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「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の版間の差分

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{{Infobox 芸術家
[[Image:Bild-Ottavio Leoni, Caravaggio.jpg|thumb|200px|ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(オッタヴィオ・レオニ画)]]
| bgcolour = #EEDD82
'''ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ'''('''Michelangelo Merisi da Caravaggio'''、[[1571年]][[9月28日]] - [[1610年]][[7月18日]])は、[[イタリア]]・[[ミラノ]]生まれの[[画家]]。'''カラヴァッジョ'''('''Caravaggio''')という通称で広く知られており、今日では[[バロック絵画]]の先駆者として高く評価されている。
| name = カラヴァッジョ
| image = Bild-Ottavio Leoni, Caravaggio.jpg
| imagesize = 200px
| caption = オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像画(1621年頃)
| birth_name = ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
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'''ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ'''({{lang-it-short|Michelangelo Merisi da Caravaggio}}、[[1571年]][[9月28日]] - [[1610年]][[7月18日]])は、[[バロック|バロック期]]の[[イタリア人]][[画家]]。1593年から1610年にかけて、[[ローマ]]、[[ナポリ]]、[[マルタ]]、[[シチリア]]で活動し、'''カラヴァッジョ'''('''Caravaggio''')という通称で広く知られている。その作品に見られる肉体面、精神面ともに人間本来の姿を写実的に描く手法と、光と陰の印象的な表現は[[バロック絵画]]の形成に大きな影響を与えた<ref>[http://www.getty.edu/vow/ULANFullDisplay?find=Caravaggio&role=&nation=&prev_page=1&subjectid=500115312 Getty profile, including variant spellings of the artist's name.]</ref>。

カラヴァッジョは[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の弟子だった師匠のもと、[[ミラノ]]で画家の修行を積んだ。その後、ミラノから[[ローマ]]へと移っているが、当時のローマは大規模な[[教会]]や[[パラッツォ|邸宅]]が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。[[対抗宗教改革]]のさなか、ローマカトリック教会は[[プロテスタント]]への対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、[[盛期ルネサンス]]以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていた[[マニエリスム]]は、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『'''聖マタイの殉教'''』と『'''[[聖マタイの召命]]'''』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在では[[テネブリズム]]とも呼ばれる、強烈な明暗法の[[キアロスクーロ]]の技法が使用されている。

カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足や[[パトロン]]の欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった<ref>[http://www.artinfo.com/news/story/37059/caravaggios-rap-sheet-reveals-him-to-have-been-a-lawless-sword-obsessed-wildman-and-a-terrible-renter/ Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter] ARTINFO.com</ref>。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後一ヶ月か二ヶ月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった<ref>Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用は[[カレル・ヴァン・マンデル]]の『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。</ref>」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年に[[マルタ]]で、1609年には[[ナポリ]]で乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、[[トスカーナ州]][[モンテ・アルジェンターリオ]]で38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。

存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[ホセ・デ・リベーラ]]、[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]そして[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]らバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けらる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「[[テネブリズム|テネブリスト]]」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人[[ポール・ヴァレリー]]の秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している<ref>Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
===から修行時代まで===
=== 前半(1571年 - 1592年)===
カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた<ref>[http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte Biography of Caravaggio]</ref>。両親ミラノ近郊[[カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]村人で、父親が1577年に流行した[[ペスト]]亡くなると、家族は故郷に戻り、カラヴァッジョ自身も幼少から青年期をそこで過ごしたためこ通称となった。父フェルモ・メリージはカラヴァッジョ公爵家執事で、カラヴァッジョ村にそこそこの土地資産を持っており、[[スフォルツァ家]]とも人脈を持っていた。なお、母親は1584年に亡くっている。
カラヴァッジョは1571年に[[ミラノ]]で三人兄弟の長男として生まれた<ref>[http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte Biography of Caravaggio]</ref><ref>Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: [http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte Rai International Online]. 以前姓から、カラヴァッジョ村で生まれたと考えられていた。</ref>。父フェルモ・メリージは、[[ベルガモ]]近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家邸宅管理かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の地主階級の娘だった。1576年にペストで荒廃したミラノを離れで[[カラヴァッジョ|カラヴァッジョ村]]へと移住したが、そ翌年の1577年には父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこ送ったと考えられており、カラヴァッジョ[[スフォルツァ家]]や[[コロンナ家]]とた当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。


カラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョは[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の弟子だったという記録が残っているミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ ([[:en:Simone Peterzano]]) のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、[[ヴェネツィア]]を訪れて、後年[[フェデリコ・ツッカリ]]がカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難した[[ジョルジョーネ]]<ref>Harris, p. 21.</ref>やティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョは[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった<ref>Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.</ref>。
母親が亡くなった年、カラヴァッジョは[[ロンバルディア]]地方で活動していた画家で[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の弟子と自称していた、シモーネ・ペテルツァーノの工房に入ることとなった。ペテルツァーノの工房では20歳前後まで修行していたと考えられている。


===ローマ時代===
=== ローマ時代前期(1592年 - 1600年)===
[[Image:Michelangelo Caravaggio 040.jpg|thumb|250px|''聖マタイの召命'' 1599年 - 1600年 [[サン・イジ・デイ・フランチェジ聖堂]](ローマ)]]
[[File:Caravaggio - Fanciullo con canestro di frutta.jpg|thumb|『果物籠を持つ少年』(1593年 - 1594){{convert|67|x|53|cm|0|lk=out|abbr=on}}<br /> [[ゼ美術館]]([[ローマ]])]]
1592年半ばにカラヴァッジョは「おそらく喧嘩」で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し「着の身着のままで…行く宛ても食料もなく…ほとんど無一文の状態で」ローマへと逃げ込んだ<ref>Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。</ref> 。その数ヵ月後カラヴァッジョは、ローマ教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]のお気に入りの画家だったジュゼッペ・チェーザリ ([[:en:Giuseppe Cesari]]) の工房で助手を務め、「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる<ref>Giovanni Pietro Bellori, ''Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni'', 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」</ref>。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは『'''果物の皮を剥く少年''' ([[:en:Boy Peeling Fruit (Caravaggio)|Boy Peeling Fruit]])』(ロンギ財団所蔵、1592年ごろ)、『'''果物籠を持つ少年''' ([[:en:Boy with a Basket of Fruit (Caravaggio)|Boy with a Basket of Fruit]])』([[ボルゲーゼ美術館]]所蔵、1593年 - 1594年)、『'''病めるバッカス''' ([[:en:Young Sick Bacchus (Caravaggio)|Young Sick Bacchus]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年ごろ)などがある。『病めるバッカス』は自画像ではないかと言われており、ひどい病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。『果物籠を持つ少年』に描かれた果物は園芸の専門家によればそれぞれの種類を言い当てることが可能で、例えば籠の右下に垂れ下がっているのは「菌類による病変に侵されて斑に枯れた大きなイチジクの葉」である<ref>[http://www.hort.purdue.edu/newcrop/caravaggio/caravaggio_l.html Caravaggio's Fruit: A Mirror on Baroque Horticulture (Jules Janick, Department of Horticulture and Landscape Architecture, Purdue University, West Lafayette, Indiana)]</ref>。
[[Image:Michelangelo Caravaggio 019.jpg|thumb|250px|''果物籠'' 1596年 - 1597年 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)]]
1592年末、カラヴァッジョはミラノで殺人事件か、何らかのトラブルを起こし[[ローマ]]に移る。1595年頃に[[フランチェスコ・マリア・デル・モンテ]]枢機卿にその才能を見いだされ、画家として一本立ちする。彼の描いた革新的な宗教画は教会において物議をかもしたが、裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し、独創性を認めた。この時期のカラヴァッジョの代表作は『聖母の死』、『聖マタイの殉教』などである。この時期に既にカラヴァッジオは彼の特徴である画面の明暗の差が激しい作風を確立している。また人物モデルに当時の[[ローマ]]の市井の人々を起用し、目に見えるものを見たまま画布に細密に描くという徹底した[[リアリズム]]表現を行った。


[[File:Canestra di frutta (Caravaggio).jpg|thumb|left|『果物籠』(1595年 - 1596年頃)<br />アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)]]
ローマ時代のカラヴァッジョは数多くの逸話を残している。例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「[[聖母マリア]]のお眠り」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジョは単に横たわっているだけの女の遺体を描き、注文主である教会から受け取りを拒否されている。
カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。オルシはすでに成功していた画家で、多くの影響力がある収集家をカラヴァッジョに引き合わせた。一方ロンギはカラヴァッジョに悪い影響を与えた人物で、喧騒に満ちたローマの裏の世界をカラヴァッジョに教えた。ミンニーティはカラヴァッジョのモデルをつとめ、数年後にシチリアでの重要な絵画制作に大きな役割を果たすことになった<ref>Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.79. Longhi was with Caravaggio on the night of the fatal brawl with Tomassoni; Robb, "M", p.341, believes that Minniti was as well.</ref>。


『'''女占い師''' ([[:en:The Fortune Teller (Caravaggio)|The Fortune Teller]])』([[カピトリーノ美術館]]所蔵、1594年ごろと[[ルーブル美術館]]所蔵、1595年ごろの2点のヴァージョンが現存)はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材の絵画はそれまでのローマでは見られず、この作品を嚆矢としてその後数世紀にわたって描かれるようになった題材である。しかしながら、この題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。
またカラヴァッジョは激情型の性格の持ち主で、[[アトリエ]]を離れれば腰に剣を提げ、酒場でしばしば騒動を引き起こした。喧嘩は日常茶飯事で、逮捕されたことも1度や2度ではなかった。[[1606年]]には決闘の相手を殺してしまい、ローマを離れざるを得なくなった。


[[File:The Cardsharps.jpg|thumb|『トランプ詐欺師』(1594年頃)<br />キンベル美術館([[フォートワース]])]]
===ナポリ時代===
『'''トランプ詐欺師''' ([[:en:Cardsharps|The Cardsharps]])』(キンベル美術館所蔵、1594年ごろ)は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた[[枢機卿]][[フランチェスコ・マリア・デル・モンテ]]に認められ、[[パトロン|後援]]を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『'''音楽家たち''' ([[:en:The Musicians (Caravaggio)|The Musicians]])』([[メトロポリタン美術館]]所蔵、1595年 - 1596年[[メトロポリタン美術館]])、『'''リュートを弾く若者''' ([[:en:The Lute Player (Caravaggio)|The Lute Player]])』(ウィルデンスタイン・コレクション所蔵、1596年ごろ、バドミントン・ハウス所蔵、1596年ごろ、[[エルミタージュ美術館]]所蔵、1600年ごろの3点のヴァージョンが現存)、『'''バッカス''' ([[:en:Bacchus (Caravaggio)|Bacchus]])』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『'''トカゲに噛まれた少年''' ([[:en:Boy Bitten by a Lizard (Caravaggio)|Boy Bitten by a Lizard]])』([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵、1593年 - 1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594年 - 1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。
ローマを離れたカラヴァッジョは、当時スペインの属領であった[[ナポリ]]王国の首都、ナポリへと工房を移した。ナポリでもカラヴァッジョには注文が殺到し、数ヶ月という短い期間に多くの作品を仕上げている。


[[File:Michelangelo Caravaggio 063.jpg|thumb|left|『懺悔するマグダラのマリア』(1594年 - 1595年頃)<br />ドリア・パンフィリ美術館([[ローマ]])]]
===マルタ島からシチリア島へ===
カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『'''懺悔するマグダラのマリア''' ([[:en:Penitent Magdalene (Caravaggio)|Penitent Magdalene]])』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594年 - 1595年ごろ)があり、描かれている[[マグダラのマリア]]はそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない…濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み…良心の呵責に苛まれ…救済を求めているのだろうか<ref>Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」</ref>」
その後、カラヴァッジョは[[マルタ騎士団]]の本拠地がある[[マルタ島]]へと移動。幾つかの油彩を制作するが、ここでも暴力沙汰を起こして投獄される。脱獄に成功したカラヴァッジョは[[シチリア]]へ逃れ、聖堂から複数の制作依頼を受けている。シチリア島で9ヶ月を過ごした後、カラヴァッジョは再びナポリへと向かった。


[[File:Caravaggio Judith Beheading Holofernes.jpg|thumb|right|『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(1598年 - 1599年)<br />国立古典絵画館(ローマ)]]
一方、ローマに居るカラヴァッジョの知人たちはカラヴァッジョへの恩赦を実現させる為に活動していたが、1610年になってようやくこれが実現し、ナポリのカラヴァッジョのもとに使者が送られた。これを知ったカラヴァッジョは自身も船に乗ってナポリから北上していった。しかしこの旅の途中でカラヴァッジョは病に倒れ、7月中旬から下旬の間に[[トスカーナ]]地方のポルト・エルコーレで息を引き取った。
この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『'''聖カテリナ''' ([[:en:Saint Catherine (Caravaggio)|Saint Catherine]])』([[ティッセン=ボルネミッサ美術館]]所蔵、1598年ごろ)、『'''聖マタイとマグダラのマリア''' ([[:en:Martha and Mary Magdalene (Caravaggio)|Martha and Mary Magdalene]])』([[デトロイト美術館]]所蔵、1598年ごろ)、『'''ホロフェルネスの首を斬るユディト''' ([[:en:Judith Beheading Holofernes (Caravaggio)|Judith Beheading Holofernes]])』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598年 - 1599年)、『'''イサクの犠牲''' ([[:en:Sacrifice of Isaac (Caravaggio)|Sacrifice of Isaac]])』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『'''法悦の聖フランチェスコ''' ([[:en:Saint Francis of Assisi in Ecstasy (Caravaggio)|Saint Francis of Assisi in Ecstasy]])』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『'''エジプトへの逃避途上の休息''' ([[:en:Rest on the Flight into Egypt (Caravaggio)|Rest on the Flight into Egypt]])』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。


極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。このような作風がもっともよく表れている当時の作品に『'''エマオの晩餐''' ([[:en:Supper at Emmaus (Caravaggio, London version)|Supper at Emmaus]])』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1601年)があげられる。
僅か38年の生涯で残した作品は凡そ100点、そのうち現存していて真筆疑いない物がその半分ほどで、多くの作品が真贋に境界線上にある。


==== ギャラリー ====
==カラヴァジェスティ==
<gallery>
{{独自研究|section=1|date=2008年11月}}
File:CARAVAGGIO, A boy peeling fruit (1593).jpg|『果物の皮を剥く少年』(1592年頃)<br />ロンギ財団(ローマ)
:「当時、ローマにおける画家たちはこれを革新的なのこととして受け止め、とりわけ若画家たちは彼を慕い、彼を唯一の自然主義的な写実主義者として称賛し、彼の作品を奇跡とみなしていた。彼らはモデルの衣類を脱がせ、明かりを持ち上げながら、カラヴァッジョの作品を揃って模写するのに懸命であった。」 - ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリ([[1672年]])
File:Self-portrait as the Sick Bacchus by Caravaggio.jpg|『病めるバッカス』(1593年頃)<br />ボルゲーゼ美術館所蔵(ローマ)
File:Caravaggio - I Musici.jpg|『音楽家たち』(1595年 - 1596年)<br />メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
File:The Fortune Teller1.jpg|『女占い師』(1594年頃)<br />カピトリーノ美術館(ローマ)
File:Fortune Teller.jpg|『女占い師』(1595年頃)<br />ルーブル美術館(パリ)
File:1596 Caravaggio, The Lute Player The Hermitage, St. Petersburg.jpg|『リュートを弾く若者』(1596年頃)<br />ウィルデンスタイン・コレクション
File:Caravaggioapollo.jpg|『リュートを弾く若者』(1596年頃)<br />バドミントン・ハウス(グロスタシャー)
File:Michelangelo Caravaggio 020.jpg|『リュートを弾く若者』(1600年頃)<br />エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)
File:Bacco.jpg|『バッカス』(1595年頃)<br />ウフィツィ美術館(プラド)
File:Michelangelo Caravaggio 061.jpg|『トカゲに噛まれた少年』(1593年 - 1594年頃)<br />ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
File:Caravaggio - Boy Bitten by a Lizard.jpg|『トカゲに噛まれた少年』(1594年 - 1596年頃)<br />ロベルト・ロンギ財団(フィレンツェ)
File:Michelangelo Caravaggio 060.jpg|『聖カテリナ』(1598年頃)<br />ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリッド)
File:Caravaggio Martha&Mary.jpg|『聖マタイとマグダラのマリア』(1598年頃)<br />デトロイト美術館(デトロイト)
File:Michelangelo Merisi da Caravaggio - The Sacrifice of Isaac - WGA04202.jpg|『イサクの犠牲』(1598年頃)<br />ピエセッカ・ジョンソン・コレクション(ニュージャージー、プリンストン)
File:St Francis in Ecstasy.jpg|『法悦の聖フランチェスコ』(1595年頃)<br />ワーズワース美術館(ハートフォード、コネチカット)
File:Michelangelo Caravaggio 025.jpg|『エジプトへの逃避途上の休息』(1597年頃)<br />ドリア・パンフィリ美術館(ローマ)
</gallery>


=== ローマ時代後期 - ローマでもっとも有名な画家(1600年 - 1606年) ===
カラヴァッジョ自身は弟子を持たなかったが、同世代や続く世代の画家たちに、カラヴァッジョがもたらした革新が与えた影響を無視することはできないだろう。彼の忠実な写実主義、モデルの選択、明暗表現、彼独自の静物画の豊かな通路をしめした“闇の様式”、彼の色彩に対する眼などは、カラヴァッジョ作品の特徴である{{誰|date=2008年11月}}。
[[File:Caravaggio - La vocazione di San Matteo.jpg|thumb|『[[聖マタイの召命]]』(1599年 - 1600年)<br />[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会]]コンタレッリ礼拝堂(ローマ)]]
1599年におそらく枢機卿デル・モンテの推薦で、カラヴァッジョは[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会]]コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。契約では2点の絵画を制作するとなっており、このときに描かれたのが『'''聖マタイの殉教''' ([[:en:The Martyrdom of Saint Matthew (Caravaggio)|Martyrdom of Saint Matthew]])』と『'''[[聖マタイの召命]]'''』である。1600年に完成したこれらの絵画は、たちまちのうちに大評判となった。カラヴァッジョはこの絵画で[[キアロスクーロ]]よりもさらに強い明暗法の[[テネブリズム]]を使用し、このことが画面に高い劇的な効果を与え、カラヴァッジョの作品が持つ鋭い写実性に激しい感情表現を加えることになった。当時の画家たちの間ではカラヴァッジョに対する評価は両極端に分かれている。絵画技法上、様々な間違いを犯していると公然と非難するものもいたが、カラヴァッジョを新しい絵画技法の先駆者であると支持するものが多かった。「当時ローマに居た画家たちは、カラヴァッジョの作品が持つ革新性に驚愕した。とくに若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描くことが出来る比類ない画家であると賞賛して、その作品はほとんど奇跡だとまで考えていた<ref>Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。</ref>」


[[File:Caravaggio - Taking of Christ - Dublin.jpg|thumb|left|『キリストの捕縛』(1602年頃)<br />アイルランド国立美術館(ダブリン)]]
カラヴァッジョの躍進的な様式を模倣した画家に、[[オラツィオ・ジェンティレスキ]]や彼の娘である[[アルテミジア・ジェンティレスキ]]などが挙げられている{{要出典|date=2008年11月}}。なお、このアルテミジアも[[1997年]]に[[フランス]]の女性監督[[アニエス・メルレ]]のデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品は[[フランス]]と[[イタリア]]の合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年[[ゴールデングローブ賞]]にて外国映画賞を受賞した。
カラヴァッジョには有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになった。とくに暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていた。カラヴァッジョが描いたこのような宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれているのがイタリア貴族マッテイ家 ([[:en:House of Mattei]]) からの依頼で描かれた『'''キリストの捕縛''' ([[:en:The Taking of Christ (Caravaggio)|The Taking of Christ]])』(アイルランド国立美術館、1602年ごろ)である。200年以上にわたって失われた絵画だとされていたが、1990年になって[[ダブリン]]のイエズス会教会で再発見された作品である。次々と描きあげる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方だったが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もあった。カラヴァッジョの描く強い明暗法で表現された劇的な作品は高く評価されていたが、逆に通俗的で下品な絵画であるとして忌避されることもあった<ref>対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。</ref>。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の依頼でコンタレッリ礼拝堂のために描かれた、みすぼらしい小作人のように表現された聖マタイが、光り輝く衣装に身を包んだ天使に教えを受けているという構図の『'''聖マタイと天使''' ([[:en:Saint Matthew and the Angel (Caravaggio)|Saint Matthew and the Angel]])』(第二次世界大戦で消失、1602年)は依頼人の好みに合わず、代替として『'''聖マタイの霊感''' ([[:en:The Inspiration of Saint Matthew (Caravaggio)|The Inspiration of Saint Matthew]])』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂所蔵、1602年)が描かれた。有名な『'''聖パウロの回心''' ([[:en:The Conversion of Saint Paul (Caravaggio)|The Conversion of Saint Paul]])』(オデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵、1600年ごろ)も当時の依頼人から拒否され、同じ主題の『'''ダマスカスへの途中での回心''' ([[:en:Conversion on the Way to Damascus|Conversion on the Way to Damascus]])』(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会所蔵、1601年)として描き直されている。『ダマスカスへの途中での回心』は[[パウロ|聖パウロ]]が乗馬していた馬のほうがパウロよりも大きく描かれており、このことがカラヴァッジョと絵画を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の間で論争にもなった<ref>Lambert, p.66.</ref>。


[[File:Caravaggio - Martirio di San Pietro.jpg|thumb|『聖ペテロの磔刑』(1601年)<br />サンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂(ローマ)]]
“ユトレヒト・カラヴァジェスキ”と呼ばれた、[[ユトレヒト]]出身の[[カトリック教会]]芸術団体は、[[17世紀]]の最初の年にローマへ旅行をした際、カラヴァッジョの作品に深く影響を受けていた、とベローリは描写している{{要出典|date=2008年11月}}。彼らが北へ帰った後の流行は長く続かなかったが、後に[[1620年代]]、[[ヘンドリック・テル・ブルッヘン]]や[[ファン・バブーレン]](Drick Van Bahuren)の間で強烈に影響を与えていた{{要出典|date=2008年11月}}。
『'''キリストの埋葬''' ([[:en:The Entombment of Christ (Caravaggio)|Entombment]])』(バチカン美術館所蔵、1602年 - 1603年)、『'''ロレートの聖母''' ([[:en:Madonna di Loreto (Caravaggio)|Madonna di Loreto]])』(サンタゴスティーノ教会所蔵、1604年 - 1606年)、『'''聖アンナと聖母子''' ([[:en:Madonna and Child with St. Anne (Dei Palafrenieri) (Caravaggio)|Grooms' Madonna]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1605年 - 1606年)、『'''聖母の死''' ([[:en:Death of the Virgin (Caravaggio)|Death of the Virgin]])』(ルーブル美術館所蔵、1604年 - 1605年)なども有名なカラヴァッジョの宗教画である。とくに『聖母子と聖アンナ』と『聖母の死』の来歴は、カラヴァッジョ存命時の作品が一部の人々からどのような評価を受けていたのかの好例となっている。


『聖アンナと聖母子』は別名『'''蛇の聖母'''』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し<ref>このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。</ref>、[[サン・ピエトロ大聖堂]]の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった<ref>[http://www.parafrenieri.it/ Venerabile Arciconfraternita di Sant'Anna de Parafrenieri]</ref>。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラの[[カルメル会|カルメル会修道院]]に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している<ref>「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ ''Considerazioni sulla pittura'':)</ref>。同じく同時代人の画家ジョヴァンニ・バリオーネ ([[:en:Giovanni Baglione]]) は、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている<ref>Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori)</ref>。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。[[神の母]]は決して死することなく天国へと召されただけであるという[[聖母の被昇天]]の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあったカルロ・サラチェーニ ([[:en:Carlo Saraceni]]) が描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ]]が購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのは[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]だった。その後、1671年にイングランド国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が購入し、[[清教徒革命]]によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。
続く世代においてカラヴァッジョの強い影響が少なくなかったことは、イタリアに一時滞在した際に彼の作品を見たと思われる[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]そして[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]へ与えた影響においてたどることができる{{要出典|date=2008年11月}}。


[[File:Amor Vincet Omnia.jpg|thumb|left|[[愛の勝利]](1601年 - 1602年)<br />[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]、[[ベルリン]]]]
==最後のリラ紙幣に==
キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ ([[:en:Vincenzo Giustiniani]]) の依頼で描かれた『'''[[愛の勝利]]'''』([[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]所蔵、1601年 - 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ ([[:en:Cecco del Caravaggio]])と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている<ref>ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも勤めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)。
カラヴァッジョは[[イタリア]]の10万[[イタリア・リラ|リラ]][[紙幣]]に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとは!」と一部から批判の声があがった。しかし、画家として業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。
</ref>。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神である[[クピードー|キューピッド]]を想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。{{-}}


==== ギャラリー ====
==代表作==
<gallery>
{{Commons|Michelangelo Merisi da Caravaggio}}
File:CaravaggioConversionPaul01.jpg|『聖パウロの回心』(1600年頃)<br />オデスカルキ・バルビ・コレクション
*いかさま師 1595年頃([[フォートワース]]、[[キンベル美術館]])
File:Caravaggio - La conversione di San Paolo.jpg|『ダマスカスへの途中での回心』(1601年)<br />サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(ローマ)
*果物籠 1596年 - 1597年(ミラノ、[[アンブロジアーナ絵画館]])- カラヴァッジョによる独立した静物画で、現存する唯一の作品で、イタリア静物画の端緒となった作品。
File:Michelangelo Merisi da Caravaggio - St Matthew and the Angel - WGA04127.jpg|『聖マタイと天使』(1602年)<br />第二次世界大戦で消失
*メドゥーサ 1597年頃([[ウフィツィ美術館]])
*[[聖マタイの召命]] 1599- 1600年(ローマ、[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ]]
File:The Inspiration of Saint Matthew by Caravaggio.jpg|『聖マタイの霊感』(1602頃)<br />サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝(ローマ
File:Michelangelo Caravaggio 001.jpg|『ロレートの聖母』(1604年 - 1606年頃)<br />バチカン美術館(バチカン)
*[[愛の勝利]](勝ち誇る[[クピードー|アモル]]) 1601年 - 1603年頃([[ベルリン美術館]][[絵画館 (ベルリン)|絵画館]])
*聖母の死 1601年 - 1603([[ルーブル美術館]]
File:Michelangelo Caravaggio 069.jpg|『聖母の死』(1604年 - 1606頃)<br />ルーブル美術館(パリ
File:CaravaggioSerpent.jpg|『聖アンナと聖母子』(1605年 - 1606年頃)<br />ボルゲーゼ美術館(ローマ)
*キリストの埋葬 1602年 - 1604年頃([[バチカン美術館]])
</gallery>
*ロレートの聖母 1603年 - 1606年頃(ローマ、[[サンタゴスティーノ聖堂]])

*洗礼者ヨハネの斬首 1608年([[バレッタ]]・[[聖ヨハネ准司教座聖堂]])
=== ローマ追放と死(1606年 - 1610年) ===
[[File:Michelangelo Caravaggio 066.jpg|thumb|『ロザリオの聖母』(1607年)<br />[[美術史美術館]]([[ウィーン]])]]
カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、[[ウンブリア州]][[テルニ県|テルニ]]出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう<ref>このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")。[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/italy/1396127/Red-blooded-Caravaggio-killed-love-rival-in-bungled-castration-attempt.html 'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt']</ref>。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばない[[ナポリ]]で有力貴族[[コロンナ家]]の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『'''ロザリオの聖母''' ([[:en:Madonna of the Rosary (Caravaggio)|Madonna of the Rosary]])』([[美術史美術館]]所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している<ref>1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の [[:en:Cardinal protector|Cardinal-Protector]]、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)。</ref>。

ナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数ケ月後には、おそらく[[聖ヨハネ騎士団|マルタ騎士団]]の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール ([[:en:Alof de Wignacourt]]) の庇護を求めて、ナポリから[[マルタ]]へと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた<ref>Giovanni Pietro Bellori, ''Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni'', 1672</ref>。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『'''洗礼者ヨハネの斬首''' ([[:en:The Beheading of Saint John the Baptist (Caravaggio)|Beheading of Saint John the Baptist]])』([[聖ヨハネ准司教座聖堂]]所蔵、1608年)や、『'''アロフ・ド・ウィニャクールと小姓''' ([[:en:Portrait of Alof de Wignacourt and his Page (Caravaggio)|Portrait of Alof de Wignacourt and his Page]])』(ルーブル美術館所蔵、1607年 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。

遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている<ref>この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", ''The Burlington Magazine'', CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", ''Paragone Arte'', Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at [http://caravaggio.com/preview/attach/data01/D000199.htm Caravaggio.com].</ref>。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが<ref>「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608年12月1日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にも関わらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。</ref>、脱獄してマルタから逃れた。

[[File:Michelangelo Caravaggio 010.jpg|thumb|left|『聖ルチアの埋葬』(1608年)<br />ベッロモ美術館([[シラクサ]])]]
マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後[[シラクサ]]に住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼って[[シチリア]]へと逃れた。二人は共にシラクサを離れて[[メッシーナ]]へと出発し、最終的にシチリアの首都[[パレルモ]]に到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『'''聖ルチアの埋葬''' ([[:en:Burial of St. Lucy (Caravaggio)|Burial of St. Lucy]])』(ベッロモ美術館所蔵、1608年)、『'''ラザロの蘇生''' ([[:en:The Raising of Lazarus - Messina (Caravaggio)|The Raising of Lazarus]])』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『'''羊飼いの礼拝''' ([[:en:Adoration of the Shepherds (Caravaggio)|Adoration of the Shepherds]])』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている<ref>Langdon, p.365.</ref>。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている<ref>カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。</ref>。

カラヴァッジョはシチリアに9ヶ月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである<ref>Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.</ref>。ナポリ帰還後の作品として『'''聖ペテロの否認''' ([[:en:The Denial of Saint Peter (Caravaggio)|The Denial of Saint Peter]])』([[メトロポリタン美術館]]所蔵、1610年ごろ)、『'''洗礼者ヨハネ''' ([[:en:John the Baptist (Caravaggio)|John the Baptist]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『'''聖ウルスラの殉教''' ([[:en:The Martyrdom of Saint Ursula (Caravaggio)|The Martyrdom of Saint Ursula]])』(インテーザ・サンパオロ銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が[[聖ウルスラ]]の胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。

[[File:Caravaggio - David con la testa di Golia.jpg|thumb|『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609年 - 1610年)<br />[[ボルゲーゼ美術館]]([[ローマ]])]]
カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『'''洗礼者ヨハネの首を持つサロメ''' ([[:en:Salome with the Head of John the Baptist (Madrid) (Caravaggio)|Salome with the Head of John the Baptist (Madrid)]])』([[王宮 (マドリード)|マドリード王宮]]、1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『'''ゴリアテの首を持つダビデ''' ([[:en:David with the Head of Goliath (Caravaggio)|David with the Head of Goliath]])』([[ボルゲーゼ美術館]]、1609年)も描いている。若き[[ダビデ]]が不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ ([[:en:Scipione Borghese]]) への贈答絵画にするつもりだった<ref>17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ ([[:en:Gian Pietro Bellori]]) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)。</ref>。

1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョは枢機卿シピオーネへの返礼品として3点の絵画を持参していた<ref>ナポリのカゼルタ司教から枢機卿シピオーネへと送られた1610年7月29日付の書簡には、カラヴァッジョがシピオーネへと贈るつもりだったのは2点の洗礼者ヨハネを描いた絵画と、マグダラのマリアを描いた絵画であるという情報が記載されている。これらの絵画はおそらくシピオーネの叔父、つまり教皇パウルス5世がカラヴァッジョに恩赦を与える見返りとして要求したものである。</ref>。この後カラヴァッジョに何があったのかの記録が非常に混乱、錯綜しており、いずれも推測の域を出ない。わずかに事実だといえることは、7月28日のローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 ([[:en:Avviso]]) にカラヴァッジョが死去したという記事が掲載されており、3日後の別の速報手記にカラヴァッジョがナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものである。カラヴァッジョの友人の詩人が後に7月18日をカラヴァッジョの命日であるとしており、近年の研究で同じく7月18日に[[トスカーナ大公国]]の[[モンテ・アルジェンターリオ|ポルト・エルコレ]]で熱病で死去したという証拠が見つかったと主張する美術史家もいる。

2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-10682743 Vatican reveals Caravaggio painting 'found' in Rome] BBC website, published: 19 July 2010, accessed: 2011-09-08</ref>。この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/10333158 Church bones 'belong to Caravaggio', researchers say] BBC website, published: 16 June 2010, accessed: 2011-09-08</ref>。発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば[[鉛中毒]]で死去した可能性が高い<ref>[http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2010/jun/16/caravaggio-italy-remains-ravenna-art The mystery of Caravaggio's death solved at last – painting killed him], Tom Kington, ''The Guardian'', Wednesday, 16 June 2010.</ref>。当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。

==== 墓碑銘 ====
カラヴァッジョの墓碑銘は、友人のマルツィオ・ミレージによるものである。

{{Quotation|
フェルモ・ディ・カラヴァッジョの息子ミケランジェロ・メリージ<br />
自然そのもの以外に比肩しうるもののいない画家<br />
ナポリからローマへと向かう途中のポルト・エルコレにて<br />
36年と6カ月12日の人生を生きて1610年8月15日に客死した<br />

- 法学者マルツィオ・ミレージが、この異常なまでの才能を持った友人に捧ぐ<ref>Inscriptiones et Elogia (Cod.Vat.7927)</ref>
}}

==== ギャラリー ====
<gallery>
File:Michelangelo Caravaggio 021.jpg|『聖ヨハネの斬首』(1608年)<br />聖ヨハネ准司教座聖堂(マルタ、バレッタ)
File:Caravaggio - Adorazione dei pastori.jpg|『羊飼いの礼拝』(1609年)<br />聖ヨハネ准司教座聖堂(ローマ)
File:Michelangelo Caravaggio 006.jpg|『ラザロの蘇生』(1609年頃)<br />メッシーナ州立美術館(メッシーナ)
File:Caravaggio denial.jpg|『聖ペテロの否認』(1609年頃)<br />メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
File:Caravaggio Baptist Galleria Borghese, Rome.jpg|『洗礼者ヨハネ』(1610年頃)<br />ボルゲーゼ美術館(ローマ)
File:CaravaggioUrsula.jpg|『聖ウルスラの殉教』(1610年)<br />インテーザ・サンパオロ銀行所有(ナポリ)
</gallery>

== 画家としての評価 ==
=== バロック芸術の成立 ===
[[File:CaravaggioSalomeMadrid.jpg|thumb|『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1609年頃)<br />マドリード王宮(マドリード)]]
カラヴァッジョは「陰 (oscuro) を[[キアロスクーロ]] (chiaroscuro) へと昇華した」といわれる<ref>Lambert, p.11.</ref>。キアロスクーロ自体はカラヴァッジョ以前から長らく使われてきた手法だが、一方向からまばゆく射す光を光源として段階的な陰影をつけて描かれた対象物を浮かび上がらせる表現はカラヴァッジョが絵画技法として確立したものである。カラヴァッジョが持っていた肉体面、精神面両方に対する鋭い写実的な観察眼によって成立したもので、とくに宗教絵画においてカラヴァッジョが直面した数々の課題を通じて形成されていった。カラヴァッジョの絵画制作速度は非常に速く、モデルを前にしたまま基本的な部分を最後まで描き上げることが出来た。カラヴァッジョが描いた下絵(ドローイング)はほとんど現存しておらず、このことはカラヴァッジョが紙などに下絵を描くことなく、キャンバスにいきなり描き始める手法を好んでいたためと考えられている。これは当時の熟練した画家たちからは忌み嫌われていた手法で、旧来の画家からはカラヴァッジョが下絵から描き始めないことと、人物像を理想化して描かないことを声高に非難された。しかしながら、人物を理想化することなく写実的に描くことはカラヴァッジョにとってはごく当然のことだった。

[[File:CARAVAGGIOFillede.jpg|thumb|left|『フィリデの肖像』(1597年頃)<br />消失]]
写実的に絵画に描かれた人物像のモデルが誰なのかが判別している者もいる。よく知られているのは後にカラヴァッジョの作風を受け継いだ画家となったマリオ・ ミンニーティとフランチェスコ・ボネリで、ミンニーティは初期の世俗的な作品に、ボネリは天使、洗礼者ヨハネ、ダビデとしてカラヴァッジョ後期の作品にそれぞれ描かれている。女性モデルには『'''フィリデの肖像''' ([[:en:Portrait of a Courtesan (Caravaggio)|Portrait of Fillide]])』(第二次世界大戦で消失、1597年 - 1599年)に描かれているフィリデ・メランドローニ、『聖マタイとマグダラのマリア』に描かれているアンナ・ビアンキーニ、法廷記録の「アーティチョーク事件」にレナという名前で記載されているカラヴァッジョの愛人マッダレーナ・アントネッティらがいるが<ref>ローマでのカラヴァッジョの暮らしぶりは法廷記録に多く残っている。「アーティチョーク事件」とは、カラヴァッジョが熱いアーティチョークが盛られた皿を給仕に投げつけたという記録である。</ref>、全員が当時有名だった娼婦であり、カラヴァッジョは彼女たちを聖母マリアなど様々な聖人のモデルとして多くの宗教絵画に描いた<ref>Robb, ''passim''</ref>。カラヴァッジョは自身の肖像も数枚の絵画に登場人物として描いている。最後の自画像は『聖ウルスラの殉教 ([[:en:The Martyrdom of Saint Ursula (Caravaggio)|The Martyrdom of Saint Ursula]])』の右端に描かれている男性像である<ref>最初に作品に描かれた自画像は『病めるバッカス』でその他に『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれているゴリアテもカラヴァッジョの自画像である。カラヴァッジョ以前にも自身の肖像画を作品に登場させた画家はいたが、役割は主題となっているモチーフの傍観者や観衆としてであり、自身を主題の主要人物として描いた画家はいなかった。</ref>。

[[File:Caravaggio - Cena in Emmaus.jpg|thumb|『エマオの晩餐』(1601年)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]](ロンドン)]]
カラヴァッジョは決定的な瞬間を誰にも真似できないほどに鮮やかに切り取って描く優れた能力を持っていた。『エマオの晩餐』はキリストの弟子だったクレオパが、夕食をともにしている人物が復活したキリストだと気がつく場面を描いた絵画で、直前までメシアの死を嘆く旅人であり宿屋の主人が目もくれていなかった人物だったのものが、突然救世主として再臨したその瞬間を劇的に表現した作品である。『聖マタイの召命』ではマタイが自分を指差して「私ですか?」と問いかけているかのように描かれているが、その両目はキリストに注がれ「私は貴方のしもべです」と応えており、マタイが自分の使命に目覚めた瞬間を描き出した絵画である。『ラザロの蘇生』では死人が復活する瞬間を捉えたさらに進んだ表現がなされている。ラザロの胴体は断末魔の死後硬直の状態にあるが、手はすでに復活しキリストのほうを向いている。

=== カラヴァジェスティ ===
[[File:Michelangelo Caravaggio 047.jpg|thumb|『聖マタイの殉教』(1599年 - 1600年頃)<br />サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)]]
カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあった[[オラツィオ・ジェンティレスキ]]やジョヴァンニ・バリオーネ ([[:en:Giovanni Baglione]]) があげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった<ref name=Bellori>Giovanni Baglione 『Le vite de' pittori』, 1642年</ref>。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ ([[:en:Carlo Saraceni]])、バルトロメオ・マンフレディ ([[:en:Bartolomeo Manfredi]])、オラツィオ・ボルジャンニ ([[:en:Orazio Borgianni]])らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘[[アルテミジア・ジェンティレスキ|アルテミジア]]も父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった<ref>アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。</ref>。

ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにも関わらず、バッティステッロ・カラッチョーロ ([[:en:Battistello Caracciolo]])、カルロ・セッリート ([[:en:Carlo Sellitto]])ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。

オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 ([[:en:Utrecht Caravaggism]]) と呼ばれる宗教画家たちが存在した<ref name=Bellori />。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代には[[ヘンドリック・テル・ブルッヘン]]、[[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]、アンドリエス・ボト ([[:en:Andries Both]])、ディルク・ファン・バブーレン ([[:en:Dirck van Baburen]]) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『'''キリストの埋葬''' ([[:en:The Entombment of Christ (Caravaggio)|Entombment of Christ]])』の模写も行った[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]を初め、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしている[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]の作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。

=== 死後の評価と20世紀の再評価 ===
[[File:Caravaggio - La Deposizione di Cristo.jpg|thumb|『キリストの埋葬』(1602年 - 1603年)<br />[[バチカン美術館]]([[ローマ]])]]
カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスの[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]、シモン・ブーエ ([[:en:Simon Vouet]])、スペインの[[ホセ・デ・リベーラ]]らが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をした[[アンニーバレ・カラッチ]]とは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、ジョヴァンニ・バリオーネ ([[:en:Giovanni Baglione]]) とジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ ([[:en:Gian Pietro Bellori]]) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった<ref>ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( [[:en:Vincenzo Carducci]]) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「[[反キリスト|キリストの教えに背く者]]」であると酷評している。</ref>。

しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ ([[:en:Fondazione Roberto Longhi|Roberto Longhi]]) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。ロンギは「[[ホセ・デ・リベーラ]]、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]、[[エドゥアール・マネ|マネ]]らの芸術も全く異なったものになっていたに違いない<ref>Roberto Longhi, quoted in Lambert, op. cit., p.15</ref>」とし、著名な美術史家[[バーナード・ベレンソン]]も、「[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]を除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない<ref>Bernard Berenson, in Lambert, op. cit., p.8</ref>」と同様の意見を述べている。

カラヴァッジョは[[イタリア]]の10万[[イタリア・リラ|リラ]][[紙幣]]に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。


=== 絵画作品 ===
==カラヴァッジョを題材とした作品==
[[File:Uqueen3.jpg|thumb|『聖ペテロと聖アンデレの召命』(1603年 - 1606年)<br />ロイヤル・コレクション]]
*『[[カラヴァッジオ (映画)|カラヴァッジオ]]』-[[1986年]]に[[イギリス]]の[[映画監督]][[デレク・ジャーマン]]が、カラヴァッジョの生涯や創作スタイルを描いた映画。<br>[[ベルリン映画祭]]で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジオの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。
現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『'''聖ペテロと聖アンデレの召命''' ([[:en:The Calling of Saints Peter and Andrew|The Calling of Saints Peter and Andrew]])』([[ロイヤル・コレクション]]、1603年 - 1606年)は1637年にイギリス国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠した[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、[[ハンプトン・コート宮殿]]に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。一方で[[リチャード・フランシス・バートン]]がカラヴァッジョの作品として書き残した「トスカーナ大公家のギャラリーが所蔵する、30人の男たちが描かれた聖ロザリアの絵画」は現在行方不明となっている。ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂から受け取りを拒否された『聖マタイと天使』は、第二次世界大戦中の[[ドレスデン爆撃]]で失われ、現在は白黒の写真が残るのみである。2011年6月にはそれまで知られていなかったカラヴァッジョが1600年頃に描いた『'''聖アウグスティヌス'''』がイギリスのプライベート・コレクションから発見されたという発表があった。この「重要な発見」によってもたらされた絵画はローマ時代のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニが秘密裏に依頼した作品であると考えられている<ref>{{ cite web|title=Unknown Caravaggio painting unearthed in Britain|url=http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2011/jun/19/unknown-caravaggio-painting-unearthed-britain|author|last=Alberge|first=Dalya|work=The Guardian|date=19 June 2011|accessdate=09-08-2011}}</ref>。
*『[[カラヴァッジョ 天才画家の光と影]]』-[[2007年]]にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ、日本では[[2010年]]に、1本の映画作品として公開。
*『カラヴァッジオ』 - 2008年に[[ベルリン国立バレエ団]]により発表されたバレエ作品。カラヴァッジオを[[ウラディミール・マラーホフ]]が演じた。


== カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品 ==
==脚注==
*『[[カラヴァッジオ (映画)|カラヴァッジオ]]』-[[1986年]]に[[イギリス]]の映画監督[[デレク・ジャーマン]]が、カラヴァッジョの生涯や創作スタイルを描いた映画。[[ベルリン映画祭]]で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジョの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。
<references />
*『[[カラヴァッジョ 天才画家の光と影]]』-[[2007年]]にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ。日本では[[2010年]]に、1本の映画作品として公開された。
*『カラヴァッジオ』 - 2008年に[[ベルリン国立バレエ団]]により発表されたバレエ作品。カラヴァッジョを[[ウラディミール・マラーホフ]]が演じた。


==日本語文献==
== 日本語文献 ==
; 入門書
;入門書
*『カラヴァッジョ巡礼 〈とんぼの本〉』 [[宮下規久朗]]編 ([[新潮社]]、2010年) ISBN 978-4-1060-2200-5
*『カラヴァッジョ巡礼 〈とんぼの本〉』 [[宮下規久朗]]編 ([[新潮社]]、2010年) ISBN 978-4-1060-2200-5
*『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品 〈アート・ビギナーズ・コレクション〉』<br> 宮下規久朗編 ([[東京美術]]、2009年) ISBN 978-4-8087-0870-2
*『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品 〈アート・ビギナーズ・コレクション〉』<br> 宮下規久朗編 ([[東京美術]]、2009年) ISBN 978-4-8087-0870-2
71行目: 187行目:
*『カラヴァッジョ バロックの誕生 イタリア・ルネサンスの巨匠たち29』 <br> ジョルジョ・ボンサンティ、野村幸弘訳 ([[東京書籍]]、1995年) ISBN 4-4877-6379-7
*『カラヴァッジョ バロックの誕生 イタリア・ルネサンスの巨匠たち29』 <br> ジョルジョ・ボンサンティ、野村幸弘訳 ([[東京書籍]]、1995年) ISBN 4-4877-6379-7


; 大著
;大著
*『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』 、[[サントリー学芸賞]](文学・芸術部門)受賞 
*『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』 、[[サントリー学芸賞]](文学・芸術部門)受賞 
:宮下規久朗 ([[名古屋大学出版会]]、2004年) ISBN 978-4-8158-0499-2
:宮下規久朗 ([[名古屋大学出版会]]、2004年) ISBN 978-4-8158-0499-2
77行目: 193行目:
*『カラヴァッジオ 生涯と全作品』 ミア・チノッティ解説、[[森田義之]]訳 ([[岩波書店]]、1993年) ISBN 978-4-0000-8057-6
*『カラヴァッジオ 生涯と全作品』 ミア・チノッティ解説、[[森田義之]]訳 ([[岩波書店]]、1993年) ISBN 978-4-0000-8057-6


; 画集
;画集
*『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠.11』 宮下規久朗編 ([[小学館]]、2006年) ISBN 978-4-0967-5111-4
*『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠.11』 宮下規久朗編 ([[小学館]]、2006年) ISBN 978-4-0967-5111-4
*展覧会図録 『カラヴァッジョ <small>光と影の巨匠─バロック絵画の先駆者たち</small>』<br> [[東京都庭園美術館]]:2001年9月-12月/[[岡崎市美術博物館]]:2001年12月-02年2月
*展覧会図録 『カラヴァッジョ <small>光と影の巨匠─バロック絵画の先駆者たち</small>』<br> [[東京都庭園美術館]]:2001年9月-12月/[[岡崎市美術博物館]]:2001年12月-02年2月


== 脚注 ==
{{DEFAULTSORT:めりいし みけらんしえろ}}
{{reflist}}

== 出典 ==
;一次資料
The main primary sources for Caravaggio's life are:
* Giulio Mancini's comments on Caravaggio in ''Considerazioni sulla pittura'', c.1617-1621
* Giovanni Baglione's ''Le vite de' pittori'', 1642
* Giovanni Pietro Bellori's ''Le Vite de' pittori, scultori et architetti moderni'', 1672
All have been reprinted in Howard Hibbard's "Caravaggio" and in the appendices to Catherine Puglisi's "Caravaggio".

;二次資料
* Maurizio Calvesi, ''Caravaggio'', Art Dossier 1986, Giunti Editori (1986) (ISBN not available)
* John Denison Champlin and Charles Callahan Perkins, Ed., ''Cyclopedia of Painters and Paintings'', Charles Scribner's Sons, New York (1885), p.&nbsp;241 (available at the Harvard's Fogg Museum Library and scanned on Google Books)
*Andrea Dusio, ''Caravaggio White Album'', Cooper Arte, Roma 2009, ISBN 978-88-7394-128-6
* Walter Friedlaender, Caravaggio Studies, Princeton: Princeton University Press 1955
* John Gash, ''Caravaggio'', Chaucer Press, (2004) ISBN 1904449220)
* Rosa Giorgi, ''Caravaggio: Master of light and dark - his life in paintings'', Dorling Kindersley (1999) ISBN 978-0-7894-4138-6
* Andrew Graham-Dixon, ''Caravaggio: A Life Sacred and Profane'', London, Allen Lane, 2009. ISBN 9780713996746
* Howard Hibbard, ''Caravaggio'' (1983) ISBN 978-0-06-433322-1
* Harris, Ann Sutherland. ''Seventeenth-century Art & Architecture'', Laurence King Publishing (2004), ISBN 1856694151.
* Michael Kitson, ''The Complete Paintings of Caravaggio'' London, Abrams, 1967. New edition: Weidenfeld & Nicholson, 1969 and 1986, ISBN 978-0297761082
* Pietro Koch, ''Caravaggio - The Painter of Blood and Darkness'', Gunther Edition, (Rome - 2004)
* Gilles Lambert, ''Caravaggio'', Taschen, (2000) ISBN 978-3-8228-6305-3
* Helen Langdon, ''Caravaggio: A Life'', Farrar, Straus and Giroux, 1999 (original UK edition 1998) ISBN 978-0-374-11894-5
* Alfred Moir, ''The Italian Followers of Caravaggio'', Harvard University Press (1967) (ISBN not available)
* Catherine Puglisi, ''Caravaggio'', Phaidon (1998) ISBN 978-0-7148-3966-0
* Peter Robb, ''M'', Duffy & Snellgrove, 2003 amended edition (original edition 1998) ISBN 978-1-876631-79-6
* John Spike, with assistance from Michèle Kahn Spike, ''Caravaggio'' with Catalogue of Paintings on CD-ROM, Abbeville Press, New York (2001) ISBN 978-0-7892-0639-8
* John L. Varriano, ''Caravaggio: The Art of Realism'', Pennsylvania State University Press (University Park, PA - 2006)

== 外部リンク ==
{{Commons|Michelangelo Merisi da Caravaggio}}
'''伝記'''
*{{en icon}} [http://www.artble.com/artists/caravaggio Caravaggio Biography, Style and Technique]
*{{en icon}} [http://www.bergerfoundation.ch/Caravage/E/ Caravaggio, The Prince of the Night]

'''エッセイなど'''
*{{en icon}} [http://www.fbi.gov/about-us/investigate/vc_majorthefts/arttheft/caravaggio FBI Art Theft Notice for Caravaggio's Nativity]
*{{en icon}} [http://www.duffyandsnellgrove.com.au/extracts/m_interview.htm Interview with Peter Robb, author of ''M'']
*{{en icon}} [http://www.rijksmuseum.nl/formats/container_remcar_en.html Compare Rembrandt with Caravaggio]
*{{en icon}} [http://www.webexhibits.org/hockneyoptics/post/grundy7.html Caravaggio and the Camera Obscura]
*{{en icon}} [http://www.vandewerken.nl/teksten/caravaggio%20english.html Caravaggio's incisions by Ramon van de Werken]
*{{en icon}} [http://www.physorg.com/news155889108.html Caravaggio's use of the Camera Obscura: Lapucci]

'''作品'''
*{{en icon}} [http://www.caravaggio-foundation.org www.caravaggio-foundation.org] 175 works by Caravaggio
*{{en icon}} [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/caravaggio/ Caravaggio, Michelangelo Merisi da Caravaggio WebMuseum, Paris webpage]
*{{en icon}} [http://www.eyegate.com/showgal.php?id=33 Caravaggio's EyeGate Gallery]

'''動画'''
*{{en icon}} [http://smarthistory.org/blog/68/caravaggio-the-calling-of-st-matthew-1599/ smARThistory: Calling of Saint Matthew]

'''音楽'''
*{{en icon}} [http://www.answers.com/topic/jordi-savall-dominique-fernandez-lachrimae-caravaggio Lachrimae Caravaggio, by Jordi Savall, performed by Le Concert des Nations & Hesperion XXI (Article at Answers.com) ]

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2011年9月9日 (金) 12:03時点における版

カラヴァッジョ
オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像画(1621年頃)
生誕 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
1571年9月28日
イタリアの旗 イタリアロンバルディア州ミラノ
死没 1610年7月18日
イタリアの旗 イタリアトスカーナ州モンテ・アルジェンターリオ
国籍 イタリアの旗 イタリア
著名な実績 絵画
運動・動向 バロック
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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ: Michelangelo Merisi da Caravaggio1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期イタリア人画家。1593年から1610年にかけて、ローマナポリマルタシチリアで活動し、カラヴァッジョCaravaggio)という通称で広く知られている。その作品に見られる肉体面、精神面ともに人間本来の姿を写実的に描く手法と、光と陰の印象的な表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えた[1]

カラヴァッジョはティツィアーノの弟子だった師匠のもと、ミラノで画家の修行を積んだ。その後、ミラノからローマへと移っているが、当時のローマは大規模な教会邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在ではテネブリズムとも呼ばれる、強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。

カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった[2]。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後一ヶ月か二ヶ月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった[3]」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年にマルタで、1609年にはナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。

存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。ルーベンスホセ・デ・リベーラベルニーニそしてレンブラントらバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けらる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人ポール・ヴァレリーの秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している[4]

生涯

前半生(1571年 - 1592年)

カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた[5][6]。父フェルモ・メリージは、ベルガモ近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の地主階級の娘だった。1576年にはペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住したが、その翌年の1577年には父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられており、カラヴァッジョとスフォルツァ家コロンナ家といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。後年カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。

カラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョはティツィアーノの弟子だったという記録が残っているミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ (en:Simone Peterzano) のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、ヴェネツィアを訪れて、後年フェデリコ・ツッカリがカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難したジョルジョーネ[7]やティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった[8]

ローマ時代前期(1592年 - 1600年)

『果物籠を持つ少年』(1593年 - 1594年)67 cm × 53 cm (26 in × 21 in)
ボルゲーゼ美術館ローマ

1592年半ばにカラヴァッジョは「おそらく喧嘩」で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し「着の身着のままで…行く宛ても食料もなく…ほとんど無一文の状態で」ローマへと逃げ込んだ[9] 。その数ヵ月後カラヴァッジョは、ローマ教皇クレメンス8世のお気に入りの画家だったジュゼッペ・チェーザリ (en:Giuseppe Cesari) の工房で助手を務め、「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる[10]。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは『果物の皮を剥く少年 (Boy Peeling Fruit)』(ロンギ財団所蔵、1592年ごろ)、『果物籠を持つ少年 (Boy with a Basket of Fruit)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年 - 1594年)、『病めるバッカス (Young Sick Bacchus)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年ごろ)などがある。『病めるバッカス』は自画像ではないかと言われており、ひどい病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。『果物籠を持つ少年』に描かれた果物は園芸の専門家によればそれぞれの種類を言い当てることが可能で、例えば籠の右下に垂れ下がっているのは「菌類による病変に侵されて斑に枯れた大きなイチジクの葉」である[11]

『果物籠』(1595年 - 1596年頃)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。オルシはすでに成功していた画家で、多くの影響力がある収集家をカラヴァッジョに引き合わせた。一方ロンギはカラヴァッジョに悪い影響を与えた人物で、喧騒に満ちたローマの裏の世界をカラヴァッジョに教えた。ミンニーティはカラヴァッジョのモデルをつとめ、数年後にシチリアでの重要な絵画制作に大きな役割を果たすことになった[12]

女占い師 (The Fortune Teller)』(カピトリーノ美術館所蔵、1594年ごろとルーブル美術館所蔵、1595年ごろの2点のヴァージョンが現存)はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材の絵画はそれまでのローマでは見られず、この作品を嚆矢としてその後数世紀にわたって描かれるようになった題材である。しかしながら、この題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。

『トランプ詐欺師』(1594年頃)
キンベル美術館(フォートワース

トランプ詐欺師 (The Cardsharps)』(キンベル美術館所蔵、1594年ごろ)は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、後援を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『音楽家たち (The Musicians)』(メトロポリタン美術館所蔵、1595年 - 1596年メトロポリタン美術館)、『リュートを弾く若者 (The Lute Player)』(ウィルデンスタイン・コレクション所蔵、1596年ごろ、バドミントン・ハウス所蔵、1596年ごろ、エルミタージュ美術館所蔵、1600年ごろの3点のヴァージョンが現存)、『バッカス (Bacchus)』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『トカゲに噛まれた少年 (Boy Bitten by a Lizard)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1593年 - 1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594年 - 1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。

『懺悔するマグダラのマリア』(1594年 - 1595年頃)
ドリア・パンフィリ美術館(ローマ

カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『懺悔するマグダラのマリア (Penitent Magdalene)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594年 - 1595年ごろ)があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない…濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み…良心の呵責に苛まれ…救済を求めているのだろうか[13]

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(1598年 - 1599年)
国立古典絵画館(ローマ)

この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『聖カテリナ (Saint Catherine)』(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵、1598年ごろ)、『聖マタイとマグダラのマリア (Martha and Mary Magdalene)』(デトロイト美術館所蔵、1598年ごろ)、『ホロフェルネスの首を斬るユディト (Judith Beheading Holofernes)』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598年 - 1599年)、『イサクの犠牲 (Sacrifice of Isaac)』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『法悦の聖フランチェスコ (Saint Francis of Assisi in Ecstasy)』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『エジプトへの逃避途上の休息 (Rest on the Flight into Egypt)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。

極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。このような作風がもっともよく表れている当時の作品に『エマオの晩餐 (Supper at Emmaus)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1601年)があげられる。

ギャラリー

ローマ時代後期 - ローマでもっとも有名な画家(1600年 - 1606年)

聖マタイの召命』(1599年 - 1600年)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)

1599年におそらく枢機卿デル・モンテの推薦で、カラヴァッジョはサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。契約では2点の絵画を制作するとなっており、このときに描かれたのが『聖マタイの殉教 (Martyrdom of Saint Matthew)』と『聖マタイの召命』である。1600年に完成したこれらの絵画は、たちまちのうちに大評判となった。カラヴァッジョはこの絵画でキアロスクーロよりもさらに強い明暗法のテネブリズムを使用し、このことが画面に高い劇的な効果を与え、カラヴァッジョの作品が持つ鋭い写実性に激しい感情表現を加えることになった。当時の画家たちの間ではカラヴァッジョに対する評価は両極端に分かれている。絵画技法上、様々な間違いを犯していると公然と非難するものもいたが、カラヴァッジョを新しい絵画技法の先駆者であると支持するものが多かった。「当時ローマに居た画家たちは、カラヴァッジョの作品が持つ革新性に驚愕した。とくに若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描くことが出来る比類ない画家であると賞賛して、その作品はほとんど奇跡だとまで考えていた[14]

『キリストの捕縛』(1602年頃)
アイルランド国立美術館(ダブリン)

カラヴァッジョには有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになった。とくに暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていた。カラヴァッジョが描いたこのような宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれているのがイタリア貴族マッテイ家 (en:House of Mattei) からの依頼で描かれた『キリストの捕縛 (The Taking of Christ)』(アイルランド国立美術館、1602年ごろ)である。200年以上にわたって失われた絵画だとされていたが、1990年になってダブリンのイエズス会教会で再発見された作品である。次々と描きあげる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方だったが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もあった。カラヴァッジョの描く強い明暗法で表現された劇的な作品は高く評価されていたが、逆に通俗的で下品な絵画であるとして忌避されることもあった[15]。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の依頼でコンタレッリ礼拝堂のために描かれた、みすぼらしい小作人のように表現された聖マタイが、光り輝く衣装に身を包んだ天使に教えを受けているという構図の『聖マタイと天使 (Saint Matthew and the Angel)』(第二次世界大戦で消失、1602年)は依頼人の好みに合わず、代替として『聖マタイの霊感 (The Inspiration of Saint Matthew)』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂所蔵、1602年)が描かれた。有名な『聖パウロの回心 (The Conversion of Saint Paul)』(オデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵、1600年ごろ)も当時の依頼人から拒否され、同じ主題の『ダマスカスへの途中での回心 (Conversion on the Way to Damascus)』(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会所蔵、1601年)として描き直されている。『ダマスカスへの途中での回心』は聖パウロが乗馬していた馬のほうがパウロよりも大きく描かれており、このことがカラヴァッジョと絵画を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の間で論争にもなった[16]

『聖ペテロの磔刑』(1601年)
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂(ローマ)

キリストの埋葬 (Entombment)』(バチカン美術館所蔵、1602年 - 1603年)、『ロレートの聖母 (Madonna di Loreto)』(サンタゴスティーノ教会所蔵、1604年 - 1606年)、『聖アンナと聖母子 (Grooms' Madonna)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1605年 - 1606年)、『聖母の死 (Death of the Virgin)』(ルーブル美術館所蔵、1604年 - 1605年)なども有名なカラヴァッジョの宗教画である。とくに『聖母子と聖アンナ』と『聖母の死』の来歴は、カラヴァッジョ存命時の作品が一部の人々からどのような評価を受けていたのかの好例となっている。

『聖アンナと聖母子』は別名『蛇の聖母』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し[17]サン・ピエトロ大聖堂の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった[18]。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラのカルメル会修道院に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している[19]。同じく同時代人の画家ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) は、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている[20]。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。神の母は決して死することなく天国へと召されただけであるという聖母の被昇天の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあったカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni) が描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガが購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのはルーベンスだった。その後、1671年にイングランド国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。

愛の勝利(1601年 - 1602年)
絵画館ベルリン

キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ (en:Vincenzo Giustiniani) の依頼で描かれた『愛の勝利』(絵画館所蔵、1601年 - 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ (en:Cecco del Caravaggio)と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている[21]。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神であるキューピッドを想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。

ギャラリー

ローマ追放と死(1606年 - 1610年)

『ロザリオの聖母』(1607年)
美術史美術館ウィーン

カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう[22]。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母 (Madonna of the Rosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している[23]

ナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数ケ月後には、おそらくマルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護を求めて、ナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた[24]。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『洗礼者ヨハネの斬首 (Beheading of Saint John the Baptist)』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵、1608年)や、『アロフ・ド・ウィニャクールと小姓 (Portrait of Alof de Wignacourt and his Page)』(ルーブル美術館所蔵、1607年 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。

遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている[25]。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが[26]、脱獄してマルタから逃れた。

『聖ルチアの埋葬』(1608年)
ベッロモ美術館(シラクサ

マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後シラクサに住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた。二人は共にシラクサを離れてメッシーナへと出発し、最終的にシチリアの首都パレルモに到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『聖ルチアの埋葬 (Burial of St. Lucy)』(ベッロモ美術館所蔵、1608年)、『ラザロの蘇生 (The Raising of Lazarus)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『羊飼いの礼拝 (Adoration of the Shepherds)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている[27]。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている[28]

カラヴァッジョはシチリアに9ヶ月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである[29]。ナポリ帰還後の作品として『聖ペテロの否認 (The Denial of Saint Peter)』(メトロポリタン美術館所蔵、1610年ごろ)、『洗礼者ヨハネ (John the Baptist)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』(インテーザ・サンパオロ銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が聖ウルスラの胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。

『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609年 - 1610年)
ボルゲーゼ美術館ローマ

カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ (Salome with the Head of John the Baptist (Madrid))』(マドリード王宮、1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『ゴリアテの首を持つダビデ (David with the Head of Goliath)』(ボルゲーゼ美術館、1609年)も描いている。若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇パウルス5世の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ (en:Scipione Borghese) への贈答絵画にするつもりだった[30]

1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョは枢機卿シピオーネへの返礼品として3点の絵画を持参していた[31]。この後カラヴァッジョに何があったのかの記録が非常に混乱、錯綜しており、いずれも推測の域を出ない。わずかに事実だといえることは、7月28日のローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 (en:Avviso) にカラヴァッジョが死去したという記事が掲載されており、3日後の別の速報手記にカラヴァッジョがナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものである。カラヴァッジョの友人の詩人が後に7月18日をカラヴァッジョの命日であるとしており、近年の研究で同じく7月18日にトスカーナ大公国ポルト・エルコレで熱病で死去したという証拠が見つかったと主張する美術史家もいる。

2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている[32]。この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた[33]。発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い[34]。当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。

墓碑銘

カラヴァッジョの墓碑銘は、友人のマルツィオ・ミレージによるものである。

フェルモ・ディ・カラヴァッジョの息子ミケランジェロ・メリージ
自然そのもの以外に比肩しうるもののいない画家
ナポリからローマへと向かう途中のポルト・エルコレにて
36年と6カ月12日の人生を生きて1610年8月15日に客死した

- 法学者マルツィオ・ミレージが、この異常なまでの才能を持った友人に捧ぐ[35]

ギャラリー

画家としての評価

バロック芸術の成立

『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1609年頃)
マドリード王宮(マドリード)

カラヴァッジョは「陰 (oscuro) をキアロスクーロ (chiaroscuro) へと昇華した」といわれる[36]。キアロスクーロ自体はカラヴァッジョ以前から長らく使われてきた手法だが、一方向からまばゆく射す光を光源として段階的な陰影をつけて描かれた対象物を浮かび上がらせる表現はカラヴァッジョが絵画技法として確立したものである。カラヴァッジョが持っていた肉体面、精神面両方に対する鋭い写実的な観察眼によって成立したもので、とくに宗教絵画においてカラヴァッジョが直面した数々の課題を通じて形成されていった。カラヴァッジョの絵画制作速度は非常に速く、モデルを前にしたまま基本的な部分を最後まで描き上げることが出来た。カラヴァッジョが描いた下絵(ドローイング)はほとんど現存しておらず、このことはカラヴァッジョが紙などに下絵を描くことなく、キャンバスにいきなり描き始める手法を好んでいたためと考えられている。これは当時の熟練した画家たちからは忌み嫌われていた手法で、旧来の画家からはカラヴァッジョが下絵から描き始めないことと、人物像を理想化して描かないことを声高に非難された。しかしながら、人物を理想化することなく写実的に描くことはカラヴァッジョにとってはごく当然のことだった。

『フィリデの肖像』(1597年頃)
消失

写実的に絵画に描かれた人物像のモデルが誰なのかが判別している者もいる。よく知られているのは後にカラヴァッジョの作風を受け継いだ画家となったマリオ・ ミンニーティとフランチェスコ・ボネリで、ミンニーティは初期の世俗的な作品に、ボネリは天使、洗礼者ヨハネ、ダビデとしてカラヴァッジョ後期の作品にそれぞれ描かれている。女性モデルには『フィリデの肖像 (Portrait of Fillide)』(第二次世界大戦で消失、1597年 - 1599年)に描かれているフィリデ・メランドローニ、『聖マタイとマグダラのマリア』に描かれているアンナ・ビアンキーニ、法廷記録の「アーティチョーク事件」にレナという名前で記載されているカラヴァッジョの愛人マッダレーナ・アントネッティらがいるが[37]、全員が当時有名だった娼婦であり、カラヴァッジョは彼女たちを聖母マリアなど様々な聖人のモデルとして多くの宗教絵画に描いた[38]。カラヴァッジョは自身の肖像も数枚の絵画に登場人物として描いている。最後の自画像は『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』の右端に描かれている男性像である[39]

『エマオの晩餐』(1601年)
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

カラヴァッジョは決定的な瞬間を誰にも真似できないほどに鮮やかに切り取って描く優れた能力を持っていた。『エマオの晩餐』はキリストの弟子だったクレオパが、夕食をともにしている人物が復活したキリストだと気がつく場面を描いた絵画で、直前までメシアの死を嘆く旅人であり宿屋の主人が目もくれていなかった人物だったのものが、突然救世主として再臨したその瞬間を劇的に表現した作品である。『聖マタイの召命』ではマタイが自分を指差して「私ですか?」と問いかけているかのように描かれているが、その両目はキリストに注がれ「私は貴方のしもべです」と応えており、マタイが自分の使命に目覚めた瞬間を描き出した絵画である。『ラザロの蘇生』では死人が復活する瞬間を捉えたさらに進んだ表現がなされている。ラザロの胴体は断末魔の死後硬直の状態にあるが、手はすでに復活しキリストのほうを向いている。

カラヴァジェスティ

『聖マタイの殉教』(1599年 - 1600年頃)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)

カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあったオラツィオ・ジェンティレスキやジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) があげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった[40]。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni)、バルトロメオ・マンフレディ (en:Bartolomeo Manfredi)、オラツィオ・ボルジャンニ (en:Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王チャールズ1世の宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘アルテミジアも父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった[41]

ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにも関わらず、バッティステッロ・カラッチョーロ (en:Battistello Caracciolo)、カルロ・セッリート (en:Carlo Sellitto)ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。

オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism) と呼ばれる宗教画家たちが存在した[40]。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代にはヘンドリック・テル・ブルッヘンヘラルト・ファン・ホントホルスト、アンドリエス・ボト (en:Andries Both)、ディルク・ファン・バブーレン (en:Dirck van Baburen) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『キリストの埋葬 (Entombment of Christ)』の模写も行ったルーベンスを初め、フェルメールレンブラント、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしているベラスケスの作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。

死後の評価と20世紀の再評価

『キリストの埋葬』(1602年 - 1603年)
バチカン美術館ローマ

カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスのジョルジュ・ド・ラ・トゥール、シモン・ブーエ (en:Simon Vouet)、スペインのホセ・デ・リベーラらが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をしたアンニーバレ・カラッチとは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) とジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった[42]

しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ (Roberto Longhi) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。ロンギは「ホセ・デ・リベーラ、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、ドラクロワクールベマネらの芸術も全く異なったものになっていたに違いない[43]」とし、著名な美術史家バーナード・ベレンソンも、「ミケランジェロを除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない[44]」と同様の意見を述べている。

カラヴァッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。

絵画作品

『聖ペテロと聖アンデレの召命』(1603年 - 1606年)
ロイヤル・コレクション

現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『聖ペテロと聖アンデレの召命 (The Calling of Saints Peter and Andrew)』(ロイヤル・コレクション、1603年 - 1606年)は1637年にイギリス国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠したチャールズ2世が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、ハンプトン・コート宮殿に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。一方でリチャード・フランシス・バートンがカラヴァッジョの作品として書き残した「トスカーナ大公家のギャラリーが所蔵する、30人の男たちが描かれた聖ロザリアの絵画」は現在行方不明となっている。ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂から受け取りを拒否された『聖マタイと天使』は、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃で失われ、現在は白黒の写真が残るのみである。2011年6月にはそれまで知られていなかったカラヴァッジョが1600年頃に描いた『聖アウグスティヌス』がイギリスのプライベート・コレクションから発見されたという発表があった。この「重要な発見」によってもたらされた絵画はローマ時代のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニが秘密裏に依頼した作品であると考えられている[45]

カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品

日本語文献

入門書
大著
宮下規久朗 (名古屋大学出版会、2004年) ISBN 978-4-8158-0499-2
画集

脚注

  1. ^ Getty profile, including variant spellings of the artist's name.
  2. ^ Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter ARTINFO.com
  3. ^ Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用はカレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。
  4. ^ Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.
  5. ^ Biography of Caravaggio
  6. ^ Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: Rai International Online. 以前はその姓から、カラヴァッジョ村で生まれたと考えられていた。
  7. ^ Harris, p. 21.
  8. ^ Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.
  9. ^ Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。
  10. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」
  11. ^ Caravaggio's Fruit: A Mirror on Baroque Horticulture (Jules Janick, Department of Horticulture and Landscape Architecture, Purdue University, West Lafayette, Indiana)
  12. ^ Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.79. Longhi was with Caravaggio on the night of the fatal brawl with Tomassoni; Robb, "M", p.341, believes that Minniti was as well.
  13. ^ Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」
  14. ^ Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。
  15. ^ 対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。
  16. ^ Lambert, p.66.
  17. ^ このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。
  18. ^ Venerabile Arciconfraternita di Sant'Anna de Parafrenieri
  19. ^ 「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ Considerazioni sulla pittura:)
  20. ^ Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori)
  21. ^ ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも勤めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)。
  22. ^ このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")。'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt'
  23. ^ 1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の Cardinal-Protector、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)。
  24. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672
  25. ^ この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", The Burlington Magazine, CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", Paragone Arte, Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at Caravaggio.com.
  26. ^ 「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608年12月1日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にも関わらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。
  27. ^ Langdon, p.365.
  28. ^ カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。
  29. ^ Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.
  30. ^ 17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)。
  31. ^ ナポリのカゼルタ司教から枢機卿シピオーネへと送られた1610年7月29日付の書簡には、カラヴァッジョがシピオーネへと贈るつもりだったのは2点の洗礼者ヨハネを描いた絵画と、マグダラのマリアを描いた絵画であるという情報が記載されている。これらの絵画はおそらくシピオーネの叔父、つまり教皇パウルス5世がカラヴァッジョに恩赦を与える見返りとして要求したものである。
  32. ^ Vatican reveals Caravaggio painting 'found' in Rome BBC website, published: 19 July 2010, accessed: 2011-09-08
  33. ^ Church bones 'belong to Caravaggio', researchers say BBC website, published: 16 June 2010, accessed: 2011-09-08
  34. ^ The mystery of Caravaggio's death solved at last – painting killed him, Tom Kington, The Guardian, Wednesday, 16 June 2010.
  35. ^ Inscriptiones et Elogia (Cod.Vat.7927)
  36. ^ Lambert, p.11.
  37. ^ ローマでのカラヴァッジョの暮らしぶりは法廷記録に多く残っている。「アーティチョーク事件」とは、カラヴァッジョが熱いアーティチョークが盛られた皿を給仕に投げつけたという記録である。
  38. ^ Robb, passim
  39. ^ 最初に作品に描かれた自画像は『病めるバッカス』でその他に『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれているゴリアテもカラヴァッジョの自画像である。カラヴァッジョ以前にも自身の肖像画を作品に登場させた画家はいたが、役割は主題となっているモチーフの傍観者や観衆としてであり、自身を主題の主要人物として描いた画家はいなかった。
  40. ^ a b Giovanni Baglione 『Le vite de' pittori』, 1642年
  41. ^ アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。
  42. ^ ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( en:Vincenzo Carducci) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「キリストの教えに背く者」であると酷評している。
  43. ^ Roberto Longhi, quoted in Lambert, op. cit., p.15
  44. ^ Bernard Berenson, in Lambert, op. cit., p.8
  45. ^ Alberge, Dalya (19 June 2011). “Unknown Caravaggio painting unearthed in Britain”. The Guardian. 09-08-2011閲覧。

出典

一次資料

The main primary sources for Caravaggio's life are:

  • Giulio Mancini's comments on Caravaggio in Considerazioni sulla pittura, c.1617-1621
  • Giovanni Baglione's Le vite de' pittori, 1642
  • Giovanni Pietro Bellori's Le Vite de' pittori, scultori et architetti moderni, 1672

All have been reprinted in Howard Hibbard's "Caravaggio" and in the appendices to Catherine Puglisi's "Caravaggio".

二次資料
  • Maurizio Calvesi, Caravaggio, Art Dossier 1986, Giunti Editori (1986) (ISBN not available)
  • John Denison Champlin and Charles Callahan Perkins, Ed., Cyclopedia of Painters and Paintings, Charles Scribner's Sons, New York (1885), p. 241 (available at the Harvard's Fogg Museum Library and scanned on Google Books)
  • Andrea Dusio, Caravaggio White Album, Cooper Arte, Roma 2009, ISBN 978-88-7394-128-6
  • Walter Friedlaender, Caravaggio Studies, Princeton: Princeton University Press 1955
  • John Gash, Caravaggio, Chaucer Press, (2004) ISBN 1904449220)
  • Rosa Giorgi, Caravaggio: Master of light and dark - his life in paintings, Dorling Kindersley (1999) ISBN 978-0-7894-4138-6
  • Andrew Graham-Dixon, Caravaggio: A Life Sacred and Profane, London, Allen Lane, 2009. ISBN 9780713996746
  • Howard Hibbard, Caravaggio (1983) ISBN 978-0-06-433322-1
  • Harris, Ann Sutherland. Seventeenth-century Art & Architecture, Laurence King Publishing (2004), ISBN 1856694151.
  • Michael Kitson, The Complete Paintings of Caravaggio London, Abrams, 1967. New edition: Weidenfeld & Nicholson, 1969 and 1986, ISBN 978-0297761082
  • Pietro Koch, Caravaggio - The Painter of Blood and Darkness, Gunther Edition, (Rome - 2004)
  • Gilles Lambert, Caravaggio, Taschen, (2000) ISBN 978-3-8228-6305-3
  • Helen Langdon, Caravaggio: A Life, Farrar, Straus and Giroux, 1999 (original UK edition 1998) ISBN 978-0-374-11894-5
  • Alfred Moir, The Italian Followers of Caravaggio, Harvard University Press (1967) (ISBN not available)
  • Catherine Puglisi, Caravaggio, Phaidon (1998) ISBN 978-0-7148-3966-0
  • Peter Robb, M, Duffy & Snellgrove, 2003 amended edition (original edition 1998) ISBN 978-1-876631-79-6
  • John Spike, with assistance from Michèle Kahn Spike, Caravaggio with Catalogue of Paintings on CD-ROM, Abbeville Press, New York (2001) ISBN 978-0-7892-0639-8
  • John L. Varriano, Caravaggio: The Art of Realism, Pennsylvania State University Press (University Park, PA - 2006)

外部リンク

伝記

エッセイなど

作品

動画

音楽

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