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「地方病 (日本住血吸虫症)」の版間の差分

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=== 土地利用の転換と生活環境の激変 ===
=== 土地利用の転換と生活環境の激変 ===
[[File:Kofu Basin Peach blossom and the Minami Alps.JPG|thumb|230px|2011年4月の甲府盆地。市街地や住宅地、そしてモモとブドウに代表される果樹園は増えた。その一方で水田は減った。]]
保卵者数は猛威を振るっていた最盛期の[[1944年]](昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、[[1960年代]]から[[1970年代|70年代]]初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている<ref name="fukugo">小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、pp.204-208 ISBN 4-16-354220-5</ref>。
保卵者数は猛威を振るっていた最盛期の[[1944年]](昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、[[1960年代]]から[[1970年代|70年代]]初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている<ref name="fukugo">小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、pp.204-208 ISBN 4-16-354220-5</ref>。
*第一の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う'''土地利用の変化'''が挙げられる。古くから[[稲作]]が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、[[モモ]]や[[サクランボ]]などの[[果樹]]栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする[[水田]]が激減し、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に[[釜無川]]右岸地域一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても[[高度成長期]]に伴う[[宅地開発]]([[甲府リバーサイドタウン]]等)や、大規模な[[工業団地]]([[国母工業団地]]、[[釜無工業団地]]等)の造成により次々に水田は姿を消していった<ref>中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 p.116</ref>。
*第一の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う'''土地利用の変化'''が挙げられる。古くから[[稲作]]が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、[[モモ]]や[[サクランボ]]や[[ブドウ]]などの[[果樹]]栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする[[水田]]が激減し、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に[[釜無川]]右岸地域一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても[[高度成長期]]に伴う[[宅地開発]]([[甲府リバーサイドタウン]]等)や、大規模な[[工業団地]]([[国母工業団地]]、[[釜無工業団地]]等)の造成により次々に水田は姿を消していった<ref>中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 p.116</ref>。
*第二の要因としては、少なくなった水田においても'''農耕の機械化'''が進んだことにより農作業用の家畜がほとんど消え、ウシなどの感染家畜の糞便による虫卵が激減したことが挙げられる<ref name="fukugo"/>。
*第二の要因としては、少なくなった水田においても'''農耕の機械化'''が進んだことにより農作業用の家畜がほとんど消え、ウシなどの感染家畜の糞便による虫卵が激減したことが挙げられる<ref name="fukugo"/>。
*第三の要因として、家庭で使用されていた'''[[合成洗剤]]の排水'''によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代は合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また[[下水道]]の普及も遅れていた甲府盆地では合成洗剤を含んだ排水は、いわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、殊、日本住血吸虫に対しては怪我の功名とも言え<ref name="fukugo"/>、事実、[[久留米大学]]教授の塘普(つつみひろし)が[[1982年]](昭和57年)に行った実験で、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25パーセントの合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証された<ref>小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、p.208 ISBN 4-16-354220-5</ref>。
*第三の要因として、家庭で使用されていた'''[[合成洗剤]]の排水'''によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代は合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また[[下水道]]の普及も遅れていた甲府盆地では合成洗剤を含んだ排水は、いわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、殊、日本住血吸虫に対しては怪我の功名とも言え<ref name="fukugo"/>、事実、[[久留米大学]]教授の塘普(つつみひろし)が[[1982年]](昭和57年)に行った実験で、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25パーセントの合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証された<ref>小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、p.208 ISBN 4-16-354220-5</ref>。
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かくして古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は、世代を超えて多くの人々の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、日本国内では病気の撲滅が成し遂げられた。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されておらず、[[生物学]]、[[遺伝学]]、[[地質学]]、[[気象学]]、[[地理学]]など、あらゆる観点からの研究が現在も行われているが、依然として大きな謎のままである<ref>小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、pp.225-226 ISBN 4-16-354220-5</ref>。
かくして古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は、世代を超えて多くの人々の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、日本国内では病気の撲滅が成し遂げられた。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されておらず、[[生物学]]、[[遺伝学]]、[[地質学]]、[[気象学]]、[[地理学]]など、あらゆる観点からの研究が現在も行われているが、依然として大きな謎のままである<ref>小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、pp.225-226 ISBN 4-16-354220-5</ref>。


== 地方病対策とホタル ==
== 地方病対策の負の側面 ==
ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や<ref>[http://www.biodic.go.jp/reports/2-3/a284.html 第2回自然環境保全基礎調査 2-7 動物分布調査(昆虫類)2.指標昆虫類種類別解説 10)ゲンジボタル Luciola cruciata] 2011年7月30日閲覧</ref>、鎌田川流域など河川のコンクリート化により<ref>{{PDFlink|[http://www.mimura.city-chuo.ed.jp/mati/watasitati.pdf わたしたちのまち たまほ]}} pp.103 2011年7月30日閲覧</ref>。山梨県の[[ゲンジボタル]]は個体数が減り、生息地も減少した。特に鎌田川の支流である常永川は、昭和51年までは国指定[[天然記念物]]の<ref>[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2011年7月30日閲覧</ref>、[[1983年]](昭和58年)までは天然記念物指定地の
ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や<ref>[http://www.biodic.go.jp/reports/2-3/a284.html 第2回自然環境保全基礎調査 2-7 動物分布調査(昆虫類)2.指標昆虫類種類別解説 10)ゲンジボタル Luciola cruciata] 2011年7月30日閲覧</ref>、鎌田川流域など河川のコンクリート化により<ref>{{PDFlink|[http://www.mimura.city-chuo.ed.jp/mati/watasitati.pdf わたしたちのまち たまほ]}} pp.103 2011年7月30日閲覧</ref>。山梨県の[[ゲンジボタル]]は個体数が減り、生息地も減少した。特に鎌田川の支流である常永川は、昭和51年までは国指定[[天然記念物]]の<ref>[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2011年7月30日閲覧</ref>、[[1983年]](昭和58年)までは天然記念物指定地の
<ref>[http://www.yamanashi-kankou.jp/nature/summer.html 富士の国やまなし観光ネット 夏のほたる] 2011年7月30日閲覧</ref>指定を受けていたが、個体数の減少により解除された。これはゲンジボタルの幼虫の餌となる貝、カワニナがミヤイリガイとよく似た形態・生態であったことも関係している<ref>[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2011年7月30日閲覧</ref>。このことを踏まえて杉浦醫院にある池にはホタルが生息できるようにしている<ref>[http://sugiura-iinkai.blogspot.com/ 昭和町風土伝承館杉浦醫院整備保存活用検討委員会からのお知らせ 2010年11月8日月曜日 山梨県昭和町が杉浦父子の医院を保存] 2011年7月30日閲覧</ref>。また2011年現在、笛吹川流域ではホタルの勉強会や幼虫放流会も行われている
<ref>[http://www.yamanashi-kankou.jp/nature/summer.html 富士の国やまなし観光ネット 夏のほたる] 2011年7月30日閲覧</ref>指定を受けていたが、個体数の減少により解除された。これはゲンジボタルの幼虫の餌となる貝、カワニナがミヤイリガイとよく似た形態・生態であったことも関係している<ref>[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2011年7月30日閲覧</ref>。このことを踏まえて杉浦醫院にある池にはホタルが生息できるようにしている<ref>[http://sugiura-iinkai.blogspot.com/ 昭和町風土伝承館杉浦醫院整備保存活用検討委員会からのお知らせ 2010年11月8日月曜日 山梨県昭和町が杉浦父子の医院を保存] 2011年7月30日閲覧</ref>。また2011年現在、笛吹川流域ではホタルの勉強会や幼虫放流会も行われている
<ref>[http://www.fuefuki-syunkan.net/2011/hotaruginga.html ふえふき旬感ネット ホタル舞い飛ぶ里を目指して!] 2011年7月30日閲覧</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/kikaku/005/440.htm [[YOMIURI ONLINE]] 今夏も元気に舞ってね ホタルの幼虫放流式] 2011年7月30日閲覧</ref>。
<ref>[http://www.fuefuki-syunkan.net/2011/hotaruginga.html ふえふき旬感ネット ホタル舞い飛ぶ里を目指して!] 2011年7月30日閲覧</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/kikaku/005/440.htm [[YOMIURI ONLINE]] 今夏も元気に舞ってね ホタルの幼虫放流式] 2011年7月30日閲覧</ref>。

他にも旧[[田富町]](現[[中央市]])にあった臼井沼は、野鳥の生息地として山梨県民に知られていた<ref>[http://www.city.kofu.yamanashi.jp/gikai/gijiroku/1984/8412_t/841224.htm 昭和59年12月甲府市議会定例会議事日程(5)]2011年7月31日閲覧</ref>が、現在は埋め立てられている。これは田富町の住民は総決起大会を開き、地方病撲滅のためには沼を埋め立てるしかないと決議したためである。野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論したが、結局は県議会も埋め立てることを決定した。最終的に臼井沼は[[富士観光開発]]が開発し、現在の甲府リバーサイドタウンができた。<ref>[http://www.ypec.ed.jp/webkyou/tiikitanbo/sizen/miyairi.htm 地域探訪 地方病とミヤイリ貝]2011年7月31日閲覧</ref>
<ref>[http://www.yy-net.org/blog/02029/blog/archive/2010/05/242056205932.html 山梨観光わいわいねっと 日本住血吸虫症(地方病)流行終焉の地]2011年7月31日閲覧</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2011年7月30日 (土) 18:54時点における版

肝臓に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。甲府盆地の住民を苦しめた。
甲府盆地(定期航空機より2006年11月13日)左上方から中央部に弧状を描き下方へ流れるのが釜無川、右方向から左下方へ流れるのが笛吹川
地方病(日本住血吸虫症)撲滅に尽力した杉浦健造医師の胸像(2010年9月)

地方病(ちほうびょう)とは、日本住血吸虫症山梨県での呼び名である。

この疾患はヒトを含む哺乳類血管内部に寄生する寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の感染によって発症する寄生虫病であり、日本国内で最初に病原体が発見されたことから病名に日本の名が冠されているが、日本国内固有の疾患ではなく、現在も中国フィリピンを中心に毎年多くの新規感染患者が発生している[1][† 1]

この寄生虫病は特定の地域にのみ流行する疾患で、日本国内では山梨県甲府盆地底部、利根川下流域の茨城県芦田川流域の広島県深安郡片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部など、ごく限られた地域にのみ存在した風土病であった[2][3]。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯[4](以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から、治療、予防、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。

同疾患の正式名称は日本住血吸虫症Schistosomiasis japonica[5]であるが、山梨県では官民双方広く一般的に地方病と呼ばれており、原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民をはじめ、研究者や郷土医たちによる地方病との闘いの歴史は山梨県の近代医療の歴史でもある。

この項目では甲府盆地における地方病撲滅の経緯を記述する。

日本住血吸虫の生態について

住血吸虫症全般の症状について

甲府盆地の奇病

水腫脹満

地方病(日本住血吸虫症)により、腹水が溜まった重症患者。

この疾患がいつから山梨県で「地方病」と呼ばれるようになったのかを明確に記したものは残っていないが、明治20年代の始め頃には甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていたことが各種資料文献から分かっている[6]

腹部が大きくふくらむ症状から、古くは水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、少なくとも近世段階から甲府盆地に存在していたものと考えられている。近世初頭に原本が成立した全五十九品(章)からなる兵書である『甲陽軍鑑』品第五十七の文中に、武田家臣の小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼へ暇乞いに来る場面があり、「豊後、巳の年1580年天正8年)霜月よりわずらい、腫満なれども籠にのり、今年の御いとまごいを申し・・」と、地方病の疾患症状と推察される記述が見られる[7][8][9]。さらに元禄年間には竜王村界隈(現在の甲斐市)で「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が販売されていた伝承が残されている[8]

地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱下痢を発症し、時間の経過と共に手足が痩せ細り、やがて腹水により腹部が大きく脹れ、介護なしでは動けなくなり、最終的に肝硬変などを合併死亡した[10]。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、裕福層に罹患する者がほとんど無かったことから、多くの患者が医者に掛かることもなく死亡したものと推察されている。

結腸粘膜に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。

原因が特定された現在ならば、農民ばかりが罹患した理由も明らかになっている。しかし近代医学知識の無かった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民の生業病とまで言われた。住民たちは腹水がたまり太鼓腹になったら最後、決して回復することの無い病気として恐れ、水腫脹満茶碗のかけら(この病に罹ると、割れた茶碗同様役に立たない廃人になり世を去るという意味[11])ということわざや、発症する地域がある程度限定されていたことから、嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲む辛さよ[† 2]竜地(りゅうじ)、団子(だんご)[† 3]へ嫁行くなら背負って行け棺桶中の割(なかのわり)[† 4]に嫁行くなら、買ってやるぞえ経かたびらに棺桶、などという哀しい口碑民謡が有病地に残っている[12]

村を捨てた人々

1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村(現在の南アルプス市大明小学校付近)2村の戸長を兼ねていた西川藤三郎は、49戸の村の世帯主を召集し離村についての提案を行った。同村付近は甲府盆地でも最も標高の低い低湿帯で、水腫脹満、すなわち地方病の蔓延地であった。当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々では、この病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、先祖代々住み慣れた家や田畑を捨て、新たに開拓から始めるのは辛いが、このままでは村は全滅してしまうと、苦渋の決断をした。

明治新政府に入って間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されない封建制度から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動が認められる訳はなかった。それに対し、身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。明治新政府に村人の願いが通じ村の移転が聞き入れられたのは、30数年も経過した明治末年のことであった[13]

地方病を理由に村ごと移転したのは後にも先にもこの1例のみである。地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、他の甲府盆地の住民は地方病の恐怖に脅えながら暮らしていた。

原因解明へ向けた取り組み

解明への端緒

御指揮願いに添付された春日居村の略図。

1881年(明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の戸長である田中武平太により、当時の山梨県令藤村紫朗[† 5]宛に提出された嘆願書の水腫脹満に関する御指揮願いであった。同村では古くから本疾患が流行していたが、戸数約60戸の村の東西(両端)に病気は無く、中央部にあたる小松地区だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて県に請願を提出した[12][14]

1884年(明治17年)、県より派遣された医師により患者の診察及び、飲料水(井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが病気の原因は不明であった[15]1887年(明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員により当時一般化したばかりの糞便検査が行われ、その結果ある虫卵の発見に至り一種の鉤虫であろうと推察されたが、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった[16]

また同時期の1886年(明治19年)、徴兵検査のために山梨県を訪れた軍医石井良斉により、特定の有病地の村から来た20歳前後の男性の大半が、身長が140センチ強ほどの小学生程度しかなく、腹部は腹水により腫れ、手足は痩せ細り顔面は蒼白であることが判明し、明らかに何らかの栄養障害があるものと思われた[17]。時代は日清戦争直前の富国強兵の世情であり、石井からの報告を受けた軍部は事態を重く見て[† 6]、藤村紫朗山梨県知事へ原因解明の要請がされた[12]

勇気ある遺言

解剖が行われた盛岩寺(甲府市向町)境内に建つ杉山なかの紀徳碑(2010年9月)

石和(現在の笛吹市石和町)在住の医師である吉岡順作はこの奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を行った最初期の医師である[18]。この病気は発病初期に腹痛を伴う血便黄疸、そして肝硬変をおこし、最終的に腹水が溜まる臨床症状から考えると、肝臓と脾臓に原因があることは明らかであったが、酒を飲まない小児であっても発病するのでアルコール性肝硬変とも異なっていた。吉岡は患者の発生する地域分布図(地図)を作成したところ、笛吹川支流流域に沿った形で罹患者が分布しており、また、病気のある地区では川遊びをする子供たちに対して「きれいだからと言ってホタルを取ると、腹が太鼓のようにふくれて死んでしまう」、「セキレイを取ると腹がふくれて死ぬ」[19]などの戒め、口承が残っていたことから、この奇病と河川が何らかの形で関係しているであろうことを突き止めたが、病気の原因は分からなかった。万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断した。当時は死刑囚などの解剖が行われることはあったが、一般人の解剖は本人の意思であっても役所の許可が下りない時代であった。しかし県病院の解剖であれば許可が下りる。

「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病に罹り、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、遂に起き上がることも出来ないようになり露命また旦夕に迫る。私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」
死体解剖御願、杉山なか。
明治30年5月30日。[† 7][20][21]

1897年(明治30年)5月、1人の末期状態の女性患者が献体を申し出た。西山梨郡清田村(現在の甲府市向町)在住の農婦、杉山なか(当時54歳)である[22]。なかは40歳を過ぎた頃より体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、典型的な水腫症状をおこした。穿刺による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果が無く、やがて手の施しようのない状態に陥った。死を覚悟したなかは、何故甲州の民ばかり、このような惨い病に苦しまなければならないのか、と病を恨み、この病気の原因究明に役立つのならばと5月30日付けで、県病院(現在の山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)を親族の署名と共に提出し、死後の解剖を自ら申し出た。献体の申し出を受けた県病院長、県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた[23]

なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日、県病院から派遣された下平用彩医師執刀のもと[† 8]近隣から集まった40名もの医師が参加し、なかの菩提寺である盛岩寺(せいがんじ)(現在の甲府市向町)境内で解剖が行われた[24]

遺体から肝臓胆管脾臓の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した門脈には多数の結塞部位が認められた[25]。この門脈の肥大化にこそ、この疾患の重要な手がかりが隠されていた。盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の三神三朗医師の姿があった。

解明に向けた機運の高まり

三神三朗

中巨摩郡大鎌田村(現在の甲府市大里町)で内科を開業していた三神三朗[† 9]は、この解剖の当時弱冠24歳であった。三神内科のある大鎌田村は甲府盆地底部のほぼ中央に位置しており、地方病の有病地のひとつでもあった。彼の診療所では老衰以外の患者の死因は、ほとんどがこの奇病だった。

三神は県病院の病理技師から、「杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の十二指腸虫卵(鉤虫)より明らかに大きい」と知らされ、この奇病はまだ知られていない新種の寄生虫が大きく関与していることを確信し、当時は高価であったドイツからの輸入品である顕微鏡を自費で購入した。三神は罹患した患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことの無い大型の虫卵を見つけ、「肝臓脾臓肥大に就て」の題で1900年(明治33年)発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告した[26]。同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに軍医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり県医学界の重要研究課題となっていく。

明治20年頃の山梨県病院

1902年(明治35年)4月、当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院に招いて『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた[27]

参加者は佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究する長崎医科大学 (旧制)の栗本東明教授ら、寄生虫疾患に取り組む研究者たちであった。三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行ったが、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持たず返答に窮した。

討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が樹状に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で産卵したのであろうという意見が出されたが、肝臓や脾臓の肥大原因と正体不明の寄生虫の虫卵による、この疾患との因果関係についての意見一致には至らなかった[28]

この討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である日本住血吸虫を発見する桂田富士郎がいた。

日本住血吸虫の発見

桂田富士郎と三神三朗

日本住血吸虫が発見された甲府市の三神内科(2010年9月)

桂田富士郎は岡山医学専門学校(現在の岡山大学)の教授で、当時岡山県西部で流行していた別の寄生虫病の研究者でもあった[† 10]

1904年(明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は岡山から山梨の三神宅へ赴き、両名による甲府盆地周辺の罹患者の診察及び糞便検査が行われ、数名の便から三神が以前に発見した新種と思われる虫卵を再確認した[28]。また、県病院より提供された杉山なか等3名の病理標本を顕微鏡の倍率を上げ改めて詳細に検証し、これら3例の肝臓にある虫卵も大きさや形状から、糞便検査で見つかった卵と同一であると確信した[29]

桂田と三神はこの疾患の患者に下剤を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの消化器官に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である門脈を疑った。もし罹患者の門脈の中から、この卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることが出来れば、解決への大きな前進になると考えた。

猫から見つかった新種の寄生虫

雌雄抱合する日本住血吸虫のスケッチ
桂田富士郎

この奇病はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症しており、農耕で使うウシなどの家畜、さらには野良犬などにも腹部が大きく膨らんでいる姿が甲府盆地では多数見られたことから、桂田と三神は腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い「姫」と名付けられていた三神家の雌の飼いネコを解剖することにした。明治37年4月9日、三神の診療所でネコは解剖され、肝臓と腸が摘出されアルコール液に保存された。同年5月26日、岡山の研究室へ持ち帰った桂田はネコの肝臓門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。しかし欠損部分があり不完全であったため、桂田は生体での確認を行うため検証に必要な器具を持参し再度、甲府の三神を訪ね、改めて同様のネコを探し出し、両名はネコの門脈内から、雄24匹、雌8匹、その内雌雄抱合しているもの5対という大量の生きた虫体を発見した[30]1904年(明治37年)7月30日のことで、後に桂田によって日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう、学名Schistosoma japonicum)と名付けられるこの奇病の病原寄生虫発見の瞬間であった[31]

日本住血吸虫は腸から肝臓へ血液を送る門脈の中で、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が、消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵がタンパク質分解酵素を放出することによって周囲の腸壁を溶解し卵ごと腸内に落ちるからであり、一方血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。このように日本住血吸虫は腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが分かった。

この奇病が寄生虫病であると確定はしたが、体長1センチから3センチほどもある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム(生活史)の解明が次の課題であった。

感染経路の解明と中間宿主の特定

泥かぶれ

住血吸虫のライフサイクル

寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの感染経路の解明が進められた。感染経路には2つの仮説があり、ひとつは飲料水からの経口感染説、もうひとつが皮膚からの経皮感染説であった。甲府盆地では前述した「能蔵池葦水飲むつらさよ」と、民謡に唄われたように飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。有病地では水田や川に入ると足や手などが赤くかぶれることがあり、地域ではこれを泥かぶれと呼び、この奇病を発症する者は、必ずこの泥かぶれを経て罹患することを農民は経験的に知っていた[32][† 11]。しかし水は飲まなければ生きてゆけず、農民に「田んぼに入るな」と言うのも仕事を奪うことと同じであり、他に収入源の無い小作農民は奇病の感染を恐れつつも、半ば諦観を持って水田での労働に就いていた。

1905年(明治38年)7月、経口感染を疑った東山梨郡祝村(現在の甲州市勝沼町)出身で東京大学医学部卒の内科医局員であった土屋岩保(いわお)は、甲府盆地の有病地で調査を行い、解剖した犬や猫の門脈のみに多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし、経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、に入る前の食道咽頭などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。当時の寄生虫学においては、黄熱病マラリアなどに刺されることによって発病する以外の寄生虫病は、十二指腸虫などのように、ほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであり、このような寄生虫学会内の常識のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた[33]

飲み水からか?皮膚からか?

経口感染説の可能性が高くなり、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の煮沸を義務付けた。しかしそれにも関わらず新たな感染者が次々に発生していることから、経口感染説は違うのではないかと疑問が出始めた。1909年(明治42年)6月に独創的な動物実験が広島片山地区(現在の広島県福山市)の有病地において2人の研究者によって行われた。日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎は犬と猫を使って、京都帝国大学医学部教授の藤浪鑑は片山地方の開業医吉田龍蔵の協力のもと、17頭もの牛を使った大掛かりな実験を行い感染経路の論争決着に臨んだ。

藤浪による牛を利用した感染実験[34]
  • 甲グループ6頭。
与える飲食物は全て煮沸し、特製の口袋で牛の口を覆い与える飲食物以外を口に出来ないようにして、有病地の小川や水田への出入りを意図的に繰り返す。
  • 乙グループ7頭。
牛の全身に防水グッズを装着。有病地の水田や小川への出入りを意図的に繰り返し、畦や水田で草を食べたり水を飲むことは自由にさせる。しかし全身を防水グッズで覆い、体に水を一切触れさせないようにする。
  • 丙グループ2頭。
甲グループとの比較のために行う。甲グループと同様に飲食物は全て煮沸したものを与えるが、牛小屋に隔離して小屋の外には出さない。
  • 丁グループ2頭。
口も全身も何も施さず、有病地での飲食も行動も完全に自由とする。

実験期間を1ヵ月とし、実験終了の時点で糞便検査を行い、全て殺して解剖し門脈に日本住血吸虫がいるかを検証する。

藤浪は土屋と同じく経口感染の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は、経口感染を予防した甲グループが全頭感染し、経皮感染を予防した乙、丙グループは全く感染しておらず、どちらの感染も許した丁グループは当然であるが感染という藤浪の予想に反したものだった。この結果は桂田の行った実験でも同様であった。また同年には京都大学皮膚科の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという、自らの体を使った決死の感染実験が行われ、3回に及ぶ実験の末、松浦の腕にはかゆみを伴う赤い斑点が発症し、自分の血便の中に虫卵を確認するなど、経皮感染の検証を裏付けるものであった[35][36]

3人の実験結果を論文で知った医師や研究者は俄かには信じられず半信半疑であった。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭もの犬をグループ分けして甲府盆地の有病地で追実験を行った。経口感染を信じて疑わなかった土屋であったが、自らの予想とは全く反対の藤浪や桂田の実験と同様の結果になり、経皮感染を認めざるを得ず、「地方病の感染は皮膚からである」と山梨県知事に報告し、学会内の意見も経皮感染に統一された[37]

中間宿主が必要だ

セルカリア

感染は皮膚からであることが明らかになったが、土屋は新たな疑問に悩んでいた。便中の日本住血吸虫虫卵から孵化させた仔虫(ミラシジウムと呼ばれる)を泳がせた水に、猫やネズミの足を30分ほど浸して経過を見たが、10日を過ぎても1ヵ月を過ぎても猫やネズミの糞便に虫卵は見られなかった。孵化直後は感染能力が無いのではと考え、次に孵化6時間後のセルカリアに浸してみたが今度も感染は起こらなかった。それどころか孵化後時間が経過するごとにミラシジウムは死んでいき、48時間以内には全て死滅していた。同じことを何度も繰り返したが結果は同じであった[38]。このように孵化したミラシジウムはそのままでは哺乳動物に感染せず、2日以内に死滅することが判明した。考え抜いた土屋は「ミラシジウムは自然界にいる動植物の何らかを中間宿主としている。中間宿主の体内で人間の体へ感染するのに適した体へ成長するのだ。」との結論に達する[39]

山梨地方病研究部の専任技師になっていた土屋は1911年(明治44年)3月、任期を終え東京大学教授として迎えられ、後任者として東京大学伝染病研究所から宮川米次が就任した[40]。宮川は土屋の提唱した中間宿主の必要性に真っ先に賛同した人物でもあり、桂田や藤浪、三神らも中間宿主の存在に同調していた[41]。地方病専任技師となった宮川は早速新たな検証実験に着手する。実験の目的は哺乳動物に感染した直後の日本住血吸虫の幼虫の形態がどのようなものであるのかを把握することだった。非流行地である東京から大量にウサギと犬を運び、有病地のひとつ中巨摩郡池田村(現在の甲府市池田)の河川を実験地に選び、これらの動物を水に浸した。実験動物の股静脈から採血した血液の中に、宮川はミラシジウムとは形態的に異なる幼虫を確認した。吸虫類において成虫になる前の段階、寄生虫学用語でセルカリアと呼ばれているものだった。この検証により便中の虫卵から孵化したミラシジウムと皮膚から感染するセルカリアの形態、形状が異なることが判明し、日本住血吸虫が成虫に至る過程には中間宿主が必要であることが確定した[42]

ミヤイリガイ(宮入貝)の発見

ミヤイリガイ

中間宿主探しが始まった。北巨摩郡塩崎村(現在の甲斐市双葉地区)出身で新潟医科大学 (旧制)の川村麟也をはじめ、多くの研究者により有病地に生息するさまざまな生物が採取され検証が繰り返された。杉山なか解剖に大きく携わった吉岡順作も、有病地に分布するカワニナが中間宿主であろうと主張し、土屋岩保に協力を仰ぎ、両名によりカワニナを入れた水槽の中でミラシジウムを孵化させるなどの実験が続けられたが立証には至らなかった[43]

日本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは1913年(大正2年)、九州帝国大学宮入慶之助と助手の鈴木稔によって、佐賀県三養基郡基里村酒井地区(現在の鳥栖市酒井東町)で発見された、体長わずか8ミリほどの淡水性巻貝での立証であった[† 12]。宮入と鈴木は酒井地区の住民から水に浸かると確実に感染することから「有毒溝渠」と呼ばれ恐れられていた溝渠で小さな巻貝を見つけ、同地の民家に泊り込んで実証を重ね、虫卵から孵化させたミラシジウムが巻貝の体内に侵入し、母スポロシスト、娘スポロシストと巻貝の体内で変態を続け最終的にセルカリアとなって巻貝から水中に出てくることを確認した。この結果は東京医事新誌に報告され、同疾患に取り組む当時の研究者たちを驚愕させた[44]

ここで重要な問題であったのは、この貝が一体、何の貝であるのかであり、日本全国に分布するものなのか?日本住血吸虫症の発症地だけに棲息するものなのか?種の特定が重要であった。多くの学者が論文に記載された写真を見てカワニナを疑い、宮入自身もカワニナの亜種ではないかと思いつつ、九州大学理学部に鑑定を依頼したが、カワニナであれば螺層(巻貝の螺旋の数)は4つでなければならず、問題の貝は螺層が6から9つであり、各国の論文はもとより大英博物館が発行する世界の貝の最新分類表にも記載されていない新種の貝であることが鑑定の結果分かった[45]。翌年調査のため山梨県を訪れた宮入により、佐賀で発見されたものと同じ巻貝が甲府盆地の有病地域でも多数確認され[46]、山梨の医学会は宮入博士の功績をたたえてこの貝をミヤイリガイ(宮入貝)と名付けた[47]

中間宿主がミヤイリガイであると特定されたことの意義は非常に大きかった。日本住血吸虫が成長過程においてミヤイリガイ以外には寄生(中間宿主)できないのであれば、もし仮にミヤイリガイを撲滅することができれば、理論上この奇病の新たな発生もコントロールできるはずであり、逆にミヤイリガイが生息しない地域には本疾患は存在しないことになるので、長い間謎であったこの奇病が特定の地域にのみ流行する理由も同時に明らかになった。また、この発見は海外の寄生虫学者にも大きな影響を与え、2年後の1915年(大正4年)にビルハルツ住血吸虫の中間宿主がモノアラガイの一種であることがエジプトで証明され、さらに同年にはマンソン住血吸虫の中間宿主がヒラマキガイ科であることが判明するなど、ミヤイリガイの発見はヒトに感染する吸虫類の中間宿主の多くが陸産貝を中心にする軟体動物であるという、現在の寄生虫学の礎となるものであり、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持っていた。

治療薬と感染診断法の開発

困難を極めた治療

杉浦醫院内の薬室(2010年9月)

病原体(日本住血吸虫)の発見と中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の予防という観点から見れば非常に大きな成果であったが、その一方で、すでに罹患してしまった患者に対する治療は困難を極めた。日本住血吸虫は血管内に寄生するタイプの寄生虫であり、消化器官に寄生する蟯虫などの寄生虫を体外に排出するために用いられる虫下しでは当然駆除することは出来なかった。

研究者たちは血管内部の寄生虫を駆除するさまざまな方法を研究し、大正7年から12年頃にかけて東京帝大伝染病研究所へ戻っていた宮川米次らにより酒石酸アンチモンなどの化合による駆虫薬スチブナールが開発され[48]、宮川、土屋両氏の勧めもあって[49]山梨の三神三朗に治療実験の依頼がされた[50]

三神による実験の結果、門脈内に寄生した日本住血吸虫の卵巣機能を破壊し、卵を産めなくさせることによって、罹病者の便から虫卵を消失させる効果が実証され実用化されたが、技術的に難しい20数回にも及ぶ静脈注射による困難な治療であり、半金属系であるアンチモンによる副作用として体中の関節に激しい痛みが起きるなど、患者にとって肉体的負担の大きなものであった[51]。それでも後年1970年代ドイツの製薬メーカーバイエルによる、副作用を低減し、しかも飲み薬である錠剤の新薬プラジカンテルが開発されるまでスチブナールは唯一の地方病治療薬であった[52]。しかし、スチブナールもプラジカンテルも体内の日本住血吸虫を殺傷するための薬であり、すでに罹患者の臓器に蓄積されてしまった卵殻を除去するものではなかった。すなわち地方病の治療は対処療法止まりで完治させるものにはなり得なかった。

診断精度向上の努力

顕微鏡で見た日本住血吸虫の卵

経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことは無く、罹患者に自覚症状が無い場合も多い。多くの患者は血便や腹水が溜まるなど症状が悪化してから医療機関へ出向くことが多く、治療を難しいものにしていた。新薬であるスチブナールも、理想を言えば卵を産めない性成熟する前の段階で使用してこそ効果が大きく、それが難しくても、できるだけ虫卵の蓄積が少ないうちに治療を開始することが肝要であり、感染の早期発見、すなわち早期診断が重要であった。当初、地方病の感染検査も他の寄生虫病と同様、糞便検査によって診断が行われていたが、日本住血吸虫の寄生場所は血管である門脈内であり、腸管近くへ現われる頻度が極端に少なかったことから、少量の糞便を直接ガラス板に塗り、顕微鏡で観察して虫卵の有無を判定する従来からの直接塗抹法では検出感度が低く、感染を見逃してしまうことも多かった[53]

山梨県の地方病研究所では、第二次大戦後、後述するアメリカ軍の研究部隊が提唱し共同開発した皮内反応(寄生虫本体から作った抗原を用いた検査法)による検査法を導入し、各種の集卵法やミラシジウム孵化法が研究され、MIFC(merthiolate iodine formalbehyde concentration = 遠心沈殿法)による検査法を確立し[54]、甲府盆地で行われた住民糞便検査において、直接塗抹法で調べた時に僅か0.1%であった卵検出率が、MIFC法では2.7%と格段に検出精度が向上した[55]。また、AMSIII(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計法)も検出感度が高いことが分かり、あらかじめ被検集団に対して皮内反応を行うことによって[56]、検便検査対象者の絞込みが可能となった。こうして寄生虫体成分を抗原とする皮内反応という画期的な検査法による集団検診が行われ[57]、地方病感染者の早期発見、早期治療への福音となった。

感染防止への啓蒙

俺は地方病博士だ

地方病はミヤイリガイの生息する河川や水路などで、直接水に触れることによってセルカリアに感染するため、川遊び、行水などによる感染が多い子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら2校の校医[† 13]を務めるようになっていた三神三朗も山梨地方病研究部に申し入れた[58]

しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫の難解なライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。1917年(大正6年)、山梨地方病研究部は山梨県教育委員会と共同で『俺(わし)は地方病博士だ』と題した、当時としては画期的なイラスト[† 14]を多用した多色刷りの予防パンフレットを2万部作成し、有病地の小学生に無償で配布した。ミヤイリガイの発見により日本住血吸虫の生態が解明されてから僅か3年半後であったことを考えても、当時の関係者が児童への感染防止をいかに重視していたかが分かる。冊子の内容は、小学生の興味を引くために、3人の登場人物を配したストーリー性のあるもので、地方病研究部は各校校長以下、全教員授業で読み聞かせるように義務付け、感想文などを書かせる指導を行い啓蒙に務めた[58]。特に夏場の河川での水泳は厳しく禁止されたが、大正時代の郊外有病地の一般家庭では風呂はおろか上水道すら無いのが当たり前であり、全国有数の酷暑地帯である甲府盆地の夏季では、子供たちの河川での行水を完全に制限することは難しかった。このため有病地の小中学校のプール設置が県の補助事業として優先的に進められるなど、引き続き子供たちへの感染防止の徹底が図られた[59]

感染源対策

昭和18年の山梨県県令に記載された改良型便所の構造図

日本住血吸虫は中間宿主となるのはミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的な終宿主はヒトを含む哺乳類全般である。終宿主の糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに接触することにより感染源となる。

したがって堆肥として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置が行われた。山梨県では1929年(昭和4年)より改良型便所の設置に助成費を出し、1943年(昭和18年)には普及徹底を呼びかけるなど、ヒトの糞便からの感染対策は一定の効果を上げた[60]

しかし、家畜や野良犬、野良猫など動物の糞便を特定の場所に貯留することなど出来るはずがなく、農耕で使うウシや馬にオムツを穿かせるなどという珍奇な試みも行われた[61]が効果は無かった。このように排泄場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なもので、1933年(昭和8年)にウシヤギなどの家畜動物の糞便検査と健康管理が寄生虫病予防法細則により義務付けられ、同時に農耕で使う家畜を、感染率の高いウシから感染感受性の低い馬へと変えることが積極的に行われた。またノネズミなどの野生動物は計画的に捕殺され、犬や猫などの愛玩動物の管理監視体制が強化された。

郷土医杉浦健造と三郎親子

甲府盆地の有病地視察に訪れた昭和天皇と案内役の杉浦三郎。
多くの罹患者が治療を受けた杉浦醫院の診察室(2010年9月)

中巨摩郡西条村(現在の中巨摩郡昭和町)の杉浦健造医師、息子である三郎医師の親子医師は、代々同村で開業医として多くの地方病患者の治療に当たってきた郷土医である[62]。2人は献身的な治療を行うと同時に、この疾患に対する予防の知識を通じた啓蒙活動を住民に行い続けた。

しかし一向に減らない地方病の感染防止の難しさを目の当たりにし、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫を増やす為に、餌となるカワニナや、捕食動物としてのアヒルなどの飼育、さらに共に闘う医師たちへの金銭的援助など、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始めた。

やがてそれは官民一体による『地方病撲滅運動』に発展し、1925年(大正14年)に山梨県地方病撲滅期成組合が結成され[63]、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって推し進められた。

健三亡き後も、息子三郎によって遺志は引き継がれ、1947年(昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県を行幸した昭和天皇の中巨摩郡玉幡村(現在の甲斐市)における地方病有病地視察は三郎により案内され、当時の甲府盆地における地方病の状況説明や顕微鏡による虫卵やセルカリアの観察、ミヤイリガイの生息状況の観察などが行われた[64]

また、1950年(昭和25年)に創設された山梨県立医学研究所の初代地方病部長に就任[65]するなど、戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たした。

ミヤイリガイ駆除への挑戦

地域住民総出の殺貝活動

石灰窒素散布作業。昭和26年頃。

ミヤイリガイが中間宿主であると解明されてから、地方病の撲滅は、すなわちミヤイリガイの撲滅であると人々の間で共通認識となり意識されるようになった。ミヤイリガイ発見の翌年1914年(大正3年)には早くも土屋岩保により国母村小河原(現在の甲府市小河原町)の溝渠で、硫酸を使った殺貝実験が行われ[66]、土に埋める埋没法や火力による殺貝などが実験されたが、労力や経費に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかった。

そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった。女性や子供たちをも動員し、を使って貝を1匹ずつ御椀に集めていくという気の遠くなるような作業であったが、県により採取量1合に対し50が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された。この活動は1917年(大正6年)から8年間にわたって実施され、8年間で「385807[67]ものミヤイリガイが採取されたが、ミヤイリガイは極めて繁殖力が強く、一箇所だけで目に見えるミヤイリガイを駆除しても、それはまさに焼け石に水であり、さらなる有効な撲滅法の出現が待望された。

ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは1924年年(大正13年)の本間利雄山梨県知事の就任であった。当時の都道府県知事は公選ではなく官選であり、前職は広島県警察部長で、前任地広島片山地方でのミヤイリガイ撲滅事業にも県職員の一人として関わっていた本間は、片山地方における殺貝事業で石灰散布による効果を熟知しており、広島における日本住血吸虫症研究の第一人者、藤浪鑑を甲府へ呼び寄せ、山梨県内の研究者とともに石灰散布の可能性を探った。しかし広島での有病地面積の6倍強という甲府盆地での石灰散布作業は尋常ではないと、広大な甲府盆地の有病地を目の当たりにした藤浪自身も痛感していた[68]。それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県は1925年(大正14年)に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した[69]。住民の地方病撲滅への強い願いは、1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割にあたる131,943円が寄附金であった[60]ことからもうかがい知ることが出来る。

こうして行政のみならず、地域住民も巻き込んだミヤイリガイ撲滅活動は、終息宣言が出されるまでの70年以上も継続されていくことになり、生石灰から石灰窒素の散布へ、アセチレンバーナーによる生息域への火炎放射[70]アヒルなど天敵を使った捕食、後述するPCPによる殺貝など、あらゆる手段を駆使してミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を超え引き継がれていった[† 15]。。

殺貝剤PCPの開発

太平洋戦争中の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけ、フィリピンレイテ島パロ地区で、約1,700名ものアメリカ軍兵士に高熱や下痢が集団で発症した。当初マラリアを疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時のアメリカにおける保健衛生体制は、知識、予算の面でも世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとって、レイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった[71]

世界の住血吸虫症流行地

フィリピンでの苦い経験によりアメリカは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の1947年(昭和22年)10月、GHQによる衛生部隊を山梨県に投入し、甲府駅構内に客車を改造した臨時の研究所を作り[† 16]、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った。住民から『寄生虫列車』と呼ばれた米陸軍第406総合医学研究所の出先機関である同研究施設では、さまざまな薬品テストが行われ、米軍が持ち込んだサントブライトに有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製する事が可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称PCP-Na)の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、寄生虫列車、病院列車などと呼ばれ県民に親しまれた研究所での日米共同研究はその後9年間続いた。PCPによる殺貝は、主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げた[70]。しかし農作物や川魚などへの有害性が問題になり、環境への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時東北地方で「殺ミミズ剤」として使用されていたユリミンを粒状に改良し1968年(昭和43年)からPCPにとって変わり実用化されたが、直後にユリミン製造メーカーの原料不足から製造中止を余儀なくされ、山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋勝らが中心となり代替薬剤の調査検討が行われ、1976年(昭和51年)からはフェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩(通称B2)が使用されるようになった[72][73]

甲府盆地の水路のコンクリート化

ミヤイリガイ対策の為に、甲府盆地の水路はコンクリート化された[† 17](2010年9月)

1936年(昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った生物学者岩田正俊は、田や水路周辺に生息する特性から、ミヤイリガイが主に棲息地としている用水路コンクリート化することの有効性を唱えた[74]が、セメントが高価な当時としては、広大な範囲に広がる甲府盆地の全ての水路をコンクリートで覆うなど荒唐無稽な話で非現実的であった。しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋により、同疾患の流行地であった佐賀県旭村でのコンクリート用水路実験での効果が目覚ましかったことに加え、国立衛生研究所の寄生虫部長であった小宮義孝[75]により各機関への積極的な提唱が行われ、1948年(昭和23年)より山梨県では県職員の佐々木孝を中心に用水路のコンクリート化が試験的に始まった[76]。用水路のコンクリート化による利点として、1.まず、コンクリートで固める事によって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することが出来る。2.コンクリート化することによって流速が毎秒2(約66センチ)あれば貝の繁殖が不可能となる。3.仮にコンクリート水路で生息しても発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。などである。

また1950年(昭和25年)に現場で行われた実証実験により、コンクリート水路の水流が流速1メートルあれば貝が100パーセント流出することが判明し、厚生省を通じ寄生虫病予防法溝渠のコンクリート化条文が盛り込まれ[† 18]、県の予算を超えた国庫補助によるコンクリート化事業が1956年(昭和31年)より本格化した[77]。当時行政区域外であったため工事が出来ず、コンクリート化工事のネックとなっていた国鉄用地内(中央本線及び身延線)溝渠のコンクリート化は、運輸政務次官を経験していた旧白根町(現在の南アルプス市)出身の金丸信による各方面への働きかけによるものだった[78]。こうして甲府盆地を網の目状に流れる水路と言う水路が全てコンクリートで塗り固められていった。1979年(昭和54年)の段階でコンクリート化に投入された予算は累計総額70億円にものぼり[79]、甲府盆地のコンクリート化された用水路の総延長は2,109キロメートル(2,109,716メートル)に達した[80]

終息宣言

新規感染者の減少

コンクリート化された溝渠にはプレートが設置されている[† 19](2011年7月)

水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、消毒などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。

流行末期の甲府盆地における日本住血吸虫卵陽性率とミヤイリガイ感染率の推移
山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績 - 国立感染症研究所感染症情報センターIASRデータから引用改変(1961年-1980年)。
注:1992年までの検査データがあるが、1981年以降の感染率は全て0%で推移しているのでここでは省略する。
虫卵検査
年度 対象人数 陽性数 割合
1961年 77,945 199 0.25%
1962年 79,322 371 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.47%
1963年 38,168 179 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.47%
1964年 84,691 146 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.17%
1965年 117,340 326 0.28%
1966年 197,164 144 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.07%
1967年 201,447 171 0.08%
1968年 14,000 271 ファイル:B01.png 1.94%
1969年 13,000 109 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.84%
1970年 13,500 36 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.27%
1971年 11,703 44 0.38%
1972年 16,685 7 ファイル:B01.png 0.04%
1973年 9,800 19 ファイル:B01.png 0.19%
1974年 11,125 5 ファイル:B01.png 0.04%
1975年 10,000 9 ファイル:B01.png 0.09%
1976年 13,750 4 0.03%
1977年 10,000 3 0.03%
1978年 8,000 0 0%
1979年 8,233 0 0%
1980年 8,035 0 0%
セルカリア感染ミヤイリガイ検査
年度 対象貝数 感染数 割合
1961年 15,402 44 ファイル:B01.png 0.29%
1962年 8,172 13 ファイル:B01.png 0.16%
1963年 4,877 24 ファイル:B01.png 0.49%
1964年 1,183 1 0.08%
1965年 4,988 15 0.30%
1966年 6,410 6 ファイル:B01.png 0.09%
1967年 5,275 1 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.02%
1968年 2,227 0 0%
1969年 2,997 2 0.05%
1970年 3,085 6 ファイル:B01.png 0.19%
1971年 6,762 0 0%
1972年 8,219 18 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.22%
1973年 41,649 19 0.05%
1974年 11,428 7 ファイル:B01.png 0.06%
1975年 31,756 8 0.03%
1976年 25,333 3 ファイル:B01.png 0.01%
1977年 40,493 0 0%
1978年 28,444 0 0%
1979年 38,578 0 0%
1980年 37,751 0 0%

土地利用の転換と生活環境の激変

2011年4月の甲府盆地。市街地や住宅地、そしてモモとブドウに代表される果樹園は増えた。その一方で水田は減った。

保卵者数は猛威を振るっていた最盛期の1944年(昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、1960年代から70年代初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている[81]

  • 第一の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う土地利用の変化が挙げられる。古くから稲作が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、モモサクランボブドウなどの果樹栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする水田が激減し、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に釜無川右岸地域一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても高度成長期に伴う宅地開発甲府リバーサイドタウン等)や、大規模な工業団地国母工業団地釜無工業団地等)の造成により次々に水田は姿を消していった[82]
  • 第二の要因としては、少なくなった水田においても農耕の機械化が進んだことにより農作業用の家畜がほとんど消え、ウシなどの感染家畜の糞便による虫卵が激減したことが挙げられる[81]
  • 第三の要因として、家庭で使用されていた合成洗剤の排水によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代は合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また下水道の普及も遅れていた甲府盆地では合成洗剤を含んだ排水は、いわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、殊、日本住血吸虫に対しては怪我の功名とも言え[81]、事実、久留米大学教授の塘普(つつみひろし)が1982年(昭和57年)に行った実験で、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25パーセントの合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証された[83]

これらは地方病対策として意図的に行われたものではないが、日本の高度成長期のさまざまな生活環境の激変や都市化が、殺貝剤散布やコンクリート化などと相乗効果となり、結果的に日本住血吸虫の撲滅へ寄与した[84] 。やがて新規感染者と考えられる低年齢者の保卵者数の割合が低下し、1966年(昭和41年)以降の調査では保卵者の大部分が35歳以上で占められるようになった。

115年目の終息宣言

地方病流行終息の碑、山梨県知事天野建筆[† 20](2010年9月)

甲府盆地では1978年(昭和53年)の新感染者確認を最後に、これ以降の新たな感染者は確認されなくなり、撲滅こそされていないが、セルカリアに感染、寄生したミヤイリガイも同時期以降には発見されなくなった。1985年(昭和60年)には虫卵抗原に対する抗体陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下及び年齢構成の高齢化から本疾患の流行は1980年代初め頃に終息したものと現在では考えられている。その後の1990年(平成2年)から3年間に及ぶ甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした集団検診でも感染者はひとりもおらず全員陰性であった[85]

こうした経緯を経て山梨県知事の諮問機関である山梨地方病撲滅対策促進委員会は「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の答申を行い[86]、当時の同県知事天野建によって地方病終息宣言が出された。1881年(明治14年)8月27日、旧春日居村の嘆願に始まった地方病問題は、1996年(平成8年)2月13日、実に115年目にして終息を迎えた。

ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイは現在も山梨県では完全に撲滅されたわけではない。可能性は極めて低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る、輸入ペットや外国人保卵者など輸入感染による再流行(再興感染症)の危険性も指摘されている[87][88]。山梨県では2010年現在も住民や行政によって定期的に、ミヤイリガイの生息調査や監視活動が、さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている[89]

かくして古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は、世代を超えて多くの人々の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、日本国内では病気の撲滅が成し遂げられた。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されておらず、生物学遺伝学地質学気象学地理学など、あらゆる観点からの研究が現在も行われているが、依然として大きな謎のままである[90]

地方病対策の負の側面

ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や[91]、鎌田川流域など河川のコンクリート化により[92]。山梨県のゲンジボタルは個体数が減り、生息地も減少した。特に鎌田川の支流である常永川は、昭和51年までは国指定天然記念物[93]1983年(昭和58年)までは天然記念物指定地の [94]指定を受けていたが、個体数の減少により解除された。これはゲンジボタルの幼虫の餌となる貝、カワニナがミヤイリガイとよく似た形態・生態であったことも関係している[95]。このことを踏まえて杉浦醫院にある池にはホタルが生息できるようにしている[96]。また2011年現在、笛吹川流域ではホタルの勉強会や幼虫放流会も行われている [97][98]

他にも旧田富町(現中央市)にあった臼井沼は、野鳥の生息地として山梨県民に知られていた[99]が、現在は埋め立てられている。これは田富町の住民は総決起大会を開き、地方病撲滅のためには沼を埋め立てるしかないと決議したためである。野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論したが、結局は県議会も埋め立てることを決定した。最終的に臼井沼は富士観光開発が開発し、現在の甲府リバーサイドタウンができた。[100] [101]

脚注

注釈

  1. ^ 日本住血吸虫症(Schistosomiasis japonica)は病名に日本の名が冠されているが、日本国内固有の疾患ではなく、現在でもフィリピンや中国を中心に年間数千人から数万人の新規感染患者が発生している。日本は日本住血吸虫症を撲滅した世界唯一の国である。林正高 『寄生虫との百年戦争』 毎日新聞社 序文pp.1-3 ISBN 4-620-31422-6
  2. ^ 島ではなく野島と書いて「やしま」と読む難読地名で、現在の南アルプス市(旧八田村中央部)の地名、能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。
  3. ^ 現在の甲斐市(旧双葉町)の地名。
  4. ^ 現在の韮崎市旭町及び大草町付近。
  5. ^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
  6. ^ 1917年(大正6年)発行の小冊子『俺は地方病博士だ』でも、地方病は人口の減少や発育不良を招く病であると説き、
    だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。だからこんな病氣の蟲は早く退治して仕舞ねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』pp.4-5
    としている。
  7. ^ 『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林正高 『寄生虫との百年戦争』 毎日新聞社 pp.73-74 ISBN 4-620-31422-6
  8. ^ 執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 1977年
  9. ^ 三神三朗の子孫は現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神脳外科内科医院である。
  10. ^ 当時の岡山県西部では肝臓ジストマが流行していた。小林照幸 『死の貝』 文藝春秋、p.50 ISBN 4-16-354220-5
  11. ^
    昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。
    何でも病蟲の居る水の中へ三四十分間入って居ると、病蟲はチャンと皮膚を喰破つて身體の中へ入るのだ。 — 『俺は地方病博士だ』p.5
  12. ^ ミヤイリガイの学名は、Katayama(後にOncomelanianosophora
  13. ^ 三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、多くの初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、pp.174-177
  14. ^ イラストとストーリーは懸賞により募集されたものであった。山梨地方病撲滅協力会 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、p.21
  15. ^
    病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。
    一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』p.11
  16. ^ 甲府市内は1945年7月の甲府空襲により焼け野原になり、かろうじて残った山梨県庁舎などもGHQにより既に接収されており、復興ままならない昭和22年当時では研究所として使用可能な建造物が他に無かったためだと言われている。小林照幸 『死の貝』 文藝春秋 p.154 ISBN 4-16-354220-5
  17. ^ 写真は中巨摩郡昭和町上河東、正面に見える山は八ヶ岳茅ケ岳
  18. ^ コンクリート化の立法化は後に厚生大臣を務めた山梨県選出の内田常雄議員の働きかけによるものだと言われている。林正高 『寄生虫との百年戦争』 毎日新聞社 p.80
  19. ^ 写真は中巨摩郡昭和町押越、設置年度と施工業者名、延長が記載されている。
  20. ^ 風土伝承館杉浦醫院の庭に建立されている。石碑の下部には医院の屋根に使用されていたが並べられているが、終息に要した年数と同じ115枚である。

出典

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  4. ^ 泉正彦 『地方病は死なず』 新泉社 p.44、流行末期の1977年の段階ですら、厚生省によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は日本国内の日本住地吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。
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参考文献

関連項目

外部リンク

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