.html V.5]</ref>。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナを神として祭るという要求も承諾し<ref name="benario-soamias-mamaea">{{cite journal | last = Benario | first = Herbert W. | title = The Titulature of Julia Soaemias and Julia Mamaea: Two Notes | journal = Transactions and Proceedings of the American Philological Association | volume = 90 | pages = 9?14 | url = http://links.jstor.org/sici?sici=0065-9711%281959%2990%3C9%3ATTOJSA%3E2.0.CO%3B2-N | accessdate = 2007-08-04 | year = 1959 | doi = 10.2307/283691 | publisher = Transactions and Proceedings of the American Philological Association, Vol. 90 }}</ref>、逆にマクリヌス帝が「[[ダムナティオ・メモリアエ|名誉の抹殺]]」に処されることになった<ref name="dio-history-lxxx-2"/>。また新しい近衛隊長には反乱の立役者[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|ヴァレリウス・エウティキアヌス]]が任命された<ref name="dio-history-lxxx-4">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-4 LXXX.4]</ref>。


軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した[[神官]]による暴挙であると記した[[手紙]]をローマの[[元老院 (ローマ)|元老院]]に書き送った<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-36 LXXIX.36]</ref>。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/79*.html#78-38 LXXIX.38]</ref>。
===初期の治世===
[[Image:Elagabalus Denarius Fortuna Head.png|thumb|right|220px|ヘリオガバルス帝が描かれた[[デナリウス]]銀貨]]


元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「[[:en:Legio II Parthica|パルティカ]]」の裏切りによって[[:en:Battle of Antioch (218)|アンティオキアの戦い]]において敗北した<ref name="herodian-history-v-4"/>。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、[[カッパドキア]]で捕らえられ、斬首の刑に処せられた<ref name=tsuru24/><ref name="herodian-history-v-4"/>。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された<ref name="herodian-history-v-4"/>。
218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣達は[[ニコメディア]]で過ごしていたが<ref name="herodian-history-v-5"/>、歴史家カッシウス・ディオによればこの少年皇帝が問題を抱えた人物なのは既に明らかになっていたとされる。皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと諭した家庭教師を、ヘリオガバルスは不愉快に思って殺害したと伝えられる<ref name="dio-history-lxxx-6">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-6 LXXX.6]</ref>。同時期に[[ユリア・マエサ]]は神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身に纏ったヘリオガバルス帝の肖像を[[:en:Victoria (mythology)|ウィクトーリア]]女神像の前に掲げさせた<ref name="herodian-history-v-5"/>。元老議員は議事堂の[[:en:Victoria (mythology)|ウィクトーリア]]女神像に捧げ物をする習慣があったので、嫌でも神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をする形になった。


こうした振る舞いに後盾あった反マクリヌス派軍勢は早くもヘリオガバルスを推挙た事後悔始め<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#5 5]</ref>、[[:en:Gellius Maximus|ゲッリウス・キムス]]将軍率いられ第4軍団「[[:en:Legio IV Scythica|スキュティカ]]」、及び元老議員ウェルス扇動され第3軍団「[[第3軍団ガッリカ|ガッリカ]]」(彼ら反乱に加担てい)の兵士ニコメディアからローマ向かうヘリオガバルス帝を襲撃<ref name="dio-history-lxxx-7">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-7 LXXX.7]</ref>。だが反乱軍足並み揃わずに自壊し、[[第3軍団ガッリカ|ガッリカ]]消滅した<ref>{{cite web | last = van Zoonen | first = Lauren | title = Heliogabalus | url = http://www.livius.org/he-hg/heliogabalus/heliogabalus2.html#Life1 | year = 2005 | publisher = [http://www.livius.org/ livius.org] | accessdate = 2007-08-18 }}</ref>。
アンティオキアでの勝利をとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なに皇帝即位宣言<ref name="dio-history-lxxx-2">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-2 LXXX.2]</ref>。これは完全に、[[ロー]]の定める秩序違反し行為であったが、[[3世紀]]に即位した[[ローマ皇帝]]はしばしばみられ行為であった。また同時ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世批判する手紙を元老院に送付て行為の正当化を図っている<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-1 LXXX.1]</ref><ref group="注釈">本来的に、ローマの皇帝は元老員議員であること所与の条件とされ、元老院より「同輩中の首席」とて推挙されることが慣例となっていたが、[[五賢帝]]以後その慣例は有名無実化、帝位はもっぱら経済力や軍事力に左右され。[[#鶴岡|鶴岡(2012)p.28]]</ref>。


219年、[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|エウティキアヌス]]やマエサと共にローマへ入城したヘリオガバルス帝は、取り巻き達要職に就けて体制を固めた<ref name="herodian-history-v-7">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre507.html V.7]</ref>。例えばエウティキアヌスは近衛隊長続いて3度執政官叙任を受け、更に属州総督として2度派遣されている<ref name="dio-history-lxxx-4"/>。私生活の退廃も人事にも影響与え、男性の愛人であった奴隷[[:en:Hierocles (charioteer)|ヒエロクレス]]を共同皇帝にたり<ref name="dio-history-lxxx-15">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-15 LXXX.15]</ref>、別の愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している<ref name="dio-history-lxxx-16">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-16 LXXX.16]</ref>。
結局のところ元老院は、218の6月既成事実を追認するかちでヘリオガバルス、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した<ref name="herodian-history-v-5">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre505.html V.5]</ref>。同時暴君とそとして忌避されていたカラカラとユリア・ドムナを[[]]て祭るとい要求も承諾し<ref name="benario-soamias-mamaea">{{cite journal | last = Benario | first = Herbert W. | title = The Titulature of Julia Soaemias and Julia Mamaea: Two Notes | journal = Transactions and Proceedings of the American Philological Association | volume = 90 | pages = 9?14 | url = http://links.jstor.org/sici?sici=0065-9711%281959%2990%3C9%3ATTOJSA%3E2.0.CO%3B2-N | accessdate = 2007-08-04 | year = 1959 | doi = 10.2307/283691 | publisher = Transactions and Proceedings of the American Philological Association, Vol. 90 }}</ref>、逆にマリヌス帝が「[[ダムナティオ・メモリアエ|名誉抹殺]]」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった<ref name="dio-history-lxxx-2"/>。また新しい近衛隊長には反乱の立役者[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|ヴァレリウス・エウティキアヌス]]が任命された<ref name="dio-history-lxxx-4">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-4 LXXX.4]</ref>。


=== ローマ入城と初期の治世 ===
財政面では父と主張したカラカラがそうしたように銀の含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニヌス銀貨は廃止した<ref>Tulane University "Roman Currency of the Principate"[http://www.tulane.edu/~august/handouts/601cprin.htm]</ref>。
[[ファイル:Elagabalus Denarius Fortuna Head.png|thumb|right|220px|ヘリオガバルス帝が描かれた[[デナリウス]]銀貨]]


218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは[[小アジア]]のニコメディア(現[[トルコ共和国]]・[[イズミット]])で過ごしていたが<ref name="herodian-history-v-5"/>、同時代を生きた歴史家[[カッシウス・ディオ]]は、この少年皇帝が問題を抱えた人物であることは既に明らかになっていたと指摘している。新皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと諭した[[家庭教師]]を不愉快に思って殺害したと伝えられる<ref name="dio-history-lxxx-6">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-6 LXXX.6]</ref>。同時期に[[ユリア・マエサ]]は[[神官]]にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像を[[:en:Victoria (mythology)|ウィクトーリア]]女神像の前に掲げさせた<ref name="herodian-history-v-5"/>。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、嫌でも神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。
初期の統治で部分的ながらまともな統治が行われていたのは、祖母[[ユリア・マエサ]]と母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]による執政が行われていた為と考えられている<ref name="augusta-elagabalus-i-4">''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#4 4]</ref>。この野心に満ちた二人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(''Clarissima'')、マエサは「元老院の女神」(''Mater Castrorum et Senatus'')をそれぞれ授与された<ref name="benario-soamias-mamaea"/>。実権を掌握して女帝に近い振る舞いを見せる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は何ら意見できず、ただの傀儡でしかなかった。


こうした振る舞いに、後盾であった反マクリヌス派の軍勢は早くもヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#5 5]</ref>、[[:en:Gellius Maximus|ゲッリウス・マキムス]]将軍に率いられた第4軍団「[[:en:Legio IV Scythica|スキュティカ]]」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「[[第3軍団ガッリカ|ガッリカ]]」(彼らは反乱に加担し、ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっている<ref name="dio-history-lxxx-7">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-7 LXXX.7]</ref>。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した<ref>{{cite web | last = van Zoonen | first = Lauren | title = Heliogabalus | url = http://www.livius.org/he-hg/heliogabalus/heliogabalus2.html#Life1 | year = 2005 | publisher = [http://www.livius.org/ livius.org] | accessdate = 2007-08-18 }}</ref>。
===宗教政策===
[[Image:Elagabalus Aureus Sol Invictus.png|thumb|left|310px|アウレリウス金貨に描かれたヘリオガバルス帝。裏面にはヘロディアヌスが伝えるようにエルガバルの化身とされた黒曜石が戦車に乗せられてパレードを行っている様子が描かれている。]]
[[セプティミウス・セウェルス]]帝の時点でローマ国内には太陽神信仰が流行する傾向にあり<ref>{{cite book | last = Halsberghe | first = Gaston H. | title = The Cult of Sol Invictus | year = 1972 | location = Leiden | page = 36|publisher= Brill }}</ref>、先に述べたように太陽神信仰の一つである[[エルガバル]]を奉じる神官であったヘリオガバルス帝はこれを好機と捉え、エルガバルを古代ローマの多神教における最高神に位置づけるべく「デウス・ソル・インウィクトクス」と尊称させ、天空神[[ユピテル]]をも従える存在とした<ref name="dio-history-lxxx-11">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-11 LXXX.11]</ref>。同時に天空神ユピテルに従うとされていた[[カピトリヌスの三女神]]も[[エルガバル]]の妻とされ、権威を高めようとした<ref name="herodian-history-v-6">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre506.html V.6]</ref>。


皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた([[隕石]])と信じられていた、底が平らで先の尖った[[円錐]]形の形状をもつ巨大な「黒い石」を[[御神体]]としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、[[219年]]の初秋、ようやくローマに到着した<ref name=tsuru24/>。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える[[紫色]]の地に[[錦糸]]をあしらった[[司祭]]服を着用し、[[ネックレス]]や[[腕輪]]など豪奢な装身具をほどこし、頭上に[[宝石]]を散りばめた[[帝冠]]をいただいたうえで[[女装]]していたからである<ref name=tsuru24/>。
更にヘリオガバルス帝は「神々に身を捧げる」という意図から処女を貫かねばならない戒律([[ウェスタの処女]])を持つ巫女[[:en:Aquilia Severa|アクウィリア・セウェラ]]との結婚を認めさせ、「神の子」を生み出そうとした<ref name="dio-history-lxxx-9">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-9 LXXX.9]</ref>。本来であれば[[ウェスタの処女]]を辱めたものは神の罰を避ける為に生き埋めにされると決められており、ローマにおける宗教的慣例を踏み躙る事を意味した<ref>Plutarch, ''Parallel Lives'', Life of Numa Pompilius, [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Numa*.html#10 10]</ref>。


[[:en:Valerius Comazon Eutychianus|エウティキアヌス]]やマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、取り巻きたちを要職に就けて体制を固めた<ref name="herodian-history-v-7">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre507.html V.7]</ref>。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている<ref name="dio-history-lxxx-4"/>。[[私生活]]の退廃も人事にも影響を与え、男性の愛人であった[[奴隷]]の[[:en:Hierocles (charioteer)|ヒエロクレス]]を共同皇帝にしようとしたり<ref name="dio-history-lxxx-15">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-15 LXXX.15]</ref>、別の愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している<ref name="dio-history-lxxx-16">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-16 LXXX.16]</ref>。
独自の宗教政策の果てにヘリオガバルス帝は「[[:en:Elagabalium|ヘリオガバリウム]]」と呼ばれる巨大な[[エルガバル]]神の宮殿をパラティーノの丘に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ[[黒曜石]]を神具として崇拝させた<ref name="herodian-history-v-5"/>。歴史家[[ヘロディアヌス]]によれば「黒曜石は神界からの賜り物の如く崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エルガバルの姿を描いていると信じられていた<ref name="herodian-history-v-3"/>。新たなる崇拝における信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も[[割礼]]を行い<ref name="dio-history-lxxx-11"/>、踊り子として祭壇の前で舞う様子を元老院議員に見る事を強要した<ref name="herodian-history-v-5"/>。民衆は神殿で皇帝が神の賜りとして配る食事を目当てに神殿の祝祭に殺到したと伝えられる<ref name="herodian-history-v-6"/>。そしてこの祝祭の仕上げに金細工や宝石類で飾り付けた馬引きの戦車に、黒曜石を載せて街中を凱旋させたとヘロディアヌスは記録している。

財政面では、カラカラがそうしたように[[銀]]の含有量を減らして[[デナリウス|デナリウス銀貨]]の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始した[[アントニニアヌス|アントニニアヌス銀貨]]は廃止した<ref>Tulane University "Roman Currency of the Principate"[http://www.tulane.edu/~august/handouts/601cprin.htm]</ref>。

ヘリオガバルス帝の初期の治世で部分的ながらまともな統治が行われていたのは、祖母[[ユリア・マエサ]]と母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]による執政が行われていたためと考えられている<ref name="augusta-elagabalus-i-4">''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#4 4]</ref>。この野心に満ちた2人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(''Clarissima'')、マエサは「元老院の女神」(''Mater Castrorum et Senatus'')をそれぞれ授与された<ref name="benario-soamias-mamaea"/>。実権を掌握してまるで[[女帝]]のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は何ら自分の意見を表明できない、ただの[[傀儡]]でしかなかった。少年皇帝は、祖母と母から甘やかされて育ち、浪費家で、政治的には無能力だったのである<ref name=hidemura418/>。

=== 皇帝の結婚 ===
[[ファイル:Aquilia Severa coin obverse.png|thumb|right|2度目の妻として迎えられ、のちに再度[[結婚]]することになる「[[ウェスタの処女]]」[[:en:Aquilia Severa|アクウィリア・セウェラ]]。后妃としてデナリウスに描かれている。]]

少年皇帝が最初に結婚した相手は{{仮リンク|ユリア・コルネリア・パウラ|en|Julia Cornelia Paula}}という女性であり、[[220年]]に豪奢な[[結婚式]]が挙行されている<ref name=tsuru24/>。このとき、ローマ市民や兵士に対しても御祝儀が大盤振る舞いされたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲が決めた[[政略結婚]]であったと考えられている<ref name="herodian-history-v-6"/>。彼女は[[アウグストゥス (称号)|アウグスタ]]([[皇后]])の称号を得たものの、この結婚生活は長く続かず、その年のうちに2人は[[離婚]]した。パウラが皇帝の異常ともいえる[[性愛]]に応えられないというのが離婚の理由であった<ref name=tsuru24/>。

皇帝はパウラと離婚すると、220年末に「[[ウェスタの処女]]」たる[[巫女]]の{{仮リンク|アクウィリア・セウェラ|en|Aquilia Severa}}を手篭めにして[[再婚]]した<ref name="herodian-history-v-6"/>。[[竈]](かまど)の神[[ウェスタ]]に仕える巫女は共同生活を送り、聖なる[[火]]を絶やさぬことを務めとしていた<ref name=tsuru24/><ref name=eliade>[[#エリアーデ|エリアーデ(2000)pp.168-169]]</ref>。幼少時に神職に召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ[[処女]]を貫くことが求められ、その禁忌を破った場合には生きたまま穴埋めされるという恐ろしい[[掟]]があった<ref name=eliade/>。しかし、ヘリオガバルスはそのような掟は意に介せず、彼女と結ばれれば、神のような子どもが授かると信じ、彼女に禁忌を犯させてでも結婚を強要したのである<ref name=tsuru24/>。

禁断の結婚に対する周囲の批判からほどなく、結婚半年でアクウィリアとの婚姻を解消したのち、[[221年]][[7月]]に3度目の[[妻]]として迎えたのは美貌で知られた{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ファウスティナ|en|Annia Faustina}}であった<ref name="herodian-history-v-6"/>。彼女は、[[五賢帝]]のひとりで哲人皇帝として知られた[[マルクス・アウレリウス]]の曾孫で、その子であり暴君として暗殺された[[コモドゥス]]帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたる[[ネルウァ=アントニヌス朝]]との連続性を主張する政治的意図があったとみられる。実は、アンニア・ファウスティナには{{仮リンク|ポンポニウス・バッスス|en|Pomponius Bassus (consul 211)}}という[[夫]]があり、そのあいだに一男一女があったが、この夫を処刑しての結婚であった<ref name=tsuru24/>。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し、結局ヘリオガバルスはセウェラとよりを戻して4度目の結婚を果たした。

=== 宗教改革 ===
[[ファイル:Elagabalus Aureus Sol Invictus.png|thumb|left|310px|アウレリウス金貨に描かれたヘリオガバルス帝。裏面にはヘロディアヌスが伝えるようにエル・ガバルの化身とされた黒石が戦車に乗せられてパレードを行っている様子が描かれている。]]

[[セプティミウス・セウェルス]]帝のとき、[[ローマ帝国]]のなかでは太陽神信仰が流行する傾向にあり<ref>{{cite book | last = Halsberghe | first = Gaston H. | title = The Cult of Sol Invictus | year = 1972 | location = Leiden | page = 36|publisher= Brill }}</ref>、皇帝自身、先に述べたように太陽神信仰の一つである[[エル・ガバル]]を奉じる神官であった。シリアはもともと[[母系]]制の社会であったが、女性は太陽神の祭司にはなれないことになっていた。[[多神教]]の社会であったローマでは宗教に寛容であり、領域拡大にともない各地の土着神を受け入れていた。古くからローマでは太陽神として[[ソール (ローマ神話)|ソール]]が知られ、しばしば[[ローマ神話]]にも登場しており、また、[[ペルシャ]]の太陽神[[ミトラス]]を奉ずる密儀宗教、[[ミトラ教]]も信じられていた。ただし、ミトラ教が女人禁制であるのに対し、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。

ヘリオガバルス帝はローマでのこうした太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エル・ガバルを[[古代ローマ]]の[[多神教]]における最高神に位置づけるべく「デウス・ソール・インウィクトクス」と尊称させ、天空神[[ユピテル]]をも従える存在とした<ref name="dio-history-lxxx-11">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-11 LXXX.11]</ref>。さらに、ユピテルに従うとされていた[[カピトリヌスの三女神]]をエル・ガバルの妻と位置づけ、その権威を高めようとした<ref name="herodian-history-v-6">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre506.html V.6]</ref>。ここにローマは、かつての[[ポエニ戦争]]以来敵対してきた[[セム語|セム]]系の神、神官およびそれを操る女性たちの支配を受けることとなった<ref name=hidemura418/>。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝の正式の称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した<ref name=hidemura418/>。

さらに、ヘリオガバルス帝は上述したように処女を保つ[[戒律]]を持っていた巫女アクウィリア・セウェラとの結婚を周囲に認めさせ、神官同士の交わりによって「神の子」を生み出そうとした<ref name=hidemura418/><ref name="dio-history-lxxx-9">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-9 LXXX.9]</ref>。本来であれば「[[ウェスタの処女]]」を辱めた者は殺され、この禁忌を破った巫女もまた神の罰を避けるために生きたまま土に埋められると決められており、皇帝の行為はローマにおける宗教的慣例を踏みにじる暴挙であった<ref name=eliade/><ref>Plutarch, ''Parallel Lives'', Life of Numa Pompilius, [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Numa*.html#10 10]</ref><ref group="注釈">ウェスタの巫女は、6歳から10歳までの少女のなかからローマの大神官によって選ばれた6人によって構成され、30年間、カマドの神に身を捧げることになっていた。彼女たちはローマの都の火を絶やさぬことによって市民を保護した。その宗教性は彼女たちの処女性にもとづくが、その禁忌の違反に対する生き埋めの刑に関しては類似の民俗事例に乏しく、きわめて独特のものである。また、他の神殿はローマも含めほとんどすべて[[方形]]をなすのに対し、ウェスタの聖域は[[円形]]をなしており、その点でも特異である。[[#エリアーデ|エリアーデ(2000)pp.168-169, 172-173]]</ref>。

独自の宗教政策の果てに、ヘリオガバルス帝は「[[:en:Elagabalium|ヘリオガバリウム]]」と呼ばれる巨大なエル・ガバル神の宮殿をローマの[[パラティーノの丘]](パラティヌスの丘)に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、[[牛]]や[[羊]]が[[生け贄]]として捧げられた<ref name="herodian-history-v-5"/>。歴史家[[ヘロディアヌス]]によれば「黒石は神界からの賜り物のごとく崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エル・ガバルの姿を描いていると信じられていた<ref name="herodian-history-v-3"/>。新たな崇拝対象への信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も[[割礼]]を行い<ref name="dio-history-lxxx-11"/>、元老院議員に対し、みずから[[踊り子]]として[[祭壇]]の前で舞う姿をみるよう強要した<ref name="herodian-history-v-5"/>。ローマの民衆は、神殿で皇帝が神からの賜りとして配る[[食事]]を目当てに神殿の[[祝祭]]に殺到したと伝えられる<ref name="herodian-history-v-6"/>。そして、この祝祭の仕上げに、「黒い石」が金細工や[[宝石]]類で飾り付けた馬引きの[[戦車]]に載せられ、[[砂金]]の敷かれた道を運ばれて街中を凱旋したようすを[[ヘロディアヌス]]は記録している。


{{quotation|6頭もの巨大な白馬に引かれた二輪戦車は金銀細工で飾られる絢爛なものだったが、異様にも誰も乗っておらず無人で走らされていた。しかしその周囲には護衛の兵士が併走しており、ちょうど無人の豪華なる戦車に「神が乗っている」事を想定しているようであった。ヘリオガバルス帝はその後ろから神に従うように馬を走らせていた<ref name="herodian-history-v-6"/>。}}
{{quotation|6頭もの巨大な白馬に引かれた二輪戦車は金銀細工で飾られる絢爛なものだったが、異様にも誰も乗っておらず無人で走らされていた。しかしその周囲には護衛の兵士が併走しており、ちょうど無人の豪華なる戦車に「神が乗っている」事を想定しているようであった。ヘリオガバルス帝はその後ろから神に従うように馬を走らせていた<ref name="herodian-history-v-6"/>。}}


ヘリオガバリウムには帝国中の神具や神器が集められ、キュベレー神殿・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や[[パラディウム|トロイのパラディウム像]]や[[:en:Ancile|マルスの盾]]などが持ち込まれた。こうした行為はヘリオガバリウムこそが帝国唯一の[[聖地]]となるべきとヘリオガバルス帝の命令によるものであった<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#3.4 3]</ref>。
ヘリオガバリウムには帝国中の神具や神器が集められ、[[キュベレー神殿]]・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や[[パラディウム|トロイのパラディウム像]][[:en:Ancile|マルスの盾]]」、「ウェスタの聖火」などが持ち込まれた。こうした行為はヘリオガバリウムこそがローマ帝国唯一の[[聖地]]となるべきと考え帝の命令によるものであった<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#3.4 3]</ref>。


===性的倒錯===
=== 退廃と性的倒錯 ===
急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名にしたのは、倒錯的かつ退廃した性生活に関する[[逸話]]である。そもそもヘリオガバルスは、正式な結婚生活すら4回の離婚と5回の「結婚」を繰り返しているのである<ref name="dio-history-lxxx-9"/>。
[[Image:Aquilia Severa coin obverse.png|thumb|right|2度目の妻として迎えられ、後に再々度結婚することになる[[ウェスタの処女]]で巫女の[[:en:Aquilia Severa|アクウィリア・セウェラ]]。后妃としてデナリウスに描かれている。]]


「ウェスタの処女」セウェラとよりを戻し、4度目の結婚をしたはずの皇帝であったが、その年のうちにまたも離婚した<ref name="dio-history-lxxx-9"/>。今度は、こともあろうに小アジア出身の[[カリア人]]奴隷で、しかも男性であるヒエロクレスの「[[妻]]」としての結婚を宣言した<ref name="dio-history-lxxx-15"/><ref name=tsuru31>[[#鶴岡|鶴岡(2012)pp.31-33]]</ref>。これが、5度目の「結婚」であった。さらに『[[ローマ皇帝群像]]』によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている<ref name=autogenerated1>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#10 10]</ref>。
急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名足らしめるのは倒錯的かつ退廃した性生活に関する伝承で、そもそも正式な結婚すら4回の離婚と5回の結婚を繰り返している<ref name="dio-history-lxxx-9"/>。最初に結婚した相手は[[:en:Julia Cornelia Paula|ユリア・コルネリア・パウラ]]という女性で、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であることから皇帝即位時に周囲が決めた政略結婚であったと見られる<ref name="herodian-history-v-6"/>。だがヘリオガバルス帝は早々とパウラと離婚すると、前述したように戒律を破らせてまで[[ウェスタの処女]]たる巫女[[:en:Aquilia Severa|アクウィリア・セウェラ]]を手篭めにして再婚した<ref name="herodian-history-v-6"/>。周囲の批判から程なくアクウィリアとの婚姻を解消した後、三度目の妻として迎えたのは[[:en:Annia Aurelia Faustina|アンニア・アウレリア・ファウスティナ]]であった<ref name="herodian-history-v-6"/>。彼女はかの賢帝[[マルクス・アウレリウス]]の曾孫で、その子であり暴君として暗殺された[[コモドゥス]]帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたる[[ネルウァ=アントニヌス朝]]との連続性を主張する政治的意図があったと見られる。


皇帝は、[[公共浴場]]へ行っては女風呂に入って女性たちに脱毛剤を塗ってやったとか、毎晩、怪しげな女たちをベッドルームに連れ込んで彼女たちの痴態を観察するなどの淫行を繰り返した<ref name=tsuru31/>。また、[[密偵]]を放ち、[[ペニス]]の巨大な男性を探させて宮廷に連れて来させ、情事を楽しんだ<ref name=tsuru31/>。皇帝は[[芝居]]をしながら、突然全裸になり、片手を[[胸]]に片手を[[陰部]]に当ててひざまずき、巨根の男に向かってお尻を突き出して[[腰]]を前後運動させたという<ref name=tsuru31/>。猟奇的な逸話としては、神殿内で飼育している[[猛獣]]に切り落とした[[男性器]]をエサとしてあたえたというものまで伝わっている。『皇帝列伝』は、以下のように伝える。
ところがその年の内にまたもや離婚し<ref name="dio-history-lxxx-9"/>、今度は事もあろうに奴隷でしかも男性であるヒエロクレスの「妻」として結婚を宣言した<ref name="dio-history-lxxx-15"/>。さらに「[[ローマ皇帝群像]]」によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている<ref name=autogenerated1>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/1*.html#10 10]</ref>。カッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の性的倒錯を記録し、同性愛だけでなく女装癖があったとして実際にその現場を見たとまで記録している。カッシウスは「皇帝は何時しか男を漁る為に酒場に入り浸る習慣を持ち、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と批判している<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-14 LXXX.14]</ref>。


{{quotation|…皇帝は自分の全身を脱毛させていた。いかにも健康そうにみえ、最大限の肉欲を起こさせる身体でいることこそ、人生最大の楽しみと考えていたからだ。}}
元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウスは、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで売春宿にするという醜態まで晒したと記録している。


元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の性的倒錯を記録し、同性愛ばかりではなく女装癖があったとして実際にその現場を見たことを記録している。カッシウスは、以下のように伝える。
{{quotation|…遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンを掴んで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らい声で甘えるのだった<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-13 LXXX.13]</ref>。}}


{{quotation|…皇帝は自分の性器をそっくり切り落とそうと考えたが、そうしたことを思いつくのも性格が女性的だったからだ。かれが実際に受けた手術は割礼で、これは太陽神の司祭として必要なことの一つだった。そのため彼は、仲間の多くにも同じことをさせた。}}
ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は化粧でこうした行為の為に相応しい容貌を得ていたという<ref name="herodian-history-v-6"/>。売春の一方でヒエロクレスに妻として従い、性転換を行える医師を高額で募集していたとまで言われている<ref name="dio-history-lxxx-16"/>。この事からヘリオガバルス帝の性癖について同性愛や両性愛というより、[[トランスジェンダー]]の一種として見る論者も多い<ref>{{cite book | last = Benjamin | first = Harry | last2 = Green | first2 = Richard | title = The Transsexual Phenomenon, Appendix C: Transsexualism: Mythological, Historical, and Cross-Cultiral Aspects. | publisher = The Julian Press, inc | year = 1966 | location = New York | url = http://www.symposion.com/ijt/benjamin/appendix_c.htm | accessdate = 2007-08-03 }}</ref><ref name="glbtq-enc-elagabal">{{cite encyclopedia | last = Godbout | first = Louis | title = Elagabalus | encyclopedia = GLBTQ: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture | publisher = glbtq, Inc | location = Chicago | year = 2004 | url = http://www.glbtq.com/social-sciences/elagabalus.html | accessdate = 2007-08-06 }}</ref>。


カッシウスはまた、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と叙述してこれを非難し<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-14 LXXX.14]</ref>、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで[[売春]]宿にするという醜態まで晒したと記録している。
===暗殺===
221年、度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており<ref name="dio-history-lxxx-15"/>、近衛隊も皇帝の異常な狼藉に激しい嫌悪を感じていた<ref name="herodian-history-v-7"/>。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高め、王族内でも影の実力者である祖母[[ユリア・マエサ]]が孫を見切りつつあったが、共に実権を握っていたヘリオガバルスの母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]は宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた<ref name="herodian-history-v-7"/>。そこでマエサは長女ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、もう一人の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、ヘリオガバルス帝に従兄弟を養子にするように認めさせた<ref name="herodian-history-v-7"/>。しかし途中でヘリオガバルス帝は近衛兵隊がアレクサンデルに接近し始めた事から危機感を覚え、養子縁組を取り消した<ref name="herodian-history-v-8">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre508.html V.8]</ref>。


{{quotation|…遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らい声で甘えるのだった<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-13 LXXX.13]</ref>。}}
ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを幽閉して、近衛兵達には既に死亡したと伝えて動揺させようとした<ref name="herodian-history-v-8"/>。だがこれが彼の命取りとなった。近衛隊は動揺するどころが逆に激怒して反乱を起こし、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るように要求した<ref name="herodian-history-v-8"/>。恐れをなしたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従兄弟を解放した。3月11日に近衛隊の城砦に逃れたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、誰もがヘリオガバルスへの忠誠を続ける事を拒絶した。軍は即座に彼を指導者にして反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した<ref name="herodian-history-v-8"/>。


ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は顔を[[化粧]]することにより、こうした行為のためにふさわしい容貌をもつようになっていたという<ref name="herodian-history-v-6"/>。
全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスと共に反乱軍に捕らえられ、[[カッシウス・ディオ]]によれば揃って処刑されたと伝えられる。


皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、[[男娼]]として売春する一方、[[金髪]]の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた<ref name=tsuru31/>。厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結んだ<ref name=tsuru31/>。これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ<ref name=tsuru31/>。そして、皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだという<ref name=tsuru31/>。また、[[性転換手術]]を行える[[医師]]を高報酬で募集していたともいわれている<ref name="dio-history-lxxx-16"/>。このことからヘリオガバルス帝の性癖について、これを同性愛や両性愛というより、[[トランスジェンダー]]の一種として考える論者も多い<ref>{{cite book | last = Benjamin | first = Harry | last2 = Green | first2 = Richard | title = The Transsexual Phenomenon, Appendix C: Transsexualism: Mythological, Historical, and Cross-Cultiral Aspects. | publisher = The Julian Press, inc | year = 1966 | location = New York | url = http://www.symposion.com/ijt/benjamin/appendix_c.htm | accessdate = 2007-08-03 }}</ref><ref name="glbtq-enc-elagabal">{{cite encyclopedia | last = Godbout | first = Louis | title = Elagabalus | encyclopedia = GLBTQ: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture | publisher = glbtq, Inc | location = Chicago | year = 2004 | url = http://www.glbtq.com/social-sciences/elagabalus.html | accessdate = 2007-08-06 }}</ref>。
{{quotation|…怯えたヘリオガバルスは衣類箱の中に隠れて宮殿から逃げようとしたが、あえなく反乱軍に見つけられて広場に引き出された。先に捕らえられていたソエミアスは泣き喚きながら息子に縋りついたが、兵士達は親子をその場で殺害した。ヘリオガバルスとソエミアスの首は切り落とされ、首の無い親子の遺体は裸体で馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首と共に川へ投げ出された<ref name="dio-history-lxxx-20">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-20 LXXX.20]</ref>。}}


=== 皇帝の最期 ===
皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスのような取り巻き達は一掃され<ref name="dio-history-lxxx-20"/>、エルガバル神も地方の土着信仰へと戻された<ref name="herodian-history-vi-1">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre601.html VI.6]</ref>。女性の元老院への関与も明確に禁止され<ref name="augusta-elagabalus-i-4"/><ref>{{cite book | last = Hay | first = J. Stuart | title = The Amazing Emperor Heliogabalus | location = London | publisher = MacMillan | year = 1911 | url = http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm | archiveurl = http://web.archive.org/web/20080202104958/http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm | archivedate = 2008-02-02 | page = 124 | accessdate = 2008-05-03}}</ref>、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受ける事になった<ref>''Augustan History'', Life of Severus Alexander [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Severus_Alexander/1*.html#1 1]</ref>。
度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており<ref name="dio-history-lxxx-15"/>、近衛隊も皇帝の異常な狼藉に激しい嫌悪を感じていた<ref name="herodian-history-v-7"/>。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。


エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、[[楽器]]を打ち鳴らす怪しげな女の一団を引き連れて淫蕩な踊りを舞いながら神殿に向かい、屠殺した[[獣]]の[[血]]を混ぜた[[ワイン]]を捧げ、[[香]]をたいた<ref name=tsuru31/>。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もが[[トランス (意識)|トランス状態]]になったとき、皇帝は[[少年]]を[[生け贄]]として神殿に捧げたという<ref name=tsuru31/>。この所業に対しては、ついにローマ市民の多くも怒りの声をあげた<ref name=tsuru31/>。
==評価==
[[Image:The Roses of Heliogabalus.jpg|left|thumb|320px|「'''ヘリオガバルスの薔薇'''」[[ローレンス・アルマ=タデマ]](1888年)]]
===ローマ皇帝群像===
彼の評伝については、当時の歴史書における常として後に即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張の中で特に有名なのが『ローマ皇帝群像』が主張する「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする噂であり、このエピソードは有名な[[ローレンス・アルマ=タデマ]]の絵画「'''ヘリオガバルスの薔薇'''」のモチーフとされている<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/2*.html#21 21]</ref>。


王族内においても、影の実力者である祖母[[ユリア・マエサ]]が孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母[[:en:Julia Soaemias|ユリア・ソエミアス]]だけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた<ref name="herodian-history-v-7"/>。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたる[[アレクサンデル・セウェルス]]を後継者とする計画を立て、[[221年]]、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを[[養子]]にするよう認めさせ、アレクサンデルには[[カエサル (称号)|カエサル]](副帝)の称号を名乗らせた<ref name="herodian-history-v-7"/>。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった<ref name=hidemura418/>。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した<ref name="herodian-history-v-8">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre508.html V.8]</ref>。アレクサンデルは、ヘリオガバルスとは異なり、実直な性格で近衛兵からの人気が高かった。
現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、ヘリオガバルス伝の殆どは信用に値しないと見なされている<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | page = 218 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。そもそも『ローマ皇帝群像』は遥か後年の4世紀頃に編纂された歴史書であり<ref>{{cite book | last = Cizek | first = Eugen | title = Histoire et historiens a Rome dans l’Antiquite | year = 1995 | location = Lyon | publisher = Presses universitaires de Lyon | page = 297 }}</ref>、加えて捏造や創作が非常に多い事で知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした嘘が含まれていると見るのが自然である<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | page = 263 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。ただし第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在すると見られ、現在でも意義を認められている<ref>{{cite journal | last = Butler | first = Orma Fitch | title = Studies in the life of Heliogabalus | journal = University of Michigan studies: Humanistic series IV | year = 1910 | location = New York | publisher = MacMillan | page = 140 }}</ref>。


ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを[[幽閉]]し、近衛兵たちには既に死亡したと伝えて動揺を誘おうとした<ref name="herodian-history-v-8"/>。しかし、これが逆に彼の命取りとなった。近衛隊は動揺するどころか激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう強く求めた<ref name="herodian-history-v-8"/>。恐れをなしたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。[[3月11日]]、近衛隊の城砦に逃れたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士の誰もがヘリオガバルスに対し忠誠を継続することを拒んだ。近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した<ref name="herodian-history-v-8"/>。
===カッシウス・ディオ===
同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ退廃や性的倒錯について多くを記録し、厳しい批判を展開している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知る上での第一の文献として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが幾分の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。


全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きた[[カッシウス・ディオ]]によれば、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえ[[テヴェレ川]]に捨てられたという<ref name=tsuru31/>。
ただしカッシウスも何ら歴史家として不誠実ではなかったとするのは中立的でない。「ローマ史」の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家達からの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | pages = 145?146 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。


{{quotation|…怯えたヘリオガバルスは衣類箱の中に隠れて宮殿から逃げようとしたが、あえなく反乱軍に見つけられて広場に引き出された。先に捕らえられていたソエミアスは泣き喚きながら息子にすがりついたが、兵士たちは親子をその場で殺害した。ヘリオガバルスとソエミアスの首は切り落とされ、首のない親子の遺体は裸体で馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首とともに川へ投げ出された<ref name="dio-history-lxxx-20">Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/80*.html#79-20 LXXX.20]</ref>。}}
===ヘロディアヌス===
[[File:Medal of Elagabalus.jpg|thumb|「ヘリオガバルスのメダル」([[ルーヴル美術館]])]]
ヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同じ時代の目撃者として記録を残した歴史家で、コモドゥス帝の即位からゴルディアヌス3世の暗殺までを記録した『ローマ人の歴史』を残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複してるが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で意味を持つ<ref name="livius-herodian">{{cite web | last = Lendering | first = Jona | authorlink = Jona Lendering | title = Herodian | year = 2004 | url = http://www.livius.org/he-hg/herodian/herodian.html | publisher = Livius.org | accessdate = 2008-05-03}}</ref>。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分より中立的に皇帝達の動向を残す事に務めている。彼の関心の多くは性的退廃より宗教政策についてであり、その詳細な内容はエルガバル信仰を調べる上で重要な記録となっており、実際に後の研究<ref>{{cite book | last = Cohen | first = Henry | authorlink = Henry Cohen (numismatist) | title = Description Historiques des Monnaies Frappees sous l’Empire Romain (8 volumes) | year = 1880?1892 | location = Paris | page = 40 }}</ref><ref>{{cite book | last = Babelon | first = Ernest Charles Francois | title = Monnaies Consulaires II | year = 1885?1886 | location = Bologna | publisher = Forni | pages = 63?69 }}</ref>と考古学的調査で裏付けられている<ref>''[[Corpus Inscriptionum Latinarum]]'', CIL II: 1409, 1410, 1413 and CIL III: 564?589.</ref>。


皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちは一掃され<ref name="dio-history-lxxx-20"/>、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに返され、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと戻された<ref name=hidemura418/><ref name="herodian-history-vi-1">Herodian, ''Roman History'' [http://www.livius.org/he-hg/herodian/hre601.html VI.6]</ref>。女性の元老院への関与も明確に禁止され<ref name="augusta-elagabalus-i-4"/><ref>{{cite book | last = Hay | first = J. Stuart | title = The Amazing Emperor Heliogabalus | location = London | publisher = MacMillan | year = 1911 | url = http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm | archiveurl = http://web.archive.org/web/20080202104958/http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm | archivedate = 2008-02-02 | page = 124 | accessdate = 2008-05-03}}</ref>、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった<ref>''Augustan History'', Life of Severus Alexander [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Severus_Alexander/1*.html#1 1]</ref>。
===エドワード・ギボン===
近代の歴史家で『ローマ帝国衰亡史』で激しくヘリオガバルスを批判した。


新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであった<ref group="注釈">新皇帝のアレクサンデル・セウェルスもまた、母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺されている。[[#松本|松本(1989)p.133]]</ref>。
{{quotation|ヘリオガバルスの異常な性欲はウェスタの処女を辱め、多くの妻を取り替えただけでは満足しなかった。女装する事に愉悦を覚え、恋人達を有力者にすることで帝国の尊厳を汚し続けた。(中略)…ヘリオガバルスの伝承はある程度脚色された部分を持つだろう。しかしそれを前提にしてもヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった<ref name="Gibbon"/>。}}


== 人物評価 ==
=== 『ローマ皇帝群像』 ===
[[ファイル:The Roses of Heliogabalus.jpg|left|thumb|310px|「'''ヘリオガバルスの薔薇'''」[[ローレンス・アルマ=タデマ]](1888年)]]
『[[ローマ皇帝群像]]』は、帝政ローマの時代の人物によって叙述されたと考えられるローマ皇帝の伝記集であるが、編纂の詳細な時期・地域は不明であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人の著者」といわれている。

ヘリオガバルスの評伝については、当時の歴史書における常として、のちに即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張のなかで特に有名なのが『ローマ皇帝群像』のなかにある「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話であり、このエピソードは有名な[[ローレンス・アルマ=タデマ]]の絵画「'''ヘリオガバルスの薔薇'''」のモチーフとされている<ref>''Augustan History'', Life of Elagabalus [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Elagabalus/2*.html#21 21]</ref>。これは、ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大な[[幕]]を張り、幕の上に大量の[[薔薇]]の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を[[窒息死]]させたという風評にちなんでいるが、真偽のほどは明らかでない。

現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、「ヘリオガバルス伝」のほとんどは信用に値しないと見なされている<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | page = 218 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。そもそも『ローマ皇帝群像』ははるか後年の[[4世紀]]頃に編纂されたと考えられている伝記集であり<ref>{{cite book | last = Cizek | first = Eugen | title = Histoire et historiens a Rome dans l’Antiquite | year = 1995 | location = Lyon | publisher = Presses universitaires de Lyon | page = 297 }}</ref>、加えて捏造や創作がたいへん多いことでも知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | page = 263 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。

ただし、第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在するとみられており、現在でもその意義を認められている<ref>{{cite journal | last = Butler | first = Orma Fitch | title = Studies in the life of Heliogabalus | journal = University of Michigan studies: Humanistic series IV | year = 1910 | location = New York | publisher = MacMillan | page = 140 }}</ref>。

=== カッシウス・ディオ ===
ヘリオガバルスとは同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあった[[カッシウス・ディオ]]も、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ、上述のように彼の退廃や性的倒錯について多くを記録し、厳しい批判を展開している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は、『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知るうえで第一級の[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが相当の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。

ただしカッシウスも歴史家として何ら不誠実さがなかったと断じるのはいささか中立的とはいえない。『ローマ史』の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家たちからの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある<ref>{{cite book | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta' | year = 1971 | location = Oxford | publisher = Clarendon Press | pages = 145?146 | isbn = 0-19-814357-5 }}</ref>。

=== ヘロディアヌス ===
[[ファイル:Medal of Elagabalus.jpg|thumb|「ヘリオガバルスのメダル」([[ルーヴル美術館]])]]
属州シリアの役人であった[[ヘロディアヌス]]はカッシウス・ディオと同様、皇帝と同じ時代を生き、目撃者として同時代史をつづった歴史家で、[[コモドゥス]]帝の即位から[[ゴルディアヌス3世]]の暗殺までの記録である『ローマ人の歴史』を書き残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複してるが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で資料的な意味を有する<ref name="livius-herodian">{{cite web | last = Lendering | first = Jona | authorlink = Jona Lendering | title = Herodian | year = 2004 | url = http://www.livius.org/he-hg/herodian/herodian.html | publisher = Livius.org | accessdate = 2008-05-03}}</ref>。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分、より中立的に皇帝たちの動向を残す事に努めている。彼の関心の多くは皇帝の性的退廃より宗教政策について向けられており、その詳細な内容はエル・ガバル信仰を調べる上で重要な記録となっている。彼の記録は、実際に後世の[[文献学]]的研究<ref>{{cite book | last = Cohen | first = Henry | authorlink = Henry Cohen (numismatist) | title = Description Historiques des Monnaies Frappees sous l’Empire Romain (8 volumes) | year = 1880?1892 | location = Paris | page = 40 }}</ref><ref>{{cite book | last = Babelon | first = Ernest Charles Francois | title = Monnaies Consulaires II | year = 1885?1886 | location = Bologna | publisher = Forni | pages = 63?69 }}</ref>と[[考古学]]的調査で裏付けられている<ref>''[[Corpus Inscriptionum Latinarum]]'', CIL II: 1409, 1410, 1413 and CIL III: 564?589.</ref>。

=== 近代の歴史家 ===
18世紀イギリスの著名な歴史家[[エドワード・ギボン]]は、冒頭で示したように『[[ローマ帝国衰亡史]]』を叙述し、そのなかでヘリオガバルスを厳しく批判している。

{{quotation|ヘリオガバルスの異常な性欲はウェスタの処女を辱め、多くの妻を取り替えただけでは満足しなかった。女装する事に愉悦を覚え、恋人達を有力者にすることで帝国の尊厳を汚し続けた。(中略)…ヘリオガバルスの伝承はある程度脚色された部分を持つだろう。しかしそれを前提にしてもヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった<ref name="Gibbon"/>。}}
{{quotation|ヘリオガバルス、女性の身形と行動を行う女々しさで皇帝の権威を傷つけた最初の男<ref>Gibbon, Edward, ''The History of the Decline and Fall of the Roman Empire'', Chapter XL.</ref>。}}
{{quotation|ヘリオガバルス、女性の身形と行動を行う女々しさで皇帝の権威を傷つけた最初の男<ref>Gibbon, Edward, ''The History of the Decline and Fall of the Roman Empire'', Chapter XL.</ref>。}}


ギボンは、このように述べて「最悪の皇帝」との評価を下した<ref name="Gibbon"/>。
==創作作品==

[[Image:Elagabalus Forchtenstein.jpg|thumb|widthpx|ヘリオガバルス帝の壁画([[フォルヒテンシュタイン城]])]]
また、19世紀のドイツの歴史家[[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]は、主著『ローマ史』(1844年)のなかで「ヘリオガバルスという名の印象は、彼自身の退廃によって決定付けられた」と記している<ref name=niebuhr/>。
ヘリオガバルスの退廃僻は後世における[[デカダン派]]の運動で注目された<ref name="glbtq-enc-elagabal"/>。道徳に欠けた唯美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。

== 創作作品 ==
[[ファイル:Elagabalus Forchtenstein.jpg|thumb|right|180px|ヘリオガバルス帝の壁画([[オーストリア]]の{{仮リンク|フォルヒテンシュタイン城|de|Forchtenstein}})]]
ヘリオガバルスの退廃癖は後世における[[デカダン派]]の運動で注目された<ref name="glbtq-enc-elagabal"/>。道徳性に欠けた耽美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。


===文学===
===文学===
*イリディオン(1836年、[[:en:Zygmunt Krasi?ski|ジクムント・クラシンスキ]])
*イリディオン(1836年、[[:en:Zygmunt Krasi?ski|ジクムント・クラシンスキ]]の演劇脚本
*[[ウィリアム・ウィルソン]] (1836年、[[エドガー・アラン・ポー]])
*[[ウィリアム・ウィルソン]] (1836年、[[エドガー・アラン・ポー]]によってヘリオガバルスの邪悪さが展開される
*ル・アゴニエ (1889年、[[:en:Jean Lombard|ジャン・ロンバー]])
*ル・アゴニエ (1889年、フランスの作家[[:en:Jean Lombard|ジャン・ロンバー]]の小説
*''[[The Sun God]]'' (1904), a novel by the English writer [[Arthur Westcott]]
*''"The Sun God"'' (1904年、イギリスの作家[[:en:Arthur Westcott|アーサー・ウェストコット]]の小説)
*''[[De Berg van Licht]]'' (''The Mountain of Light'') (1905), a novel by the Dutch writer [[Louis Couperus]]
*''"De Berg van Licht"''(「光の山」、1905年、オランダの作家[[:en:Louis Couperus|ルイス・クウペルス]]の小説)
*''"Algabal"'' (1892年-1919年、ドイツの詩人[[シュテファン・ゲオルゲ]]の詩集)
*''[[Algabal]]'' (1892?1919), a collection of poems by the [[German language|German]] poet [[Stefan George]]
*''[[The Amazing Emperor Heliogabalus]]'' (1911), a [[biography]] by the Oxford don [[John Stuart Hay]]
*''"The Amazing Emperor Heliogabalus"''(1911年、[[ジョン・スチュアート・ヘイ]]による[[伝記]]
*『セント・ドロシー』(ガバルス帝下で殉教した聖人について詠んだ[[アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン]]の詩)
*''[[St. Dorothy]]'', a poem by [[Algernon Charles Swinburne]], which refers to the saint's martyrdom under the emperor Gabalus
*ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (1934年、[[アントナン・アルトー]])
*ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (1934年、[[アントナン・アルトー]]作。エッセイと伝記、創作をふくむ
*''"The Lottery in Babylon"'' (1941年、[[アルゼンチン]]の作家[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]による短編。伝記『アントニヌス・ヘリオガバルスの生涯』を参照して著された)
*''[[The Lottery in Babylon]] (1941), a short story by Argentine writer Jorge Luis Borges, references a biography, "Life of Antoninus Heliogabalus."
*陽物神譚 (1958年、[[澁澤龍彦]])
*陽物神譚 (1958年、[[澁澤龍彦]]の短編小説
*''[[Family Favourites (novel)|Family Favourites]]'' (1960), a novel by the Anglo-Argentine writer [[Alfred Duggan]]
*''"Family Favourites"'' (1960年、イングランド系アルゼンチン人作家[[:en:Alfred Duggan|Alfred Duggan]]の小説)
*''[[Child of the Sun (novel)|Child of the Sun]]'' (1966), a novel by [[Lance Horner]] and [[Kyle Onstott]], who were more famous for writing the novel behind the movie ''[[Mandingo (film)|Mandingo]]''.
*''"Child of the Sun"'' (1966年、Lance HornerKyle Onstottによる小説。映画『[[マンディンゴ]]』の背景描写としても有名)
*''Super-Eliogabalo'' (1969), a novel by the Italian writer [[Alberto Arbasino]]
*''"Super-Eliogabalo"'' (1969年、イタリアの作家[[:en:Alberto Arbasino|アルベルト・アルバシーノ]]の小説)
*''[[Breakfast of Champions]]'' (1973), a novel by [[Kurt Vonnegut]] that mistakenly refers to [[Phalaris]], a Sicilian tyrant, as Heliogabalus
*''"Breakfast of Champions"'' (1973年、[[カート・ヴォネガット]]による小説。誤って古代シチリアの暴君[[:en:Phalaris|ファラリス]]の事績として描かれている)
*''[[Boy Caesar]]'' (2004), a novel by the English writer [[Jeremy Reed (writer)|Jeremy Reed]]
*''"Boy Caesar"'' (2004年、イギリスの作家[[:en:Jeremy Reed (writer)|Jeremy Reed]]による小説)
*[http://web.archive.org/web/20080117160838/http://www.holycow.com/dreaming/helio/ Being an Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolus], a 24-hour comic by [[Neil Gaiman]]
*''[http://web.archive.org/web/20080117160838/http://www.holycow.com/dreaming/helio/ "Being an Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolus"]''([[ニール・ゲイマン]]による24時間コミック)
*''"Roman Dusk"'' (2008年、「吸血鬼サンジェルマン伯爵」シリーズに含まれる[[:en:Chelsea Quinn Yarbro|Chelsea Quinn Yarbro]]の小説。小説では、ヘリオガバルスがカエサルになるとき、デカダンスが続けざまに起こるという場面が設定されている)
*''[[Roman Dusk]]'' (2008), a novel in the [[vampire]] [[Count Saint-Germain]] series by [[Chelsea Quinn Yarbro]]. In the novel, Heliogabalus has just become Caesar and is depicted on several occasions as the [[Decadence]] ensues.


===絵画===
===絵画===
[[ファイル:Heliogabalus High Priest of the Sun.jpg|right|thumb|180px|「太陽の司祭、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン画]]
*''[[The Roses of Heliogabalus]]'' (1888), by the Anglo-Dutch academician Sir [[Lawrence Alma-Tadema]]

*''[[:Image:Heliogabalus High Priest of the Sun.jpg|Heliogabalus, High Priest of the Sun]]'' (1866), by the English decadent [[Simeon Solomon]], once a close friend of [[Algernon Charles Swinburne]]
*「太陽の司祭、ヘリオガバルス」(''Heliogabalus, High Priest of the Sun.''、1866年、イギリス画家{{仮リンク|シミョーン・ソロモン|en|Simeon Solomon}}の作。ソロモンは、退廃的な画風と、一時期[[アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン]]の親友であったことでも知られる。)
*「ヘリオガバルスの薔薇」(1888年、イギリスに帰化したオランダ人画家でアカデミー派の[[ローレンス・アルマ=タデマ]]の作品)


===漫画===
===漫画===
*''"Being an Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolus"'' (1991年、[[ニール・ゲイマン]].<ref>{{cite web|url=http://www.holycow.com/dreaming/stories/being-an-account-of-the-life-and-death-of-the-emperor-heliogabolous |title=The Dreaming ≫ Blog Archive ≫ Being An Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolous |publisher=Holycow.com |date= |accessdate=2011-03-11}}</ref>) Published in ''Cerebus'' #147 (1991).
*''[[Vassalord]]'' (2006?), [[Nanae Chrono]]'s Manga, where the flamboyant main character, Johnny Rayflo (an ancient vampire), is referred to occasionally as "The Confined Elagabalus."
*『[[Vassalord.]]』 (2006年 - 、[[黒乃奈々絵]]のマンガ。 『[[コミックブレイドZEBEL]]』連載。主人公の古代吸血鬼ジョニー・レイフロは「閉じこめられたエラガバルス(ヘリオガバルス)」として時折言及される)
*''Being an Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolus'' (1991), by [[Neil Gaiman]].<ref>{{cite web|url=http://www.holycow.com/dreaming/stories/being-an-account-of-the-life-and-death-of-the-emperor-heliogabolous |title=The Dreaming ≫ Blog Archive ≫ Being An Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolous |publisher=Holycow.com |date= |accessdate=2011-03-11}}</ref> Published in ''Cerebus'' #147 (1991).
*『[[秘身譚]]』 (2010年 -、[[伊藤真美]]のマンガ、『[[月刊少年マガジン+]]』連載)
*Helioglobolus ? biography in the Swedish anthology ''Galago,'' by [[Simon Gardenfors]].
*"''Helioglobolus - biography in the Swedish anthology 'Galago'.''" ([[:en:Simon Gardenfors|Simon Gardenfors]])
*「[[秘身譚]]」 (2010年、[[伊藤真美]])


===音楽===
===音楽===
*''"[[:en:Eliogabalo|Eliogabalo]]"''(1667年、ヴェネチアン・バロックの音楽家[[ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ]]のオペラ)
*''[[Eliogabalo]]'', an opera by Venetian Baroque composer [[Francesco Cavalli]] (1667)
*''"Heliogabale"''(1910年初演、フランスの作曲家[[デオダ・ド・セヴラック]]のオペラ)
*''[[Heliogabale]]'', an opera by French composer [[Deodat de Severac]] which premiered in 1910
*''"Heliogabalus Imperator"'' (「ヘリオガバルス皇帝」、1972年、ドイツの作曲家[[ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ]]のオーケストラ作品)
*''[[Heliogabalus Imperator]]'' (''Emperor Heliogabalus''), an orchestral work by the German composer [[Hans Werner Henze]] (1972)
*''[[Eliogabalus]]'', an album by rock band [[Devil Doll (band)|Devil Doll]] (1990)
*''"Eliogabalus"'' (1990年、ロックバンド[[:en:Devil Doll (band)|デヴィッド・ドール]]の音楽アルバム)
*''[[Six Litanies for Heliogabalus]]'', by the composer and saxophonist [[John Zorn]] (2007)
*''"Six Litanies for Heliogabalus"''(2007年、作曲家・サックス奏者[[ジョン・ゾーン]]の作品)
*Elagabalus (as Heliogabalus) is mentioned in the "[[Major-General's Song]]" from the [[Gilbert and Sullivan]] [[Savoy opera|opera]] ''[[The Pirates of Penzance]]'': "I quote in [[elegiac]]s all the crimes of Heliogabalus."
*[[:en:Gilbert and Sullivan|ギルバートとサリバン]]のコミックオペラ『[[:en:The Pirates of Penzance|ペンザンスの海賊]]』のなかの早口歌「少将の歌」のなかでふれられている。: "I quote in elegiacs all the crimes of Heliogabalus."
*[http://heliogabale.free.fr/ ''Heliogabale, a french rock band''], a French rock band which has released five albums since 1995, among them "the full mind is alone the clear" recorded by [[Steve Albini]] in 1997
*[http://heliogabale.free.fr/ ''Heliogabale''] はフランスのロックバンド。1995年よりアルバム5枚をリリースしている。そのなかで[[スティーヴ・アルビニ]]が"the full mind is alone the clear"1997年にレコーディングしている。
*『[[:en:Heliogabalus (song)|ヘリオガバルス]]』は、[[モーマス]]の2001年のアルバム ''Folktronic'' 所収の歌。そのなかで語り手は「彼は、"みずからの死を引き起こした"といって"責められるべきではない"」とナレーションしてヘリオガバルス帝を擁護している。
*''[[Heliogabalus (song)|Heliogabalus]]'', a song by [[Momus (artist)|Momus]] from his 2001 album ''Folktronic'', in which the narrator defends Heliogabalus, saying he "wasn't to blame" for the "deaths he caused"


===演舞===
===演舞===
*''"Heliogabale"''([[モーリス・ベジャール]]振付による現代舞踊)
*''[[Heliogabale]]'', a contemporary dance choreographed by [[Maurice Bejart]]


===映画===
===映画===
*''[[Heliogabale]]'', a 1909 [[silent film]] by the French director [[Andre Calmettes]]
*''"Heliogabale"''(1909年の無声映画、フランスの[[:en:Andre Calmettes|アンドレ・カルメット]]監督作品)
*''[[Heliogabale, ou L'orgie romaine]]'', a 1911 silent [[short film|short]] by the French director [[Louis Feuillade]]
*''"[[:en:Heliogabale, ou L'orgie romaine|Heliogabale, ou L'orgie romaine]]"''(1911年のサイレントショート、フランスの[[:en:Louis Feuillade|ルイ・フイヤード]]監督作品)


===演者===
===戯曲===
*Mencken, H.L. and Nathan, George Jean. ''Heliogabalus A Buffoonery in Three Acts.'' New York: Alfred A. Knopf, 1920.
*Mencken, H.L. and Nathan, George Jean. ''Heliogabalus A Buffoonery in Three Acts.'' ニューヨーク(アメリカ合衆国)の[[:en:Alfred A. Knopf|アルフレッド.A.クノップ社]]、1920年。
*[http://www.elgatotheatre.org/diablo.html ''Elagabalus, Emperor of Rome''] (2008), a play by the American dramatist Shawn Ferreyra, which premiered in [[San Francisco, California|San Francisco]], [[California]], January 18 through February 2, 2008
*[http://www.elgatotheatre.org/diablo.html ''Elagabalus, Emperor of Rome''] アメリカのドラマ作者 Shawn Ferreyraによる2008年の脚本。初演は[[サンフランシスコ]](アメリカ合衆国、 [[カリフォルニア州]])、2008年1月18日-2月2日。
*Escobar, C.H. de. "Heliogabalo: O SOL E A PATRIA". Ed. Devir. Rio de Janeiro. 1989.
*Escobar, C.H. de. "''Heliogabalo: O SOL E A PATRIA.''" Ed. Devir. [[リオデジャネイロ]](ブラジル)、1989年。
*[[:en:Sky Gilbert|スカイ・ギルバート]] 『ヘリオガルバス:愛の物語』[[トロント]](カナダ)のキャバレー劇場、2002年。
*[[Sky Gilbert|Gilbert, S.]] ''Heliogabalus: A Love Story.'' Toronto, Cabaret Theatre Company, 2002.


===語源===
===語源===
*The Spanish word ''heliogabalo''<ref name="DRAE">''[http://buscon.rae.es/draeI/SrvltGUIBusUsual?TIPO_HTML=2&TIPO_BUS=3&LEMA=heliog%C3%A1balo heliogabalo]'' in the [[Diccionario de la Real Academia Espanola]]. Retrieved on 2008-05-03.</ref> means "person overwhelmed by gluttony".
* スペイン語の''heliogabalo''(ヘリオガバロ<ref name="DRAE">''[http://buscon.rae.es/draeI/SrvltGUIBusUsual?TIPO_HTML=2&TIPO_BUS=3&LEMA=heliog%C3%A1balo heliogabalo]'' in the [[Diccionario de la Real Academia Espanola]]. Retrieved on 2008-05-03.</ref>)は 「暴飲暴食で身を持ち崩す人」のような意味である。


==出典==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==資料==
==資料==
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===副次的資料===
===副次的資料===
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* {{Cite book|和書|author=[[秀村欣二]]|chapter=|editor=[[村川堅太郎]]責任編集|year=1974|month=11|title=世界の歴史2 ギリシアとローマ|publisher=[[中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=-8|ref=秀村}}
* {{Cite book|和書|author=[[木村凌二]]|chapter=エラガバルス|editor=|year=1988|month=3|title=世界大百科事典 第3(イン-エン)|publisher=[[平凡社]]|series=|isbn=4-58-202700-8|ref=木村}}
* {{Cite book|和書|author=[[松本宣郎]]|chapter=衰えゆく大帝国|editor=[[野上毅]](編)|year=1989|month=4|title=朝日百科世界の歴史21 展望3~4世紀の世界|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=|ref=松本}}
* {{Cite book|和書|author=[[ミルチア・エリアーデ]]|translator=[[島田裕巳]]|editor=|year=2000|month=5|title=世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま学芸文庫]]|isbn=4-480-08563-7|ref=エリアーデ}}
* {{Cite book|和書|author=[[鶴岡聡]]|chapter=|editor=|year=2012|month=8|title=教科書では学べない世界史のディープな人々|publisher=[[中経出版]]|series=|isbn=978-4-8061-4429-8|ref=鶴岡}}
*{{cite book |last= Benjamin |first= Harry |title = The Transsexual Phenomenon |year= 1966 |publisher= The Julian Press, inc |location= New York | url= http://www.symposion.com/ijt/benjamin/ |accessdate= 2005-04-27 |isbn= 0-446-82426-7}}
*{{cite book |last= Benjamin |first= Harry |title = The Transsexual Phenomenon |year= 1966 |publisher= The Julian Press, inc |location= New York | url= http://www.symposion.com/ijt/benjamin/ |accessdate= 2005-04-27 |isbn= 0-446-82426-7}}
*{{cite book |last= Birley |first= Anthony |title = Lives of the Later Caesars |year= 1976 |publisher= Penguin |location= Harmondsworth |isbn= 0-14-044308-8}}
*{{cite book |last= Birley |first= Anthony |title = Lives of the Later Caesars |year= 1976 |publisher= Penguin |location= Harmondsworth |isbn= 0-14-044308-8}}

2012年9月26日 (水) 04:11時点における版

ヘリオガバルス(エラガバルス)
Heliogabalus (Elagabalus)
ローマ皇帝
「ヘリオガバルス胸像」(カピトリーノ美術館所蔵)
在位 218年 - 222年
別号 ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス
Varius Avitus Bassianus

全名 カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生 203年3月20日
エメサ(現在のシリア・アラブ共和国・ホムス
死去 222年3月11日
ローマ
継承 アレクサンデル・セウェルス
配偶者 ユリア・コルネリア・パウラ
  アクウィリア・セウェラ
  アンニア・アウレリア・ファウスティナ
  ヒエロクレス(男性)
子女 アレクサンデル・セウェルス従弟・養子)
王朝 セウェルス朝
父親 セクストゥス・ウァリウス・マルケルス
母親 ユリア・ソエミアス・バッシアナ
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスラテン語: Marcus Aurelius Antoninus Augustus[1]203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルスHeliogabalus )、またはエラガバルスElagabalus )という渾名通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する[2]

セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルス外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスVarius Avitus Bassianus)といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母ユリア・ソエミアスは密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した[注釈 1]。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。

しかし、彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった[3]。また、宗教面でも従来の慣習制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行った。

ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるともみられているが[4]、後世の歴史家からも祭儀にふけって政治を顧みなかった皇帝として決して評判はよくない[3][5]。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」との評価を下している[6]19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の退廃について言及している[7][注釈 2]

生涯

生い立ちと皇帝即位までの経緯

皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老院議員の父セクストゥス・ウァリウス・マルケリス英語版と母ユリア・ソエミアス英語版の子として203年シリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた[2][8]。父マルケルスは騎士階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母ユリア・マエサはエメサの町の大祭司ユリウス・バッシアヌスの娘で、セウェルス朝の開祖セプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった[3][9]。したがって、彼の母ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男であるカラカラ帝とは従姉弟の関係にあり、皇帝家の一員であった[8]。幼少期のウァリウス・アウィトゥスは母方一族の生業である神官として養育されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった[2]。少年は長じて太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした[2]。やがて皇帝となる少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていた[10]

残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で弟のゲタ帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失い、217年4月8日メソポタミアハッラーンで暗殺された[2][5]。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝にはクーデターの首謀者であった近衛隊隊長のマルクス・オペリウス・マクリヌスが即位した[2]

ファイル:Elagabalus Denarius Fides.jpg
ヘリオガバルス帝を描いたデナリウス。彼の発行した通貨の多くには軍の忠誠を謳った文言が刻まれており、カラカラ帝の威光による軍の支持を重要視していた様子がうかがえる。

即位したマクリヌス帝は、北アフリカマウレタニアの出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした[8][10]。それに対し、中東の属州シリアに幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の叔母ユリア・マエサはみずからの孫であるヘリオガバルスを帝位に就ける陰謀をめぐらした[8]。マクリヌス帝は、その子息ディドゥメニアヌスと共同で統治したが、東方の大国パルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍隊からの信頼を失っていた[10]

14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは女系を通じて親族であったが、未亡人となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラのだったと公言し、少年は先帝と密通して生まれたカラカラの落胤であると主張した[2][3][8]。これは、少年の祖母にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである[2][注釈 3]。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家のを駆使して第3軍団「ガッリカ」の兵士将軍を買収して自陣営の戦力を調達した。

218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した[2]。それに対し、軍団指揮官のヴァレリウス・エウティキアヌスはウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した[11]。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した[12]

ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した[13]オリエント諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである[10]

軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した神官による暴挙であると記した手紙をローマの元老院に書き送った[14]。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した[15]

元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「パルティカ」の裏切りによってアンティオキアの戦いにおいて敗北した[13]。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ、斬首の刑に処せられた[2][13]。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された[13]

アンティオキアでの勝利をもとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した[16]。これは完全に、ローマ法の定める秩序に違反した行為であったが、3世紀に即位したローマ皇帝にはしばしばみられた行為ではあった。また同時に、ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている[17][注釈 4]

結局のところ元老院は、218年の6月、既成事実を追認するかたちでヘリオガバルスの帝位を認め、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した[18]。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナをとして祭るという要求も承諾し[19]、逆にマクリヌス帝が「名誉の抹殺」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった[16]。また新しい近衛隊長には反乱の立役者ヴァレリウス・エウティキアヌスが任命された[20]

ローマ入城と初期の治世

ヘリオガバルス帝が描かれたデナリウス銀貨

218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは小アジアのニコメディア(現トルコ共和国イズミット)で過ごしていたが[18]、同時代を生きた歴史家カッシウス・ディオは、この少年皇帝が問題を抱えた人物であることは既に明らかになっていたと指摘している。新皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと諭した家庭教師を不愉快に思って殺害したと伝えられる[21]。同時期にユリア・マエサ神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像をウィクトーリア女神像の前に掲げさせた[18]。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、嫌でも神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。

こうした振る舞いに、後盾であった反マクリヌス派の軍勢は早くもヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め[22]ゲッリウス・マキムス将軍に率いられた第4軍団「スキュティカ」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「ガッリカ」(彼らは反乱に加担し、ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっている[23]。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した[24]

皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた(隕石)と信じられていた、底が平らで先の尖った円錐形の形状をもつ巨大な「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、219年の初秋、ようやくローマに到着した[2]。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える紫色の地に錦糸をあしらった司祭服を着用し、ネックレス腕輪など豪奢な装身具をほどこし、頭上に宝石を散りばめた帝冠をいただいたうえで女装していたからである[2]

エウティキアヌスやマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、取り巻きたちを要職に就けて体制を固めた[25]。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている[20]私生活の退廃も人事にも影響を与え、男性の愛人であった奴隷ヒエロクレスを共同皇帝にしようとしたり[26]、別の愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している[27]

財政面では、カラカラがそうしたようにの含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニニアヌス銀貨は廃止した[28]

ヘリオガバルス帝の初期の治世で部分的ながらまともな統治が行われていたのは、祖母ユリア・マエサと母ユリア・ソエミアスによる執政が行われていたためと考えられている[29]。この野心に満ちた2人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(Clarissima)、マエサは「元老院の女神」(Mater Castrorum et Senatus)をそれぞれ授与された[19]。実権を掌握してまるで女帝のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は何ら自分の意見を表明できない、ただの傀儡でしかなかった。少年皇帝は、祖母と母から甘やかされて育ち、浪費家で、政治的には無能力だったのである[10]

皇帝の結婚

2度目の妻として迎えられ、のちに再度結婚することになる「ウェスタの処女アクウィリア・セウェラ。后妃としてデナリウスに描かれている。

少年皇帝が最初に結婚した相手はユリア・コルネリア・パウラ英語版という女性であり、220年に豪奢な結婚式が挙行されている[2]。このとき、ローマ市民や兵士に対しても御祝儀が大盤振る舞いされたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲が決めた政略結婚であったと考えられている[30]。彼女はアウグスタ皇后)の称号を得たものの、この結婚生活は長く続かず、その年のうちに2人は離婚した。パウラが皇帝の異常ともいえる性愛に応えられないというのが離婚の理由であった[2]

皇帝はパウラと離婚すると、220年末に「ウェスタの処女」たる巫女アクウィリア・セウェラ英語版を手篭めにして再婚した[30](かまど)の神ウェスタに仕える巫女は共同生活を送り、聖なるを絶やさぬことを務めとしていた[2][31]。幼少時に神職に召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ処女を貫くことが求められ、その禁忌を破った場合には生きたまま穴埋めされるという恐ろしいがあった[31]。しかし、ヘリオガバルスはそのような掟は意に介せず、彼女と結ばれれば、神のような子どもが授かると信じ、彼女に禁忌を犯させてでも結婚を強要したのである[2]

禁断の結婚に対する周囲の批判からほどなく、結婚半年でアクウィリアとの婚姻を解消したのち、221年7月に3度目のとして迎えたのは美貌で知られたアンニア・アウレリア・ファウスティナ英語版であった[30]。彼女は、五賢帝のひとりで哲人皇帝として知られたマルクス・アウレリウスの曾孫で、その子であり暴君として暗殺されたコモドゥス帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたるネルウァ=アントニヌス朝との連続性を主張する政治的意図があったとみられる。実は、アンニア・ファウスティナにはポンポニウス・バッスス英語版というがあり、そのあいだに一男一女があったが、この夫を処刑しての結婚であった[2]。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し、結局ヘリオガバルスはセウェラとよりを戻して4度目の結婚を果たした。

宗教改革

アウレリウス金貨に描かれたヘリオガバルス帝。裏面にはヘロディアヌスが伝えるようにエル・ガバルの化身とされた黒石が戦車に乗せられてパレードを行っている様子が描かれている。

セプティミウス・セウェルス帝のとき、ローマ帝国のなかでは太陽神信仰が流行する傾向にあり[32]、皇帝自身、先に述べたように太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官であった。シリアはもともと母系制の社会であったが、女性は太陽神の祭司にはなれないことになっていた。多神教の社会であったローマでは宗教に寛容であり、領域拡大にともない各地の土着神を受け入れていた。古くからローマでは太陽神としてソールが知られ、しばしばローマ神話にも登場しており、また、ペルシャの太陽神ミトラスを奉ずる密儀宗教、ミトラ教も信じられていた。ただし、ミトラ教が女人禁制であるのに対し、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。

ヘリオガバルス帝はローマでのこうした太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エル・ガバルを古代ローマ多神教における最高神に位置づけるべく「デウス・ソール・インウィクトクス」と尊称させ、天空神ユピテルをも従える存在とした[33]。さらに、ユピテルに従うとされていたカピトリヌスの三女神をエル・ガバルの妻と位置づけ、その権威を高めようとした[30]。ここにローマは、かつてのポエニ戦争以来敵対してきたセム系の神、神官およびそれを操る女性たちの支配を受けることとなった[10]。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝の正式の称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した[10]

さらに、ヘリオガバルス帝は上述したように処女を保つ戒律を持っていた巫女アクウィリア・セウェラとの結婚を周囲に認めさせ、神官同士の交わりによって「神の子」を生み出そうとした[10][34]。本来であれば「ウェスタの処女」を辱めた者は殺され、この禁忌を破った巫女もまた神の罰を避けるために生きたまま土に埋められると決められており、皇帝の行為はローマにおける宗教的慣例を踏みにじる暴挙であった[31][35][注釈 5]

独自の宗教政策の果てに、ヘリオガバルス帝は「ヘリオガバリウム」と呼ばれる巨大なエル・ガバル神の宮殿をローマのパラティーノの丘(パラティヌスの丘)に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、生け贄として捧げられた[18]。歴史家ヘロディアヌスによれば「黒石は神界からの賜り物のごとく崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エル・ガバルの姿を描いていると信じられていた[8]。新たな崇拝対象への信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も割礼を行い[33]、元老院議員に対し、みずから踊り子として祭壇の前で舞う姿をみるよう強要した[18]。ローマの民衆は、神殿で皇帝が神からの賜りとして配る食事を目当てに神殿の祝祭に殺到したと伝えられる[30]。そして、この祝祭の仕上げに、「黒い石」が金細工や宝石類で飾り付けた馬引きの戦車に載せられ、砂金の敷かれた道を運ばれて街中を凱旋したようすをヘロディアヌスは記録している。

6頭もの巨大な白馬に引かれた二輪戦車は金銀細工で飾られる絢爛なものだったが、異様にも誰も乗っておらず無人で走らされていた。しかしその周囲には護衛の兵士が併走しており、ちょうど無人の豪華なる戦車に「神が乗っている」事を想定しているようであった。ヘリオガバルス帝はその後ろから神に従うように馬を走らせていた[30]

ヘリオガバリウムには帝国中の神具や神器が集められ、キュベレー神殿・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や「トロイのパラディウム像」や「マルスの盾」、「ウェスタの聖火」などが持ち込まれた。こうした行為はヘリオガバリウムこそがローマ帝国唯一の聖地となるべきと考える皇帝の命令によるものであった[36]

退廃と性的倒錯

急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名にしたのは、倒錯的かつ退廃した性生活に関する逸話である。そもそもヘリオガバルスは、正式な結婚生活すら4回の離婚と5回の「結婚」を繰り返しているのである[34]

「ウェスタの処女」セウェラとよりを戻し、4度目の結婚をしたはずの皇帝であったが、その年のうちにまたも離婚した[34]。今度は、こともあろうに小アジア出身のカリア人奴隷で、しかも男性であるヒエロクレスの「」としての結婚を宣言した[26][37]。これが、5度目の「結婚」であった。さらに『ローマ皇帝群像』によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている[38]

皇帝は、公共浴場へ行っては女風呂に入って女性たちに脱毛剤を塗ってやったとか、毎晩、怪しげな女たちをベッドルームに連れ込んで彼女たちの痴態を観察するなどの淫行を繰り返した[37]。また、密偵を放ち、ペニスの巨大な男性を探させて宮廷に連れて来させ、情事を楽しんだ[37]。皇帝は芝居をしながら、突然全裸になり、片手をに片手を陰部に当ててひざまずき、巨根の男に向かってお尻を突き出してを前後運動させたという[37]。猟奇的な逸話としては、神殿内で飼育している猛獣に切り落とした男性器をエサとしてあたえたというものまで伝わっている。『皇帝列伝』は、以下のように伝える。

…皇帝は自分の全身を脱毛させていた。いかにも健康そうにみえ、最大限の肉欲を起こさせる身体でいることこそ、人生最大の楽しみと考えていたからだ。

元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の性的倒錯を記録し、同性愛ばかりではなく女装癖があったとして実際にその現場を見たことを記録している。カッシウスは、以下のように伝える。

…皇帝は自分の性器をそっくり切り落とそうと考えたが、そうしたことを思いつくのも性格が女性的だったからだ。かれが実際に受けた手術は割礼で、これは太陽神の司祭として必要なことの一つだった。そのため彼は、仲間の多くにも同じことをさせた。

カッシウスはまた、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と叙述してこれを非難し[39]、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで売春宿にするという醜態まで晒したと記録している。

…遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らい声で甘えるのだった[40]

ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は顔を化粧することにより、こうした行為のためにふさわしい容貌をもつようになっていたという[30]

皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた[37]。厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結んだ[37]。これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ[37]。そして、皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだという[37]。また、性転換手術を行える医師を高報酬で募集していたともいわれている[27]。このことからヘリオガバルス帝の性癖について、これを同性愛や両性愛というより、トランスジェンダーの一種として考える論者も多い[41][42]

皇帝の最期

度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており[26]、近衛隊も皇帝の異常な狼藉に激しい嫌悪を感じていた[25]。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。

エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、楽器を打ち鳴らす怪しげな女の一団を引き連れて淫蕩な踊りを舞いながら神殿に向かい、屠殺したを混ぜたワインを捧げ、をたいた[37]。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もがトランス状態になったとき、皇帝は少年生け贄として神殿に捧げたという[37]。この所業に対しては、ついにローマ市民の多くも怒りの声をあげた[37]

王族内においても、影の実力者である祖母ユリア・マエサが孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアスだけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた[25]。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、221年、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを養子にするよう認めさせ、アレクサンデルにはカエサル(副帝)の称号を名乗らせた[25]。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった[10]。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した[43]。アレクサンデルは、ヘリオガバルスとは異なり、実直な性格で近衛兵からの人気が高かった。

ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを幽閉し、近衛兵たちには既に死亡したと伝えて動揺を誘おうとした[43]。しかし、これが逆に彼の命取りとなった。近衛隊は動揺するどころか激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう強く求めた[43]。恐れをなしたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。3月11日、近衛隊の城砦に逃れたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士の誰もがヘリオガバルスに対し忠誠を継続することを拒んだ。近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した[43]

全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きたカッシウス・ディオによれば、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという[37]

…怯えたヘリオガバルスは衣類箱の中に隠れて宮殿から逃げようとしたが、あえなく反乱軍に見つけられて広場に引き出された。先に捕らえられていたソエミアスは泣き喚きながら息子にすがりついたが、兵士たちは親子をその場で殺害した。ヘリオガバルスとソエミアスの首は切り落とされ、首のない親子の遺体は裸体で馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首とともに川へ投げ出された[44]

皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちは一掃され[44]、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに返され、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと戻された[10][45]。女性の元老院への関与も明確に禁止され[29][46]、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった[47]

新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであった[注釈 6]

人物評価

『ローマ皇帝群像』

ヘリオガバルスの薔薇ローレンス・アルマ=タデマ(1888年)

ローマ皇帝群像』は、帝政ローマの時代の人物によって叙述されたと考えられるローマ皇帝の伝記集であるが、編纂の詳細な時期・地域は不明であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人の著者」といわれている。

ヘリオガバルスの評伝については、当時の歴史書における常として、のちに即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張のなかで特に有名なのが『ローマ皇帝群像』のなかにある「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話であり、このエピソードは有名なローレンス・アルマ=タデマの絵画「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフとされている[48]。これは、ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大なを張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させたという風評にちなんでいるが、真偽のほどは明らかでない。

現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、「ヘリオガバルス伝」のほとんどは信用に値しないと見なされている[49]。そもそも『ローマ皇帝群像』ははるか後年の4世紀頃に編纂されたと考えられている伝記集であり[50]、加えて捏造や創作がたいへん多いことでも知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である[51]

ただし、第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在するとみられており、現在でもその意義を認められている[52]

カッシウス・ディオ

ヘリオガバルスとは同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ、上述のように彼の退廃や性的倒錯について多くを記録し、厳しい批判を展開している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は、『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知るうえで第一級の文献資料として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが相当の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。

ただしカッシウスも歴史家として何ら不誠実さがなかったと断じるのはいささか中立的とはいえない。『ローマ史』の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家たちからの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある[53]

ヘロディアヌス

「ヘリオガバルスのメダル」(ルーヴル美術館

属州シリアの役人であったヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同様、皇帝と同じ時代を生き、目撃者として同時代史をつづった歴史家で、コモドゥス帝の即位からゴルディアヌス3世の暗殺までの記録である『ローマ人の歴史』を書き残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複してるが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で資料的な意味を有する[54]。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分、より中立的に皇帝たちの動向を残す事に努めている。彼の関心の多くは皇帝の性的退廃より宗教政策について向けられており、その詳細な内容はエル・ガバル信仰を調べる上で重要な記録となっている。彼の記録は、実際に後世の文献学的研究[55][56]考古学的調査で裏付けられている[57]

近代の歴史家

18世紀イギリスの著名な歴史家エドワード・ギボンは、冒頭で示したように『ローマ帝国衰亡史』を叙述し、そのなかでヘリオガバルスを厳しく批判している。

ヘリオガバルスの異常な性欲はウェスタの処女を辱め、多くの妻を取り替えただけでは満足しなかった。女装する事に愉悦を覚え、恋人達を有力者にすることで帝国の尊厳を汚し続けた。(中略)…ヘリオガバルスの伝承はある程度脚色された部分を持つだろう。しかしそれを前提にしてもヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった[6]
ヘリオガバルス、女性の身形と行動を行う女々しさで皇帝の権威を傷つけた最初の男[58]

ギボンは、このように述べて「最悪の皇帝」との評価を下した[6]

また、19世紀のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールは、主著『ローマ史』(1844年)のなかで「ヘリオガバルスという名の印象は、彼自身の退廃によって決定付けられた」と記している[7]

創作作品

ヘリオガバルス帝の壁画(オーストリアフォルヒテンシュタイン城ドイツ語版

ヘリオガバルスの退廃癖は後世におけるデカダン派の運動で注目された[42]。道徳性に欠けた耽美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。

文学

絵画

「太陽の司祭、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン画

漫画

音楽

演舞

映画

戯曲

語源

  • スペイン語のheliogabalo(ヘリオガバロ[60])は 「暴飲暴食で身を持ち崩す人」のような意味である。

脚注

注釈

  1. ^ セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスは、非ヨーロッパ人で初めて帝位に就いたセム系のローマ皇帝で、皇帝就任以前は財務官やシリア軍団長を歴任した。セプティミウス・セウェルスは人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の子孫を名乗ることで、みずからの出自の属州的要素を薄めようとした。松本(1989)p.132
  2. ^ ニーブールは、19世紀に活躍したコペンハーゲン出身のドイツの歴史家で、しばしば近代歴史学の祖のひとりと評される。
  3. ^ ヘリオガバルスを皇帝にすえるという考えは、当初ユリア・マエサの愛人ガンニュスが発したものといわれている。ガンニュスは皇帝のローマ入城前、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑された。
  4. ^ 本来的には、ローマの皇帝は元老員議員であることが所与の条件とされ、元老院より「同輩中の首席」として推挙されることが慣例となっていたが、五賢帝以後はその慣例は有名無実化し、帝位はもっぱら経済力や軍事力に左右された。鶴岡(2012)p.28
  5. ^ ウェスタの巫女は、6歳から10歳までの少女のなかからローマの大神官によって選ばれた6人によって構成され、30年間、カマドの神に身を捧げることになっていた。彼女たちはローマの都の火を絶やさぬことによって市民を保護した。その宗教性は彼女たちの処女性にもとづくが、その禁忌の違反に対する生き埋めの刑に関しては類似の民俗事例に乏しく、きわめて独特のものである。また、他の神殿はローマも含めほとんどすべて方形をなすのに対し、ウェスタの聖域は円形をなしており、その点でも特異である。エリアーデ(2000)pp.168-169, 172-173
  6. ^ 新皇帝のアレクサンデル・セウェルスもまた、母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺されている。松本(1989)p.133

出典

  1. ^ In Classical Latin, Elagabalus' name would be inscribed as MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鶴岡(2012)pp.24-31
  3. ^ a b c d 木村(1988)p.658
  4. ^ Potter, David Stone (2004). The Roman Empire at Bay: Ad 180?395. Routledge. ISBN 0-415-10057-7 
  5. ^ a b 松本(1989)pp.132-137
  6. ^ a b c Gibbon, Edward. Decline and Fall of the Roman Empire, Vol. 1, Chapter 6.
  7. ^ a b Niebuhr, B.G. History of Rome, p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."
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資料

主要資料

副次的資料

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伝記

画像

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