「カンボジア特別法廷」の版間の差分
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{{Infobox High Court |
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[[ファイル:Mak Remissa-PTC11Feb2010.jpg|thumb|right|250px|イエン・サリ被告の公判前勾留審問。]] |
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|court_name = カンボジア特別法廷 |
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'''カンボジア特別法廷'''(カンボジアとくべつほうてい、{{Lang-en|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}})は、[[国際連合]]と[[カンボジア]]政府の合意の下に設置された特別法廷。略称、'''ECCC'''。 |
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|native_name={{Lang|km|អង្គជំនុំជម្រះវិសាមញ្ញក្នុjងតុលាការកម្ពុជា}} |
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|image = Main building of Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia.jpg |
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|imagesize = 300px |
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|caption = カンボジア特別法廷 |
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|established = [[1997年]] |
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|country = {{KHM}} |
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|location =[[プノンペン]] |
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|website =http://www.eccc.gov.kh |
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|chiefjudgetitle =最高審裁判長 |
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|chiefjudgename ={{仮リンク|コン・スリム|en|Kong Srim}} |
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[[ファイル:Emblem of the Khmer Rouge Tribunal.svg|thumb|right|250px|カンボジア特別法廷のエンブレム]] |
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'''カンボジア特別法廷'''(カンボジアとくべつほうてい、{{Lang-km|អង្គជំនុំជម្រះវិសាមញ្ញក្នុjងតុលាការកម្ពុជា}}, {{Lang-en|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}}, {{Lang-fr|Chambres extraordinaires au sein des tribunaux cambodgiens}})とは、[[1975年]]から[[1979年]]の[[民主カンプチア]]で[[クメール・ルージュ]]政権によって行われた虐殺等の重大な犯罪について、政権の上級指導者・責任者を裁くことを目的として、[[2001年]]に同国裁判所の特別部として設立された裁判所。[[2003年]]6月、[[カンボジア]]王国政府と[[国際連合]]との協定が成立し、国連の関与の下、[[2006年]]7月から運営を開始した。略称は'''{{Lang|en|ECCC}}'''(英語)、'''{{Lang|fr|CETC}}'''(フランス語)。 |
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== 沿革 == |
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=== クメール・ルージュによる虐殺とカンボジア内戦 === |
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[[カンボジア内戦]]を通じて行われた人道に対する罪や戦争犯罪を裁くために設置。捜査も特別法廷が行う。対象は、元[[クメール・ルージュ]]の幹部らである。 |
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{{Main|カンボジア大虐殺|カンボジア内戦}} |
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[[ファイル: Tuolsleng1.JPG|thumb|right|240px|多くの拷問・処刑が行われたとされる[[S21 (トゥール・スレン)|S21]]収容所(現在はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館)]] |
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1970年代後半のカンボジアでは、[[ポル・ポト]]率いる共産主義政党クメール・ルージュが政権を握った。[[1975年]]4月17日、クメール・ルージュ軍は首都[[プノンペン]]を占領し、親米の[[ロン・ノル]]政権([[クメール共和国]])を打倒した(後に国名を[[民主カンプチア]]と改称)。 |
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クメール・ルージュは、[[中華人民共和国]]での[[文化大革命]]の[[毛沢東思想]]の影響の下に、知識人批判、学校・[[教育制度]]の解体、[[仏教]]を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。 |
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==法廷== |
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[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]のような国際機関、国際法廷とは異なり、カンボジア国内の法廷という体裁を採っているが、深く国連が関与していること、支援国の日本やアメリカ、フランスなどが財政支援を行うなど実質的な国際監視下にある。 |
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都市住民の強制大量移住や、[[強制労働]]を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・[[カンボジアのイスラム教|イスラム教]]関係者、[[少数民族]]、党内外の反対派を次々に粛清した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、[[アメリカ合衆国]][[中央情報局]]の推計によれば、約170万人から約200万人、ミィ・サムディ(プノンペン国立医科大学教授)の推計によれば、224万人とされる<ref>{{Harvnb|小倉|2003|pp=58-63}}</ref><ref name="Kumaoka2008">{{Harvnb|熊岡|2008}}</ref>。 |
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裁判は、カンボジア人と外国人の[[判事]]による合議制。二審制で、最高刑は[[終身刑]]<ref>{{ Cite news | url = |
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http://www.afpbb.com/article/politics/2191507/1396129 | title = 開廷遅れるポル・ポト派特別法廷、判事らが規定調整協議-カンボジア(2007年03月07日13:54) | publisher =AFP.BB.NEWS | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。 |
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[[1979年]]1月7日に[[ベトナム人民軍]]の侵攻により、クメール・ルージュは政権を追われ、[[ゲリラ]]勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、[[ノロドム・シハヌーク|シハヌーク]]王党派、[[ソン・サン]]共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親越(親[[ソビエト連邦|ソ連]])の[[ヘン・サムリン]]政権([[カンプチア人民共和国]])との間で内戦が続いた<ref name="Kumaoka2008"/><ref>{{Harvnb|小倉|2003|p=59}}</ref>。 |
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==年表== |
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*[[2003年]]:国連とカンボジア政府間で特別法廷設置の合意文書の批准。 |
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*[[2006年]]7月:特別法廷活動開始。 |
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*[[2007年]]:[[ヌオン・チア]](元人民代表議会議長)、[[キュー・サムファン]](元国家幹部会議長)、[[イエン・サリ]](元副首相)、[[イエン・シリト]](元社会問題相)、[[カン・ケク・イウ]](元[[S21 (トゥール・スレン)]][[政治犯]][[収容所]]所長)らを拘束。 |
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*[[2008年]]:カン・ケク・イウを起訴。 |
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*[[2010年]]7月:カン・ケク・イウの一審判決、[[禁固]]35年の有罪。被告、検察双方が[[控訴]]。 |
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*2010年9月:残りの4名を起訴<ref>{{ Cite news | url = |
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010091702000037.html | title = ポト派元最高幹部起訴 カンボジア特別法廷,大量虐殺などで4人| publisher =東京新聞 | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。 |
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1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令により、{{仮リンク|人民革命法廷 (カンボジア)|label=プノンペン特別市法廷|en|People's Revolutionary Tribunal (Cambodia)}} が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポト及びクメール・ルージュのナンバー2と言われた[[イエン・サリ]]の2人に[[死刑]]が宣告された<ref>{{Harvnb|小倉|2003|p=60}}</ref>。 |
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==関連項目== |
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*[[ポル・ポト]](クメール・ルージュ最高幹部) |
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*[[野口元郎]](国際連合アジア極東犯罪防止研修所教官兼日本国[[外務省]]国際法局国際法課検事) |
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1990年、プノンペン政府の[[フン・セン]]首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王として、カンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。 |
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==出典== |
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{{Reflist}} |
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[[1996年]]、イエン・サリが同党を離脱して恩赦と引換えに王国政府に投降した。[[1997年]]半ば、党内抗争の中[[タ・モク]]によって逮捕され身柄を拘束されていたポル・ポトが[[1998年]]4月に死去し、そのタ・モクも王国政府に逮捕され、さらに有力な指導者[[キュー・サムファン]]、[[ヌオン・チア]]が投降し、クメール・ルージュは崩壊した<ref name="Kumaoka2008"/><ref>{{Harvnb|小倉|2003|pp=58-60}}</ref>。ポル・ポトの死後、彼個人の責任を追及する道は閉ざされた。一方で、これを機に、生存する指導者の責任を追及すべきだとする気運も高まった<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/1998/04/20/world/with-no-more-pol-pot-the-new-khmer-rouge-hopes-the-world-will-forgive-and-forget.html |title=With ‘No More Pol Pot,’ the ‘New’ Khmer Rouge Hopes the World Will Forgive and Forget |author=Seth Mydans |date=1998-04-20 |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]] |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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=== 特別法廷設立の経緯 === |
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イエン・サリへの恩赦や、ポル・ポトの死亡、タ・モクの逮捕は、クメール・ルージュ指導者の法的責任を追及すべきではないかとの議論を巻き起こすこととなった<ref>{{Harvnb|ヘダー|ティットモア|2005|pp=32-33, 44}}</ref>。また、1996年に[[トマス・ハマーベリ]]がカンボジアの人権問題に関する[[国際連合事務総長特別代表|国連事務総長特別代表]]に任命され、同代表も法的責任追及に向けて取り組んだ<ref>{{Harvnb|ヘダー|ティットモア|2005|p=44}}</ref>。その結果、[[国際連合人権委員会|国連人権委員会]]は、[[1997年]]4月11日、[[コフィー・アナン]][[国際連合事務総長|事務総長]]に対し、「過去の重大なカンボジア法・国際法違反に対処するためカンボジアから支援の要請があったときは、これを検討すること」を要請する決議を採択した<ref>{{Cite web |url=http://ap.ohchr.org/documents/E/CHR/resolutions/E-CN_4-RES-1997-49.doc |format=DOC |title=国連人権委員会決議:Situation of human rights in Cambodia (E/CN.4/RES/1997/49) |date=1997-04-11 |publisher=Office of the High Commissioner for Human Rights |accessdate=2011-08-30 }}([http://ap.ohchr.org/documents/alldocs.aspx?doc_id=4500 OHCHRページ] 内)</ref>。 |
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1997年6月24日、[[ノロドム・ラナリット]]第1首相([[フンシンペック]]党)と[[フン・セン]]第2首相([[カンボジア人民党]])は、アナン事務総長宛に連名で「1975年から1979年までのクメール・ルージュ支配の間に行われたジェノサイド及び[[人道に対する罪]]に責任を有する者を裁くため、国連及び国際社会の支援を求める」旨の書簡を送付し、その中で、カンボジアは裁判を実行するための資源と専門家を有していない旨を述べた<ref>{{Cite web |url= http://law.scu.edu/site/beth-van-schaack/File/June_21_1997_letters_from_PMs.pdf |format=PDF |title= Letter dated 21 June 1997 from the First and Second Prime Ministers of Cambodia addressed to the Secretary-General (Annex of A/51/930, S/1997/488) |date= 1997-06-24 |publisher=Santa Clara Law |accessdate=2011-08-31 }}</ref>。国連に支援依頼の書簡を送った直後の1997年7月、フン・センは[[クーデター]]により第1首相のラナリットを排除し、実権を握った。 |
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1997年12月、[[国際連合総会|国連総会]]はこの要請について、専門家グループの派遣の可能性を含め事務総長に対し検討するよう求める[[国際連合総会決議|決議]]を採択した<ref>{{Cite web |url=http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-RES-52-135.pdf |title=国連総会決議52/135:Situation of human rights in Cambodia |format=PDF |date=1997-12-12 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials (UNAKRT) |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。これを受けて事務総長は3名の専門家グループを任命した。専門家グループは、カンボジアを訪問するなど調査の上、[[1999年]]2月22日、国際法上・国内法上の重大な犯罪の存在が認められ、クメール・ルージュ指導者に対する法的手続の実施を正当化するに足りる証拠も存在するとの報告書を提出した。そして、その中で、[[国際連合安全保障理事会|安保理]]又は総会の下に、特定目的の[[国際裁判所|国際法廷]]を設置すべきであると勧告した<ref name="SG">{{Cite web |url=http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/1999%20Experts%20Report.pdf |format=PDF |title=事務総長書簡:Identical letters dated 15 March 1999 from the Secretary-General to the President of the General Assembly and the President of the Security Council (A/53/850, S/1999/231) |date=1999-03-15 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials (UNAKRT) |accessdate=2011-08-20 }} (同書簡に専門家グループ報告書"Report of the Group of Experts for Cambodia established pursuant to General Assembly resolution 52/135"添付)</ref>。 |
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[[ファイル:Hun Sen.jpg|thumb|left|180px|カンボジア首相のフン・セン]] |
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これに対してカンボジア政府は、1999年3月3日付事務総長宛書簡で、カンボジアの平和と国民和解の必要性を考慮に入れるべきであり、やり方を間違えば旧民主カンプチアの将官らにパニックを引き起こし、再度の内戦につながりかねないと警告し、その後の事務総長との会談でも、タ・モクについて国内法廷で裁くことを主張した。一方、事務総長側は、司法の最低限の国際水準を確保できるかや、裁判の対象者を限定することについて懸念を示した<ref name="SG" />。 |
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2001年8月、[[国民議会 (カンボジア)|カンボジア国民議会]]は、'''民主カンプチア時代に行われた犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法'''(以下「特別法廷設置法」)を制定した(8月10日公布)<ref name="Introduction">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/about-eccc/introduction |title=Introduction to the ECCC |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-08 }}</ref>。同法によれば、特別法廷は国内法廷の特別部とされる一方、国連への妥協の結果として、第一審はカンボジア人判事3人と国際判事2人で構成されることとなった。しかし、司法の国際水準の確保を求める国連側の懸念は残った。特に、投降時に恩赦を受けたクメール・ルージュ指導者を裁判にかけることについては、フン・セン首相は内戦の再発につながるとして否定的なコメントを出し、主要指導者が訴追されないなら支援を打ち切るとする国連側との対立が残った<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/1484161.stm |title=King signs Khmer Rouge trial law |date=2001-08-10 |publisher=[[英国放送協会|BBC]] |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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その後、国連・カンボジア間で締結される協定と国内法との優劣関係や、対人管轄権の範囲などをめぐって国連とカンボジアとの交渉は難航し<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2209063.stm |title=Cambodia to resume UN tribunal talks |date=2002-08-22 |newspaper=BBC |accessdate=2011-08-30 }}</ref>、国連は、[[2002年]]2月8日、「このままでは国連の求める独立・公平・客観性が保証されない」として、カンボジアとの交渉を打ち切る声明を発表した<ref>{{Cite news |url= http://www.nytimes.com/2002/02/09/world/un-ends-cambodia-talks-on-trials-for-khmer-rouge.html |title=U.N. Ends Cambodia Talks On Trials for Khmer Rouge |author=Seth Mydans |date=2002-02-09 |newspaper=New York Times |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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しかし、[[日本]]、[[フランス]]等の関係諸国が交渉再開に向けて外交交渉を行った結果、国連総会は、[[2002年]]11月20日の委員会で、事務総長に対し交渉の再開を求める決議を採択した<ref>{{Cite news |url= http://www.nytimes.com/2002/11/21/world/un-revives-plan-to-try-remnants-of-khmer-rouge-in-cambodia.html |title=U.N. Revives Plan to Try Remnants of Khmer Rouge in Cambodia |author=Elizabeth Becker |newspaper=New York Times |date=2002-11-21 |accessdate=2011-08-30 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-Res-57-228.pdf |format=PDF |title=国連総会決議57/228 (A):Khmer Rouge trials |date=2002-12-18 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials (UNAKRT) |accessdate=2011-08-30 }}(本会議採択は2002年12月18日)</ref>。これを受けて、[[2003年]]1月、交渉が再開され、同年3月、国連とカンボジア政府との合意内容が明記された草案が作成された<ref>{{Cite news |url= http://www.nytimes.com/2003/03/17/world/deal-reached-on-trials-for-khmer-rouge.html |title= Deal Reached on Trials for Khmer Rouge |date=2003-03-17 |newspaper=New York Times |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。同年5月13日、国連総会もこれを承認する決議を採択した<ref name="Kwon2005-153">{{Harvnb|権|2005|p=153}}</ref><ref name="228B">{{Cite web |url=http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-Res-57-228B.pdf |format=PDF |title=国連総会決議57/228 (B):Khmer Rouge trials |date=2003-05-13 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials (UNAKRT) |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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そして、[[2003年]]6月6日、'''民主カンプチア時代に行われた犯罪のカンボジア法の下における訴追に関する国際連合とカンボジア王国政府との協定'''(以下「協定」)が締結され、閣僚評議会担当相の{{仮リンク|ソック・アン|en|Sok An}}と国連代理弁護士の{{仮リンク|ハンス・コレル|en|Hans Corell}}との間で調印が行われた<ref name="Kwon2005-153"/>。協定では、「1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習及びカンボジアによって承認された国際条約についての犯罪及び重大な違反」について、「民主カンプチアの上級指導者及び最も責任を有する者」を本特別法廷の管轄とし、第一審裁判部はカンボジア人判事3人と国際判事2人、最高審裁判部はカンボジア人判事4人と国際判事3人で構成されることなどが合意された。最高刑は終身[[禁錮]]とされた<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/Agreement_between_UN_and_RGC.pdf |format=PDF |title=Agreement between the United Nations and the Royal Government of Cambodia Concerning the Prosecution under Cambodian Law of Crimes Committed during the Period of Democratic Kampuchea |date=2003-06-06 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。 |
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その後、カンボジア国内において協定を承認するとともに、特別法廷設置法をこれに整合するように改正する必要があったが、2003年7月の総選挙後の与野党対立から1年以上議会が開かれず、[[2004年]]8月、ようやく議会が開会して審議が行われた。そして、カンボジア国民議会は、同年10月、国連との協定を承認するとともに、それに沿うように、特別法廷設置法を改正した<ref>{{Harvnb|権|2005|pp=152-153}}</ref><ref>{{Harvnb|山本|2011|p=89}}</ref>。改正の要点は、{{Quotation| |
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# [[三審制]]から[[二審制]]への変更 |
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# 特別法廷設置法と協定との関係について、設置法を優位に置くことを前提に、協定に国内法としての効力を与えること |
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# 被告人等の権利保障に関する規定の改正 |
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# カンボジア法の解釈・適用に不明確な点がある場合や、国際基準との整合性に問題が生じた場合に、国際的に確立された手続規則がガイダンスとして使用されるとの協定に沿った改正 |
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# 設置法制定前に与えられることとされていた[[恩赦]] ({{Lang|en|amnesty}})・大赦 ({{Lang|en|pardon}}) の範囲は、特別法廷が決定する事項とすること |
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}}である<ref>{{Harvnb|権|2005|pp=153-154}}</ref>。 |
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改正法が反対票なしで国民議会(下院)を通過した日、フン・セン首相は、記者に「我々が待っていたものが今日達成された」と述べた<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2004/10/05/international/asia/05cambodia.html |title=Lawmakers in Cambodia Vote to Try Khmer Rouge |author=Seth Mydans |date=2004-10-05 |newspaper=New York Times |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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[[2005年]]4月までに、日本の2100万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]をはじめとして各国から3800万ドルの資金拠出が表明され、資金面でも裁判の準備が整った<ref name="UNtoEstablish">{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2005/04/30/international/asia/30cambodia.html |title=U.N. to Establish Cambodia Tribunals |date=2005-04-30 |newspaper=New York Times |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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=== 運営開始 === |
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[[2006年]]7月3日、任命を受けたカンボジア側・国際側双方の裁判官らの宣誓式が[[王宮 (プノンペン)|プノンペン王宮]]で行われるとともに、共同検察官による予備捜査が始まり、特別法廷は運営を開始した<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5140032.stm |title=Judges sworn in for Khmer Rouge |date=2006-07-03 |newspaper=BBC |accessdate=2011-08-31 }}</ref><ref>{{Cite news |url= http://www.nytimes.com/2006/07/10/world/asia/10iht-cambodia.2161347.html |title= UN's Khmer Rouge investigation opens |newspaper=New York Times |date=2006-07-10 |accessdate=2011-08-31 }}</ref>。 |
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同月、最初の司法官会議が開かれ、'''内部規則'''({{Lang|en|Internal Rules}})を定めることを決定した。特別法廷の手続は、基本的には国連との協定、特別法廷設置法、カンボジアの刑事訴訟法に従って行われるが、特別法廷に特殊な部分、国内法が国際基準に合致していない部分などがあったことから、内部規則によって補充する必要があったためである。しかし、司法官内部のカンボジア側と国連側の対立があり、またカンボジア政府の介入も取り沙汰されて長引き、同年11月に原案が公開されて[[パブリックコメント]]手続を経たが、[[2007年]]6月12日にようやく採択された<ref>{{Harvnb|ヒューマンライツ・ナウ|2008|p=1}}</ref><ref>{{Harvnb|山本|2011|pp=89-90}}</ref><ref>{{ Cite news | url = https://www.afpbb.com/articles/-/2191507?pid=1396129 | title = 開廷遅れるポル・ポト派特別法廷、判事らが規定調整協議 - カンボジア |date=2007-03-07 | newspaper =AFP.BB.NEWS | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。 |
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一方、こうして裁判が遅延している間の2006年7月21日、被疑者の1人と目されていた身柄拘束中のタ・モクが病死した<ref>{{Cite news |url= http://www.nytimes.com/2006/07/21/world/asia/21tamok.html |title=Ta Mok, Khmer Rouge Head Facing Genocide Trial, Dies |date=2006-07-21 |newspaper=New York Times |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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2007年7月18日、共同検察官が、身柄拘束中であった[[カン・ケク・イウ]]のほか、[[ヌオン・チア]]、[[キュー・サムファン]]、[[イエン・サリ]]、[[イエン・チリト]]の計5名について司法捜査開始の申立てを行い、同年11月までにヌオン・チア以下4人も逮捕・勾留されたことにより、裁判手続は本格的に始動した。 |
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イエン・サリは公判中の2013年3月14日に87歳で死去、イエン・チリトも[[認知症]]で裁判が停止されたまま2015年8月22日に83歳で死去。2013年当時、残る3人のうちカン・ケク・イウの裁判が第1事件として最高審に係属中、残り2人の裁判が第2事件として係属中であり、共に高齢であることから、公判維持が難しくなっているとされた<ref name=yomiuri20130314>{{Cite news |
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|url=https://web.archive.org/web/20130317191539/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130314-OYT1T01077.htm |
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|title=ポル・ポト派ナンバー3死去、虐殺究明に影響も |
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|work=YOMIURI ONLINE |
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|newspaper=[[読売新聞]] |
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|date=2013-03-14 |
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|accessdate=2013-03-15 |
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}}</ref><ref name="イエン・チリト氏死去=ポト派元最高幹部-カンボジア">[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201508/2015082200240&g=int イエン・チリト氏死去=ポト派元最高幹部-カンボジア] 時事ドットコム 2015年8月22日</ref>。2017年現在、3人のうちカン・ケク・イウの裁判が終了。残る2人は人道に対する罪において終身刑が確定した一方<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3133197 旧ポル・ポト政権幹部、大量虐殺で無罪主張 カンボジア特別法廷] AFP(2017年6月23日)2017年9月22日閲覧</ref>、「ジェノサイドの罪」に関しては、2022年に裁判が終結するまでにヌオン・チアが2019年に死去し、キュー・サムファンのみ「ジェノサイドの罪」で有罪の確定判決を受けた<ref name="名前なし">[https://mainichi.jp/articles/20220922/k00/00m/030/292000c ポル・ポト派元幹部の終身刑確定 カンボジア虐殺特別法廷が終結] 毎日新聞(2022年9月22日)2022年9月22日閲覧</ref>。 |
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このほか、追加の被疑者数名(氏名不開示)についても第3事件、第4事件として捜査が進行中である(''詳細は後記[[#裁判手続の推移]]参照'')。 |
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== 管轄 == |
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2004年改正後の特別法廷設置法によれば、特別法廷が裁判の対象とする行為(事物管轄)は、1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、[[国際人道法]]・慣習、及びカンボジアの承認した国際条約の犯罪及び重大な違反とされ、裁判の対象とする者(人的管轄)は、「民主カンプチアの上級指導者」及び当該犯罪及び重大な違反に「最も責任を有する者」とされている。特別法廷設置法は、具体的に次の者(上記期間の行為に限る)を訴追する権限を与えている<ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/KR_Law_as_amended_27_Oct_2004_Eng.pdf |format=PDF |title=Law on the Establishment of the Extraordinary Chambers, with inclusion of amendments as promulgated on 27 October 2004 (NS/RKM/1004/006). |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。 |
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* 1956年カンボジア刑事法典に定められた、[[殺人]]、[[拷問]]、宗教的迫害の罪を犯した者(3条。なお同法典に定められた[[公訴時効]]は30年延長される。また、刑は最高で終身禁錮までに限られる。) |
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* [[ジェノサイド条約]]に規定されるジェノサイドの罪を犯した者(4条) |
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* [[人道に対する罪]]を犯した者(5条) |
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* 1949年の[[ジュネーヴ諸条約 (1949年)|ジュネーヴ諸条約]]の重大な違反を実行し、又は命令した者(6条) |
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* [[武力紛争の際の文化財の保護に関する条約]](1954年ハーグ条約)に照らし、武力紛争の際の文化財の破壊に最も責任を有する者(7条) |
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* [[外交関係に関するウィーン条約]]に照らし、国際的な保護を受ける者に対する犯罪に最も責任を有する者(8条) |
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== 組織と手続 == |
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カンボジア特別法廷は、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]] (ICTY)、[[ルワンダ国際戦犯法廷]] (ICTR)、[[国際刑事裁判所]] (ICC) のような国際法廷と異なり、カンボジア国内裁判所の特別部として設置されている点に特色がある。同時に、国連との協定により、判事・検事その他のスタッフに、カンボジア人だけでなく国連の任命する外国人が当てられ、また、カンボジア国内法だけでなく[[国際法]]も適用される。こうした特徴から、「混合法廷」({{Lang|en|hybrid tribunal}}) と呼ばれる<ref>{{Harvnb|山本|2011|pp=88-89}}</ref>。 |
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=== 裁判部 === |
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カンボジア特別法廷は、第一審と最高審の[[二審制]]であり、そのほか、捜査段階の裁定を行うための公判前裁判部が設けられている。 |
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'''公判前裁判部''' ({{Lang|en|Pre-Trial Chamber}}) は、[[捜査]]段階において、共同捜査判事の決定に対する抗告等を審理する法廷である。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、決定には5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/judicial-chamber |title=Judicial Chambers |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-19 }}</ref>。 |
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* プラク・キムサン({{KHM}}、裁判長) |
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* {{仮リンク|ローワン・ダウニング|en|Rowan Downing}}({{AUS}}) |
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* {{仮リンク|ネイ・トル|en|Ney Thol}}({{KHM}}) |
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* {{仮リンク|チュン・チャンホ|en|Chung Chang-ho}}({{KOR2}}) |
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* {{仮リンク|フオト・ブッティー|en|Huot Vuthy}}({{KHM}}) |
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'''第一審裁判部''' ({{Lang|en|Trial Chamber}}) は、捜査が終結し[[起訴]]された場合に、第一審の[[公判]]([[対審|トライアル]])を行う法廷である。証人尋問その他の証拠、当事者の弁論を踏まえて、[[被告人]]の有罪・無罪を判断する。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、有罪の判決 ({{Lang|en|verdict}}) には少なくとも5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers" />。 |
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* ニル・ノン({{KHM}}、裁判長) |
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* [[シルヴィア・カートライト]]({{NZL}}) |
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* ヤー・ソカン({{KHM}}) |
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* ジャン=マルク・ラヴェルニュ({{FRA}}) |
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* ツウイ・モニー({{KHM}}) |
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'''最高審裁判部''' ({{Lang|en|Supreme Court Chamber}}) は、第一審の決定・判決に対する[[上訴]]を審理する法廷である。カンボジア人判事4人と国際判事3人で構成され、決定には7人中5人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers" />。 |
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* {{仮リンク|コン・スリム|en|Kong Srim}}({{KHM}}、裁判長) |
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* [[野口元郎]]({{JPN}}) |
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* {{仮リンク|ソム・セレイヴット|en|Som Sereyvuth}}({{KHM}}) |
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* {{仮リンク|アグニエシュカ・クロノヴィエツカ=ミラート|en|Agnieszka Klonowiecka-Milart}}({{POL}}) |
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* {{仮リンク|シン・リット|en|Sin Rith}}({{KHM}}) |
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* {{仮リンク|チャンドラ・ニハール・ジャヤシンゲ|en|Chandra Nihal Jayasinghe}}({{LKA}}) |
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* {{仮リンク|ヤー・ナリン|en|Ya Narin}}({{KHM}}) |
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=== 共同捜査判事 === |
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[[ファイル:Mak Remissa-PTC11Feb2010.jpg|thumb|right|250px|イエン・サリ被告の公判前勾留審問]] |
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'''共同捜査判事''' ({{Lang|en|Co-Investigating Judges}}) は、共同検察官からの司法捜査開始の申立て ({{Lang|en|Introductory Submission}}) を受けて、司法捜査を行う権限を有する。検察官ではなく捜査判事が捜査の主体になる点は、他の国際法廷と異なるところであり、[[大陸法]](フランス法)の影響を受けたカンボジア刑事手続法の特徴である<ref name="CIJ">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/ocij |title=Co-Investigating Judges |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。 |
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共同捜査判事は、被疑者の有利にも不利にも偏らず、公平な立場から捜査を行う義務があり、被疑者の取調べ、[[被害者]]・[[証人]]の事情聴取、証拠物の[[押収]]、専門家の意見の聴取、現場検証、召喚状・[[逮捕]]状・[[勾留]]命令の発付、証人保護措置、各種機関(国家、国連、[[国際機関]]、[[非政府組織|NGO]]等)に対する情報提供・支援依頼など、真実発見のための様々な活動を行う権限を有する。また、当事者(共同検察官、被疑者、民事当事者)は共同捜査判事に対しこれらの捜査手段をとるよう申し立てることができる<ref name="CIJ" />。 |
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捜査を終えると、共同捜査判事は全当事者及びその代理人にその旨を通知する(当事者は15日以内に捜査続行の申立てをすることができ、これが却下されたときは公判前裁判部に抗告をすることができる)。捜査終了の決定が確定すると、共同捜査判事は事件記録を共同検察官に送付し、共同検察官が最終送致書を作成して、共同捜査判事に対し起訴又は不起訴の意見を提出する。ただし、共同捜査判事は共同検察官の意見には拘束されず、捜査終結宣言 ({{Lang|en|Closing Order}}) を発し、被疑者を[[起訴]]して公判廷に送るか、又は不起訴(却下)とするかを判断する。不起訴となるのは、(1)共同検察官が送致した犯罪事実が特別法廷の管轄に属するものではない場合、(2)犯罪の実行者が特定されていない場合、(3)被疑者に対する嫌疑を裏付ける十分な証拠がない場合である。起訴の判断に対しては共同検察官からのみ抗告を行うことができ、不起訴命令に対しては共同検察官及び民事当事者から抗告することができる。捜査終結宣言が確定した後は、共同捜査判事は役割を終えるが、不起訴後に新証拠が現れた場合は、共同検察官の申立てにより司法捜査が再開される場合がある<ref name="CIJ" />。 |
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共同捜査判事はカンボジア人判事1名と国際判事1人が務め、現在は次の2名である<ref name="CIJ" />。当初の国際捜査判事はフランスのマルセル・ルモンドであったが、カンボジア人捜査判事との対立が報じられる中、第2事件の捜査終結宣言を出した2010年9月15日当日、個人的事情を理由として辞任を表明し<ref name="Yamamoto2011-95"/>、同年12月1日、ドイツのジークフリート・ブルンクが捜査判事に任命された<ref>{{Cite press release |url=http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/media/ECCC_1_Dec_2010_%28Eng%29.pdf |format=PDF |title=Dr. Siegfried Blunk Appointed as New International Co-Investigating Judge |date=2010-12-01 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-09-05 }}</ref>。しかし、2011年10月9日、ブルンクは第3事件及び第4事件に関するカンボジア政府からの介入が取り沙汰されてきたことに言及し、辞任を表明した<ref>{{Cite press release |url=http://www.eccc.gov.kh/en/articles/statement-international-co-investigating-judge |title=Statement by the International Co-Investigating Judge |date=2011-10-09 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2012-01-27 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2011/10/11/world/asia/judge-quits-cambodia-tribunal.html |title=Judge Quits Tribunal in Khmer Rouge Inquiry |author=Seth Mydans |newspaper=New York Times |date=2011-10-10 |accessdate=2012-01-27 }}</ref>。 |
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* ユー・ブンレン({{KHM}}) |
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* {{仮リンク|ロラン・カスパー=アンセルメ|fr|Laurent Kasper-Ansermet}}({{CHE}}、予備) |
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=== 共同検察官 === |
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'''共同検察官''' ({{Lang|en|Co-Prosecutors}}) は、共同捜査判事の行う司法捜査の前に予備的捜査 ({{Lang|en|preliminary investigation}}) を行うほか、司法捜査(公判前裁判を含む)、公判、上訴の全段階を通じて訴追側当事者として活動する。また、被害者の申立てを取り扱う<ref name="CP">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/ocp/office-co-prosecutors |title=Office of the Co-Prosecutors |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。 |
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共同検察官はカンボジア人検事1人と国際検事1人が務め、現在は次の2名である<ref name="CP" />。当初の国際検事はカナダの{{仮リンク|ロバート・ペティット|en|Robert Petit}}であったが、第3・第4事件の訴追の是非をめぐってカンボジア人検事と対立する中、個人的事情を理由として2009年6月23日辞任を表明し<ref name="Yamamoto2011-94">{{Harvnb|山本|2011|p=94}}</ref>、同年9月1日からオーストラリアのウィリアム・スミスが臨時代行を務めた<ref>{{Cite press release |url= http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/media/ECCC_Press_Release_31_Aug_2009_English.pdf |format=PDF |title=Appointment of Acting International Co-Prosecutor |date=2009-08-31 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-09-10 }}</ref> が、同年12月、{{仮リンク|アンドリュー・ケイリー|en|Andrew Cayley}}が任命された<ref>{{Cite press release |url= http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/media/02_Dec_2009_ECCC_PR_Eng.pdf |format=PDF |title=Andrew T. Cayley Appointed As New International Co-Prosecutor |date=2009-12-02 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-09-05 }}</ref>。 |
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* チア・レアン({{KHM}}) |
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* アンドリュー・ケイリー({{GBR}}) |
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=== 事務局 === |
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裁判部、共同捜査判事、検察局の行う事務全般を支えるため、'''事務局'''が置かれている。カンボジア政府の任命する事務局長と、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]が任命する事務局次長が全体を統括する<ref>協定第8条。</ref>。 |
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=== 弁護 === |
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事務局に'''弁護支援部''' {{Lang|en|(Defence Support Section}}) が設けられており、被告人に[[弁護人]]の選任について支援し、弁護人に対して費用の支払を含め法的・行政的な支援を提供する<ref>内部規則(第8次改正後)第11条。</ref>。 |
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=== 被害者の参加 === |
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[[ファイル:ChoeungEk-Darter-12.jpg |thumb|right|240px|S21収容所付属の[[キリング・フィールド]](チュンエク村)で殺害された被害者の人骨]] |
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協定や特別法廷設置法には、裁判手続への被害者の参加については定めがなかった。しかし、内部規則の制定過程で、NGOの活動等を受けて、2006年11月の草案から[[被害者参加制度]]や被害者を支援する部署に関する規定が盛り込まれ、2007年6月の内部規則採択で正式に実現した<ref>{{Harvnb|山本|2011|p=90}}</ref>。2008年2月の審理で、国際刑事法に関わる法廷としては初めてとなる被害者参加が実現した<ref>{{Cite news |url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=25505 |title=Khmer Rouge victims participate in ‘historic day’ at UN-backed tribunal |newspaper=UN News |publisher=UN News Centre |date=2008-02-02 |accessdate=2011-09-03 }}</ref>。 |
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特別法廷の管轄に属する犯罪の被害者は、共同検察官に対し陳情を行うことができ、共同検察官はそうした被害者の利益を考慮に入れて訴追を開始するか否かを判断する。また、被害者は、民事当事者 ({{Lang|en|Civil Party}}) として裁判手続に参加することができるとともに、「集合的かつ精神的(非金銭的)補償措置」を求めることができる。このような被害者参加の制度は、協定に謳われている、正義の実現や国民和解という特別法廷の目的から見て重要な意義を有すると考えられている。同時に、30年以上救済を求める手段が与えられなかった被害者にとって、司法的救済が可能となる初めての機会でもある<ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/victims-support |title=Victims Support: Victims Participation at the ECCC |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-09-02 }}</ref><ref>{{Harvnb|山本|2011|pp=90-91}}</ref>。 |
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事務局には、'''被害者支援部''' ({{Lang|en|Victims Support Section}}) が設置されている。被害者支援部は、被害者による申立てや公判への出席を支援したり、代理人となる[[弁護士]]の名簿を提供したりするなどの活動を行っている<ref>内部規則(第8次改正後)第12条''bis''。</ref>。 |
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== 法廷の設営 == |
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カンボジア特別法廷の建物は、首都[[プノンペン]]の市街から16kmほどはずれにある。傍聴席は482席あり、[[外交官]]、メディア、一般傍聴人が傍聴できるようになっている<ref name="visitor">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/about-eccc/visitor-info/public-hearings |title=Visitor information for public hearings |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。建物はカンボジア政府がその費用で提供することとされている<ref>協定第14条。</ref>。 |
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特別法廷の公式言語は[[クメール語]]とされ、公式作業言語はクメール語、[[英語]]、[[フランス語]]とされている<ref>協定第26条。</ref>。審理の際には、英語、クメール語、フランス語の[[同時通訳]]が提供されている<ref name="visitor" />。 |
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<gallery> |
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ファイル:30 Aug 2011 Courtroom.jpg|法廷正面 |
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ファイル:Opening of the 10th session of the ECCC Plenary (9).jpg|審理の様子 |
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ファイル:30 Aug 2011 Courtroom (2).jpg|傍聴席 |
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ファイル:Holding cells (3).jpg|法廷とのビデオリンク設備を備えた別室。被告人が体調不良で出廷困難な場合は、別室への移動が許される |
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</gallery> |
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== 裁判手続の推移 == |
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=== 第1事件 === |
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[[ファイル:Kang_Kek_Iew_(Kaing_Guek_Eav_or_Duch)_before_the_Extraordinary_Chambers_in_the_Courts_of_Cambodia_-_20091126.jpg|thumb|right|170px|第1事件の被告人となった[[カン・ケク・イウ]]]] |
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元[[S21 (トゥール・スレン)|S21]](トゥール・スレン)[[政治犯]][[収容所]]所長、[[カン・ケク・イウ]]に対する裁判 |
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共同検察官は、[[2007年]]7月18日、共同捜査判事に対し、カン・ケク・イウ及び後述(第2事件)の4人について司法捜査開始申立てを行った。共同捜査判事は、まず、カン・ケク・イウについて嫌疑に相当の理由があるものと認め、司法捜査を開始し、勾留を決定した<ref name="Yamamoto2011-92">{{Harvnb|山本|2011|p=92}}</ref>。これにより、カン・ケク・イウは、同月31日に軍の拘置施設から、カンボジア特別法廷の拘置所に移監された。[[2008年]]8月8日、共同捜査判事により起訴され、公判前裁判部により起訴の判断が是認(一部変更)されたのが同年12月5日であった。[[2009年]]2月17日及び18日、第一審裁判部で公判の冒頭審問が行われた。実質的な審理は同年3月30日に始まり、同年9月17日、証拠の提示が終わった。その間の証拠調べ期日は72日にわたり、[[証人]]24人、民事当事者22人、専門家9人が出廷した。同年11月23日から27日にかけての5日間、最終弁論が行われて公判は結審した<ref name="Case001">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/1 |title=CASE 001 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。審理の中で、カン・ケク・イウは、自らの責任を認め、謝罪の言葉を述べた<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7973463.stm |title=Khmer Rouge leader admits crimes |newspaper=BBC News |date=2009-03-31 |accessdate=2011-12-07 }}</ref>。 |
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[[2010年]]7月26日に一審判決が出され、次の罪で有罪とされ、[[禁錮]]35年を宣告された(1999年5月から2007年7月31日までのカンボジア軍裁判所による違法な拘禁に対する救済措置として30年に減刑)<ref name="Case001" />。 |
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* 人道に対する罪(政治的理由による迫害) |
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: 人類絶滅に対する罪(殺人を含む)、[[奴隷]]化、拘禁、[[拷問]](1例の[[強姦]]を含む)、その他の非人道的行為 |
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* 1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反 |
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: 意図的な殺人、拷問・非人道的取扱い、意図的に身体又は健康に対する重大な苦痛又は重大な傷害を与えたこと、意図的に[[捕虜]]又は[[文民]]に対し公正かつ通常の裁判を受ける権利を奪ったこと、文民の不法な拘束 |
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同判決では、S21収容所で子供を含む1万2000人以上が収容され、その多くが拷問その他の非人道的行為を受けるとともに、被収容者のほとんどが付属の処刑場等で処刑されたと認定された<ref>{{Harvnb|山本|2011|p=88}}</ref>。 |
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刑期は、[[未決勾留]]を控除すると19年となり、被害者や人権団体等からは軽すぎるとの声もある<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2010/07/26/world/asia/26cambo.html |title=Khmer Rouge Figure Is Found Guilty of War Crimes |author=Seth Mydans |newspaper=New York Times |date=2010-07-25 |accessdate=2011-10-13 }}</ref>。一審判決に対しては、共同検察官と被告人の双方から[[控訴]]がなされた<ref name="Case001" />。 |
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また、一審判決では、民事当事者の求めた補償措置のうち、(1)被告人が公判手続中に謝罪し責任を認めた陳述を集約し、判決確定後に特別法廷の[[ウェブサイト]]に掲載すること、(2)当事者適格を認められた民事当事者が被告人の犯罪により被害を受けたことを確認・宣言することを認めた<ref>{{Harvnb|山本|2011|pp=91-92}}</ref>。民事当事者は、補償措置及び民事当事者適格性についての判断に対して控訴している<ref name="Case001" />。 |
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[[2012年]]2月3日、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され最高刑の終身刑判決を受けた<ref>[https://web.archive.org/web/20120204022159/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120203/asi12020313520002-n1.htm ポト派大虐殺で初の判決確定 元収容所長に終身刑]</ref>。 |
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=== 第2事件 === |
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[[ファイル: Trial Chamber 31 January 2011.jpg |thumb|left|200px|勾留審問のため出廷する[[ヌオン・チア]](2011年1月)]] |
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[[ヌオン・チア]](元人民評議会議長)、[[キュー・サムファン]](元国家幹部会議長)、[[イエン・サリ]](元副首相)、[[イエン・シリト]](元社会問題相)の4人に対する裁判。 |
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前述のとおり、共同検察官は、2007年7月18日、上記4人とカン・ケク・イウについて司法捜査開始の申立てを行ったが、共同捜査判事は、同年9月19日、ヌオン・チアに対する司法捜査開始と同時に、S21を中心とする第1事件とカンボジア全土に広がる事実を扱う第2事件とを分離することを決定した<ref name="Yamamoto2011-92"/>。 |
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[[ファイル: Khieu Samphan Initial Hearing Case 002.jpg|thumb|right|200px|冒頭審問に出廷する[[キュー・サムファン]](2011年6月)]] |
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4人は、[[2010年]]9月15日、共同捜査判事の捜査終結宣言により起訴された。これに対して4人とも抗告したが、公判前裁判部は、[[2011年]]1月13日、起訴の判断を是認(一部変更)し、4被告人は公判廷に送られることとなった。起訴の理由は、人道に対する罪、1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反、[[ジェノサイド]]、1956年カンボジア刑事法典における殺人・拷問・宗教的迫害の罪である<ref name="Case002">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/2 |title=CASE 002 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。対象となる[[公訴事実]]は、主に、(1)3度にわたる強制移住、(2)集団農場の設置・運営、(3)収容所及び処刑場での悪分子最教育と「敵」の抹殺、(4)[[チャム族]]、[[ベトナム人]]、仏教徒など特定集団に対する犯罪行為、(5)[[結婚]]の管理の5点である<ref name="Yamamoto2011-94"/>。 |
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2011年6月27日、冒頭審問が行われて公判が開始し、現在第一審に係属中である<ref name="Case002" />。4人とも[[無罪]]を主張している<ref name="Go on Trial" />。同年9月、第一審裁判部は、判決までの時間を短縮するため、第2事件をいくつかのセグメントに分離して順次審理・判決を行うことを決定し、最初のセグメントとしては強制移住に関する審理から開始することとした<ref>{{Cite press release |url=http://www.eccc.gov.kh/en/articles/severance-proceedings-ordered-case-002 |title=Severance of Proceedings Ordered in Case 002 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |date=2011-09-22 |accessdate=2011-12-04 }}</ref>。 |
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第2事件のうち最初の審理は、案件002/01で、国民の強制移住(フェーズ1・2)とその際に発生した犯罪(フェーズ1は、[[1975年]]4月17日の[[プノンペン]]市民の強制退去、フェーズ2は、1975年9月から[[1977年]]までに行われた全国規模でのカンボジア国民の強制移動を扱う)、およびトゥオル・ポ・チュレイでの旧ロン・ノル政権の幹部処刑に関する案件である<ref>案件002/01第1審判決文 Case File/Dossier No.002/19-09-2007/ECCC/TC、第10,11,12章。</ref>。 |
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第2事件に関する2番目の審理002/02では、チャム族およびベトナム人に対するジェノサイド(ただし、ベトナム領内での犯罪は除外)、カンボジア全土で行われた強制結婚・強姦、仏教徒に対する処置(ただし、トラム・コク人民公社で発生したものに限定)、国内粛清、旧クメール共和国の公務員の処置(ただし、トラム・コク人民公社、1月1日ダム作業所、S-21.クライン・タ・チャン収容所に限定)、収容所4ヶ所(S-21, クライン・タ・チャン収容所、オー・カンセン収容所、プノム・クラオル収容所)、労働作業所3ヶ所(1月1日ダム作業所、コンポン・チュナン空港設営作業所、トラペアン・トゥマのダム作業所)、トラム・コク人民公社が審理される<ref>[http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/2], [http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/1299]</ref>。 |
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同年11月21日からイエン・シリトを除く3名について検察側の冒頭陳述によって本格審理が始まり<ref name="opening">{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2841855?pid=8115330 |title=ポト派元最高幹部の本格審理開始、カンボジア特別法廷 |newspaper=AFP.BB News |date=2011-11-21 |accessdate=2011-12-04 }}</ref>、22日にはヌオン・チア、23日にはイエン・サリ、キュー・サムファンが反論に立った<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20111125214320/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111125/asi11112519320003-n1.htm |title=容疑を否認、カンボジアのポル・ポト裁判で元最高幹部の被告ら |newspaper=[[産経新聞]] |date=2011-11-25 |accessdate=2011-12-06 }}</ref>。12月5日から[[証拠調べ]]が行われる<ref>{{Cite press release |url=http://www.eccc.gov.kh/en/articles/brief-adjournment-hearing-evidence-case-002 |title=Brief Adjournment of Hearing of Evidence in Case 002 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |date=2011-11-18 |accessdate=2011-12-04}}</ref>。イエン・シリトについては、11月17日、[[認知症]]により公判に耐えられないとして第一審裁判部により釈放が命じられたが、検察官が異議申立てを検討している<ref name="opening" /><ref>{{Cite press release |url=http://www.eccc.gov.kh/en/articles/trial-chamber-decision-ieng-thirith%E2%80%99s-fitness-stand-trial |title=Trial Chamber Decision on Ieng Thirith's Fitness to Stand Trial |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |date=2011-11-18 |accessdate=2011-12-04 }}</ref>。 |
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[[2014年]]8月現在、第2事件のうち最初の審理002/01は第1審が終了している。002/01に関して、2014年8月7日に第1審の判決が出され、ヌオン・チア、キュー・サムファン両被告に終身刑が下された<ref>案件002/01第1審判決文 Case File/Dossier No.002/19-09-2007/ECCC/TC、パラグラフ1061.</ref>。 |
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[[2016年]][[11月23日]]、上訴審でヌオン・チア、キュー・サムファン両被告の[[人道に対する罪]]において終身刑が確定した<ref>{{Cite news|title=ポル・ポト政権元最高幹部2人の終身刑確定 |url=https://web.archive.org/web/20161124144245/http://www.sankei.com/world/news/161123/wor1611230025-n1.html |publisher= |newspaper=[[産経新聞]] |date=2016-11-23 |accessdate=2016-11-27 }}</ref><ref>{{Cite news|title=ポル・ポト派元最高幹部2人の終身刑が確定、カンボジア特別法廷 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3108975 |publisher=[[フランス通信社]] |newspaper= |date=2016-11-23 |accessdate=2016-11-27 }}</ref>。「[[ジェノサイドの罪]]」に関しては、2022年に裁判が終結するまでにヌオン・チアが2019年に死去し、キュー・サムファンのみ「ジェノサイドの罪」で有罪の終身刑判決を受けた<ref name="名前なし"/>。 |
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; ヌオン・チア |
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{{Main|ヌオン・チア}} |
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: 別名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、カンプチア共産党副書記長、党常務委員会委員、民主カンプチア人民評議会議長などを務めた。1998年に王国政府に投降し、フン・セン首相の[[恩赦]]を受けて釈放され、[[パイリン]]近郊の自宅で暮らしていた<ref name="afp">{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2314817?pid=2374499 |title=カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ |newspaper=AFP.BB.NEWS |date=2007-11-20 |accessdate=2011-08-18 }}</ref> が、[[2007年]]9月19日に逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した<ref name="Yamamoto2011-92"/><ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/nuon-chea |title=Nuon Chea: Biography |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。 |
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: 2019年8月4日に[[プノンペン]]の病院で死去<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20190805151732/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080400419&g=int|title=ヌオン・チア元議長死去=ポト派ナンバー2、終身刑確定-カンボジア|newspaper=時事ドットコム|date=2019-8-4|accessdate=2019-11-5}}</ref>。 |
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; キュー・サムファン |
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{{Main|キュー・サムファン}} |
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: 1975年、民主カンプチアの国家幹部会議長(国家元首)に任命され、1987年にポル・ポトがクメール・ルージュ党首を退いた後はこれを引き継いだ<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/khieu-samphan |title=Khieu Samphan: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。1998年にヌオン・チアとともに投降後、パイリンで暮らしていた<ref name="afp" /> が、2007年11月19日逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した<ref name="Yamamoto2011-92"/>。 |
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: 2004年、著書『カンボジア現代史と、私の下した決断の裏にある理由』の中で、ポル・ポト政権下の惨劇については何も知らなかったと弁明しているほか、これまでのインタビューでも、大量虐殺への関与を否認している<ref name="afp" />。 |
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{{multiple image |
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| align = right |
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| image1 = Mak Remissa-IS01.jpg | width1 = 150 | caption1 = 勾留審問に出廷する[[イエン・サリ]](2010年1月) |
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| image2 = 29 August 2011 Ieng Thirith (1).jpg | width2 = 153 | caption2 = 訴訟能力に関する予備審問に出廷する[[イエン・シリト]](2011年8月)}} |
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; イエン・サリ |
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{{Main|イエン・サリ}} |
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: 1975年から外交担当副首相を務めたほか、カンプチア共産党常務委員会委員・中央委員会委員を務めた<ref name="Sary">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/ieng-sary |title= Ieng Sary: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。ポル・ポトの義理の兄弟で、「ブラザー・ナンバー3」と呼ばれた<ref name="afp" />。1979年、政権崩壊とともに[[タイ王国|タイ]]へ逃亡し、同年行われたカンボジア人民革命評議会のプノンペン特別市法廷では欠席のまま死刑を宣告された。1996年8月、カンボジア国王令で1979年の有罪判決についての[[特赦]]及びクメール・ルージュ非合法化法(1994年制定)に関する訴追免除を受けるのと引換えに、部下数千人を引き連れて投降した<ref name="Sary" />。以後プノンペンで暮らしていた<ref name="afp" /> が、2007年11月12日に逮捕され、同月14日に勾留決定された<ref name="Yamamoto2011-92"/>。 |
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: 1996年の国王令による恩赦の効力については、特別法廷によって判断されるべき問題として、裁判手続に持ち越すことが国連とカンボジア政府の協定で合意されている<ref>協定第11条2項。</ref><ref>{{Harvnb|山本|2011|p=93}}</ref>。 |
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: 2013年3月14日、プノンペンで死去<ref name=yomiuri20130314 />。 |
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; イエン・シリト |
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{{Main|イエン・シリト}} |
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: イエン・サリの妻。また、ポル・ポトの最初の妻[[キュー・ポナリー]]の妹である。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。1998年にイエン・サリが国王の恩赦を受けて投降してからは、ともにプノンペンで暮らしていたが、2007年11月12日、サリとともに逮捕された<ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/ieng-thirith |title=Ieng Thirith: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。2012年9月13日、特別法廷は、[[認知症]]の進行を理由に釈放を認めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2900628?pid=9512491 |title=ポル・ポト政権の「ファーストレディー」釈放、重度の認知症 |publisher=AFP |date=2012-09-13 |accessdate=2012-09-13 }}</ref>。 |
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: 2015年8月22日、カンボジア西部のパイリンで死去<ref name="イエン・チリト氏死去=ポト派元最高幹部-カンボジア"/>。 |
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=== 第3事件及び第4事件 === |
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第1・第2事件以外の被疑者を訴追すべきか否かについては、カンボジア側と国際側の検察官の間で意見が分かれた。国際側検察官ロバート・ペティットが、クメール・ルージュ政権下の犯罪の包括的解明につながるとして訴追を主張したのに対し、カンボジア側検察官は、国民和解の必要性などを理由として訴追に反対した。内部規則71条による共同検察官意見不一致の場合の手続に従い、共同検察官は公判前裁判部に裁定を申し立てた。しかし、公判前裁判部では裁定に必要な多数(判事4人以上)を満たさず、内部規則71条4項(c)の規定により、一方の検察官(この場合国際検察官)の請求した司法捜査開始の申立てが維持されることとなった<ref name="Yamamoto2011-94"/><ref>国際側判事2名が訴追を支持したのに対し、カンボジア側判事3名は反対した。</ref><ref>{{Cite press release |url= http://www.eccc.gov.kh/en/articles/statement-regarding-prosecutorial-disagreement |title= Statement regarding prosecutorial disagreement |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |year=2010 |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。 |
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こうして、2009年9月7日、国際側検察官から共同捜査判事に対し5人の被疑者に対する司法捜査開始の申立てが行われた。これが第3事件と第4事件とに分割された<ref name="Case003">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/286 |title=CASE 003 | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。被疑者の氏名は公開されていない。 |
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第3・第4事件については、2009年9月、フン・セン首相が訴追への反対を公言し、また、[[2010年]]6月には共同捜査判事間の意見の不一致が報じられた<ref name="Yamamoto2011-95">{{Harvnb|山本|2011|p=95}}</ref>。 |
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国際捜査判事がブルンクに交代した後の2011年4月29日、共同捜査判事は、共同検察官に対し、第3事件について捜査の終了を通知した<ref name="Case003" />。一方、国際検事のケイリーは、ブルンク捜査判事の第3事件についての捜査が不十分であり、現地検証を含めた捜査を続行すべきである旨を述べ、両者の対立が明らかになった。NGO等からは、第3・第4事案の訴追を望まないカンボジア政府の意向に迎合してブルンクが不起訴に終わらせようとしているのではないかとの批判が巻き起こった<ref>{{Cite web |url=http://www.monstersandcritics.com/news/europe/news/article_1638953.php/Cambodia-war-crimes-judge-threatens-suit-against-prosecutor |title=Cambodia war crimes judge threatens suit against prosecutor |date=2011-05-13 |publisher=Monsters and Critics.com |accessdate=2011-09-03 }}</ref>(''後述[[#政治介入への批判]]'')。 |
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第4事件については共同捜査判事の捜査が継続中である<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/98 |title=CASE 004 | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。 |
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== 財政 == |
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{| class="wikitable" style="float:right" |
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|+ 国連負担分に対する拠出額上位国(2006年-2011年4月30日) |
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! 国名 !! 拠出額(米ドル) |
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|- |
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! {{JPN}} |
|||
| style="text-align:right" | 54,677,005 |
|||
|- |
|||
! {{AUS}} |
|||
| style="text-align:right" | 10,572,233 |
|||
|- |
|||
! {{DEU}} |
|||
| style="text-align:right" | 7,816,650 |
|||
|- |
|||
! {{USA}} |
|||
| style="text-align:right" | 6,732,000 |
|||
|- |
|||
! {{FRA}} |
|||
| style="text-align:right" | 6,244,645 |
|||
|- |
|||
! {{GBR}} |
|||
| style="text-align:right" | 5,401,650 |
|||
|- |
|||
! {{NOR}} |
|||
| style="text-align:right" | 3,997,427 |
|||
|} |
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協定によれば、カンボジア人の判事及びその他の職員の報酬、給与はカンボジア政府が負担し、国際側判事、国際側共同捜査判事、国際側共同検察官及び国連側によって採用された職員の報酬、給与は国連が負担することとされている。また、弁護人の報酬、証人の旅費、セキュリティ関係費用等も国連の負担とされている<ref>協定第15条、第16条、第17条。</ref>。 |
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そして、国連負担分の資金については、2003年5月の国連総会決議で、任意拠出金によって賄うことが決定された<ref name="228B"/>。 |
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2005年3月、アナン事務総長は国連で会合を開き、各国の拠出を求めたが、その時点では、特別法廷の所要期間は3年間、所要額は5630万ドル(国連側4300万ドル、カンボジア側1330万ドル)と見積もられていた<ref>{{Cite news |url= http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=13780 |title= Pledging conference held at UN to raise funds for special Khmer Rouge court | publisher=UN News Centre |newspaper=UN News |date=2005-03-28 |accessdate=2011-09-27 }}</ref>。しかし、特別法廷の活動期間が長引く中、2008年6月、同年末までの活動分として4370万ドル(国連側3770万ドル、カンボジア側610万ドル)が新たに必要であると発表され<ref>{{Cite news |url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=27144 |title=Cambodia: UN-backed tribunal trying Khmer Rouge leaders calls for more funds |publisher=UN News Centre |newspaper=UN News |date=2008-06-24 |accessdate=2011-09-27 }}</ref>、同年7月に改定され承認された2005年-09年予算は、1億0042万ドル(国連側7867万ドル、カンボジア側1868万ドル、各予備費7.5%)となった<ref name="Yamamoto2011-95"/>。 |
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さらに、2010年予算は3130万ドル、2011年予算は4070万ドルとして承認された<ref name="Yamamoto2011-95"/> が各国からの拠出は追いつかず、2010年5月、[[潘基文]]事務総長は同年分の2100万ドル以上(国連側1460万ドル、カンボジア側650万ドル以上)、また2011年分の4680万ドル全額について資金の手当がされていないとして、国連で会合を開いて緊急の資金アピールを行った<ref>{{Cite news |url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=34805 |title=Donors urged to contribute to UN-backed genocide court in Cambodia |publisher=UN News Centre |newspaper=UN News |date=2010-05-25 |accessdate=2011-09-27 }}</ref>。 |
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2006年の運営開始から2011年4月末までの、各国から国連負担分に対する拠出額累計は1億0493万ドル(その他の団体からの拠出及び雑収入を合わせると1億0977万ドル)であり、拠出額の多い国は右表のとおりである<ref>{{Cite web |url=http://www.unakrt-online.org/09_Finances.htm |title=UNAKRT Finances: Details of UNAKRT Pledges and Contributions - 2006 to 2011 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials |year=2011 |accessdate=2011-09-04 }}</ref>。これに加え、カンボジア負担分についても、実際にカンボジアが拠出できている額は一部で、日本等が拠出を行っている<ref name="Yamamoto2011-95"/>。 |
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== 課題と成果 == |
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=== 汚職疑惑 === |
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2007年2月14日、NGO「オープン・ソサエティ・ジャスティス・イニシアティヴ」により、特別法廷の贈賄疑惑が指摘され、大きな問題となった。これによれば、判事を含むカンボジア側職員が、採用された見返りとして、特別法廷から受け取る給与の一定割合をカンボジア政府の採用担当者に対して支払っているとされ、法廷の独立性にも疑問が投げかけられた<ref>{{Cite web |url=http://www.soros.org/initiatives/justice/news/cambodia_20070214 |title=Corruption Allegations at Khmer Rouge Court Must Be Investigated Thoroughly |date=2007-02-14 |publisher=Open Society Justice Initiative |accessdate=2011-09-05 }}</ref>。 |
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2008年6月、複数のカンボジア人スタッフがキックバックの事実を認め、これらのスタッフからの通報が{{仮リンク|国連事務局内部監査部|label=OIOS|en|United Nations Office of Internal Oversight Services}}に送付された。OIOSは調査を開始し、同年9月、その調査結果をカンボジア政府に送付した。その内容は公表されていないが、報道によれば、事務局長のセアン・ヴィソット自身がキックバック金を集約していたとされている。カンボジア政府からは公式に対応はなく、またヴィソットは同年11月健康問題を理由に休暇に入った<ref>{{Harvnb|山本|2011|p=96}}</ref>。以後、クラン・トニー事務局長代理が任務に当たっている。 |
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また、これと並行して、汚職防止対策をめぐってもカンボジア政府と国連との間で交渉が行われたが、カンボジア側職員からの内部通報は自らに対して行わせることを主張するカンボジア政府と、[[萎縮効果]]を懸念する国連側との間で交渉は難航し、より根本的な問題として特別法廷内における国内側職員と国連側職員の相互不信も指摘された<ref>{{Cite web |url= http://www.nytimes.com/2009/04/10/world/asia/10cambo.html |title= Corruption Allegations Affect Khmer Rouge Trials |author=Seth Mydans |date=2009-04-09 |publisher=New York Times |accessdate=2011-09-10 }}</ref>。最終的に、2009年8月11日、カンボジア政府と国連は、職員からの内部通報を秘密を守りながら受理する機関として独立カウンセラーを設置することとし、その地位にカンボジア会計検査院長のウス・チョルンを指名することを合意した<ref>{{Cite press release |url=https://press.un.org/en/2009/l3146.doc.htm |title= Joint Statement of Establishment of Independent Counsellor at Extraordinary Chambersin Courts of Cambodia |publisher=Department of Public Information, United Nations |date=2009-08-12 |accessdate=2011-09-10 }}</ref>。 |
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=== 政治介入に対する批判 === |
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フン・セン首相は、前述(''[[#特別法廷設立の経緯]]'')のように、特別法廷発足前から、訴追対象者を広げることには否定的であったが、2009年9月、第3・第4事件の司法捜査が開始すると、第1・第2事件以外の追加訴追は再び内戦を招くとして改めて反対を表明した。フン・センは、国際側の判事や検事が、カンボジアで問題を生じさせるよう本国政府から指示を受けているのだとも発言した。これに対しては、フン・セン自身が初期のクメール・ルージュに所属していた経歴があり、フン・センの政治的盟友にクメール・ルージュの元メンバーが多いため、彼らを守ろうとしているのだとの批判がされている<ref>{{Cite news |url= http://vibykhmer.blogspot.com/2009/09/cambodia-pm-accuses-other-countries-of.html |title=Cambodia PM accuses other countries of stirring unrest |date=2009-09-09 |publisher=Associated Press |author=Sopheng Cheang |accessdate=2011-09-03 }}</ref>。さらに、2010年10月、プノンペンを訪問した潘基文事務総長との会談においても、フン・センは、追加訴追は認められないと述べた<ref name="thenational">{{Cite web |url=http://www.thenational.ae/featured-content/latest/khmer-rouge-crimes-in-legal-limbo?pageCount=0 |title= Khmer Rouge crimes in legal limbo |author=Jared Ferrie |date=2011-07-24 |accessdate=2011-09-03 }}</ref>。 |
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2011年4月、共同捜査判事が第3事件の捜査終結を通告したのを機に、国連は第3事件を訴追させない方針を固め共同捜査判事にその旨指示したのではないかとの報道がされ、議論が再燃した<ref name="thenational" />。これに対し同年6月14日、国連側は、共同捜査判事に対してそのような指示はしておらず、特別法廷はカンボジア政府、国連、ドナー国、市民団体のいずれからも独立であるとの声明を発表した<ref>{{Cite news |url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=38715 |title=UN rejects allegations that it interfered in work of Cambodian genocide court |date=2011-06-14 |newspaper=UN News |publisher=UN News Centre |accessdate=2011-09-03 }}</ref> が、カンボジア政府の政治介入に対する疑念や批判は続いている<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2011/06/17/world/asia/17cambodia.html |title=Conflicts Imperil Future Khmer Rouge Trials |author=Seth Mydans |newspaper=New York Times |date=2011-06-16 |accessdate=2011-08-30 }}</ref>。 |
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=== 被告人の高齢化 === |
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第2事件の被告人4人は、2011年6月の公判開始時点で、79歳(イエン・シリト、キュー・サムファン)から85歳(イエン・サリ)までと、いずれも高齢である上、裁判には数年間かかると予想され、その間にイエン夫妻が死去、残る被告人が存命の間に裁判終了まで漕ぎ着けられるかも懸念事項となっていた<ref name="Go on Trial">{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2011/06/27/world/asia/27cambodia.html |title=Ex-Khmer Rouge Leaders Go on Trial in Cambodia |newspaper=New York Times |date=2011-06-26 |accessdate=2011-09-10 }}</ref><ref name="First hearing">{{Cite news |url=http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-13922564 |title= Cambodia: First hearing ex-Khmer Rouge leaders' trial |newspaper=BBC |date=2011-06-27 |accessdate=2011-09-10 }}</ref>。 |
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=== 成果 === |
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[[ファイル:29 August 2011 Courtroom (3).jpg|thumb|right|240px|特別法廷の傍聴席(2011年8月29日、イエン・シリト、ヌオン・チアの訴訟能力に関する予備審問)]] |
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以上のような問題を抱える一方で、カンボジア特別法廷が設立され、まず第1事件の一審判決に漕ぎ着けたことについては、カンボジアにおける「{{仮リンク|不処罰|en|Impunity}}」の歴史を克服し、正義を実現する第一歩であると評価されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hrn.or.jp/activity/topic/post-71/ |title=【声明】カンボジア特別法廷で初の有罪判決は歴史的一歩 :正義の実現のため関係者はさらなる取組みを |publisher=ヒューマンライツ・ナウ |date=2010-08-13 |accessdate=2011-10-13 }}</ref>。 |
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また、被害者参加制度が設けられたことにより、多数(第2事件では3850名<ref name="Go on Trial" />)の民事当事者が参加するとともに、裁判を機に被害を初めて語り始めた人々もいるなどの意義があると指摘されている<ref name="Yamamoto2011-97">{{Harvnb|山本|2011|p=97}}</ref>。同時に、多くの傍聴者が法廷を訪れ(第1事件の傍聴者は延べ約3万1000人)、裁判の一部がテレビで放送されるなど報道で伝えられるとともに、各地で公聴会・集会などの[[アウトリーチ]]活動が頻繁に行われていることにより、事実・歴史を若い世代に伝える教育効果も大きいと指摘されている<ref name="First hearing" /><ref name="Yamamoto2011-97"/><ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/about-eccc/visitor-info/group-visits |title=Group visits to the ECCC |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-09-10 }}</ref>。 |
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そのほか、クメール・ルージュ政権により知識人が殺害の標的とされたことから、カンボジアで司法を担う人材が極端に不足する中、カンボジア国内で特別法廷を運営することにより、[[法曹|法律家]]だけでなく、[[通訳]]等を含む司法関係職種の能力構築(キャパシティ・ビルディング)を促すことができることが指摘されている<ref name="Yamamoto2011-97"/>。 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite journal |和書 |author=小倉貞男|authorlink=小倉紀蔵#家族 |url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol15-3/15-3ogura.pdf |title=クメール・ルージュ国際人道裁判で何が裁かれようとしないのか |format=PDF |year=2003 |month=3 |journal=立命館国際研究 |volume=15 |issue=3 |pages=57-71 |accessdate=2011-08-19|ref={{SfnRef|小倉|2003}}}} |
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* {{Cite web|和書|url= http://hrn.or.jp/activity/krtsiryou3.pdf |title=「クメール・ルージュ (KR) について」あるいは「KRが政権をとれた背景とは」 |author=熊岡路矢|authorlink=熊岡路矢 |publisher=ヒューマンライツ・ナウ |accessdate=2011-08-19 |format=PDF|ref={{SfnRef|熊岡|2008}}}} |
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* {{Cite journal |和書 |url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/223/022312.pdf |format=PDF |author=権香淑 |title=【短信:カンボジア】ポル・ポト派元幹部らを裁くための特別法廷設置法の改正 |journal=外国の立法 |year=2005 |month=2 |issue=223 |pages=152-56 |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-08-29|ref={{SfnRef|権|2005}}}} |
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* {{Cite web|和書|url=http://hrn.or.jp/activity/081219krtsymp.pdf |title=シンポジウム 平和構築と人権「カンボジア特別法廷の挑戦」報告書 |format=PDF |author=ヒューマンライツ・ナウ |publisher=ヒューマンライツ・ナウ|year=2008 |accessdate=2011-08-19|ref={{SfnRef|ヒューマンライツ・ナウ|2008}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=スティーブ・ヘダー |coauthors=ブライアン・D・ティットモア |others=四本健二訳 |title=カンボジア大虐殺は裁けるか――クメール・ルージュ国際法廷への道 |publisher=現代人文社 |year=2005 |id=ISBN 4-87798-265-5|ref={{SfnRef|ヘダー|ティットモア|2005}}}} |
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* {{Cite journal |和書 |author=山本晋平 |title=旧ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の犯罪を裁く:「カンボジア特別法廷」の挑戦―日本発の国際人権NGOの視点から |journal=自由と正義 |volume=62 |issue=4 |pages=88-98 |year=2011 |month=4 |publisher=[[日本弁護士連合会]]|ref={{SfnRef|山本|2011}}}} |
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==関連項目== |
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* [[シエラレオネ特別法廷]] |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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{{Commonscat|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}} |
{{Commonscat|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}} |
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* [http://www.eccc.gov.kh/ カンボジア特別法廷](公式サイト、[[クメール語]];[http://www.eccc.gov.kh/en 英語]・[http://www.eccc.gov.kh/fr フランス語]) |
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*[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2314817/2374499 カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ(元幹部の各経歴、最近の顔写真の掲載あり)(AFP.BB.NEWS)2007年11月20日18:04] |
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** {{PDFlink|[http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/KR_Law_as_amended_27_Oct_2004_Eng.pdf 民主カンプチア時代に行われた犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法]}}(2004年10月改正後){{En icon}} |
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** {{PDFlink|[http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/Agreement_between_UN_and_RGC.pdf 民主カンプチア時代に行われた犯罪のカンボジア法の下における訴追に関する国際連合とカンボジア王国政府との協定]}}{{En icon}} |
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* [http://www.unakrt-online.org/01_home.htm 国際連合クメール・ルージュ裁判支援室 (UNAKRT)]{{En icon}} |
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* [http://www.yale.edu/cgp/index.html Cambodian Genocide Program]([[イェール大学]]){{En icon}} |
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* [http://law.scu.edu/site/beth-van-schaack/khmer-rouge-documents.cfm Khmer Rouge Documents]([[サンタクララ大学]]ロースクール){{En icon}} |
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* [http://www.cambodiatribunal.org/ Cambodia Tribunal Monitor]{{En icon}} |
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[[fr:Chambres extraordinaires au sein des tribunaux cambodgiens]] |
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[[it:Tribunale Speciale della Cambogia]] |
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[[sv:Internationella domstolen i Kambodja]] |
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[[zh:柬埔寨法院特別法庭]] |
2024年5月4日 (土) 21:56時点における最新版
カンボジア特別法廷 | |
---|---|
អង្គជំនុំជម្រះវិសាមញ្ញក្នុjងតុលាការកម្ពុជា | |
カンボジア特別法廷 | |
設置 | 1997年 |
国 | カンボジア |
所在地 | プノンペン |
ウェブサイト | http://www.eccc.gov.kh |
最高審裁判長 | |
現職 | コン・スリム |
カンボジア特別法廷(カンボジアとくべつほうてい、クメール語: អង្គជំនុំជម្រះវិសាមញ្ញក្នុjងតុលាការកម្ពុជា, 英語: Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia, フランス語: Chambres extraordinaires au sein des tribunaux cambodgiens)とは、1975年から1979年の民主カンプチアでクメール・ルージュ政権によって行われた虐殺等の重大な犯罪について、政権の上級指導者・責任者を裁くことを目的として、2001年に同国裁判所の特別部として設立された裁判所。2003年6月、カンボジア王国政府と国際連合との協定が成立し、国連の関与の下、2006年7月から運営を開始した。略称はECCC(英語)、CETC(フランス語)。
沿革
[編集]クメール・ルージュによる虐殺とカンボジア内戦
[編集]1970年代後半のカンボジアでは、ポル・ポト率いる共産主義政党クメール・ルージュが政権を握った。1975年4月17日、クメール・ルージュ軍は首都プノンペンを占領し、親米のロン・ノル政権(クメール共和国)を打倒した(後に国名を民主カンプチアと改称)。
クメール・ルージュは、中華人民共和国での文化大革命の毛沢東思想の影響の下に、知識人批判、学校・教育制度の解体、仏教を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。
都市住民の強制大量移住や、強制労働を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・イスラム教関係者、少数民族、党内外の反対派を次々に粛清した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、アメリカ合衆国中央情報局の推計によれば、約170万人から約200万人、ミィ・サムディ(プノンペン国立医科大学教授)の推計によれば、224万人とされる[1][2]。
1979年1月7日にベトナム人民軍の侵攻により、クメール・ルージュは政権を追われ、ゲリラ勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、シハヌーク王党派、ソン・サン共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親越(親ソ連)のヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)との間で内戦が続いた[2][3]。
1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令により、プノンペン特別市法廷 が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポト及びクメール・ルージュのナンバー2と言われたイエン・サリの2人に死刑が宣告された[4]。
1990年、プノンペン政府のフン・セン首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王として、カンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。
1996年、イエン・サリが同党を離脱して恩赦と引換えに王国政府に投降した。1997年半ば、党内抗争の中タ・モクによって逮捕され身柄を拘束されていたポル・ポトが1998年4月に死去し、そのタ・モクも王国政府に逮捕され、さらに有力な指導者キュー・サムファン、ヌオン・チアが投降し、クメール・ルージュは崩壊した[2][5]。ポル・ポトの死後、彼個人の責任を追及する道は閉ざされた。一方で、これを機に、生存する指導者の責任を追及すべきだとする気運も高まった[6]。
特別法廷設立の経緯
[編集]イエン・サリへの恩赦や、ポル・ポトの死亡、タ・モクの逮捕は、クメール・ルージュ指導者の法的責任を追及すべきではないかとの議論を巻き起こすこととなった[7]。また、1996年にトマス・ハマーベリがカンボジアの人権問題に関する国連事務総長特別代表に任命され、同代表も法的責任追及に向けて取り組んだ[8]。その結果、国連人権委員会は、1997年4月11日、コフィー・アナン事務総長に対し、「過去の重大なカンボジア法・国際法違反に対処するためカンボジアから支援の要請があったときは、これを検討すること」を要請する決議を採択した[9]。
1997年6月24日、ノロドム・ラナリット第1首相(フンシンペック党)とフン・セン第2首相(カンボジア人民党)は、アナン事務総長宛に連名で「1975年から1979年までのクメール・ルージュ支配の間に行われたジェノサイド及び人道に対する罪に責任を有する者を裁くため、国連及び国際社会の支援を求める」旨の書簡を送付し、その中で、カンボジアは裁判を実行するための資源と専門家を有していない旨を述べた[10]。国連に支援依頼の書簡を送った直後の1997年7月、フン・センはクーデターにより第1首相のラナリットを排除し、実権を握った。
1997年12月、国連総会はこの要請について、専門家グループの派遣の可能性を含め事務総長に対し検討するよう求める決議を採択した[11]。これを受けて事務総長は3名の専門家グループを任命した。専門家グループは、カンボジアを訪問するなど調査の上、1999年2月22日、国際法上・国内法上の重大な犯罪の存在が認められ、クメール・ルージュ指導者に対する法的手続の実施を正当化するに足りる証拠も存在するとの報告書を提出した。そして、その中で、安保理又は総会の下に、特定目的の国際法廷を設置すべきであると勧告した[12]。
これに対してカンボジア政府は、1999年3月3日付事務総長宛書簡で、カンボジアの平和と国民和解の必要性を考慮に入れるべきであり、やり方を間違えば旧民主カンプチアの将官らにパニックを引き起こし、再度の内戦につながりかねないと警告し、その後の事務総長との会談でも、タ・モクについて国内法廷で裁くことを主張した。一方、事務総長側は、司法の最低限の国際水準を確保できるかや、裁判の対象者を限定することについて懸念を示した[12]。
2001年8月、カンボジア国民議会は、民主カンプチア時代に行われた犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法(以下「特別法廷設置法」)を制定した(8月10日公布)[13]。同法によれば、特別法廷は国内法廷の特別部とされる一方、国連への妥協の結果として、第一審はカンボジア人判事3人と国際判事2人で構成されることとなった。しかし、司法の国際水準の確保を求める国連側の懸念は残った。特に、投降時に恩赦を受けたクメール・ルージュ指導者を裁判にかけることについては、フン・セン首相は内戦の再発につながるとして否定的なコメントを出し、主要指導者が訴追されないなら支援を打ち切るとする国連側との対立が残った[14]。
その後、国連・カンボジア間で締結される協定と国内法との優劣関係や、対人管轄権の範囲などをめぐって国連とカンボジアとの交渉は難航し[15]、国連は、2002年2月8日、「このままでは国連の求める独立・公平・客観性が保証されない」として、カンボジアとの交渉を打ち切る声明を発表した[16]。
しかし、日本、フランス等の関係諸国が交渉再開に向けて外交交渉を行った結果、国連総会は、2002年11月20日の委員会で、事務総長に対し交渉の再開を求める決議を採択した[17][18]。これを受けて、2003年1月、交渉が再開され、同年3月、国連とカンボジア政府との合意内容が明記された草案が作成された[19]。同年5月13日、国連総会もこれを承認する決議を採択した[20][21]。
そして、2003年6月6日、民主カンプチア時代に行われた犯罪のカンボジア法の下における訴追に関する国際連合とカンボジア王国政府との協定(以下「協定」)が締結され、閣僚評議会担当相のソック・アンと国連代理弁護士のハンス・コレルとの間で調印が行われた[20]。協定では、「1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習及びカンボジアによって承認された国際条約についての犯罪及び重大な違反」について、「民主カンプチアの上級指導者及び最も責任を有する者」を本特別法廷の管轄とし、第一審裁判部はカンボジア人判事3人と国際判事2人、最高審裁判部はカンボジア人判事4人と国際判事3人で構成されることなどが合意された。最高刑は終身禁錮とされた[22]。
その後、カンボジア国内において協定を承認するとともに、特別法廷設置法をこれに整合するように改正する必要があったが、2003年7月の総選挙後の与野党対立から1年以上議会が開かれず、2004年8月、ようやく議会が開会して審議が行われた。そして、カンボジア国民議会は、同年10月、国連との協定を承認するとともに、それに沿うように、特別法廷設置法を改正した[23][24]。改正の要点は、
である[25]。
改正法が反対票なしで国民議会(下院)を通過した日、フン・セン首相は、記者に「我々が待っていたものが今日達成された」と述べた[26]。
2005年4月までに、日本の2100万ドルをはじめとして各国から3800万ドルの資金拠出が表明され、資金面でも裁判の準備が整った[27]。
運営開始
[編集]2006年7月3日、任命を受けたカンボジア側・国際側双方の裁判官らの宣誓式がプノンペン王宮で行われるとともに、共同検察官による予備捜査が始まり、特別法廷は運営を開始した[28][29]。
同月、最初の司法官会議が開かれ、内部規則(Internal Rules)を定めることを決定した。特別法廷の手続は、基本的には国連との協定、特別法廷設置法、カンボジアの刑事訴訟法に従って行われるが、特別法廷に特殊な部分、国内法が国際基準に合致していない部分などがあったことから、内部規則によって補充する必要があったためである。しかし、司法官内部のカンボジア側と国連側の対立があり、またカンボジア政府の介入も取り沙汰されて長引き、同年11月に原案が公開されてパブリックコメント手続を経たが、2007年6月12日にようやく採択された[30][31][32]。
一方、こうして裁判が遅延している間の2006年7月21日、被疑者の1人と目されていた身柄拘束中のタ・モクが病死した[33]。
2007年7月18日、共同検察官が、身柄拘束中であったカン・ケク・イウのほか、ヌオン・チア、キュー・サムファン、イエン・サリ、イエン・チリトの計5名について司法捜査開始の申立てを行い、同年11月までにヌオン・チア以下4人も逮捕・勾留されたことにより、裁判手続は本格的に始動した。
イエン・サリは公判中の2013年3月14日に87歳で死去、イエン・チリトも認知症で裁判が停止されたまま2015年8月22日に83歳で死去。2013年当時、残る3人のうちカン・ケク・イウの裁判が第1事件として最高審に係属中、残り2人の裁判が第2事件として係属中であり、共に高齢であることから、公判維持が難しくなっているとされた[34][35]。2017年現在、3人のうちカン・ケク・イウの裁判が終了。残る2人は人道に対する罪において終身刑が確定した一方[36]、「ジェノサイドの罪」に関しては、2022年に裁判が終結するまでにヌオン・チアが2019年に死去し、キュー・サムファンのみ「ジェノサイドの罪」で有罪の確定判決を受けた[37]。 このほか、追加の被疑者数名(氏名不開示)についても第3事件、第4事件として捜査が進行中である(詳細は後記#裁判手続の推移参照)。
管轄
[編集]2004年改正後の特別法廷設置法によれば、特別法廷が裁判の対象とする行為(事物管轄)は、1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習、及びカンボジアの承認した国際条約の犯罪及び重大な違反とされ、裁判の対象とする者(人的管轄)は、「民主カンプチアの上級指導者」及び当該犯罪及び重大な違反に「最も責任を有する者」とされている。特別法廷設置法は、具体的に次の者(上記期間の行為に限る)を訴追する権限を与えている[38]。
- 1956年カンボジア刑事法典に定められた、殺人、拷問、宗教的迫害の罪を犯した者(3条。なお同法典に定められた公訴時効は30年延長される。また、刑は最高で終身禁錮までに限られる。)
- ジェノサイド条約に規定されるジェノサイドの罪を犯した者(4条)
- 人道に対する罪を犯した者(5条)
- 1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反を実行し、又は命令した者(6条)
- 武力紛争の際の文化財の保護に関する条約(1954年ハーグ条約)に照らし、武力紛争の際の文化財の破壊に最も責任を有する者(7条)
- 外交関係に関するウィーン条約に照らし、国際的な保護を受ける者に対する犯罪に最も責任を有する者(8条)
組織と手続
[編集]カンボジア特別法廷は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 (ICTY)、ルワンダ国際戦犯法廷 (ICTR)、国際刑事裁判所 (ICC) のような国際法廷と異なり、カンボジア国内裁判所の特別部として設置されている点に特色がある。同時に、国連との協定により、判事・検事その他のスタッフに、カンボジア人だけでなく国連の任命する外国人が当てられ、また、カンボジア国内法だけでなく国際法も適用される。こうした特徴から、「混合法廷」(hybrid tribunal) と呼ばれる[39]。
裁判部
[編集]カンボジア特別法廷は、第一審と最高審の二審制であり、そのほか、捜査段階の裁定を行うための公判前裁判部が設けられている。
公判前裁判部 (Pre-Trial Chamber) は、捜査段階において、共同捜査判事の決定に対する抗告等を審理する法廷である。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、決定には5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[40]。
第一審裁判部 (Trial Chamber) は、捜査が終結し起訴された場合に、第一審の公判(トライアル)を行う法廷である。証人尋問その他の証拠、当事者の弁論を踏まえて、被告人の有罪・無罪を判断する。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、有罪の判決 (verdict) には少なくとも5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[40]。
最高審裁判部 (Supreme Court Chamber) は、第一審の決定・判決に対する上訴を審理する法廷である。カンボジア人判事4人と国際判事3人で構成され、決定には7人中5人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[40]。
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共同捜査判事
[編集]共同捜査判事 (Co-Investigating Judges) は、共同検察官からの司法捜査開始の申立て (Introductory Submission) を受けて、司法捜査を行う権限を有する。検察官ではなく捜査判事が捜査の主体になる点は、他の国際法廷と異なるところであり、大陸法(フランス法)の影響を受けたカンボジア刑事手続法の特徴である[41]。
共同捜査判事は、被疑者の有利にも不利にも偏らず、公平な立場から捜査を行う義務があり、被疑者の取調べ、被害者・証人の事情聴取、証拠物の押収、専門家の意見の聴取、現場検証、召喚状・逮捕状・勾留命令の発付、証人保護措置、各種機関(国家、国連、国際機関、NGO等)に対する情報提供・支援依頼など、真実発見のための様々な活動を行う権限を有する。また、当事者(共同検察官、被疑者、民事当事者)は共同捜査判事に対しこれらの捜査手段をとるよう申し立てることができる[41]。
捜査を終えると、共同捜査判事は全当事者及びその代理人にその旨を通知する(当事者は15日以内に捜査続行の申立てをすることができ、これが却下されたときは公判前裁判部に抗告をすることができる)。捜査終了の決定が確定すると、共同捜査判事は事件記録を共同検察官に送付し、共同検察官が最終送致書を作成して、共同捜査判事に対し起訴又は不起訴の意見を提出する。ただし、共同捜査判事は共同検察官の意見には拘束されず、捜査終結宣言 (Closing Order) を発し、被疑者を起訴して公判廷に送るか、又は不起訴(却下)とするかを判断する。不起訴となるのは、(1)共同検察官が送致した犯罪事実が特別法廷の管轄に属するものではない場合、(2)犯罪の実行者が特定されていない場合、(3)被疑者に対する嫌疑を裏付ける十分な証拠がない場合である。起訴の判断に対しては共同検察官からのみ抗告を行うことができ、不起訴命令に対しては共同検察官及び民事当事者から抗告することができる。捜査終結宣言が確定した後は、共同捜査判事は役割を終えるが、不起訴後に新証拠が現れた場合は、共同検察官の申立てにより司法捜査が再開される場合がある[41]。
共同捜査判事はカンボジア人判事1名と国際判事1人が務め、現在は次の2名である[41]。当初の国際捜査判事はフランスのマルセル・ルモンドであったが、カンボジア人捜査判事との対立が報じられる中、第2事件の捜査終結宣言を出した2010年9月15日当日、個人的事情を理由として辞任を表明し[42]、同年12月1日、ドイツのジークフリート・ブルンクが捜査判事に任命された[43]。しかし、2011年10月9日、ブルンクは第3事件及び第4事件に関するカンボジア政府からの介入が取り沙汰されてきたことに言及し、辞任を表明した[44][45]。
- ユー・ブンレン( カンボジア)
- ロラン・カスパー=アンセルメ( スイス、予備)
共同検察官
[編集]共同検察官 (Co-Prosecutors) は、共同捜査判事の行う司法捜査の前に予備的捜査 (preliminary investigation) を行うほか、司法捜査(公判前裁判を含む)、公判、上訴の全段階を通じて訴追側当事者として活動する。また、被害者の申立てを取り扱う[46]。
共同検察官はカンボジア人検事1人と国際検事1人が務め、現在は次の2名である[46]。当初の国際検事はカナダのロバート・ペティットであったが、第3・第4事件の訴追の是非をめぐってカンボジア人検事と対立する中、個人的事情を理由として2009年6月23日辞任を表明し[47]、同年9月1日からオーストラリアのウィリアム・スミスが臨時代行を務めた[48] が、同年12月、アンドリュー・ケイリーが任命された[49]。
事務局
[編集]裁判部、共同捜査判事、検察局の行う事務全般を支えるため、事務局が置かれている。カンボジア政府の任命する事務局長と、国連事務総長が任命する事務局次長が全体を統括する[50]。
弁護
[編集]事務局に弁護支援部 (Defence Support Section) が設けられており、被告人に弁護人の選任について支援し、弁護人に対して費用の支払を含め法的・行政的な支援を提供する[51]。
被害者の参加
[編集]協定や特別法廷設置法には、裁判手続への被害者の参加については定めがなかった。しかし、内部規則の制定過程で、NGOの活動等を受けて、2006年11月の草案から被害者参加制度や被害者を支援する部署に関する規定が盛り込まれ、2007年6月の内部規則採択で正式に実現した[52]。2008年2月の審理で、国際刑事法に関わる法廷としては初めてとなる被害者参加が実現した[53]。
特別法廷の管轄に属する犯罪の被害者は、共同検察官に対し陳情を行うことができ、共同検察官はそうした被害者の利益を考慮に入れて訴追を開始するか否かを判断する。また、被害者は、民事当事者 (Civil Party) として裁判手続に参加することができるとともに、「集合的かつ精神的(非金銭的)補償措置」を求めることができる。このような被害者参加の制度は、協定に謳われている、正義の実現や国民和解という特別法廷の目的から見て重要な意義を有すると考えられている。同時に、30年以上救済を求める手段が与えられなかった被害者にとって、司法的救済が可能となる初めての機会でもある[54][55]。
事務局には、被害者支援部 (Victims Support Section) が設置されている。被害者支援部は、被害者による申立てや公判への出席を支援したり、代理人となる弁護士の名簿を提供したりするなどの活動を行っている[56]。
法廷の設営
[編集]カンボジア特別法廷の建物は、首都プノンペンの市街から16kmほどはずれにある。傍聴席は482席あり、外交官、メディア、一般傍聴人が傍聴できるようになっている[57]。建物はカンボジア政府がその費用で提供することとされている[58]。
特別法廷の公式言語はクメール語とされ、公式作業言語はクメール語、英語、フランス語とされている[59]。審理の際には、英語、クメール語、フランス語の同時通訳が提供されている[57]。
-
法廷正面
-
審理の様子
-
傍聴席
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法廷とのビデオリンク設備を備えた別室。被告人が体調不良で出廷困難な場合は、別室への移動が許される
裁判手続の推移
[編集]第1事件
[編集]元S21(トゥール・スレン)政治犯収容所所長、カン・ケク・イウに対する裁判
共同検察官は、2007年7月18日、共同捜査判事に対し、カン・ケク・イウ及び後述(第2事件)の4人について司法捜査開始申立てを行った。共同捜査判事は、まず、カン・ケク・イウについて嫌疑に相当の理由があるものと認め、司法捜査を開始し、勾留を決定した[60]。これにより、カン・ケク・イウは、同月31日に軍の拘置施設から、カンボジア特別法廷の拘置所に移監された。2008年8月8日、共同捜査判事により起訴され、公判前裁判部により起訴の判断が是認(一部変更)されたのが同年12月5日であった。2009年2月17日及び18日、第一審裁判部で公判の冒頭審問が行われた。実質的な審理は同年3月30日に始まり、同年9月17日、証拠の提示が終わった。その間の証拠調べ期日は72日にわたり、証人24人、民事当事者22人、専門家9人が出廷した。同年11月23日から27日にかけての5日間、最終弁論が行われて公判は結審した[61]。審理の中で、カン・ケク・イウは、自らの責任を認め、謝罪の言葉を述べた[62]。
2010年7月26日に一審判決が出され、次の罪で有罪とされ、禁錮35年を宣告された(1999年5月から2007年7月31日までのカンボジア軍裁判所による違法な拘禁に対する救済措置として30年に減刑)[61]。
- 人道に対する罪(政治的理由による迫害)
- 1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反
同判決では、S21収容所で子供を含む1万2000人以上が収容され、その多くが拷問その他の非人道的行為を受けるとともに、被収容者のほとんどが付属の処刑場等で処刑されたと認定された[63]。
刑期は、未決勾留を控除すると19年となり、被害者や人権団体等からは軽すぎるとの声もある[64]。一審判決に対しては、共同検察官と被告人の双方から控訴がなされた[61]。
また、一審判決では、民事当事者の求めた補償措置のうち、(1)被告人が公判手続中に謝罪し責任を認めた陳述を集約し、判決確定後に特別法廷のウェブサイトに掲載すること、(2)当事者適格を認められた民事当事者が被告人の犯罪により被害を受けたことを確認・宣言することを認めた[65]。民事当事者は、補償措置及び民事当事者適格性についての判断に対して控訴している[61]。
2012年2月3日、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され最高刑の終身刑判決を受けた[66]。
第2事件
[編集]ヌオン・チア(元人民評議会議長)、キュー・サムファン(元国家幹部会議長)、イエン・サリ(元副首相)、イエン・シリト(元社会問題相)の4人に対する裁判。
前述のとおり、共同検察官は、2007年7月18日、上記4人とカン・ケク・イウについて司法捜査開始の申立てを行ったが、共同捜査判事は、同年9月19日、ヌオン・チアに対する司法捜査開始と同時に、S21を中心とする第1事件とカンボジア全土に広がる事実を扱う第2事件とを分離することを決定した[60]。
4人は、2010年9月15日、共同捜査判事の捜査終結宣言により起訴された。これに対して4人とも抗告したが、公判前裁判部は、2011年1月13日、起訴の判断を是認(一部変更)し、4被告人は公判廷に送られることとなった。起訴の理由は、人道に対する罪、1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反、ジェノサイド、1956年カンボジア刑事法典における殺人・拷問・宗教的迫害の罪である[67]。対象となる公訴事実は、主に、(1)3度にわたる強制移住、(2)集団農場の設置・運営、(3)収容所及び処刑場での悪分子最教育と「敵」の抹殺、(4)チャム族、ベトナム人、仏教徒など特定集団に対する犯罪行為、(5)結婚の管理の5点である[47]。
2011年6月27日、冒頭審問が行われて公判が開始し、現在第一審に係属中である[67]。4人とも無罪を主張している[68]。同年9月、第一審裁判部は、判決までの時間を短縮するため、第2事件をいくつかのセグメントに分離して順次審理・判決を行うことを決定し、最初のセグメントとしては強制移住に関する審理から開始することとした[69]。
第2事件のうち最初の審理は、案件002/01で、国民の強制移住(フェーズ1・2)とその際に発生した犯罪(フェーズ1は、1975年4月17日のプノンペン市民の強制退去、フェーズ2は、1975年9月から1977年までに行われた全国規模でのカンボジア国民の強制移動を扱う)、およびトゥオル・ポ・チュレイでの旧ロン・ノル政権の幹部処刑に関する案件である[70]。 第2事件に関する2番目の審理002/02では、チャム族およびベトナム人に対するジェノサイド(ただし、ベトナム領内での犯罪は除外)、カンボジア全土で行われた強制結婚・強姦、仏教徒に対する処置(ただし、トラム・コク人民公社で発生したものに限定)、国内粛清、旧クメール共和国の公務員の処置(ただし、トラム・コク人民公社、1月1日ダム作業所、S-21.クライン・タ・チャン収容所に限定)、収容所4ヶ所(S-21, クライン・タ・チャン収容所、オー・カンセン収容所、プノム・クラオル収容所)、労働作業所3ヶ所(1月1日ダム作業所、コンポン・チュナン空港設営作業所、トラペアン・トゥマのダム作業所)、トラム・コク人民公社が審理される[71]。
同年11月21日からイエン・シリトを除く3名について検察側の冒頭陳述によって本格審理が始まり[72]、22日にはヌオン・チア、23日にはイエン・サリ、キュー・サムファンが反論に立った[73]。12月5日から証拠調べが行われる[74]。イエン・シリトについては、11月17日、認知症により公判に耐えられないとして第一審裁判部により釈放が命じられたが、検察官が異議申立てを検討している[72][75]。
2014年8月現在、第2事件のうち最初の審理002/01は第1審が終了している。002/01に関して、2014年8月7日に第1審の判決が出され、ヌオン・チア、キュー・サムファン両被告に終身刑が下された[76]。
2016年11月23日、上訴審でヌオン・チア、キュー・サムファン両被告の人道に対する罪において終身刑が確定した[77][78]。「ジェノサイドの罪」に関しては、2022年に裁判が終結するまでにヌオン・チアが2019年に死去し、キュー・サムファンのみ「ジェノサイドの罪」で有罪の終身刑判決を受けた[37]。
- ヌオン・チア
- 別名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、カンプチア共産党副書記長、党常務委員会委員、民主カンプチア人民評議会議長などを務めた。1998年に王国政府に投降し、フン・セン首相の恩赦を受けて釈放され、パイリン近郊の自宅で暮らしていた[79] が、2007年9月19日に逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した[60][80]。
- 2019年8月4日にプノンペンの病院で死去[81]。
- キュー・サムファン
- 1975年、民主カンプチアの国家幹部会議長(国家元首)に任命され、1987年にポル・ポトがクメール・ルージュ党首を退いた後はこれを引き継いだ[82]。1998年にヌオン・チアとともに投降後、パイリンで暮らしていた[79] が、2007年11月19日逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した[60]。
- 2004年、著書『カンボジア現代史と、私の下した決断の裏にある理由』の中で、ポル・ポト政権下の惨劇については何も知らなかったと弁明しているほか、これまでのインタビューでも、大量虐殺への関与を否認している[79]。
- イエン・サリ
- 1975年から外交担当副首相を務めたほか、カンプチア共産党常務委員会委員・中央委員会委員を務めた[83]。ポル・ポトの義理の兄弟で、「ブラザー・ナンバー3」と呼ばれた[79]。1979年、政権崩壊とともにタイへ逃亡し、同年行われたカンボジア人民革命評議会のプノンペン特別市法廷では欠席のまま死刑を宣告された。1996年8月、カンボジア国王令で1979年の有罪判決についての特赦及びクメール・ルージュ非合法化法(1994年制定)に関する訴追免除を受けるのと引換えに、部下数千人を引き連れて投降した[83]。以後プノンペンで暮らしていた[79] が、2007年11月12日に逮捕され、同月14日に勾留決定された[60]。
- 1996年の国王令による恩赦の効力については、特別法廷によって判断されるべき問題として、裁判手続に持ち越すことが国連とカンボジア政府の協定で合意されている[84][85]。
- 2013年3月14日、プノンペンで死去[34]。
- イエン・シリト
- イエン・サリの妻。また、ポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリーの妹である。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。1998年にイエン・サリが国王の恩赦を受けて投降してからは、ともにプノンペンで暮らしていたが、2007年11月12日、サリとともに逮捕された[86]。2012年9月13日、特別法廷は、認知症の進行を理由に釈放を認めた[87]。
- 2015年8月22日、カンボジア西部のパイリンで死去[35]。
第3事件及び第4事件
[編集]第1・第2事件以外の被疑者を訴追すべきか否かについては、カンボジア側と国際側の検察官の間で意見が分かれた。国際側検察官ロバート・ペティットが、クメール・ルージュ政権下の犯罪の包括的解明につながるとして訴追を主張したのに対し、カンボジア側検察官は、国民和解の必要性などを理由として訴追に反対した。内部規則71条による共同検察官意見不一致の場合の手続に従い、共同検察官は公判前裁判部に裁定を申し立てた。しかし、公判前裁判部では裁定に必要な多数(判事4人以上)を満たさず、内部規則71条4項(c)の規定により、一方の検察官(この場合国際検察官)の請求した司法捜査開始の申立てが維持されることとなった[47][88][89]。
こうして、2009年9月7日、国際側検察官から共同捜査判事に対し5人の被疑者に対する司法捜査開始の申立てが行われた。これが第3事件と第4事件とに分割された[90]。被疑者の氏名は公開されていない。
第3・第4事件については、2009年9月、フン・セン首相が訴追への反対を公言し、また、2010年6月には共同捜査判事間の意見の不一致が報じられた[42]。
国際捜査判事がブルンクに交代した後の2011年4月29日、共同捜査判事は、共同検察官に対し、第3事件について捜査の終了を通知した[90]。一方、国際検事のケイリーは、ブルンク捜査判事の第3事件についての捜査が不十分であり、現地検証を含めた捜査を続行すべきである旨を述べ、両者の対立が明らかになった。NGO等からは、第3・第4事案の訴追を望まないカンボジア政府の意向に迎合してブルンクが不起訴に終わらせようとしているのではないかとの批判が巻き起こった[91](後述#政治介入への批判)。
第4事件については共同捜査判事の捜査が継続中である[92]。
財政
[編集]国名 | 拠出額(米ドル) |
---|---|
日本 | 54,677,005 |
オーストラリア | 10,572,233 |
ドイツ | 7,816,650 |
アメリカ合衆国 | 6,732,000 |
フランス | 6,244,645 |
イギリス | 5,401,650 |
ノルウェー | 3,997,427 |
協定によれば、カンボジア人の判事及びその他の職員の報酬、給与はカンボジア政府が負担し、国際側判事、国際側共同捜査判事、国際側共同検察官及び国連側によって採用された職員の報酬、給与は国連が負担することとされている。また、弁護人の報酬、証人の旅費、セキュリティ関係費用等も国連の負担とされている[93]。
そして、国連負担分の資金については、2003年5月の国連総会決議で、任意拠出金によって賄うことが決定された[21]。
2005年3月、アナン事務総長は国連で会合を開き、各国の拠出を求めたが、その時点では、特別法廷の所要期間は3年間、所要額は5630万ドル(国連側4300万ドル、カンボジア側1330万ドル)と見積もられていた[94]。しかし、特別法廷の活動期間が長引く中、2008年6月、同年末までの活動分として4370万ドル(国連側3770万ドル、カンボジア側610万ドル)が新たに必要であると発表され[95]、同年7月に改定され承認された2005年-09年予算は、1億0042万ドル(国連側7867万ドル、カンボジア側1868万ドル、各予備費7.5%)となった[42]。
さらに、2010年予算は3130万ドル、2011年予算は4070万ドルとして承認された[42] が各国からの拠出は追いつかず、2010年5月、潘基文事務総長は同年分の2100万ドル以上(国連側1460万ドル、カンボジア側650万ドル以上)、また2011年分の4680万ドル全額について資金の手当がされていないとして、国連で会合を開いて緊急の資金アピールを行った[96]。
2006年の運営開始から2011年4月末までの、各国から国連負担分に対する拠出額累計は1億0493万ドル(その他の団体からの拠出及び雑収入を合わせると1億0977万ドル)であり、拠出額の多い国は右表のとおりである[97]。これに加え、カンボジア負担分についても、実際にカンボジアが拠出できている額は一部で、日本等が拠出を行っている[42]。
課題と成果
[編集]汚職疑惑
[編集]2007年2月14日、NGO「オープン・ソサエティ・ジャスティス・イニシアティヴ」により、特別法廷の贈賄疑惑が指摘され、大きな問題となった。これによれば、判事を含むカンボジア側職員が、採用された見返りとして、特別法廷から受け取る給与の一定割合をカンボジア政府の採用担当者に対して支払っているとされ、法廷の独立性にも疑問が投げかけられた[98]。
2008年6月、複数のカンボジア人スタッフがキックバックの事実を認め、これらのスタッフからの通報がOIOSに送付された。OIOSは調査を開始し、同年9月、その調査結果をカンボジア政府に送付した。その内容は公表されていないが、報道によれば、事務局長のセアン・ヴィソット自身がキックバック金を集約していたとされている。カンボジア政府からは公式に対応はなく、またヴィソットは同年11月健康問題を理由に休暇に入った[99]。以後、クラン・トニー事務局長代理が任務に当たっている。
また、これと並行して、汚職防止対策をめぐってもカンボジア政府と国連との間で交渉が行われたが、カンボジア側職員からの内部通報は自らに対して行わせることを主張するカンボジア政府と、萎縮効果を懸念する国連側との間で交渉は難航し、より根本的な問題として特別法廷内における国内側職員と国連側職員の相互不信も指摘された[100]。最終的に、2009年8月11日、カンボジア政府と国連は、職員からの内部通報を秘密を守りながら受理する機関として独立カウンセラーを設置することとし、その地位にカンボジア会計検査院長のウス・チョルンを指名することを合意した[101]。
政治介入に対する批判
[編集]フン・セン首相は、前述(#特別法廷設立の経緯)のように、特別法廷発足前から、訴追対象者を広げることには否定的であったが、2009年9月、第3・第4事件の司法捜査が開始すると、第1・第2事件以外の追加訴追は再び内戦を招くとして改めて反対を表明した。フン・センは、国際側の判事や検事が、カンボジアで問題を生じさせるよう本国政府から指示を受けているのだとも発言した。これに対しては、フン・セン自身が初期のクメール・ルージュに所属していた経歴があり、フン・センの政治的盟友にクメール・ルージュの元メンバーが多いため、彼らを守ろうとしているのだとの批判がされている[102]。さらに、2010年10月、プノンペンを訪問した潘基文事務総長との会談においても、フン・センは、追加訴追は認められないと述べた[103]。
2011年4月、共同捜査判事が第3事件の捜査終結を通告したのを機に、国連は第3事件を訴追させない方針を固め共同捜査判事にその旨指示したのではないかとの報道がされ、議論が再燃した[103]。これに対し同年6月14日、国連側は、共同捜査判事に対してそのような指示はしておらず、特別法廷はカンボジア政府、国連、ドナー国、市民団体のいずれからも独立であるとの声明を発表した[104] が、カンボジア政府の政治介入に対する疑念や批判は続いている[105]。
被告人の高齢化
[編集]第2事件の被告人4人は、2011年6月の公判開始時点で、79歳(イエン・シリト、キュー・サムファン)から85歳(イエン・サリ)までと、いずれも高齢である上、裁判には数年間かかると予想され、その間にイエン夫妻が死去、残る被告人が存命の間に裁判終了まで漕ぎ着けられるかも懸念事項となっていた[68][106]。
成果
[編集]以上のような問題を抱える一方で、カンボジア特別法廷が設立され、まず第1事件の一審判決に漕ぎ着けたことについては、カンボジアにおける「不処罰」の歴史を克服し、正義を実現する第一歩であると評価されている[107]。
また、被害者参加制度が設けられたことにより、多数(第2事件では3850名[68])の民事当事者が参加するとともに、裁判を機に被害を初めて語り始めた人々もいるなどの意義があると指摘されている[108]。同時に、多くの傍聴者が法廷を訪れ(第1事件の傍聴者は延べ約3万1000人)、裁判の一部がテレビで放送されるなど報道で伝えられるとともに、各地で公聴会・集会などのアウトリーチ活動が頻繁に行われていることにより、事実・歴史を若い世代に伝える教育効果も大きいと指摘されている[106][108][109]。
そのほか、クメール・ルージュ政権により知識人が殺害の標的とされたことから、カンボジアで司法を担う人材が極端に不足する中、カンボジア国内で特別法廷を運営することにより、法律家だけでなく、通訳等を含む司法関係職種の能力構築(キャパシティ・ビルディング)を促すことができることが指摘されている[108]。
脚注
[編集]- ^ 小倉 2003, pp. 58–63
- ^ a b c 熊岡 2008
- ^ 小倉 2003, p. 59
- ^ 小倉 2003, p. 60
- ^ 小倉 2003, pp. 58–60
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- ^ ヘダー & ティットモア 2005, pp. 32–33, 44
- ^ ヘダー & ティットモア 2005, p. 44
- ^ “国連人権委員会決議:Situation of human rights in Cambodia (E/CN.4/RES/1997/49)” (DOC). Office of the High Commissioner for Human Rights (1997年4月11日). 2011年8月30日閲覧。(OHCHRページ 内)
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参考文献
[編集]- 小倉貞男「クメール・ルージュ国際人道裁判で何が裁かれようとしないのか」(PDF)『立命館国際研究』第15巻第3号、2003年3月、57-71頁、2011年8月19日閲覧。
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- 権香淑「【短信:カンボジア】ポル・ポト派元幹部らを裁くための特別法廷設置法の改正」(PDF)『外国の立法』第223号、国立国会図書館、2005年2月、152-56頁、2011年8月29日閲覧。
- ヒューマンライツ・ナウ (2008年). “シンポジウム 平和構築と人権「カンボジア特別法廷の挑戦」報告書” (PDF). ヒューマンライツ・ナウ. 2011年8月19日閲覧。
- スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア『カンボジア大虐殺は裁けるか――クメール・ルージュ国際法廷への道』四本健二訳、現代人文社、2005年。ISBN 4-87798-265-5。
- 山本晋平「旧ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の犯罪を裁く:「カンボジア特別法廷」の挑戦―日本発の国際人権NGOの視点から」『自由と正義』第62巻第4号、日本弁護士連合会、2011年4月、88-98頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- カンボジア特別法廷(公式サイト、クメール語;英語・フランス語)
- 国際連合クメール・ルージュ裁判支援室 (UNAKRT)
- Cambodian Genocide Program(イェール大学)
- Khmer Rouge Documents(サンタクララ大学ロースクール)
- Cambodia Tribunal Monitor
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