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{{Infobox scientist
| name = フリッツ・ハーバー<br />{{lang|de|Fritz Haber}}
| image = Fritz Haber.png
| image_size = 230px
| caption = 『Les Prix Nobel』(1919年公刊)より。
| birth_date = 1868年12月9日
| birth_place = {{PRU1803}}・ブレスラウ<br/>(現:{{POL}}・[[ヴロツワフ]])
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'''フリッツ・ハーバー'''(Fritz Haber, [[1868年]][[12月9日]] – [[1934年]][[1月29日]])は[[ドイツ]](現在の[[ポーランド]]・[[ヴロツワフ]])出身の[[物理化学]]者、[[電気化学]]者。[[ユダヤ人]]から改宗した[[プロテスタント]]である。[[第一次世界大戦]]時に[[塩素]]を始めとする各種[[毒ガス]]使用の指導的立場にあったことから「[[化学兵器]]の父」と呼ばれることもある。
'''フリッツ・ハーバー'''({{lang|de|Fritz Haber}}, [[1868年]][[12月9日]] - [[1934年]][[1月29日]])は、[[ドイツ]]出身の[[物理化学]]者、[[電気化学]]者。空気中の[[窒素]]から[[アンモニア]]を合成する[[ハーバー・ボッシュ法]]で知られる。[[第一次世界大戦]]時に[[塩素]]を始めとする各種[[毒ガス]]使用の指導的立場にあったことから「'''[[化学兵器]]の父'''」と呼ばれることもある。[[ユダヤ人]]であるが、[[洗礼]]を受け[[ユダヤ教]]から改宗した[[プロテスタント]]である。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]や[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]で修学した。1894年に[[カールスルーエ大学]]の助手となり、[[1904年]]に平衡論を利用した[[窒素]]分子からの[[アンモニア]]の合成法の開発に着手した。これは[[1912年]]に[[BASF]]で実用化され、現在[[ハーバー・ボッシュ法]]として知られている。これにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。ドイツは第二次大戦においては[[フィッシャー・トロプシュ法]]や[[ベルギウス法]]で石油を石炭から合成して自給している。
[[プロイセン王国]]領[[シレジア]](シュレージエン)のブレスラウ(現ポーランド領[[ヴロツワフ]])でユダヤ人の家系に生まれた<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.129</ref>。父のジークフリートは染料を主に扱う[[商人]]であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.27-28</ref>。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した<ref name="m36">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.36</ref>。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した<ref name="yamamoto130">[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.130</ref>。


11歳のときに[[ギムナジウム]]に入学した。[[ギムナジウム]]では文学や哲学を学び、詩を自作した一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどの理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた<ref name="m36"/>。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、[[ハンブルク]]の染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]へと進学した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.36-37</ref>。
[[1906年]]にカールスルーエ大学教授となる。[[1909年]]にカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所(現在の[[マックス・プランク研究所]])の所長となった。[[1912年]]には[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の物理化学科の名誉教授となった。[[第一次世界大戦]]中は毒ガス開発に携わる。自身も科学者であった妻クララは夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し、初めてそれが実戦で使われた([[1915年]][[4月22日]])のち、5月2日に自ら命を絶った。その頃ハーバーはこの[[塩素]]ガス作戦の指揮を執っていた<ref>[http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/9712/N.html 世界の人口を養う“窒素”の光と影:日経サイエンス 1997年12月号]</ref><ref>[http://fdr.nifty.com/info/2005/09/post_d6b7.html @nifty:ディフェンス・レビュー・フォーラム(FDR): フリッツ・ハーバー]</ref><ref>[http://brains.te.chiba-u.jp/~itot/work/genius/g2/haber.htm マンガ「栄光なき天才たち」『フリッツ・ハーバー』]</ref>。そのため、終戦後は激しい非難に晒され、[[戦争犯罪人]]の候補に挙げられた。


フリッツは大学で化学を専攻した。[[ドイツ帝国|当時のドイツ]]は化学、特に[[有機化学]]の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在である[[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン]]がいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.37</ref>。
[[1918年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞して名誉を回復。[[1919年]]には[[ボルン・ハーバーサイクル]]を提唱した。さらに[[1923年]]に西回りの世界一周の旅に出て、[[日本]]にも2か月滞在。[[函館市|函館]]で叔父ルートヴィヒの遭難50周年追悼行事に参加した。この日本滞在中、[[星製薬]]の創設者である[[星一]]との知遇を得、生涯に亘る親交を結ぶ。[[1928年]]にドイツの賠償金返済のために[[海水]]から[[金]]を回収する実験を試みたが、これは失敗に終わった。


ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で[[ロベルト・ブンゼン]]に師事し<ref name="m41">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.41</ref><ref>[[#竹内(2010)|竹内(2010)]] p.133</ref>{{efn|当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった<ref name="m41"/>。}}、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となる[[クララ・イマーヴァール]]と出会った<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.41-42</ref>。
愛国的科学者として名声の絶頂にあったハーバーだが、[[1933年]]にその生涯は暗転した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によってユダヤ人公職追放令が出されたことを受け、[[カール・ボッシュ]]は[[アドルフ・ヒトラー]]に対し「ユダヤ人の学者を追放することは、ドイツから物理や化学を追放するのと同じことだ」と抗議し、[[4月30日]]にハーバーはマックス・プランク研究所所長を辞任、病気療養を理由に[[スイス]]へ出国。一旦[[イギリス]]に行くが、毒ガスの件で風当たりが強く、気候の問題もあって再び[[スイス]]に渡る。


兵役終了後は[[ベルリン]]の[[ベルリン工科大学|シャルロッテンブルク工科大学]]で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげた[[カール・リーバーマン]]に学んだ。そして1891年、[[ヘリオトロピン|ピペロナール]]の反応についての論文で博士号をとった<ref name="#1">[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.130</ref>。
翌[[1934年]]、亡命先の[[バーゼル]]で[[冠状動脈硬化症]]により、睡眠中に死去した<ref>[http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=267359 キューバ有機農業ブログ: 空気からパンを作った男]</ref>。現在は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている。

=== 求職 ===
有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である[[物理化学]]の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者である[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]のもとでの研究を望んだ<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.43</ref>。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、[[チューリッヒ工科大学]]の{{仮リンク|ゲオルク・ルンゲ|de|Georg Lunge}}のもとにも就いた<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref>。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.45</ref>。

ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.46</ref>。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]で修学した。イェーナ大学では[[ルートヴィヒ・クノール]]のもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.47</ref>。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった{{efn|フリッツがオストヴァルトの研究室に入れなかったのはオストヴァルト自身に断られたからだといわれることが多い<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.47など</ref>。しかしそれに対して、オストヴァルトがフリッツの願いを断った事実はないとする反論も存在する<ref>[[#渡邉(2009)|渡邉(2009)]] pp.236-237</ref>。}}。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、[[カールスルーエ大学]]の{{仮リンク|ハンス・ブンテ|de|Hans Bunte}}のもとで、無給助手として働けるようになった<ref name="m48">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.48</ref>。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。

またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒から[[ルーテル教会|キリスト教徒ルター派]]へと改宗した<ref name="m48"/>。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという<ref>井上尚英『生物兵器と化学兵器』(中公新書)p.59</ref>。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.48-49</ref>。

=== カールスルーエ大学時代 ===
フリッツが所属した[[カールスルーエ大学]]の化学工学部には、ハンス・ブンテとカール・エングラーという、2人の主任教授がいた。フリッツはブンテに師事したが、エングラーとも石油の研究などで関わった<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.53</ref>。フリッツは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「[[炭化水素]]の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から講義収入を得ることのできる[[私講師]]へと昇格した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.55</ref>。

さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時フリッツはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた<ref name="#2">[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.131</ref>。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された<ref name="m56">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.56</ref>。そして同年に助教授となった<ref name="m56"/>。1901年には、かつて兵役期間中に知り合った[[ユダヤ]]人化学者のクララと学会で再会し、同年に結婚した。翌年には長男のヘルマンが誕生している<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.60</ref>。

1904年に平衡論を利用した[[窒素]]分子からの[[アンモニア]]の合成法の開発に着手した([[#ハーバー・ボッシュ法|後述]])。これは1912年に化学メーカーの[[BASF]]社で実用化され、現在'''[[ハーバー・ボッシュ法]]'''として知られている。1906年にカールスルーエ大学教授となった。

アンモニア合成の成功により、フリッツの知名度は著しく上昇した。フリッツの元には国内外から多くの学生が集まり、フリッツを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.82</ref>。そして1912年、フリッツは新たに作られた[[フリッツ・ハーバー研究所|カイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所]]に所長として就任した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.84-85</ref>。

=== 第一次大戦 ===
[[File:Clara Immerwahr.jpg|thumb|160px|[[クララ・イマーヴァール]]]]
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、愛国心の強かったフリッツは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され{{Efn|しかし臨時に大尉の肩書を与えられている<ref>{{Cite book|和書|author=A・エロン|year=2013|title=ドイツに生きたユダヤ人の歴史|publisher=明石書店|pages=P.417}}</ref>。}}、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.101</ref>。そして、その問題を解決した後にフリッツが関わったのが、[[化学兵器|毒ガス]]の開発であった。

毒ガスの開発は、フリッツの前に[[ヴァルター・ネルンスト]]が担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.100</ref>。フリッツもはじめは砲弾に[[催涙剤|催涙ガス]]を入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.101-102</ref>。

フリッツは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もフリッツを信頼して毒ガスに関する全権を与えた。フリッツはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.103-104</ref>。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいた[[オットー・ハーン]]に、毒ガスの使用は[[ハーグ陸戦条約|ハーグ条約]]に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った<ref>[[#ハーン(1977)|ハーン(1977)]] p.147</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.106</ref>。

フリッツが指揮した毒ガス作戦([[第二次イーペルの戦い]])は、1915年4月22日に[[イーペル]]地区で実行に移された<ref name="ko334">[[#越山(1988)|越山(1988)]] p.334</ref>。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けるうちに連合国側も対応し始め、次第に当初のような成果を挙げられなくなっていった<ref name="m114">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.114</ref>。

一方で、毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた<ref name="m114"/>。また、フリッツの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚である[[ヘルマン・シュタウディンガー]]がそうであったし<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] pp.142-143</ref>、妻[[クララ・イマーヴァール|クララ]]も夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついに同年5月2日、クララは抗議のために[[自殺]]した<ref>V・スミル「世界の人口を養う“窒素”の光と影」『日経サイエンス』1997年12月号、pp.104-110</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.117-118</ref>。ただし史料研究の結果、クララに行動的な[[平和主義]]者らしい姿は見当らず、現代の女性運動家や平和運動家が実像に合わない思い込みを、クララに押し付けているとの主張もある<ref>Friedrich, B. and Hoffmann, D. (2016), [https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/zaac.201600035 Clara Haber, nee Immerwahr (1870–1915): Life, Work and Legacy.]</ref>。

元々、クララは化学の分野で女性としては初めて博士号を取得した才女であったが、フリッツはクララに科学を捨てて妻として家庭に入るよう押しつけ<ref name="Hager161">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.161</ref>、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.162-163</ref>。クララの自殺については、毒ガス作戦への抗議の他にも生活に対する不満や同じ化学者である夫の活躍への羨みなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.171</ref>。

フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイーペル地区以外にも[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]へ拡大していった([[ボリモウの戦い]]、[[リガ攻勢]])。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.123-124</ref>。フリッツは研究所を利用し、[[ホスゲン]]や[[マスタードガス]](イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.125-126</ref>。その一方で1917年10月には、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテ・ナタンと再婚した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.130</ref>。

戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1918年2月にはフリッツ自身も「この戦争で勝てる見込みはない」と述べた<ref>[[#宮田(1996)|宮田(1996)]] p.90</ref>。しかし、それでもなおフリッツは毒ガスに関する研究開発を止めることはなかった。戦後の1920年に公表されたドイツ将校向けの論文でも、毒ガス兵器は通常兵器よりも残酷ではないとして、[[国際連盟]]による非難に反論した<ref>[[#コーンウェル(2015)|コーンウェル(2015)]] p.88</ref>。

=== ノーベル賞受賞 ===
[[File:Nobel Prize Diploma Fritz Haber 1918.JPG|thumb|200px|ノーベル化学賞(1918年)]]
1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、毒ガス開発のかどで[[戦争犯罪人]]のリストに載せられたといううわさが流れており<ref name="Hager189">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.189</ref>、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた<ref>[[#ハーン(1977)|ハーン(1977)]] p.148</ref>。そのためフリッツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.145</ref>。1919年夏、フリッツは妻子を連れて[[スイス]]へと逃亡し、[[サンモリッツ]]で暮らした<ref name="Hager189"/>。

2、3か月後には、自らが逮捕される可能性がないと分ったため、フリッツは同年ドイツに帰国し<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.190</ref>、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、[[ハーバー・ボッシュ法]]の業績に対する[[ノーベル化学賞]]受賞の知らせを聞いた{{efn|1918年のノーベル化学賞は当初、選考基準未達で受賞者無しとなった。しかしフリッツが1919年に選考基準を満たしたため、規約に則り1918年のノーベル化学賞として遡って授与された<ref>[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1918/ The Nobel Prize in Chemistry 1918 Fritz Haber(Nobelprize.org)]</ref>。}}。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.150-151</ref>。[[竹内敬人]]は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者[[ヴィクトル・グリニャール]]の例があったことも受賞に影響を与えたとしている<ref>[[#竹内(2010)|竹内(2010)]] p.134</ref>。

フリッツはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.134</ref>。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.155</ref>。一方で自らの研究においても、1919年に[[マックス・ボルン]]と共同で[[ボルン・ハーバーサイクル]]を提唱するなど、成果をあげ続けた。

=== 資金の調達 ===
ドイツの敗戦により、フリッツの研究所は資金難に陥っていた。これを解消するため、[[星一]]による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.160</ref>。

さらに、[[第一次世界大戦の賠償|賠償金]]の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、[[海水]]から[[金]]を回収する計画を始めた。フリッツは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.193</ref>。そしてこの金を取りだすために、1920年、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.167</ref>、世界中の海から海水を採取し調査した。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は1926年に中止された。

一方で、1924年に西回りの世界一周の旅に出て<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.172</ref>、星一の招待により、[[日本]]にも2か月滞在している。[[函館市|函館]]で叔父ルートヴィヒ(Ludwig Haber)<ref group="注釈">フリッツの叔父、{{仮リンク|ルートヴィヒ・ハーバー|de|Ludwig Haber}}(1843年-1874年)は、開国後の日本に[[領事]]として派遣され、1874年8月11日に[[函館市|函館]]で旧[[秋田藩]]の[[士族]]田崎秀親に暗殺された(ハーバー事件)。この事件は日独間で外交問題に発展することはなく、遺体は外国人墓地に埋葬され、50年後に記念碑が建てられた。ルートヴィヒおよびハーバー事件についての詳細は「 [http://www.donan.info/archives/1566 ハーバー遭難記念碑 | Donan.info]」あるいは「[http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-02/shishi_04-02-02-01-06.htm ハーバー殺害事件<「函館市史」通説編2 4編2章2節1-6]」を参照のこと。なお「伯父」とする資料もあるが、フリッツの父親であるジークフリート・ハーバー(1841年–1920年)との年齢差からすると誤りである。</ref>の遭難50周年追悼行事に参加した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.7</ref>。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、1929年に離婚した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.196</ref>。シャルロッテとの間には、子供2人(エヴァ・シャルロッテ、ルートヴィヒ・フリッツ)を残している<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.145</ref>。1920年代のフリッツは精力的に活動を続けたが、一方で鬱の症状も現れ、同僚の[[リヒャルト・ヴィルシュテッター]]に宛てて、「私は自分の力を削ぐ不眠症、前妻からの経済的要求、未来への不安、自分の人生で大きな過失を犯したという感情の四つの敵と戦っている」と書き記している<ref>[[#コーンウェル(2015)|コーンウェル(2015)]] pp.90-91</ref>。

=== 晩年 ===
愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツだが、1933年にその生涯は暗転した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった<ref name="m202">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.202</ref>。フリッツは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかった<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.135</ref>が、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた<ref name="m202"/>。しかしフリッツは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、フリッツは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう<ref>[[#宮田(1996)|宮田(1996)]] p.203</ref>」と記した辞職願を[[プロイセン州]]教育大臣に提出した。

フリッツは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.204</ref>。その間、自らの職も求めたが、フリッツはすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.255-256</ref>。10月にはドイツを離れ、息子ヘルマンのいる[[パリ]]や、スイスなどで生活した<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.256-258</ref>。

その後ウィリアム・ポープから[[ケンブリッジ大学]]への誘いを受けて一旦[[イギリス]]に渡った<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref>。ケンブリッジでは触媒を使用した[[過酸化水素]]の分解の研究に携わった<ref name="Hager260">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.260</ref>。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえば[[アーネスト・ラザフォード]]にはこの理由により会うことを拒まれた<ref name="Hager260"/>。さらにイギリスの気候もフリッツには合わなかった<ref name="Hager260"/>。

フリッツはスイスにいた時に、[[シオニズム]]運動家の[[ハイム・ヴァイツマン]]と出会っており、ヴァイツマンから[[イギリス委任統治領パレスチナ]]へ来るよう誘いを受けていた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.209</ref><ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.260-261</ref>。ヴァイツマンの提案を受け入れたフリッツはダニエル・シーフ研究所(のちの[[ヴァイツマン科学研究所]])の所長になることとなった<ref>Stoltzenberg, Dietrich (2004). Fritz Haber : Chemist, Nobel laureate, German, Jew. Philadelphia: Chemical Heritage Foundation. {{ISBN2|978-0-941901-24-6}}. :209, 288–289</ref>。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスの[[バーゼル]]へと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に[[動脈硬化症|冠状動脈硬化症]]により死去した<ref name="#3">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.217-218</ref>。

=== 死後 ===
[[File:DBPB 1957 166 Haber.jpg|thumb|140px|フリッツを記念して1957年に作られたドイツ・ベルリン地区の切手]]
ユダヤ人であるフリッツの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、追悼のコメントをした科学者も、[[マックス・フォン・ラウエ]]などのごく少数に限られた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.266</ref>。

しかし死の1年後にあたる1935年1月、マックス・フォン・ラウエが提唱し、[[マックス・プランク]]が中心となって、カイザー・ヴィルヘルム協会主催のフリッツ追悼式が開かれた<ref>[[#ハイルブロン(2000)|ハイルブロン(2000)]] p.170</ref>。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.267</ref>。しかし式には、[[カール・ボッシュ]]、[[オットー・ハーン]]、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、フリッツの死を悼んだ<ref name="#3"/><ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.267-268</ref>。

フリッツはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた<ref name="Hager261">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.261</ref>。そのため現在フリッツの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのヘルンリ墓地に埋葬されている{{efn|フリッツの遺灰を埋葬したのは息子のヘルマンである。クララの遺灰はドイツにあったが、1937年にヘルマンの手によって、遺言通りフリッツと同じ場所へと移された。ただし墓碑銘に書かれているのは2人の名前と生没年月日のみである<ref name="Hager261"/>。}}。

== ハーバー・ボッシュ法 ==
{{main|ハーバー・ボッシュ法}}
=== 開発の経緯 ===
フリッツが取り組んだのは、空気中の[[窒素]]分子N<sub>2</sub>から[[アンモニア]]を生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは[[三重結合]]のため非常に強い<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.72</ref>。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した<ref name="Hager73">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.73</ref>。

しかしこの結果は[[ヴァルター・ネルンスト|ネルンスト]]の批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はフリッツの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた。そのため、ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、フリッツの結果は誤りであり、「次はハーバー教授がほんとうに正確な値を出せる実験方法を採用するよう提言いたします」と述べた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.74</ref>。

フリッツはネルンストの発表に屈辱と憤りをおぼえ、この会合の後、アンモニア合成にさらに熱心に取り組むようになった<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.74,81</ref>。そして装置に精通したル・ロシニョールと共に研究を続け、圧力を加えることで、反応に必要な温度を下げられ、より多くのアンモニアが作れることを発見した<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.86</ref>。

1908年にはアンモニア合成に関して[[BASF]]社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.95-96</ref>。フリッツは圧力の他に、反応の際の[[触媒]]を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、[[オスミウム]]を使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.98</ref>。フリッツはこれらの研究内容をBASFに提供した。BASFでは[[カール・ボッシュ|ボッシュ]]を中心にその研究を進め、オスミウムの代わりに鉄を主原料とした触媒を使用することで商業生産を成功させた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.115</ref>。

=== 影響 ===
[[窒素]]は植物の生育に必要不可欠な栄養素であるが、19世紀末のヨーロッパではこれを[[南アメリカ]]から輸入された[[チリ硝石]]などでまかなっていた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.16-17</ref>。しかし、[[ウィリアム・クルックス]]は1898年、このままの状態が続くと南米の資源は枯渇し、農作物が収穫できず、世界は食糧不足へと陥るだろうと警告し、化学的に固定窒素を合成させることの必要性を説いた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.10-19</ref>。

ハーバー・ボッシュ法は、この問題を解決できる方法であり<ref>[[#髙山(2006)|髙山(2006)]] p.99</ref>、これによって人類はクルックスの予言した食糧危機を乗り切ることができた。現在においても肥料を目的とした[[アンモニア]]の生成は、[[ハーバー・ボッシュ法]]によって行われており、世界中の食糧生産を支えている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.280-281</ref>。

またアンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。

フリッツによる一連の実験結果は7つの論文として1914年から1915年にかけて専門誌に発表され、アンモニア合成を行うための重要な基礎データとなった。「空気からパンを作った」とも称されるこの業績により「アンモニア合成法の開発」として1918年に[[ノーベル化学賞]]を受賞している。一方、工業化を実現させた[[カール・ボッシュ|ボッシュ]]も「高圧化学的方法の開発と発明」として1931年にノーベル化学賞を受賞した<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 田丸謙二,大山秀子 | date = 2012 | title = 田丸節郎資料(写真及び書簡類) : Fritz Haber との交流と学術振興 | journal = 化学と工業 | issue = 7 | volume = 65 | publisher = 日本化学会 | url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1573668925541075968}}</ref>。

[[ハーバー・ボッシュ法]]によって[[化学肥料]]の形で地面に撒かれた窒素のうち、農作物が吸収しきれなかった分は、雨水によって川や海へと流れ込み、また空気中にも飛散する。水中で窒素は[[硝酸塩]]の形をとるが、過剰な硝酸塩濃度の増加は藻や海藻の繁殖を異常に促す。結果として日光が遮られ、さらに動植物の死骸により水中の酸素濃度が低下する。このような硝酸塩濃度の増加と水質の悪化は、[[バルト海]]や[[メキシコ湾]]をはじめ、世界中で確認されている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.284-285</ref>。また、工業的窒素固定により生産されるアンモニアや窒素酸化物が相当な量になることは確かであるものの、それが直接放出してあるいは微生物等により化学変化して間接的に環境へ与える悪影響についてはよくわかっていない<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.285-287</ref>。

== 主な業績 ==
フリッツは先に挙げたハーバー・ボッシュ法のほかに、電気化学・気体反応の分野で優れた業績を残している。

カールスルーエ時代に取り組んだ[[炭化水素]]の熱分解と接触における気体燃焼の研究は後の[[接触分解|クラッキング作用]]を理解するのに役立てられた<ref name="ko333">[[#越山(1988)|越山(1988)]] p.333</ref>。1909年に発明したガラス電極は、2枚のガラスを薄く並列させ、その間の電位を測ることで溶液の酸性度を測定することを可能とした<ref>[http://www.ph-meter.info/pH-meter-history ph-meter.info-pH meter history]</ref><ref>[http://www.ph-meter.info/pH-meter-history ph-meter.info - pH meter history]</ref>。さらに、電気化学的な方法を使って、[[蒸気機関]]や[[内燃機関]]のエネルギー損失を抑えるための研究にも取り組んだが、この問題に対しては有意義な結果は得られなかった。しかし一酸化炭素と水素を実験的に燃焼させることについての成果はあった<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref>。

第一次大戦後の1919年に[[マックス・ボルン]]と共同で成した[[格子エンタルピー]]計算法の発見は、[[ボルン・ハーバーサイクル]]として知られている<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/250759/Fritz-Haber/260673/Chemical-warfare britannica.com - Fritz Haber]</ref>。また、炭鉱労働者のためのガス警報装置や、低圧用の圧力計を製作した。そしてこれに伴う、吸着力が固体の不飽和原子価力に依存するという発見は、後の[[アーヴィング・ラングミュア]]による吸着の研究へとつながった<ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref>。

その他、[[ニトロベンゼン]]の電解還元の経路を解明し、酸化と還元における電極電位の重要性を証明したことや、[[ファラデーの電気分解の法則]]が固体電解質にも有効であるということを示したこと、地下のガス管や水道本管の腐蝕の研究を行い、これらの調査と防止の基準となる方式を策定したこと、ブンゼン炎について、炎の内側と外側の燃焼の仕組みの違いを明らかにしたなどが挙げられる<ref name="ko333"/><ref name="nobel">[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1918/haber/biographical/ Fritz Haber - Biographical - NobelPrize.org]</ref>。また、鉄が触媒となってスーパーオキシド([[超酸化物]]、O<sub>2</sub><sup>-</sup>)と[[過酸化水素]](H<sub>2</sub>O<sub>2</sub>)が反応して[[ヒドロキシルラジカル]](•OH)を生成する[[ハーバー・ワイス反応]]にも名前を残している<ref>[[#藤田(2002)|藤田(2002)]] p.207</ref>。

一方、1919年にフリッツが液体[[殺虫剤]]として開発した[[ツィクロンB]]は、その殺傷能力に着目され、1942年ごろより[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]などの[[ユダヤ人]]強制収容所で、ガス殺用途で使用された<ref>[https://hdl.handle.net/10129/4465 ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策の決定時期に関する考察 : 独ソ戦からヴァンゼー会議まで - 宮川侑子]</ref>。

== 人物 ==
===人物像===
フリッツは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた<ref name="#2"/>。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.80</ref>。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉や[[サナトリウム]]で数週間の休養をとっていた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.70</ref>。

話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。フリッツは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.81-82,120</ref>。

一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.128</ref>、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした<ref name="#1"/>。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.162</ref>。

===関連する人物===
フリッツの下で助手として研究に携わった化学者としては、カールスルーエ大学時代の助手を務め、[[ハフニウム]]を発見し、1943年にノーベル化学賞を受賞した[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]<ref>平凡社『世界大百科事典 - ヘベシー』、矢木哲雄</ref>、ハーバー研究所でハーバー・ボッシュ法の開発に貢献した{{仮リンク|ロバート・ル・ロシニョール|en|Robert Le Rossignol}}などがいる。また、[[フランク=ヘルツの実験]]を行い、1925年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者の[[ジェイムズ・フランク]]は、第一次世界大戦期間中、フリッツの下で毒ガス研究に従事している<ref>[[#池内(2008)|池内(2008)]] pp.73-74</ref>。

その他、ドイツに留学した日本人化学者[[田丸節郎]]、[[小寺房次郎]]もハーバー研究所でアンモニア合成の研究に携わった。帰国後、田丸は理化学研究所、東京工業大学、学術振興会の創立に関わるなど、日本の学術研究体制の礎を築いた。小寺は1918年に創立された臨時窒素研究所の所長に就任し、日本で初めてアンモニア合成を指導した<ref>[https://archive.fo/aaOw0 Newton Search - ノーベル賞科学者検索「ハーバー」](2013年5月1日時点のアーカイブ)</ref>。[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]は[[農商務省 (日本)|農商務省]]の臨時窒素研究所からハーバー研究所に派遣された。

== 受賞歴 ==
*[[1914年]] - [[リービッヒ・メダル]]
*1918年 - ノーベル化学賞
*[[1929年]] - [[ヴィルヘルム・エクスナー・メダル]]
*[[1932年]] - [[ランフォード・メダル]]
*[[2006年]] - [[全米発明家殿堂]]選出


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{Notelist|48em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|24em}}


== 伝記 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=宮田親平|authorlink=宮田親平|year=2007|month=11|title=毒ガス開発の父ハバー 愛国心を裏切られた科者|series=朝日選書|publisher=朝日聞社|isbn=978-4-02-259934-6}}
* {{Cite book|和書|author=池内了|authorlink=池内了|year=2008|month=11|title=ベル賞で語る現代物理学|publisher=新書館|isbn=978-4-403-25097-2|ref=池内(2008)}}
* {{Cite journal||和書|author=越山季一|authorlink=越山季一|year=1988|title=ハーバー|journal=ブリタニカ国際大百科事典|volume=16|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=越山(1988)}}
* {{Cite book|和書|author=ジョン・コーンウェル|date=2015-04-25|title=ヒトラーの科学者たち|others=松宮克昌訳|publisher=作品社|isbn=978-4861823565|ref=コーンウェル(2015)}}
* {{Cite book|和書|author=島尾 永康|authorlink=島尾永康|date=2002-11-28|title=人物化学史――パラケルススからポーリングまで|series=科学史ライブラリー|publisher=朝倉書店|isbn=4-254-10577-0|ref=島尾(2002)}}
* {{Cite journal||author=髙山千代蔵|year=2008|title=持続可能な農業と化学資材―化学肥料や農薬が豊かな食卓を支える―|url=https://doi.org/10.20665/kakyoshi.54.2_98|journal=化学と教育|volume=54|issue=2|pages=pp.98-101|publisher=日本化学会|issn=0386-2151|ref=髙山(2006)}}
* {{Cite book|和書|author=竹内敬人|authorlink=竹内敬人|year=2010|month=3|title=人物で語る化学入門|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-431237-6|ref=竹内(2010)}}
* {{Cite book|和書|author=オットー・ハーン|authorlink=オットー・ハーン|year=1977|month=9|title=オットー・ハーン自伝|others=山崎和夫訳|publisher=みすず書房|isbn=4-622-01647-8|ref=ハーン(1977)}}
* {{Cite book|和書|author=ジョン・L. ハイルブロン|date=2000-10-01|title=マックス・プランクの生涯―ドイツ物理学のディレンマ|others=村岡晋一訳|publisher=法政大学出版局|isbn=978-4588006913||ref=ハイルブロン(2000)}}
* {{Cite journal|author=藤田直|year=2002|title=活性酸素,過酸化脂質,フリーラジカルの生成と消去機構並びにそれらの生物学的作用|journal=藥學雜誌|volume=122|issue=3|pages=pp.203-218|publisher=公益社団法人日本薬学会|issn=0031-6903|url=http://yakushi.pharm.or.jp/FULL_TEXT/122_3/PDF/203.pdf|ref=藤田(2002)}}
* {{Cite book|和書|author=トーマス・ヘイガー|authorlink=トーマス・ヘイガー|date=2010-05-20|title=大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀|others=渡会圭子訳|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07536-3|ref=ヘイガー(2010)}}
* {{Cite book|和書|author=宮田親平|authorlink=宮田親平|date=1996-01-10|title=毒ガスと科学者|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-721303-6|ref=宮田(1996)}}
* {{Cite book|和書|author=宮田親平|date=2007-11-09|title=毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者|series=朝日選書|publisher=朝日新聞社|isbn=978-4-02-259934-6|ref=宮田(2007)}}
* {{Cite journal||author=山本明夫|authorlink=山本明夫|year=2008|title=フリッツ・ハーバーとその時代 (第1回)ハーバーの栄光と悲劇|journal=化学史研究|volume=35|issue=3|pages=pp.129-153|publisher=化学史学会|issn=0386-9512|ref=山本(2008)}}
* {{Cite journal||author=渡邉慶昭|authorlink=渡邉慶昭|year=2009|title=ヴィルヘルム・オストヴァルトに対する誤解を解く――フリッツ・ハーバーの場合|journal=化学史研究|volume=36|issue=4|pages=pp.236-238|publisher=化学史学会|issn=0386-9512|ref=渡邉(2009)}}


== 関連項目==
== 関連項目==
* [[マッドサイエンティスト]]
* [[ツィクロンB]]
* [[ツィクロンB]]
* [[オットー・ハー]] - 部下として[[化学兵器]]開発に携わる
* [[トヴィヒ・ハーバー]] - フリッツ・ハーバー叔父
* [[フリッツ・ハーバー研究所]]
* [[ルートヴィヒ・ハーバー]]([[1843年]]-[[1874年]]) - フリッツ・ハーバーの[[叔父]]。開国後の日本に[[領事]]として派遣され、[[1874年]][[8月11日]]に[[函館]]で旧[[秋田藩]]の[[士族]]田崎秀親に[[暗殺]]された(ハーバー事件)。ルートヴィヒおよびハーバー事件についての詳細は外部リンクを参照のこと。
* [[IG・ファルベンインドゥストリー]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Fritz Haber}}
* [http://ludwighaber.blogspot.com/ Ludwig Haber - The Consul And The Samurai(英語)]
* [https://ludwighaber.blogspot.com/ Ludwig Haber - The Consul And The Samurai] - PETER FRAENKEL(英語)
* [http://www.donan.info/modules/pukiwiki/233.html ハーバー遭難記念碑]-[http://www.donan.info/ 道南ミュージアム]
* [http://donan-museums.jp/archives/632 ハーバー遭難記念碑] - 道南ブロック博物館施設等連絡協議会
* {{Kotobank|ハーバー}}


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2024年10月27日 (日) 10:22時点における最新版

フリッツ・ハーバー
Fritz Haber
『Les Prix Nobel』(1919年公刊)より。
生誕 1868年12月9日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国・ブレスラウ
(現:ポーランドの旗 ポーランドヴロツワフ
死没 1934年1月29日(1934-01-29)(65歳没)
スイスの旗 スイスバーゼル
国籍 ドイツ
研究分野 物理化学
研究機関 スイス連邦工科大学チューリッヒ校
カールスルーエ大学
出身校 ハイデルベルク大学ベルリン大学
シャルロッテンブルク工科大学
博士課程
指導教員
カール・リーバーマン
主な業績 肥料爆発物ハーバー・ボッシュ法ハーバー・ワイス反応化学兵器
主な受賞歴 ノーベル化学賞 (1918年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1918年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:アンモニア合成法の開発

フリッツ・ハーバーFritz Haber, 1868年12月9日 - 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。

経歴

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生い立ち

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プロイセン王国シレジア(シュレージエン)のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ人の家系に生まれた[1]。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である[2]。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した[3]。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した[4]

11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、詩を自作した一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどの理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた[3]。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した[5]

フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない[6]

ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学ロベルト・ブンゼンに師事し[7][8][注釈 1]、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った[9]

兵役終了後はベルリンシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった[10]

求職

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有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である物理化学の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者であるヴィルヘルム・オストヴァルトのもとでの研究を望んだ[11]。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、チューリッヒ工科大学ゲオルク・ルンゲドイツ語版のもとにも就いた[12]。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた[13]

ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった[14]。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、イェーナ大学で修学した。イェーナ大学ではルートヴィヒ・クノールのもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した[12][15]。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった[注釈 2]。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、カールスルーエ大学ハンス・ブンテドイツ語版のもとで、無給助手として働けるようになった[18]。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。

またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒ルター派へと改宗した[18]。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという[19]。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである[20]

カールスルーエ大学時代

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フリッツが所属したカールスルーエ大学の化学工学部には、ハンス・ブンテとカール・エングラーという、2人の主任教授がいた。フリッツはブンテに師事したが、エングラーとも石油の研究などで関わった[12][21]。フリッツは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した[22]

さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時フリッツはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた[23]。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された[24]。そして同年に助教授となった[24]。1901年には、かつて兵役期間中に知り合ったユダヤ人化学者のクララと学会で再会し、同年に結婚した。翌年には長男のヘルマンが誕生している[25]

1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した(後述)。これは1912年に化学メーカーのBASF社で実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年にカールスルーエ大学教授となった。

アンモニア合成の成功により、フリッツの知名度は著しく上昇した。フリッツの元には国内外から多くの学生が集まり、フリッツを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった[26]。そして1912年、フリッツは新たに作られたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した[27]

第一次大戦

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クララ・イマーヴァール

第一次世界大戦が勃発すると、愛国心の強かったフリッツは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され[注釈 3]、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた[29]。そして、その問題を解決した後にフリッツが関わったのが、毒ガスの開発であった。

毒ガスの開発は、フリッツの前にヴァルター・ネルンストが担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた[30]。フリッツもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた[31]

フリッツは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もフリッツを信頼して毒ガスに関する全権を与えた。フリッツはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した[32]。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいたオットー・ハーンに、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った[33][34]

フリッツが指揮した毒ガス作戦(第二次イーペルの戦い)は、1915年4月22日にイーペル地区で実行に移された[35]。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けるうちに連合国側も対応し始め、次第に当初のような成果を挙げられなくなっていった[36]

一方で、毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた[36]。また、フリッツの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚であるヘルマン・シュタウディンガーがそうであったし[37]、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついに同年5月2日、クララは抗議のために自殺した[38][39]。ただし史料研究の結果、クララに行動的な平和主義者らしい姿は見当らず、現代の女性運動家や平和運動家が実像に合わない思い込みを、クララに押し付けているとの主張もある[40]

元々、クララは化学の分野で女性としては初めて博士号を取得した才女であったが、フリッツはクララに科学を捨てて妻として家庭に入るよう押しつけ[41]、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた[42]。クララの自殺については、毒ガス作戦への抗議の他にも生活に対する不満や同じ化学者である夫の活躍への羨みなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている[43]

フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイーペル地区以外にも東部戦線へ拡大していった(ボリモウの戦いリガ攻勢)。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった[44]。フリッツは研究所を利用し、ホスゲンマスタードガス(イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた[45]。その一方で1917年10月には、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテ・ナタンと再婚した[46]

戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1918年2月にはフリッツ自身も「この戦争で勝てる見込みはない」と述べた[47]。しかし、それでもなおフリッツは毒ガスに関する研究開発を止めることはなかった。戦後の1920年に公表されたドイツ将校向けの論文でも、毒ガス兵器は通常兵器よりも残酷ではないとして、国際連盟による非難に反論した[48]

ノーベル賞受賞

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ノーベル化学賞(1918年)

1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており[49]、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた[50]。そのためフリッツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった[51]。1919年夏、フリッツは妻子を連れてスイスへと逃亡し、サンモリッツで暮らした[49]

2、3か月後には、自らが逮捕される可能性がないと分ったため、フリッツは同年ドイツに帰国し[52]、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対するノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた[注釈 4]。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった[54]竹内敬人は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者ヴィクトル・グリニャールの例があったことも受賞に影響を与えたとしている[55]

フリッツはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした[56]。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた[57]。一方で自らの研究においても、1919年にマックス・ボルンと共同でボルン・ハーバーサイクルを提唱するなど、成果をあげ続けた。

資金の調達

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ドイツの敗戦により、フリッツの研究所は資金難に陥っていた。これを解消するため、星一による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた[58]

さらに、賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、海水からを回収する計画を始めた。フリッツは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった[59]。そしてこの金を取りだすために、1920年、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り[60]、世界中の海から海水を採取し調査した。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は1926年に中止された。

一方で、1924年に西回りの世界一周の旅に出て[61]、星一の招待により、日本にも2か月滞在している。函館で叔父ルートヴィヒ(Ludwig Haber)[注釈 5]の遭難50周年追悼行事に参加した[62]。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、1929年に離婚した[63]。シャルロッテとの間には、子供2人(エヴァ・シャルロッテ、ルートヴィヒ・フリッツ)を残している[64]。1920年代のフリッツは精力的に活動を続けたが、一方で鬱の症状も現れ、同僚のリヒャルト・ヴィルシュテッターに宛てて、「私は自分の力を削ぐ不眠症、前妻からの経済的要求、未来への不安、自分の人生で大きな過失を犯したという感情の四つの敵と戦っている」と書き記している[65]

晩年

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愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツだが、1933年にその生涯は暗転した。ナチスが政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった[66]。フリッツは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかった[67]が、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた[66]。しかしフリッツは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、フリッツは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう[68]」と記した辞職願をプロイセン州教育大臣に提出した。

フリッツは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた[69]。その間、自らの職も求めたが、フリッツはすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった[70]。10月にはドイツを離れ、息子ヘルマンのいるパリや、スイスなどで生活した[71]

その後ウィリアム・ポープからケンブリッジ大学への誘いを受けて一旦イギリスに渡った[12]。ケンブリッジでは触媒を使用した過酸化水素の分解の研究に携わった[72]。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえばアーネスト・ラザフォードにはこの理由により会うことを拒まれた[72]。さらにイギリスの気候もフリッツには合わなかった[72]

フリッツはスイスにいた時に、シオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンと出会っており、ヴァイツマンからイギリス委任統治領パレスチナへ来るよう誘いを受けていた[73][74]。ヴァイツマンの提案を受け入れたフリッツはダニエル・シーフ研究所(のちのヴァイツマン科学研究所)の所長になることとなった[75]。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に冠状動脈硬化症により死去した[76]

死後

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フリッツを記念して1957年に作られたドイツ・ベルリン地区の切手

ユダヤ人であるフリッツの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、追悼のコメントをした科学者も、マックス・フォン・ラウエなどのごく少数に限られた[77]

しかし死の1年後にあたる1935年1月、マックス・フォン・ラウエが提唱し、マックス・プランクが中心となって、カイザー・ヴィルヘルム協会主催のフリッツ追悼式が開かれた[78]。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた[79]。しかし式には、カール・ボッシュオットー・ハーン、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、フリッツの死を悼んだ[76][80]

フリッツはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた[81]。そのため現在フリッツの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのヘルンリ墓地に埋葬されている[注釈 6]

ハーバー・ボッシュ法

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開発の経緯

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フリッツが取り組んだのは、空気中の窒素分子N2からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い[82]。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した[83]

しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はフリッツの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた。そのため、ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、フリッツの結果は誤りであり、「次はハーバー教授がほんとうに正確な値を出せる実験方法を採用するよう提言いたします」と述べた[84]

フリッツはネルンストの発表に屈辱と憤りをおぼえ、この会合の後、アンモニア合成にさらに熱心に取り組むようになった[85]。そして装置に精通したル・ロシニョールと共に研究を続け、圧力を加えることで、反応に必要な温度を下げられ、より多くのアンモニアが作れることを発見した[86]

1908年にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた[87]。フリッツは圧力の他に、反応の際の触媒を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、オスミウムを使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした[88]。フリッツはこれらの研究内容をBASFに提供した。BASFではボッシュを中心にその研究を進め、オスミウムの代わりに鉄を主原料とした触媒を使用することで商業生産を成功させた[89]

影響

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窒素は植物の生育に必要不可欠な栄養素であるが、19世紀末のヨーロッパではこれを南アメリカから輸入されたチリ硝石などでまかなっていた[90]。しかし、ウィリアム・クルックスは1898年、このままの状態が続くと南米の資源は枯渇し、農作物が収穫できず、世界は食糧不足へと陥るだろうと警告し、化学的に固定窒素を合成させることの必要性を説いた[91]

ハーバー・ボッシュ法は、この問題を解決できる方法であり[92]、これによって人類はクルックスの予言した食糧危機を乗り切ることができた。現在においても肥料を目的としたアンモニアの生成は、ハーバー・ボッシュ法によって行われており、世界中の食糧生産を支えている[93]

またアンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。

フリッツによる一連の実験結果は7つの論文として1914年から1915年にかけて専門誌に発表され、アンモニア合成を行うための重要な基礎データとなった。「空気からパンを作った」とも称されるこの業績により「アンモニア合成法の開発」として1918年にノーベル化学賞を受賞している。一方、工業化を実現させたボッシュも「高圧化学的方法の開発と発明」として1931年にノーベル化学賞を受賞した[94]

ハーバー・ボッシュ法によって化学肥料の形で地面に撒かれた窒素のうち、農作物が吸収しきれなかった分は、雨水によって川や海へと流れ込み、また空気中にも飛散する。水中で窒素は硝酸塩の形をとるが、過剰な硝酸塩濃度の増加は藻や海藻の繁殖を異常に促す。結果として日光が遮られ、さらに動植物の死骸により水中の酸素濃度が低下する。このような硝酸塩濃度の増加と水質の悪化は、バルト海メキシコ湾をはじめ、世界中で確認されている[95]。また、工業的窒素固定により生産されるアンモニアや窒素酸化物が相当な量になることは確かであるものの、それが直接放出してあるいは微生物等により化学変化して間接的に環境へ与える悪影響についてはよくわかっていない[96]

主な業績

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フリッツは先に挙げたハーバー・ボッシュ法のほかに、電気化学・気体反応の分野で優れた業績を残している。

カールスルーエ時代に取り組んだ炭化水素の熱分解と接触における気体燃焼の研究は後のクラッキング作用を理解するのに役立てられた[97]。1909年に発明したガラス電極は、2枚のガラスを薄く並列させ、その間の電位を測ることで溶液の酸性度を測定することを可能とした[98][99]。さらに、電気化学的な方法を使って、蒸気機関内燃機関のエネルギー損失を抑えるための研究にも取り組んだが、この問題に対しては有意義な結果は得られなかった。しかし一酸化炭素と水素を実験的に燃焼させることについての成果はあった[12]

第一次大戦後の1919年にマックス・ボルンと共同で成した格子エンタルピー計算法の発見は、ボルン・ハーバーサイクルとして知られている[100]。また、炭鉱労働者のためのガス警報装置や、低圧用の圧力計を製作した。そしてこれに伴う、吸着力が固体の不飽和原子価力に依存するという発見は、後のアーヴィング・ラングミュアによる吸着の研究へとつながった[12]

その他、ニトロベンゼンの電解還元の経路を解明し、酸化と還元における電極電位の重要性を証明したことや、ファラデーの電気分解の法則が固体電解質にも有効であるということを示したこと、地下のガス管や水道本管の腐蝕の研究を行い、これらの調査と防止の基準となる方式を策定したこと、ブンゼン炎について、炎の内側と外側の燃焼の仕組みの違いを明らかにしたなどが挙げられる[97][12]。また、鉄が触媒となってスーパーオキシド(超酸化物、O2-)と過酸化水素(H2O2)が反応してヒドロキシルラジカル(•OH)を生成するハーバー・ワイス反応にも名前を残している[101]

一方、1919年にフリッツが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などのユダヤ人強制収容所で、ガス殺用途で使用された[102]

人物

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人物像

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フリッツは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた[23]。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった[103]。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉やサナトリウムで数週間の休養をとっていた[104]

話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。フリッツは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した[105]

一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが[106]、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした[10]。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている[107]

関連する人物

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フリッツの下で助手として研究に携わった化学者としては、カールスルーエ大学時代の助手を務め、ハフニウムを発見し、1943年にノーベル化学賞を受賞したゲオルク・ド・ヘヴェシー[108]、ハーバー研究所でハーバー・ボッシュ法の開発に貢献したロバート・ル・ロシニョール英語版などがいる。また、フランク=ヘルツの実験を行い、1925年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者のジェイムズ・フランクは、第一次世界大戦期間中、フリッツの下で毒ガス研究に従事している[109]

その他、ドイツに留学した日本人化学者田丸節郎小寺房次郎もハーバー研究所でアンモニア合成の研究に携わった。帰国後、田丸は理化学研究所、東京工業大学、学術振興会の創立に関わるなど、日本の学術研究体制の礎を築いた。小寺は1918年に創立された臨時窒素研究所の所長に就任し、日本で初めてアンモニア合成を指導した[110]甲賀三郎農商務省の臨時窒素研究所からハーバー研究所に派遣された。

受賞歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった[7]
  2. ^ フリッツがオストヴァルトの研究室に入れなかったのはオストヴァルト自身に断られたからだといわれることが多い[16]。しかしそれに対して、オストヴァルトがフリッツの願いを断った事実はないとする反論も存在する[17]
  3. ^ しかし臨時に大尉の肩書を与えられている[28]
  4. ^ 1918年のノーベル化学賞は当初、選考基準未達で受賞者無しとなった。しかしフリッツが1919年に選考基準を満たしたため、規約に則り1918年のノーベル化学賞として遡って授与された[53]
  5. ^ フリッツの叔父、ルートヴィヒ・ハーバードイツ語版(1843年-1874年)は、開国後の日本に領事として派遣され、1874年8月11日に函館で旧秋田藩士族田崎秀親に暗殺された(ハーバー事件)。この事件は日独間で外交問題に発展することはなく、遺体は外国人墓地に埋葬され、50年後に記念碑が建てられた。ルートヴィヒおよびハーバー事件についての詳細は「 ハーバー遭難記念碑 | Donan.info」あるいは「ハーバー殺害事件<「函館市史」通説編2 4編2章2節1-6」を参照のこと。なお「伯父」とする資料もあるが、フリッツの父親であるジークフリート・ハーバー(1841年–1920年)との年齢差からすると誤りである。
  6. ^ フリッツの遺灰を埋葬したのは息子のヘルマンである。クララの遺灰はドイツにあったが、1937年にヘルマンの手によって、遺言通りフリッツと同じ場所へと移された。ただし墓碑銘に書かれているのは2人の名前と生没年月日のみである[81]

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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