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|クラブ={{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・ |
|クラブ={{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・ユナイテッド]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]<br />{{Flagicon|ITA|size=18px}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]<br />{{Flagicon|SCO|size=18px}} [[グラスゴー・レンジャーズFC|グラスゴー・レンジャーズ]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[エヴァートンFC|エヴァートン]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[バーンリーFC|バーンリー]]<br />{{Flagicon|CHN|size=18px}} [[甘粛天馬]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ボストン・ユナイテッドFC|ボストン・ユナイテッド]] |
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|年=1985-1988<br />1988-1992<br />1992-1995<br />1995-1998<br />1998-2000<br />2000-2002<br />2002<br />2003<br />2004 |
|年=1985-1988<br />1988-1992<br />1992-1995<br />1995-1998<br />1998-2000<br />2000-2002<br />2002<br />2003<br />2004 |
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|出場(得点)=92 (21)<br />92 (19)<br />43 (6)<br />74 (30)<br />41 (4)<br />32 (1)<br />6 (0)<br />4 (2)<br />4 (0)<!--国内リーグ戦の成績に限る--> |
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|クラブ成績更新日= |
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|代表国={{ENGf}} U-21<br />{{ENGf}} B<br />{{ENGf}} |
|代表国={{ENGf}} U-21<br />{{ENGf}} B<br />{{ENGf}} |
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|代表年=1987-1988<br />1989<br />1988-1998<ref name="rsssf">{{en icon}} {{cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/gascoigne-intl.html| title= Paul John Gascoigne - International Appearances | publisher=rsssf.com |author= |date=|accessdate=2011年8月12日}}</ref> |
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|代表年=1987-1988<br />1989<br />1988-1998 |
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|代表出場(得点)=13 (5)<br />4 (1)<br />57 (10) |
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|代表成績更新日= |
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|監督年=2005 |
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|監督チーム={{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ケタリング・タウンFC|ケタリング・タウン]] |
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'''ポール・ガスコイン'''(Paul John Gascoigne, [[1967年]][[5月27日]] - )は、[[イングランド]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、[[監督|サッカー指導者]]。 |
'''ポール・ガスコイン'''(Paul John Gascoigne, [[1967年]][[5月27日]] - )は、[[イングランド]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、[[監督|サッカー指導者]]。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]](攻撃的MF)。愛称は「'''ガッザ'''」 (Gazza){{#tag:ref|元々は「ガッサ」と呼ばれていた<ref name="ガッザ66-67">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、66-67頁</ref>が、ニューカッスル・ユナイテッドの練習生時代にガスコインを指導していた[[コリン・スゲット]]の出身地である[[サンダーランド (イングランド)|サンダーランド]]訛りにより、「ガッザ」と呼ばれるようになった<ref name="ガッザ66-67"/>。|group=注}}。 |
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太目の体型ながら高いドリブルテクニックとパスセンス<ref name="グランヴィル359-360">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、359-360頁</ref><ref name="マルチ大辞典">{{Cite book|和書 |author= |year=2006 |title=サッカーマルチ大辞典 改討版 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |page= 165頁 |isbn=978-4583038803 }}</ref><ref name="スポーツナビ">{{cite web |author=[[東本貢司]] |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/england/column/01-02/ZZZT9XWU02D.html |title= ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編) |publisher= スポーツナビ |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>の持ち主であり、愛嬌のあるキャラクターで[[1990年代]]には[[イギリス]]の国民的英雄と呼ばれ人気を集めた<ref name="サカマガ199103">「`91の顔 The Face of `91 ポール・ガスコイン」『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』1991年3月号、10-14頁</ref>。その反面、[[公序良俗]]に反するような言動、[[アルコール依存症|飲酒癖]]や[[うつ病]]にまつわるトラブルを頻繁に引き起こすことでも知られ<ref name="guardian">{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/feb/21/newsstory.sport2 |title= Paul Gascoigne factfile: a troubled life |publisher= guardian.co.uk|date=2008年02月21日 |accessdate=2010-07-22}}</ref><ref name="AFPBB20080222"/>、引退後もしばしばメディアを賑わしている<ref name="Metro">{{cite web|url=http://www.metro.co.uk/news/101055-turbulent-life-of-football-genius-paul-gascoigne |title= Turbulent life of football genius Paul Gascoigne |publisher= Metro.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。 |
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== 選手経歴 == |
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===クラブ=== |
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[[1980年]]に[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]の下部組織に入団すると頭角を現し、[[1985年]]に[[FAユースカップ]]優勝に貢献。同年4月にトップチームへの昇格を果たし[[クイーンズ・パーク・レンジャーズFC]]戦でデビューを飾った。[[1988年]]には当時の最高額の200万ポンドの金額で[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]へ移籍した。トッテナムでは監督の[[テリー・ヴェナブルズ]]の指導下で中心選手として活躍。同年には[[PFA年間最優秀若手選手賞]]を受賞するなど新たなスター候補として注目された。 |
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== 生い立ち == |
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[[1991年]]には[[ゲーリー・リネカー]]らと共に[[FAカップ]]優勝に貢献。しかし決勝の[[ノッティンガム・フォレスト]]戦において相手DFのゲイリー・チャールズに悪質なタックルを行った際に、自らが右膝[[靭帯損傷|靭帯断裂]]の重傷を負い、治療の為に1年以上試合から遠ざかった。この頃からアルコールに溺れトラブルを引き起こすようになった<ref name="guardian" >{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/feb/21/newsstory.sport2 |title= Paul Gascoigne factfile: a troubled life |publisher= guardian.co.uk|date=2008年02月21日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。 |
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[[タインアンドウィア|タインアンドウィア州]]ゲイツヘッドで[[煉瓦]]職人の父と母の間に長男として生まれた。ガスコインという姓は[[フランス]]<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、37頁</ref>南部の[[ガスコーニュ]]地方に由来し、本名の「ジョン・ポール」とは母親が[[ビートルズ]]のファンであり、[[ジョン・レノン]]と[[ポール・マッカートニー]]の名前に因んで名づけられた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、38頁</ref>。幼少の頃からサッカーに親しみ地元のサッカークラブである[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]のサポーターであると共に、[[オランダ]]の[[ヨハン・クライフ]]や[[ブラジル]]の[[ペレ]]のファンだった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、48頁</ref>。 |
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ゲイツヘッド・ボーイズに在籍していた12歳の頃からサッカークラブのスカウトの関心を集め、[[イプスウィッチ・タウンFC|イプスウィッチ・タウン]]、[[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]、[[サウサンプトンFC|サウサンプトン]]のテストを受けたがいずれも不合格に終わり<ref name="ガッザ56-57">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、56-57頁</ref>、1980年にニューカッスル・ユナイテッドの学生会員となった<ref name="ガッザ56-57"/>。毎週火曜日の練習に参加しながら学校に通う日々を送っていが、[[1982年]]8月、当時のイングランド代表のスター選手である[[ケビン・キーガン]]がクラブに入団した際には、キーガンの雑用係を務めていた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、63-64頁</ref>。 |
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[[1992年]]10月27日、550万ポンドの金額で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSラツィオ|ラツィオ]]へ移籍<ref name="Metro"/>。最初のシーズンこそリーグ戦22試合で4得点の結果を残したが、肥満問題などから次第に調子を落とし<ref name="guardian" />、1994年には再び右膝を痛め1シーズンを棒に振ることになった。 |
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[[1983年]]5月、16歳の誕生日に週給25ポンドの2年契約でニューカッスルと練習生契約を結んだ<ref name="ガッザ66-67"/>。ユースチームでは直ぐに頭角を現しチームの成績も好調だったが、この当時から太目の体型だった。指導者からは体重の事や私生活のトラブルの事でたびたび叱責を受けており、そのストレス発散のために[[神経性大食症|過食]]を繰り返していた<ref name="ガッザ77-78">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、77-78頁</ref>が、正規の練習の後に減量のためのランニングを課せられていた<ref name="ガッザ77-78"/>。 |
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[[1995年]]7月、430万ポンドの金額で[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズ]]へ移籍。レンジャーズではかつてのプレーを取り戻し、1995-96シーズンのリーグと[[スコティッシュカップ|カップ]]の二冠獲得に貢献。1996年には[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]と[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]を同時受賞した。翌1996-97シーズンもリーグ連覇と[[スコティッシュリーグカップ|リーグカップ]]の二冠獲得に貢献した。 |
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== クラブ経歴 == |
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1998年3月に340万ポンドの金額で[[ミドルズブラFC]]へ移籍したが、この時期からプレーに精彩を欠くようになり下降線を辿っていった。また私生活においても無類の酒好きで知られ、[[アルコール依存症|アルコール依存]]に絡んだ問題をしばしば起こした<ref name="AFPBB20080222">{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2354013/2665178 |title= ガスコイン氏 英当局に抑留される |publisher= AFPBB News|date=2008年02月22日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。 |
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=== ニューカッスル === |
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[[1984年]]6月、トップチームの監督に[[ジャッキー・チャールトン|ジャック・チャールトン]]が就任すると、更なる減量と食事制限を課し<ref name="ガッザ84-85">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、84-85頁</ref>、ユースチームの主将に任命した<ref name="ガッザ84-85"/>。同時期にリザーブチームに昇格を果たすと、[[1985年]]3月からはトップチームの遠征に帯同するようになり、同年4月13日の[[クイーンズパーク・レンジャーズFC|クイーンズパーク・レンジャーズ]]戦で途中交代からリーグデビューを果たした<ref name="ガッザ87-89">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、87-89頁</ref>。一方で、ユースチームの主将として挑んだ[[FAユースカップ]]では準決勝で[[バーミンガム・シティFC|バーミンガム・シティ]]を下して決勝戦に駒を進め、決勝では[[ワトフォードFC|ワトフォード]]を4-1で下し、1962年大会以来となる23年ぶり2回目の優勝に導いた<ref name="ガッザ87-89"/>。この優勝の後にトップチームと週給120ポンドでプロ契約を結んだ<ref name="ガッザ87-89"/>。 |
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ニューカッスルでは[[クリス・ワドル]]らとチームメイトとなり、デビューとなった1984-85シーズンは2試合の出場に終わったが、翌1985-86シーズンになると出場機会が増え、3年目の1986-87シーズンレギュラーに定着し24試合で5得点を挙げた。これらの活躍により、それまで代表レベルでの経験のなかったガスコインは21歳以下のイングランド代表に招集される事になった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、99頁</ref>。リーグ戦での活躍から「小さな宝石」や「期待の新星」として注目を集める<ref name="ガッザ104-106">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、104-106頁</ref>一方で、次第にクラブから移籍をしたいという気持ちが高まっていった<ref name="ガッザ104-106"/>。ガスコイン自身は第一志望として[[リヴァプールFC]]への移籍を希望していた<ref name="ガッザ104-106"/>が、[[ブライアン・ロブソン]]の後継者を探してた[[アレックス・ファーガソン]]が監督を務める[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]からも交渉を持ちかけられていた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、110頁</ref>。ファーガソンから熱心な勧誘を受け移籍に気持ちが傾いた<ref name="ガッザ111-114">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、111-114頁</ref>が、[[テリー・ヴェナブルズ]]が監督を務める[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]から勧誘を受けた際の、ヴェナブルズの「私の下で指導を受ければ確実にイングランド代表に選ばれるだろう」との言葉に触発されて<ref name="ガッザ111-114"/>、トッテナムへ移籍する事が決まった<ref name="ガッザ111-114"/>。 |
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[[2003年]]には中国のサッカークラブに移籍したが生活環境に馴染めず直ぐに退団。[[2004年]]に[[フットボールリーグ2]](4部リーグに相当)の[[ボストン・ユナイテッドFC]]に移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。 |
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=== トッテナム === |
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[[1988年]]夏にトッテナムへ移籍したが、移籍金の220万ポンドは、当時のイングランドのクラブが支払った最高金額だった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、117頁</ref>。ヴェナブルズの指導下で中心選手として活躍し、同年には[[PFA年間最優秀若手選手賞]]を受賞した。1989-90シーズンのリーグ戦では[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]から[[ゲーリー・リネカー]]が加入するとリーグ戦では二人のコンビプレーもあって<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、175-176頁</ref>チームを1988-89シーズンの6位から3位に押し上げた。 |
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[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]としては[[1988年]]に同年9月の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]との親善試合で代表デビューを飾った。監督の[[ボビー・ロブソン]]の下で[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]では中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦の[[サッカーエジプト代表|エジプト]]戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦でアシストを決める活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では試合中に[[トーマス・ベルトルト]]への反則により主審から警告を受け、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流す場面が見られた<ref name="Metro">{{cite web|url=http://www.metro.co.uk/news/101055-turbulent-life-of-football-genius-paul-gascoigne |title= Turbulent life of football genius Paul Gascoigne |publisher= Metro.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref><ref name="AFPBB20080222"/>。 |
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ヴェナブルズの言葉通りに1988年にイングランド代表に選ばれ、[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]ではベスト4進出の原動力となったが、この大会後にイギリス国内ではガスコインの人気が過熱し新たなスター選手として迎えられた(後述)<ref name="サカマガ199103"/>。1990-91シーズンに[[ヘルニア]]の手術を受けたため<ref name="ガッザ182-183">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、182-183頁</ref>、1か月間は試合から遠ざかった<ref name="ガッザ182-183"/>が、[[FAカップ]]準決勝の[[アーセナルFC]]戦ではフリーキックを直接決めて3-1の勝利に貢献<ref name="ガッザ182-183"/>し、[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]での決勝戦に駒を進めた。シーズンの最中からイタリアの[[SSラツィオ|ラツィオ]]がガスコインの獲得に関心を示しており<ref name="ガッザ188-189">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、188-189頁</ref>、FAカップ決勝がトッテナムでの最後の試合になると考えられていた<ref name="ガッザ188-189"/>。しかし決勝の[[ノッティンガム・フォレストFC]]戦において、前半17分に相手DFの[[ゲイリー・チャールズ]] ([[:en:Gary Charles|Gary Charles]]) に悪質なタックルを行った際<ref name="ガッザ191-193">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、191-193頁</ref>に、自らが右膝[[靭帯損傷|靭帯断裂]]の重傷を負った<ref name="ガッザ191-193"/>。試合はガスコインを欠いたもののトッテナムが延長戦の末にノッティンガムを下しタイトルを獲得したが、ガスコイン自身は搬送された病院のテレビでこの模様を観戦<ref name="ガッザ191-193"/>しており、治療とリハビリのために1年4か月試合から遠ざかることになった<ref name="guardian"/>。この負傷に関して対戦相手のノッティンガムの選手だった[[スチュアート・ピアース]]は次のように評している。 |
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その後は1991年に負った右膝の怪我のために1992年の[[UEFA欧州選手権1992]]の出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受けたものの、[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]予選では[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]と[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に競り負け本大会出場を逃した。 |
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{{Quotation|彼はただ一人の力で試合の流れを変えてしまう、我々にとって悩ましい選手だった。しかしあの試合のタックルは彼のサッカー人生に重大な影響を及ぼしてしまい、二度と以前のプレーを取り戻すことは出来なかった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、181頁</ref>。|スチュアート・ピアース}} |
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=== ラツィオ === |
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1996年の[[UEFA欧州選手権1996]]では鮮やかなプレーを披露し<ref name="guardian" />、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]以来となる準決勝進出に貢献。グループリーグ第2戦の[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦でのボレーシュートは大会史上に残る名場面の一つとして語り草となっている<ref name="Metro"/><ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/2293394/Top-10-memorable-goal-celebrations.html |title= Top 10 memorable goal celebrations |publisher= Telegraph|date=2008年03月03日 |accessdate=2010-07-22}}</ref><ref name="TalkFootball">{{cite web |url=http://www.talkfootball.co.uk/guides/football_legends_paul_gascoigne.html |title= Paul Gascoigne - A Football Legend Profile |publisher= TalkFootball.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。これらの活躍から1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・フランス大会]]でも代表入りが有力視されていたが、当時の監督[[グレン・ホドル]]はガスコインの飲酒癖を懸念して大会直前にメンバーから外す決定を下した<ref name="Metro"/><ref name="TalkFootball"/>。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。 |
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[[1992年]]5月、550万ポンドの金額で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]のラツィオへ移籍<ref name="Metro"/>。同年9月22日の[[ジェノアCFC]]戦でリーグ戦デビューを果たすと22試合に出場し4得点を記録<ref name="ガッザ219">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、219頁</ref>。チームはリーグ戦で5位に入り[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]出場権獲得するなど結果を残したが、国際大会への出場はチームにとって16年ぶりの出来事だった<ref name="ガッザ219"/>。しかし肥満問題などから次第に調子を落とすと<ref name="guardian" />、[[1994年]]4月には練習中に[[アレッサンドロ・ネスタ]]にタックルを仕掛けた際に右脚を骨折し<ref name="ガッザ233-234">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、233-234頁</ref>、1シーズンを棒に振ることになった<ref name="ガッザ233-234"/>。 |
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=== レンジャーズ === |
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[[1995年]]7月、430万ポンドの金額で[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズ]]へ移籍<ref name="ガッザ243">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、243頁</ref>。[[ウォルター・スミス (サッカー選手)|ウォルター・スミス]]監督の下で1995-96シーズンのリーグと[[スコティッシュカップ|カップ]]の二冠獲得に貢献。1996年には[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]と[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]を同時受賞した。翌1996-97シーズンには、私生活でのトラブル(後述)や脚の負傷により調子を落とし、批判を受ける機会があった<ref name="ガッザ275">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、275頁</ref>が、シーズン中盤に調子を取り戻すとリーグ連覇と[[スコティッシュリーグカップ|リーグカップ]]の二冠獲得に貢献した<ref name="ガッザ275"/>。 |
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現役引退後、サッカー選手としてではなく、アルコール関係の騒動でマスコミの注目を集めるようになった。 |
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1997-98シーズンには妻との離婚問題<ref name="ガッザ288-290">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>だけでなく、武装組織の[[アイルランド共和軍|IRA]]のメンバーを名乗る人物からの脅迫<ref name="ガッザ284-285">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>、サポーターへの挑発行為に関する騒動{{#tag:ref|1998年1月2日に行われた[[セルティックFC]]とのダービーマッチにおいて得点を決めた後にセルティックのサポーターに対し、[[フルート]]を吹くパフォーマンスを行って挑発したことが、[[カトリック教|カトリック教徒]]への侮辱として問題視され、2万ポンドの罰金を科せられた<ref name="ガッザ284-285"/>。|group=注}}など、様々なトラブルに見舞われ、ストレスから逃れるために次第に[[アルコール]]に頼った生活を送る様になった<ref name="ガッザ288-290"/>。また飲酒だけでなく、[[不眠症]]を解消するために[[睡眠導入剤|睡眠薬]]に頼るようになったことを契機に薬物中毒<ref name="ガッザ288-290"/>になったことが、プレーの面にも悪影響を及ぼすようになった<ref name="ガッザ288-290"/>。ガスコイン自身はレンジャーズでの最初の2年間はサッカー人生において最高の時期だったが、最後の数ヶ月間は人生において最悪の時期だったと振り返っている<ref name="ガッザ288-290"/>。 |
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=== その後 === |
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[[1998年]]3月に345万ポンド<ref name="ガッザ292">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、292頁</ref>の金額で[[フットボールリーグ]]・ディビジョン1(2部リーグに相当)の[[ミドルズブラFC]]へ移籍。当時のミドルズブラの監督はイングランド代表でチームメイトだったブライアン・ロブソンが務めており、シーズン終盤での加入だったが7試合に出場しチームの[[プレミアリーグ]]昇格と、[[フットボールリーグカップ]]準優勝に貢献した<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、294頁</ref>。しかし、代表チームではワールドカップの直前にメンバーから落選(後述)し、同年秋にはアルコール依存と[[うつ病]]の問題により自殺未遂を引き起こし<ref name="ガッザ322-327">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>、[[精神科|精神病院]]に1か月間入院<ref name="ガッザ322-327"/>するなど、依然として問題を抱えていた。 |
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[[2000年]]3月に、[[エバートンFC]]へ移籍。レンジャーズ時代の監督だったスミスの下で再びプレーすることになったが、私生活でもアルコール依存に絡んだ問題をしばしば起こし<ref name="AFPBB20080222">{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2354013/2665178 |title= ガスコイン氏 英当局に抑留される |publisher= AFPBB News|date=2008年02月22日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>、ヘルニアが再発するなど負傷を抱えたこともあってプレーに精彩を欠いていた。シーズン途中にスミスが退任したことでガスコインもチームを退団し、フットボールリーグ・ディビジョン1の[[バーンリーFC]]へ移籍し6試合に出場した。 |
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[[2003年]]1月、[[中華人民共和国]]の[[甘粛天馬]] ([[:en:Gansu Tianma F.C.|Gansu Tianma F.C.]]) に移籍し4試合で2得点を挙げたが、同国で[[SARSウイルス]]が流行したことによりリーグ戦が中止されたことを受けてそのままチームを退団し<ref name="ガッザ372">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、372頁</ref>、アメリカ合衆国に渡って治療とカウンセリングを受けた<ref name="ガッザ372"/>。[[2004年]]に[[フットボールリーグ2]](4部リーグに相当)の[[ボストン・ユナイテッドFC]]に移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。 |
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== 代表経歴 == |
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ニューカッスルの練習生時代にはイングランド学生代表に選ばれた経験はなかったが、1987年に21歳以下のイングランド代表に選出され、[[トゥーロン国際大会]]に出場し5位。翌1988年の同大会では準優勝に貢献するなど13試合に出場し5得点を記録した。 |
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=== 1990 FIFAワールドカップ === |
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{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 200px; border: #99B3FF solid 1px" |
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|<div style="position: relative;"> |
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[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|200px]] |
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{{Image label|x=0.21|y=0.33|scale=200|text=[[ゲーリー・リネカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''リネカー'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.58|y=0.33|scale=200|text=[[ピーター・ベアズリー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ベアズリー'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.21|y=0.48|scale=200|text=[[デビッド・プラット|<span style="font-size: 90%; color: white">'''プラット'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.61|y=0.48|scale=200|text=[[クリス・ワドル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ワドル'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.38|y=0.61|scale=200|text=[[ポール・ガスコイン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ガスコイン'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.71|y=0.78|scale=200|text=[[ポール・パーカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''パーカー'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.07|y=0.78|scale=200|text=[[スチュアート・ピアース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ピアース'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.61|y=0.90|scale=200|text=[[デス・ウォーカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウォーカー'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.25|y=0.90|scale=200|text=[[マーク・ライト (1963年生のサッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライト'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.38|y=1.03|scale=200|text=[[テリー・ブッチャー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブッチャー'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=200|text=[[ピーター・シルトン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シルトン'''</span>]]}} |
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|style="font-size: smaller;"|[[1990年]][[7月4日]]、[[1990 FIFAワールドカップ]]準決勝、[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦のメンバー<ref>[[牛木素吉郎]]、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術」『サッカーマガジン』1990年12月号、143頁</ref> |
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</div> |
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イングランド代表としては同年9月14日の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]との親善試合で代表デビューを果たし<ref name="rsssf"/>、同年11月16日に行われた[[1990 FIFAワールドカップ・予選]]の[[サッカーアルバニア代表|アルバニア]]戦で代表初得点を決めた<ref name="rsssf"/>が、当初は[[ボビー・ロブソン]]監督の信頼を得るまでには至らなかった<ref name="グランヴィル360">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、360頁</ref>。翌1990年にイタリアで開催される本大会に向けた代表メンバーの中では当落線上の選手の一人だったが<ref name="グランヴィル360"/>、同年4月25日の[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合を前にした記者会見でのロブソンの「この試合が最後のチャンス」との言葉に奮起し<ref name="グランヴィル360"/>、1得点を挙げるなど結果を残した事で代表メンバーに選出された<ref name="グランヴィル360"/>。 |
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大会ではロブソン監督の中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦の[[サッカーエジプト代表|エジプト]]戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦で[[デビッド・プラット]]の決勝点をアシストする活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では、相手のエースである[[ローター・マテウス]]を上回るプレーを見せながらも<ref name="グランヴィル185">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、185頁</ref>、1-1の同点のまま迎えたPK戦の末に敗れて決勝戦進出を逃した。また、この試合の延長戦においてガスコインは[[トーマス・ベルトルト]]への反則により主審から警告を受けたが、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流した<ref name="AFPBB20080222"/><ref name="Metro"/><ref name="グランヴィル185"/><ref name="森田2009">{{Cite book|和書|author=森田浩之|year=2009|title=メディアスポーツ解体 <見えない権力>をあぶり出す|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=978-4140911488 |page=85-86頁 }}</ref>。この試合での一幕はテレビを通じて世界中に放映されていたことから「ガッザの涙」として知られるようになった<ref name="森田2009"/>が、イギリス国内での反響は大きく、「敗戦に悔し涙を流す」国民的な英雄<ref name="森田2009"/>として扱われただけでなく、後のサッカー文化に影響を与えたとも言われている<ref name="森田2009"/>。 |
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ガスコインの下にはテレビ番組、各種イベント、[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]出演、関連グッズ販売など様々な依頼が殺到し<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、164-165頁</ref>、ワールドカップ終了後の1年間に数百万ポンドの利益を得た<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、166-167頁</ref>。ガッザ・マニアと呼ばれる熱狂的なファンが登場するなどの社会現象となり、ロックバンドの『[[ビートルズ]]』の人気に匹敵すると評された<ref name="サカマガ199103"/>。また同年には[[英国放送協会]] (BBC) の視聴者が選ぶ[[BBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー|スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー]] ([[:en:BBC Sports Personality of the Year Award|BBC Sports Personality of the Year Award]]) に選ばれた<ref name="サカマガ199103"/><ref name="BBC200912">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/pressoffice/keyfacts/stories/spoty.shtml |title= Sports Personality Of The Year |publisher=BBC |date=2009年12月 |accessdate=2010-07-22}}</ref>が、これはサッカー選手としては[[1966年]]の[[1966 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イングランド大会]]の年に[[ボビー・ムーア]]が受賞して以来、2人目の出来事だった<ref name="サカマガ199103"/>{{#tag:ref|サッカー選手では1998年に[[マイケル・オーウェン]]、2001年に[[デビッド・ベッカム]]、2009年に[[ライアン・ギグス]]が受賞した<ref name="BBC200912"/>。|group=注}}。 |
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=== 1994 FIFAワールドカップ予選 === |
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1991年に負った右膝の十字靭帯断裂のために1992年の[[UEFA欧州選手権1992]]の出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受け、同年10月に行われた[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]予選の[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]戦で復帰を果たした。その後もガスコインは招集を受けたが[[グラハム・テイラー]] ([[:en:Graham Taylor (footballer)lity of the Year Award|Graham Taylor (footballer)]]) 監督との関係は良好ではなく、自身も出場機会が巡っても多くの結果を残すことは出来ず<ref name="ガッザ231">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、231頁</ref>、最終的にノルウェーと[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に競り負け本大会出場を逃した。1994年に所属クラブで脚を骨折したため、1年近く代表の試合からは遠ざかった<ref name="ガッザ233-234"/>。 |
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=== UEFA欧州選手権1996 === |
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地元開催の[[UEFA欧州選手権1996]]に向けて、トッテナム時代に指導を受けたヴェナブルズが監督に就任した。1995年6月に行われた[[サッカー日本代表|日本]]との親善試合で復帰を果たすと、べナブルズ指揮下の代表チームにおいて重要な選手と見なされるようになった。1996年の本大会ではグループリーグ初戦で[[サッカースイス代表|スイス]]に引き分けたが、続く[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦を2-0、第3戦の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦を4-1で下して首位で決勝トーナメントへ駒を進めた。準々決勝では[[サッカースペイン代表|スペイン]]をPK戦の末に下し、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]以来28年ぶりに準決勝進出を果たしたが、準決勝はドイツに1990年のワールドカップの際と同様にPK戦の末に敗れ、決勝進出を逃した。 |
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なお、グループリーグ第2戦のスコットランド戦において、相手DFの[[コリン・ヘンドリー]]の頭上にボールを浮かしてタックルを交わし、浮き球を右足でボレーシュートを決めたシーンは「世紀のゴール」と呼ばれ語り草となっている<ref name="マルチ大辞典"/><ref name="Metro"/><ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/2293394/Top-10-memorable-goal-celebrations.html |title= Top 10 memorable goal celebrations |publisher= Telegraph|date=2008年03月03日 |accessdate=2010-07-22}}</ref><ref name="TalkFootball">{{cite web |url=http://www.talkfootball.co.uk/guides/football_legends_paul_gascoigne.html |title= Paul Gascoigne - A Football Legend Profile |publisher= TalkFootball.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。またガスコイン自身はグループリーグ第3戦のオランダ戦での勝利をイングランド代表史上に残る勝利に挙げているが<ref name="ガッザ264">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、264頁</ref>が、この大会について次のように評している。 |
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{{Quotation|欧州選手権も1990年のワールドカップも勝てたはずだった。ロブソンとヴェナブルズという名監督の下で最高のチームで挑んだが、2度ともPK戦でドイツに敗れ、2度ともドイツが優勝した。彼らが優れていたわけじゃない、我々に運が無かっただけだ<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、181頁</ref>。|ポール・ガスコイン}} |
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=== 1998 FIFAワールドカップ予選 === |
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欧州選手権終了後にヴェナブルズの後任として[[グレン・ホドル]]が監督に就任したが、引き続き代表に招集され、[[1998 FIFAワールドカップ・予選|ワールドカップ・フランス大会予選]]に出場。1997年10月11日に敵地の[[ローマ]]で行われた[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦は0-0の引分けに終わったが、この試合の結果により予選グループ首位で本大会出場を決めた。自身はこの試合を選手キャリアにおいて最高のパフォーマンスを発揮した試合の一つに挙げている<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、307-308頁</ref>。翌1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|本大会]]に向けた28人の代表候補に選ばれ、同年5月のスペイン合宿に参加したが、ホドルはガスコインの体調と精神面を懸念して<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、301頁</ref>大会直前にメンバーから外す決定を下した<ref name="Metro"/><ref name="TalkFootball"/>。 |
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ガスコインを欠いたイングランド代表は決勝トーナメントに進出したが、[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に敗れてベスト16で敗退。この結果について当時のチームメイトだった[[デビッド・ベッカム]]は2003年に出版した自伝の中で「ガッザがいれば違った結果になっていたかもしれない。ガッザなら彼にしか為し得ない何かをチームにもたらしたはず」と発言している<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、316頁</ref>。その後、代表チームに招集される機会はなく<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、410頁</ref>、1998年5月29日に行われたベルギーとの親善試合が最後の試合出場となった<ref name="rsssf"/>。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。 |
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== 引退後経歴 == |
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[[2005年]]10月27日から下部リーグの[[ケタリング・タウンFC]]の監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/eng_conf/4500388.stm |title= Kettering sack manager Gascoigne |publisher= BBC SPORT |date=2005年12月05日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。この日の深夜に[[リヴァプール]]市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/merseyside/4501974.stm |title= Gazza freed after assault inquiry |publisher= BBC NEWS |date=2005年12月06日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>。 |
[[2005年]]10月27日から下部リーグの[[ケタリング・タウンFC]]の監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/eng_conf/4500388.stm |title= Kettering sack manager Gascoigne |publisher= BBC SPORT |date=2005年12月05日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。この日の深夜に[[リヴァプール]]市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/merseyside/4501974.stm |title= Gazza freed after assault inquiry |publisher= BBC NEWS |date=2005年12月06日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>。 |
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同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された<ref>{{cite web|url=http://uk.news.yahoo.com/18/20101022/tuk-gascoigne-arrested-on-suspicion-of-d-2c0ffe7.html |title= Gascoigne arrested on suspicion of drugs possession |publisher= Yahoo! News UK |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11605163 |title= Gazza arrested over drug offence |publisher= BBC News |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17802620101023 |title= サッカー=元イングランド代表ガスコイン逮捕、薬物所持容疑 |publisher= Reuters |date=2010年10月23日 |accessdate=2010-10-24}}</ref>。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。 |
同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された<ref>{{cite web|url=http://uk.news.yahoo.com/18/20101022/tuk-gascoigne-arrested-on-suspicion-of-d-2c0ffe7.html |title= Gascoigne arrested on suspicion of drugs possession |publisher= Yahoo! News UK |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11605163 |title= Gazza arrested over drug offence |publisher= BBC News |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17802620101023 |title= サッカー=元イングランド代表ガスコイン逮捕、薬物所持容疑 |publisher= Reuters |date=2010年10月23日 |accessdate=2010-10-24}}</ref>。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。 |
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[[2011年]]4月6日、[[サンチャゴ・ベルナベウ]]で行われたCLクウォーターファイナル第一戦、[[レアル・マドリー]]と古巣[[トッテナム・ホットスパー]]の試合を観戦した。その際にレアル・マドリーの監督である[[ジョゼ・モウリーニョ]]からの計らいで、「スペシャル・ワンへ」というメッセージを添えたボックス席のチケットをプレゼントされた。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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=== 評価 === |
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愛称は「'''ガッザ'''」。1990年代のイングランド・サッカー界において人気選手として注目を集めた存在であり、[[デイヴィッド・ベッカム]]が登場するまでは国民的英雄であった。ピッチ内外での悪童ぶりでも知られ、夫人に対する[[ドメスティック・バイオレンス|DV]]や審判や相手選手への奔放な言動はしばしば注目された<ref name="guardian" /><ref name="Metro"/><ref name="AFPBB20080222"/>。一方で、ピッチ上ではずんぐりした体型からは考えられないほどのドリブルテクニックとパスセンスで異彩を放っていた<ref>{{cite web |author=[[東本貢司]] |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/england/column/01-02/ZZZT9XWU02D.html |title= ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編) |publisher= スポーツナビ |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。自伝は英国最優秀スポーツブック賞を受賞しており、悪童と呼ばれる反面、その愛嬌あるキャラクターで愛されてきたガッザの栄光と挫折、苦悩が赤裸々に語られている。 |
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プレースタイルに関しては「イングランドサッカー史上において最も優れた才能の持ち主<ref name="グランヴィル359-360"/><ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、291頁</ref>」「[[ボビー・チャールトン]]と[[ジョージ・ベスト]]の才能を足して2で割ったような選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、206頁</ref>」「稀代の国際的な選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、254頁</ref>」などの高い評価を得ながら、前述のように奇行癖や飲酒癖にまつわるトラブルの数々<ref name="guardian"/>から、人物そのもののとしては「サッカーの上手な愚か者<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、267頁</ref>」」「自己破滅的<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、171頁</ref>」「酔っ払っていなければ最高の選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、239頁</ref>」「刹那的<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、231頁</ref>」などと評されている。 |
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半生を綴った自伝の''Gazza My Story'' (邦題: ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝)は、2005年に英国最優秀スポーツ書籍賞 ([[:en:British Book Awards#The Sports Book of the Year|The Sports Book of the Year]]) を受賞している<ref name="ガッザ477">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、477頁</ref>が、実質的な執筆はビートルズの公式伝の執筆者として知られるジャーナリストの[[ハンター・デイヴィス]] ([[:en:Hunter Davies|Hunter Davies]]) が行っている<ref name="ガッザ477"/>。 |
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=== 私生活 === |
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元モデルであり、既婚者で2人の子供の母親であった女性とは1991年頃から交際が始まった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、184-187頁</ref>。長い交際期間の末に1996年7月に結婚式を挙げたが、同年10月に休暇中のホテルで口論の末に暴力<ref name="ガッザ271-272">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、271-272頁</ref>を振るったことを契機に別居生活に入り<ref name="ガッザ271-272"/>、調停の末に1998年8月に離婚が成立した。元妻との継娘である[[ビアンカ・ガスコイン|ビアンカ]] ([[:en:Bianca Gascoigne|Bianca Gascoigne]]) はモデルや[[女優]]を務めている。 |
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== 個人成績 == |
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=== クラブでの成績 === |
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2004-05シーズン終了時の成績<ref>{{en icon}} {{cite news| url =http://www.national-football-teams.com/v2/player.php?id=14400 | title= Player - Paul Gascoigne |publisher= National Football Teams | date= | accessdate = 2011年7月17日}}</ref> |
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{{Football player statistics 1|YY}} |
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|1984-85||rowspan="4"|[[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・U]]||rowspan="4"|[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||2||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||2||0 |
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|- |
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|1985-86||31||9||1||0||3||0||colspan="2"|-||35||9 |
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|- |
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|1986-87||24||5||0||0||2||0||colspan="2"|-||26||5 |
|||
|- |
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|1987-88||35||7||3||3||3||1||colspan="2"|-||41||11 |
|||
|- |
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|1988-89||rowspan="4"|[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]]||rowspan="4"|[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||32||6||0||0||5||1||colspan="2"|-||37||7 |
|||
|- |
|||
|1989-90||34||6||0||0||4||1||colspan="2"|-||38||7 |
|||
|- |
|||
|1990-91||26||7||6||6||5||6||colspan="2"|-||37||19 |
|||
|- |
|||
|1991-92||0||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||0||0 |
|||
|- |
|||
|1992-93||rowspan="3"|[[SSラツィオ|ラツィオ]]||rowspan="3"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||22||4||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||26||4 |
|||
|- |
|||
|1993-94||17||2||0||0||colspan="2"|-||0||0||17||2 |
|||
|- |
|||
|1994-95||4||0||0||0||colspan="2"|-||0||0||4||0 |
|||
|- |
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|1995-96||rowspan="3"|[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズ]]||rowspan="3"|[[スコティッシュ・プレミアリーグ|プレミア]]||28||14||4||3||3||1||7||1||42||19 |
|||
|- |
|||
|1996-97||26||13||1||0||4||3||3||1||34||17 |
|||
|- |
|||
|1997-98||20||3||3||0||0||0||5||0||28||3 |
|||
|- |
|||
|1997-98||rowspan="3"|[[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]||[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||7||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||8||0 |
|||
|- |
|||
|[[FAプレミアリーグ1998-1999|1998-99]]||rowspan="2"|[[プレミアリーグ|プレミア]]||26||3||1||0||2||0||colspan="2"|-||29||3 |
|||
|- |
|||
|[[プレミアリーグ1999-2000|1999-00]]||8||1||1||0||2||0||colspan="2"|-||11||1 |
|||
|- |
|||
|[[FAプレミアリーグ2000-2001|2000-01]]||rowspan="2"|[[エヴァートンFC|エヴァートン]]||rowspan="2"|[[プレミアリーグ|プレミア]]||14||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||15||0 |
|||
|- |
|||
|[[FAプレミアリーグ2001-2002|2001-02]]||18||1||4||0||1||0||colspan="2"|-||23||1 |
|||
|- |
|||
|2001-02||[[バーンリーFC|バーンリー]]||[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]||6||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||6||0 |
|||
|- |
|||
|2003||[[甘粛天馬]]||[[中国サッカー・甲級リーグ|甲級]]||4||2||0||0||0||0||colspan="2"|-||4||2 |
|||
|- |
|||
|2004-05||[[ボストン・ユナイテッドFC|ボストン・U]]||[[フットボールリーグ2|リーグ2]]||4||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||5||0 |
|||
{{Football player statistics 3|4|ENG}}267||45||16||9||30||9||colspan="2"|-||313||63 |
|||
{{Football player statistics 4|ITA}}43||6||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||47||6 |
|||
{{Football player statistics 4|SCO}}74||30||8||3||7||4||15||2||104||39 |
|||
{{Football player statistics 4|CHN}}4||2||0||0||0||0||colspan="2"|-||4||2 |
|||
{{Football player statistics 5}}378||83||28||12||37||13||15||2||468||110 |
|||
{{Football player statistics end}} |
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=== 代表での成績 === |
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イングランド代表として最後の試合となった1998年5月29日のベルギー戦までの出場数<ref name="rsssf"/> |
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{| class="wikitable" style="text-align: center;" |
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|- style="background:beige" |
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!rowspan="2"|チーム |
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!rowspan="2"|年 |
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!colspan="2"|公式戦 |
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!colspan="2"|親善試合 |
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!colspan="2"|合計 |
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|- style="background:beige" |
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!出場 |
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!得点 |
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!出場 |
|||
!得点 |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
|- |
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|rowspan="12"|{{ENGf}} |
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|1988 |
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== 個人タイトル == |
== 個人タイトル == |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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* {{Cite book|和書|author=ポール・ガスコイン著、[[東本貢司]]訳|year=2006|title=ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝|publisher=カンゼン|isbn=978-4901782739 }} |
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* {{Cite book | last=Paul Gascoigne | authorlink= | coauthors= John McKeown, Hunter Davies | year=2006 | title=''Being Gazza: Tackling My Demons'' | edition= | publisher=Headline Publishing | location=London | isbn= 0-7553-1543-7}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 脚注 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=ポール・ガスコイン著、[[東本貢司]]訳|year=2006|title=ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝|publisher=カンゼン|isbn=978-4901782739 |ref=ガスコイン 2006}} |
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* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、[[賀川浩]]監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208187|ref=グランヴィル 1998}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2011年9月2日 (金) 23:09時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
ポール・ジョン・ガスコイン Paul John Gascoigne | |||||
愛称 | ガッザ | |||||
ラテン文字 | Paul Gascoigne | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1967年5月27日(57歳) | |||||
出身地 | ゲイツヘッド | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1985-1988 1988-1992 1992-1995 1995-1998 1998-2000 2000-2002 2002 2003 2004 |
ニューカッスル・ユナイテッド トッテナム・ホットスパー ラツィオ グラスゴー・レンジャーズ ミドルズブラ エヴァートン バーンリー 甘粛天馬 ボストン・ユナイテッド |
92 (21) 92 (19) 43 (6) 74 (30) 41 (4) 32 (1) 6 (0) 4 (2) 4 (0) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1988 1989 1988-1998[1] |
イングランド U-21 イングランド B イングランド |
13 (5) 4 (1) 57 (10)[1] | ||||
監督歴 | ||||||
2005 | ケタリング・タウン | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ポール・ガスコイン(Paul John Gascoigne, 1967年5月27日 - )は、イングランドの元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF)。愛称は「ガッザ」 (Gazza)[注 1]。
太目の体型ながら高いドリブルテクニックとパスセンス[3][4][5]の持ち主であり、愛嬌のあるキャラクターで1990年代にはイギリスの国民的英雄と呼ばれ人気を集めた[6]。その反面、公序良俗に反するような言動、飲酒癖やうつ病にまつわるトラブルを頻繁に引き起こすことでも知られ[7][8]、引退後もしばしばメディアを賑わしている[9]。
生い立ち
タインアンドウィア州ゲイツヘッドで煉瓦職人の父と母の間に長男として生まれた。ガスコインという姓はフランス[10]南部のガスコーニュ地方に由来し、本名の「ジョン・ポール」とは母親がビートルズのファンであり、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの名前に因んで名づけられた[11]。幼少の頃からサッカーに親しみ地元のサッカークラブであるニューカッスル・ユナイテッドFCのサポーターであると共に、オランダのヨハン・クライフやブラジルのペレのファンだった[12]。
ゲイツヘッド・ボーイズに在籍していた12歳の頃からサッカークラブのスカウトの関心を集め、イプスウィッチ・タウン、ミドルズブラ、サウサンプトンのテストを受けたがいずれも不合格に終わり[13]、1980年にニューカッスル・ユナイテッドの学生会員となった[13]。毎週火曜日の練習に参加しながら学校に通う日々を送っていが、1982年8月、当時のイングランド代表のスター選手であるケビン・キーガンがクラブに入団した際には、キーガンの雑用係を務めていた[14]。
1983年5月、16歳の誕生日に週給25ポンドの2年契約でニューカッスルと練習生契約を結んだ[2]。ユースチームでは直ぐに頭角を現しチームの成績も好調だったが、この当時から太目の体型だった。指導者からは体重の事や私生活のトラブルの事でたびたび叱責を受けており、そのストレス発散のために過食を繰り返していた[15]が、正規の練習の後に減量のためのランニングを課せられていた[15]。
クラブ経歴
ニューカッスル
1984年6月、トップチームの監督にジャック・チャールトンが就任すると、更なる減量と食事制限を課し[16]、ユースチームの主将に任命した[16]。同時期にリザーブチームに昇格を果たすと、1985年3月からはトップチームの遠征に帯同するようになり、同年4月13日のクイーンズパーク・レンジャーズ戦で途中交代からリーグデビューを果たした[17]。一方で、ユースチームの主将として挑んだFAユースカップでは準決勝でバーミンガム・シティを下して決勝戦に駒を進め、決勝ではワトフォードを4-1で下し、1962年大会以来となる23年ぶり2回目の優勝に導いた[17]。この優勝の後にトップチームと週給120ポンドでプロ契約を結んだ[17]。
ニューカッスルではクリス・ワドルらとチームメイトとなり、デビューとなった1984-85シーズンは2試合の出場に終わったが、翌1985-86シーズンになると出場機会が増え、3年目の1986-87シーズンレギュラーに定着し24試合で5得点を挙げた。これらの活躍により、それまで代表レベルでの経験のなかったガスコインは21歳以下のイングランド代表に招集される事になった[18]。リーグ戦での活躍から「小さな宝石」や「期待の新星」として注目を集める[19]一方で、次第にクラブから移籍をしたいという気持ちが高まっていった[19]。ガスコイン自身は第一志望としてリヴァプールFCへの移籍を希望していた[19]が、ブライアン・ロブソンの後継者を探してたアレックス・ファーガソンが監督を務めるマンチェスター・ユナイテッドFCからも交渉を持ちかけられていた[20]。ファーガソンから熱心な勧誘を受け移籍に気持ちが傾いた[21]が、テリー・ヴェナブルズが監督を務めるトッテナム・ホットスパーから勧誘を受けた際の、ヴェナブルズの「私の下で指導を受ければ確実にイングランド代表に選ばれるだろう」との言葉に触発されて[21]、トッテナムへ移籍する事が決まった[21]。
トッテナム
1988年夏にトッテナムへ移籍したが、移籍金の220万ポンドは、当時のイングランドのクラブが支払った最高金額だった[22]。ヴェナブルズの指導下で中心選手として活躍し、同年にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。1989-90シーズンのリーグ戦ではスペインのFCバルセロナからゲーリー・リネカーが加入するとリーグ戦では二人のコンビプレーもあって[23]チームを1988-89シーズンの6位から3位に押し上げた。
ヴェナブルズの言葉通りに1988年にイングランド代表に選ばれ、1990年のワールドカップ・イタリア大会ではベスト4進出の原動力となったが、この大会後にイギリス国内ではガスコインの人気が過熱し新たなスター選手として迎えられた(後述)[6]。1990-91シーズンにヘルニアの手術を受けたため[24]、1か月間は試合から遠ざかった[24]が、FAカップ準決勝のアーセナルFC戦ではフリーキックを直接決めて3-1の勝利に貢献[24]し、ウェンブリー・スタジアムでの決勝戦に駒を進めた。シーズンの最中からイタリアのラツィオがガスコインの獲得に関心を示しており[25]、FAカップ決勝がトッテナムでの最後の試合になると考えられていた[25]。しかし決勝のノッティンガム・フォレストFC戦において、前半17分に相手DFのゲイリー・チャールズ (Gary Charles) に悪質なタックルを行った際[26]に、自らが右膝靭帯断裂の重傷を負った[26]。試合はガスコインを欠いたもののトッテナムが延長戦の末にノッティンガムを下しタイトルを獲得したが、ガスコイン自身は搬送された病院のテレビでこの模様を観戦[26]しており、治療とリハビリのために1年4か月試合から遠ざかることになった[7]。この負傷に関して対戦相手のノッティンガムの選手だったスチュアート・ピアースは次のように評している。
彼はただ一人の力で試合の流れを変えてしまう、我々にとって悩ましい選手だった。しかしあの試合のタックルは彼のサッカー人生に重大な影響を及ぼしてしまい、二度と以前のプレーを取り戻すことは出来なかった[27]。 — スチュアート・ピアース
ラツィオ
1992年5月、550万ポンドの金額でセリエAのラツィオへ移籍[9]。同年9月22日のジェノアCFC戦でリーグ戦デビューを果たすと22試合に出場し4得点を記録[28]。チームはリーグ戦で5位に入りUEFAカップ出場権獲得するなど結果を残したが、国際大会への出場はチームにとって16年ぶりの出来事だった[28]。しかし肥満問題などから次第に調子を落とすと[7]、1994年4月には練習中にアレッサンドロ・ネスタにタックルを仕掛けた際に右脚を骨折し[29]、1シーズンを棒に振ることになった[29]。
レンジャーズ
1995年7月、430万ポンドの金額でスコティッシュ・プレミアリーグのレンジャーズへ移籍[30]。ウォルター・スミス監督の下で1995-96シーズンのリーグとカップの二冠獲得に貢献。1996年にはスコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞とスコットランドPFA年間最優秀選手賞を同時受賞した。翌1996-97シーズンには、私生活でのトラブル(後述)や脚の負傷により調子を落とし、批判を受ける機会があった[31]が、シーズン中盤に調子を取り戻すとリーグ連覇とリーグカップの二冠獲得に貢献した[31]。
1997-98シーズンには妻との離婚問題[32]だけでなく、武装組織のIRAのメンバーを名乗る人物からの脅迫[33]、サポーターへの挑発行為に関する騒動[注 2]など、様々なトラブルに見舞われ、ストレスから逃れるために次第にアルコールに頼った生活を送る様になった[32]。また飲酒だけでなく、不眠症を解消するために睡眠薬に頼るようになったことを契機に薬物中毒[32]になったことが、プレーの面にも悪影響を及ぼすようになった[32]。ガスコイン自身はレンジャーズでの最初の2年間はサッカー人生において最高の時期だったが、最後の数ヶ月間は人生において最悪の時期だったと振り返っている[32]。
その後
1998年3月に345万ポンド[34]の金額でフットボールリーグ・ディビジョン1(2部リーグに相当)のミドルズブラFCへ移籍。当時のミドルズブラの監督はイングランド代表でチームメイトだったブライアン・ロブソンが務めており、シーズン終盤での加入だったが7試合に出場しチームのプレミアリーグ昇格と、フットボールリーグカップ準優勝に貢献した[35]。しかし、代表チームではワールドカップの直前にメンバーから落選(後述)し、同年秋にはアルコール依存とうつ病の問題により自殺未遂を引き起こし[36]、精神病院に1か月間入院[36]するなど、依然として問題を抱えていた。
2000年3月に、エバートンFCへ移籍。レンジャーズ時代の監督だったスミスの下で再びプレーすることになったが、私生活でもアルコール依存に絡んだ問題をしばしば起こし[8]、ヘルニアが再発するなど負傷を抱えたこともあってプレーに精彩を欠いていた。シーズン途中にスミスが退任したことでガスコインもチームを退団し、フットボールリーグ・ディビジョン1のバーンリーFCへ移籍し6試合に出場した。
2003年1月、中華人民共和国の甘粛天馬 (Gansu Tianma F.C.) に移籍し4試合で2得点を挙げたが、同国でSARSウイルスが流行したことによりリーグ戦が中止されたことを受けてそのままチームを退団し[37]、アメリカ合衆国に渡って治療とカウンセリングを受けた[37]。2004年にフットボールリーグ2(4部リーグに相当)のボストン・ユナイテッドFCに移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。
代表経歴
ニューカッスルの練習生時代にはイングランド学生代表に選ばれた経験はなかったが、1987年に21歳以下のイングランド代表に選出され、トゥーロン国際大会に出場し5位。翌1988年の同大会では準優勝に貢献するなど13試合に出場し5得点を記録した。
1990 FIFAワールドカップ
1990年7月4日、1990 FIFAワールドカップ準決勝、西ドイツ戦のメンバー[38] |
イングランド代表としては同年9月14日のデンマークとの親善試合で代表デビューを果たし[1]、同年11月16日に行われた1990 FIFAワールドカップ・予選のアルバニア戦で代表初得点を決めた[1]が、当初はボビー・ロブソン監督の信頼を得るまでには至らなかった[39]。翌1990年にイタリアで開催される本大会に向けた代表メンバーの中では当落線上の選手の一人だったが[39]、同年4月25日のチェコスロバキアとの親善試合を前にした記者会見でのロブソンの「この試合が最後のチャンス」との言葉に奮起し[39]、1得点を挙げるなど結果を残した事で代表メンバーに選出された[39]。
大会ではロブソン監督の中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦のエジプト戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、ベルギー戦でデビッド・プラットの決勝点をアシストする活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の西ドイツ戦では、相手のエースであるローター・マテウスを上回るプレーを見せながらも[40]、1-1の同点のまま迎えたPK戦の末に敗れて決勝戦進出を逃した。また、この試合の延長戦においてガスコインはトーマス・ベルトルトへの反則により主審から警告を受けたが、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流した[8][9][40][41]。この試合での一幕はテレビを通じて世界中に放映されていたことから「ガッザの涙」として知られるようになった[41]が、イギリス国内での反響は大きく、「敗戦に悔し涙を流す」国民的な英雄[41]として扱われただけでなく、後のサッカー文化に影響を与えたとも言われている[41]。
ガスコインの下にはテレビ番組、各種イベント、コマーシャル出演、関連グッズ販売など様々な依頼が殺到し[42]、ワールドカップ終了後の1年間に数百万ポンドの利益を得た[43]。ガッザ・マニアと呼ばれる熱狂的なファンが登場するなどの社会現象となり、ロックバンドの『ビートルズ』の人気に匹敵すると評された[6]。また同年には英国放送協会 (BBC) の視聴者が選ぶスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー (BBC Sports Personality of the Year Award) に選ばれた[6][44]が、これはサッカー選手としては1966年のワールドカップ・イングランド大会の年にボビー・ムーアが受賞して以来、2人目の出来事だった[6][注 3]。
1994 FIFAワールドカップ予選
1991年に負った右膝の十字靭帯断裂のために1992年のUEFA欧州選手権1992の出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受け、同年10月に行われたワールドカップ・アメリカ大会予選のノルウェー戦で復帰を果たした。その後もガスコインは招集を受けたがグラハム・テイラー (Graham Taylor (footballer)) 監督との関係は良好ではなく、自身も出場機会が巡っても多くの結果を残すことは出来ず[45]、最終的にノルウェーとオランダに競り負け本大会出場を逃した。1994年に所属クラブで脚を骨折したため、1年近く代表の試合からは遠ざかった[29]。
UEFA欧州選手権1996
地元開催のUEFA欧州選手権1996に向けて、トッテナム時代に指導を受けたヴェナブルズが監督に就任した。1995年6月に行われた日本との親善試合で復帰を果たすと、べナブルズ指揮下の代表チームにおいて重要な選手と見なされるようになった。1996年の本大会ではグループリーグ初戦でスイスに引き分けたが、続くスコットランド戦を2-0、第3戦のオランダ戦を4-1で下して首位で決勝トーナメントへ駒を進めた。準々決勝ではスペインをPK戦の末に下し、1968年大会以来28年ぶりに準決勝進出を果たしたが、準決勝はドイツに1990年のワールドカップの際と同様にPK戦の末に敗れ、決勝進出を逃した。
なお、グループリーグ第2戦のスコットランド戦において、相手DFのコリン・ヘンドリーの頭上にボールを浮かしてタックルを交わし、浮き球を右足でボレーシュートを決めたシーンは「世紀のゴール」と呼ばれ語り草となっている[4][9][46][47]。またガスコイン自身はグループリーグ第3戦のオランダ戦での勝利をイングランド代表史上に残る勝利に挙げているが[48]が、この大会について次のように評している。
欧州選手権も1990年のワールドカップも勝てたはずだった。ロブソンとヴェナブルズという名監督の下で最高のチームで挑んだが、2度ともPK戦でドイツに敗れ、2度ともドイツが優勝した。彼らが優れていたわけじゃない、我々に運が無かっただけだ[49]。 — ポール・ガスコイン
1998 FIFAワールドカップ予選
欧州選手権終了後にヴェナブルズの後任としてグレン・ホドルが監督に就任したが、引き続き代表に招集され、ワールドカップ・フランス大会予選に出場。1997年10月11日に敵地のローマで行われたイタリア戦は0-0の引分けに終わったが、この試合の結果により予選グループ首位で本大会出場を決めた。自身はこの試合を選手キャリアにおいて最高のパフォーマンスを発揮した試合の一つに挙げている[50]。翌1998年の本大会に向けた28人の代表候補に選ばれ、同年5月のスペイン合宿に参加したが、ホドルはガスコインの体調と精神面を懸念して[51]大会直前にメンバーから外す決定を下した[9][47]。
ガスコインを欠いたイングランド代表は決勝トーナメントに進出したが、アルゼンチンに敗れてベスト16で敗退。この結果について当時のチームメイトだったデビッド・ベッカムは2003年に出版した自伝の中で「ガッザがいれば違った結果になっていたかもしれない。ガッザなら彼にしか為し得ない何かをチームにもたらしたはず」と発言している[52]。その後、代表チームに招集される機会はなく[53]、1998年5月29日に行われたベルギーとの親善試合が最後の試合出場となった[1]。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。
引退後経歴
2005年10月27日から下部リーグのケタリング・タウンFCの監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された[54]。この日の深夜にリヴァプール市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された[55]。
2006年11月、ロンドン西部のナイトクラブで男性に暴行した容疑で地元警察に身柄を拘束された[56]。
2008年2月、ホテルの従業員から通報を受け警察は、深刻な精神障害に犯された者を強制的に精神病院に収容できるという心の健康に関する法律に基づき、イングランド北東部のゲートヘッドのホテルでガスコインを拘束(警察発表では負傷者及びホテルへの被害は無し)、“メンタルヘルス法”に基づき精神病院へ強制収容された[8]。同年9月18日、パブの窓を激しく叩いたとして器物損壊容疑で逮捕された[57]。
同年11月、国税庁から未納金推定20万ポンドの支払いを命じられ納税まで9週間の猶予が与えられたが、自己破産の可能性も出てきたとの報道もされた[58]。12月には息子がチャンネル4制作のドキュメンタリー番組のインタビューに応じ「出来ることなら家族の前から消えてほしい」と発言するなど身内からも見放された状態となった[59]。このような状況から、彼を取り巻く状況は日を増すたびに悪化していったが、2009年のインタビューではリハビリ施設にて健康維持療法を受け、アルコールと薬物依存から決別し健全な生活を取り戻すことに意欲を示していた[60]。
2010年2月8日、ノース・ヨークシャーの飲食店で友人と共に騒動を起こし、飲酒運転の容疑で警察に逮捕された[61]。翌日に揃って保釈されたが、出所祝いに立ち寄ったバーで店員と口論となり2夜連続で逮捕された[62]。また、選手生活で手に入れた1400万ポンド(約20億円)の財産が底をつき自活不能な状況にあるため、プロフットボール選手協会(PFA)に住居を確保してくれるよう依頼があったとの報道がされた[63]。
9月にはノーザンプレミアフットボールリーグディヴィジョン1ノ-ス(8部リーグに相当)のガーフォース・タウンの監督に就任するとの報道がされた[64][65]。本人も現場復帰に意欲を見せ[64]、同クラブの代表者は「営利目的ではなく、困難な人生を歩んでいる彼のような人物に再びチャンスを与えたい」と発言していた[64]。PFAの最高責任者もガスコインの復帰に関して今後もサポートを続けていくことを表明していたが[66]、最終的にこのオファーを辞退[67][68]。
この報道から数日後の10月8日、ニューカッスル市内の路上で白昼に飲酒の上、蛇行運転をしていた容疑により再び逮捕[67]。取調べの際に法律で定められている酒気帯び運転の基準値の約4倍の濃度のアルコールが検出された[69]。
同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された[70][71][72]。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。
人物
評価
プレースタイルに関しては「イングランドサッカー史上において最も優れた才能の持ち主[3][73]」「ボビー・チャールトンとジョージ・ベストの才能を足して2で割ったような選手[74]」「稀代の国際的な選手[75]」などの高い評価を得ながら、前述のように奇行癖や飲酒癖にまつわるトラブルの数々[7]から、人物そのもののとしては「サッカーの上手な愚か者[76]」」「自己破滅的[77]」「酔っ払っていなければ最高の選手[78]」「刹那的[79]」などと評されている。
半生を綴った自伝のGazza My Story (邦題: ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝)は、2005年に英国最優秀スポーツ書籍賞 (The Sports Book of the Year) を受賞している[80]が、実質的な執筆はビートルズの公式伝の執筆者として知られるジャーナリストのハンター・デイヴィス (Hunter Davies) が行っている[80]。
私生活
元モデルであり、既婚者で2人の子供の母親であった女性とは1991年頃から交際が始まった[81]。長い交際期間の末に1996年7月に結婚式を挙げたが、同年10月に休暇中のホテルで口論の末に暴力[82]を振るったことを契機に別居生活に入り[82]、調停の末に1998年8月に離婚が成立した。元妻との継娘であるビアンカ (Bianca Gascoigne) はモデルや女優を務めている。
個人成績
クラブでの成績
2004-05シーズン終了時の成績[83]
クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグ杯 | 国際大会 | 通算 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1984-85 | ニューカッスル・U | ディビジョン1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | |
1985-86 | 31 | 9 | 1 | 0 | 3 | 0 | - | 35 | 9 | |||
1986-87 | 24 | 5 | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 26 | 5 | |||
1987-88 | 35 | 7 | 3 | 3 | 3 | 1 | - | 41 | 11 | |||
1988-89 | トッテナム | ディビジョン1 | 32 | 6 | 0 | 0 | 5 | 1 | - | 37 | 7 | |
1989-90 | 34 | 6 | 0 | 0 | 4 | 1 | - | 38 | 7 | |||
1990-91 | 26 | 7 | 6 | 6 | 5 | 6 | - | 37 | 19 | |||
1991-92 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |||
1992-93 | ラツィオ | セリエA | 22 | 4 | 4 | 0 | - | - | 26 | 4 | ||
1993-94 | 17 | 2 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 17 | 2 | |||
1994-95 | 4 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 4 | 0 | |||
1995-96 | レンジャーズ | プレミア | 28 | 14 | 4 | 3 | 3 | 1 | 7 | 1 | 42 | 19 |
1996-97 | 26 | 13 | 1 | 0 | 4 | 3 | 3 | 1 | 34 | 17 | ||
1997-98 | 20 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 28 | 3 | ||
1997-98 | ミドルズブラ | ディビジョン1 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 8 | 0 | |
1998-99 | プレミア | 26 | 3 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 29 | 3 | ||
1999-00 | 8 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 11 | 1 | |||
2000-01 | エヴァートン | プレミア | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 15 | 0 | |
2001-02 | 18 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 23 | 1 | |||
2001-02 | バーンリー | チャンピオンシップ | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 6 | 0 | |
2003 | 甘粛天馬 | 甲級 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 4 | 2 | |
2004-05 | ボストン・U | リーグ2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 5 | 0 | |
通算 | イングランド | 267 | 45 | 16 | 9 | 30 | 9 | - | 313 | 63 | ||
イタリア | 43 | 6 | 4 | 0 | - | - | 47 | 6 | ||||
スコットランド | 74 | 30 | 8 | 3 | 7 | 4 | 15 | 2 | 104 | 39 | ||
中国 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 4 | 2 | |||
総通算 | 378 | 83 | 28 | 12 | 37 | 13 | 15 | 2 | 468 | 110 |
代表での成績
イングランド代表として最後の試合となった1998年5月29日のベルギー戦までの出場数[1]
チーム | 年 | 公式戦 | 親善試合 | 合計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
イングランド | 1988 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1989 | 2 | 1 | 2 | 0 | 4 | 1 | |
1990 | 7 | 0 | 6 | 1 | 13 | 1 | |
1991 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | |
1992 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | |
1993 | 6 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | |
1994 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | |
1995 | 0 | 0 | 6 | 0 | 6 | 0 | |
1996 | 8 | 2 | 3 | 1 | 11 | 3 | |
1997 | 3 | 1 | 5 | 0 | 8 | 1 | |
1998 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | |
通算 | 28 | 8 | 29 | 2 | 57 | 10 |
個人タイトル
- PFA年間最優秀若手選手賞 (1988年)
- BBC選定年間最優秀スポーツ選手 (1990年)
- スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞 (1996年)
- スコットランドPFA年間最優秀選手賞 (1996年)
- イングランドサッカー殿堂 (2002年)
- グラスゴー・レンジャーズFC 殿堂(2006年)
著書
- ポール・ガスコイン著、東本貢司訳『ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝』カンゼン、2006年。ISBN 978-4901782739。
- Paul Gascoigne; John McKeown, Hunter Davies (2006). Being Gazza: Tackling My Demons. London: Headline Publishing. ISBN 0-7553-1543-7{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。
脚注
注釈
- ^ 元々は「ガッサ」と呼ばれていた[2]が、ニューカッスル・ユナイテッドの練習生時代にガスコインを指導していたコリン・スゲットの出身地であるサンダーランド訛りにより、「ガッザ」と呼ばれるようになった[2]。
- ^ 1998年1月2日に行われたセルティックFCとのダービーマッチにおいて得点を決めた後にセルティックのサポーターに対し、フルートを吹くパフォーマンスを行って挑発したことが、カトリック教徒への侮辱として問題視され、2万ポンドの罰金を科せられた[33]。
- ^ サッカー選手では1998年にマイケル・オーウェン、2001年にデビッド・ベッカム、2009年にライアン・ギグスが受賞した[44]。
脚注
- ^ a b c d e f “Paul John Gascoigne - International Appearances”. rsssf.com 2011年8月12日閲覧。
- ^ a b c ガスコイン 2006、66-67頁
- ^ a b グランヴィル 1998、359-360頁
- ^ a b 『サッカーマルチ大辞典 改討版』ベースボールマガジン社、2006年、165頁頁。ISBN 978-4583038803。
- ^ 東本貢司. “ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編)”. スポーツナビ. 2010年10月14日閲覧。
- ^ a b c d e 「`91の顔 The Face of `91 ポール・ガスコイン」『サッカーマガジン』1991年3月号、10-14頁
- ^ a b c d “Paul Gascoigne factfile: a troubled life”. guardian.co.uk (2008年2月21日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ a b c d “ガスコイン氏 英当局に抑留される”. AFPBB News (2008年2月22日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e “Turbulent life of football genius Paul Gascoigne”. Metro.co.uk. 2010年10月14日閲覧。
- ^ ガスコイン 2006、37頁
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- ^ ガスコイン 2006、48頁
- ^ a b ガスコイン 2006、56-57頁
- ^ ガスコイン 2006、63-64頁
- ^ a b ガスコイン 2006、77-78頁
- ^ a b ガスコイン 2006、84-85頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、87-89頁
- ^ ガスコイン 2006、99頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、104-106頁
- ^ ガスコイン 2006、110頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、111-114頁
- ^ ガスコイン 2006、117頁
- ^ ガスコイン 2006、175-176頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、182-183頁
- ^ a b ガスコイン 2006、188-189頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、191-193頁
- ^ ガスコイン 2006、181頁
- ^ a b ガスコイン 2006、219頁
- ^ a b c ガスコイン 2006、233-234頁
- ^ ガスコイン 2006、243頁
- ^ a b ガスコイン 2006、275頁
- ^ a b c d e ガスコイン 2006、284-285頁
- ^ a b ガスコイン 2006、284-285頁
- ^ ガスコイン 2006、292頁
- ^ ガスコイン 2006、294頁
- ^ a b ガスコイン 2006、284-285頁
- ^ a b ガスコイン 2006、372頁
- ^ 牛木素吉郎、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術」『サッカーマガジン』1990年12月号、143頁
- ^ a b c d グランヴィル 1998、360頁
- ^ a b グランヴィル 1998、185頁
- ^ a b c d 森田浩之『メディアスポーツ解体 <見えない権力>をあぶり出す』日本放送出版協会、2009年、85-86頁頁。ISBN 978-4140911488。
- ^ ガスコイン 2006、164-165頁
- ^ ガスコイン 2006、166-167頁
- ^ a b “Sports Personality Of The Year”. BBC (2009年12月). 2010年7月22日閲覧。
- ^ ガスコイン 2006、231頁
- ^ “Top 10 memorable goal celebrations”. Telegraph (2008年3月3日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ a b “Paul Gascoigne - A Football Legend Profile”. TalkFootball.co.uk. 2010年10月14日閲覧。
- ^ ガスコイン 2006、264頁
- ^ ガスコイン 2006、181頁
- ^ ガスコイン 2006、307-308頁
- ^ ガスコイン 2006、301頁
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- ^ ガスコイン 2006、410頁
- ^ “Kettering sack manager Gascoigne”. BBC SPORT (2005年12月5日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “Gazza freed after assault inquiry”. BBC NEWS (2005年12月6日). 2010年10月14日閲覧。
- ^ “元イングランド代表のガスコイン氏が暴行の容疑で警察に身柄を拘束される - 英国”. BBC SPORT (2006年11月8日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “サッカー=元イングランド代表ガスコイン、器物損壊容疑で逮捕”. Reuters (2008年9月19日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “ガスコイン氏 税金滞納で自己破産の可能性”. Reuters (2008年11月7日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “ガッザの息子 父親が「消える」ことを望むと報じられる”. AFPBB News (2008年12月27日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “ガスコイン氏 「これが最後のチャンス」”. AFPBB News (2009年1月2日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “ガスコイン氏 飲酒運転で逮捕”. AFPBB News (2010年2月9日). 2010年7月22日閲覧。
- ^ “ガスコイン氏2夜連続で逮捕される”. nikkansports.com (2010年2月10日). 2010年10月23日閲覧。
- ^ “元イングランド代表FWがホームレス ?”. livedoor スポーツ (2010年2月18日). 2010年10月14日閲覧。
- ^ a b c “Gascoigne given managerial chance at Garforth”. ESPN Soccernet (2010年9月26日). 2010年9月29日閲覧。
- ^ “元イングランド代表のガスコインが8部リーグの監督に就任”. スポーツナビ (2010年9月29日). 2010年9月29日閲覧。
- ^ “PFA will continue to support Gascoigne”. ESPN Soccernet (2010年10月11日). 2010年10月14日閲覧。
- ^ a b “Paul Gascoigne facing second drink-driving charge”. BBC News (2010年10月11日). 2010年10月14日閲覧。
- ^ “No Gascoigne in sight as his Garforth Town win”. ESPN Soccernet (2010年10月11日). 2010年10月14日閲覧。
- ^ “Jail warning for Gazza for drink driving”. BBC News (2010年10月20日). 2010年10月23日閲覧。
- ^ “Gascoigne arrested on suspicion of drugs possession”. Yahoo! News UK (2010年10月22日). 2010年10月23日閲覧。
- ^ “Gazza arrested over drug offence”. BBC News (2010年10月22日). 2010年10月23日閲覧。
- ^ “サッカー=元イングランド代表ガスコイン逮捕、薬物所持容疑”. Reuters (2010年10月23日). 2010年10月24日閲覧。
- ^ ガスコイン 2006、291頁
- ^ ガスコイン 2006、206頁
- ^ ガスコイン 2006、254頁
- ^ ガスコイン 2006、267頁
- ^ ガスコイン 2006、171頁
- ^ ガスコイン 2006、239頁
- ^ ガスコイン 2006、231頁
- ^ a b ガスコイン 2006、477頁
- ^ ガスコイン 2006、184-187頁
- ^ a b ガスコイン 2006、271-272頁
- ^ “Player - Paul Gascoigne”. National Football Teams 2011年7月17日閲覧。
参考文献
- ポール・ガスコイン著、東本貢司訳『ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝』カンゼン、2006年。ISBN 978-4901782739。
- ブライアン・グランヴィル著、賀川浩監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳『決定版ワールドカップ全史』草思社、1998年。ISBN 978-4794208187。