「制服 (ナチス親衛隊)」の版間の差分
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本稿では[[ドイツ]]の政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[準軍事組織]]である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS) |
本稿では[[ドイツ]]の政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[準軍事組織]]である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](以下SS)の[[制服]]について記述する。 |
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== 勤務服 == |
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=== 黒服以前の初期の制服 === |
=== 黒服以前の初期の制服 === |
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[[File:1930_pattern_Schutzstaffel_uniform_with_shoulder_board.png|180px|thumb|「黒服」以前の初期の親衛隊員の制服のイラスト]] |
[[File:1930_pattern_Schutzstaffel_uniform_with_shoulder_board.png|180px|thumb|「黒服」以前の初期の親衛隊員の制服のイラスト]] |
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ナチスの最初の[[準軍事組織]]である[[突撃隊]](SA)は[[褐色]]で統一された[[シャツ]]と[[ネクタイ]]、[[ズボン]]、[[ケピ帽]]を制服として使用していた。 |
ナチスの最初の[[準軍事組織]]である[[突撃隊]](SA)は[[褐色]]で統一された[[シャツ]]と[[ネクタイ]]、[[ズボン]]、[[ケピ帽]]を制服として使用していた。 |
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親衛隊(SS)は[[1925年]]4月に結成されたが、[[1932年]]までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツはSAと同じで褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を使っていた。また[[ハーケンクロイツ]]の[[腕章]]に上下に黒の[[ストライプ]]を入れることでSAと差別化を図った<ref name="山下286">[[#山下|山下、p.286]]</ref><ref name="ラムスデン51">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.51]]</ref>。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽に[[トーテンコップ]](髑髏)の徽章を入れていることがある<ref name="山下287"/><ref name="ラムスデン51"/>。 |
親衛隊(SS)は[[1925年]]4月に結成されたが、[[1932年]]までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツはSAと同じで褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を使っていた。また[[ハーケンクロイツ]]の[[腕章]]に上下に黒の[[ストライプ]]を入れることでSAと差別化を図った<ref name="山下(2010)286">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.286]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)51">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.51]]</ref>。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽に[[トーテンコップ]](髑髏)の徽章を入れていることがある<ref name="山下(2010)287">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.287]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)51"/>。 |
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[[1926年]]11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための[[襟章]]を導入<ref name="山下287"/><ref name="ラムスデン51"/>。これに倣って[[1929年]]8月に |
[[1926年]]11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための[[襟章]]を導入<ref name="山下(2010)287"/><ref name="ラムスデン(1997)51"/>。これに倣ってSSも[[1929年]]8月に襟章を導入した。SAは所属する部隊を示す方法として襟章に様々な色を設けていたが、SSの襟章は銀と黒で統一されていた。SSでは所属部隊は左腕の袖のところの[[#カフタイトル|カフタイトル]]([[袖章]])で示した<ref name="ラムスデン(1997)51"/>。SAと同様に襟周りや襟章の縁にパイピングを入れた。このパイピングは黒服以降の制服にも受け継がれたが、1940年には廃止された(しかし襟周りのパイピングは廃止後も使用されることも多かったという){{#tag:ref|襟周りや襟章の縁のパイピングには変遷がある。制定直後の襟周りのパイピングは、SS大尉までが白(将校は[[アルミ]])と黒の捻り、SS少佐以上がアルミの捻りの物を使用していたが、1934年10月以降には下士官までが黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りに変更された。一方襟章の縁のパイピングははじめ下士官までが白の綿か絹の捻り、SS大尉までが黒とアルミの捻り、SS少佐以上がアルミの捻りとなっていたが、1934年10月に下士官が黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りとなった<ref name="山下(2010)309">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.309]]</ref>。|group=#}}。 |
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ただし黒服以前の制服は特に支給されておらず、各隊員が自前で揃えるものであった<ref name="山下(2010)288">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.288]]</ref>。 |
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1931年終わりにSSは「忠誠こそわが名誉(Meine Ehre heißt Treue)」をモットーに定めた。これに伴い、この文字がSS隊員の[[ベルト]]の[[バックル]]のデザインに入れられた<ref name="ラムスデン55">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.55]]</ref>。 |
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黒服制定以降にはこの褐色シャツの制服は「伝統の制服(Traditionsanzug)」と呼ばれるようになり、ナチ党の式典などで着用されるようになった。ただ褐色シャツは基本的にSAの制服であり、この服を式典で着たがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけであったという。[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]もこの服を好まず、彼は式典には黒服で出席していた<ref name="山下(2010)289">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.289]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 102-14381, Berlin, Polizeipatrouille am Wahltag.jpg|警察官(左)とともにパトロールする[[ベルリン]]の親衛隊員(右)。ナチ政権初期の1933年3月5日。 |
File:Bundesarchiv Bild 102-14381, Berlin, Polizeipatrouille am Wahltag.jpg|警察官(左)とともにパトロールする[[ベルリン]]の親衛隊員(右)。ナチ政権初期の1933年3月5日。黒服以前の親衛隊員の制服を着ている。 |
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File:Bundesarchiv_Bild_183-2008-0814-507,_Hamburg,_Aufbahrung_Marga_von_Etzdorf,_SS-Ehrenwache.jpg |1933年、親衛隊員(左列)と突撃隊(右列)。 |
File:Bundesarchiv_Bild_183-2008-0814-507,_Hamburg,_Aufbahrung_Marga_von_Etzdorf,_SS-Ehrenwache.jpg |1933年、親衛隊員(左列)と突撃隊(右列)。 |
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=== 黒服 === |
=== 黒服 === |
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[[File:Die Uniformen der Allgemeinen SS 32-45.jpg|180px|thumb|親衛隊の制服「黒服」のイラスト]] |
[[File:Die Uniformen der Allgemeinen SS 32-45.jpg|180px|thumb|親衛隊の制服「黒服」のイラスト]] |
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[[1932年]][[7月7日]]に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な |
[[1932年]][[7月7日]]に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な黒い勤務服(SS-Dienstrock Schwarz)が定められた<ref name="照井(1998)73">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.73]]</ref><ref name="山下(2010)287">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.287]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)59">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.59]]</ref><ref name="武装SS全史I86">[[#学研1|武装SS全史I、p.86]]</ref>{{#tag:ref|しかしこれより前の1930年に黒服を着用してる写真が確認されていることから1932年の黒服制定命令はそれ以前から制服として使用されはじめていた黒服を改めて制服に指定した物と考えられる<ref name="山下(2011)上4">[[#山下(2011)上|山下(2011)上巻、p.4]]</ref>。|group=#}}。 |
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黒服のデザインをしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐[[カール・ディービッチュ]]([[:en:Karl Diebitsch|en]])といわれるが<ref name="照井(1998)73"/><ref name="ラムスデン(1997)59"/>、これを疑う説もある<ref name="山下(2010)290">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.290]]</ref>。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の[[第1近衛軽騎兵連隊 (プロイセン)|第1近衛軽騎兵連隊]]([[:de:1. Leib-Husaren-Regiment Nr. 1|de]])と[[第2近衛軽騎兵連隊 (プロイセン)|第2近衛軽騎兵連隊]]([[:de:2. Leib-Husaren-Regiment „Königin Viktoria von Preußen“ Nr. 2|de]])であるという<ref name="ラムスデン(1997)59">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.59]]</ref><ref name="武装SS全史I80-81">[[#学研1|武装SS全史I、p.80-81]]</ref>。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。 |
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褐色のシャツの上に黒い[[スーツ]]を着る |
黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に黒い[[スーツ]]を着用する。スーツの前ボタンは4つ付いており、開襟して着用する。ふた付き[[ポケット]]が上下に2つずつ計4つあり、下ポケット2つは斜めになっていた<ref name="ラムスデン(1997)59"/><ref name="山下(2010)287"/>。肩章は右肩にのみ装着する。背部には腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割があるボタンが二つ付いており、ボタンから裾までひれのような[[プリーツ]]が入っている<ref name="照井(1998)21">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.21]]</ref><ref name="山下(2011)上9">[[#山下(2010)上|山下(2011)上巻、p.9]]</ref>。黒スーツの下に着るシャツは基本的に褐色のシャツだが、礼服として着用する場合には白いシャツを用いることも許可されていた。1938年頃からは日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになった<ref name="山下(2011)上9"/>。 |
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制帽はケピ帽から[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#制帽|軍の制帽]]に似た物に変更された<ref name="ラムスデン(1997)59"/>。ただ黒服初期の制帽は[[第一次世界大戦]]のドイツ軍や戦後の[[ヴァイマル共和国軍]]の軍帽の流れを組んでいたので、あまりトップが高くなく、潰れているような感じの物が多かった<ref name="山下(2010)287"/>。 |
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また黒服の導入と同時に黒いコートが制服に定められた。[[ウール]]製のコートと[[革]]製のコートがあったが、やがて一般SSではウール製コートは使われなくなり、皮製のコートが一般的になった。コートにも[[徽章]]類を全てつけたが、勲章はコートには付けなかった<ref name="山下293">[[#山下|山下、p.293]]</ref>。 |
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下士官・兵士に支給する黒服はナチ党の「国家装備統制局」(Reichs Zeug Meisterei,略章RZM)と契約した民間企業の工場において製造されていた<ref name="照井(1998)73"/>。一方将校はRZM規格品をSS被服販売所で購入するか、オーダーメイドで仕立てる場合がほとんどであった<ref name="照井(1998)74">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.74]]</ref><ref name="山下(2010)288">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.288]]</ref>。上級隊員は1933年のうちには黒服を手に入れたが、下級隊員の間では1935年ぐらいまで黒服以前の褐色シャツ制服が黒服に混在して使用され続けたという<ref name="山下(2010)288"/>。 |
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将校から順に黒服が渡され、1933年にはすべての隊員にいきわたった<ref name="山下287"/><ref name="ラムスデン59"/>。1934年には制服の規格も統一されていった<ref name="ラムスデン59"/>。 |
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1939年6月27日以降には夏用に |
1939年6月27日以降には夏用に黒服と同じデザインで色だけ異なる「白服」が将校にのみ支給された<ref name="ラムスデン(1997)61">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.61]]</ref>。着用期間は4月1日から9月30日までであった<ref name="ラムスデン(1997)61"/>。しかし白服は[[ベルヒテスガーデン]]での式典を除きほとんど着用されなかったという<ref name="ラムスデン(1997)143">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.143]]</ref>。白服は[http://www.flickr.com/photos/geomai/2561202219/lightbox/ ここ]で見られる。 |
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1935年に[[親衛隊特務部隊]]、続いて1936年に[[親衛隊髑髏部隊]]で[[アースブラウン]]の制服が導入され、さらに1937年には陸軍 |
1935年に[[親衛隊特務部隊]]、続いて1936年に[[親衛隊髑髏部隊]]で[[アースブラウン]]の制服が導入され、さらに1937年には[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#通常の野戦服|陸軍型のフィールドグレー野戦服]]が導入された。そのため特務部隊と髑髏部隊は日常制服としては黒服を着用しなくなった<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="ラムスデン(1997)131">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.131]]</ref><ref name="菊月(2002)108">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.108]]</ref>。以降は[[一般親衛隊|一般SS]]だけが黒服を着用していたが、1938年に一般SSに常勤する隊員にフィールドグレーの新しい勤務服が導入されたため、彼らも日常制服としては黒服を使わなくなった<ref name="ラムスデン(1997)65">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.65]]</ref>{{#tag:ref|ただ1942年4月28日の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の覚書に黒服を禁止した旨の記述があり、戦時中にも禁止命令を出さねばならないほどに黒服が[[国家保安本部]]内で依然として着用されていた可能性がある<ref name="山下(2010)294">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.294]]</ref>。|group=#}}。以降の黒服は礼服としてのみ使用されるようになった<ref name="テーラー(1993)122">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.122]]</ref>。 |
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しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員にはグレー |
しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員にはフィールドグレー勤務服が支給されなかったので、彼らは日常制服としても黒服を使用し続けた。戦争がはじまると非常勤一般親衛隊員は続々と徴兵され、大幅に数が減少した。彼らの分の余剰になった黒服は[[徽章]]などを外して外国人SS部隊や占領地現地民による補助警察[[シューマ]]([[:de:Schutzmannschaft]],略称Schuma)の隊員に支給された<ref name="山下(2010)292">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.292]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)63">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.63]]</ref>。 |
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戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという<ref name="ラムスデン65">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.65]]</ref>。 |
戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという<ref name="ラムスデン(1997)65">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.65]]</ref>。 |
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File:Langhammer - Josias Prinz zu Waldeck und Pyrmont.jpg|「黒服」のSS大将[[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]] |
File:Langhammer - Josias Prinz zu Waldeck und Pyrmont.jpg|「黒服」のSS大将[[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]] |
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File:Ernst Ritter.jpg|SS大尉カール・リッター |
File:Ernst Ritter.jpg|SS大尉カール・リッター |
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File:Bundesarchiv Bild 102-00089, Berlin, Parade zum 50. Geburtstag Hitlers.jpg|黒服に[[飾緒]]や礼装ベルトをつけて礼服として着用している(1939年4月20日、ヒトラーの50歳誕生日式典で[[ブランデンブルク門]]を通過する[[第1SS装甲師団|LSSAH]]) |
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File:Bundesarchiv Bild 102-18083, Joachim von Ribbentrop.jpg|「黒服」の将官用コート。SS名誉中将[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]] |
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File:Bundesarchiv Bild 183-H15390, Berlin, Kaserne der LSSAH, Vergatterung.jpg|「黒服」の兵士用コート。「[[第1SS装甲師団|LSSAH]]」隊員。 |
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=== フィールドグレーの勤務服 === |
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1938年からSSの本部(Hauptamt, [[国家保安本部]]、[[親衛隊経済管理本部|経済管理本部]]など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員にグレー |
1938年からSSの本部(SS-Hauptamt, [[国家保安本部]]、[[親衛隊経済管理本部|経済管理本部]]など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員にフィールドグレー勤務服(SS-Dienstrock Feldgrau)が支給された<ref name="ラムスデン(1997)63"/>。前述したが、一般SSでも非常勤隊員にはこのフィールドグレー勤務服は支給されなかった<ref name="ラムスデン(1997)65"/>。 |
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基本的に黒服と同型だが、黒服が右肩にのみ肩章があるのに対してフィールドグレー勤務服は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった<ref name="ラムスデン(1997)65"/>。開襟で着用した武装SSのフィールドグレー野戦服とも似ているが、異なる点としてはこちらは黒服と同型なので前ボタンが4つで開襟での着用しかできず、また背部にベルト止めボタンが2つ付いている点である<ref name="照井(1998)29">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.29]]</ref><ref name="山下(2011)上9">[[#山下(2010)上|山下(2011)上巻、p.9]]</ref>。 |
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一般SS常勤隊員には、支給制服を着る者、SS被服購買所などで自ら選んで買った制服を着る者、洋服店で仕立てさせた制服を着る者などがあった。武装SSと異なり、一般SSでは階級が低くてもお金に余裕があるなら自分で制服を仕立ててかまわなかった。逆に将官であっても裕福でない者などは支給品を着ている場合もあった<ref name="山下(2010)292">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.292]]</ref>。SSは貴族・ブルジョワなど既存の上流階級に抵抗するいわば「革命勢力」であった。能力さえあれば家柄に関係なく出世できたので将官だからといって裕福であるとは限らなかったのである<ref name="山下(2010)292"/>。 |
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戦時中には一般SSでも武装SSのフィールドグレーの野戦服を着用する者が増えた。特に占領地勤務者にそれが顕著だった<ref name="ラムスデン(1997)65"/>。 |
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File:SS Otto Ohlendorf.jpg|一般SSのグレーの制服を着るSS少将[[オットー・オーレンドルフ]]。 |
File:SS Otto Ohlendorf.jpg|一般SSのグレーの制服を着るSS少将[[オットー・オーレンドルフ]]。 |
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File:Rudolf Kerner Skrekens hus.JPG|[[ノルウェー]]・[[クリスチャンサン]]の[[ゲシュタポ]]司令官[[ルドルフ・ケルナー]]([[:de:Rudolf Kerner|de]])の人形。グレーの制服を着ている。 |
File:Rudolf Kerner Skrekens hus.JPG|[[ノルウェー]]・[[クリスチャンサン]]の[[ゲシュタポ]]司令官[[ルドルフ・ケルナー]]([[:de:Rudolf Kerner|de]])の人形。グレーの制服を着ている。 |
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File:Bundesarchiv Bild 192-104, KZ Mauthausen, SS-Untersturmführer.jpg|[[マウトハウゼン強制収容所]]勤務のSS少尉。[[飾緒]]と礼装ベルトを付けており、礼服として着用している |
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== 武装SSの野戦服 == |
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SSの制服には「勤務服」(Dienstrock)と「野戦服」(Feldbluse)があり、武装SS(SS特務部隊)隊員には両方とも支給されていた<ref name="山下(2010)323">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.323]]</ref>。「勤務服」については一般SSのものと同じである。「野戦服」が武装SSだけに支給される特別な制服である。SS特務部隊や[[親衛隊髑髏部隊|SS髑髏部隊]]も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、派手すぎて戦場での作戦行動や[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]警備に不向きであったので野戦服が作られることになったのである<ref name="ラムスデン(1997)65">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.65]]</ref>。 |
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==== 初期の野戦服 ==== |
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親衛隊の戦闘部隊である武装SS(親衛隊特務部隊)や強制収容所に勤務する親衛隊髑髏部隊も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、派手すぎて戦場での作戦行動や強制収容所勤務に不向きであった<ref name="ラムスデン65">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.65]]</ref>。 |
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そこで1935年初め、「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と特務部隊用に「黒服」と同じ形でアースグレー色の制服が定められた<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="ラムスデン131">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.131]]</ref>。前ボタンが4つではなく5つあり、詰襟で着ることができた<ref name="ラムスデン131">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.131]]</ref>。また1936年には髑髏部隊にもアースブラウン色で同じ制服が日常勤務用として支給された<ref name="ラムスデン131"/>。 |
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=== 初期のアースグレーの支給野戦服 === |
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1935年初め、「[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー]]」と特務部隊用にアースグレー色の野戦服が定められた(M35野戦服)<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="ラムスデン(1997)131">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.131]]</ref><ref name="菊月(2002)110">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.110]]</ref>。形は基本的に黒服と同じだったが、前ボタンが黒服より1つ多い5つあり、詰襟で着ることができた<ref name="ラムスデン(1997)131">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.131]]</ref>。ただし将校のは前ボタンが4つであり、開襟でしか着用できなかった<ref name="フォステン(1972)77">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.77]]</ref>。 |
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1936年3月には髑髏部隊にもアースブラウン色で同じ野戦服が日常勤務用として支給された<ref name="ラムスデン(1997)131"/><ref name="山下(2011)上128">[[#山下(2011)上|山下(2011)上巻、p.128]]</ref><ref name="照井(1998)74">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.74]]</ref>。 |
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戦争がはじまり、武装親衛隊員の数が急増してきた1940年には制服の製造が追いつかなくなり、陸軍の野戦服にSSの記章をつけただけの制服が出回るようになった<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="フォステン80">[[#フォステン|フォステン、p.80]]</ref>。これを「1940年型野戦服」と呼ぶ<ref name="武装SS全史I86"/>。陸軍野戦服の使いまわしなので襟が陸軍と同じダークグリーンの物が多いが、親衛隊の制服工場でも作成された物があり、これは襟の色を服と同じフィールドグレーにし続けた。1942年には戦況の悪化による経済的な理由でポケットのプリーツをなくした制服がつくられるようになり、これを「1942年型野戦服」と呼んだ<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="フォステン133">[[#フォステン|フォステン、p.133]]</ref>。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされ、「1943年型野戦服」が誕生する<ref name="武装SS全史I86"/><ref>[[#フォステン|フォステン、p.83-84]]</ref>。素材もウールの使用量が大幅に減らされて保温機能が悪化した<ref name="フォステン133">[[#フォステン|フォステン、p.133]]</ref>。1944年には更なる生産工程の簡素化のために制服が全軍共通になり、記章のみが異なる「1944年型野戦服」が生まれた<ref name="武装SS全史I86"/>。これは極端に丈が短く、下ポケットが消滅している<ref name="武装SS全史I88">[[#学研1|武装SS全史I、p.88]]</ref>。そのため、まるでイギリス軍の軍服のようになってしまっている<ref name="フォステン84">[[#フォステン|フォステン、p.84]]</ref>。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという<ref name="武装SS全史I88">[[#学研1|武装SS全史I、p.88]]</ref>。 |
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[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#支給野戦服|陸軍M36野戦服]]の影響からか、1936年になると部隊によっては襟をダークグリーンにしている物も見られるようになった(特にライプシュタンダルテの下士官兵士)<ref name="照井(1998)74">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.74]]</ref> |
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フィールド・グレーの野戦服のコートは、グレイのボタンが二列に並び、襟はダーク・グリーンであった(戦争末期に本体と同色のフィールドグレーになった)。一般将校用のコートは襟の折り返しがライト・グレーで襟は開いていても閉じて着ても構わなかった<ref name="フォステン98">[[#フォステン|フォステン、p.98]]</ref>。冬季には高級将校の間ではコートの襟に毛皮をつけるのが流行ったという<ref name="フォステン99">[[#フォステン|フォステン、p.99]]</ref>。もっとも将校は注文した皮のコートを着る者が多かった。皮のコートの場合は基本的に襟章は付けなかった<ref name="フォステン99">[[#フォステン|フォステン、p.99]]</ref>。袖章もあまり付けなかったようだが、付けている者もいたようである<ref name="フォステン99">[[#フォステン|フォステン、p.99]]</ref>。 |
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=== フィールドグレーの支給野戦服 === |
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1937年にこの二つの野戦服が統一されてフィールドグレーの野戦服が制定され、特務部隊と髑髏部隊に支給された<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="ラムスデン(1997)131"/>。これはM37野戦服と呼ばれる<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="山下(2010)322">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.322]]</ref>。[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#支給野戦服|ドイツ陸軍のM36野戦服]]をモデルにして作られたが、襟が制服と同じフィールドグレーである点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンであり、服と色が異なった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="ラムスデン(1997)131">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.131]]</ref><ref name="プレス(1980)23">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.23]]</ref>。詰襟でも開襟でも着る事が出来た<ref name="山下(2010)322"/>。ただ1940年ぐらいまでアースグレーの野戦服を着用している部隊もあったという<ref name="フォステン(1972)78">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.78]]</ref>。 |
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戦争がはじまり、武装SS隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量採用を余儀なくされた<ref name="照井(1998)21">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.21]]</ref>。これにSSの徽章をつけた野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="フォステン(1972)80">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.80]]</ref>。陸軍M36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっていた<ref name="照井(1998)75">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.75]]</ref>。SS被服工場{{#tag:ref|武装SSの野戦服は一般SSと異なりRZM契約民間企業ではなくSS独自の被服工場で製作されていた<ref name="照井(1998)75">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.75]]</ref>。|group=#}}でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟をフィールドグレーにして製作していた<ref name="武装SS全史I86"/>。 |
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もともとSS被服工場は[[ダッハウ強制収容所]]にしかなかったのだが、1939年に[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年にはSS被服生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を支給できるようになった<ref name="照井(1998)75">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.75]]</ref>。1941年からSS被服工場で作られるようになったM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍野戦服流用品)と変わらなかったが、内装がだいぶ変わっていた<ref name="照井(1998)75"/>。さらに1942年になるとポケットのプリーツをなくしたM42野戦服が支給されるようになった<ref name="武装SS全史I86"/><ref name="フォステン(1972)133">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.133]]</ref>。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされたM43野戦服が支給されるようになった<ref name="武装SS全史I86"/><ref>[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.83-84]]</ref>。素材もウールの使用量が大幅に減らされて保温機能が悪化した<ref name="フォステン133">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.133]]</ref>。 |
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1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、記章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた<ref name="武装SS全史I86"/>。これは極端に丈が短く、下ポケットが消滅している<ref name="武装SS全史I88">[[#学研1|武装SS全史I、p.88]]</ref>。そのため、まるで[[英軍]]の野戦服「[[バトルドレス]]」([[:en:Battle Dress|en]])のようになってしまっている<ref name="フォステン(1972)84">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.84]]</ref>。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという<ref name="武装SS全史I88">[[#学研1|武装SS全史I、p.88]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Altstadt-065-05, Russland, Waffen-SS-Div. "Wiking", Auszeichnung.jpg|陸軍の物を流用したM40野戦服。左端の下士官は襟が濃く、それ隣の兵士たちは色が服と同色(1942年6月ロシア。[[第5SS装甲師団|ヴィーキング師団]]兵) |
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File:Bundesarchiv Bild 183-J27050, Panzergrenadiere der SS-Panzer-Division "Hitlerjudend".jpg|M42野戦服を着る[[第12SS装甲師団]]「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち。ポケットのプリーツが無くなっている。 |
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File:SDJacke.jpg|[[SD (ナチス)|SD]]のSS伍長のM43野戦服。ポケットのプリーツが無く、ポケットの口もまっすぐになっている。素材も粗悪。 |
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=== 将校の野戦服 === |
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陸軍と同様に武装SSでも兵士・下士官は支給物、将校は独自にオーダーメイドした物を着用した<ref name="山下(2010)322"/><ref name="菊月(2002)230">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.230]]</ref>。そのために将校は被服手当を受けていた(SS将校の受けていた被服手当は陸軍将校より多額であった)<ref name="プレス(1980)17">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.17]]</ref>。 |
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SS将校たちははじめ特務部隊のM35野戦服やM37野戦服と同型の野戦服を仕立てることが多かったが、やがて[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#将校の野戦服|陸軍将校と同型の野戦服]]を仕立てるのが一般的になっていった<ref name="菊月(2002)110">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.110]]</ref><ref name="スティーブン(1993)12-13">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.12-13]]</ref>。そのため襟がダークグリーンになっていたり、腰ポケットが斜めの切り込みポケットではなく水平の貼り付けポケットになっていたりする物が多かったが、中には武装SSの制服規定に合わせて襟をフィールドグレーにしたり、腰ポケットを斜めの切り込みポケットにした物もあった<ref name="プレス(1980)17">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.17]]</ref>。 |
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ただし消耗を避けるため、戦闘中には将校も支給品の野戦服を着用する者が多かったという<ref name="スティーブン(1993)6">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.6]]</ref>。 |
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File:M36 British Free Corps Tunic.jpg| |
File:M36 British Free Corps Tunic.jpg|陸軍将校の物と同型に仕立てたSS将校野戦服。徽章はイギリス人60名から成るSS義勇部隊「[[イギリス自由軍団]]」の物 |
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File:20080809 mokotow 44 reenactment IMG 2316.jpg|左の武装SS将校役は襟の部分がダークグリーンの陸軍将校型。右の武装SS将校役はフィールドグレーになっているが素材がよくなさそうなので支給品という設定だろう(2008年ワルシャワ蜂起再現イベント) |
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File:Bundesarchiv Bild 183-J27050, Panzergrenadiere der SS-Panzer-Division "Hitlerjudend".jpg|「1942年型野戦服」を着る[[第12SS装甲師団]]「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち。ポケットのプリーツが無くなっている。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-050-06A, Hajo von Hadeln.jpg|陸軍将校型野戦服(1942年[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ハデルン]]男爵SS少佐) |
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File:SDJacke.jpg|[[SD (ナチス)|SD]]のSS伍長の「1943年型野戦服」。ポケットのプリーツが無く、ポケットの口もまっすぐになっている。素材も粗悪。 |
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File:Bundesarchiv Bild 192-095, KZ Mauthausen, Franz Ziereis mit SS-Männern.jpg|[[マウトハウゼン強制収容所]]所長[[フランツ・ツィライス]]SS中佐(中央)。襟が濃いところは陸軍型だが、下ポケットが斜めの切り込みポケットなところは武装SS型の作り |
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File:Bundesarchiv Bild 146-1973-138-14A, Felix Steiner.jpg|詰襟にせずに野戦服を着る[[フェリックス・シュタイナー]]SS中将(後に大将) |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-AhrensH-093-15, Russland, I. SS-Infanterie-Brigade.jpg|野戦服のコートを着る[[第1SS歩兵師団]]([[:en:1 SS Infantry Brigade|en]])の将校たち。襟に毛皮を使っている者も確認できる。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Ege-235-02, Sylvester Stadler.jpg|1943年、野戦服のコートを着る[[ジルヴェスター・シュタドラー]][[親衛隊中佐]](後に少将)([[:de:Sylvester Stadler|de]]) |
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=== 迷彩服 === |
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武装 |
武装SS(SS特務部隊)は[[迷彩服]]の先駆者である。世界で初めて迷彩服を正式採用して大量に支給した。現在でこそ世界中の軍隊で当たり前のように使われている迷彩服であるが、当時の繊維・染織技術で迷彩服のような複雑なプリント生地を大量に製造するなどということは前例のない試みであった<ref name="スティーブン(1993)22">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.22]]</ref><ref name="山下(2010)339">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.339]]</ref>。 |
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SS特務部隊の迷彩服の研究は1935年から始められた。まず迷彩ヘルメットカバーと迷彩[[ポンチョ]]、顔面偽装具といった迷彩装備が開発された<ref name="照井(1998)77">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.77]]</ref>。これらが1936年末にSS特務部隊ドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果、迷彩装備を使用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用が決定した<ref name="照井(1998)77">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.77]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)139">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.139]]</ref>。 |
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武装親衛隊の迷彩服は1937年2月に親衛隊特務部隊の将校で工学博士号を持っていたヴィルヘルム・ブラントSS少佐がデザインを行ったとされるが<ref name="ラムスデン139">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.139]]</ref><ref name="プレス25">[[#プレス|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.25]]</ref>、これは誤りでオットー・シック教授とアドルフ・シュミットが開発者であるという反論もある<ref name="山下339"/>。 |
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迷彩ポンチョ自体はすでに陸軍でも開発されていたのだが、SS特務部隊ではこの後迷彩だけを目的とした迷彩スモックを開発がすすめられ、1937年末に世界初の規格型迷彩スモックを誕生させた<ref name="照井(1998)77"/>。このスモックは通常の野戦服の上にかぶって着用し、胸元には切れ込みが入っており、紐で留めていた<ref name="照井(1998)36">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.36]]</ref>。 |
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1937年12月の親衛隊特務部隊の第1連隊「ドイチュラント」(SS-Standarte 1 "Deutschland")の演習に実験的に使用された結果、迷彩服を着用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用された<ref name="ラムスデン139"/>。 |
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当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産が機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装 |
当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産が機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いたという<ref name="ラムスデン(1997)139"/><ref name="プレス(1980)25">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.25]]</ref>。 |
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さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上着とズボンが揃った迷彩服が登場した<ref name="照井(1998)78">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.78]]</ref>。これは単体で着用してもよかったが、従来のスモックと同様に通常の野戦服の上から着用してもかまわなかった<ref name="菊月(2002)89">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.89]]</ref>。 |
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なお陸軍はSSに先駆けて迷彩[[ポンチョ]]を採用していたのだが、迷彩服の開発は遅れて1942年から1943年頃になってようやく採用に踏み切った。しかし陸軍には武装SSほど広く支給されなかった。そのため陸軍の将兵の中には迷彩ポンチョで迷彩服を作る者もいたという<ref name="プレス25"/>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Weyer-036-28A, Angehörige der Waffen-SS mit MP.jpg|迷彩 |
File:Bundesarchiv Bild 101III-Weyer-036-28A, Angehörige der Waffen-SS mit MP.jpg|迷彩スモックの武装SS兵士 |
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File:Waffen SS snipers.jpg|迷彩服の武装SS兵たち |
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File:Schillersdorf.jpg|捕虜になった武装SS兵たち。手前の兵士が迷彩服の上に野戦服とオーバーコートを着ている |
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File:28 ODGP Wallonien (reenacting).jpg|2007年、[[ポーランド]]。[[第28SS義勇擲弾兵師団]]の再現イベント |
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File: |
File:28 ODGP Wallonien (reenacting).jpg|迷彩スモック(2007年、[[ポーランド]]。[[第28SS義勇擲弾兵師団]]の再現イベント) |
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File:Sd Kfz 250 1.jpg|迷彩スモック(2007年、ポーランド。第28SS義勇擲弾兵師団の再現イベント) |
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File:SS Platanenmuster Sommer.jpg|夏の迷彩服パターン |
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File:SS Platanenmuster |
File:SS Platanenmuster Sommer.jpg|夏の迷彩パターン |
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File:SS Platanenmuster Herbst.jpg|秋の迷彩パターン |
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=== 戦車兵軍服 === |
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[[File:Panzer-crew-black-5thss.jpg|thumb|180px|武装SS戦車兵の黒服のイラスト]] |
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ドイツ陸軍の戦車兵の黒い軍服は有名であるが、武装SSの戦車兵も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵軍服が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍型戦車兵軍服は使用されなくなっていった<ref name="プレス8">[[#プレス|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.8]]</ref><ref name="武装SS全史I89">[[#学研1|武装SS全史I、p.89]]</ref>。 |
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[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#戦車兵の軍服|ドイツ陸軍の戦車・装甲車搭乗員の黒い軍服]]は有名であるが、武装SSの戦車・装甲車搭乗員(以下戦車兵)も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵の物が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍の物は使用されなくなっていった<ref name="プレス(1980)8">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.8]]</ref><ref name="武装SS全史I89">[[#学研1|武装SS全史I、p.89]]</ref>。 |
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陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く、下襟が小さいことなどがあげられる<ref name="プレス8"/><ref name="武装SS全史I89"/>。 |
陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く、下襟が小さいことなどがあげられ、下襟が小さいがゆえに武装SS戦車兵の前合わせは垂直になっている<ref name="プレス(1980)8"/><ref name="武装SS全史I89"/><ref name="スティーブン(1993)41">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.41]]</ref><ref name="照井(1998)47">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.47]]</ref>。陸軍の戦車兵軍服は上襟周りに兵科色のパイピングが入っているが、武装SSは将校が銀のパイピングを入れるのみだった<ref name="スティーブン(1993)41">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.41]]</ref>。さらに陸軍のものは背中の生地を二枚継ぎ合わせていたので背中に縦に一本縫い目が付いていた。しかし武装SSは一枚だったので縫い目がなかった<ref name="プレス(1980)8"/><ref name="武装SS全史I89"/><ref name="照井(1998)47"/>。また襟章は陸軍が髑髏を入れていたのに対して武装親衛隊は親衛隊の階級章を入れていた<ref>[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.2・8]]</ref>。 |
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ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSでは |
ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSではズボンの左右腰についているポケットやズボン前部に付いている懐中時計用ポケットの蓋が2つのボタンで留められていた<ref name="プレス(1980)8"/>。 |
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ネクタイは黒、シャツはグレーかブラウンが通常だが、オプションで黒いシャツも認められていた<ref name="スティーブン(1993)41">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.41]]</ref>。 |
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1943年に戦車兵が車外に出た場合を想定して迷彩オーバーオールが支給された。[[リバーシブル]]になっており反転着用でき、裏面は秋の迷彩パターンになっていた。ただ秋面の方は胸ポケットがなかった<ref name="スティーブン(1993)43">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.43]]</ref><ref name="菊月(2002)79">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.79]]</ref>。さらに1944年1月には戦車兵に支給されていたリード・グリーンの[[ツーピース]]作業着が迷彩柄に取り換えられることになった<ref name="スティーブン(1993)45">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.45]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild |
File:Bundesarchiv Bild 146-1985-036-08, Otto Meyer.jpg|武装SS戦車兵軍服。帽子は戦車兵用の黒い[[#規格野戦帽|規格野戦帽]] |
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File:Bundesarchiv Bild |
File:Bundesarchiv Bild 101I-299-1802-08, Nordfrankreich, Michael Wittmann auf Panzer VI (Tiger I).jpg|武装SS戦車兵軍服。LSSAH師団戦車エースの[[ミヒャエル・ヴィットマン]]SS大尉。帽子は[[#クラッシュキャップ|クラッシュキャップ]] |
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ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-292-1258-04, Frankreich, dekorierter Panzersoldat mit Zivilist(2).jpg|[[ドイツ国防軍]]陸軍の戦車兵軍服。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101I-299-1802-31A, Nordfrankreich, Panzersoldat der Waffen-SS.jpg|迷彩作業着の武装SS戦車兵。帽子は戦車兵用の黒い[[#略帽|略帽]] |
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=== 熱帯服 === |
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武装SSは[[北アフリカ戦線]]には従軍していないが、[[南ヨーロッパ]]の[[バルカン半島の戦い]]には従軍しており、気温の高い[[ギリシャの戦い|ギリシャでの戦闘]]において武装SS将兵たちは[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#北アフリカ戦線の軍服|陸軍のコットン製の熱帯用野戦服]]を独自に調達して使用した<ref name="照井(1998)76">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.76]]</ref>。これがきっかけとなり、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられることとなった<ref name="照井(1998)76">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.76]]</ref>。 |
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1942年から支給されるようになった武装SSの熱帯野戦服はドイツ軍ではなく[[イタリア軍]]の熱帯野戦服「サファリアーナ(Sahariana)」をモデルにして作られており<ref name="照井(1998)76"/>、肩から胸を大きなフラップが覆っており、胸ポケットのボタンでとめる仕様になっていた<ref name="ラガルド(1996)50">[[#ラガルド(1996)|ド・ラガルド(1996)、p.50]]</ref>。このフラップは放熱効果のために付けられていたという。素材は陸軍熱帯服と同じ[[コットン]]製。前ボタンは4個で開襟して着用する。ボタンは洗濯に便利なよう着脱式になっている。1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになった<ref name="照井(1998)76"/>。 |
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熱帯服の登場とともに各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボン(半ズボンもあった)なども導入された<ref name="照井(1998)77">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.77]]</ref>。 |
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== SS女性補助員の制服 == |
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戦時中、SSも国防軍と同様に人手不足から後方任務に女性補助員(SS-Helferinnen)を動員した。SSの女性補助員には「女性補助員」と「戦時女性補助員」の区別があった<ref name="ウィリアムソン(2007)44">[[#ウィリアムソン(2007)|ウィリアムソン(2007)、p.44]]</ref><ref name="山下(2011)上67">[[#山下(2011)上|山下(2011)上巻、p.67]]</ref>。[[親衛隊経済管理本部|SS経済管理本部]]の1943年の命令によると前者はSS帝国学校の卒業者、後者は東部占領地域に派遣される者であるという<ref name="山下(2011)上67"/>。 |
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女性補助員はネクタイを付けずに白い[[ブラウス]]を着用し、その上にフィールドグレーの背広を着た。この背広は前ボタンが3つ、左右の腰の部分にふた付きポケットがあり、左胸にもポケットが付いていた<ref name="ウィリアムソン(2007)44">[[#ウィリアムソン(2007)|ウィリアムソン(2007)、p.44]]</ref><ref name="プレス(1980)95">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.95]]</ref>。ポケットはいずれも切り込み式であった<ref name="ウィリアムソン(2007)31">[[#ウィリアムソン(2007)|ウィリアムソン(2007)、p.31]]</ref>。スカートは背広と同じフィールドグレー色だった<ref name="ウィリアムソン(2007)45">[[#ウィリアムソン(2007)|ウィリアムソン(2007)、p.45]]</ref>。靴は黒い靴を履いた<ref name="ウィリアムソン(2007)45">[[#ウィリアムソン(2007)|ウィリアムソン(2007)、p.45]]</ref>。 |
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さらに黒い[[#略帽|略帽]]風の帽子をかぶった。この帽子には男性SS隊員の略帽と違って折り返し部分がなかった。また髑髏の帽章は付かず、鷲章だけが付いていた<ref name="ウィリアムソン(2007)45"/>。 |
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女性補助員はSSのルーン文字が入った黒い布製パッチを胸ポケット部分に貼り付けた<ref name="ウィリアムソン(2007)44"/><ref name="プレス(1980)95"/>。また通信を担当する者は左袖に通信隊を示すブリッツ(雷光)章を入れることもある<ref name="ウィリアムソン(2007)45"/><ref name="プレス(1980)95"/>。一方戦時女性補助員の場合にはSSルーン文字のパッチは付けなかった<ref name="ウィリアムソン(2007)45"/>。 |
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File:Ssaufseherin-uniform.jpg|強制収容所勤務の女性補助員を描いた絵 |
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File:Guards in Nazi concentration camp.jpg|強制収容所勤務の男性SS隊員と女性補助員を描いた絵 |
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File:06-nachtwacha.jpg|外套を着た[[イルマ・グレーゼ]]を描いた絵。 |
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== オーバーコート == |
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1932年の黒服の導入と同時に黒いオーバーコートが制服に定められた。前ボタンは一列6個のダブルになっており、斜めの切り込みポケットが腰の部分の左右に付いている。後ろには両端に離れたボタンで止められたハーフベルトが付いている(ナチ党型ハーフベルト)。また黒服と同様に左腕には[[ハーケンクロイツ]]の腕章をつけた<ref name="照井(1998)43">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.43]]</ref>。[[ウール]]製のコートと[[革]]製のコート、レインコートの三種があったが、一般SSではやがてウール製コートは使われなくなり、皮製コートが一般的になった。コートにも[[徽章]]類を全てつけたが、勲章はコートに付けてはならなかった<ref name="山下(2010)293">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.293]]</ref>。 |
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基本的に下に着用している制服と同じ色のコートを着るのが原則であり、1935年にSS特務部隊でアース・グレーの野戦服が制定されるとともにアース・グレー色のオーバーコートも制定された。ついで1937年に野戦服の色がフィールドグレーに変化したのに伴い、1939年に陸軍で使用されていたフィールド・グレーのオーバーコートが武装SSにも支給された<ref name="菊月(2002)110">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.110]]</ref><ref name="照井(1998)43">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.43]]</ref>。陸軍オーバーコートは後ろのハーフベルトを中央のボタンで止める<ref name="照井(1998)43"/>。 |
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はじめ襟がダークグリーンだったが、1942年に襟がフィールドグレーになった<ref name="スティーブン(1993)17">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.17]]</ref>。陸軍のオーバーコートは襟章は付けてはならなかったが、武装SSでは付けても構わなかった<ref name="プレス(1980)16">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.16]]</ref>。ただ戦争後期になるにつれて付けない者が増えた<ref name="スティーブン(1993)15">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.15]]</ref>。なお一般SSでは最後までオーバーコートに襟章を付け続けた<ref name="照井(1998)43">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.43]]</ref>。 |
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下士官兵士は支給された物を着用した。将校はオーダーメイドする者も支給品を着る者もあった<ref name="プレス(1980)17">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.17]]</ref>。冬季には高級将校の間ではコートの襟に毛皮をつけるのが流行ったという<ref name="フォステン(1972)99">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.99]]</ref>。将校の中で多かったのはオーダーメイドした皮コートである。この皮コートには基本的に襟章は付けなかった<ref name="フォステン(1972)99">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.99]]</ref>。袖章もあまり付けなかったようだが、付けている者もいたようである<ref name="フォステン(1972)99">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.99]]</ref>。 |
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なおオーバーコートが何色であっても[[親衛隊上級大佐|SS准将]]以上の階級の者の場合は下襟にはシルバーグレー色(かなり白に近い)を入れ、開襟で着用するのが普通であった<ref name="山下(2010)293">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.293]]</ref><ref name="菊月(2002)110">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.110]]</ref>。SS将官の中には襟の縁取りにシルバーグレーのパイピングを入れている者もいるが、これは特にSSで規定していたわけではなく個人の好みで行われたようである<ref name="菊月(2002)231">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.231]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 183-H15390, Berlin, Kaserne der LSSAH, Vergatterung.jpg|黒服オーバーコートを着用する[[第1SS装甲師団|LSSAH]]隊員。 |
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File:Bundesarchiv Bild 102-18083, Joachim von Ribbentrop.jpg|将官用の黒服オーバーコート。SS名誉中将[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]] |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-AhrensH-093-15, Russland, I. SS-Infanterie-Brigade.jpg|フィールドグレーオーバーコートを着る[[第1SS歩兵師団]]([[:en:1 SS Infantry Brigade|en]])の将校たち。襟に毛皮を使っている者も確認できる。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Ege-235-02, Sylvester Stadler.jpg|1943年、フィールドグレーオーバーコートを着る[[ジルヴェスター・シュタドラー]]([[:de:Sylvester Stadler|de]])[[親衛隊中佐]](後に少将) |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Wiegand-013-02, Berlin, Offizier der Waffen-SS.jpg|将官用のフィールドグレーオーバーコート |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-112-08A, Wien, TFK-Schule, Krüger, Kaltenbrunner.jpg|将官用オーバーコートを着ている[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー|クリューガー]]SS大将と[[エルンスト・カルテンブルンナー|カルテンブルンナー]]SS中将(1941年ウィーン) |
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=== 全制帽の共通事項 === |
=== 全制帽の共通事項 === |
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==== 帽章のトーテンコップ ==== |
==== 帽章のトーテンコップ ==== |
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親衛隊の帽章は共通して「交叉する[[骨]]の上に[[髑髏]]」で知られる「[[トーテンコップ]]([[ドイツ語]]で[[髑髏]])」の[[徽章]]が入っていた。トーテンコップは、一見[[海賊旗]]の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々[[ドイツ]]や[[北欧]]・[[東欧]]地域では古来より用いられている[[徽章]]であり、親衛隊の帽章のトーテンコップのデザインは[[プロイセン王国]]時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている<ref name="ラムスデン41">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.41]]</ref>。「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある<ref name="武装SS全史I81"/>。当初親衛隊は下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、[[1934年]]に陸軍が |
親衛隊の帽章は共通して「交叉する[[骨]]の上に[[髑髏]]」で知られる「[[トーテンコップ]]([[ドイツ語]]で[[髑髏]])」の[[徽章]]が入っていた。トーテンコップは、一見[[海賊旗]]の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々[[ドイツ]]や[[北欧]]・[[東欧]]地域では古来より用いられている[[徽章]]であり、親衛隊の帽章のトーテンコップのデザインは[[プロイセン王国]]時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている<ref name="ラムスデン(1997)41">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.41]]</ref>。「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある<ref name="武装SS全史I81"/>。当初親衛隊は下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、[[1934年]]に陸軍が[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#戦車兵の軍服|戦車兵の軍服]]を制定してその襟章に同じくプロイセン時代からのトーテンコップを使用したため、混同されないよう親衛隊のトーテンコップの形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった<ref name="武装SS全史I81">[[#学研1|武装SS全史I、p.81]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)43">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.43]]</ref>。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。 |
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File:SS cap 3.jpg|トーテンコップの徽章付き制帽 |
File:SS cap 3.jpg|トーテンコップの徽章付き制帽 |
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File:SS Totenkopf.jpg|1934年からデザイン変更されたトーテンコップ。下顎が追加された。 |
File:SS Totenkopf.jpg|1934年からデザイン変更されたトーテンコップ。下顎が追加された。 |
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==== 鷲章 ==== |
==== 鷲章 ==== |
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[[1923年]]~[[1929年]]にかけては、親衛隊制帽の[[トーテンコップ]]の上には[[ドイツ帝国]]軍や[[ヴァイマル共和国軍]]と同様に[[円形章]](コカルデ)が入っていたが、[[1929年]]秋にナチスの鉤十字の上に羽を広げて留まる[[鷲 (紋章)|鷲]]をデザインした「鷲章」が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、[[ドイツ国防軍|国防軍]]も鷲章に変更されている)<ref name="ラムスデン40">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.40]]</ref>。この「羽を広げて留まる[[鷲 (紋章)|鷲]]」のデザインは古代[[ローマ帝国]]時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに[[1936年]]に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の羽が横に広くなった<ref name="ラムスデン40">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.40]]</ref>。 |
[[1923年]]~[[1929年]]にかけては、親衛隊制帽の[[トーテンコップ]]の上には[[ドイツ帝国]]軍や[[ヴァイマル共和国軍]]と同様に[[円形章]](コカルデ)が入っていたが、[[1929年]]秋にナチスの鉤十字の上に羽を広げて留まる[[鷲 (紋章)|鷲]]をデザインした「鷲章」が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、[[ドイツ国防軍|国防軍]]も鷲章に変更されている)<ref name="ラムスデン(1997)40">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.40]]</ref>。この「羽を広げて留まる[[鷲 (紋章)|鷲]]」のデザインは古代[[ローマ帝国]]時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに[[1936年]]に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の羽が横に広くなった<ref name="ラムスデン(1997)40">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.40]]</ref>。この新しいSS鷲章は[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#鷲章|陸軍の鷲章]]と似ているが、よく見ると若干デザインが異なっている。陸軍のは羽根の上端が一番長いが、SSの鷲章は羽根の中間部分が一番長くなっている<ref name="菊月(2002)232">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.232]]</ref><ref name="ダーマン(1998)30">[[#ダーマン(1998)|ダーマン(1998)、p.30]]</ref>。 |
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File:NSDAP eagle (early).gif|1936年まで親衛隊制帽に付けられていた鷲章。 |
File:NSDAP eagle (early).gif|1936年まで親衛隊制帽に付けられていた鷲章。 |
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File:SS Eagle 1936-45.gif|1936年からデザイン変更された鷲章。 |
File:SS Eagle 1936-45.gif|1936年からデザイン変更された鷲章。 |
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=== 制帽の種類 === |
=== 制帽の種類 === |
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==== 一般制帽 ==== |
==== 一般制帽 ==== |
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一般制帽は将校用と兵・下士官用で顎紐が異なった。将校はアルミモールの顎紐を使用し、兵士・下士官は革の物を使用した<ref name="菊月(2002)114">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.114]]</ref>。制帽の縁取りの色は[[親衛隊大佐|大佐]]までの階級の者は白、[[親衛隊上級大佐|准将]]以上の階級の者は銀を使用した<ref name="菊月(2002)114"/>。1940年5月にはこの縁取りの色を兵科色にするようにとの命令が出されたが、同年12月には白・銀に戻すよう再命令が下された。しかしこの命令に従わない者が多く、兵科色の縁取りがなされた一般制帽がその後も広く使用され続けたという<ref name="菊月(2002)114"/>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 192-035, KZ Mauthausen, SS-Scharführer.jpg|髑髏部隊のSS軍曹。下士官兵士用一般制帽。 |
File:Bundesarchiv Bild 192-035, KZ Mauthausen, SS-Scharführer.jpg|髑髏部隊のSS軍曹。下士官兵士用一般制帽。 |
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File:Bundesarchiv Bild 146-1984-101-05A, Otto Weidinger.jpg|[[第2SS装甲師団]]「ダス・ライヒ」の将校[[オットー・ヴァイディンガー]]([[:de:Otto Weidinger|de]])SS少佐(後に中佐)。将校用一般制帽。 |
File:Bundesarchiv Bild 146-1984-101-05A, Otto Weidinger.jpg|[[第2SS装甲師団]]「ダス・ライヒ」の将校[[オットー・ヴァイディンガー]]([[:de:Otto Weidinger|de]])SS少佐(後に中佐)。将校用一般制帽。 |
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File:Bundesarchiv Bild 146-2008-0276, Hans Heinrich Lammers.jpg|SS名誉 |
File:Bundesarchiv Bild 146-2008-0276, Hans Heinrich Lammers.jpg|SS名誉中将(後に大将)[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]。将校用一般制帽。 |
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File:Bundesarchiv Bild 183-2007-1010-500, Werner Lorenz.jpg|1936年以前の鷲章と1934年以前のトーテンコプフを付けているSS |
File:Bundesarchiv Bild 183-2007-1010-500, Werner Lorenz.jpg|1936年以前の鷲章と1934年以前のトーテンコプフを付けているSS中将(後に大将)[[ヴェルナー・ローレンツ]]。 |
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====クラッシュキャップ==== |
====クラッシュキャップ==== |
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[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#クラッシュキャップ|陸軍と同様]]に武装SSでも制帽の代わりとしてクラッシュキャップが使用された。クラッシュキャップはコレクターたちの間での俗称であり、正式名称は野戦帽(Feldmütze)という(後に支給を廃されたので旧式野戦帽という)<ref name="スティーブン(1993)12">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.12]]</ref>。 |
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一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためにワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。つばには布でできている物と革でできている物があり、主に兵士や下士官クラスがつばが布の物をかぶり、将校クラスが革の物を使用した。持ち運びに楽であるため、前線の将兵たちに人気が高く、多くの武装親衛隊員がこれをかぶっている。独自にオーダーメイドする者も多かったので様々な種類がある<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。 |
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一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためのワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。髑髏と鷲章は機械織りの刺繍であることが多かったが、金属製である場合もあった<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。旧式野戦帽のつばは革製であるが、SSでは1938年に「SS下士官用野戦帽(Feldmütze für Unterführer)」を制定しており、これはつばが革ではなく布だった。この影響で将校でもつばが布の物を使う者がいた<ref name="スティーブン(1993)35">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.35]]</ref><ref name="山下(2010)324">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.324]]</ref>。 |
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陸軍ではクラッシュキャップは1938年に支給を廃されているが<ref name="ラガルド(1996)75">[[#ラガルド(1996)|ド・ラガルド(1996)、p.75]]</ref>、武装SSでは1940年前後に支給を廃されたとみられる<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。しかし持ち運びに楽であるため、支給を廃された後も多くの前線の武装SS将兵がオーダーメイドしてかぶっていた<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。オーダーメイドを惜しんで一般制帽からワイヤーの支えを取り除くなどしてクラッシュキャップ風に改造している例も見られる<ref name="スティーブン(1993)12">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.12]]</ref> |
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File:Bundesarchiv Bild 192-124, KZ Mauthausen, unbekannter SS-Mann.jpg|クラッシュキャップをかぶる髑髏部隊SS上等兵。つばが布。 |
File:Bundesarchiv Bild 192-124, KZ Mauthausen, unbekannter SS-Mann.jpg|クラッシュキャップをかぶる髑髏部隊SS上等兵。つばが布。 |
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File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7581.JPG|2009年8月10日、ポーランドでの[[ワルシャワ蜂起]]の再現イベント。クラッシュキャップをかぶる武装SS将校役。つばが革。 |
File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7581.JPG|2009年8月10日、ポーランドでの[[ワルシャワ蜂起]]の再現イベント。クラッシュキャップをかぶる武装SS将校役。つばが革。 |
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==== 略帽 ==== |
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制帽の代わりに用いられた略帽である。正式名称はクラッシュキャップと同じく野戦帽(Feldmütze)である。船のような形なので「小舟(Schiffchen)」という愛称があった<ref name="山下(2010)324">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.324]]</ref><ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。日本では一般に略帽と呼ばれている<ref name="山下(2010)324">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.324]]</ref>。 |
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武装SSの略帽は[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#略帽|陸軍の略帽]]よりも[[軍服 (ドイツ国防軍空軍)#略帽|空軍の略帽]]に近い形状だった。折り返し部分の前部をえぐったような陸軍型フォームではなく、流れるような空軍型フォームであった<ref name="ダーマン(1998)31">[[#ダーマン(1998)|ダーマン(1998)、p.31]]</ref><ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。 |
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==== 舟型帽 ==== |
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船のような形なので舟型帽(Schiffchen)と呼ばれた<ref name="山下324">[[#山下|山下、p.324]]</ref><ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。1937年に採用された旧型(鷲章は左横、正面に髑髏のボタン)と1940年に採用された新型(鷲章・ボタンではない髑髏帽章を正面につける)がある<ref>[[#山下|山下、p.324-325]]</ref>。 |
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武装SSの略帽には1937年に採用された旧型(鷲章は左横、正面に髑髏のボタン)と1940年に採用された新型(鷲章・ボタンではない髑髏帽章を正面につける)がある<ref>[[#山下(2010)|山下(2010)、p.324-325]]</ref>。 |
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1943年以降は下記の規格野戦帽に取って代わられた<ref name="スティーブン(1993)9">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.9]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild |
File:Bundesarchiv Bild 183-J12781, Ernst Häussler.jpg|略帽([[エルンスト・ヘウスラー]]([[:de:Ernst Häussler|de]])[[親衛隊少佐|SS少佐]]) |
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File:Hjalmar Mäe welcomes soldiers of 20th Waffen-SS Division 1944.jpg| |
File:Hjalmar Mäe welcomes soldiers of 20th Waffen-SS Division 1944.jpg|略帽をかぶる第20SS武装擲弾兵師団のSS兵士たち。 |
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File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7568.JPG|2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。 |
File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7568.JPG|2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。略帽をかぶる武装SS兵役。 |
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==== 規格帽 ==== |
==== 規格帽 ==== |
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規格帽 |
陸軍、空軍、SSで規格が異なっていた略帽を統一するため、1943年6月11日に統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)が制定された<ref name="プレス(1980)6">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.6]]</ref>。この帽子は日本では一般に規格帽と呼ばれている<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる<ref name="プレス(1980)32">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.32]]</ref>。 |
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SSでは1943年10月1月にこれが採用された<ref name="照井(1998)59">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.59]]</ref>。[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#規格帽|陸軍の物]]とほぼ同じだが、折り返しを止める前部のボタンが陸軍の規格帽は二個ボタンのみなのに対して、武装SSの規格帽には一個ボタンの物も存在した。また武装SSの規格帽には鷲章が真横についている物もあった<ref name="武装SS全史I91">[[#学研1|武装SS全史I、p.91]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101I-720-0329-10, Frankreich, Waffen-SS-Mann an Fernglas.jpg|規格帽をかぶる武装SSの偵察兵。ボタンが一個。 |
File:Bundesarchiv Bild 101I-720-0329-10, Frankreich, Waffen-SS-Mann an Fernglas.jpg|規格帽をかぶる武装SSの偵察兵。ボタンが一個。 |
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File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7554.JPG|2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。規格帽をかぶる武装SS兵役。ボタンが二個で真横に鷲章 |
File:20090807 09 warszawa 44 reenactment IMG 7554.JPG|2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。規格帽をかぶる武装SS兵役。ボタンが二個で真横に鷲章 |
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==== 迷彩帽 ==== |
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1942年6月1日に制定された迷彩柄のバイザー付きの帽子。この帽子は武装SS独自のものである。夏季迷彩と春季迷彩の二種類がある。迷彩効果最優先のこの帽子には鷲章や髑髏などは付けないはずだったが、一時的に徽章を入れるよう命令が下された時期もあった。この命令は後に撤回されているが、付け続ける将兵も多かったという<ref name="菊月(2002)116">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.116]]</ref><ref name="照井(1998)63">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.63]]</ref> |
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File:Bundesarchiv Bild 146-1984-035-09A, Frankreich, Männer der Waffen-SS mit EK.jpg|左右両端の兵士が迷彩帽をかぶっている |
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====フェズ帽==== |
====フェズ帽==== |
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[[フェズ (帽子)|フェズ]]とは[[中東]]の伝統的帽子。[[ムスリム]]の兵士が多い[[第13SS武装山岳師団]]と[[第23SS武装山岳師団]]でのみ着用が許されていた<ref name="ラムスデン114">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.114]]</ref>。鷲章とトーテンコップの入っていた。将校は赤いフェズ帽を |
[[フェズ (帽子)|フェズ]]とは[[中東]]の伝統的帽子。[[ムスリム]]の兵士が多い[[第13SS武装山岳師団]]と[[第23SS武装山岳師団]]でのみ着用が許されていた<ref name="ラムスデン(1997)114">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.114]]</ref>。鷲章とトーテンコップの入っていた。兵士下士官はモス・グリーン、将校は赤いフェズ帽をかぶった<ref name="フォステン(1972)107">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.107]]</ref><ref name="菊月(2002)131">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.131]]</ref>。また赤いフェズ帽は礼装用でもあった<ref name="照井(1998)63">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.63]]</ref><ref name="菊月(2002)101">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.101]]</ref>。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Mielke-036-23, Waffen-SS, 13. Gebirgs-Div. "Handschar".jpg|フェズ帽をかぶる兵士たち |
File:Bundesarchiv Bild 101III-Mielke-036-23, Waffen-SS, 13. Gebirgs-Div. "Handschar".jpg|フェズ帽をかぶる兵士たち |
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== シュタールヘルム(鉄兜) == |
== シュタールヘルム(鉄兜) == |
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ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは陸軍の物と同じ物を使った<ref name="武装SS全史I119">[[#学研1|武装SS全史I、p.119]]</ref>。貼りつける[[デカール]]だけSSと陸軍で異なった。陸軍のシュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する<ref name="武装SS全史I119"/>。た |
ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは[[軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#シュタールヘルム(鉄兜)|陸軍の物]]と同じ物を使った<ref name="武装SS全史I119">[[#学研1|武装SS全史I、p.119]]</ref>。貼りつける[[デカール]]だけSSと陸軍で異なった。陸軍のシュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する<ref name="武装SS全史I119"/>。1936年からSS特務部隊に35年型が支給されるようになった<ref name="菊月(2002)112">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.112]]</ref>。それ以前のSSのシュタールヘルムは主に一次大戦時代の物やSS国家主計局で作った物が使用されていた<ref name="菊月(2002)112">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.112]]</ref>。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという<ref name="プレス(1980)23"/>。 |
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1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質が[[モリブデン]]鋼から[[シリコマンガン|マンガン・シリコン]]鋼に変更された<ref name="プレス(1980)23"/>。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった<ref name="プレス(1980)23"/><ref name="武装SS全史I119"/>。3つのシュタールヘルムの違いについては[http://steiner.web.fc2.com/uni/m/st03/st03.html ここ]が詳しい。 |
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SSの鉄兜ははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左に[[ハーケンクロイツ]]のナチ党旗のデカールが貼られていたが、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、急速に見られなくなった<ref name="スティーブン39">[[#スティーブン|スティーブンとアモーディオ、p.39]]</ref>。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた<ref>[[#フォステン|フォステン、p.107-108]]</ref>。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた<ref name="スティーブン39"/>。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる<ref name="武装SS全史I119">[[#学研1|武装SS全史I、p.119 |
SSの鉄兜ははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左に[[ハーケンクロイツ]]のナチ党旗のデカールが貼られていたが、迷彩効果のうえで問題があり、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、以降は急速に見られなくなった<ref name="スティーブン(1993)39">[[#スティーブン(1993)|スティーブンとアモーディオ(1993)、p.39]]</ref><ref name="菊月(2002)112">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.112]]</ref>。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた<ref>[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.107-108]]</ref>。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた<ref name="スティーブン(1993)39"/>。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる<ref name="武装SS全史I119">[[#学研1|武装SS全史I、p.119]]</ref>。 |
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File:Helmet-Decal-SS.jpg| |
File:Helmet-Decal-SS.jpg|シュタールヘルムの右側に入れるSSの[[デカール]]。1943年11月に廃されたが、その後も使用されることが多かった。 |
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File:Gammé2.png|シュタールヘルムの左側に入れるナチス党旗のデカール。1940年3月に廃され、その後は急速に消えた。 |
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File:20080906 sieczychy IMG 5385.jpg|SSのデカールが入ったシュタールヘルム(2008年) |
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File:Bundesarchiv Bild 192-102, KZ Mauthausen, SS-Untersturmführer.jpg|鉄兜を被るマウトハウゼン強制収容所のSS少尉。ナチ党旗のデカールが見える |
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File:Bój o Kołobrzeg 2010-30.JPG|ナチ党旗のデカールが入ったシュタールヘルム(2010年) |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-159-08, Fritz Rentrop.jpg|35年型鉄兜をかぶる[[フリッツ・レントロップ]]SS中尉([[:en:Fritz Rentrop|en]])。 |
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File:Bundesarchiv Bild |
File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-159-08, Fritz Rentrop.jpg|SSのデカールが入ったシュタールヘルムをかぶる[[フリッツ・レントロップ]]SS中尉([[:en:Fritz Rentrop|en]])。 |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Lerche Stereo-046-03, Metz, Sepp Dietrich bei Ordensverleihung.jpg|ナチ党旗のデカールが入ったシュタールヘルム(1940年6月、[[フランス]]・[[メス (フランス)|メス]]) |
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File:Bundesarchiv Bild 101III-Adendorf-009-14, Russland, SS-Rundfunkberichter bei Aufnahme.jpg|1942年、[[東部戦線 (第二次世界大戦)|ロシア戦線]]の武装SS兵。 |
File:Bundesarchiv Bild 101III-Adendorf-009-14, Russland, SS-Rundfunkberichter bei Aufnahme.jpg|1942年、[[東部戦線 (第二次世界大戦)|ロシア戦線]]の武装SS兵。 |
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{{Main|親衛隊階級}} |
{{Main|親衛隊階級}} |
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=== 襟章 === |
=== 襟章 === |
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[[襟章]]は[[親衛隊大佐]]以上と[[親衛隊中佐]]以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した<ref name="フォステン111">[[#フォステン|フォステン、p.111]]</ref>。 |
[[襟章]]は[[親衛隊大佐]]以上と[[親衛隊中佐]]以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した<ref name="フォステン(1972)111">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.111]]</ref>。 |
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たとえば右襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している<ref name="山下49">[[#山下|山下、p.49]]</ref>。右襟章が無地の場合は技術専門職、あるいは司令部の要員であることを意味している<ref name="ラムスデン174">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.174]]</ref>。トーテンコプフ(髑髏)の右襟章ならば[[親衛隊髑髏部隊]]、[[第3SS装甲師団|トーテンコプフ師団]]、強制収容所所員などであることを示す<ref name="ラムスデン174">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.174]]</ref>。SSのルーン文字の右襟章をよく見かけるが、これは他の右襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた襟章である<ref name="ラムスデン174">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.174]]</ref>。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の右襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団かばれないようにという防諜上の理由であるという<ref name="ラムスデン176">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.176]]</ref>。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の右襟章を使い続けた。 |
たとえば右襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している<ref name="山下(2010)49">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.49]]</ref>。右襟章が無地の場合は技術専門職、あるいは司令部の要員であることを意味している<ref name="ラムスデン(1997)174">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.174]]</ref>。トーテンコプフ(髑髏)の右襟章ならば[[親衛隊髑髏部隊]]、[[第3SS装甲師団|トーテンコプフ師団]]、強制収容所所員などであることを示す<ref name="ラムスデン(1997)174">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.174]]</ref>。SSのルーン文字の右襟章をよく見かけるが、これは他の右襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた襟章である<ref name="ラムスデン(1997)174">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.174]]</ref>。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の右襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団かばれないようにという防諜上の理由であるという<ref name="ラムスデン(1997)176">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.176]]</ref>。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の右襟章を使い続けた。 |
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階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星と線で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の[[肩章]]を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。しかし結局ヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした<ref name="ラムスデン176">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.176]]</ref>。なお迷彩服用の階級章も存在していた<ref name="フォステン120">[[#フォステン|フォステン、p.120]]</ref><ref name="ラムスデン147">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.147]]</ref>。 |
階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星と線で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の[[肩章]]を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。しかし結局ヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした<ref name="ラムスデン(1997)176">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.176]]</ref>。なお迷彩服用の階級章も存在していた<ref name="フォステン(1972)120">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.120]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)147">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.147]]</ref>。 |
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SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは[[親衛隊階級]]の項を参照のこと。 |
SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは[[親衛隊階級]]の項を参照のこと。 |
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=== 肩章 === |
=== 肩章 === |
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「黒服」の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服は両肩に肩章がついており、また一般SSのグレーの制服も両肩に肩章を付けていた<ref name="ラムスデン179">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.179]]</ref>。 |
「黒服」の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服は両肩に肩章がついており、また一般SSのグレーの制服も両肩に肩章を付けていた<ref name="ラムスデン(1997)179">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.179]]</ref>。 |
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しかしもともとSSの肩章は階級を示す物ではなく、階級は襟章で示した<ref name="ラムスデン179">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.179]]</ref>。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった<ref name="ラムスデン69">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.69]]</ref>。ところが1938年3月にはSS特務部隊(武装SS)では陸軍型の肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった<ref name="ラムスデン179">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.179]]</ref>。一般SSはそれまで通り襟章だけで階級を示した。 |
しかしもともとSSの肩章は階級を示す物ではなく、階級は襟章で示した<ref name="ラムスデン(1997)179">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.179]]</ref>。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった<ref name="ラムスデン(1997)69">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.69]]</ref>。ところが1938年3月にはSS特務部隊(武装SS)では陸軍型の肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった<ref name="ラムスデン(1997)179">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.179]]</ref>。一般SSはそれまで通り襟章だけで階級を示した。 |
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将校の肩章は金属糸が織り込まれた表面部分と黒い肩章の土台の間に兵科色のパイピングを施した<ref name="ラムスデン178">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.178]]</ref>。同じ将校の肩章でも表面のデザインは佐官と尉官で大きく異なる<ref name="プレス47">[[#プレス|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.47]]</ref>。 |
将校の肩章は金属糸が織り込まれた表面部分と黒い肩章の土台の間に兵科色のパイピングを施した<ref name="ラムスデン(1997)178">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.178]]</ref>。同じ将校の肩章でも表面のデザインは佐官と尉官で大きく異なる<ref name="プレス(1980)47">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.47]]</ref>。 |
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下士官兵用の肩章は先端が丸く、兵科色でパイピングした黒色の肩章を使った<ref name="ラムスデン179">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.179]]</ref>。 |
下士官兵用の肩章は先端が丸く、兵科色でパイピングした黒色の肩章を使った<ref name="ラムスデン(1997)179">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.179]]</ref>。 |
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肩章のデザインと星の数で階級が分かるようになっていた<ref name="プレス47">[[#プレス|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.47]]</ref>。また肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された<ref>[[#ラムスデン|ラムスデン、p.179-181]]</ref>。 |
肩章のデザインと星の数で階級が分かるようになっていた<ref name="プレス(1980)47">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.47]]</ref>。また肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された<ref>[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.179-181]]</ref>。 |
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File:Shoulder-wss-ill-hauptscharf.jpg|黄色のパイピングがなされた下士官・兵卒用の肩章。黄色は騎兵科であることを示す<ref name="プレス48">[[#プレス|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.48]]</ref><ref name="ラムスデン170">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.170]]</ref>。また星の数から[[親衛隊上級曹長]]である事が分かる。 |
File:Shoulder-wss-ill-hauptscharf.jpg|黄色のパイピングがなされた下士官・兵卒用の肩章。黄色は騎兵科であることを示す<ref name="プレス(1980)48">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.48]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)170">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.170]]</ref>。また星の数から[[親衛隊上級曹長]]である事が分かる。 |
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File:Shoulder-wss-ill-obersturmf.jpg|水色のパイピングがなされた尉官の肩章。水色は管理官であることを示す<ref name="プレス48"/><ref name="ラムスデン170"/>。また星の数から[[親衛隊中尉]]である事が分かる。 |
File:Shoulder-wss-ill-obersturmf.jpg|水色のパイピングがなされた尉官の肩章。水色は管理官であることを示す<ref name="プレス(1980)48"/><ref name="ラムスデン(1997)170"/>。また星の数から[[親衛隊中尉]]である事が分かる。 |
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File:Shoulder-wss-ill-sturmbannf.jpg|白色のパイピングがなされた佐官の肩章。白色は歩兵科であることを示す<ref name="プレス48"/><ref name="ラムスデン170"/>。また星がないため[[親衛隊少佐]]である事が分かる |
File:Shoulder-wss-ill-sturmbannf.jpg|白色のパイピングがなされた佐官の肩章。白色は歩兵科であることを示す<ref name="プレス(1980)48"/><ref name="ラムスデン(1997)170"/>。また星がないため[[親衛隊少佐]]である事が分かる |
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File:Shoulder-wss-ill-oberstgr.jpg|金色と灰色の金属糸が編み込まれた表面の将官用肩章。星の数から[[親衛隊上級大将]]の肩章と分かる。 |
File:Shoulder-wss-ill-oberstgr.jpg|金色と灰色の金属糸が編み込まれた表面の将官用肩章。星の数から[[親衛隊上級大将]]の肩章と分かる。 |
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SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(Ärmelstreifen)という<ref name="武装SS全史I82">[[#学研1|武装SS全史I、p.82]]</ref>。 |
SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(Ärmelstreifen)という<ref name="武装SS全史I82">[[#学研1|武装SS全史I、p.82]]</ref>。 |
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SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い<ref name="ラムスデン183">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.183]]</ref>。陸軍も[[グロースドイッチュラント師団]]など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた<ref name="武装SS全史I82">[[#学研1|武装SS全史I、p.82]]</ref>。 |
SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い<ref name="ラムスデン(1997)183">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.183]]</ref>。陸軍も[[グロースドイッチュラント師団]]など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた<ref name="武装SS全史I82">[[#学研1|武装SS全史I、p.82]]</ref>。 |
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カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、[[親衛隊地区]]などの名が書かれていた<ref name="フォステン125">[[#フォステン|フォステン、p.125]]</ref><ref name="山下308">[[#山下|山下、p.308]]</ref><ref name="ラムスデン184">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.184]]</ref>。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した<ref name="山下49">[[#山下|山下、p.49]]</ref>。なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された<ref name="山下53">[[#山下|山下、p.53]]</ref>。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた<ref name="ラムスデン185">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.185]]</ref>。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる<ref name="フォステン125">[[#フォステン|フォステン、p.125]]</ref>。 |
カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、[[親衛隊地区]]などの名が書かれていた<ref name="フォステン(1972)125">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.125]]</ref><ref name="山下(2010)308">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.308]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)184">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.184]]</ref>。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した<ref name="山下(2010)49">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.49]]</ref>。なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された<ref name="山下(2010)53">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.53]]</ref>。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた<ref name="ラムスデン(1997)185">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.185]]</ref>。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる<ref name="フォステン(1972)125">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.125]]</ref>。 |
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[[親衛隊名誉指導者]]などにも独自のカフタイトルがあった<ref name="山下53">[[#山下|山下、p.53]]</ref>。なお[[親衛隊全国指導者]](Reichsführer-SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]の幕僚であることを表す<ref name="フォステン125">[[#フォステン|フォステン、p.125]]</ref>。「Reichsführer-SS」のカフタイトルも存在するが、これは[[第16SS装甲擲弾兵師団|第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsführer-SS」]]の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である<ref name="山下228">[[#山下|山下、p.228]]</ref>。 |
[[親衛隊名誉指導者]]などにも独自のカフタイトルがあった<ref name="山下(2010)53">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.53]]</ref>。なお[[親衛隊全国指導者]](Reichsführer-SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]の幕僚であることを表す<ref name="フォステン(1972)125">[[#フォステン(1972)|フォステン(1972)、p.125]]</ref>。「Reichsführer-SS」のカフタイトルも存在するが、これは[[第16SS装甲擲弾兵師団|第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsführer-SS」]]の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である<ref name="山下(2010)228">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.228]]</ref>。 |
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戦争中にはカフタイトルの授与式はやけに厳かになった。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである<ref name="ラムスデン183">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.183]]</ref>。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い<ref name="ラムスデン183">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.183]]</ref>。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない<ref name="ラムスデン183">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.183]]</ref>。 |
戦争中にはカフタイトルの授与式はやけに厳かになった。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである<ref name="ラムスデン(1997)183">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.183]]</ref>。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い<ref name="ラムスデン(1997)183">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.183]]</ref>。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない<ref name="ラムスデン(1997)183">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.183]]</ref>。 |
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カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー]]」以外は初め[[ゴシック体]]で表記されていたが、後に[[標準ラテン字体]]に変更された<ref name="ラムスデン183">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.183]]</ref>。 |
カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー]]」以外は初め[[ゴシック体]]で表記されていたが、後に[[標準ラテン字体]]に変更された<ref name="ラムスデン(1997)183">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.183]]</ref>。 |
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=== 兵科色 === |
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SSは陸軍とは異なる独自の[[兵科色]](Waffen-farben)を使用した。主な兵科色は以下のとおりである<ref name="照井(1998)83">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.83]]</ref><ref name="プレス(1980)48">[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.48]]</ref>。 |
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{| class="wikitable" style="margin:0 auto" |
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| style = "background:white" |ホワイト:歩兵・装甲擲弾兵 |
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| style="background:#FF99CC" |ピンク:装甲・対戦車 |
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| Style ="background:red; color:white" |ブライトレッド:砲兵 |
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| style="background:#8B0000; color:white" |ダークレッド:獣医 |
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|- |
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| style ="background:orange"|オレンジ:憲兵 |
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| style="background:#Ffcf0f"|ゴールデンイエロー:騎兵 |
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| style="background:#00a068; color:white" |ライトグリーン:山岳猟兵 |
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| style="background:#006400; color:white" |ダークグリーン:予備将校 |
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| style="background:#CD853F; color:white" |ライトブラウン:強制収容所 |
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| style = "background:cornflowerblue; color:white;"|ライトブルー:輸送部隊 |
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| style ="background:#2C39Bf; color:white;"|コーンフラワーブルー:医療 |
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| Style = "background:black; color:white"|ブラック:工兵 |
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== その他の装備品 == |
== その他の装備品 == |
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=== ベルト === |
=== ベルト === |
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SSのベルトの[[バックル]]は、将校と下士官兵卒で異なった。将校は円形であり、下士官兵卒は四角形である<ref name="武装SS全史I84">[[#学研1|武装SS全史I、p.84]]</ref>。将校用も下士官兵卒用もバックルのデザインには国家鷲章が描かれ、その鷲章の周囲にSSのモットーである「[[忠誠こそ我が名誉]](Meine Ehre heißt Treue)」の文字が入っていた<ref name="武装SS全史I84">[[#学研1|武装SS全史I、p.84]]</ref>。なお警察のバックルは |
SSのベルトの[[バックル]]は、将校と下士官兵卒で異なった。将校は円形であり、下士官兵卒は四角形である<ref name="武装SS全史I84">[[#学研1|武装SS全史I、p.84]]</ref>。将校用も下士官兵卒用もバックルのデザインには国家鷲章が描かれ、その鷲章の周囲にSSのモットーである「[[忠誠こそ我が名誉]](Meine Ehre heißt Treue)」の文字が入っていた<ref name="ダーマン(1998)30"/><ref name="武装SS全史I84">[[#学研1|武装SS全史I、p.84]]</ref>。この言葉は1931年末にSSのモットーとして定められてベルトのバックルのデザインに採用された<ref name="ラムスデン(1977)55">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.55]]</ref>。 |
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なお陸軍や警察のバックルには「[[神は我らと共に]](Gott mit Uns)」という文字が入っていた<ref name="ラムスデン(1997)68">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.68]]</ref>。将校用の丸型バックルは外れやすく、戦場には不向きだったので陸軍将校がよく使用していたバックルのない茶色ベルトを使用する者が多かった<ref>[[#プレス(1980)|WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉、p.16-17]]</ref><ref name="菊月(2002)119">[[#菊月(2002)|菊月(2002)、p.119]]</ref>。 |
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File:Schnalle SS Meine Ehre heißt Treue. Vordere und hintere Blick.jpg|SSの下士官兵士用のベルトの[[バックル]]。 |
File:Schnalle SS Meine Ehre heißt Treue. Vordere und hintere Blick.jpg|SSの下士官兵士用のベルトの[[バックル]]。将校のは[http://www.ssrelics.net/UNIFORMS%20ASSETS/officers-belt/ub0055-01.jpg ここ]で見られる |
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File:Пряжка 822 38 SS "Meine Ehre heißt Treue".JPG|SSの下士官兵士用のベルトのバックル。 |
File:Пряжка 822 38 SS "Meine Ehre heißt Treue".JPG|SSの下士官兵士用のベルトのバックル。 |
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=== SS短剣 === |
=== SS短剣 === |
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[[親衛隊短剣|SSの短剣]](Dienstdolch)は、1933年12月に制定された<ref name="ラムスデン77">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.77]]</ref><ref name="山下310">[[#山下|山下、p.310]]</ref>。黒い鞘と柄の短剣で、刀身にはSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が刻まれていた<ref name="ラムスデン77">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.77]]</ref>。 |
[[親衛隊短剣|SSの短剣]](Dienstdolch)は、1933年12月に制定された<ref name="ラムスデン(1997)77">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.77]]</ref><ref name="山下(2010)310">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.310]]</ref>。黒い鞘と柄の短剣で、刀身にはSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が刻まれていた<ref name="ラムスデン(1997)77">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.77]]</ref>。[[#黒服|黒服]]や黒服のコート、「[[#黒服以前の初期の制服|伝統の制服]]」の着用時に帯刀した<ref name="照井(1998)69">[[#照井(1998)|照井(1998)、p.69]]</ref>。 |
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名誉短剣も三種類存在する。1934年2月に[[突撃隊|SA]]幕僚長[[エルンスト・レーム]]が古参SS隊員9900人に授与した「レーム短剣」、1934年7月以降にヒムラーがSA粛清の功績者に与えた「ヒムラー短剣」、1936年に制定されたSS高官の誕生日に授与する「誕生日短剣」である<ref name="山下312">[[#山下|山下、p.312]]</ref> |
これは新規隊員全員に授与された(ただし自己負担)<ref name="ラムスデン(1997)77">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.77]]</ref><ref name="山下(2010)310">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.310]]</ref>。一方1936年には鎖付きになった1936年版短剣が製造された。これは隊員のうち所持希望者が独自に購入する物だったが、買う者はあまりいなかったという<ref name="山下(2010)310">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.310]]</ref>。名誉短剣も三種類存在する。1934年2月に[[突撃隊|SA]]幕僚長[[エルンスト・レーム]]が古参SS隊員9900人に授与した「レーム短剣」、1934年7月以降にヒムラーがSA粛清の功績者に与えた「ヒムラー短剣」、1936年に制定されたSS高官の誕生日に授与する「誕生日短剣」である<ref name="山下(2010)312">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.312]]</ref>。 |
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=== SS長剣 === |
=== SS長剣 === |
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{{main|親衛隊全国指導者名誉長剣}} |
{{main|親衛隊全国指導者名誉長剣}} |
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1933年以降、SSの将校と下士官は陸軍と同型のサーベルを自費で購入して帯刀することを許可された。1936年にSSと警察専用の長剣が作成され、下士官以上ならばいつでも購入できるようになった<ref name="ラムスデン84">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.84]]</ref>。 |
1933年以降、SSの将校と下士官は陸軍と同型のサーベルを自費で購入して帯刀することを許可された。1936年にSSと警察専用の長剣が作成され、下士官以上ならばいつでも購入できるようになった<ref name="ラムスデン(1997)84">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.84]]</ref>。 |
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名誉長剣も存在する。士官学校卒業生やヒムラーが選んだ将校に送る[[親衛隊全国指導者名誉長剣]]とSS高官の誕生日にヒムラーが個人的に贈る誕生日長剣である<ref name="ラムスデン85">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.85]]</ref>。 |
名誉長剣も存在する。士官学校卒業生やヒムラーが選んだ将校に送る[[親衛隊全国指導者名誉長剣]]とSS高官の誕生日にヒムラーが個人的に贈る誕生日長剣である<ref name="ラムスデン(1997)85">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.85]]</ref>。 |
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親衛隊全国指導者名誉長剣の写真は[http://www2c.biglobe.ne.jp/~wiking/NASSCK1.htm ここ]や[http://www.germanbunker.pl/bron%20biala/szpada%20oficerska%20SS%201/szpadaoficerskaSS1.html ここ]で見られる。 |
親衛隊全国指導者名誉長剣の写真は[http://www2c.biglobe.ne.jp/~wiking/NASSCK1.htm ここ]や[http://www.germanbunker.pl/bron%20biala/szpada%20oficerska%20SS%201/szpadaoficerskaSS1.html ここ]で見られる。 |
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File:HimmlerAndHeydrich 1938.jpeg|名誉長剣を帯刀しているヒムラーと[[ラインハルト・ハイドリヒ|ハイドリヒ]]SS中将 |
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=== SS髑髏リング === |
=== SS髑髏リング === |
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{{main|親衛隊名誉リング}} |
{{main|親衛隊名誉リング}} |
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1934年4月に制定された髑髏をかたどった指輪。正式名称は親衛隊名誉リングという。始めは古参党員用の指輪だったが、後に基準が緩められて3年以上SSに勤務した将校は事実上だれでも持てるようになった<ref name="ラムスデン87">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.87]]</ref>。左手薬指にはめる事を定められていた<ref name="ラムスデン87"/>。 |
1934年4月に制定された髑髏をかたどった指輪。正式名称は親衛隊名誉リングという。始めは古参党員用の指輪だったが、後に基準が緩められて3年以上SSに勤務した将校は事実上だれでも持てるようになった<ref name="ラムスデン(1997)87">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.87]]</ref>。左手薬指にはめる事を定められていた<ref name="ラムスデン(1997)87"/>。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|year= |
*{{Cite book|和書|year=[[2007年]]|author=[[ゴードン・ウィリアムソン]]|translator=[[平田光夫]]|title=第二次大戦のドイツ軍婦人補助部隊|publisher=[[大日本絵画]]|series=オスプレイ・ミリタリー・シリーズ|isbn=978-4499229401|ref=ウィリアムソン(2007)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[菊月俊之]]|year=[[2002年]]|title=ドイツ軍ユニフォーム&個人装備マニュアル|publisher=[[グリーンアロー出版社]]|isbn=978-4766333398|ref=菊月(2002)}} |
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|title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー(1993)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[照井好洋]]|year=[[1998年]]|title=SSの軍装 <small>UNIFORMS OF THE SS 1938‐1945</small>|publisher=大日本絵画|isbn=978-4499226875|ref=照井(1998)}} |
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*{{Cite book|和書|year=1996|author=[[ジャン・ド・ラガルド]]|translator=アルバン編集部|title=第2次大戦ドイツ兵軍装ガイド|publisher=[[アルバン]]|series=ミリタリー・ユニフォーム4|isbn=978-4890630899|ref=ラガルド(1996)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=[[2010年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=[[2011年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスの群像</small> 上巻|publisher=[[ホビージャパン]]|isbn=978-4798602035|ref=山下(2011)上}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ロビン・ラムスデン]]([[:en:Robin Lumsden|en]])|translator=[[知野龍太]]|year=[[1997年]]|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[1980年]]|title=WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉|publisher=[[ワールドフォトプレス]]|series=Wild Mook 39|asin=B000J8APY4|ref=プレス(1980)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}} |
*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}} |
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}} |
*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}} |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 関連項目 == |
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*[[軍服_(ドイツ国防軍陸軍)]] |
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*[[軍服_(ドイツ国防軍海軍)]] |
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*[[軍服_(ドイツ国防軍空軍)]] |
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*[[制服_(ドイツ秩序警察)]] |
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*[[制服_(ナチ党)]] |
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*[[制服_(ナチス突撃隊)]] |
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{{Good article}} |
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{{DEFAULTSORT:なちすしんえいたいのせいふく}} |
{{DEFAULTSORT:なちすしんえいたいのせいふく}} |
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[[Category:ナチ親衛隊|せいふく]] |
[[Category:ナチス親衛隊|せいふく]] |
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[[Category:軍服|なちすしんえいたい]] |
[[Category:軍服 (ドイツ)|なちすしんえいたい]] |
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[[de:Uniformen der SS]] |
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[[en:Uniforms and insignia of the Schutzstaffel]] |
[[en:Uniforms and insignia of the Schutzstaffel]] |
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[[es:Uniforme de las SS]] |
2011年9月1日 (木) 22:31時点における版
本稿ではドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(以下SS)の制服について記述する。
勤務服
黒服以前の初期の制服
ナチスの最初の準軍事組織である突撃隊(SA)は褐色で統一されたシャツとネクタイ、ズボン、ケピ帽を制服として使用していた。
親衛隊(SS)は1925年4月に結成されたが、1932年までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツはSAと同じで褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を使っていた。またハーケンクロイツの腕章に上下に黒のストライプを入れることでSAと差別化を図った[1][2]。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽にトーテンコップ(髑髏)の徽章を入れていることがある[3][2]。
1926年11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための襟章を導入[3][2]。これに倣ってSSも1929年8月に襟章を導入した。SAは所属する部隊を示す方法として襟章に様々な色を設けていたが、SSの襟章は銀と黒で統一されていた。SSでは所属部隊は左腕の袖のところのカフタイトル(袖章)で示した[2]。SAと同様に襟周りや襟章の縁にパイピングを入れた。このパイピングは黒服以降の制服にも受け継がれたが、1940年には廃止された(しかし襟周りのパイピングは廃止後も使用されることも多かったという)[# 1]。
ただし黒服以前の制服は特に支給されておらず、各隊員が自前で揃えるものであった[5]。
黒服制定以降にはこの褐色シャツの制服は「伝統の制服(Traditionsanzug)」と呼ばれるようになり、ナチ党の式典などで着用されるようになった。ただ褐色シャツは基本的にSAの制服であり、この服を式典で着たがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけであったという。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーもこの服を好まず、彼は式典には黒服で出席していた[6]。
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警察官(左)とともにパトロールするベルリンの親衛隊員(右)。ナチ政権初期の1933年3月5日。黒服以前の親衛隊員の制服を着ている。
-
1933年、親衛隊員(左列)と突撃隊(右列)。
黒服
1932年7月7日に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な黒い勤務服(SS-Dienstrock Schwarz)が定められた[7][3][8][9][# 2]。
黒服のデザインをしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐カール・ディービッチュ(en)といわれるが[7][8]、これを疑う説もある[11]。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の第1近衛軽騎兵連隊(de)と第2近衛軽騎兵連隊(de)であるという[8][12]。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。
黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に黒いスーツを着用する。スーツの前ボタンは4つ付いており、開襟して着用する。ふた付きポケットが上下に2つずつ計4つあり、下ポケット2つは斜めになっていた[8][3]。肩章は右肩にのみ装着する。背部には腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割があるボタンが二つ付いており、ボタンから裾までひれのようなプリーツが入っている[13][14]。黒スーツの下に着るシャツは基本的に褐色のシャツだが、礼服として着用する場合には白いシャツを用いることも許可されていた。1938年頃からは日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになった[14]。
制帽はケピ帽から軍の制帽に似た物に変更された[8]。ただ黒服初期の制帽は第一次世界大戦のドイツ軍や戦後のヴァイマル共和国軍の軍帽の流れを組んでいたので、あまりトップが高くなく、潰れているような感じの物が多かった[3]。
下士官・兵士に支給する黒服はナチ党の「国家装備統制局」(Reichs Zeug Meisterei,略章RZM)と契約した民間企業の工場において製造されていた[7]。一方将校はRZM規格品をSS被服販売所で購入するか、オーダーメイドで仕立てる場合がほとんどであった[15][5]。上級隊員は1933年のうちには黒服を手に入れたが、下級隊員の間では1935年ぐらいまで黒服以前の褐色シャツ制服が黒服に混在して使用され続けたという[5]。
1939年6月27日以降には夏用に黒服と同じデザインで色だけ異なる「白服」が将校にのみ支給された[16]。着用期間は4月1日から9月30日までであった[16]。しかし白服はベルヒテスガーデンでの式典を除きほとんど着用されなかったという[17]。白服はここで見られる。
1935年に親衛隊特務部隊、続いて1936年に親衛隊髑髏部隊でアースブラウンの制服が導入され、さらに1937年には陸軍型のフィールドグレー野戦服が導入された。そのため特務部隊と髑髏部隊は日常制服としては黒服を着用しなくなった[9][18][19]。以降は一般SSだけが黒服を着用していたが、1938年に一般SSに常勤する隊員にフィールドグレーの新しい勤務服が導入されたため、彼らも日常制服としては黒服を使わなくなった[20][# 3]。以降の黒服は礼服としてのみ使用されるようになった[22]。
しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員にはフィールドグレー勤務服が支給されなかったので、彼らは日常制服としても黒服を使用し続けた。戦争がはじまると非常勤一般親衛隊員は続々と徴兵され、大幅に数が減少した。彼らの分の余剰になった黒服は徽章などを外して外国人SS部隊や占領地現地民による補助警察シューマ(de:Schutzmannschaft,略称Schuma)の隊員に支給された[23][24]。
戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという[20]。
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「黒服」のヒムラー。ダッハウ強制収容所視察中
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「黒服」のSS大将ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント
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SS大尉カール・リッター
フィールドグレーの勤務服
1938年からSSの本部(SS-Hauptamt, 国家保安本部、経済管理本部など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員にフィールドグレー勤務服(SS-Dienstrock Feldgrau)が支給された[24]。前述したが、一般SSでも非常勤隊員にはこのフィールドグレー勤務服は支給されなかった[20]。
基本的に黒服と同型だが、黒服が右肩にのみ肩章があるのに対してフィールドグレー勤務服は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった[20]。開襟で着用した武装SSのフィールドグレー野戦服とも似ているが、異なる点としてはこちらは黒服と同型なので前ボタンが4つで開襟での着用しかできず、また背部にベルト止めボタンが2つ付いている点である[25][14]。
一般SS常勤隊員には、支給制服を着る者、SS被服購買所などで自ら選んで買った制服を着る者、洋服店で仕立てさせた制服を着る者などがあった。武装SSと異なり、一般SSでは階級が低くてもお金に余裕があるなら自分で制服を仕立ててかまわなかった。逆に将官であっても裕福でない者などは支給品を着ている場合もあった[23]。SSは貴族・ブルジョワなど既存の上流階級に抵抗するいわば「革命勢力」であった。能力さえあれば家柄に関係なく出世できたので将官だからといって裕福であるとは限らなかったのである[23]。
戦時中には一般SSでも武装SSのフィールドグレーの野戦服を着用する者が増えた。特に占領地勤務者にそれが顕著だった[20]。
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一般SSのグレーの制服のイラスト。
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一般SSのグレーの制服を着るSS少将オットー・オーレンドルフ。
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マウトハウゼン強制収容所勤務のSS少尉。飾緒と礼装ベルトを付けており、礼服として着用している
武装SSの野戦服
SSの制服には「勤務服」(Dienstrock)と「野戦服」(Feldbluse)があり、武装SS(SS特務部隊)隊員には両方とも支給されていた[26]。「勤務服」については一般SSのものと同じである。「野戦服」が武装SSだけに支給される特別な制服である。SS特務部隊やSS髑髏部隊も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、派手すぎて戦場での作戦行動や強制収容所警備に不向きであったので野戦服が作られることになったのである[20]。
初期のアースグレーの支給野戦服
1935年初め、「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と特務部隊用にアースグレー色の野戦服が定められた(M35野戦服)[9][18][27]。形は基本的に黒服と同じだったが、前ボタンが黒服より1つ多い5つあり、詰襟で着ることができた[18]。ただし将校のは前ボタンが4つであり、開襟でしか着用できなかった[28]。
1936年3月には髑髏部隊にもアースブラウン色で同じ野戦服が日常勤務用として支給された[18][29][15]。
陸軍M36野戦服の影響からか、1936年になると部隊によっては襟をダークグリーンにしている物も見られるようになった(特にライプシュタンダルテの下士官兵士)[15]
フィールドグレーの支給野戦服
1937年にこの二つの野戦服が統一されてフィールドグレーの野戦服が制定され、特務部隊と髑髏部隊に支給された[9][18]。これはM37野戦服と呼ばれる[9][30]。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られたが、襟が制服と同じフィールドグレーである点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンであり、服と色が異なった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった[9][18][31]。詰襟でも開襟でも着る事が出来た[30]。ただ1940年ぐらいまでアースグレーの野戦服を着用している部隊もあったという[32]。
戦争がはじまり、武装SS隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量採用を余儀なくされた[13]。これにSSの徽章をつけた野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)[9][33]。陸軍M36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっていた[34]。SS被服工場[# 4]でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟をフィールドグレーにして製作していた[9]。
もともとSS被服工場はダッハウ強制収容所にしかなかったのだが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年にはSS被服生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を支給できるようになった[34]。1941年からSS被服工場で作られるようになったM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍野戦服流用品)と変わらなかったが、内装がだいぶ変わっていた[34]。さらに1942年になるとポケットのプリーツをなくしたM42野戦服が支給されるようになった[9][35]。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされたM43野戦服が支給されるようになった[9][36]。素材もウールの使用量が大幅に減らされて保温機能が悪化した[37]。
1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、記章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた[9]。これは極端に丈が短く、下ポケットが消滅している[38]。そのため、まるで英軍の野戦服「バトルドレス」(en)のようになってしまっている[39]。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという[38]。
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陸軍の物を流用したM40野戦服。左端の下士官は襟が濃く、それ隣の兵士たちは色が服と同色(1942年6月ロシア。ヴィーキング師団兵)
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M42野戦服を着る第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち。ポケットのプリーツが無くなっている。
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SDのSS伍長のM43野戦服。ポケットのプリーツが無く、ポケットの口もまっすぐになっている。素材も粗悪。
将校の野戦服
陸軍と同様に武装SSでも兵士・下士官は支給物、将校は独自にオーダーメイドした物を着用した[30][40]。そのために将校は被服手当を受けていた(SS将校の受けていた被服手当は陸軍将校より多額であった)[41]。
SS将校たちははじめ特務部隊のM35野戦服やM37野戦服と同型の野戦服を仕立てることが多かったが、やがて陸軍将校と同型の野戦服を仕立てるのが一般的になっていった[27][42]。そのため襟がダークグリーンになっていたり、腰ポケットが斜めの切り込みポケットではなく水平の貼り付けポケットになっていたりする物が多かったが、中には武装SSの制服規定に合わせて襟をフィールドグレーにしたり、腰ポケットを斜めの切り込みポケットにした物もあった[41]。
ただし消耗を避けるため、戦闘中には将校も支給品の野戦服を着用する者が多かったという[43]。
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陸軍将校の物と同型に仕立てたSS将校野戦服。徽章はイギリス人60名から成るSS義勇部隊「イギリス自由軍団」の物
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左の武装SS将校役は襟の部分がダークグリーンの陸軍将校型。右の武装SS将校役はフィールドグレーになっているが素材がよくなさそうなので支給品という設定だろう(2008年ワルシャワ蜂起再現イベント)
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陸軍将校型野戦服(1942年ハンス・ヨアヒム・フォン・ハデルン男爵SS少佐)
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マウトハウゼン強制収容所所長フランツ・ツィライスSS中佐(中央)。襟が濃いところは陸軍型だが、下ポケットが斜めの切り込みポケットなところは武装SS型の作り
迷彩服
武装SS(SS特務部隊)は迷彩服の先駆者である。世界で初めて迷彩服を正式採用して大量に支給した。現在でこそ世界中の軍隊で当たり前のように使われている迷彩服であるが、当時の繊維・染織技術で迷彩服のような複雑なプリント生地を大量に製造するなどということは前例のない試みであった[44][45]。
SS特務部隊の迷彩服の研究は1935年から始められた。まず迷彩ヘルメットカバーと迷彩ポンチョ、顔面偽装具といった迷彩装備が開発された[46]。これらが1936年末にSS特務部隊ドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果、迷彩装備を使用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用が決定した[46][47]。
迷彩ポンチョ自体はすでに陸軍でも開発されていたのだが、SS特務部隊ではこの後迷彩だけを目的とした迷彩スモックを開発がすすめられ、1937年末に世界初の規格型迷彩スモックを誕生させた[46]。このスモックは通常の野戦服の上にかぶって着用し、胸元には切れ込みが入っており、紐で留めていた[48]。
当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産が機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いたという[47][49]。
さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上着とズボンが揃った迷彩服が登場した[50]。これは単体で着用してもよかったが、従来のスモックと同様に通常の野戦服の上から着用してもかまわなかった[51]。
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迷彩スモックの武装SS兵士
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迷彩服の武装SS兵たち
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捕虜になった武装SS兵たち。手前の兵士が迷彩服の上に野戦服とオーバーコートを着ている
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迷彩スモック(2007年、ポーランド。第28SS義勇擲弾兵師団の再現イベント)
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迷彩スモック(2007年、ポーランド。第28SS義勇擲弾兵師団の再現イベント)
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夏の迷彩パターン
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秋の迷彩パターン
戦車兵軍服
ドイツ陸軍の戦車・装甲車搭乗員の黒い軍服は有名であるが、武装SSの戦車・装甲車搭乗員(以下戦車兵)も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵の物が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する強制収容所の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍の物は使用されなくなっていった[52][53]。
陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く、下襟が小さいことなどがあげられ、下襟が小さいがゆえに武装SS戦車兵の前合わせは垂直になっている[52][53][54][55]。陸軍の戦車兵軍服は上襟周りに兵科色のパイピングが入っているが、武装SSは将校が銀のパイピングを入れるのみだった[54]。さらに陸軍のものは背中の生地を二枚継ぎ合わせていたので背中に縦に一本縫い目が付いていた。しかし武装SSは一枚だったので縫い目がなかった[52][53][55]。また襟章は陸軍が髑髏を入れていたのに対して武装親衛隊は親衛隊の階級章を入れていた[56]。
ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSではズボンの左右腰についているポケットやズボン前部に付いている懐中時計用ポケットの蓋が2つのボタンで留められていた[52]。
ネクタイは黒、シャツはグレーかブラウンが通常だが、オプションで黒いシャツも認められていた[54]。
1943年に戦車兵が車外に出た場合を想定して迷彩オーバーオールが支給された。リバーシブルになっており反転着用でき、裏面は秋の迷彩パターンになっていた。ただ秋面の方は胸ポケットがなかった[57][58]。さらに1944年1月には戦車兵に支給されていたリード・グリーンのツーピース作業着が迷彩柄に取り換えられることになった[59]。
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武装SS戦車兵軍服。帽子は戦車兵用の黒い規格野戦帽
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武装SS戦車兵軍服。LSSAH師団戦車エースのミヒャエル・ヴィットマンSS大尉。帽子はクラッシュキャップ
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ドイツ国防軍陸軍の戦車兵軍服。
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迷彩作業着の武装SS戦車兵。帽子は戦車兵用の黒い略帽
熱帯服
武装SSは北アフリカ戦線には従軍していないが、南ヨーロッパのバルカン半島の戦いには従軍しており、気温の高いギリシャでの戦闘において武装SS将兵たちは陸軍のコットン製の熱帯用野戦服を独自に調達して使用した[60]。これがきっかけとなり、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられることとなった[60]。
1942年から支給されるようになった武装SSの熱帯野戦服はドイツ軍ではなくイタリア軍の熱帯野戦服「サファリアーナ(Sahariana)」をモデルにして作られており[60]、肩から胸を大きなフラップが覆っており、胸ポケットのボタンでとめる仕様になっていた[61]。このフラップは放熱効果のために付けられていたという。素材は陸軍熱帯服と同じコットン製。前ボタンは4個で開襟して着用する。ボタンは洗濯に便利なよう着脱式になっている。1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになった[60]。
熱帯服の登場とともに各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボン(半ズボンもあった)なども導入された[46]。
SS女性補助員の制服
戦時中、SSも国防軍と同様に人手不足から後方任務に女性補助員(SS-Helferinnen)を動員した。SSの女性補助員には「女性補助員」と「戦時女性補助員」の区別があった[62][63]。SS経済管理本部の1943年の命令によると前者はSS帝国学校の卒業者、後者は東部占領地域に派遣される者であるという[63]。
女性補助員はネクタイを付けずに白いブラウスを着用し、その上にフィールドグレーの背広を着た。この背広は前ボタンが3つ、左右の腰の部分にふた付きポケットがあり、左胸にもポケットが付いていた[62][64]。ポケットはいずれも切り込み式であった[65]。スカートは背広と同じフィールドグレー色だった[66]。靴は黒い靴を履いた[66]。
さらに黒い略帽風の帽子をかぶった。この帽子には男性SS隊員の略帽と違って折り返し部分がなかった。また髑髏の帽章は付かず、鷲章だけが付いていた[66]。
女性補助員はSSのルーン文字が入った黒い布製パッチを胸ポケット部分に貼り付けた[62][64]。また通信を担当する者は左袖に通信隊を示すブリッツ(雷光)章を入れることもある[66][64]。一方戦時女性補助員の場合にはSSルーン文字のパッチは付けなかった[66]。
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強制収容所勤務の女性補助員を描いた絵
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強制収容所勤務の男性SS隊員と女性補助員を描いた絵
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外套を着たイルマ・グレーゼを描いた絵。
オーバーコート
1932年の黒服の導入と同時に黒いオーバーコートが制服に定められた。前ボタンは一列6個のダブルになっており、斜めの切り込みポケットが腰の部分の左右に付いている。後ろには両端に離れたボタンで止められたハーフベルトが付いている(ナチ党型ハーフベルト)。また黒服と同様に左腕にはハーケンクロイツの腕章をつけた[67]。ウール製のコートと革製のコート、レインコートの三種があったが、一般SSではやがてウール製コートは使われなくなり、皮製コートが一般的になった。コートにも徽章類を全てつけたが、勲章はコートに付けてはならなかった[68]。
基本的に下に着用している制服と同じ色のコートを着るのが原則であり、1935年にSS特務部隊でアース・グレーの野戦服が制定されるとともにアース・グレー色のオーバーコートも制定された。ついで1937年に野戦服の色がフィールドグレーに変化したのに伴い、1939年に陸軍で使用されていたフィールド・グレーのオーバーコートが武装SSにも支給された[27][67]。陸軍オーバーコートは後ろのハーフベルトを中央のボタンで止める[67]。
はじめ襟がダークグリーンだったが、1942年に襟がフィールドグレーになった[69]。陸軍のオーバーコートは襟章は付けてはならなかったが、武装SSでは付けても構わなかった[70]。ただ戦争後期になるにつれて付けない者が増えた[71]。なお一般SSでは最後までオーバーコートに襟章を付け続けた[67]。
下士官兵士は支給された物を着用した。将校はオーダーメイドする者も支給品を着る者もあった[41]。冬季には高級将校の間ではコートの襟に毛皮をつけるのが流行ったという[72]。将校の中で多かったのはオーダーメイドした皮コートである。この皮コートには基本的に襟章は付けなかった[72]。袖章もあまり付けなかったようだが、付けている者もいたようである[72]。
なおオーバーコートが何色であってもSS准将以上の階級の者の場合は下襟にはシルバーグレー色(かなり白に近い)を入れ、開襟で着用するのが普通であった[68][27]。SS将官の中には襟の縁取りにシルバーグレーのパイピングを入れている者もいるが、これは特にSSで規定していたわけではなく個人の好みで行われたようである[73]。
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黒服オーバーコートを着用するLSSAH隊員。
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将官用の黒服オーバーコート。SS名誉中将ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
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将官用のフィールドグレーオーバーコート
制帽
全制帽の共通事項
帽章のトーテンコップ
親衛隊の帽章は共通して「交叉する骨の上に髑髏」で知られる「トーテンコップ(ドイツ語で髑髏)」の徽章が入っていた。トーテンコップは、一見海賊旗の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々ドイツや北欧・東欧地域では古来より用いられている徽章であり、親衛隊の帽章のトーテンコップのデザインはプロイセン王国時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている[74]。「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある[75]。当初親衛隊は下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、1934年に陸軍が戦車兵の軍服を制定してその襟章に同じくプロイセン時代からのトーテンコップを使用したため、混同されないよう親衛隊のトーテンコップの形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった[75][76]。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。
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トーテンコップの徽章付き制帽
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1934年まで親衛隊制帽に付けられていたトーテンコップ。プロイセン時代からの伝統的な形である。
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1934年からデザイン変更されたトーテンコップ。下顎が追加された。
鷲章
1923年~1929年にかけては、親衛隊制帽のトーテンコップの上にはドイツ帝国軍やヴァイマル共和国軍と同様に円形章(コカルデ)が入っていたが、1929年秋にナチスの鉤十字の上に羽を広げて留まる鷲をデザインした「鷲章」が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、国防軍も鷲章に変更されている)[77]。この「羽を広げて留まる鷲」のデザインは古代ローマ帝国時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに1936年に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の羽が横に広くなった[77]。この新しいSS鷲章は陸軍の鷲章と似ているが、よく見ると若干デザインが異なっている。陸軍のは羽根の上端が一番長いが、SSの鷲章は羽根の中間部分が一番長くなっている[78][79]。
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1936年まで親衛隊制帽に付けられていた鷲章。
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1936年からデザイン変更された鷲章。
制帽の種類
一般制帽
一般制帽は将校用と兵・下士官用で顎紐が異なった。将校はアルミモールの顎紐を使用し、兵士・下士官は革の物を使用した[80]。制帽の縁取りの色は大佐までの階級の者は白、准将以上の階級の者は銀を使用した[80]。1940年5月にはこの縁取りの色を兵科色にするようにとの命令が出されたが、同年12月には白・銀に戻すよう再命令が下された。しかしこの命令に従わない者が多く、兵科色の縁取りがなされた一般制帽がその後も広く使用され続けたという[80]。
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髑髏部隊のSS軍曹。下士官兵士用一般制帽。
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SS名誉中将(後に大将)ハンス・ハインリヒ・ラマース。将校用一般制帽。
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1936年以前の鷲章と1934年以前のトーテンコプフを付けているSS中将(後に大将)ヴェルナー・ローレンツ。
クラッシュキャップ
陸軍と同様に武装SSでも制帽の代わりとしてクラッシュキャップが使用された。クラッシュキャップはコレクターたちの間での俗称であり、正式名称は野戦帽(Feldmütze)という(後に支給を廃されたので旧式野戦帽という)[81]。
一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためのワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。髑髏と鷲章は機械織りの刺繍であることが多かったが、金属製である場合もあった[82]。旧式野戦帽のつばは革製であるが、SSでは1938年に「SS下士官用野戦帽(Feldmütze für Unterführer)」を制定しており、これはつばが革ではなく布だった。この影響で将校でもつばが布の物を使う者がいた[83][84]。
陸軍ではクラッシュキャップは1938年に支給を廃されているが[85]、武装SSでは1940年前後に支給を廃されたとみられる[82]。しかし持ち運びに楽であるため、支給を廃された後も多くの前線の武装SS将兵がオーダーメイドしてかぶっていた[82]。オーダーメイドを惜しんで一般制帽からワイヤーの支えを取り除くなどしてクラッシュキャップ風に改造している例も見られる[81]
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クラッシュキャップをかぶる髑髏部隊SS上等兵。つばが布。
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クラッシュキャップをかぶるヨアヒム・パイパーSS少佐(後に大佐)。つばが革。
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2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。クラッシュキャップをかぶる武装SS将校役。つばが革。
略帽
制帽の代わりに用いられた略帽である。正式名称はクラッシュキャップと同じく野戦帽(Feldmütze)である。船のような形なので「小舟(Schiffchen)」という愛称があった[84][82]。日本では一般に略帽と呼ばれている[84]。
武装SSの略帽は陸軍の略帽よりも空軍の略帽に近い形状だった。折り返し部分の前部をえぐったような陸軍型フォームではなく、流れるような空軍型フォームであった[86][82]。
武装SSの略帽には1937年に採用された旧型(鷲章は左横、正面に髑髏のボタン)と1940年に採用された新型(鷲章・ボタンではない髑髏帽章を正面につける)がある[87]。
1943年以降は下記の規格野戦帽に取って代わられた[88]。
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略帽をかぶる第20SS武装擲弾兵師団のSS兵士たち。
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2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。略帽をかぶる武装SS兵役。
規格帽
陸軍、空軍、SSで規格が異なっていた略帽を統一するため、1943年6月11日に統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)が制定された[89]。この帽子は日本では一般に規格帽と呼ばれている[82]。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる[90]。
SSでは1943年10月1月にこれが採用された[91]。陸軍の物とほぼ同じだが、折り返しを止める前部のボタンが陸軍の規格帽は二個ボタンのみなのに対して、武装SSの規格帽には一個ボタンの物も存在した。また武装SSの規格帽には鷲章が真横についている物もあった[82]。
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規格帽をかぶる武装SSの偵察兵。ボタンが一個。
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2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。規格帽をかぶる武装SS兵役。ボタンが二個で真横に鷲章
迷彩帽
1942年6月1日に制定された迷彩柄のバイザー付きの帽子。この帽子は武装SS独自のものである。夏季迷彩と春季迷彩の二種類がある。迷彩効果最優先のこの帽子には鷲章や髑髏などは付けないはずだったが、一時的に徽章を入れるよう命令が下された時期もあった。この命令は後に撤回されているが、付け続ける将兵も多かったという[92][93]
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左右両端の兵士が迷彩帽をかぶっている
フェズ帽
フェズとは中東の伝統的帽子。ムスリムの兵士が多い第13SS武装山岳師団と第23SS武装山岳師団でのみ着用が許されていた[94]。鷲章とトーテンコップの入っていた。兵士下士官はモス・グリーン、将校は赤いフェズ帽をかぶった[95][96]。また赤いフェズ帽は礼装用でもあった[93][97]。
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フェズ帽をかぶる兵士たち
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フェズ帽をかぶる兵士たち
シュタールヘルム(鉄兜)
ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは陸軍の物と同じ物を使った[98]。貼りつけるデカールだけSSと陸軍で異なった。陸軍のシュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する[98]。1936年からSS特務部隊に35年型が支給されるようになった[99]。それ以前のSSのシュタールヘルムは主に一次大戦時代の物やSS国家主計局で作った物が使用されていた[99]。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという[31]。
1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質がモリブデン鋼からマンガン・シリコン鋼に変更された[31]。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった[31][98]。3つのシュタールヘルムの違いについてはここが詳しい。
SSの鉄兜ははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左にハーケンクロイツのナチ党旗のデカールが貼られていたが、迷彩効果のうえで問題があり、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、以降は急速に見られなくなった[100][99]。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた[101]。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた[100]。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる[98]。
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シュタールヘルムの右側に入れるSSのデカール。1943年11月に廃されたが、その後も使用されることが多かった。
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シュタールヘルムの左側に入れるナチス党旗のデカール。1940年3月に廃され、その後は急速に消えた。
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SSのデカールが入ったシュタールヘルム(2008年)
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ナチ党旗のデカールが入ったシュタールヘルム(2010年)
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SSのデカールが入ったシュタールヘルムをかぶるフリッツ・レントロップSS中尉(en)。
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1942年、ロシア戦線の武装SS兵。
徽章
襟章
襟章は親衛隊大佐以上と親衛隊中佐以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した[102]。
たとえば右襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している[103]。右襟章が無地の場合は技術専門職、あるいは司令部の要員であることを意味している[104]。トーテンコプフ(髑髏)の右襟章ならば親衛隊髑髏部隊、トーテンコプフ師団、強制収容所所員などであることを示す[104]。SSのルーン文字の右襟章をよく見かけるが、これは他の右襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた襟章である[104]。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の右襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団かばれないようにという防諜上の理由であるという[105]。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の右襟章を使い続けた。
階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星と線で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の肩章を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。しかし結局ヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした[105]。なお迷彩服用の階級章も存在していた[106][107]。
SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは親衛隊階級の項を参照のこと。
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親衛隊中佐の階級章。右襟については所属師団や任務による襟章が定まっている場合はその襟章を付ける。そうでない場合はこのSSルーン文字の襟章を付ける。
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親衛隊大佐の階級章
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トーテンコプフ(髑髏)の右襟章を入れたマウトハウゼン強制収容所のSS少尉三名。
肩章
「黒服」の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服は両肩に肩章がついており、また一般SSのグレーの制服も両肩に肩章を付けていた[108]。
しかしもともとSSの肩章は階級を示す物ではなく、階級は襟章で示した[108]。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった[109]。ところが1938年3月にはSS特務部隊(武装SS)では陸軍型の肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった[108]。一般SSはそれまで通り襟章だけで階級を示した。
将校の肩章は金属糸が織り込まれた表面部分と黒い肩章の土台の間に兵科色のパイピングを施した[110]。同じ将校の肩章でも表面のデザインは佐官と尉官で大きく異なる[111]。
下士官兵用の肩章は先端が丸く、兵科色でパイピングした黒色の肩章を使った[108]。
肩章のデザインと星の数で階級が分かるようになっていた[111]。また肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された[112]。
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金色と灰色の金属糸が編み込まれた表面の将官用肩章。星の数から親衛隊上級大将の肩章と分かる。
カフタイトル
SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(Ärmelstreifen)という[115]。
SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い[116]。陸軍もグロースドイッチュラント師団など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた[115]。
カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、親衛隊地区などの名が書かれていた[117][118][119]。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した[103]。なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された[120]。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた[121]。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる[117]。
親衛隊名誉指導者などにも独自のカフタイトルがあった[120]。なお親衛隊全国指導者(Reichsführer-SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの幕僚であることを表す[117]。「Reichsführer-SS」のカフタイトルも存在するが、これは第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsführer-SS」の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である[122]。
戦争中にはカフタイトルの授与式はやけに厳かになった。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである[116]。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い[116]。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない[116]。
カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」以外は初めゴシック体で表記されていたが、後に標準ラテン字体に変更された[116]。
兵科色
SSは陸軍とは異なる独自の兵科色(Waffen-farben)を使用した。主な兵科色は以下のとおりである[123][113]。
ホワイト:歩兵・装甲擲弾兵 | ピンク:装甲・対戦車 | ブライトレッド:砲兵 | ダークレッド:獣医 |
オレンジ:憲兵 | ゴールデンイエロー:騎兵 | ライトグリーン:山岳猟兵 | ダークグリーン:予備将校 |
ライトブラウン:強制収容所 | ライトブルー:輸送部隊 | コーンフラワーブルー:医療 | ブラック:工兵 |
その他の装備品
ベルト
SSのベルトのバックルは、将校と下士官兵卒で異なった。将校は円形であり、下士官兵卒は四角形である[124]。将校用も下士官兵卒用もバックルのデザインには国家鷲章が描かれ、その鷲章の周囲にSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が入っていた[79][124]。この言葉は1931年末にSSのモットーとして定められてベルトのバックルのデザインに採用された[125]。
なお陸軍や警察のバックルには「神は我らと共に(Gott mit Uns)」という文字が入っていた[126]。将校用の丸型バックルは外れやすく、戦場には不向きだったので陸軍将校がよく使用していたバックルのない茶色ベルトを使用する者が多かった[127][128]。
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SSの下士官兵士用のベルトのバックル。
SS短剣
SSの短剣(Dienstdolch)は、1933年12月に制定された[129][130]。黒い鞘と柄の短剣で、刀身にはSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が刻まれていた[129]。黒服や黒服のコート、「伝統の制服」の着用時に帯刀した[131]。
これは新規隊員全員に授与された(ただし自己負担)[129][130]。一方1936年には鎖付きになった1936年版短剣が製造された。これは隊員のうち所持希望者が独自に購入する物だったが、買う者はあまりいなかったという[130]。名誉短剣も三種類存在する。1934年2月にSA幕僚長エルンスト・レームが古参SS隊員9900人に授与した「レーム短剣」、1934年7月以降にヒムラーがSA粛清の功績者に与えた「ヒムラー短剣」、1936年に制定されたSS高官の誕生日に授与する「誕生日短剣」である[132]。
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1933年SS短剣と鞘。
鎖付きの1936年短剣はここを参照。 -
SS短剣の刀身。
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SS短剣の柄。
SS長剣
1933年以降、SSの将校と下士官は陸軍と同型のサーベルを自費で購入して帯刀することを許可された。1936年にSSと警察専用の長剣が作成され、下士官以上ならばいつでも購入できるようになった[133]。
名誉長剣も存在する。士官学校卒業生やヒムラーが選んだ将校に送る親衛隊全国指導者名誉長剣とSS高官の誕生日にヒムラーが個人的に贈る誕生日長剣である[134]。
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名誉長剣を帯刀しているヒムラーとハイドリヒSS中将
SS髑髏リング
1934年4月に制定された髑髏をかたどった指輪。正式名称は親衛隊名誉リングという。始めは古参党員用の指輪だったが、後に基準が緩められて3年以上SSに勤務した将校は事実上だれでも持てるようになった[135]。左手薬指にはめる事を定められていた[135]。
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髑髏リング
注釈
- ^ 襟周りや襟章の縁のパイピングには変遷がある。制定直後の襟周りのパイピングは、SS大尉までが白(将校はアルミ)と黒の捻り、SS少佐以上がアルミの捻りの物を使用していたが、1934年10月以降には下士官までが黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りに変更された。一方襟章の縁のパイピングははじめ下士官までが白の綿か絹の捻り、SS大尉までが黒とアルミの捻り、SS少佐以上がアルミの捻りとなっていたが、1934年10月に下士官が黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りとなった[4]。
- ^ しかしこれより前の1930年に黒服を着用してる写真が確認されていることから1932年の黒服制定命令はそれ以前から制服として使用されはじめていた黒服を改めて制服に指定した物と考えられる[10]。
- ^ ただ1942年4月28日のラインハルト・ハイドリヒの覚書に黒服を禁止した旨の記述があり、戦時中にも禁止命令を出さねばならないほどに黒服が国家保安本部内で依然として着用されていた可能性がある[21]。
- ^ 武装SSの野戦服は一般SSと異なりRZM契約民間企業ではなくSS独自の被服工場で製作されていた[34]。
参考文献
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関連項目