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生い立ち: 「予は熊本に居る時から福沢流は蟲が好かなかつた」(蘇峰自伝72頁)を根拠に、「福澤諭吉等に学ばんとしたが気に入らず」を削除
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'''徳富 蘇峰'''(とくとみ そほう、[[1863年]][[3月14日]]([[文久]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[1957年]]([[昭和]]32年)[[11月2日]])は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[歴史家]]、[[評論家]]、[[政治家]]。[[本名]]は'''徳富 猪一郎'''(とくとみ いいちろう)。[[字]]は'''正敬'''(しょうけい)。[[筆名]]は'''菅原 正敬'''(すがわら しょうけい)、'''大江 逸'''、'''大江 逸郎'''。[[号]]は'''山王草主人'''、'''頑蘇老人'''、'''蘇峰学人'''など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。

'''徳富 蘇峰'''(とくとみ そほう、[[1863年]][[3月14日]]([[文久]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[1957年]]([[昭和]]32年)[[11月2日]])は、[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]の3代にわたる[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[思想家]]、[[歴史家]]、[[評論家]]。また、[[政治家]]としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた。[[本名]]は'''徳富 猪一郎'''(とくとみ いいちろう)。[[字]]は'''正敬'''(しょうけい)。[[筆名]]は'''菅原 正敬'''(すがわら しょうけい)、'''大江 逸'''、'''大江 逸郎'''。[[号]]は'''山王草主人'''、'''頑蘇老人'''、'''蘇峰学人'''、'''銑研'''、'''桐庭'''、'''氷川子'''、'''青山仙客'''、'''伊豆山人'''など。生前自ら定めた[[戒名]]は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。

「'''蘇峰'''」は号である。『[[國民新聞]]』を主宰し、大著『[[近世日本国民史]]』を著したことで知られる。文豪[[徳富蘆花]]の兄にあたる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ちと青年時代 ===
文久3年1月25日(旧暦)、[[肥後国]][[上益城郡]]杉堂村(現在の[[熊本県]][[上益城郡]][[益城町]]上陳)の[[母]]の実家(矢嶋家)にて、[[熊本藩]]の一領一疋の[[郷士]][[徳富一敬]](とくとみ・かずたか)の第五子、長男として生れた<ref name=sugi>杉井(1989)</ref><ref name=tashiro>田代(2004)</ref>。徳富家は代々[[葦北郡]]水俣(現[[水俣市]])で[[庄屋|惣庄屋]]と[[代官]]を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。[[父]]の一敬は「淇水」と号し、「[[維新の十傑]]」<ref group="注釈">1884年(明治17年)3月刊の[[山脇之人]]『維新元勲十傑論』に由来する。</ref>のひとり[[横井小楠]]に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、[[肥後実学党]]の指導者として[[藩政改革]]ついで初期県政にたずさわり、[[幕末]]から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した<ref name=sugi/>。
[[肥後国]][[水俣市|水俣]]の[[郷士]][[徳富一敬]](とくとみ・かずたか)の長男として生れた。[[1871年]](明治4年)に[[兼坂諄次郎]]に学び、[[1872年]](明治5年)[[熊本洋学校]]に入学して再入学し、洋学校閉鎖後の[[1876年]](明治9年)8月に上京し、[[東京英語学校]]に入学。10月に退学し、京都の[[同志社英学校]]に転校の後退学。[[1881年]]([[明治]]14年)、帰郷して[[私塾]]・[[大江義塾]]を創設、地方新聞に執筆寄稿。相愛社員として[[自由民権運動]]に参加。


蘇峰は、[[1871年]](明治4年)、満8歳で[[兼坂諄次郎]]に学んだのち、[[1872年]](明治5年)には[[熊本洋学校]]に入学したが、年少のため退学させられ、[[1875年]](明治8年)に再入学した。この間、肥後実学党系の[[漢学]]塾に学んでいる。熊本洋学校では[[漢訳]]の『新約・旧訳[[聖書]]』などにふれて[[西洋]]の[[学問]]や[[キリスト教]]に興味を寄せ、[[1876年]](明治9年)、[[横井時雄]]、[[金森通倫]]、[[浮田和民]]らとともに[[熊本バンド]](花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・[[儒学]]から距離をおくようになった<ref name=tashiro/><ref name=toyama>遠山(1979)pp.231-232</ref>。
=== 論壇デビュー、國民新聞創刊 ===
[[1885年]](明治18年)、『第19世紀日本の青年及其教育』、[[1886年]](明治19年)、[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40031351&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 『将来之日本』]で[[論壇]]デビュー <ref>1883年10月には「東京毎週新報」に「官民ノ調和ヲ論ズ」という評論(小説等の創作ではない)を4回にわたり連載した。</ref>。上京して民友社を結成し平民主義を主張する月刊誌『[[国民之友]]』を主宰。[[1888年]](明治21年) - [[1889年]](明治22年)、大同団結運動支援の論陣を張った。[[1890年]](明治23年)には『[[國民新聞]]』を創刊。


熊本洋学校閉鎖後の1876年8月に上京し、官立の[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|東京英語学校]]に入学するも10月末に退学、[[京都]]の[[同志社英学校]]に転入学した。同年12月に同志社創設者の[[新島襄]]により金森通倫らとともに[[洗礼]]を受け<ref name=tashiro/>、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった<ref name=sugi/>。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、[[地上]]に「神の王国」を建設することをめざした<ref name=sugi/>。
[[1894年]](明治27年)、[[硬六派|対外硬六派]]に接近し[[第2次伊藤内閣]]を攻撃、開戦前より[[朝鮮出兵論]]を高唱し[[日清戦争]]の戦況を報道。自ら広島の[[大本営]]に赴き、[[従軍記者]]を派遣。[[川上操六]][[参謀次長]]、[[樺山資紀]][[軍令部長]]らに密着取材を敢行した。12月には同年後半の『国民之友』『國民新聞』 社説を収録した[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40020026&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 『大日本膨脹論』]を刊行。


[[1880年]](明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中途退学した<ref group="注釈">このとき蘇峰は西京第二公会に退会を申し出て、除名処分を受けた。しかし、新島襄に寄せた敬意は終生変わることがなかった。杉井(1989)</ref>。蘇峰は、こののち[[東京]]で[[新聞記者]]を志願したが、志かなわず翌[[1881年]](明治14年)、帰郷して郷里熊本で[[自由党]]系の民権結社[[相愛社]]に加入し、[[自由民権運動]]に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿して[[ナショナリズム]]に裏打ちされた自由民権を主張している<ref name=tashiro/>。
[[File:Soho Memorial hall.JPG|thumb|right|250px|[[水俣市]]にある水俣市立蘇峰記念館(旧:水俣市立図書館「淇水文庫」)]]


[[1882年]](明治15年)3月、[[元田永孚]]の斡旋で入手した大江村(現[[熊本市]])の自宅内に、父一敬とともに[[私塾]]「[[大江義塾]]」を創設、[[1886年]](明治19年)の閉塾まで英学、[[歴史]]、[[政治学]]、[[経済学]]などの講義を通じて青年の[[啓蒙]]に努めた<ref name=tashiro/>。その門下には[[宮崎滔天]]や[[人見一太郎]]らがいる<ref group="注釈">大江義塾の思い出として、宮崎滔天は、当時弱冠21歳の蘇峰が口角泡を飛ばして[[清教徒革命]]や[[フランス革命]]について熱く語っていたことを述懐している。[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0885.html 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』]</ref>。
=== 政界入り ===
[[日清戦争]]後の[[三国干渉]]に衝撃を受け、[[平民主義]]から強硬な国権論・国家膨脹主義に転じる。[[1897年]](明治30年)、[[松方内閣]]の[[内務省 (日本)|内務省]][[勅任]][[参事官]]に就任し、従来の反政府の立場からの変節を非難され、[[1898年]](明治31年)に『国民之友』は売り上げが落ち廃刊。蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政官界に影響力を持った政客として肯定的な評価もある <ref>佐々木隆「徳富蘇峰と権力政治家」『「帝国」日本の学知』第4巻、岩波書店、2006年。</ref>。


=== 『國民新聞』の創刊と平民主義 ===
蘇峰が[[山縣有朋]]や[[桂太郎]]との結びつきを深め、[[ポーツマス条約]]に賛成したことから、國民新聞社は[[1905年]](明治38年)の[[日比谷焼打事件]]で暴徒の襲撃を受けた。 [[1910年]](明治43年)、初代[[朝鮮総督]]の[[寺内正毅]]の依頼に応じ、[[朝鮮総督府]]の機関新聞社、[[京城日報|京城日報社]]の監督に就いた。[[1911年]](明治44年)に[[貴族院勅選議員]]となった。
大江義塾時代の蘇峰は、[[リチャード・コブデン]]や[[ジョン・ブライト]]ら[[英国]][[ヴィクトリア朝]]の[[自由主義]]的な思想家に学び、[[馬場辰猪]]などの影響も受けて[[平民主義]]の思想を形成していった<ref name=1000ya>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0885.html 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』]</ref>。


蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な[[人権]]の尊重と[[平等主義]]が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった<ref name=1000ya/>。これは、当時の[[藩閥]]政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、[[平和主義]]を特徴としていた。蘇峰の論は、[[1885年]](明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、[[1886年]](明治19年)に刊行された『将来之日本』<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40031351&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 『将来之日本』]</ref>に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである<ref name=tashiro/><ref group="注釈">[[1883年]](明治16年)10月には「東京毎週新報」に「官民ノ調和ヲ論ズ」という評論を4回にわたり連載している。</ref>。彼の論は、[[富国強兵]]、[[鹿鳴館]]、[[徴兵制]]、[[帝国議会|国会]]開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。
[[1913年]]([[大正]]2年)の第一次護憲運動([[大正政変]])では、國民新聞社は桂太郎首相の御用新聞と目され、再び暴徒の襲撃を受けた。桂の失脚に伴い政界を離れ、以降は、時事評論と修史に健筆を揮った。 [[1918年]](大正7年)、『[[近世日本国民史]]』連載開始に際し、京城日報社監督を辞任した。[[1923年]](大正12年)、『近世日本国民史』の業績が認められ、[[帝国学士院]]の[[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]を受賞した<ref>「第13回(大正12年5月27日)」『[http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/jyusho/011to020.html 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院]』[[日本学士院]]。</ref>。[[1925年]](大正14年)、帝国学士院会員に任命された。


蘇峰は1886年の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の[[原稿]]をたずさえ、新島襄の添状を持参して[[高知市|高知]]にあった[[板垣退助]]を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている<ref name=taka>[http://fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2005/12/post_1470.php 高野静子『後藤新平と徳富蘇峰の交友』]</ref><ref group="注釈">板垣は、原稿よりもむしろ蘇峰の人物そのものに興味をもち、政治家をやらせてみたいと述べたといわれる。高野(2005)</ref>。同書は蘇峰の上京後に[[田口卯吉]]の[[経済雑誌社]]より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした<ref name=toyama/><ref name=hisa27>久恒(2011)p.27</ref>。これが蘇峰の出世作となった。
=== 大正デモクラシー ===
[[大正デモクラシー]]の隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱える。国民皆兵主義の基盤として普通選挙実現を肯定的に捉えた<ref>『国民自覚論』([[1923年]]刊)を参照。</ref>。[[1928年]](昭和3年)には蘇峰の『文章報国四〇年祝賀会』(青山会館)が開催された。[[関東大震災]]後に資本参加を求めた[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が国民新聞副社長に腹心の[[河西豊太郎]]を据えると確執が深まり、[[1929年]](昭和4年)に國民新聞を退社した。[[本山彦一]]の引きで[[大阪毎日新聞社]]・[[毎日新聞社|東京日日新聞社]]に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移した。
[[File:Reinanzaka Church 1929 December 12 TOKUTOMI Soho.JPG|thumb|right|250px|[[霊南坂教会]]創立50周年記念祝会、1929年12月12日]]


[[1887年]](明治20年)には東京[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]榎坂に姉初子の夫[[湯浅治郎]]の協力を得て言論団体[[民友社]]を設立し、月刊誌『[[国民之友]]』を主宰した。『国民之友』の名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から採用したものだといわれている<ref name=jog>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog466.html 人物探訪「徳富蘇峰」文章報国70余年]</ref>。民友社には弟の[[徳冨蘆花]]はじめ[[山路愛山]]・[[竹越与三郎]]・[[国木田独歩]]らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「[[欧化主義]]」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、[[三宅雪嶺]]・[[志賀重昂]]・[[陸羯南]]ら[[政教社]]の掲げる[[国粋主義]](国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、[[1888年]](明治21年)から翌 [[1889年]](明治22年)にかけては、[[大同団結運動]]支援の論陣を張った。また、『現時之社会主義』の翻訳([[1893年]])など[[社会主義]]思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった<ref name=toyama/><ref>隅谷(1974)p.173</ref>。
=== 戦前、戦中 ===
[[1931年]](昭和6年)『新成簀堂叢書』の刊行を開始。白閥打破<ref>白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきとの意味。澤田次郎『近代日本人のアメリカ観--日露戦争以後を中心に』([[1999年]])は、蘇峰が「白閥打破」を使い始めたのは、[[1913年]]のカリフォルニア州排日土地法の成立が契機となったと指摘。</ref>、興亜の大義、[[挙国一致]]を喧伝した。
[[1935年]](昭和10年)に『蘇峰自伝』刊行。[[1940年]](昭和15年)に『満州建国読本』刊行。[[1941年]](昭和16年)の[[太平洋戦争]]開戦の詔書を添削している。


[[1890年]](明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に[[国民新聞社]]を設立して『[[國民新聞]]』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたって[[オピニオンリーダー]]として活躍することとなった<ref name=tashiro/>。さらに蘇峰は、[[1891年]](明治24年)5月には『国民叢書』、[[1892年]](明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東』''The Far East'' )を、それぞれ発行している<ref name=sugi/>。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた<ref name=1000ya/>。
[[1942年]](昭和17年)には[[大日本文学報国会]]を設立し会長に就任。[[1943年]](昭和18年)には[[文化勲章]]を受章(敗戦後に返却)。1942年(昭和17年)に[[大日本言論報国会]]会長に就任。無条件降伏受諾に反対し天皇の[[非常大権]]の発動を画策したが実現しなかった。[[1944年]](昭和19年)2月に『必勝国民読本』を刊行。7月の[[ポツダム宣言]]を受けて公職を辞任した。


いっぽうでは1889年1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、[[1894年]](明治27年)、[[硬六派|対外硬六派]]に接近して[[第2次伊藤内閣]]を攻撃、[[日清戦争]]に際しては、[[内村鑑三]]の''"Justification of Korean War"'' を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。日清開戦におよび、その戦況を詳細に[[報道]]、自ら[[広島市|広島]]の[[大本営]]に赴き、現地に[[従軍記者]]を派遣した。[[川上操六]][[参謀次長]]、[[樺山資紀]][[軍令部長]]らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨張論』を刊行した<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40020026&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 『大日本膨脹論』]</ref>。
=== 戦後 ===
[[ファイル:Soho Memorial hall.JPG|thumb|left|250px|[[水俣市]]にある水俣市立蘇峰記念館(旧:水俣市立図書館「淇水文庫」)]]
戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後に[[A級戦犯]]容疑を受けたが、老齢と[[三叉神経痛]]のため、[[GHQ]]により自宅拘禁となり不起訴となった。[[公職追放]]となり[[熱海市]]に蟄居。戦犯容疑をかけられたことを理由として、[[1946年]](昭和21年)には、言論人として道義的責任を取り文化勲章を返上している。


=== 「変節」と政界入り ===
[[占領下の日本|占領下]]でも『近世日本国民史』の執筆を続ける一方、日記を筆記し、近年『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題し、[[講談社]]から全4巻が刊行された<ref>『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』全4巻、([[2006年]](平成16年) - [[2007年]](平成19年)、講談社)。</ref> 。その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている<ref>山本武利は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」、講談社「現代」40巻9号(2006年9月号)、p248~254、参照。</ref>。
従軍記者として日清戦争後も[[旅順]]にいた32歳の蘇峰は、[[1895年]](明治27年)4月の[[ロシア]]・[[ドイツ]]・[[フランス]]によるいわゆる「[[三国干渉]]」の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ<ref>隅谷(1974)p.57</ref>、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した<ref name=hisa27/>。


蘇峰は、みずからの日記に、
『近世日本国民史』は[[1918年]](大正7年)に起稿し、[[1952年]](昭和27年)に完結。[[史料]]を駆使し、[[織田信長]]の時代から[[西南戦争]]までを記述した全100巻の膨大な史書である。[[平泉澄]]校訂により[[時事通信社]]で刊行され、全巻完結したのは、没後の[[1963年]](昭和38年)であった。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。墓所は東京都立[[多磨霊園]]にある。
{{quotation|
この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。
}}
と書き記している<ref>隅谷(1974)pp.57-58。原出典は『蘇峰日記』</ref><ref group="注釈">『蘇峰日記』によれば、蘇峰はこのとき、[[清国]]に返還した[[遼東半島]]にとどまることを潔く思わず、せめていったんは日本の[[領土]]となった記念にと旅順の[[礫|小石]]や[[砂]]を[[ハンカチ]]に包んで一刻も早い帰国を願ったと続けている。隅谷(1974)p.58</ref>。


[[遼東半島]]の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌[[1896年]](明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の[[深井英五]]であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した<ref name=jog/>。その欧米巡歴は、[[ロンドン]]を皮切りに[[オランダ]]、[[ドイツ]]、[[ポーランド]]を経て[[ロシア]]に入り、[[モスクワ]]では文豪[[レフ・トルストイ]]を訪ねた<ref group="注釈">奇しくも弟蘆花もトルストイをのちに訪ねている。蘇峰は、このとき「人道と愛国心は背反する」と述べたトルストイに反論している。</ref>。その後、[[パリ]]に入って[[イギリス]]にもどり、さらに[[アメリカ合衆国]]に渡航している<ref name=1000ya/>。ロンドンでは、イギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている<ref name=jog/>。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。
== エピソード ==
==== 弟・蘆花 ====
小説『不如帰』や[[大逆事件]]直後の講演『謀反論』で知られる弟の[[徳冨蘆花]]とは、次第に不仲となり、蘆花が[[1903年]](明治36年)に兄への「告別の辞」を発表する。以後、長い間疎遠となっていたが、[[1927年]](昭和2年)、蘆花が伊香保で病床に就いた際に再会する。蘆花は「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという<ref>『弟 徳富蘆花』 [[中央公論社]]のち[[中公文庫]]を参照。</ref><ref>[[2003年]](平成15年)に『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』(東京蘇峰会)が出版。</ref> 。


帰国直後の[[1897年]](明治30年)、[[第2次松方内閣]]の[[内務省 (日本)|内務省]][[勅任]][[参事官]]に就任、
==== 山王草堂 ====
従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された<ref name=hisa27/><ref group="注釈">松方内閣で同志社出身の蘇峰が勅任参事官となったのと同時に[[東京専門学校]]の[[高田早苗]]が[[外務省]]通商局長となり、隈板内閣では東京専門学校[[校長]]の[[鳩山和夫]]が外務次官となるなど、明治30年代にはいると、政府と民間の垣根はしだいに取り払われ、[[私学]]の反政府的傾向も徐々に弱まっていった。隅谷(1974)p.212</ref>。蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、[[田岡嶺雲]]は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し<ref>隅谷(1974)p.60。原出典は『第二嶺雲揺曳』</ref>、[[堺利彦]]もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した<ref name=1000ya/>。
蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている<ref>JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座する事により、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。[[1868年]](明治元年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、[[1932年]](昭和7年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。</ref>。[[1924年]](大正13年)から[[1943年]](昭和18年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。[[1988年]](昭和63年)、[[大田区]]により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。<small>
* 所在地:東京都大田区[[山王 (大田区)|山王]]1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
* 開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日~1月3日、入館無料。
</small>


1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として[[政治家]]と交際し、[[政界]]・[[官僚|官界]]に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある <ref>佐々木隆「徳富蘇峰と権力政治家」(2006)</ref>。
== 親族 ==

弟は、[[小説家]]の徳冨蘆花(前述)。姉は[[政治家]]の[[湯浅治郎]]の[[後妻]]となった。治郎と姉との間には[[昆虫学者]]の[[湯浅八郎]]らが生まれた。また、[[洋画家]]の[[湯浅一郎]]は治郎と前妻との間にできた[[子]]である。[[矢嶋楫子]]は、母・久子(旧姓矢島)の妹、即ち、叔母である。[[久布白落実]]は姪。[[横井小楠]]、[[海老名弾正]]は遠戚である。
蘇峰はこののち[[山縣有朋]]や[[桂太郎]]との結びつきを深め、[[1901年]](明治34年)6月に[[第1次桂内閣]]の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、[[1904年]](明治37年)の[[日露戦争]]の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した<ref name=jog/>。しかし、[[1905年]](明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約([[ポーツマス条約]])調印について、
{{quotation|
図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。
}}
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、[[9月5日]]の[[日比谷焼打事件]]に際しては暴徒によって社屋の襲撃を受けている<ref name=jog/>。

[[1910年]](明治43年)、[[韓国併合]]ののち、初代[[朝鮮総督]]の[[寺内正毅]]の依頼に応じ、[[朝鮮総督府]]の機関新聞社である[[京城日報|京城日報社]]の監督に就いた。翌[[1911年]](明治44年)には[[貴族院勅選議員]]に任じられている。1910年5月には[[大逆事件]]の[[検挙]]が始まり、1911年1月には極刑の判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し[[幸徳秋水]]らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった<ref>隅谷(1974)pp.441-444</ref>。

=== 大正デモクラシー時代と『近世日本国民史』の執筆 ===
[[1913年]]([[大正]]2年)1月の[[護憲運動#第一次憲政擁護運動|第一次護憲運動]]のさなか桂太郎の[[立憲同志会]]創立趣旨草案を執筆している<ref group="注釈">桂太郎の死後すぐに発足した立憲同志会は、中国の[[辛亥革命]]に直面した桂が従来型の特定勢力の利害を代表する政党では対外的危機に充分に対応することができないとして、帝国の有力者を網羅することによって危機克服をめざす意図でつくられた。同志会の会員には、日比谷焼打事件などに関係した、都市民衆運動のリーダーも含まれていた。加藤(2002)p.167</ref>。『國民新聞』は[[大正政変]]に際しても[[第3次桂内閣]]を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた<ref name=sugi/>。蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった<ref name=toyama/>。[[1914年]](大正3年)の父一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約し、[[1918年]](大正7年)5月には「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した<ref name=sugi/>。

1918年7月、55歳となった蘇峰は『[[近世日本国民史]]』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰の[[ライフワーク]]であり<ref name=hisa26>久恒(2011)p.26</ref>、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには[[幕末]]、幕末を知るには[[江戸時代]]が記されなければならないとして、結局、[[織田信長]]の時代以降の歴史を著したものであった<ref name=hisa28>久恒(2011)p.28</ref>。『近世日本国民史』は、東京の[[大森 (大田区)|大森]](現[[大田区]])に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という[[鉄筋コンクリート造]]、地上3階、地下2階の書庫が建てられた<ref name=hisa28/>。

[[1923年]](大正12年)には『近世日本国民史』の業績が認められ、[[帝国学士院]]の[[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]を受賞した<ref>「第13回(大正12年5月27日)」『[http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/jyusho/011to020.html 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院]』[[日本学士院]]。</ref>。この年は[[9月1日]]に[[関東大震災]]が起こっているが、その日[[神奈川県]][[逗子市|逗子]]にいた蘇峰は、周囲が[[津波]]に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている<ref name=hisa28/>。[[1925年]](大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。

[[ファイル:Reinanzaka Church 1929 December 12 TOKUTOMI Soho.JPG|thumb|right|250px|[[霊南坂教会]]創立50周年記念祝会、1929年12月12日]]
ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、[[大正デモクラシー]]の隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「[[皇室]]中心主義」を唱え、また、[[国民皆兵]]主義の基盤として[[普通選挙制]]実現を肯定的にとらえている<ref>『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』所収「国民自覚論」(1923)</ref>。[[1927年]]([[昭和]]2年)、弟の蘆花徳富健次郎が死去。[[1928年]](昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が東京の[[青山会館]]で開催されている。

帝国学士院会員としては、1927年5月に「維新史考察の前提」、1928年1月に「神皇正統記の一節に就て」、[[1931年]](昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している<ref name=sugi/>。

なお、関東大震災後に国民新聞社の[[資本]]参加を求めた[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が副社長として腹心の[[河西豊太郎]]をすえると根津・河西とのあいだに確執が深まり、[[1929年]](昭和4年)、蘇峰はみずから創立した国民新聞社を退社した。その後は、[[本山彦一]]の引きで[[大阪毎日新聞社]]・[[毎日新聞社|東京日日新聞社]]に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。

=== 軍部との提携と大日本言論報国会 ===
[[1931年]](昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった[[満州事変]]以降、蘇峰はその国家主義ないし皇室中心主義的思想をもって[[軍部]]と結んで活躍、「白閥打破」<ref group="注釈">白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきとの意味。澤田次郎は、蘇峰が「白閥打破」を使い始めたのは、1913年(大正2年)の[[カリフォルニア州]]排日土地法の成立が契機となったと指摘している。澤田(1999)</ref>、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。

[[1935年]](昭和10年)に『蘇峰自伝』、[[1939年]](昭和14年)に『昭和国民読本』、[[1940年]](昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、[[1937年]](昭和12年)6月に[[帝国芸術院]]会員となった。1940年9月、[[日独伊三国軍事同盟]]締結の建白を[[近衛文麿]]首相に提出し、[[太平洋戦争]]の始まった[[1941年]](昭和16年)には[[大東亜戦争]]開戦の[[詔書]]を[[添削]]している。

[[1942年]](昭和17年)5月には[[日本文学報国会]]を設立してみずから会長に就任、同年12月には[[内閣情報局]]指導のもと[[大日本言論報国会]]が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は、内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれていた。[[1943年]](昭和18年)4月、蘇峰は[[三宅雪嶺]]らとともに[[東條内閣]]のもとで[[文化勲章]]を受章した。この年、蘇峰は80歳であり、[[三叉神経痛]]や[[眼病]]を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している<ref name=hisa28/><ref group="注釈">当時の蘇峰の原稿には、原稿用紙の余白に「本日は顔面神経尤も劇(はげし)。ソノ為シバシハ筆ヲ投シ、漸ク之ヲ稿了セリ。後人ソノ苦ヲ察セヨ」という文が記されたものがある。久恒(2011)p.29</ref>。[[1944年]](昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。

終戦にあたっては、[[1945年]](昭和20年)7月に[[ポツダム宣言]]が発せられたが、蘇峰は無条件降伏の受諾に反対。[[昭和天皇]]の[[非常大権]]の発動を画策したが、実現しなかった。

=== 『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰 ===
戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後に[[A級戦犯]]容疑をかけられたが、老齢と三叉神経痛のため、[[GHQ]]により自宅拘禁を条件に不起訴処分が下された。また、[[公職追放]]の処分を受けたため、貴族院勅選議員などの公職を辞して[[静岡県]][[熱海市]]に蟄居した。1945年9月、みずからの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とし、[[1946年]](昭和21年)には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして、1943年に受章した文化勲章を返上した。[[1948年]](昭和23年)[[12月7日]]、妻の静子が死去している。

蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、[[2006年]](平成18年)から2007年(平成19年)にかけて『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題し、[[講談社]]から全4巻が刊行された。そのなかで、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べており、話題を呼んでいる<ref group="注釈">[[山本武利]]は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。山本(2006)pp.248-254</ref>。

1951年(昭和26年)2月、1945年8月以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、[[1952年]](昭和27年)[[4月20日]]、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、[[史料]]を駆使し、織田信長の時代から[[西南戦争]]までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された<ref name=hisa28/>。[[平泉澄]]校訂により[[時事通信社]]で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の[[1963年]](昭和38年)、[[孫]]の手によってなされた<ref name=hisa28/>。

1952年9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、[[1954年]](昭和29年)3月から[[1956年]](昭和31年)6月まで『[[読売新聞]]』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と解題されたうえで刊行された。

[[1957年]](昭和32年)[[11月2日]]、熱海の晩晴草堂で死去。満94歳であった。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。[[葬儀]]は東京の[[霊南坂教会|霊南坂キリスト教会]]でおこなわれた。墓所は東京都立[[多磨霊園]]にある。

== 業績と評価 ==
=== 思想家蘇峰 ===
思想家、言論人としての徳富蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない<ref name=hisa27/>。蘇峰自身も、
{{quotation|
維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。
}}
と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実である。それに対し、[[松岡正剛]]は、敬虔な[[クリスチャン]]、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している<ref name=1000ya/>。

戦前における国権主義的な言論活動については評判がわるく、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには[[軍国主義]]の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない<ref name=1000ya/>。

そのいっぽうで、[[久恒啓一]]は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている<ref name=hisa27/>。

近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者である[[ジョン・ピアーソン]]によって[[1977年]](昭和52年)に、[[ビン・シン]]によって[[1986年]](昭和61年)に示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈しているのである<ref name=1000ya/>。

=== 歴史家蘇峰 ===
{{See also|近世日本国民史}}
歴史家としての名声は[[山路愛山]]とならび、特にその史論が高く評価される<ref name=toyama/>。

史書『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、[[ギネスブック]]に「最も多作な作家」と書かれているほどである<ref name=hisa28/>。『近世日本国民史』の構成は、
* 緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
* 中論…徳川時代〔19巻〕・[[孝明天皇]]の時代〔32巻〕
* 本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている<ref name=1000ya/>。

蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムと[[グローバリズム]]とが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している<ref name=1000ya/>。

蘇峰は執筆当初、[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には[[林羅山]]・[[林鵞峰]]の『[[本朝通鑑]]』(5,700ページ)や[[徳川光圀]]のはじめた『[[大日本史]]』(2,500ページ)の規模を上まわった<ref name=hisa28/>。

[[杉原志啓]]によれば、[[アナキスト]]の[[大杉栄]]が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、[[正宗白鳥]]、[[菊池寛]]、[[久米正雄]]、[[吉川英治]]らによっても愛読されていた。[[松本清張]]は歴史家蘇峰を高く評価しており、[[遠藤周作]]も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという<ref>杉原(1995)</ref>。

さらに蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史([[中国史]])を書きたいとの意向を示していたという<ref name=hisa29>久恒(2011)p.29</ref>。

蘇峰は死ぬまで[[昭和維新]]、[[日本国憲法第9条]]、[[朝鮮戦争]]等のそれぞれについて、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は、松岡正剛によれば日本近現代史においては、きわめて例外的な、「現在的な歴史思想者」なのであった<ref name=1000ya/>。

== 人物と交友関係 ==
生涯にわたって蘇峰は、記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた<ref name=1000ya/>。また、日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる<ref name=hisa27/>。

=== 親族 ===
祖父は[[辛島鹽井]]の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた[[頼山陽]]に会っている。父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した徳富一敬で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に百姓一揆が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。父方の[[伯父]]に一義、高廉、昌龍、[[伯母]]にますも、はるがいる。

母は上益城郡杉堂の矢嶋家出身の久子で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている<ref name=fukyu>[http://www11.big.or.jp/~tamomo/Aozora/001odasijidaizenpen/S0.htm 「普及版刊行に就て」『近世日本国民史』]</ref>。久子の姉順子([[竹崎順子]])は熊本女学校(現[[熊本フェイス学院高等学校]])の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠夫人で[[同志社大学]]の基礎をきずいた[[海老名みや子]]の母にあたる。禁酒・廃娼を主張して[[婦人矯風会]]を設立した[[矢嶋楫子]]も徳富久子の妹で、久子は楫子の矯風運動を支援している<ref>[http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=722 歴史探訪「肥後の猛婦」]</ref>。

なお、父徳富一敬は横井小楠の第一の門弟、順子・久子・つせ子・楫子の兄である[[矢嶋源助]]は小楠の第二の門弟であり、順子の夫である[[竹崎律次郎]]もまた小楠の門弟であった。

弟は[[小説家]]の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の初子は[[政治家]]の[[湯浅治郎]]の[[後妻]]となった。初子は、日本で初めて男女共学による教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には[[昆虫学者]]の[[湯浅八郎]]らが生まれている(なお、[[洋画家]]の[[湯浅一郎]]は治郎と前妻との間にできた[[子]]である)。初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟友喜がいた。

妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる<ref name=hisa28/>。

子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子があり、養女に鶴子がいる。長男太多雄は[[1931年]](昭和6年)[[9月9日]]亡くなっている<ref name=fukyu/>。

[[女性解放運動|女性解放運動家]]の[[久布白落実]]は[[姪]]、[[日本組合基督教会]]の指導者[[海老名弾正]]は遠戚にあたる。

=== 弟・蘆花 ===
小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』で知られる5歳年下の弟[[徳冨蘆花]]は、[[1903年]](明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、[[大逆事件]]では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後[[第一高等学校]]で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。

[[1927年]](昭和2年)、蘆花が[[群馬県]][[伊香保温泉|伊香保]]で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている<ref name=hisa28/>。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる<ref>『弟 徳富蘆花』(1997)</ref><ref group="注釈">蘇峰と蘆花の関係については、[[2003年]](平成15年)、『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』が東京蘇峰会によって出版されている。</ref> 。


== 人物 ==
=== 交友者 ===
=== 交友者 ===
蘇峰の交友範囲は広く、[[与謝野晶子]]、[[鳩山一郎]]、[[緒方竹虎]]、[[佐佐木信綱]]、[[橋本関雪]]、[[尾崎行雄]]、[[加藤高明]]、[[斎藤茂吉]]、[[土屋文明]]、[[賀川豊彦]]、[[島木赤彦]]らの名前を掲げることができる<ref name=hisa28/>。また、[[後藤新平]]<ref name=taka/>、[[勝海舟]]、[[伊藤博文]]、[[森鴎外]]、[[渋沢栄一]]、[[東条英機]]、[[山本五十六]]、[[正力松太郎]]、[[中曽根康弘]]とも交遊があった。そこに[[イデオロギー]]や[[職業]]の違いはなく、あらゆる[[ジャンル]]、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、[[板垣退助]]、[[大隈重信]]、[[松方正義]]、[[西園寺公望]]、[[大山巌]]らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している<ref name=hisa28/>。
*[[勝海舟]]
*[[伊藤博文]]
*[[森鴎外]]
*[[渋沢栄一]]
*[[東条英機]]
*[[山本五十六]]
*[[正力松太郎]]
*[[中曽根康弘]]


親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の[[短歌]]を詠んでいる<ref name=hisa28/>。
== 賞歴 ==
{{quotation|
* [[1923年]][[5月]] - [[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]受賞。
:*わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
:*高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪
}}


== 栄典 ==
=== 手紙魔 ===
神奈川県[[二宮町]]にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の[[書簡]]が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身、『蘇翁言志録』(1936年)において、
{{quotation|
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。
}}
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた<ref name=taka/>。

蘇峰自身も手紙魔であり、[[朝食]]前に20本もの書簡を書いていたという[[エピソード]]がある<ref name=hisa27/>。

徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、[[高野静子]]によってまとめられ、『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)、『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)が出版されている。前者には、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、[[坪内逍遥]]、森鴎外、[[山田美妙]]、[[内田魯庵]]、[[中西梅花]]、[[幸田露伴]]、[[森田思軒]]、[[宮崎湖処子]]、志賀重昂、[[佐々城豊寿]]、[[酒井雄三郎]]、[[小泉信三]]、[[松岡洋右]]、[[中野正剛]]、[[大谷光瑞]]などからの、後者には、[[島田翰]]、与謝野晶子、[[与謝野鉄幹]]、[[吉屋信子]]、[[杉田久女]]、[[夏目漱石]]、竹崎順子、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子、[[潮田千勢子]]、[[植木枝盛]]、[[依田学海]]、[[野口そ恵子]]、[[吉野作造]]、[[瀧田樗陰]]、[[麻田駒之助]]、菊池寛、[[山本実彦]]、[[島田清次郎]]、賀川豊彦などからの書簡が、それぞれ紹介されている。また、[[2010年]](平成22年)には同じ作者により『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』として出版された。

== 旧宅・墓地 ==
久恒啓一は、1人の人物について5つもの「記念館」が存在することは他に例をみないとして蘇峰の偉業を称えている<ref name=hisa27/>。そのうちの2館は旧宅、1館は生家である母の実家である。
=== 徳富旧邸・大江義塾跡 ===
蘇峰・蘆花の兄弟が父一敬とともに居住したのが熊本市大江4丁目の徳富旧邸である。[[1970年]](明治3年)の熊本藩の藩政改革の際、父一敬は藩の民政局大属に任命されて水俣から熊本に移り住むこととなり、元田永孚の斡旋でこの家を入手した。建物は熊本市の有形文化財、跡地は熊本県指定史跡となっている<ref> [http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/93_104_o.htm 徳富旧邸・大江義塾跡]</ref>。

=== 山王草堂 ===
蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている<ref group="注釈">JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座する事により、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。[[1868年]](明治元年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、[[1932年]](昭和7年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。</ref>。[[1924年]](大正13年)から[[1943年]](昭和18年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。[[1988年]](昭和63年)、[[大田区]]により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。<small>
* 所在地:東京都大田区[[山王 (大田区)|山王]]1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
* 開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日-1月3日、入館無料。
</small>
=== 多摩霊園 ===
墓所は東京都[[府中市]]の東京都立多摩霊園にあり、碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」、右に「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の「平常院静枝妙浄大姉」である<ref name=sugi/>。

=== その他の墓地 ===
出身地である熊本県[[水俣市]]牧の内の徳富家代々の墓地、静岡県[[御殿場市]]の[[青竜寺 (御殿場市)|青竜寺]]、[[京都市]][[左京区]]の[[若王子同志社墓地]]にも分骨埋葬がなされている<ref name=sugi/>。

== 賞歴・栄典 ==
;賞歴
* [[1923年]][[5月]] - [[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]受賞。
;栄典
* [[1943年]][[4月]] - [[文化勲章]]受章。
* [[1943年]][[4月]] - [[文化勲章]]受章。
* [[1946年]]4月 - 文化勲章返上。
* [[1946年]]4月 - 文化勲章返上。


== 著作 ==
== 著作 ==
[[ファイル:Soho Tokutomi self-portrait at the age 88.jpg|thumb|180px|「達磨」88歳時の自画自賛像;「別有天地非人間」([[李白]]の詩句)]]
=== 原刊行年順 ===
<!-- 初版など元々の刊行された時の書誌情報を列記する項目 -->
*{{Cite book|和書|year=1884|title=明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス|publisher=私刊}}
*『自由、道徳、及儒教主義』私刊、1884年。
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1886|month=10|title=将来之日本|publisher=経済雑誌社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1887|month=4|title=新日本之青年|publisher=集成社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=|editor=垣田純朗編|year=1889|month=1|title=日本国防論|publisher=民友社}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1891|month=6|title=進歩乎退歩乎|publisher=民友社|series=国民叢書第1冊}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=5|title=人物管見|publisher=民友社|series=国民叢書第2冊}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=9|title=青年と教育|publisher=民友社|series=国民叢書第3冊}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1893|month=12|title=吉田松陰|publisher=民友社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1894|month=12|title=日本膨脹論|publisher=民友社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎、深井英五|year=1895|month=4|title=欧洲大勢三論|publisher=民友社|series=}}
*『時務一家言』民友社、1913年。
*『大正の青年と帝国の前途』民友社、1916年。
*『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。
*『昭和国民読本』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1939年。
*『満州建国読本』日本電報通信社、1940年。
*『必勝国民読本』毎日新聞社、1944年。
*『読書九十年』大日本雄弁会講談社、1952年。
*『勝利者の悲哀』大日本雄弁会講談社、1952年。

=== 主な没後刊行 ===
=== 主な没後刊行 ===
<!-- 復刻や再録など現在入手できたり、多くの図書館が所蔵している版を列記する項目 -->
<!-- 復刻や再録など現在入手できたり、多くの図書館が所蔵している版を列記する項目 -->
*『三代人物史』 [[読売新聞社]]、1971年 --- 『[[近世日本国民史]]』以外で最後の単著。明治・大正・昭和三代にわたる人物回顧
*『三代人物史』 [[読売新聞社]]、1971年 --- 『[[近世日本国民史]]』以外で最後の単著。明治・大正・昭和三代にわたる人物回顧
*『日本の名著40 徳富蘇峰.[[山路愛山]]』 中央公論社、1971年
*『日本の名著40 徳富蘇峰.山路愛山』 中央公論社、1971年
:--<small>『将来之日本』(1886)、『吉田松陰』(1893)、を収録</small>
:--<small>『将来之日本』(1886、『吉田松陰』(1893を収録</small>
*『[[明治文学全集]]34 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1974年
*『[[明治文学全集]]34 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1974年
:--<small>『官民調和論』(刊行年不明、熊本時代)、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(1884年私刊)、『自由、道徳、及儒教主義』(1884年私刊)、『将来之日本』(1886)、『<small>三版</small> 新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『吉田松陰』(1893)、『大日本膨脹論』(1894)、『時務一家言』(1913)、を収録</small>
:--<small>『官民調和論』刊行年不明、熊本時代、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(1884年私刊、『自由、道徳、及儒教主義』(1884年私刊、『将来之日本』(1886、『<small>三版</small> 新日本之青年』(1887年、私刊は1885年、『吉田松陰』(1893、『大日本膨脹論』(1894、『時務一家言』(1913を収録</small>
*『[[近代日本思想大系]]8 徳富蘇峰集』 筑摩書房 1978年
*『[[近代日本思想大系]]8 徳富蘇峰集』 筑摩書房 1978年
:--<small>『新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『大正の青年と帝国の前途』(1916)、『国民自覚論』(1923)、『敗戦学校・国史の鍵』(1948)、『勝利者の悲哀』(1952)、を収録</small>
:--<small>『新日本之青年』(1887年、私刊は1885年、『大正の青年と帝国の前途』(1916、『国民自覚論』(1923、『敗戦学校・国史の鍵』(1948、『勝利者の悲哀』(1952を収録</small>
*『[[吉田松陰]]』 岩波文庫 初版1981年、ワイド版2001年
*『吉田松陰』 岩波文庫 初版1981年、ワイド版2001年
*『読書法』  [[講談社学術文庫]]  1981年
*『読書法』  [[講談社学術文庫]]  1981年
*『静思余録』 講談社学術文庫  1984年
*『静思余録』 講談社学術文庫  1984年
*『蘇翁夢物語 わが交遊録』 中公文庫 1990年-初版は1938年(昭和13年)
*『蘇翁夢物語 わが交遊録』 中公文庫 1990年-初版は1938年(昭和13年)
*『蘇峰書物随筆』(全9巻) [[ゆまに書房]]、1993年 <small>(明治38年~昭和10年の復刻版)</small>
*『蘇峰書物随筆』(全9巻) [[ゆまに書房]]、1993年 <small>(明治38年~昭和10年の復刻版)</small>
*『弟 [[徳富蘆花]]』 [[中央公論社]] 1997年、[[中公文庫]]、2001年
*『弟 徳富蘆花』 [[中央公論社]] 1997年、[[中公文庫]]、2001年
*『蘇峰自伝』 <人間の記録22>日本図書センター 1997年-初版は1935年(昭和10年)、中央公論社
*『蘇峰自伝』 <人間の記録22>日本図書センター 1997年-初版は1935年(昭和10年)、中央公論社
*『徳富蘇峰 [[黒岩涙香]] 近代浪漫派文庫5』 [[新学社]]、2004年
*『徳富蘇峰 黒岩涙香 近代浪漫派文庫5』 [[新学社]]、2004年
:--<small>『嗟呼国民之友生れたり』、『「透谷全集」を読む』、『還暦を迎ふる一新聞記者の回顧』、『紫式部と清少納言』、『淡窓全集』、『世界三文豪の満一百年忌』、『敗戦学校』、『宮崎兄弟の思ひ出』、を収録</small>
:--<small>『嗟呼国民之友生れたり』、『「透谷全集」を読む』、『還暦を迎ふる一新聞記者の回顧』、『紫式部と清少納言』、『淡窓全集』、『世界三文豪の満一百年忌』、『敗戦学校』、『宮崎兄弟の思ひ出』、を収録</small>


=== 書簡・日記 ===
=== 書簡・日記 ===
*『往復書簡 後藤新平-徳富蘇峰 1895-1929』 高野静子編著、 [[藤原書店]]、2006年、書簡全70通を収む。
[[画像:Soho Tokutomi self-portrait at the age 88.jpg|thumb|200px|「達磨」88歳時の自画自賛像;「別有天地非人間」([[李白]]の詩句)]]
*『往復書簡 [[後藤新平]]-徳富蘇峰 1895-1929』 高野静子編著、 [[藤原書店]]、2006年、書簡全70通を収む。
**編者は『蘇峰とその時代 よせられた書簡から』(正は中央公論社・続は蘇峰記念館)を刊行。記念館にて購入可能。
**編者は『蘇峰とその時代 よせられた書簡から』(正は中央公論社・続は蘇峰記念館)を刊行。記念館にて購入可能。
**『蘇峰への手紙 <small>中江兆民から松岡洋右まで</small>』 高野静子編著、藤原書店、2010年
**『蘇峰への手紙 <small>中江兆民から松岡洋右まで</small>』 高野静子編著、藤原書店、2010年
*『徳富蘇峰関係文書(全3巻)』([[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]ほか編, [[山川出版社]], 1982-87年)
*『徳富蘇峰関係文書(全3巻)』([[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]ほか編, [[山川出版社]], 1982-87年)
**徳富蘇峰記念館が所蔵する蘇峰宛の書簡約4万6000通から抄録。発信人は約1万2000人に及ぶ<ref>書翰通数と発信人数は『財団法人 徳富蘇峰記念塩崎財団所蔵 徳富蘇峰宛書簡目録』財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団、1995年による。</ref>
**徳富蘇峰記念館が所蔵する蘇峰宛の書簡約4万6,000通から抄録。発信人は約1万2,000人に及ぶ<ref>書翰通数と発信人数は『財団法人 徳富蘇峰記念塩崎財団所蔵 徳富蘇峰宛書簡目録』財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団、1995年による。</ref>
*『頑蘇夢物語 徳富蘇峰終[[終戦日記|戦後日記]]』(全4巻) [[講談社]]、2006-07年 ---(昭和20年昭和22年の日記)
*『頑蘇夢物語 徳富蘇峰終[[終戦日記|戦後日記]]』(全4巻) [[講談社]]、2006-07年 ---(昭和20年昭和22年の日記)

=== 原刊行年順 ===
<!-- 初版など元々の刊行された時の書誌情報を列記する項目 -->
*{{Cite book|和書|year=1884|title=明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス|publisher=私刊}}
*『自由、道徳、及儒教主義』1884年私刊
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1886|month=10|title=将来之日本|publisher=経済雑誌社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1887|month=4|title=新日本之青年|publisher=集成社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=(明記なし)|editor=垣田純朗編>|year=1889|month=1|title=日本国防論|publisher=民友社}}
**{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1891|month=6|title=進歩乎退歩乎|publisher=民友社|series=国民叢書第1冊}}
**{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=5|title=人物管見|publisher=民友社|series=国民叢書第2冊}}
**{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=9|title=青年と教育|publisher=民友社|series=国民叢書第3冊}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1893|month=12|title=吉田松陰|publisher=民友社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1894|month=12|title=日本膨脹論|publisher=民友社|series=}}
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎、[[深井英五]]|year=1895|month=4|title=欧洲大勢三論|publisher=民友社|series=}}
*『時務一家言』民友社、1913年
*『蘇峰自伝』中央公論社、1935年
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== 徳富蘇峰を演じた俳優 ==
== 徳富蘇峰を演じた俳優 ==
*[[西田敏行]]  [[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機]](2008年、[[TBSテレビ]])
*[[西田敏行]] [[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機]](2008年、[[TBSテレビ]])

== 関連項目 ==
[[画像:蘇峰學人書齋.jpg|thumb|200px|蘇峰學人書齋]]
全般
* [[民友社]]
* [[国民新聞社]]
* [[國民新聞]]
* [[日本文学報国会]]
* [[大日本言論報国会]]
* [[近世日本国民史]]
人物
* [[横井小楠]]
* [[宗像政]]
* [[野田卯太郎]]
* [[中江兆民]]<ref group="注釈">兆民の著した『[[三酔人経綸問答]]』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。</ref>
* [[海老名弾正]]
* [[留岡幸助]]
揮毫先
* [[学校法人奈良大学]]<ref group="注釈">前身の[[南都正強中学]]の創立者[[藪内敬治郎]]([[陸軍士官学校]]出身)は、蘇峰の信奉者の一人であり、学園に冠された「正強」 の二文字は蘇峰が贈ったものである。</ref>

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 参照 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*『条約改正と国内政治』 [[小宮一夫]]著、[[吉川弘文館]]、2001年
*『条約改正と国内政治』 [[小宮一夫]]著、[[吉川弘文館]]、2001年
*『徳富蘇峰--日本ナショナリズムの軌跡』 [[米原謙]]著、[[中公新書]]、2003年
*『徳富蘇峰--日本ナショナリズムの軌跡』 [[米原謙]]著、[[中公新書]]、2003年
*『陸羯南--政治認識と対外論』 朴羊信著、岩波書店、2008年<ref> 陸羯南を徳富蘇峰と比較しつつ1880年代後半から日露戦争前までを追跡している。徳富蘇峰研究としても参照すべき内容である</ref>
*『陸羯南--政治認識と対外論』 朴羊信著、岩波書店、2008年<br> 陸羯南を徳富蘇峰と比較し1880年代後半から日露戦争前までを追跡る。蘇峰研究としても参照すべき内容。


== 関連項目 ==
=== 出典 ===
* [[隅谷三喜男]]『日本の歴史22 大日本帝国の試練』[[中央公論社]]&lt;[[中公文庫]]&gt;、1974年8月。ISBN 4-12-200131-5
[[画像:蘇峰學人書齋.jpg|thumb|200px|蘇峰學人書齋]]
* 徳富蘇峰「国民自覚論」『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』筑摩書房、1978年6月。
九州の地縁
* [[遠山茂樹]]「徳富蘇峰」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第7巻 つ-の』[[河出書房新社]]、1979年11月。
* [[宗像政]]
* [[杉井六郎]]「徳富蘇峰」国史大辞典編集委員会『国史大辞典第10巻 と-にそ』[[吉川弘文館]]、1989年9月。ISBN 4-642-00510-2
* [[野田卯太郎]]
* [[杉原志啓]]『蘇峰と『近世日本国民史』―大記者の「修史事業」』[[都市出版]]、1995年7月。ISBN 4924831212
思想上の交遊
* 徳富蘇峰『弟 徳富蘆花』中央公論社、1997年10月。ISBN 412002735X(中公文庫版、2001年5月。ISBN 4122038286)
* [[中江兆民]]<ref>兆民の著した『[[三酔人経綸問答]]』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。</ref>
* [[澤田次郎]]『近代日本人のアメリカ観--日露戦争以後を中心に』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年11月。ISBN 4766407660
民友社・国民新聞社社員
* [[加藤陽子]]『戦争の日本近代史』[[講談社]]&lt;[[講談社現代新書]]&gt;、2002年3月。ISBN 4-06-149599-2
* [[深井英五]]
* [[田代和久]]「徳富蘇峰」[[小学館]]編『日本大百科全書』小学館(スーパーニッポニカProfessional Win版)、2004年2月。ISBN 4099067459
キリスト教関連
* [[高野静子]]「後藤新平と徳富蘇峰」『機 2005年12月号』[[藤原書店]]、2005年。
* [[新島襄|新島 襄]]
* [[佐々木隆]]「徳富蘇峰と権力政治家」[[山本武利]]編『岩波講座「帝国」日本の学知第4巻 メディアのなかの「帝国」』[[岩波書店]]、2006年3月。ISBN 4000112546
* [[海老名弾正]]
*山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」講談社『現代』40巻9号(2006年9月号)、2006年。
* [[留岡幸助]]
* [[久恒啓一]]「日本偉人伝 徳富蘇峰の歩いた道」『致知 2011年5月号』[[致知出版社]]、2011年4月1日。
揮毫先
* [[学校法人奈良大学]]<ref>前身の南都正強中学の創立者藪内敬治郎(陸軍士官学校出身)は、蘇峰の信奉者の一人であり、学園に冠された「正強」 の二文字は蘇峰が贈ったもの。</ref>

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
297行目: 446行目:
* [http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/index.html 徳富蘇峰記念館](神奈川県二宮町)
* [http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/index.html 徳富蘇峰記念館](神奈川県二宮町)
* [http://www.mishimayukio.jp/soho.html 山中湖文学の森公園 徳富蘇峰館](山梨県南都留郡山中湖村)
* [http://www.mishimayukio.jp/soho.html 山中湖文学の森公園 徳富蘇峰館](山梨県南都留郡山中湖村)
* [http://www.pref.kumamoto.jp/shinkoukyoku/kamimashiki_hp/kankouchi/parts/084_tokutomi.htm 蘇峰生誕の家記念館 旧矢嶋家](熊本県上益城郡益城町)
* [http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/284929/www.pref.kumamoto.jp/shinkoukyoku/kamimashiki_hp/kankouchi/parts/084_tokutomi.htm 蘇峰生誕の家記念館 旧矢嶋家](熊本県上益城郡益城町)


=== 書評 ===
=== 書評 ===

2011年9月15日 (木) 13:54時点における版

徳富 蘇峰
(とくとみ そほう)
『蘇峰文選』に掲載された
国民新聞社時代の徳富蘇峰
ペンネーム 菅原 正敬
大江 逸
大江 逸郎
山王草主人
頑蘇老人
蘇峰学人
誕生 徳富 猪一郎
1863年3月14日
文久3年1月25日
日本の旗 肥後国上益城郡杉堂村(現益城町
死没 (1957-11-02) 1957年11月2日(94歳没)
職業 ジャーナリスト
歴史家
評論家
政治家
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1885年 - 1957年
文学活動 時事評論
伝記執筆
歴史研究
代表作 『将来之日本』(1886年
『大日本膨脹論』(1894年
『時務一家言』(1913年
『勝利者の悲哀』(1952年
近世日本国民史』(1918年 - 1952年
主な受賞歴 恩賜賞1923年
文化勲章1943年
デビュー作 『第19世紀日本の青年及其教育』(1885年)
親族 徳冨蘆花
湯浅治郎義兄
湯浅八郎
湯浅一郎義甥
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
徳富 猪一郎
とくとみ いいちろう
徳富猪一郎の肖像写真
生年月日 1863年3月14日
文久3年1月25日
出生地 日本の旗 肥後国上益城郡杉堂村(現益城町
没年月日 (1957-11-02) 1957年11月2日(94歳没)
出身校 同志社英学校中途退学
前職 國民新聞社社主(1890年-1929年
京城日報社監督1910年-1918年
称号 文化勲章
親族 湯浅治郎義兄

選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1911年8月24日 - 1946年2月23日
テンプレートを表示

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日文久3年1月25日) - 1957年昭和32年)11月2日)は、明治大正昭和の3代にわたる日本ジャーナリスト思想家歴史家評論家。また、政治家としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた。本名徳富 猪一郎(とくとみ いいちろう)。正敬(しょうけい)。筆名菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸大江 逸郎山王草主人頑蘇老人蘇峰学人銑研桐庭氷川子青山仙客伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。

蘇峰」は号である。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。文豪徳富蘆花の兄にあたる。

経歴

生い立ちと青年時代

文久3年1月25日(旧暦)、肥後国上益城郡杉堂村(現在の熊本県上益城郡益城町上陳)のの実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士徳富一敬(とくとみ・かずたか)の第五子、長男として生れた[1][2]。徳富家は代々葦北郡水俣(現水俣市)で惣庄屋代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑[注釈 1]のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1]

蘇峰は、1871年(明治4年)、満8歳で兼坂諄次郎に学んだのち、1872年(明治5年)には熊本洋学校に入学したが、年少のため退学させられ、1875年(明治8年)に再入学した。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧訳聖書』などにふれて西洋学問キリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄金森通倫浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった[2][3]

熊本洋学校閉鎖後の1876年8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都同志社英学校に転入学した。同年12月に同志社創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした[1]

1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中途退学した[注釈 2]。蘇峰は、こののち東京新聞記者を志願したが、志かなわず翌1881年(明治14年)、帰郷して郷里熊本で自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している[2]

1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村(現熊本市)の自宅内に、父一敬とともに私塾大江義塾」を創設、1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史政治学経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた[2]。その門下には宮崎滔天人見一太郎らがいる[注釈 3]

『國民新聞』の創刊と平民主義

大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンジョン・ブライト英国ヴィクトリア朝自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった[4]

蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった[4]。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』[5]に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである[2][注釈 4]。彼の論は、富国強兵鹿鳴館徴兵制国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。

蘇峰は1886年の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている[6][注釈 5]。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした[3][7]。これが蘇峰の出世作となった。

1887年(明治20年)には東京赤坂榎坂に姉初子の夫湯浅治郎の協力を得て言論団体民友社を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。『国民之友』の名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から採用したものだといわれている[8]。民友社には弟の徳冨蘆花はじめ山路愛山竹越与三郎国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺志賀重昂陸羯南政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から翌 1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、『現時之社会主義』の翻訳(1893年)など社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった[3][9]

1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった[2]。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東』The Far East )を、それぞれ発行している[1]。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた[4]

いっぽうでは1889年1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃、日清戦争に際しては、内村鑑三"Justification of Korean War" を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。日清開戦におよび、その戦況を詳細に報道、自ら広島大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した。川上操六参謀次長樺山資紀軍令部長らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨張論』を刊行した[10]

水俣市にある水俣市立蘇峰記念館(旧:水俣市立図書館「淇水文庫」)

「変節」と政界入り

従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治27年)4月のロシアドイツフランスによるいわゆる「三国干渉」の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ[11]、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した[7]

蘇峰は、みずからの日記に、

この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。

と書き記している[12][注釈 6]

遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した[8]。その欧米巡歴は、ロンドンを皮切りにオランダドイツポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを訪ねた[注釈 7]。その後、パリに入ってイギリスにもどり、さらにアメリカ合衆国に渡航している[4]。ロンドンでは、イギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている[8]。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。

帰国直後の1897年(明治30年)、第2次松方内閣内務省勅任参事官に就任、 従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された[7][注釈 8]。蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、田岡嶺雲は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し[13]堺利彦もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した[4]

1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政界官界に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある [14]

蘇峰はこののち山縣有朋桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した[8]。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、

図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。

と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日日比谷焼打事件に際しては暴徒によって社屋の襲撃を受けている[8]

1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。翌1911年(明治44年)には貴族院勅選議員に任じられている。1910年5月には大逆事件検挙が始まり、1911年1月には極刑の判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳秋水らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった[15]

大正デモクラシー時代と『近世日本国民史』の執筆

1913年大正2年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している[注釈 9]。『國民新聞』は大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた[1]。蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった[3]1914年(大正3年)の父一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約し、1918年(大正7年)5月には「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した[1]

1918年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり[16]、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものであった[17]。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、地下2階の書庫が建てられた[17]

1923年(大正12年)には『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院恩賜賞を受賞した[18]。この年は9月1日関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている[17]1925年(大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。

霊南坂教会創立50周年記念祝会、1929年12月12日

ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている[19]1927年昭和2年)、弟の蘆花徳富健次郎が死去。1928年(昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が東京の青山会館で開催されている。

帝国学士院会員としては、1927年5月に「維新史考察の前提」、1928年1月に「神皇正統記の一節に就て」、1931年(昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している[1]

なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津・河西とのあいだに確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰はみずから創立した国民新聞社を退社した。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。

軍部との提携と大日本言論報国会

1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその国家主義ないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」[注釈 10]、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。

1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)には大東亜戦争開戦の詔書添削している。

1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は、内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれていた。1943年(昭和18年)4月、蘇峰は三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年、蘇峰は80歳であり、三叉神経痛眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している[17][注釈 11]1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。

終戦にあたっては、1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は無条件降伏の受諾に反対。昭和天皇非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。

『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰

戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後にA級戦犯容疑をかけられたが、老齢と三叉神経痛のため、GHQにより自宅拘禁を条件に不起訴処分が下された。また、公職追放の処分を受けたため、貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。1945年9月、みずからの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とし、1946年(昭和21年)には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして、1943年に受章した文化勲章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去している。

蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、2006年(平成18年)から2007年(平成19年)にかけて『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題し、講談社から全4巻が刊行された。そのなかで、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べており、話題を呼んでいる[注釈 12]

1951年(昭和26年)2月、1945年8月以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された[17]平泉澄校訂により時事通信社で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、の手によってなされた[17]

1952年9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と解題されたうえで刊行された。

1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。満94歳であった。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の霊南坂キリスト教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。

業績と評価

思想家蘇峰

思想家、言論人としての徳富蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない[7]。蘇峰自身も、

維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。

と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実である。それに対し、松岡正剛は、敬虔なクリスチャン、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している[4]

戦前における国権主義的な言論活動については評判がわるく、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには軍国主義の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない[4]

そのいっぽうで、久恒啓一は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている[7]

近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソンによって1977年(昭和52年)に、ビン・シンによって1986年(昭和61年)に示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈しているのである[4]

歴史家蘇峰

歴史家としての名声は山路愛山とならび、特にその史論が高く評価される[3]

史書『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである[17]。『近世日本国民史』の構成は、

  • 緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
  • 中論…徳川時代〔19巻〕・孝明天皇の時代〔32巻〕
  • 本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕

の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている[4]

蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している[4]

蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山林鵞峰の『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった[17]

杉原志啓によれば、アナキスト大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥菊池寛久米正雄吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという[20]

さらに蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという[21]

蘇峰は死ぬまで昭和維新日本国憲法第9条朝鮮戦争等のそれぞれについて、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は、松岡正剛によれば日本近現代史においては、きわめて例外的な、「現在的な歴史思想者」なのであった[4]

人物と交友関係

生涯にわたって蘇峰は、記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた[4]。また、日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる[7]

親族

祖父は辛島鹽井の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した徳富一敬で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に百姓一揆が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。父方の伯父に一義、高廉、昌龍、伯母にますも、はるがいる。

母は上益城郡杉堂の矢嶋家出身の久子で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている[22]。久子の姉順子(竹崎順子)は熊本女学校(現熊本フェイス学院高等学校)の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠夫人で同志社大学の基礎をきずいた海老名みや子の母にあたる。禁酒・廃娼を主張して婦人矯風会を設立した矢嶋楫子も徳富久子の妹で、久子は楫子の矯風運動を支援している[23]

なお、父徳富一敬は横井小楠の第一の門弟、順子・久子・つせ子・楫子の兄である矢嶋源助は小楠の第二の門弟であり、順子の夫である竹崎律次郎もまた小楠の門弟であった。

弟は小説家の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の初子は政治家湯浅治郎後妻となった。初子は、日本で初めて男女共学による教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には昆虫学者湯浅八郎らが生まれている(なお、洋画家湯浅一郎は治郎と前妻との間にできたである)。初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟友喜がいた。

妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる[17]

子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子があり、養女に鶴子がいる。長男太多雄は1931年(昭和6年)9月9日亡くなっている[22]

女性解放運動家久布白落実日本組合基督教会の指導者海老名弾正は遠戚にあたる。

弟・蘆花

小説『不如帰』で知られる5歳年下の弟徳冨蘆花は、1903年(明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、大逆事件では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後第一高等学校で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。

1927年(昭和2年)、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている[17]。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる[24][注釈 13]

交友者

蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子鳩山一郎緒方竹虎佐佐木信綱橋本関雪尾崎行雄加藤高明斎藤茂吉土屋文明賀川豊彦島木赤彦らの名前を掲げることができる[17]。また、後藤新平[6]勝海舟伊藤博文森鴎外渋沢栄一東条英機山本五十六正力松太郎中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギー職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助大隈重信松方正義西園寺公望大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している[17]

親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる[17]

  • わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
  • 高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪

手紙魔

神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身、『蘇翁言志録』(1936年)において、

ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。

と述べるように、書簡を大切なものと考えていた[6]

蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある[7]

徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、高野静子によってまとめられ、『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)、『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)が出版されている。前者には、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、森鴎外、山田美妙内田魯庵中西梅花幸田露伴森田思軒宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿酒井雄三郎小泉信三松岡洋右中野正剛大谷光瑞などからの、後者には、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹吉屋信子杉田久女夏目漱石、竹崎順子、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子、潮田千勢子植木枝盛依田学海野口そ恵子吉野作造瀧田樗陰麻田駒之助、菊池寛、山本実彦島田清次郎、賀川豊彦などからの書簡が、それぞれ紹介されている。また、2010年(平成22年)には同じ作者により『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』として出版された。

旧宅・墓地

久恒啓一は、1人の人物について5つもの「記念館」が存在することは他に例をみないとして蘇峰の偉業を称えている[7]。そのうちの2館は旧宅、1館は生家である母の実家である。

徳富旧邸・大江義塾跡

蘇峰・蘆花の兄弟が父一敬とともに居住したのが熊本市大江4丁目の徳富旧邸である。1970年(明治3年)の熊本藩の藩政改革の際、父一敬は藩の民政局大属に任命されて水俣から熊本に移り住むこととなり、元田永孚の斡旋でこの家を入手した。建物は熊本市の有形文化財、跡地は熊本県指定史跡となっている[25]

山王草堂

蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている[注釈 14]1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。1988年(昭和63年)、大田区により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。

  • 所在地:東京都大田区山王1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
  • 開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日-1月3日、入館無料。

多摩霊園

墓所は東京都府中市の東京都立多摩霊園にあり、碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」、右に「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の「平常院静枝妙浄大姉」である[1]

その他の墓地

出身地である熊本県水俣市牧の内の徳富家代々の墓地、静岡県御殿場市青竜寺京都市左京区若王子同志社墓地にも分骨埋葬がなされている[1]

賞歴・栄典

賞歴
栄典

著作

「達磨」88歳時の自画自賛像;「別有天地非人間」(李白の詩句)

原刊行年順

  • 『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』私刊、1884年。 
  • 『自由、道徳、及儒教主義』私刊、1884年。
  • 徳富猪一郎『将来之日本』経済雑誌社、1886年10月。 
  • 徳富猪一郎『新日本之青年』集成社、1887年4月。 
  • 垣田純朗編 編『日本国防論』民友社、1889年1月。 
  • 徳富猪一郎『進歩乎退歩乎』民友社〈国民叢書第1冊〉、1891年6月。 
  • 徳富猪一郎『人物管見』民友社〈国民叢書第2冊〉、1892年5月。 
  • 徳富猪一郎『青年と教育』民友社〈国民叢書第3冊〉、1892年9月。 
  • 徳富猪一郎『吉田松陰』民友社、1893年12月。 
  • 徳富猪一郎『日本膨脹論』民友社、1894年12月。 
  • 徳富猪一郎、深井英五『欧洲大勢三論』民友社、1895年4月。 
  • 『時務一家言』民友社、1913年。
  • 『大正の青年と帝国の前途』民友社、1916年。
  • 『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。
  • 『昭和国民読本』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1939年。
  • 『満州建国読本』日本電報通信社、1940年。
  • 『必勝国民読本』毎日新聞社、1944年。
  • 『読書九十年』大日本雄弁会講談社、1952年。
  • 『勝利者の悲哀』大日本雄弁会講談社、1952年。

主な没後刊行

  • 『三代人物史』 読売新聞社、1971年 --- 『近世日本国民史』以外で最後の単著。明治・大正・昭和三代にわたる人物回顧
  • 『日本の名著40 徳富蘇峰.山路愛山』 中央公論社、1971年
--『将来之日本』(1886年)、『吉田松陰』(1893年)を収録
--『官民調和論』(刊行年不明、熊本時代)、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(1884年私刊)、『自由、道徳、及儒教主義』(1884年私刊)、『将来之日本』(1886年)、『三版 新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『吉田松陰』(1893年)、『大日本膨脹論』(1894年)、『時務一家言』(1913年)を収録
--『新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『大正の青年と帝国の前途』(1916年)、『国民自覚論』(1923年)、『敗戦学校・国史の鍵』(1948年)、『勝利者の悲哀』(1952年)を収録
  • 『吉田松陰』 岩波文庫 初版1981年、ワイド版2001年
  • 『読書法』  講談社学術文庫  1981年
  • 『静思余録』 講談社学術文庫  1984年
  • 『蘇翁夢物語 わが交遊録』 中公文庫 1990年-初版は1938年(昭和13年)
  • 『蘇峰書物随筆』(全9巻) ゆまに書房、1993年 (明治38年~昭和10年の復刻版)
  • 『弟 徳富蘆花』 中央公論社 1997年、中公文庫、2001年
  • 『蘇峰自伝』 <人間の記録22>日本図書センター 1997年-初版は1935年(昭和10年)、中央公論社
  • 『徳富蘇峰 黒岩涙香 近代浪漫派文庫5』 新学社、2004年
--『嗟呼国民之友生れたり』、『「透谷全集」を読む』、『還暦を迎ふる一新聞記者の回顧』、『紫式部と清少納言』、『淡窓全集』、『世界三文豪の満一百年忌』、『敗戦学校』、『宮崎兄弟の思ひ出』、を収録

書簡・日記

  • 『往復書簡 後藤新平-徳富蘇峰 1895-1929』 高野静子編著、 藤原書店、2006年、書簡全70通を収む。
    • 編者は『蘇峰とその時代 よせられた書簡から』(正は中央公論社・続は蘇峰記念館)を刊行。記念館にて購入可能。
    • 『蘇峰への手紙 中江兆民から松岡洋右まで』 高野静子編著、藤原書店、2010年
  • 『徳富蘇峰関係文書(全3巻)』(伊藤隆ほか編, 山川出版社, 1982-87年)
    • 徳富蘇峰記念館が所蔵する蘇峰宛の書簡約4万6,000通から抄録。発信人は約1万2,000人に及ぶ[26]
  • 『頑蘇夢物語 徳富蘇峰終戦後日記』(全4巻) 講談社、2006-07年 ---(昭和20年-昭和22年の日記)

徳富蘇峰を演じた俳優

関連項目

蘇峰學人書齋

全般

人物

揮毫先

脚注

注釈

  1. ^ 1884年(明治17年)3月刊の山脇之人『維新元勲十傑論』に由来する。
  2. ^ このとき蘇峰は西京第二公会に退会を申し出て、除名処分を受けた。しかし、新島襄に寄せた敬意は終生変わることがなかった。杉井(1989)
  3. ^ 大江義塾の思い出として、宮崎滔天は、当時弱冠21歳の蘇峰が口角泡を飛ばして清教徒革命フランス革命について熱く語っていたことを述懐している。松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』
  4. ^ 1883年(明治16年)10月には「東京毎週新報」に「官民ノ調和ヲ論ズ」という評論を4回にわたり連載している。
  5. ^ 板垣は、原稿よりもむしろ蘇峰の人物そのものに興味をもち、政治家をやらせてみたいと述べたといわれる。高野(2005)
  6. ^ 『蘇峰日記』によれば、蘇峰はこのとき、清国に返還した遼東半島にとどまることを潔く思わず、せめていったんは日本の領土となった記念にと旅順の小石ハンカチに包んで一刻も早い帰国を願ったと続けている。隅谷(1974)p.58
  7. ^ 奇しくも弟蘆花もトルストイをのちに訪ねている。蘇峰は、このとき「人道と愛国心は背反する」と述べたトルストイに反論している。
  8. ^ 松方内閣で同志社出身の蘇峰が勅任参事官となったのと同時に東京専門学校高田早苗外務省通商局長となり、隈板内閣では東京専門学校校長鳩山和夫が外務次官となるなど、明治30年代にはいると、政府と民間の垣根はしだいに取り払われ、私学の反政府的傾向も徐々に弱まっていった。隅谷(1974)p.212
  9. ^ 桂太郎の死後すぐに発足した立憲同志会は、中国の辛亥革命に直面した桂が従来型の特定勢力の利害を代表する政党では対外的危機に充分に対応することができないとして、帝国の有力者を網羅することによって危機克服をめざす意図でつくられた。同志会の会員には、日比谷焼打事件などに関係した、都市民衆運動のリーダーも含まれていた。加藤(2002)p.167
  10. ^ 白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきとの意味。澤田次郎は、蘇峰が「白閥打破」を使い始めたのは、1913年(大正2年)のカリフォルニア州排日土地法の成立が契機となったと指摘している。澤田(1999)
  11. ^ 当時の蘇峰の原稿には、原稿用紙の余白に「本日は顔面神経尤も劇(はげし)。ソノ為シバシハ筆ヲ投シ、漸ク之ヲ稿了セリ。後人ソノ苦ヲ察セヨ」という文が記されたものがある。久恒(2011)p.29
  12. ^ 山本武利は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。山本(2006)pp.248-254
  13. ^ 蘇峰と蘆花の関係については、2003年(平成15年)、『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』が東京蘇峰会によって出版されている。
  14. ^ JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座する事により、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。1868年(明治元年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、1932年(昭和7年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。
  15. ^ 兆民の著した『三酔人経綸問答』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。
  16. ^ 前身の南都正強中学の創立者藪内敬治郎陸軍士官学校出身)は、蘇峰の信奉者の一人であり、学園に冠された「正強」 の二文字は蘇峰が贈ったものである。

参照

  1. ^ a b c d e f g h i j 杉井(1989)
  2. ^ a b c d e f g 田代(2004)
  3. ^ a b c d e 遠山(1979)pp.231-232
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』
  5. ^ 『将来之日本』
  6. ^ a b c 高野静子『後藤新平と徳富蘇峰の交友』
  7. ^ a b c d e f g h 久恒(2011)p.27
  8. ^ a b c d e 人物探訪「徳富蘇峰」文章報国70余年
  9. ^ 隅谷(1974)p.173
  10. ^ 『大日本膨脹論』
  11. ^ 隅谷(1974)p.57
  12. ^ 隅谷(1974)pp.57-58。原出典は『蘇峰日記』
  13. ^ 隅谷(1974)p.60。原出典は『第二嶺雲揺曳』
  14. ^ 佐々木隆「徳富蘇峰と権力政治家」(2006)
  15. ^ 隅谷(1974)pp.441-444
  16. ^ 久恒(2011)p.26
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m 久恒(2011)p.28
  18. ^ 「第13回(大正12年5月27日)」『恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院日本学士院
  19. ^ 『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』所収「国民自覚論」(1923)
  20. ^ 杉原(1995)
  21. ^ 久恒(2011)p.29
  22. ^ a b 「普及版刊行に就て」『近世日本国民史』
  23. ^ 歴史探訪「肥後の猛婦」
  24. ^ 『弟 徳富蘆花』(1997)
  25. ^ 徳富旧邸・大江義塾跡
  26. ^ 書翰通数と発信人数は『財団法人 徳富蘇峰記念塩崎財団所蔵 徳富蘇峰宛書簡目録』財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団、1995年による。

参考文献

基礎資料
  • 「年譜」、和田守編-『明治文学全集.34 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1974年。
  • 「参考文献」一覧、和田守編、同上。
研究書
  • 『評伝 徳富蘇峰--近代日本の光と影』 ビン・シン(原著は1986年).杉原志啓訳、岩波書店、1994年
  • 『近代日本と徳富蘇峰』 和田守著、御茶の水書房、1990年
  • 『徳富蘇峰と国民新聞』 有山輝雄著、吉川弘文館、1992年
  • 『蘇峰と「近世日本国民史」』 杉原志啓著、都市出版、1995年
  • 『近代日本人のアメリカ観--日露戦争以後を中心に』 澤田次郎著、慶應義塾大学出版会、1999年
  • 『条約改正と国内政治』 小宮一夫著、吉川弘文館、2001年
  • 『徳富蘇峰--日本ナショナリズムの軌跡』 米原謙著、中公新書、2003年
  • 『陸羯南--政治認識と対外論』 朴羊信著、岩波書店、2008年
     陸羯南を徳富蘇峰と比較し、1880年代後半から日露戦争前までを追跡する。蘇峰研究としても参照すべき内容。

出典

外部リンク

記念館

書評

その他

墓所に面した道路に向かって「蘇峰 徳富猪一郎先生墓所」の木塔がたつ。
徳富蘇峰の著作と参考文献一覧表。
蘇峰の住んだ東京大森の山王の歴史紹介。