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| caption=<small>攻撃を受けるアメリカ海軍の空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]</small>
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米軍の稼働空母が一時的に空白
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| commander1={{Flagicon2|日本|naval}} [[山本五十六]]<br />{{Flagicon2|日本|naval}} [[近藤信竹]]<!-- 支援部隊指揮官/前進部隊指揮官 --><br />{{Flagicon2|日本|naval}} [[南雲忠一]]<!-- 機動部隊指揮官、近藤中将の部下 --><br />{{Flagicon2|日本|naval}} [[角田覚治]]<!-- 基地航空部隊、外南洋部隊、先遣部隊、各戦隊司令官略 -->
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| commander2={{Flagicon|USA1912}} [[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[トーマス・C・キンケイド]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ジョージ・D・マレー]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ウィリス・A・リー]]
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| casualties1=重巡1大破<br>空母2中破<br>駆逐艦2小破
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'''南太平洋海戦'''(みなみたいへいようかいせん)は{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=246-247|ps=南太平洋海戦}}、[[1942年]][[10月26日]]に[[ソロモン海]]域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦のこと{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=199a|ps=(昭和17年10月26日記事)(中略)「ソロモン」南東海面にて機動部隊大会戦。戦果、[[戦艦|B]]×1、[[航空母艦|A]]×2~3、艦型未詳×1 撃沈、[[巡洋艦|C]]×3、[[駆逐艦|d]]×1 中破。我被害、「由良」〔軽巡洋艦〕沈、「秋月」〔駆逐艦〕大破、「瑞鳳」〔航空母艦〕「翔鶴」〔同上〕中破、「筑摩」〔重巡洋艦〕中破。/〔海戦の名称について〕}}。[[アメリカ軍]]側の呼称は'''サンタ・クルーズ諸島海戦'''(''Battle of the Santa Cruz Islands''){{Sfn|ニミッツ|1962|p=131a|ps=第18図 サンタ・クルーズ諸島海戦(1942年10月26日)}}。日本軍は空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]と[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]が大破・中破という損害を受けたものの、米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を撃沈、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を中破という戦果を挙げ、'''戦術的には日本軍の勝利'''であった{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=165a-169|ps=南太平洋海戦}}。しかし多数の航空機と搭乗員を失い、また戦闘の主目的である[[ガダルカナル島]]飛行場も占領できなかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=133}}。
'''南太平洋海戦'''('''みなみたいへいようかいせん''')とは、[[1942年]][[10月26日]]にソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦を示す。[[アメリカ軍]]側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(''Battle of the Santa Cruz Islands'')。


==背景==
== 概要 ==
[[ガダルカナル島]]における[[ガダルカナル島の戦い|日米の戦い]]において、最も重要な役割を担った同島[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場基地]]をめぐって行われた日米主力機動部隊の海戦<ref name="叢書(83)268">[[#叢書83ガ島戦]]268頁「第六章南太平洋海戦」</ref>。1942年(昭和17年)10月下旬、ガダルカナル島の[[第17軍 (日本軍)|日本陸軍第十七軍]]が米軍支配下のヘンダーソン飛行場に総攻撃を実施することになり、日本海軍は空母機動部隊を含む多数の水上艦艇を投入して支援にあたることとなった<ref>[[#S1706第五戦隊日誌(4)]] pp.3-4〔 (二)聯合艦隊ハ十月十五日頃航空撃滅戰及艦砲ヲ以テスル「ガ」飛行場破壊竝ニ支援部隊ノ支援ノ下ニ輸送船団ヲ以テ陸軍ノ増援輸送ヲ完了シ二十二日頃陸軍ノ總攻撃ニ依リ一擧ニ「ガダルカナル」ヲ奪還スルト共ニ救援ノ爲北上シ来ルベキ敵艦隊又ハ増援部隊ヲ捕捉之ヲ撃滅スルニ決シ夫々準備ヲ完了シツツアリ/(三)陸軍ハ十月三日第二師団司令部 十月九日第十七軍司令部夫々「ガダルカナル」ニ進出指揮ニ任ジアリ 總攻撃態勢漸ク整ハントス/四.一方敵「ガ」島死守ノ決意モ愈堅ク逐次輸送船ヲ以テ増援ニ努メ亦支援兵力トシテ少クモ戰艦四・五隻 空母三・四隻 其ノ他巡洋艦駆逐艦多数ヲ集中シアルト確実ナリ 〕</ref>。
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[連合艦隊]]は[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[第17軍 (日本軍)|第17軍]]が予定していた[[ガダルカナル島]]での総攻撃支援のために[[近藤信竹]]中将指揮下の第二艦隊([[戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」、「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」、空母「[[隼鷹]]」など)および[[南雲忠一]]中将指揮下の第三艦隊([[航空母艦|空母]]「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」、「[[翔鶴]]」、軽空母「[[瑞鳳]]」など)を派遣する。
これを阻止するためアメリカ軍も空母機動部隊を[[サンタクルーズ諸島]]方面に派遣し、10月26日の本海戦に至った{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=237|ps=サンタ・クルーズ諸島海戦(日本側呼称、南太平洋海戦)1942年10月25~26日}}。日本海軍はアメリカ機動部隊を撃退して戦術的には勝利を収めたが、日本陸軍のガ島ヘンダーソン飛行場に対する総攻撃は失敗した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=238a-248|ps=第二師団の攻撃失敗と南太平洋海戦}}。戦略的にはアメリカ軍の勝利(飛行場維持成功)に終わった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=133}}。日本海軍機動部隊の航空隊の消耗も甚大で、その後の日本軍の作戦行動に影響を与える<ref>[[#草鹿回想]]178-179頁「好敵手と正に相打ちの勝負」</ref>。


== 背景 ==
[[アメリカ海軍]]は[[第二次ソロモン海戦]](東部ソロモン海戦)で空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」が損傷し、8月31日に空母「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」も損傷したばかりか、9月15日には空母「[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]」も失ったため作戦行動をとれる空母は「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」のみとなった。アメリカ軍は「エンタープライズ」と「サラトガ」を真珠湾に帰港させ、急ピッチで修理を行い、「エンタープライズ」は10月中旬までに修理が完了した。エンタープライズは、24日に[[エスピリッツサント島]]から北東約500kmの地点でホーネット以下と合流した。また、太平洋艦隊司令長官の[[チェスター・ニミッツ]]大将は、南西地区の司令官を[[ロバート・L・ゴームレー|ゴームレー]]中将から[[ウィリアム・ハルゼー|ハルゼー]]中将に交代させた。ニミッツは、ゴームレーがガダルカナルで苦戦する部隊を率いるにはあまりに狭量で、悲観的過ぎると感じていたのである。ハルゼーは着任すると直ちに日本艦隊と決戦するための計画の策定を開始した。
{{Main|ガダルカナル島の戦い}}
1942年6月の[[ミッドウェー海戦]]で日本軍主力空母4隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])を撃沈して勝利したアメリカ軍は、2か月後の[[8月7日]]に[[ウォッチタワー作戦]]を発動し{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=102-106}}、[[アメリカ海兵隊|アメリカ軍海兵隊]]が[[ツラギ島]]([[フロリダ諸島]])と[[ガダルカナル島]]に上陸する<!-- 飛行場を占領したが、ガ島全体を占領したわけではない -->{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=108-114|ps=連合軍の上陸}}([[フロリダ諸島の戦い]])。ガダルカナル島では、完成したばかりの日本軍飛行場を占領した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=111}}。この飛行場は、のちに[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]と命名された{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=98-99|ps=カクタス空軍}}。


日本軍は基地航空部隊の[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]{{#tag:Ref|十一航艦司令長官は[[塚原二四三]]中将で、軍隊区分においては南東方面部隊指揮官となり、外南洋部隊を指揮する。|group="注"}}と、南東方面を担当する[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]{{#tag:Ref|第八艦隊司令長官は[[三川軍一]]中将で、軍隊区分においては外南洋部隊指揮官となる。|group="注"}}にアメリカ軍の撃退を命じ、外南洋部隊は[[第一次ソロモン海戦]]で勝利を収めた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=114-118|ps=サヴォ島沖海戦}}。だが[[海軍陸戦隊|海軍特別陸戦隊]]の輸送船団はツラギ島に到着できず{{#tag:Ref|敷設艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]、運送艦運[[宗谷 (船)|宗谷]]、輸送船明陽丸のうち、明陽丸は潜水艦により撃沈された{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=148}}。|group="注"}}、[[8月18日]]にガ島に上陸した[[一木清直]]陸軍大佐の[[歩兵第28連隊|一木支隊先遣隊]]も[[イル川渡河戦]]で壊滅し{{Sfn|戦史叢書62|1969|pp=128-129|ps=総合情勢の通報と一木支隊の「ガ」島飛行場奪回の失敗}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=166-167|ps=一木支隊の戦闘}}、アメリカ海兵隊の早期撃退企図は頓挫した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=120}}。この間、アメリカ軍は護衛空母[[ロング・アイランド (護衛空母)|ロングアイランド]]により[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]へ航空隊を空輸することに成功した{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=16-17|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=163-164|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出}}。これ以降、ヘンダーソン飛行場の航空隊は逐次増強され、ガ島へ向かう日本軍増援部隊は絶えず空襲に晒されるようになった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=121-125|ps=目覚ましい米陸軍機の活躍}}(川口支隊第一次輸送失敗など){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194-195|ps=第一次艦艇輸送}}。
日本陸軍[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]は、10月13日~14日にかけて行われた挺身隊によるヘンダーソン飛行場への[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|艦砲射撃]]の成功を受けて、10月24日夜、ガダルカナル島で総攻撃を行うが、重装備を持たず猖獗を極めるジャングルでの戦闘で指揮系統も混乱し、兵力を増強し防御陣地で待ち構えていた[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]]の反撃に遭い失敗に終わった(詳しくは[[ガダルカナル島の戦い]]を参照)。一方でアメリカ軍も空母「エンタープライズ」、「ホーネット」を中心とする艦隊(第16任務部隊および第17任務部隊)が日本軍の攻撃を警戒していた。

8月24日、日本艦隊(第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将が指揮する前進部隊<!-- 近藤長官が南雲中将を指揮する -->、第三艦隊司令長官[[南雲忠一]]中将が指揮する機動部隊)は{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=164-165|ps=聯合艦隊主力の南下}}、アメリカ軍の二つの[[タスクフォース|任務部隊]]、すなわち空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]を基幹とする[[第11任務部隊]]と、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を基幹とする[[第16任務部隊]]と交戦した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=172-174|ps=第二次ソロモン海戦}}(日本側呼称:[[第二次ソロモン海戦]]、連合軍側呼称:東部ソロモン海戦){{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=137|ps=東ソロモン海戦(日本側呼称、第2次ソロモン海戦)1942年8月24日}}。
この戦いでアメリカ軍は日本軍の軽空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]を撃沈し、水上機母艦[[千歳 (水上機母艦)|千歳]]を撃破した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=121}}。さらに日本軍輸送船団を航空攻撃で阻止し、勝利を収めた{{#tag:Ref|ガ島から発進した[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]]と、[[エスピリトゥサント島]]から発進した[[B-17 (航空機)|B-17型重爆]]が{{Sfn|ニミッツ|1962|p=122}}、一木支隊第二梯団と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊を乗せた輸送船3隻と護衛部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将)を襲った{{Sfn|戦史叢書62|1969|p=104|ps=横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗}}。空襲で軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]](二水戦旗艦)中破、駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]と輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]が沈没、輸送船や護衛艦は[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]や[[ブーゲンビル島]]南東端の[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]に避退した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176|ps=船団輸送の挫折}}。|group="注"}}。日本軍は輸送船団によるガ島増援作戦をあきらめ、駆逐艦など軽快艦艇による[[鼠輸送]]を開始した{{Sfn|戦史叢書62|1969|pp=131-132|ps=「ガ」島への輸送方式の変更とブカ飛行場の急速整備}}。
その一方、一航戦の空襲で空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が損傷し、[[真珠湾]]に回航されて修理をおこなった{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=31}}。

8月31日、[[伊号第二十六潜水艦]]の攻撃で[[フランク・J・フレッチャー]]中将の旗艦[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]が大破して、長期修理を余儀なくされた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=178}}{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=68}}。

9月12日以降、[[ガダルカナル島]]に上陸していた[[川口清健]]陸軍少将の[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[第18師団_(日本軍)#川口支隊|川口支隊]]が、ヘンダーソン飛行場に総攻撃を敢行した{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=137-142|ps=予期に反した最初の総攻撃}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=218-220|ps=川口支隊の攻撃失敗}}。支援部隊(前進部隊、機動部隊)はトラック泊地を出撃してガ島北方海面を遊弋したが{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=225-226|ps=聯合艦隊の作戦/作戦要領}}、川口支隊攻撃失敗によりトラック泊地に引き揚げた{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=227-229|ps=攻撃時並に攻撃失敗後の状況}}。日本艦隊阻止のため行動していたアメリカ海軍機動部隊も、9月15日に[[伊号第十九潜水艦|伊19]]の奇襲で空母[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]が沈没した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=229}}{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=32-35|ps=伊号第十九潜水艦}}。さらにホーネットを護衛していた戦艦[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]]も中破した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=36-38}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=362}}。この時点で、太平洋戦線で作戦行動をとれる[[正規空母]]は[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=183}}、新鋭戦艦は[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]のみとなった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=125}}。
アメリカ軍は修理中のエンタープライズとサラトガの復帰を急いだ。このうち、エンタープライズは10月中旬までに対空火砲の強化を含む修理が完了した<ref>[[#BIG E上]]231頁</ref>。エンタープライズと最新鋭戦艦[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]をふくむ[[第16任務部隊]]は真珠湾を出撃して南下し、[[10月24日]]午後4時頃に[[エスピリッツサント島]]から北東約500kmの地点で、ホーネットを基幹とする{{仮リンク|第17任務部隊|en|Task Force 17}}に合流した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=234}}。

また、太平洋艦隊司令長官の[[チェスター・ニミッツ]]大将は、南西地区の司令官を[[ロバート・L・ゴームレー|ゴームレー]]中将から[[ウィリアム・ハルゼー|ハルゼー]]中将に交代させた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|pp=225-229|ps=ゴームリーが「更迭」され、ハルゼーが後任に}}<ref name="叢書(83)253">[[#叢書83ガ島戦]]253-255頁「南太平洋部隊指揮官の更迭」</ref>。ニミッツ大将は、ゴームレー中将がガダルカナルで苦戦する部隊を率いるにはあまりに狭量で、悲観的過ぎると感じていたのである{{Sfn|ニミッツ|1962|p=129}}{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=178-179|ps=ロバート・L・ゴームリー 米南太平洋海域指揮官}}。ハルゼー中将は着任すると直ちに日本艦隊と決戦するための計画の策定を開始した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=129}}。この海域で作戦をおこなう{{仮リンク|第61任務部隊|en|Task Force 61}}の指揮官は、[[トーマス・C・キンケイド]]少将であった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=130}}。

[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[連合艦隊]]も、ガ島攻勢に向けて動いていた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=198}}。
[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]](司令官[[百武晴吉]]中将)が10月中旬に予定していた[[ガダルカナル島]]での総攻撃を支援するため{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=40-43|ps=第十七軍ガ島攻略計画}}、南東方面ではラバウル所在の[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官[[三川軍一]]中将を指揮官とする外南洋部隊が麾下の駆逐艦や巡洋艦でガ島への[[鼠輸送]]を実施し{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=28|ps=ガ島に対する増援輸送計画の改訂}}、さらに水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]が重機材を輸送していた{{Sfn|戦史叢書63|1973|229-230|ps=ガ島輸送の努力}}{{Sfn|戦史叢書63|1973|p=230a|ps=サボ島沖海戦}}。日進輸送に加えて、高速輸送船団による大量輸送も実施予定であった{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=69-71|ps=十月上、中旬の海軍作戦/一般状況}}。
トラック泊地には、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[近藤信竹]]中将(旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」)が指揮する支援部隊<!-- 近藤長官は支援部隊指揮官と前進部隊指揮官を兼ねる。近藤長官が南雲中将を指揮する -->(近藤長官を指揮官とする前進部隊〈 第三戦隊:[[金剛型戦艦|戦艦]][[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、第二航空戦隊:空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]] 〉および[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官[[南雲忠一]]中将を指揮官とする機動部隊〈 第一航空戦隊〈空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]〉等)が集結していた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=235}}。第一航空戦隊と第二航空戦隊にはミッドウェー海戦で乗艦を失ったパイロット達も多数着任しており、士気旺盛だったという{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=179-180|ps=日本海軍の主力の"鶴"たち}}。

<!--  10月9日、日本軍[[第二航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将:空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]])がトラック泊地に進出する<ref>[[#空母雷撃隊]]217頁</ref>。 -->
10月7日、ガダルカナル島ではアメリカ軍の反撃により[[第2師団_(日本軍)|第二師団]](師団長[[丸山政男]]中将)が後退を余儀なくされ{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=61-65|ps=米軍の攻勢開始}}、第十七軍の作戦計画に齟齬が生じた{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=230b-231|ps=マタニカウ右岸からの後退}}{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=61a|ps=マタニカウ川の戦闘}}。ガ島現地軍を指導していた[[参謀本部_(日本)|大本営陸軍部]]参謀[[辻政信]]中佐は{{#tag:Ref|第十七軍司令官百武中将や辻参謀は、駆逐艦[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]と[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]を乗り継いでラバウルからガダルカナル島へ進出、10月9日夜にガ島タサファロング岬に上陸した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=67|ps=軍戦闘司令所の推進}}。連絡と中継のため、第十七軍参謀長[[宮崎周一]]少将はラバウルに残った{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=61b-62|ps=十七軍戦闘司令所}}。|group="注"}}、ヘンダーソン基地への第十七軍総攻撃が10月25日に遅延すると海軍や大本営に通知した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=231-233|ps=第十七軍攻撃計画の変更}}{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=233-234|ps=計画変更に関する中央部の態度}}。
10月11日午前中、第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将(支援部隊指揮官)が指揮する前進部隊(近藤長官)と機動部隊(南雲長官)は、それぞれトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=76-77|ps=聯合艦隊主力の出動}}{{Sfn|戦史叢書62|1969|pp=178-179|ps=「カ」号作戦増援部隊の「ガ」島上陸と支援部隊のトラック出撃}}。
[[サボ島沖海戦]]のあと{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=148-149}}、10月13日から14日にかけて行われた挺身隊(指揮官[[栗田健男]]第三戦隊司令官:戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])による[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|ヘンダーソン飛行場艦砲射撃]]の成功を受けて第十七軍は総攻撃の準備をおこなうが{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=285}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=194|ps=(昭和17年10月14日記事)}}、無事だった飛行場から飛来したアメリカ軍攻撃隊により高速輸送船団は空襲で輸送船3隻を喪失{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=154}}、揚陸した物資もすべて焼き払われてしまった{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=87-89|ps=高速船団反転時機の問題}}{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=234-235|ps=高速輸送船団の成果}}{{#tag:Ref|高速輸送船団は優秀輸送船6隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸、南海丸、佐渡丸、崎戸丸)から成り{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=80|ps=高速船団の編成}}、第四水雷戦隊(司令官[[高間完]]少将)が指揮する駆逐艦8隻([[秋月 (駆逐艦)|秋月]]〈四水戦旗艦〉、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]])が護衛していた<ref>[[#叢書83ガ島戦]]220-221頁「船団の揚陸」</ref>。優秀船3隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸)を喪失した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=288}}{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=62|ps=艦砲射撃も功を奏さず}}。|group="注"}}。
第三戦隊に続き、10月14日に第八艦隊の重巡2隻([[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]])、10月15日に第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]])と第二水雷戦隊などが飛行場砲撃をおこなった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=288}}{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}。飛行場を維持するガ島のアメリカ海兵隊も苦しい状況が続いた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=128}}。

総攻撃準備のためガ島ヘンダーソン基地に対する空襲を強化中の[[10月20日]]夜、[[第二航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将)の旗艦[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]で火災と機関故障が発生し、速力低下により航空戦続行が不可能となる{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=307}}。飛鷹は旗艦任務と搭載機を姉妹艦隼鷹に移し、駆逐艦2隻([[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]])に護衛されてトラック泊地に回航された<ref name="叢書(83)249"/>。日本軍はアメリカ軍と戦う前から空母1隻を事実上失ったことになる<ref>[[#戦藻録(九版)]]213頁、[[#聯合艦隊作戦室]]111頁</ref>。一方で、10月17日のガダルカナル島飛行場攻撃で消耗していた隼鷹の戦力は回復した{{#tag:Ref|17日の飛行場攻撃では、零戦18と艦攻18が出撃し、艦攻8を失った{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=155}}。|group="注"}}。また飛鷹の零戦16、九九艦爆17がラバウルに移動した{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=158}}。
日米双方の事情により、日本陸軍のガ島総攻撃実施日(Y日)は10月21日から23日{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=197a|ps=(昭和17年10月22日記事)}}、23日から24日へと{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=197b|ps=(昭和17年10月24日記事)}}、たびたび延期された<ref>[[#叢書83ガ島戦]]243-245頁「Y日の決定と聯合艦隊司令部の作戦指導」</ref><ref name="叢書(83)249">[[#叢書83ガ島戦]]249-252頁「攻撃開始日の延期と再延期」</ref><ref name="叢書(83)270">[[#叢書83ガ島戦]]268-270頁「二十日までの作戦」</ref>。連合艦隊は燃料と月齢の関係から10月23日までに総攻撃を開始するよう要望しており、日本陸海軍間に微妙な空気が流れた{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=241-242|ps=攻撃開始の延期}}。

同時期、アメリカ軍はガダルカナル島のヘンダーソン基地に航空燃料を補給するため、燃料補給船団(貨物輸送船〈{{仮リンク|ベラトリクス (AKA-3)|en|USS Bellatrix (AKA-3)|label=ベラトリクス}}、{{仮リンク|アルキバ (AKA-6)|en|USS_Alchiba_(AKA-6)|label=アルキバ}}〉、魚雷艇母艦〈{{仮リンク|ジェームズタウン (PG-55)|en|USS_Jamestown_(PG-55)|label=ジェームズタウン}}〉、艦隊曳船〈{{仮リンク|ヴィレオ (曳船)|en|USS_Vireo_(AM-52)|label=ヴィレオ}}〉、駆逐艦〈[[メレディス (DD-434)|メレディス]]、[[ニコラス_(DD-449)|ニコラス]]〉)を編成してガ島にむかわせ、第64任務部隊(戦艦[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]、軽巡洋艦[[アトランタ (軽巡洋艦)|アトランタ]]、駆逐艦{{仮リンク|ウォーク (DD-416)|en|USS Walke (DD-416)|label=ウォーク}}、駆逐艦[[ベンソン (駆逐艦)|ベンソン]])が間接護衛をおこなった{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=182-184|s=燃料補給船団}}。10月15日、南雲機動部隊は索敵機を発進させ、重巡の水上偵察機が米軍燃料補給船団を発見した<ref>[[#S1710第五戦隊日誌(4)]] p.6〔 (四)十月十五日午前「サンクリストバル」島ノ南東九〇浬附近ニ敵輸送船二、巡洋艦一、駆逐艦三隻出現セルヲ以テ機動部隊ハ直ニ之ガ攻撃ヲ開始シ次デ夜戰ヲ企図シテ一部兵力ヲ南下セシム 〕</ref>。一航戦攻撃隊(零戦8、艦爆21、艦攻9)は船団から分離してガ島へ進撃していたメレディスを撃沈{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=184-187|ps=日本機の猛攻}}(日本側は軽巡洋艦撃沈と誤認){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=288}}、曳船ヴィレオを損傷させたが、翔鶴艦爆1、瑞鶴艦攻2を失った{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=11}}。10月18日、駆逐艦[[グウィン (DD-433)|グウィン]]、{{仮リンク|グレイソン (DD-435)|en|USS Grayson (DD-435)|label=グレイソン}}、曳船{{仮リンク|セミノール (艦隊曳船)|en|USS Seminole (AT-65)|label=セミノール}}が曳船や生存者を発見し、ガ島へ曳航して燃料補給に成功した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=187-188|ps=しかし補給は成功する}}。

10月20日午後7時頃、[[マキラ島|サンクリストバル島]]東端の南100浬において[[伊号第百七十六潜水艦]]{{#tag:Ref|伊176潜水艦長[[田辺弥八]]少佐は、[[ミッドウェー作戦]]時の[[伊号第百六十八潜水艦]]の艦長である。この[[ミッドウェー海戦|海戦]]で伊168は空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]と駆逐艦[[ハムマン (駆逐艦)|ハムマン]]を撃沈した{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=150-152|ps=ヨークタウンの撃沈}}。|group="注"}}は第64任務部隊を発見する{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=199}}。伊176は重巡洋艦[[チェスター (重巡洋艦)|チェスター]]を雷撃して大破させた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=307}}<ref name="五戦隊(4)51">[[#S1706第五戦隊日誌(4)]] pp.51-52(昭和17年10月20日項)(略)〔 (イ)一〇二八(飛行機)11Af「インジスペンサブル」礁ノ一二〇度一〇〇浬附近ニ敵大部隊(B×3基幹)ヲ発見ス/(ロ)「ガ」飛行場攻撃十月二十二日ト決定/(ハ)一九一六「ソロモン」群島南東方ニ於テ伊一七六潜 敵戰艦一 二魚雷二本命中) 〕</ref>。
これ以降、日本艦隊に敵主力部隊(第64任務部隊)に関する情報はたびたび入ってきたが<ref name="五戦隊(4)51" /><ref>[[#S1706第五戦隊日誌(4)]] p.52(昭和17年10月21日項)(略)〔 (イ)〇八〇〇(飛行機)11Af「インジスペンサブル」礁ノ一〇二度一五〇浬附近ニ敵B×2 C×2又其ノ東南東三〇浬ニB×1 C×1 d×2ヲ発見ス/(ロ)「ガ」飛行場突入日ヲ十月二十三日ニ延期セラル 〕</ref>、肝心の敵機動部隊の所在がわからず、東方から奇襲される恐れがでてきた<ref>[[#S1706第五戦隊日誌(4)]] pp.8-9〔 (七)爾後陸軍部隊ノ總攻撃準備完成ヲ俟チツツ機宜「ソロモン」群島北東海面ヲ行動索敵ニ從事 二十三日陸軍ノ準備漸ク完成セルノ報ニ接シ二十四日夜間陸軍ノ總攻撃ニ策應スル如ク南下進出ヲ始ム 此ノ間敵主力艦隊ハ常時「ソロモン」群島南方海面ヲ遊弋中ナリシモ敵機動部隊ノ動静ニ関シ得ル所ナシ東方ヨリスル敵奇襲ノ懸念漸ク濃厚トナレリ 〕</ref>。
10月22日夜、利根型重巡洋[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]と秋月型駆逐艦[[照月 (駆逐艦)|照月]]が牽制部隊となり、日本軍機動部隊から分離して南方200[[海里|浬]](370km)地点に進出した<ref name="叢書(83)271">[[#叢書83ガ島戦]]271-272頁「総攻撃に応ずる支援部隊の配備」</ref>{{#tag:Ref|[[利根型重巡洋艦]]は水上偵察機5-6機を搭載する偵察能力に優れた艦種、[[秋月型駆逐艦]]は[[六五口径九八式一〇糎高角砲|10cm連装高角砲]]を装備した防空駆逐艦である。<!-- [[草鹿龍之介]]や奥宮参謀の著作では、南下した艦を[[利根 (重巡洋艦)|利根]]としているが<ref>[[#機動部隊(学研M)]]85頁、[[#草鹿回想]]172頁</ref>、実際には筑摩である<ref>[[#筑摩日誌(1)]] p.5〔 照月を率い索敵のため機動部隊より分離南下 〕、[[#筑摩日誌(2)]]pp.7,16</ref>{{Sfn|海の武将|1982|p=116}}。-->|group="注"}}。筑摩は偵察機を発進させるが米艦隊を発見できず、アメリカ軍飛行艇の雷撃を回避したあと<ref>[[#筑摩日誌(1)]] p.5〔 10月23日2354、敵飛行艇の雷撃を受く。被害なし 〕</ref>、南雲部隊(筑摩は前衛、照月は本隊)に合流した<ref name="叢書(83)271"/>。10月23日、連合艦隊は以下の警告を発した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=312}}。

#ここの数日来、敵空母の所在不明。敵機動部隊に対し、サンタクルーズ島方面、とくに警戒の要ありと認む。
#24日、X区哨戒機および二式飛行艇はなるべく早く発進し、かつ許す限り長く哨戒のことに取り計らわれたし。

日本軍機動部隊は23日正午に前衛部隊を分離し、陸軍支援の態勢に入った<ref name="叢書(83)276">[[#叢書83ガ島戦]]276-278頁「機動部隊南下に関する聯合艦隊命令」</ref>。しかし日本陸軍から総攻撃延期の連絡があり、日本軍機動部隊は北上した<ref name="叢書(83)276"/>。たびかさなる延期に苛立ち、またアメリカ軍哨戒機に発見される事を懸念した南雲機動部隊は、駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]](第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐)を東方に派遣し、26日まで北方に待機する旨を連合艦隊司令部に報告させた<ref name="叢書(83)276"/>。宇垣纏(連合艦隊参謀長)は第三艦隊の行動を優柔不断・独断的措置と解釈し、前進部隊が孤立する事への懸念も示した<ref name="叢書(83)276"/>。24日午後6時44分、山本五十六連合艦隊長官の下令に従い、日本軍機動部隊は再び南下した{{Sfn|雪風ハ沈マズ|2004|p=143}}。南雲機動部隊の北上と南進の反復行動は[[草鹿龍之介]]参謀長の指示によるものだったが、南雲長官は草鹿を呼び出すと今後の作戦方針について検討を行い、連合艦隊の命令に従って南下を決定した<ref>[[#草鹿回想]]172頁「敵主力所在不明のまま南下」、[[#海軍美談]]139-140頁</ref>。

10月23-25日にかけて、日本陸軍はガダルカナル島で総攻撃を行うが、{{読み仮名|猖獗|しょうけつ}}を極めるジャングルでの行軍で将兵は消耗して部隊間の連絡も途切れがちとなり{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=63-64|ps=延期された攻撃開始日}}、さらに重装備を持たない戦闘のため苦戦を強いられる{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=310}}。指揮系統も混乱する<ref name="叢書(83)255">[[#叢書83ガ島戦]]255-257頁「ガ島における陸上戦闘」</ref>{{#tag:Ref|第二師団司令部と[[辻政信]]参謀の協議により、右翼隊長の[[川口清健]]少将が突然罷免され、[[東海林俊成]]大佐が右翼隊長に任命された{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=142-145|ps=川口少将の罷免}}。|group="注"}}。第二師団の総攻撃は、兵力を増強し防御陣地で待ち構えていた[[アメリカ海兵隊|アメリカ軍海兵隊]](2万3000名)の反撃に遭い失敗に終わった{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=242a-244|ps=第二師団の攻撃失敗}}{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=64-65|ps=与えられた死に処}}。
にもかかわらず10月24日夜には「2100、バンザイ(21時、ガダルカナル飛行場を完全に占領)」「22時50分発信:2100{{読み仮名|稍|やや}}前、第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時左翼隊ハ飛行場付近ノ敵ト交戦中」という一報が発信された{{Sfn|戦史叢書63|1973|p=242b}}{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=157|ps=誤報}}。日本海軍にも情報が伝わり、艦隊は一気に沸き立った{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=158}}。飛行場占領の速報は大本営にも通知された{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=198a|ps=(昭和17年10月25日記事)夜中(〇一〇〇頃)参謀本部来府、「ガ」島飛行場占領の公報ありし旨通知あり。早朝上聞のつもりにて就寝せるも、〇四〇〇再び電話にて、先の占領の電報取消しの通知あり。〇八〇〇頃、参本と連絡せし所、飛行場附近にて対峙中なる情況にて、昨夜来の陸軍情報を上聞す。(以下略)}}。その後、25日午前2時から午前3時にかけて「〇二一〇飛行場ハ未タ占領シアラス」「師団ハ未タ飛行場ヲ占領シアラス 両翼隊共飛行場付近ニ於テ激戦中」との情報が飛び込んだ{{Sfn|戦史叢書63|1973|p=242b}}。日本艦隊では、飛行場占領が誤報とわかり落胆している{{Sfn|牧島貞一|2001|p=304}}。[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長の「戦藻録」からも、日本陸軍の度重なる総攻撃予定変更に対する当惑と苛立ちがうかがえる<ref>[[#戦藻録(九版)]]pp.213-214</ref>。(詳しくは[[ガダルカナル島の戦い]]を参照)

外南洋部隊(第八艦隊)は{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=127-129|ps=海軍側の部署}}、日本陸軍のガ島総攻撃に呼応して支援攻撃を行うことになっていた{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=163-165|ps=海軍部隊の策応}}<ref>[[#叢書83ガ島戦]]257頁「外南洋部隊の総攻撃策応」</ref>。外南洋部隊麾下の第6駆逐隊司令[[山田勇助]]大佐が指揮する駆逐艦3隻([[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]])と、第四水雷戦隊(司令官[[高間完]]少将)は、24日深夜から25日朝にかけてガダルカナル島泊地に突入する<ref name="叢書(83)257">[[#叢書83ガ島戦]]257-259頁「突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃」</ref>。

当時、掃海駆逐艦{{仮リンク|ゼイン (駆逐艦)|en|USS Zane (DD-337)|label=ゼイン}} ({{lang|en|USS Zane, DMS-14}}) がルンガ泊地で荷役作業中であったが、3隻の日本駆逐艦の出現により逃亡を図る。日本側3隻は{{仮リンク|シーラーク水道|en|Sealark Channel}}を突っ切ってゼインまで5カイリに接近したところで砲撃を開始し、ゼインに命中弾1発を与えるが主任務であるアメリカ軍陣地砲撃との兼ね合いからそれ以上の追撃はできなかった<ref name="ib1942">{{Cite web|url = http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1942.html |title= Chapter IV: 1942|work=The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2014-04-30}}</ref>。

再度ルンガ泊地に向かうと、今度は[[アメリカ海兵隊]]向けの軍需品をガダルカナル島に陸揚げ中の艦隊曳船{{仮リンク|セミノール (艦隊曳船)|en|USS Seminole (AT-65)|label=セミノール}} ({{lang|en|Seminole, AT-65}}) と沿岸哨戒艇YP-284を発見した。セミノールとYP-284は接近してきたのが日本駆逐艦だと知ると陸揚げ作業を打ち切り、直ちに逃亡を開始した。間髪入れず砲撃を開始し、YP-284を砲撃で炎上させて撃沈したのに続きセミノールも砲撃により撃沈した<ref name="he235">[[#響の栄光]] p.235</ref>。突撃隊は小型輸送船1隻・仮装巡洋艦1隻の撃沈を記録した<ref name="叢書(83)257"/>。
続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが、海兵隊陣地の5インチ海岸砲からの反撃により暁の三番砲塔の薬室に1発が命中して一時火災が発生、4名の戦死者を出す被害を受けた<ref name="叢書(83)257"/>。雷も緊急発進した[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]の機銃掃射で損傷、銃撃で数名が死傷する被害を受けた<ref name="叢書(83)257"/><ref>[[#木俣水雷]] pp.212-213</ref>。

突撃隊は無事にルンガ泊地から脱出したが、続いてガ島に突入しようとした[[高間完]]第四水雷戦隊司令官指揮下の6隻(秋月〈四水戦旗艦〉、由良、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])はヘンダーソン飛行場から飛来したアメリカ軍SBDドーントレス急降下爆撃機とF4Fワイルドキャット戦闘機の波状攻撃を受け、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]が沈没している{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=311}}{{#tag:Ref|乗組員を各艦に収容したあと、由良は夕立と春雨により自沈処理された<ref name="叢書(83)260">[[#叢書83ガ島戦]]260-262頁「『由良』の沈没」</ref>。|group="注"}}。四水戦旗艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]も中破し、高間少将は村雨に移乗した<ref name="叢書(83)260"/>。これらの状況をうけて第八艦隊司令長官は外南洋部隊各隊にショートランドへの帰投を命じた<ref name="叢書(83)260"/>。

ガ島でこのような戦闘が繰り広げられる中、第61任務部隊ことエンタープライズを基幹とするキンケイド提督の第16任務部隊と{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=118}}、ホーネットを基幹とする[[ジョージ・D・マレー|マレー]]提督の第17任務部隊、戦艦[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]を基幹とする[[ウィリス・A・リー|リー]]提督の第64任務部隊は、日本軍の攻撃と艦隊を邀撃するため{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=153}}、ガダルカナル島北東海面{{Sfn|ニミッツ|1962|p=130}}すなわち[[サンタ・クルーズ諸島]]北方を索敵して日本艦隊を邀撃するよう命じられた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=234}}。


== 戦闘経過 ==
== 戦闘経過 ==
[[File:Battle of Santa Cruz map-fr.svg|thumb|北方より進出する日本艦隊と南方より進出するアメリカ艦隊が会戦した]]
[[Image:USS Enterprise-Bat Santa Cruz.jpg|thumb|right|250px|空襲下にある空母 エンタープライズ]]
日本海軍の海戦参加部隊において、支援部隊指揮官(近藤長官、旗艦「愛宕」)が、前進部隊(第二艦隊)と機動部隊(第三艦隊、旗艦「翔鶴」)を指揮する<ref name="叢書(83)273">[[#叢書83ガ島戦]]273-275頁「支援部隊の編制」</ref>。支援部隊指揮官は前進部隊指揮官を兼ねる<ref name="叢書(83)273" />。
10月25日、日本軍は数日前から見失っていたアメリカ軍機動部隊を求め索敵を活発に行ったが敵機動部隊の発見には至らなかった。一方米軍は哨戒中の[[PBY (航空機)|PBY]]飛行艇が日本軍機動部隊を発見した。キンケイド少将は1時間後、エンタープライズから索敵を兼ねて[[F4F|F4F]]戦闘機11機、[[SBD (航空機)|SBD]]急降下爆撃機12機、[[TBF|TBF]]雷撃機6機からなる攻撃隊を発進させた。その後の報告で日本軍機動部隊は北に反転した事が判明したがキンケイド少将は無線封止を維持する為攻撃隊にこの索敵情報を転送しなかった。攻撃隊は反転した日本軍機動部隊を捕捉出来ず燃料切れや着艦時の事故でF4F1機、SBD4機、TBF3機の計8機が失われた。また朝の着艦事故でF4F4機が失われておりエンタープライズの航空隊は決戦を前に航空機12機を失うという大きな痛手を受けた<ref>Eric M. Hammel, Carrier Strike, p. 174.</ref>。


第三艦隊司令長官[[南雲忠一]]中将が指揮する機動部隊本隊(第一航空戦隊〈空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]<!-- 南雲長官旗艦 --> 、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]〉、重巡〈熊野〉<ref name="七戦隊(2)4">[[#第七戦隊記録(2)]] p.4〔 (ロ)任務.編成.配備 (一)軍隊区分「カ」號作戰支援部隊機動部隊前衛/(二)任務「カ」號作戰支援、敵艦隊捕捉撃滅/(三)本期間中ノ変化 十八日〇九〇八旗艦ヲ鈴谷ニ変更、二十日一〇二九熊野ハ機動部隊本隊ニ編入 〕</ref>、駆逐艦〈嵐、舞風、雪風、時津風、天津風、初風、浜風、照月〉)、第十一戦隊司令官[[阿部弘毅]]少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦〈[[比叡 (戦艦)|比叡]]<!-- 阿部少将および前衛部隊旗艦 -->、[[霧島 (戦艦)|霧島]]〉、重巡〈利根<!-- 第八戦隊旗艦 -->、筑摩、鈴谷<!-- 第七戦隊旗艦 -->〉、軽巡〈長良〉、駆逐艦〈谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲〉)、本隊の後方に補給部隊(駆逐艦〈野分〉{{Sfn|野分物語|2004|p=23}}、油槽船6隻)、機動部隊より西方に第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将が指揮する前進部隊(重巡〈愛宕<!-- 第二艦隊旗艦 -->、高雄、妙高、摩耶〉、戦艦〈金剛<!-- 第三戦隊旗艦。第二艦隊旗艦および前進部隊旗艦は「愛宕」。 -->、榛名〉、[[第二水雷戦隊]]、第二航空戦隊〈隼鷹〉)という4つの集団にわかれて行動していた<ref name="叢書(83)273" />。
26日、[[南雲忠一]]中将の第三艦隊は黎明から二段索敵を開始し、4時50分アメリカ軍機動部隊を発見した<ref>レーダーがないと夜間は索敵できないため、二段索敵は夜明け前と夜明けの直前といったように時間差をあけて同一の方面へ偵察機を派遣し、先発の機が索敵できなかった海域を後発の機が索敵して夜明けと同時または夜明けから短時間で捜索を完了させる。<!--デメリットとして索敵に使用する航空機が二倍(二段)になり、攻撃に振り分ける航空機が減る場合がある。また、時間差をあけて索敵に出せば収容するためにかかる時間も増える。--></ref>。すぐさま第1次攻撃隊62機([[村田重治]]少佐指揮、艦攻20機、艦爆21機、零戦21機)、第2次攻撃隊44機(艦攻16機、艦爆19機、零戦9機)が発進、米機動部隊に向かった。ほぼ同時刻、アメリカ軍も日本艦隊を発見し空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」から第1次攻撃隊29機(F4F8機、SBD15機、TBF6機)、空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」から第2次攻撃隊19機(F4F8機、SBD3機、TBF8機)、さらに「ホーネット」から第3次攻撃隊25機(F4F7機、SBD9機、TBF9機)が発進した。


機動部隊前衛部隊は空母へ向かう敵機の攻撃を吸収するために、機動部隊前方に横一列に並んだ。
また、翔鶴の第二次攻撃隊の発艦準備が終了しかけたとき、瑞鶴より「発艦作業30分遅れる」と報告が来た。さらに運悪く突如、索敵していた米軍急降下爆撃機2機が襲いかかってきた。2機は「[[瑞鳳]]」に爆弾を投下し、第二次攻撃隊が発進準備中の[[飛行甲板]]を直撃した。しかし幸いにも直撃箇所が最後部であったため、艦載機の誘爆によるミッドウェイの悪夢の再現は避けられた。しかし、これにより「瑞鳳」は着艦が不能となり戦線を離脱する。このため南雲長官は瑞鶴隊を置いて、翔鶴隊を発進させた。


=== 両軍の索敵 ===
[[Image:SantaCruzEVal.jpg|thumb|right|250px|爆撃を受ける「エンタープライズ」]][[Image:SantaCruzChikuma.jpg|thumb|right|250px|全速で回避する「筑摩」]][[Image:SantaCruzHornetDD.jpg|thumb|right|250px|駆逐艦に乗員を退艦させる「ホーネット」]]
10月25日、日本軍は数日前から見失っていたアメリカ軍機動部隊を求め索敵を活発に行ったが<ref>[[#11戦隊日誌(4)]]pp.3-4</ref>、アメリカ軍機動部隊の発見には至らなかった<ref name="叢書(83)278">[[#叢書83ガ島戦]]278-280頁「機動部隊索敵及び攻撃待機計画」</ref>。対するアメリカ軍は、哨戒中の[[PBY (航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]が[[10月25日|25日]]午前中に日本軍機動部隊を発見した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=236}}。同25日正午すぎには、水上機母艦[[カーティス (水上機母艦)|カーティス]]の水上偵察機が日本空母2隻を発見した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=236}}。
日本の第一次攻撃隊は、進撃途中に日本艦隊を目指す米軍のホーネット隊とすれ違った。お互いに相手を視認しながら、両軍とも素知らぬふりをしてやり過ごした。しかし、次にエンタープライズ隊とすれ違って間もなく、瑞鳳零戦隊9機が反転し、エンタープライズ隊19機を追撃した。瑞鳳隊は太陽を背に巧みに攻撃を行ったためエンタープライズ隊は大きな被害を出した。攻撃隊右翼を飛んでいたF4F4機は一方的に奇襲を受け3機が撃墜され1機は被弾し機銃と無線を破壊された為母艦への帰投を余儀なくされた。また雷撃隊も指揮官機を含む2機を撃墜され他の2機も被弾により攻撃を諦めエンタープライズへ帰還した<ref>The Office of Navy Intelligence, The Battle of the Santa Cruz Islands, p.45.</ref>。一方瑞鳳隊は零戦2機が自爆、未帰還となり2機が行方不明になった<ref>柳田邦男「零戦燃ゆ-飛翔篇」p.521.</ref>。
南雲中将は日本陸軍総攻撃成功(ヘンダーソン飛行場占領)の報告を受けて南下していたが、誤報と判明してから機動部隊本隊のみ北上、機動部隊前衛はそのまま南下をつづけていた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=313}}。アメリカ軍哨戒機の出現により、南雲中将は前衛にも反転北上を命じた{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=165a-169|ps=南太平洋海戦}}。前衛はB-17 6機の攻撃を受けたが被害を受けなかった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=313}}。


一方、第61任務部隊のキンケイド少将は、指揮下のエンタープライズから索敵を兼ねて[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]]戦闘機16機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]急降下爆撃機12機、[[TBF (航空機)|TBFアヴェンジャー]]雷撃機7機からなる攻撃隊を発進させた<ref name="big上227">[[#BIG E上]]227頁(戦史叢書では索敵隊12機、攻撃隊29機発艦としている)</ref>。その後の報告で日本軍機動部隊が北に反転したことが判明したが、キンケイド少将は無線封止を維持するため攻撃隊に日本軍位置情報を転送しなかった。アメリカ軍攻撃隊は反転した日本軍機動部隊を捕捉出来ず、燃料切れや着艦時の事故でF4F1機、SBD4機、TBF3機の計8機(『THE BIG E』では7機)を失った<ref name="big上227"/>。また朝の着艦事故でF4F4機が失われており、エンタープライズの航空隊は決戦を前に航空機12機を失うという大きな痛手を受けている{{Sfn|Hammel|2004|p=174}}。
6時55分、日本軍第1次攻撃隊は米艦隊を発見、ホーネットに攻撃を集中した。7時10分、1発目の爆弾が飛行甲板後部に命中、続いて被弾した艦爆1機が煙突を掠めて飛行甲板に激突した。搭載していた60キロ爆弾1発は煙突と信号艦橋に損傷を与えもう一発の60キロ爆弾と機体は飛行甲板で爆発、付近は大火災となった(米軍の記録によると艦爆が搭載していた250キロ爆弾は不発)<ref>The Office of Navy Intelligence, p.57. </ref>。4発目の爆弾は甲板4層を貫いて内部で爆発、5発目は飛行甲板後部で炸裂し3メートルの穴を開け、6発目の爆弾は甲板3層を貫通して乗員食堂で炸裂した。最後に炎に包まれた艦攻1機が左舷前部高角砲座に突入した。7時15分、魚雷2本が機関室付近に命中し機関が停止、電力も絶たれたため消火ポンプが作動しなくなった。また付近にいた護衛艦艇も攻撃を受け雷撃機1機は重巡ペンサコラを攻撃したが魚雷は外れ、被弾した雷撃機はペンサコラに突入を試みたものの艦首外側数メートルの海中に墜落した。また駆逐艦アンダーソンは雷撃機から機銃掃射を受けたものの目立った被害はなかった。


午前9時、[[山本五十六]]連合艦隊長官は前進部隊(第二艦隊、第二航空戦隊)の航空兵力で、ガダルカナル島の敵軍陣地・アメリカ艦隊の攻撃を命じた<ref name="叢書(83)280">[[#叢書83ガ島戦]]280-281頁「二航戦のルンガ敵陣地攻撃」</ref><ref>[[#機動部隊(学研M)]]80頁</ref>。これを受けて空母隼鷹から発進した零戦12機、九九艦爆12機(攻撃隊指揮官[[志賀淑雄]]大尉)はガ島ヘンダーソン飛行場を爆撃し、石油タンクの炎上を確認した<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.18〔 飛行場及び敵陣地を攻撃し相当の損害を与えたり、我が方被害なし 〕、[[#山川艦爆隊]]130-131頁</ref><ref name="叢書(83)280"/>。二航戦の空襲と並行して、基地航空部隊も飛行場爆撃と上空制圧をおこなった{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=164}}。
日本軍攻撃隊は7時20分には引き上げ、海上ではホーネットが激しく炎上していた。艦内では消火ポンプが使用不能になった為緊急に200名からなるバケツリレー隊を編成、付近にいた駆逐艦も消火ホースをホーネットに渡し消火作業を行った<ref>United States Navy, Hornet (CV-8) Action Report - October 30, 1942 (Santa Cruz Islands), p.4. </ref>。決死の消火作業により8時までには火災は鎮火し重巡ノーザンプトンがホーネットの曳航を行った。日本軍第一次攻撃隊はホーネットに重大な損傷を与えたものの艦攻10機、艦爆12機、零戦3機が失われ更に不時着により艦攻6機、艦爆5機、零戦2機が失われた。一方「ホーネット」の第1次攻撃隊は7時27分、日本機動部隊を発見、直後に零戦9機からなる日本軍直掩隊が現れF4F2機が撃墜された。急降下爆撃隊15機は戦闘機の掩護なく進撃を続けたが更に20機前後の零戦に襲われ2機が撃墜され2機が被弾により母艦に帰等した。残る11機は「翔鶴」を攻撃し450キロ爆弾4発を命中させ大破させた。「エンタープライズ」隊および「ホーネット」の第3次攻撃隊は日本空母を発見できず、前衛艦隊を攻撃、重巡「筑摩」に爆弾3発を命中させ大破させた。
午前10時、前衛部隊索敵機が「米軍戦艦2-3、防空巡洋艦4、巡洋艦1、駆逐艦12、ツラギより方位160度、170マイル」を報じた<ref>[[#戦藻録(九版)]]217頁、[[#高戸主計大尉]]29頁、[[#橋本信号員]]238頁</ref>。支援部隊指揮官(近藤長官)は南雲機動部隊に「成シ得レバ攻撃セヨ」と命じたが、機動部隊は「本日攻撃ノ見込ナシ」と返電した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=165b}}。
19時18分、連合艦隊電令作第354号は『陸軍は今夜19時、ガ島突入の予定にして、26日、敵艦隊はガ島南東海面に出現の算大なり。連合艦隊は26日敵艦隊を捕捉撃滅せんとす』と伝える<ref name="叢書(83)281">[[#叢書83ガ島戦]]281-283頁「二十五日午後の作戦」</ref>。この電令の中で山本長官は日本軍基地航空隊も米艦隊を攻撃するよう求めているが<ref>[[#11戦隊日誌(4)]]p.24</ref>、実際の海戦は機動部隊と機動部隊の正面衝突となり、基地航空隊は全く関与しなかった<ref>[[#戦藻録(九版)]]219頁</ref>。[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]麾下の第四空襲部隊も飛行艇や陸攻で26日以降の偵察を実施したが、連合軍を発見しなかった{{Sfn|戦史叢書62|1969|p=210|ps=南太平洋海戦による第四空襲部隊の緊急特別索敵}}。
この時、アメリカ軍はハワイのラジオ放送を通じて「近くソロモン方面で大海空戦が行われる。米国民に良きプレゼントを送る」という[[プロパガンダ]]を行っていたとされる<ref>[[#機動部隊(学研M)]]84頁、[[#聯合艦隊作戦室]]120頁</ref>。夜間、前衛の磯風は飛行艇から雷撃されるが<ref>[[#第七戦隊記録(3)]] p.12〔 二十五|二二三三|第七戰隊前方直衛駆逐艦磯風附近ニ爆彈ラシキモノヲ投下セルヲ認ム(翌日磯風ヨリノ通報ニ依リ敵飛行艇ノ雷撃ナリシコト判明) 〕</ref>、命中しなかった<ref name="叢書(83)281"/>。


海戦当時の日本艦隊の配置は、機動部隊本隊(南雲長官)と前衛(阿部中将)の距離が50 - 60浬、第二航空戦隊ふくむ前進部隊(近藤長官)は機動部隊の西方100~120浬を行動していた{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=165b}}。[[10月26日]]、[[南雲忠一]]中将の機動部隊本隊は午前0時30-50分にアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇から爆撃を受け、瑞鶴の至近距離に爆弾が落下した<ref name="叢書(83)283">[[#叢書83ガ島戦]]283頁「敵機突如『瑞鶴』に投弾」</ref><ref name="淵田機動86">[[#機動部隊(学研M)]]86-87頁、[[#草鹿回想]]174頁、[[#橋本信号員]]239頁</ref>。各艦を攻撃したB-17は[[エスピリトゥサント島]]から、カタリナ飛行艇は[[ネンドー島|ヌデニ島]]などから飛来しており、爆撃・雷撃を実施するとともに日本艦隊の位置を通報している{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=236}}。カタリナ飛行艇が発した情報は、エスピリトゥサント島基地航空隊を経由して2時間後の26日0312にアメリカ軍機動部隊へ届けられたという<ref name="叢書(83)283"/>。[[ニューカレドニア|ニューカレドニア島]][[ヌメア|ヌーメア]]の司令部から指揮をとるハルゼー提督は「攻撃せよ、反覆攻撃せよ」の命令を発した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=130}}。
日本側第2次攻撃隊は、8時15分「エンタープライズ」および炎上漂流中の「ホーネット」を発見、先に到着した翔鶴艦爆隊19機は無傷の「エンタープライズ」に攻撃を集中し2発の直撃弾を与えた。1発目の爆弾は、艦首から5メートルの飛行甲板に命中し爆弾はそのまま艦首上甲板を貫通して海面で炸裂し、艦首付近を穴だらけにした。2発目の爆弾は、前部エレベータ後方3メートルの飛行甲板に命中し3層を貫いて前部応急指揮所で炸裂した。また右舷3メートルの所に至近弾1発が落下し舷側に損害を受けた。また艦爆隊が到着する直前の8時1分、不時着したエンタープライズの雷撃機の救助に向かった駆逐艦ポーターに雷撃機から誤って発射された魚雷が命中した。ポーターは航行不能になり僚艦の砲撃により処分された。8時35分、遅れて発進した瑞鶴の雷撃隊16機はエンタープライズに魚雷を発射したが命中せず炎に包まれた1機は駆逐艦スミスの2番砲塔に体当たりした。艦攻が搭載していた魚雷は爆発し砲塔付近にあった弾薬が誘爆を起こし大火災が発生した。しかし艦長の判断で付近を高速で航行中の戦艦サウスダコタに接近し、サウスダコタの艦尾波でスミスは奇跡的に消火に成功した<ref>The Office of Navy Intelligence, p.65. </ref>。日本軍第2次攻撃隊は、エンタープライズ等に損害を与えたものの艦攻9機、艦爆10機、零戦1機が未帰還になり不時着水により艦攻1機、艦爆2機、零戦2機が失われた。


これに対し、米艦隊の奇襲を受ける可能性があると判断した南雲機動部隊は、ガダルカナル島北東460km地点で反転北上する<ref>[[#機動部隊(学研M)]]86-87頁、[[#海軍美談]]145頁</ref>。そして黎明(日出03時45分)から艦上攻撃機13機による二段索敵を開始した<ref name="叢書(83)284">[[#叢書83ガ島戦]]284-286頁「索敵機の米機動部隊発見」</ref>。レーダーがないと夜間は索敵できないため、夜明け前と夜明けの直前といったように時間差をあけて同一の方面へ偵察機を派遣し、先発の機が索敵できなかった海域を後発の機が索敵、夜明けと同時または夜明けから短時間で捜索を完了させるという方法である。<!--デメリットとして索敵に使用する航空機が二倍(二段)になり、攻撃に振り分ける航空機が減る場合がある。また、時間差をあけて索敵に出せば収容するためにかかる時間も増える。-->日本軍前進部隊(第二艦隊)からも、重巡洋艦や軽巡から[[零式水上偵察機]]や[[九四式水上偵察機]]が発進し、索敵にあたった<ref>[[#愛宕奮戦記]]213頁、[[#愛宕日誌(4)]]p.6</ref>。一方のアメリカ軍も、エンタープライズからドーントレス16機が発進し、2機ずつのペアになって索敵に向かった<ref name="big上229">[[#BIG E上]]229頁</ref>。
第二艦隊と行動を共にしていた[[角田覚治]]少将麾下の第二航空戦隊(空母「[[隼鷹]]」基幹、[[飛鷹]]は機関故障のため不参加)は、7時45分第1次攻撃隊29機(艦爆17機、零戦12機)を発進させ、また第二艦隊の指揮下に入った。二航戦の攻撃隊は9時20分ごろエンタープライズ上空に到達したものの雲底が500メートルと極度に視界が悪く、攻撃は分散され、また爆撃精度も悪化した。しかし攻撃隊はエンタープライズに至近弾1発を与え船体を60センチ陥没させ内部数区画を破壊した。戦艦サウスダコタには4発の爆弾が投下され内1発が第一砲塔に命中、艦長を負傷させ付近の銃座に損害を与えたものの、決定的打撃とはならなかった。また軽巡サン・ファンには6発の爆弾が投下され内1発が艦尾に命中、爆弾は海中で炸裂し艦尾付近に大きな損害を与えた。


=== 両軍の攻撃隊発進 ===
日本軍攻撃隊の波状攻撃を受け大きな損害を受けたキンケイド少将は撤退を決意した。9時30分、マレー少将にホーネットの救援を指示し、エンタープライズを主軸とした本隊は撤退を開始した。一方日本軍は航空機に多大な損害を受けていたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始した。11時、隼鷹から第2次攻撃隊(艦攻9機、零戦8機)が発進、続いて11時15分に瑞鶴から残存機すべての艦爆2機、艦攻6機、零戦5機からなる第3次攻撃隊が発進し、1時30分に隼鷹からこの日最後となる艦爆4機、零戦6機からなる第3次攻撃隊が発進した。隼鷹の第2次攻撃隊は1時に戦場に到達し、ホーネットとホーネットを曳航中の重巡ノーザンプトンを雷撃した。ノーザンプトンは曳航索を切って魚雷をすべて回避したがホーネットには魚雷1本が命中、傾斜が14度に増大し遂に退艦命令が発令された。40分後、瑞鶴から発進した第3次攻撃隊がホーネットを爆撃。艦攻隊は800キロ爆弾による水平爆撃を行い1発が飛行甲板後端に命中、他の5発は至近距離に落下し、衝撃波によりホーネットに大きな損害を与えた。3時10分、隼鷹第3次攻撃隊は漂流中のホーネットを爆撃、1発を命中させた。
[[10月26日]]の日の出は、日本時間午前3時45分である{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=314}}。天候は晴れ、風速は北西10ノット以下、海面は穏やかで、たびたびスコールがあった{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=238}}。午前4時50分、日本軍翔鶴四番索敵機はアメリカ軍機動部隊を発見し「敵空母サラトガ型1、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦16、針路北西」(南雲機動部隊から125度210浬)を報告した<ref>[[#機動部隊(学研M)]]86-87頁、[[#橋本信号員]]240頁</ref><ref name="叢書(83)284"/>。瑞鶴索敵機も敵艦隊を発見していたが、同機の報告は母艦に届かなったという<ref name="叢書(83)284"/>。日本軍はアメリカ軍機動部隊戦力を空母3隻と判断した<ref>[[#戦藻録(九版)]]218頁、[[#11戦隊日誌(4)]]p.6</ref>。


午前5時30分頃、翔鶴飛行隊長[[村田重治]]少佐が指揮する第一次攻撃隊が発進する{{Sfn|海軍魂|1996|pp=288-291}}{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=166}}。内訳は旗艦[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]から24機(村田機を含む[[九七式艦上攻撃機]]20機、[[零式艦上戦闘機]]4機)が発進<ref name="翔鶴調書三14">[[#翔鶴飛行調書(3)]]pp.14-15</ref>、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]から瑞鶴飛行隊長[[高橋定]]大尉が率いる29機([[九九式艦上爆撃機]]21機{{Sfn|八人武人生涯|2003|p=158}}、[[零式艦上戦闘機]]8機)<ref>[[#瑞鶴飛行調書(4)]]pp.6-7</ref>、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]から(零戦9機)<ref name="瑞鳳調書弐19">[[#瑞鳳飛行調書(2)]]pp.19-20</ref>、三艦合計62機(零戦21、艦爆21、艦攻20)が発進した<ref name="叢書(83)286">[[#叢書83ガ島戦]]286-289頁「一航戦第一次攻撃」</ref>。また触接のため瑞鶴と瑞鳳から艦攻各1機が発進した<ref name="叢書(83)286" />。
米軍はホーネットから総員を退艦させると駆逐艦マスティンにホーネットの魚雷処分を命令、マスティンからは搭載魚雷すべての8発の魚雷が発射されたが3本しか命中しなかった。代わって攻撃を行ったアンダーソンは6発の魚雷を命中させたがホーネットの傾斜角、喫水はほとんど変わらず、米軍の報告書によると「駆逐艦による魚雷攻撃の結果にはとても失望した。駆逐艦の攻撃はホーネットに殆どダメージを与えられなかった」とある<ref>Ibid, p.73. </ref>。魚雷を使い果たした両艦は12.7cm砲弾300発を撃ち込んだがホーネットは沈まず日本軍索敵機に発見されたため急いで現場海域から離脱した。


続いて第2次攻撃隊として各艦合計44機(九七艦攻16機、九九艦爆19機、零戦9機)が発進準備を行う<ref>[[#機動部隊(学研M)]]88頁、[[#橋本信号員]]241頁</ref><ref name="叢書(83)289">[[#叢書83ガ島戦]]289-292頁「一航戦第二次攻撃」</ref>。だが、翔鶴のレーダーがアメリカ軍機の機影をとらえたため第二次攻撃隊全機が揃うまで発進を調整せず<ref>[[#海軍美談]]150頁</ref>、まず翔鶴から([[関衛]]少佐・翔鶴飛行隊長:艦爆19、新郷少佐・翔鶴飛行隊長:零戦5)が発進し<ref name="翔鶴調書三16">[[#翔鶴飛行調書(3)]]pp.16-17</ref>、30分遅れた午前6時45分、瑞鶴から(今宿大尉・瑞鶴飛行隊長:艦攻16、零戦4)が発進した<ref>[[#機動部隊(学研M)]]88頁、[[#瑞鶴飛行調書(4)]]pp.8-10</ref>。他に触接のため艦攻2機(翔鶴1、瑞鶴1)が発進した<ref name="叢書(83)289"/>。母艦上空直掩に零戦を配備したため、南雲部隊は攻撃隊に十分な数の護衛機をつけられなかった<ref>[[#機動部隊(学研M)]]88頁</ref>。
[[連合艦隊]][[参謀長]]であった[[宇垣纏]]少将は「事情許さば、[[拿捕]]曳航されたし」と前進部隊に命令を発したが、火災と浸水で曳航不能なため第一〇駆逐隊の[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]・[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]は魚雷4本を発射しホーネットを雷撃処分した。合わせて魚雷16本、爆弾8発、12.7cm砲弾300発を喫したホーネットは22時ついに南太平洋の波間に姿を消した。


またアメリカ軍機動部隊発見の報告は日本軍前進部隊(第二艦隊)麾下の空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]](二航戦)にも伝えられ、前進部隊はガダルカナル島攻撃を中止した<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」 p.18〔 〇四五〇、KDB索敵機の敵大部隊を発見の報を得(中略)本隊は直ちに敵方に追撃、KDBと共に之を攻撃す 〕</ref><ref name="叢書(83)292">[[#叢書83ガ島戦]]292-294頁「二航戦第一次攻撃」</ref>。アメリカ軍機動部隊の攻撃に向け、航空隊の発進準備がはじまった{{Sfn|写真日本の軍艦(4)空母(II)|1989|pp=38-39|ps=川井哲夫「南太平洋海戦に賭けた"隼鷹"の闘魂」}}。前進部隊指揮官の[[近藤信竹]]中将は第二航空戦隊を南雲機動部隊の指揮下に預けると<ref name="11戦隊日誌7">[[#11戦隊日誌(4)]]pp.7,12</ref>自身はアメリカ軍方向に南下し、同時に機動部隊前衛(第十一戦隊:戦艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]等)を指揮下に入れ夜戦を挑む考えを各部隊に通達した<ref>[[#愛宕日誌(4)]] p.7〔 0828:第二航空戦隊(飛鷹欠)、親潮、黒潮をKDB指揮官の指揮下に入る(中略)残る前進部隊は本職之を率い敵方に進出 〕〔 1045:機動部隊前衛を本職の直接指揮下に入る 〕、[[#第八戦隊日誌(4)]]p.13、[[#11戦隊日誌(4)]]pp.7,12など。</ref>。<!-- 奥宮参謀は、最大速力32~33ノットを発揮する近藤中将指揮の第四戦隊(重巡洋艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]])が20ノットで進む中、最大速力26ノットの空母隼鷹が追い越す状況を見て、角田少将の闘志を賞賛している<ref name="淵田機動89">[[#機動部隊(学研M)]]89頁</ref>。ただし、第二航空戦隊は近藤中将の命令により、午前9時15分に第二艦隊と分離しただけである<ref name="3戦隊日誌24">[[#3戦隊日誌(1)]]p.24</ref>。-->
==結果==
この海戦でアメリカ軍は「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」も大破したため、太平洋における稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。しかし搭乗員の損害は少なく、「エンタープライズ」をヌーメア([[ニューカレドニア]])で応急修理を実施して[[第三次ソロモン海戦]]を始め、ガダルカナル島近海に進出してくる日本軍の艦艇に脅威を与え続けた。


ほぼ同時刻、アメリカ軍も日本艦隊を発見した。エンタープライズはSBD 16機を偵察に投入しており、SBD 2機のペアは第61任務部隊の北東方面を捜索した{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=70}}。ウェルチ大尉機とマクグロウ中尉機は{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=71}}、「フロート1つ」の日本軍水上偵察機とすれ違い、20分後に[[金剛型戦艦]]を発見した<ref name="big上229"/>。キンケイド提督は「戦艦2隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦7隻、南緯8度10分、東経163度55分、針路北、速度20ノット」という報告を受け取る<ref name="big上230">[[#BIG E上]]230頁</ref>。まもなく、第10偵察隊隊長J・R・"バッキー"・リー少佐と僚機から「空母2隻、護衛艦、南緯7度5分、東経163度38分」(距離320km)の連絡が入った{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=71}}。リー機とジョンソン中尉機は襲ってきた零戦3機を返り討ちにしたと主張し、2機とも生還した<ref name="big上231">[[#BIG E上]]231頁</ref>。日本軍機動部隊の位置をつかんだキンケイド少将は、指揮下の第16任務部隊と第17任務部隊に対し、直ちに攻撃隊発進を命令する。空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]から第1次攻撃隊29機(F4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス15機、TBFアベンジャー6機)、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]から第2次攻撃隊19機(F4F 8機、SBD 3機、TBF 8機)<ref>[[#BIG E上]]236頁</ref>、さらに「ホーネット」から第3次攻撃隊25機(F4F 7機、SBD 9機、TBF 9機)、合計73機が推定距離200浬の日本艦隊にむけて発進した<ref name="叢書(83)294">[[#叢書83ガ島戦]]294-296頁「『翔鶴』の損傷」</ref>。
日本側はこの海戦において勝利を収めたが、[[艦上爆撃機|艦爆]]隊や[[艦上攻撃機|艦攻]]隊の損害が大きく、特に[[村田重治]]少佐(戦死後大佐)をはじめとする[[真珠湾攻撃]]以来のベテラン搭乗員を多数失い、これ以上の攻勢に打って出ることが困難となった。また本海戦の目的の一つとも言うべき陸軍部隊の支援についても結果的には失敗している。特に航空機搭乗員の損害はミッドウェー海戦よりも多く、終戦までその損害を補うことが出来なかった。


南雲機動部隊から空母翔鶴の第二次攻撃隊の発艦準備が終了しかけたとき、瑞鶴より「発艦作業30分遅れる」と報告が来た<ref name="叢書(83)289"/>。さらに、索敵中のアメリカ軍SBDドーントレス2機(バーニー・ストロング大尉機、チャールズ・アーヴィン少尉機)が彼らに全く気付いていない空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]に奇襲をかける<ref name="big上233">[[#BIG E上]]233頁</ref>。上空警戒中の零戦9機もSBD 2機を阻止できなかった<ref name="叢書(83)290">[[#叢書83ガ島戦]]289-290頁「『瑞鳳』の損傷」</ref>。SBD 2機が投下した爆弾は瑞鳳の[[飛行甲板]]後部を直撃した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=166}}。ストロング機とアーヴィン機は日本軍の対空砲火と零戦の迎撃をふりきり、逆に計2機の零戦の撃墜を主張して生還している{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=72}}。日本軍にとって幸運なことに被弾箇所が最後部であったこと、被害艦が第二次攻撃隊を艦内に抱えていた瑞鶴でなかったため、誘爆による[[ミッドウェー海戦]]の悪夢再現は避けられた<ref>[[#海軍美談]]150-151頁</ref>。しかし飛行甲板の破孔により、瑞鳳は発着艦不能となった<ref name="八戦隊(4)26" />。瑞鳳は駆逐艦2隻(舞風、初風)に護衛され戦線を離脱する<ref name="叢書(83)301"/><ref name="叢書(83)301">[[#叢書83ガ島戦]]301-302頁「『翔鶴、瑞鳳』の戦場離脱と二航戦の作戦」</ref>。このため南雲長官は瑞鶴隊を置いて、翔鶴隊を発進させた(第二次攻撃隊戦力は上記参照)<ref name="叢書(83)289"/>。攻撃隊が発進すると翔鶴では被弾に備えて可燃物を全て捨てたが、この時、演芸会用の女着物とかつらが投げ込まれるのが目撃された{{Sfn|牧島貞一|2001|p=309}}。
10月27日夜、大本営海軍部は「米空母4隻、戦艦1隻、艦型不詳1隻いずれも撃沈。敵機200機以上を喪失せしむ。わが方の損害は空母2隻、巡洋艦1隻小破せるも、戦闘航海に支障なし。未帰還機40機、本海戦を南太平洋海戦と呼称す」と大勝利を宣伝した<ref>生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』195頁</ref>。


日本軍機動部隊の第一次攻撃隊は、進撃途中に日本艦隊を目指すアメリカ軍のホーネット隊とすれ違った{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=166}}。お互いに相手を視認しながら、両軍とも素知らぬふりをしてやり過ごそうとする<ref>[[#電信員遺稿]]143-144頁</ref>。次にエンタープライズ隊とすれ違って間もなく、日本軍攻撃隊最後尾に位置していた瑞鳳零戦隊9機(指揮官/[[日高盛康]]大尉)が反転し、エンタープライズ隊19機(艦戦8、艦爆3、艦攻8)を追撃した<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]116頁</ref>。エンタープライズ攻撃隊は零戦の奇襲で損害を受けた{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=238}}。F4F 3機が撃墜され、1機は被弾し機銃と無線を破壊されて母艦エンタープライズへの帰投を余儀なくされた<ref name="big上241">[[#BIG E上]]241頁</ref>。また雷撃隊も指揮官機を含む2機を撃墜され、1機が不時着し、別の1機が被弾により攻撃を諦め母艦へ帰還した<ref>The Office of Navy Intelligence, The Battle of the Santa Cruz Islands, p.45.</ref>。エンタープライズ隊はF4F 4機、SBD 3機、TBF 4機となったが、進撃を続けた{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=73}}。一方瑞鳳隊(零戦9)は空戦により零戦2機が撃墜されて残存7機となった上、母艦の方角がわからなくなってしまう<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]117頁</ref>。第一小隊2機(日高大尉)、第2小隊(内海秀一中尉)2機、第3小隊(河原政秋飛曹長)3機の各小隊ごとに分散して帰投するも<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]118頁</ref>、内海小隊2機が帰途行方不明、誘導機も帰投しなかった<ref>柳田邦男「零戦燃ゆ-飛翔篇」p.521、[[#瑞鳳飛行調書(4)]]p.19</ref>。瑞鳳零戦隊9機は4機喪失(2機撃墜、2機行方不明)1機大破という損害を出した<ref name="叢書(83)286"/>。
==人物像==
攻撃を命じる際、角田少将の意を受けて「隼鷹」飛行長が発した「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という命令は、彼の猛将ぶりを示すものとして伝説になっている。更に、炎上中の「ホーネット」に向かった攻撃隊を、無傷の「エンタープライズ」が発見されるや即座に攻撃目標の変更を命じるなど、柔軟にして即断即決の指揮は、高く評価されている。<!--角田司令と[[ハルゼー]]はともに「[[見敵必戦]]」がモットーであり、奇しくも日米の闘将が相搏つ一戦であった。(追記:角田は一介の戦隊司令官、ハルゼーは南太平洋軍の総指揮官であり、本海戦で直接やりあったわけでもないので、ここで両者を比較するのは妥当ではないと思います)-->


=== 米空母被弾 ===
一方で南雲中将は、[[ミッドウェー海戦]]以降、数少なくなった空母を危険にさらすことを恐れ、敵の索敵機に発見されては避退の為に反転を繰り返すといった慎重な行動がみられる。「[[瑞鳳]]」と「[[翔鶴]]」の損傷後は、残る「[[瑞鶴]]」の指揮を角田少将に委ねて戦場を後にしている。この後に「エンタープライズ」を撃破し、先の攻撃で炎上していた「ホーネット」に止めを刺したのは指揮権を移譲された角田少将の指揮によるものである。なお、[[翔鶴]](最高速度34ノット)は損傷しつつも駆逐艦を追い抜いたという逸話が残っている。
[[ファイル:USS Enterprise (CV-6) under attack by dive bombers during the Battle of Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-20989).jpg|thumb|right|250px|空襲下にある空母 エンタープライズ。]]
[[File:Japanese bomb explodes off the port side of USS Enterprise (CV-6) during the Battle of the Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-30198).jpg|thumb|right|250px|左舷に爆弾が命中したエンタープライズ。]]
6時55分、日本軍第1次攻撃隊は第17任務部隊(空母ホーネット、重巡2、防空巡2、駆逐艦6、直衛戦闘機38)を発見、ホーネットに攻撃を集中した<ref name="叢書(83)286"/>。エンタープライズ隊は[[スコール]]の下にあって、攻撃を受けなかった{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=240}}。まず瑞鶴艦爆隊第二中隊が攻撃し、1発目の爆弾は至近弾となり、2発目は飛行甲板中央部に命中{{Sfn|大塚|2007|p=176}}。さらにこの後爆弾2発が命中した{{Sfn|大塚|2007|p=176}}。続いて第一中隊と第三中隊が攻撃、爆弾は命中しなかったが被弾した佐藤兵曹長機がホーネットの煙突前部に突入し火災を生じさせた{{Sfn|大塚|2007|p=176}}{{#tag:Ref|一部の二次資料では、瑞鶴艦爆隊長の坂本明大尉機と記述する{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=52-53}}。|group="注"}}。その後、翔鶴の艦攻隊が攻撃を実施し、ホーネットの右舷の前部機械室と対空砲弾庫付近に魚雷が命中した{{Sfn|大塚|2007|p=176}}。被雷による浸水でホーネットは全動力を失い停止した{{Sfn|大塚|2007|p=176}}。
<!-- 被害詳細は個別の記事で…… 7時10分、1発目の爆弾が飛行甲板後部に命中、続いて被弾した艦爆1機が煙突を掠めて飛行甲板に激突した。搭載していた60キロ爆弾1発は煙突と信号艦橋に損傷を与え、もう一発の60キロ爆弾と機体は飛行甲板で爆発、付近は大火災となった。アメリカ軍の記録によると艦爆が搭載していた250キロ爆弾は不発である<ref>The Office of Navy Intelligence, p.57. </ref>。4発目の爆弾は甲板4層を貫いて内部で爆発、5発目は飛行甲板後部で炸裂し3メートルの穴を開け、6発目の爆弾は甲板3層を貫通して乗員食堂で炸裂した。最後に炎に包まれた艦攻1機が左舷前部高角砲座に突入した。7時15分、魚雷2本が機関室付近に命中し機関が停止、電力も絶たれたため消火ポンプが作動しなくなる。-->
また付近にいた護衛艦艇も攻撃を受け、雷撃機1機は重巡ペンサコラを攻撃したが魚雷は外れた。被弾した雷撃機はペンサコラに突入を試みたものの、艦首外側数メートルの海中に墜落した。また駆逐艦アンダーソンは雷撃機から機銃掃射を受けたものの目立った被害はなかった。


日本軍攻撃隊は7時20分には引き上げ、海上ではホーネットが激しく炎上していた。同艦は電気系統の全滅により消火ポンプが使用不能であったため消火器やバケツリレーによる消火作業が行われ、さらに駆逐艦{{仮リンク|モリス (DD-417)|en|USS_Morris_(DD-417)|label=モリス}}、{{仮リンク|ラッセル (DD-414)|en|USS_Russell_(DD-414)|label=ラッセル}}、マスティンによる消火作業の支援により8時ごろ<!-- 出典元では10時だが記事中の時刻と2時間のずれがあるようなので8時に修正。-->までにはほぼ消火に成功した{{Sfn|大塚|2007|p=180}}。重巡洋艦ノーザンプトンが依然航行不能であったホーネットの曳航を開始したが、曳航索が切れ作業はやり直しとなった{{Sfn|大塚|2007|pp=180-181}}。日本軍第一次攻撃隊はホーネットに重大な損傷を与えたものの、大損害を受けた。零戦5、艦爆17、艦攻16(翔鶴〈零戦2、艦攻16〉、瑞鶴〈零戦3、艦爆17〉)を喪失<ref name="翔鶴調書三14"/><ref name="叢書(83)286"/>。戦死者には攻撃隊指揮官[[村田重治]]少佐も含まれる{{Sfn|海軍魂|1996|pp=291-297}}。瑞鶴飛行隊長[[高橋定]]大尉の艦爆と僚機<!-- 平田二飛曹、勝見一飛曹長 -->は被弾損傷と燃料切れで墜落し、高橋大尉はタンカー玄洋丸に救助された<!-- 高橋機偵察員の国分飛曹長は救助後に戦死した。 -->{{Sfn|八人武人生涯|2003|p=157}}。また不時着により艦攻6機、艦爆5機、零戦2機が失われた<ref name="叢書(83)286"/>。これは後述の翔鶴と瑞鳳の被弾損傷により収容可能艦が瑞鶴のみとなり、燃料切れで不時着した機が多数あった為である<ref name="叢書(83)286"/>{{#tag:Ref|[[原為一]](当時、天津風艦長)によれば、同艦は搭乗員15名(うち2名戦死)を収容した{{Sfn|帝国海軍の最後|2011|p=77}}。|group="注"}}。また生還しつつも誘導の失敗により帰投できなかった機が2機あったという<ref name="叢書(83)286"/>。
==参加艦艇==

===日本===
日本側第2次攻撃隊は、8時15分に健在の第16任務部隊(空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタほか)と、炎上漂流中のホーネットを発見する<ref name="叢書(83)289"/>。先に到着した翔鶴艦爆隊は無傷のエンタープライズに攻撃を集中し、直撃弾を与えた{{#tag:Ref|翔鶴隊は空母1隻を爆撃して6発命中、この空母を瑞鶴隊雷撃と協同で撃沈、駆逐艦1隻大破炎上、撃墜1を報告した<ref name="叢書(83)289"/>。|group="注"}}。
連合艦隊司令長官 [[山本五十六]]大将(<!--司令部・-->[[チューク島|トラック島]])
<!-- 具体的被害については個別記事で…… 1発目の爆弾は、艦首から5メートルの飛行甲板に命中し爆弾はそのまま艦首上甲板を貫通して海面で炸裂、飛行甲板のドーントレス1機を海に吹き飛ばし、艦首付近を穴だらけにして小火災を発生させた<ref name="big上249">[[#BIG E上]]249頁</ref>。格納庫ではドーントレスが炎上し、整備兵は自軍の爆弾を海中に投棄した<ref name="big上249"/>。2発目の爆弾は、前部エレベータ後方3メートルの飛行甲板に命中し、3層を貫いて前部応急指揮所で炸裂した<ref name="big上249"/>。こちらの火災はひどく、火のついたガソリンが前部エレベーターの孔に流れ込んだほどである<ref>[[#BIG E上]]259頁</ref>。右舷3メートルの所には至近弾1発が落下し、舷側に損害を受けた。-->
====第二艦隊====
また翔鶴艦爆隊が到着する直前の8時1分、不時着したエンタープライズの雷撃機の救助に向かった駆逐艦[[ポーター (DD-356)|ポーター]]に雷撃機から誤って発射された魚雷が命中した{{#tag:Ref|アメリカ側の資料で、南太平洋海戦の対空戦闘中に日本軍の潜水艦{{Sfn|ニミッツ|1962|p=132}}([[伊号第二十一潜水艦]])が第16任務部隊を襲撃して重巡ポートランドや駆逐艦ポーターを雷撃、ポーターを撃沈したとの資料があるが{{Sfn|ニミッツ|1962|p=362}}、日本側記録では該当艦がない{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=199-202|ps=南太平洋海戦における潜水艦作戦}}。確認できる攻撃は、[[10月27日]]午前3時38分の[[伊号第二十一潜水艦|伊21]]から戦艦ワシントンに対するもの{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=202}}。魚雷が早爆してワシントンに被害はなかった{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=202}}。|group="注"}}。ポーターは航行不能になり僚艦の砲撃により処分された。8時35分、遅れて発進した瑞鶴雷撃隊はエンタープライズに魚雷を発射したが命中しなかった{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=241}}{{#tag:Ref|瑞鶴隊は[[ヨークタウン級航空母艦|エンタープライズ型空母]]1撃沈、[[サウスダコタ級戦艦 (1939)|サウスダコタ型戦艦]]1轟沈、艦型不詳巡洋艦1撃沈、駆逐艦1大破、撃墜8を報告した<ref name="叢書(83)289"/>。|group="注"}}。被弾した艦攻1機は駆逐艦{{仮リンク|スミス (DD-378)|en|USS Smith (DD-378)|label=スミス}}に体当たりした<ref name="big上255">[[#BIG E上]]255頁</ref>。艦攻が搭載していた魚雷が爆発し、砲塔付近にあった弾薬が誘爆して大火災が発生した<ref name="big上255"/>。しかし艦長の判断で付近を航行中の戦艦サウスダコタに接近し、サウスダコタの艦尾波でスミスは奇跡的に消火に成功した<ref>The Office of Navy Intelligence, p.65. </ref>。日本軍第2次攻撃隊はエンタープライズ等に損害を与えたものの、未帰還(艦攻9機、艦爆10機、零戦1機)、不時着(艦攻1機、艦爆2機、零戦1機)、合計24機(零戦2、艦爆12、艦攻10)を喪失した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=167}}。サウスダコタは対空砲火で日本軍機26機撃墜を報じた<ref name="叢書(83)289"/>。
[[近藤信竹|近藤信竹中将]]

*第三戦隊
=== 翔鶴の被弾と日本軍の追撃 ===
[[ファイル:Japanese cruiser Chikuma under air attack during the Battle of the Santa Cruz Islands, 26 October 1942 (NH 82404).jpg|thumb|right|250px|全速で回避する筑摩。]]
[[File:USS South Dakota with Kates Battle of Santa Cruz NARA 19LCM-BB57-2.jpg|thumb|right|250px|戦艦[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]に雷撃する[[九七式艦上攻撃機|97艦攻]]。]]
日本軍南雲機動部隊では、午前6時40分に翔鶴レーダーが135度距離145kmに敵機群を発見した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=167}}。午前7時18分にSBDドーントレス爆撃機15機を確認する<ref name="橋本栄光単242">[[#橋本信号員]]242頁</ref>。直衛の零戦は15機(翔鶴10、瑞鶴5)だったという<ref name="叢書(83)294"/>。
まず重巡洋艦[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]が攻撃されたが、命中弾はなかった<ref name="橋本栄光単242"/>。ホーネット第1次攻撃隊は午前7時27分(日本時間10時50分)、日本機動部隊を発見する{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=239}}。直後に零戦9機からなる日本軍直掩隊が現れF4F 2機が撃墜された。急降下爆撃隊15機は戦闘機の掩護なく進撃を続けたが、更に零戦隊に襲われた。SBD 2機が撃墜され、2機が被弾により母艦に帰投した<ref name="叢書(83)294"/>。残る11機は南雲機動部隊の旗艦翔鶴を攻撃し、飛行甲板後部に450キロ爆弾4発命中という戦果を挙げた{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=12-13|ps=ホーネット爆撃隊、翔鶴攻撃}}。この攻撃で翔鶴では高角砲弾が誘爆するも、[[ミッドウェー海戦]]の時とは異なり航空機用燃料・弾薬誘爆を避けられたため、沈没には至らなかった<ref>[[#海軍美談]]168頁</ref>{{Sfn|牧島貞一|2001|p=313}}。<!-- それでも上段格納庫甲板が爆圧で下段格納庫甲板に落下し<ref>[[#橋本信号員]]249頁</ref>、ボイラー1罐が給気孔より煙が入って使用不能・7罐運転となり最大速力31ノットに低下<ref name="橋本栄光単244">[[#橋本信号員]]244頁</ref>、3000トンを注水している<ref name="橋本栄光単246">[[#橋本信号員]]246頁</ref>。 速力低下と注水の確認がとれないため-->受信可能だが送信不可能になった翔鶴は消火作業を行いつつ北上し(8時20分以降、駆逐艦嵐が通信代行)、瑞鳳と護衛駆逐艦と共に戦場から避退した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=315}}。南雲長官は航空戦の指揮を第二航空戦隊司令官(隼鷹)に委ね、瑞鶴を指揮するよう命じた<ref name="八戦隊(4)16">[[#第八戦隊日誌(4)]] p.16(10月26日)〔 一四〇〇|(指揮官)KdB→(司令官)2Sf 瑞鶴|取敢ヘズ2Sf司令官ハ瑞鶴ヲ指揮セヨ 一三二五|同右 〕</ref>。機動部隊司令部が駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]に移乗したのは、損傷艦がアメリカ軍機の攻撃圏外に出た夕刻のことだった{{Sfn|提督有馬正文|1982|p=174}}<ref>[[#第八戦隊日誌(4)]] p.25〔 六.翔鶴、瑞鳳敵機ノ攻撃圏外ニ出タル後一七三〇将旗ヲ嵐ニ移揚戰場ニ急行 翔鶴、瑞鳳ハ駆逐艦二隻ト共ニ<ruby><rb>PT</rb><rt>トラック</rt></ruby>ニ回航セシム 〕</ref>。

エンタープライズ隊およびホーネット攻撃隊の一部(第一次攻撃隊のTBF 6機、第二次攻撃隊のF4F 7機、SBD 9機、TBF 9機){{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=14-15}}は日本空母を発見できず、南雲機動部隊前衛部隊を攻撃した<ref name="叢書(83)296">[[#叢書83ガ島戦]]296-297頁『「筑摩」の損傷』</ref>。特にエンタープライズ隊は瑞鳳零戦隊と空中戦をおこなったため燃料が不足しており<ref name="big上241"/>、さらに高度を失っていたので、目の前の機動部隊前衛を攻撃するしかなかった{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=239}}。雷撃機は鈴谷と磯風を狙い<ref>[[#第七戦隊記録(2)]] p.14-16(昭和17年10月26日経過)</ref>、鈴谷(第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将、鈴谷艦長[[木村昌福]]大佐)は複数の魚雷を回避した{{Sfn|キスカ島奇跡の撤退|2012|pp=136-139|ps=真っ直ぐに行け}}。また利根も魚雷を回避した<ref name="叢書(83)296"/>。
また3機のドーントレスは[[金剛型戦艦]]を攻撃し、二番砲塔と右舷中央に命中させたと主張する<ref name="big上242">[[#BIG E上]]242頁</ref>。実際に彼らが攻撃し大破させたのは、戦艦ではなく[[利根型重巡洋艦]]の[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]だった<ref name="叢書(83)296"/>。前衛艦隊の先頭にいた筑摩は午前7時から8時にかけての空襲で複数の爆弾が命中、多数の乗組員が死傷し、艦長の[[古村啓蔵]]大佐は負傷した{{Sfn|海の武将|1982|pp=53-55,119}}。午前9時19分、最大発揮速力23ノットとなった筑摩は<ref name="叢書(83)296"/>、駆逐艦2隻(谷風、浦風)に護衛されて退避した<ref>[[#第八戦隊日誌(4)]] p.13(10月26日)〔 〇八五七(宛略)筑摩ニ谷風 浦風ヲ附ス|同右(信号) 〕、[[#筑摩日誌(1)]]p.37</ref>。

日本軍前進部隊(第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将)に属していた[[角田覚治]]少将麾下の第二航空戦隊(空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]])は、まず午前7時に隼鷹第1次攻撃隊29機(指揮官[[志賀淑雄]]大尉:艦爆17機、零戦12機)を発進させた<ref>[[#隼鷹飛行調書(2)]]pp.20-22、[[#機動部隊(学研M)]]97頁</ref><ref name="叢書(83)292"/>。午前8時40分ごろ米軍機動部隊を発見<ref>[[#山川艦爆隊]]137頁</ref>。つづいて近藤長官の命令により午前8時18分をもって機動部隊指揮官([[南雲忠一]]中将)の指揮下に入り{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=167}}、3隻(隼鷹、黒潮、早潮)は機動部隊本隊と合流すべく行動を開始(前進部隊との分離は9時30分)<ref name="叢書(83)297">[[#叢書83ガ島戦]]297-298頁「二航戦第二次攻撃」</ref>。続いて南雲部隊旗艦翔鶴の被弾と通信能力喪失により航空戦の指揮をまかされ<ref>[[#機動部隊(学研M)]]93-94頁</ref>、瑞鶴を指揮下に入れた<ref name="八戦隊(4)16" /><ref name="叢書(83)301"/>。

二航戦第一次攻撃隊は、午前9時20分以降、第16任務部隊に対する攻撃を開始した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=168}}。雲高3500メートル雲底500メートルと視界が悪く、攻撃は分散され、また爆撃精度も悪化した<ref>[[#山川艦爆隊]]137-138頁</ref>。空母を狙おうとして果たせず、仕方なく護衛の戦艦や巡洋艦を爆撃した機もある<ref>[[#山川艦爆隊]]139頁</ref>。攻撃隊はエンタープライズに至近弾1発を与え、右舷中央部の船体を60センチ陥没させ、若干の浸水が始まった<ref>[[#BIG E上]]262頁</ref>。戦艦サウスダコタには4発の爆弾が投下され、1発が第一砲塔に命中する<ref>[[#山川艦爆隊]]140頁</ref>。艦長が軽傷を負い、付近の銃座に損害を与えたが、決定的打撃とはならなかった<ref name="ワシントン128">[[#ワシントン]]128頁</ref>。にもかかわらず、動揺した士官が操舵系を無断で第2戦闘指揮所に切り換えたため数分間操艦不能となり、結果サウスダコタは空母エンタープライズに突進した<ref name="ワシントン128"/>。この時はエンタープライズが4万トンの巨艦を回避し、大惨事をまぬかれた<ref name="big上265">[[#BIG E上]]265頁</ref>。また軽巡サン・ファンには6発の爆弾が投下され、内1発が艦尾に命中したが、船体を貫通して海中で爆発した<ref name="big上265"/>。サン・ファンは一時的に操舵不能となった<ref name="big上265"/>。隼鷹第1次攻撃隊は攻撃終了後、集合点に集まったところを先回りしたアメリカ軍戦闘機に襲われ、艦爆9機が一挙に撃墜されたという<ref>[[#山川艦爆隊]]141-142頁</ref>。二航戦第一次攻撃隊は艦爆11(自爆9、不時着2)を喪失し、零戦4機が瑞鶴に着艦した<ref name="叢書(83)292"/>。

=== アメリカ軍の撤退 ===
[[ファイル:USS Russel (DD-414) comes alongside USS Hornet (CV-8) during Battle of Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-304514).jpg|thumb|right|250px|駆逐艦に乗員を退艦させるホーネット。]]
日本軍機動部隊の三次にわたる攻撃により、ホーネットは戦闘力を喪失、エンタープライズも中破した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=242}}。エンタープライズは自身の所属機にくわえてホーネットの艦上機を収容しており、この時点で95機を積載していた{{Sfn|大塚|2007|p=189}}。損傷しているエンタープライズは、空爆に対して極めて脆弱になっていた{{Sfn|大塚|2007|p=189}}。第61任務部隊の状況に対し、日本軍には無傷の空母が残っており、キンケイド少将は撤退を決めた{{Sfn|大塚|2007|p=189}}。キンケイド提督は、第17任務部隊のマレー少将にホーネットの曳航作業継続を命じると、第16任務部隊は南東へ退避をはじめた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=132}}。ノーザンプトンはより太い曳航索を用いてホーネットの曳航を再開した{{Sfn|大塚|2007|p=192}}。

一方日本軍は航空機に多大な損害を受けていたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始した。第一次攻撃隊発進後の空母隼鷹はただちに第二次攻撃隊発進準備につとめたが、戦艦榛名より『敵大型陸上機十数機発見』の報告があり、攻撃隊発進を中止して上空警戒機(零戦4、艦攻5空中退避)を発進させる<ref name="叢書(83)297"/>。だが味方機と判明し、ふたたび第二次攻撃隊発進準備に努めた。午前11時13分、隼鷹から第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が発進した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=168}}。零戦のうち2機は瑞鶴所属機(白根大尉)、1機は瑞鳳所属機だった<ref>[[#隼鷹飛行調書(2)]]p.24、[[#山川艦爆隊]]145-146頁、[[#機動部隊(学研M)]]101頁</ref>。この時の隼鷹には白根大尉の零戦だけではなく、被弾した他艦所属機(翔鶴艦攻1、瑞鶴零戦3、瑞鶴艦爆5、瑞鳳零戦1)も収容している<ref name="叢書(83)297"/><ref>[[#機動部隊(学研M)]]99-100頁</ref>。

続いて11時15分に瑞鶴から残存機すべての零戦5、艦爆2機、艦攻6機(爆弾装備)からなる第3次攻撃隊(指揮官田中一郎瑞鶴分隊長)が発進、他に触接の艦攻1機が同行した<ref>[[#瑞鶴飛行調書(4)]]pp.11-12</ref><ref name="叢書(83)299">[[#叢書83ガ島戦]]299-300頁「一航戦第三次攻撃」</ref>。艦攻6機のうち5機は瑞鳳の所属機だった<ref>[[#瑞鳳飛行調書(2)]]pp.23-24、[[#瑞鶴飛行調書(4)]]p.12</ref>。彼らは索敵から帰還後被弾した瑞鳳に降りられず、瑞鶴に着艦していたのである<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]108-110頁</ref>。また翔鶴所属の零戦2、艦爆1も参加している<ref>[[#翔鶴飛行調書(3)]]p.17、[[#瑞鶴飛行調書(4)]]p.12</ref>。

隼鷹第2次攻撃隊は13時13分に戦場に到達し硝煙で視界がぼやける中<ref>[[#空母雷撃隊]]252頁</ref>、速力3-4ノット程度でホーネットを曳航中のノーザンプトンを襲った{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=242}}。ノーザンプトンは曳航索を切って魚雷をすべて回避したが、ホーネットには魚雷1本が命中、傾斜が14度に増大する<ref name="叢書(83)297"/>。また電気系統の復旧も不可能となった{{Sfn|大塚|2007|p=193}}。そのためメーソン(ホーネット)艦長は総員退艦準備を発令した{{Sfn|大塚|2007|p=193}}。隼鷹第2次攻撃隊は敵空母に魚雷3本以上命中、重巡洋艦に魚雷命中を報告し、零戦2機が行方不明・3機が不時着、艦攻2機が撃墜という損害を出し、零戦3機は「瑞鶴」に、艦攻5機は「隼鷹」に帰投した<ref name="叢書(83)297"/>。1機の艦攻は魚雷を発射できず、隼鷹着艦寸前に魚雷を棄てている<ref>[[#空母雷撃隊]]259頁</ref>。

数十分後、瑞鶴第3次攻撃隊がホーネットを爆撃した<ref name="叢書(83)299"/>。まず艦爆2機による爆撃で1発が至近弾となり、それにより傾斜が20度となった{{Sfn|大塚|2007|p=193}}。ここに至って艦長は退艦命令を出した{{Sfn|大塚|2007|p=193}}。次いで艦攻隊が高度2000m(規定では3000m)から800キロ爆弾による水平爆撃を行う<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]110-111頁</ref>。1発が飛行甲板後端に命中<ref name="叢書(83)299"/>。他の5発は至近距離に落下し、衝撃波によりホーネットに大きな損害を与えた。この時、鈴谷索敵機や利根索敵機が、ホーネットがまだ沈没していないことを報告した<ref>[[#11戦隊日誌(4)]] p.14、[[#第八戦隊日誌(4)]] p.16(10月26日)〔 一四三五|1(飛行機)鈴谷→(指揮官)KdB|ヨークタウン型一隻沈没セズ地点「キヒ2カ」針路九〇度速力一〇節 一四二〇|同右 〕〔 一五一〇|4(飛行機)利根→(指揮官)KdB|敵空母大傾斜救助作業中 一四四〇|同右 〕</ref>。瑞鶴第3次攻撃隊は艦爆1機が隼鷹に不時着した他、全機無事に瑞鶴へ帰投した<ref name="叢書(83)299"/>。

13時35分{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=168}}、隼鷹からこの日最後となる艦爆4機、零戦6機からなる隼鷹第3次攻撃隊が発進していた<ref>[[#山川艦爆隊]]152頁、[[#隼鷹飛行調書(2)]]p.25</ref><ref name="叢書(83)300">[[#叢書83ガ島戦]]300-301頁「二航戦第三次攻撃」</ref>。攻撃前、奥宮航空参謀が[[加藤舜孝]]中尉(隼鷹艦爆隊先任将校){{#tag:Ref|隼鷹艦爆隊隊長の山口正夫大尉や分隊長の三浦尚彦大尉は隼鷹第1次攻撃で戦死し、中尉の彼が最先任となっていた。|group="注"}}に出撃を命じると、加藤中尉は「またいくんですか」と仰天して立ち上がったという<ref>[[#機動部隊(学研M)]]103頁</ref>。15時10分、隼鷹第3次攻撃隊は漂流中のホーネットを発見、20分ほどエンタープライズを捜索したが発見できず、ホーネットを目標として爆撃を開始した<ref>[[#山川艦爆隊]]148頁</ref>。爆弾1発が命中<ref name="叢書(83)300"/>。ホーネットは炎上しつつ右舷に傾斜した。隼鷹第3次攻撃隊は爆弾4発命中を記録し、全機が帰還している<ref name="叢書(83)300"/>。隼鷹は第三次攻撃隊を収容したのち、一旦北上して破損機の修理を実施<ref name="叢書(83)301"/>。23時頃、空母瑞鶴と合同した<ref name="叢書(83)301"/>。翌日使用可能兵力は、隼鷹隊(零戦11、艦爆8、艦攻5)、瑞鶴隊(零戦33、艦爆10、艦攻19)であったという<ref name="叢書(83)301"/>。

支援部隊指揮官([[近藤信竹]]中将、旗艦「愛宕」)が指揮する前進部隊は、アメリカ軍機動部隊に水上戦闘を挑むため追撃戦に移った{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=315}}。機動部隊前衛も近藤長官の指揮下に入ったが動きが鈍く、旗艦「愛宕」からの再三による進撃命令を受けてようやく東進を開始、前進部隊と協同行動をとることになった<ref name="叢書(83)303">[[#叢書83ガ島戦]]303-305頁「水上部隊の戦闘(ホーネット撃沈)」</ref>。

一方のアメリカ軍はホーネットから総員を退艦させると、駆逐艦{{仮リンク|マスティン|en|USS_Mustin_(DD-413)}}と{{仮リンク|アンダーソン (駆逐艦)|en|USS_Anderson|label=アンダーソン}}にホーネットの自沈処分を命令した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=243}}。2隻は少なくとも魚雷16本を発射し、9本は起爆した{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=243}}。<!-- マスティンからは搭載魚雷すべての8発の魚雷が発射されたが3本しか命中しなかった<ref name="叢書(83)303"/>。代わって攻撃を行ったアンダーソンが6発の魚雷を命中させたがホーネットの傾斜角、喫水はほとんど変わらず、アメリカ軍の報告書によると「駆逐艦による魚雷攻撃の結果にはとても失望した。駆逐艦の攻撃はホーネットに殆どダメージを与えられなかった」とある<ref>Ibid, p.73. </ref> 該当する書籍が「参考文献」節にないようですが?  {{信頼性要検証|date=2017-01}}。 -->だがホーネットは沈まず、魚雷を使い果たした両艦は12.7cm砲弾300発を撃ち込んだが、ホーネットなおも浮いていた<ref name="叢書(83)303"/>。2隻は日本軍索敵機(長良機)に発見されたため、急いで現場海域から離脱した<ref name="叢書(83)303"/><ref>[[#第八戦隊日誌(4)]] p.17(10月26日)〔 一八五八|(飛行機)長良→(長官)2F|敵驅逐艦二隻火災中ノ空母砲撃中 一八四五|同右 〕〔 一九五五|同右|敵驅逐艦二隻見ユ 地点「キフ2カ」針路一六〇度速力二六節 我今ヨリ其ノ前方ヲ捜索ス 一九三〇|同右 〕</ref>。日本軍前進部隊は、長良機・五十鈴機・摩耶機などに誘導されながら接近した<ref name="叢書(83)303"/>。日が暮れようとする海原を前進した日本海軍前進部隊は、彼方から遠雷のような砲声を聞いた{{Sfn|中島|1986|p=114}}。これは、先にマスティンとアンダーソンがホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた{{Sfn|中島|1986|p=114}}。

18時30分頃、近藤長官は第二水雷戦隊や各艦(妙高、高雄、巻波、陽炎)に米駆逐艦2隻や残存部隊の追跡を命じたが<ref>[[#愛宕日誌(4)]] p.4〔 2003:摩耶飛行機吊光投弾2を敵駆逐艦上に投下 〕</ref><ref>[[#S1710第五戦隊日誌(4)]] pp.9-11〔 (九)十月二十六日〇一三〇我機動部隊敵触接機ノ爆撃ヲ受ケ(被害ナシ)急遽北上離脱セルコト判明シ亦〇二〇〇陸軍ノ攻撃ハ尚成功シアラザルコト判明セルヲ以テ〇二一〇前進部隊各隊ト共ニ反転北上 早朝索敵機ヲ進発(判別不明)〇四五〇味方機動部隊「サンタクルーズ」諸島北北東ニ敵ノ有力ナル機動部隊ヲ発見攻撃ヲ開始シ前進部隊亦之ニ向フ/當隊ハ命ニ依リ妙高 高雄 陽炎 巻波ヲ指揮シ〇八〇〇妙高高雄ノ索敵機揚収後之ヲ追及途中一二五〇敵B-17型重爆四機ト交戰之ヲ撃攘シ一五四五前進部隊本隊ニ合同ス、一方機動部隊前衛亦前進部隊ノ北方ニ合同セリ/本朝来我母艦群ノ攻撃ニ依リ敵ノ全空母ハ撃沈破セラレ敵艦隊潰乱状況トナリシコト判明夜戰ニ依ル残敵殲滅戰大ニ期待セラル/一八三〇命ニ依リ妙高 高雄 巻波 陽炎ヲ指揮シ前進部隊本隊ヨリ分離通信諜報ニ依ル敵敗残艦隊ノ位置S°-0′116°-40′E附近ヲ捜索セルモ定ヲ見ズ/二十七日〇〇四〇前進部隊本隊ニ合同ス/此ノ間夜戰部隊ハ炎上漂泊中ノ敵空母一隻ヲ処分撃沈セルモ其ノ他敵ヲ見ズ敗敵ハ既ニ遠ク離脱セルモノノ如ク翌二十七日早朝ノ索敵亦得ル所ナシ 高雄ヲ原隊ニ復シ摩耶ヲ指揮下ニ入ル 〕</ref>、全速で逃走する駆逐艦の捕捉は難しく、各隊は追跡を諦めてホーネットの傍に戻った<ref name="叢書(83)303"/><ref name="愛宕奮戦216">[[#愛宕奮戦記]]216頁</ref>。
{{Main|ホーネット (CV-8)#ホーネットの最期}}{{Main|秋雲 (駆逐艦)#ホーネットを撃沈する}}
連合艦隊司令部は[[ドーリットル空襲]]で日本に衝撃を与えたホーネットを捕獲しようと試み、「事情許さば、[[拿捕]]曳航されたし」と前進部隊に迫った<ref>[[#戦藻録(九版)]]219頁、[[#聯合艦隊作戦室]]119頁</ref>。だがホーネットは火災と浸水でひどく損傷しており、曳航は不可能だった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=316}}。「鉄の船があんなによく燃えるものか」という[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]乗組員の感想が残っている<ref name="愛宕奮戦216"/>。
秋雲は12.7センチ砲24発をホーネットに撃ち込んだが微動だにせず、爆雷での処分も検討されたが、爆雷の射程が短く断念された{{Sfn|中島|1986|p=115}}。結局、魚雷で処分することとなり、秋雲と巻雲からそれぞれ2本ずつ発射され、3本が命中した{{Sfn|中島|1986|p=116}}。<!-- 巻雲艦長によれば、最初の1本は艦首に命中して傾斜が復元し、2本目を反対舷に発射し、3本目で沈没、「此ノ駆逐艦魚雷ヲ三本モ打チ込ンデヤツト沈メタノニハ、ナサケナキ限リナリシ」と回想している<ref>高松宮5巻146ページ</ref> 当該書籍が「参考文献」節にないようですが? {{信頼性要検証|date=2017-01}}。この後、秋雲ではホーネットの断末魔を記録すべく、絵の上手な信号員に炎上中のホーネットを描くよう命じた{{Sfn|中島|1986|p=116}}。艦長はスケッチの助けにしてやろうと、ホーネットに向けて何度も[[サーチライト]]を照射した{{Sfn|中島|1986|pp=116-117}}。スケッチが終わり、やがてホーネットの火災は艦全体に広がった。 巻雲/ホーネットの記事で詳細記述 -->ホーネットは秋雲と巻雲が見守る中、10月27日午前1時35分、[[サンタクルーズ諸島]]沖に沈んでいった{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=244}}。<!-- 就役からわずか1年と7日という短いものであった(除籍は1943年1月13日)。 -->日本軍は救助したアメリカ軍兵士の尋問結果から、アメリカ軍の戦力や沈んだ空母がホーネットであることを知った<ref>[[#愛宕奮戦記]]217頁、[[#戦藻録(九版)]]222頁</ref><ref name="叢書(83)305">[[#叢書83ガ島戦]]305-306頁「二十七日の作戦」</ref>。

== 結果 ==
空母翔鶴にはレーダー([[二式二号電波探信儀一型|21号電探]])が装備されていたため、日本側は[[ミッドウェー海戦]]に比べると効果的な防空を行うことができた。また機動部隊の前方に囮として前衛部隊(戦艦〈比叡、霧島〉、重巡洋艦〈鈴谷、利根、筑摩〉、第十戦隊の軽巡洋艦と駆逐艦)を横に並べたため、筑摩の大破と引き換えに後方の空母への被弾を抑えることができた。10月30日、支援部隊(前進部隊、機動部隊)はトラック泊地に帰投した{{Sfn|戦史叢書62|1969|pp=211-212|ps=支援部隊トラック帰投及びその一部の内地回航}}。ただし空母4隻(飛鷹、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)それぞれ損傷の修理と航空隊の補充のため随時内地へ回航されることになり、太平洋で作戦行動可能な日本軍の空母は隼鷹1隻となった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=171}}{{#tag:Ref|トラック残留(主隊〈大和、陸奥、第7駆逐隊〉、前進部隊〈金剛、榛名、愛宕、高雄、隼鷹、飛鷹〉、機動部隊〈比叡、霧島、利根、雪風、天津風、照月、浜風〉)、内地回航(空母〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、重巡〈妙高、熊野、筑摩〉、駆逐艦〈嵐、舞風、谷風、浦風、磯風、秋雲、時津風、初風〉){{Sfn|戦史叢書62|1969|p=212}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|南太平洋海戦時点で日本軍が保有していた軽空母3隻([[大鷹 (空母)|大鷹]]、[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[鳳翔 (空母)|鳳翔]])は、機動部隊として使用できなかった{{Sfn|写真日本の軍艦(4)空母(II)|1989|p=95}}。空母飛鷹は、[[第三次ソロモン海戦]]のあと12月5日にトラック泊地を出発、内地に帰投した{{Sfn|写真日本の軍艦(4)空母(II)|1989|p=43|ps=航空母艦『飛鷹』行動年表}}。|group="注"}}。

この海戦でアメリカ軍は空母ホーネットを失い、エンタープライズも中破したため、太平洋における稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた<ref name="淵田機動116">[[#機動部隊(学研M)]]115-116頁</ref>{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=42-43}}。しかし搭乗員の損害は少なく、ヘンダーソン飛行場基地も健在だった{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=166|ps=南太平洋海戦}}。アメリカ軍は[[ニューカレドニア]]のヌーメアでエンタープライズの応急修理を実施した{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=22}}。同艦は修理をおこないながら[[第三次ソロモン海戦]]に参戦し、ガダルカナル島南方に進出して日本軍の艦艇に脅威を与え続けた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=317}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=138}}。1943年からは修理を終えた空母サラトガに加え{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=22}}、イギリス海軍から空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]を借りて間を埋めた。日本側は本海戦によりアメリカ機動部隊を一時的に行動不能としたが局地的勝利にとどまり{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|pp=225-228|ps=ガダルカナルを囲る攻防}}、ガダルカナル島奪回という戦略目標を達成できなかった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=160-161}}。

連合艦隊は[[昭和天皇]]から[[勅語]]を賜った<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070423300|昭和17年10月29日(木)海軍公報(部内限)号外 p.32}}〔 ○勅語 官房機密第一三四七六號 本日聯合艦隊司令長官ニ對シ左ノ勅語ヲ賜ハリタリ 昭和十七年十月二十九日 海軍大臣  勅語 聯合艦隊ハ今次南太平洋ニ於テ大ニ敵艦隊ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉ス惟フニ同方面ノ戰局ハ尚多端ナルモノアリ汝等倍〃奮励努力セヨ 〕</ref>。天皇は[[侍従武官]][[城英一郎]]大佐に「敵空母を大いに撃破したから本土空襲([[ドーリットル空襲]])の可能性はなくなったのではないか」と下問し、武官は「(連合軍には)[[改造空母|特設航空母艦]]が20数隻あるので楽観できない」と上聞している{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=199b|ps=(昭和17年10月27日記事)}}。

日本側はこの海戦において勝利を収めたが、宇垣連合艦隊参謀長が翔鶴艦長や瑞鳳艦長に「敵ばかりやっつけて味方が何の損害のないと云う事はあり得ない」と諌めた通り、大きな損害を出した<ref>[[#戦藻録(九版)]]223頁</ref>{{Sfn|提督有馬正文|1982|p=179}}。特に[[艦上爆撃機|艦爆]]隊や[[艦上攻撃機|艦攻]]隊の損害が大きく、翔鶴飛行隊長[[村田重治]]少佐{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=170-171|ps=村田重治 空母翔鶴飛行隊長}}(戦死後大佐){{Sfn|海軍魂|1996|pp=302-307}}をはじめとする[[真珠湾攻撃]]以来のベテラン搭乗員を多数失い{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=44-45}}、爾後の作戦に影響を与えた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=316}}(下記損害参照)。特に急降下爆撃機の損害が大きく、戦訓から母艦搭載機定数は艦爆の数を減らしている<ref>[[#機動部隊(学研M)]]138頁</ref>。また投弾後の艦上爆撃機が敵戦闘機に襲われた時の空戦能力の低さ、[[九九式艦上爆撃機]]の旧式化など複数の要素が絡み、[[零式艦上戦闘機]]を[[戦闘爆撃機]]として運用する[[爆戦]]の構想がうまれた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=390-391|ps=六 特殊攻撃}}。1943年(昭和18年)中盤より[[第二航空戦隊]]で爆装零戦の訓練がはじまった{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=391}}。1944年(昭和19年)2月1日に小型空母3隻(瑞鳳、[[千歳 (空母)|千歳]]、[[千代田 (空母)|千代田]])で[[第三航空戦隊]]が新編されると{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=105|ps=水上機母艦「千歳、千代田」を航空母艦に改造}}、三航戦の[[第六五三海軍航空隊]]の主力は[[爆戦|爆装零戦]]となった{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=391}}{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|p=267}}。

本海戦の損害を補うべく、日本海軍は教育部隊の教官を前線に出したり、飛行学生を卒業したばかりの士官を母艦に配属するなど、必死で穴埋めをする<ref>[[#機動部隊(学研M)]]139頁</ref>。奥宮参謀は、新任搭乗員が本海戦前母艦航空隊の技量になる時期を1943年6月以降と推測したが<ref>[[#機動部隊(学研M)]]142頁</ref>、その再建した航空兵力は[[い号作戦]]、[[ろ号作戦]]([[ブーゲンビル島沖航空戦]])、[[ギルバート諸島沖航空戦]]、[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]、[[トラック島空襲]]、[[マリアナ・パラオ諸島の戦い]]といった航空戦における大敗北で完全に消耗してしまい、終戦までその損害を補うことが出来なかった。

また本海戦の目的の一つとも言うべき日本陸軍部隊の支援についても結果的には失敗{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=244-245|ps=攻撃の再興と失敗}}、連合軍はヘンダーソン基地を堅持した{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=166|ps=南太平洋海戦}}。[[山本五十六]]連合艦隊長官は「海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし」と陸軍に連絡したが、陸軍は予備兵力なしとして断ったという{{Sfn|牧島貞一|2001|p=320}}。日本海軍では下士官兵はおろか将校までが陸軍を批判していたのが目撃されている{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=155}}{{Sfn|牧島貞一|2001|p=320}}。

日本側の連合艦隊戦闘速報第一号は「「ソロモン」海域ニ作戦中ノ聯合艦隊ハ二十六日早暁「サンタクルーズ」北方海面ニ於テ空母四隻、戦艦四隻其他巡洋艦、駆逐艦ヲ合セ 計二十余隻ヨリナル敵艦隊ヲ捕捉シ 二十時迄ニ其全空母ヲ撃滅、敵ヲ潰乱ニ陥シイレ目下夜戦部隊ノ全力ヲ以テ残敵ヲ追撃中ナリ」というものだった{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=246-247|ps=南太平洋海戦}}。
その後も「米空母3、戦艦サウスダコタ、巡洋艦3隻(内1隻戦艦なるやもしれず)、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦3隻大破、駆逐艦3隻大破または中破、航空機50以上撃墜」と報じた<ref>[[#戦藻録(九版)]]220頁、[[#第八戦隊日誌(4)]]p.27、[[#11戦隊日誌(4)]]p.39</ref><ref name="叢書(83)307">[[#叢書83ガ島戦]]307-308頁「戦闘速報及び戦闘概報」</ref>。10月27日午後8時30分、大本営海軍部は「米空母3-4隻、戦艦1隻撃沈。大破戦艦1隻、巡洋艦1隻、艦種不明1隻。中破戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻。敵機200機以上を喪失せしむ。わが方の損害は空母2隻、巡洋艦1隻小破せるも、戦闘航海に支障なし。未帰還機40機、本海戦を南太平洋海戦と呼称す」と大勝利を宣伝した<ref>「週報 第317号」p.5、「写真週報 246号」p.4(各著、戦果・損害数に1隻程度の誤差があるが概ね同じ)</ref>{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=199c|ps=(中略)戦果今夜の発表につき上聞せし際、味方の損害は如何に発表するやとの御下問あり。軍令部三部長に確め、味方の損害は修正を加へず概ね其儘発表する旨を上聞せし所、「それは良いことだ」との仰せあり。/二一〇〇、「ラヂオ」にて南太平洋海戦及第二次ソロモン以後の戦果発表され、久し振りに[[軍艦行進曲|軍艦マーチ]]を聞く。}}{{#tag:Ref|大本營発表 二十七日午後八時三十分/一 帝国艦隊は十月二十六日黎明より夜間に亙りサンタクルーズ諸島北方洋上において敵有力艦隊と交戦、敵航空母艦四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻を撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を中破し、敵機二百機以上を撃墜その他により喪失せしめたり。我方の損害、航空母艦二隻、巡洋艦一隻小破せるも、何れも戦闘航海に支障なし。未帰還機四十數機。(註)本海戦を南太平洋海戦と呼称す(第二次ソロモン海戦以後の戦果喪失略){{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=246-248|ps=華々しい戦果の発表}}。|group="注"}}。

また愛宕(第二艦隊旗艦)が傍受した日本語のハワイ放送(日本向け宣伝放送)によれば「日本軍空母7隻、大巡5隻、駆逐艦数隻撃沈、米軍損害は駆逐艦1隻沈没」だったという<ref>[[#愛宕奮戦記]]225頁</ref>。しかし、これはあくまで敵国に対するプロパガンダであり、アメリカ海軍の公式発表では戦果を「日本軍空母2隻損傷、巡洋艦1隻大破」とほぼ正確に伝えており、損失を「空母1隻沈没、駆逐艦『ポーター』沈没」と、撃沈された艦も隠さず発表している<ref>Lawrence, W.H. (1942). Damaged ship lost. The New York Times, 1st November. Retrieved from: http://www.freerepublic.com/focus/f-chat/2953128/posts [Accessed: 6th Aug 2014]</ref>。特に、空母が撃沈されたことはルーズベルト大統領が自分で発表したもので、敵に情報を与えないことを重要視していたニミッツはこれに激怒、後日の[[レンネル島沖海戦]]で重巡洋艦[[シカゴ_(CA-29)|シカゴ]]が撃沈された時は{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=195}}、副官のドレークに「(ホーネットの時のように)シカゴが沈んだことをもらす者は撃ち殺してやる」と言っていた{{Sfn|Brayton|2011|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}。

日本軍大勝利の報道に対し、奥宮参謀は「空母1隻撃沈程度と推定しつつも、搭乗員の申告を黙認せざるを得なかった」と述べている<ref name="淵田機動116"/>。村田少佐をはじめ、熟練搭乗員や攻撃隊主要幹部が戦死したことも戦果確認を困難とした一因だった<ref>[[#叢書83ガ島戦]]311-312頁</ref>。また搭乗員の中には米空母6隻存在を主張する者もあり、また第二航空戦隊の強い主張で空母3隻撃沈という判定になったという{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=317}}。これは双方の機動部隊が広範囲に展開するため敵軍の全貌をつかみにくいという問題も絡んでおり<ref name="11戦隊日誌40">[[#11戦隊日誌(4)]]p.40</ref>、第十一戦隊は[[彗星 (航空機)#二式艦上偵察機|二式艦上偵察機]]のような高速偵察機の本格的な投入と、常に敵艦隊と接触し続けることの重要性を報告している<ref name="11戦隊日誌40"/>。二式艦上偵察機は機体の強度不足を補強する前の[[彗星 (航空機)|彗星艦上爆撃機]]の試作機の改造機で、その高速度から[[ミッドウェー海戦]]でも試作機の十三試艦上爆撃機が空母[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]で使用されたが無線機故障で索敵の役を果たせず、さらに母艦の喪失で失われて「彗星」開発計画に多大な遅延が生じた。本海戦では空母翔鶴から偵察機として2機が発進した<ref name="叢書(83)284"/>。アメリカ軍機動部隊と違う方向を偵察してしまい、索敵に失敗したという{{Sfn|機動部隊全史|1999|p=167}}。「翔鶴飛行機隊戦闘行動調書」には記録が残っていない<ref name="叢書(83)284"/>。この二式艦偵は陸上基地を経由して母艦に帰投した{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=11}}。

日本軍は軍令部や大本営を含めて本海戦で大勝利を収めたと信じ{{Sfn|トール、ガ島からサイパン(上)|2016|p=244}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=203|ps=(昭和17年11月5日記事)(中略)一六〇〇、軍令部総長、戦況奏上。○南太平洋海戦の戦果確実となる。撃沈敵空母、エンタプライズ、ホーネット、他の大空母サラトガ? 撃沈戦〔艦〕サウスダコタ 撃沈、巡×3、d×1 大破、C×3、大破又は中破、d×3、(航空機)×80以上撃墜、〔空母〕喪失による損失を含み、二〇〇機以上。(以下略)}}、「今一押し」でガダルカナル島の戦いに勝利するのも目前だと考えた{{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=169-173|ps=態勢の整理/大本營の指導}}。日本陸軍総攻撃の失敗は衝撃的だったが、本海戦の勝利により、大本営陸海軍部は従来どおりガダルカナル島奪回の方針を維持した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=302-304|ps=南東方面作戦は既定方針堅持}}。またアメリカ海軍機動部隊を撃破したので、日本側の作戦にとって相当有利と認識した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=330-332|ps=大本營、既定方針を堅持}}。
そこで陸軍第三十八師団を輸送船11隻に分乗させ、ガダルカナル島へ強行輸送する作戦を立案する{{Sfn|ニミッツ|1962|p=133}}。この時、戦艦2隻(比叡、霧島)でヘンダーソン飛行場砲撃を実施することになった{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=204|ps=(昭和17年11月8日記事)}}。
日本軍の作戦を察知したアメリカ軍は、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]に応急修理を施して戦線に復帰させ、さらに[[大和型戦艦]]と同世代の新型戦艦2隻([[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]、[[ワシントン (戦艦)|ワシントン]])をガダルカナル島周辺海域に投入した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=134}}。こうしてガダルカナル島へ向かう日本軍艦隊との間に[[第三次ソロモン海戦]]が発生し、[[アイアンボトム・サウンド|鉄底海峡(アイアンボトム・サウンド)]]に多数の両軍艦艇が沈むことになった{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|pp=167-172|ps=第三次ソロモン海戦/イ 一次戦闘/ロ 二次戦闘/ハ 第二次挺身輸送船団}}。

== 損害 ==
=== 日本 ===
*大破:空母 翔鶴、重巡 筑摩<ref name="八戦隊(4)26">[[#第八戦隊日誌(4)]] p.26〔 七.被害(イ)艦船 翔鶴 中部昇降機附近被害直撃彈三發ニ依リ發着甲板後半及格納庫中部後部高角砲台機銃砲台全部破壊 至近彈ニ依ル被害ト併セ修理ニ籔箇月ヲ要スル被害アリ 出シ得ル最大速力三一節/瑞鳳 發着甲板後部直撃彈一發ニ依リ径約一五米ノ破口ヲ生ズ 其ノ下方各部破壊後部高角砲機銃破壊 全力發揮差支ナシ/照月 右舷中部至近彈ニ依リ小被害アリ/筑摩 相當ノ被害アリ二三節航行可能 〕</ref>
*中破:空母 瑞鳳<ref name="八戦隊(4)26" />
*小破:駆逐艦 照月<ref name="八戦隊(4)26" />(26日夜、大型機の爆撃による)
*航空機損失:92機
*航空機搭乗員戦死:148名<ref>佐藤和正 『太平洋海戦』2(激闘篇)では145名としている</ref>
*艦船乗組員戦死:250-350名{{Sfn|Frank|1992|pp=400-401}}

=== アメリカ ===
*沈没:空母 ホーネット、駆逐艦 ポーター
*大破:駆逐艦 スミス
*中破:空母 エンタープライズ
*小破:戦艦 サウスダコタ、軽巡 サン・ファン
*航空機損失:81機
*航空機搭乗員戦死:26名(捕虜となった4名含む)
*艦船乗組員戦死:240名
*戦死者合計266名<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 401 and Lundstrom, ''Guadalcanal Campaign'', p. 456. Breakdown of deaths: ''Hornet'' 118, ''Enterprise'' 44, ''Smith'' 57, ''Porter'' 15, ''Pensacola'' 3, ''South Dakota'' 2, ''Morris'' 1, and 22 aircrew. Four U.S. aircrew members were captured by the Japanese. Total U.S. aircraft losses included 32 Wildcats, 31 SBDs, and 18 TBFs.</ref>

=== 日本海軍艦載機群 ===
この戦いで、日本海軍の艦載機部隊は艦爆・艦攻隊を中心に大きな被害を出した{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|pp=10a-11|ps=南太平洋海戦・日本機動部隊の航空兵力(10月26日)}}。
*出撃機数
**翔鶴
*:第一次攻撃隊 零戦4、艦攻20(総指揮官:翔鶴飛行隊長[[村田重治]]少佐)
*:第二次攻撃隊 零戦5、艦爆19(指揮官:翔鶴飛行隊長[[関衛]]少佐)
*:直掩機 零戦10
*:触接機 艦攻1
*:偵察隊 艦攻 数機(早朝出撃)
*:全機母艦に収容不能(翔鶴被弾に因る。一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
**瑞鳳機
*:偵察隊 艦攻 数機
*:第一次攻撃隊 零戦9
*:全機母艦に収容不能(瑞鳳被弾に因る、一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
**瑞鶴
*:第一次攻撃隊 零戦8 艦爆21
*:第二次攻撃隊 零戦4 艦攻16(帰還・再出撃機含)
*:第三次攻撃隊 零戦5、艦爆2、艦攻6(帰還・再出撃機含)
**隼鷹
*:第一次攻撃隊 零戦12、艦爆17
*:第二次攻撃隊 零戦8、艦攻7(帰還・再出撃機含)
*:第三次攻撃隊 零戦6、艦爆4(帰還・再出撃機含)

*帰還機数
**一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)
*:第一次攻撃隊 20(このうち約半数が修理不能として海中投棄。3艦で62機出撃して瑞鶴、隼鷹に着艦できたもの)
*:第二次攻撃隊 20(これも半数以上が修理不能のため海中投棄。翔鶴、瑞鶴合わせて44機出撃)
*:第三次攻撃隊 13(未帰還機無)
**二航戦(隼鷹)
*:第一次攻撃隊 18
*:第二次攻撃隊 8
*:第三次攻撃隊 10(未帰還機無)

*総計
:未帰還機数 零戦17、艦爆31、艦攻21、計69。
:不時着 零戦7、艦爆9、艦攻7、計23。(海中投棄機数を除く)
:喪失機数計 零戦24(39.3%) 艦爆40(63.4%) 艦攻28(58.3%)
::※カッコ内の割合は延べ全出撃数(偵察・直掩機は除く)に対する喪失機数割合
:戦死搭乗員 零戦17、艦爆62、艦攻66、計145名{{Sfn|佐藤和正|1988|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}


ミッドウェー海戦と、ガダルカナル島を巡る一連の海戦(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦)で、[[真珠湾攻撃|ハワイ奇襲]]以来の日本海軍空母航空部隊は完全に消耗した{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|pp=228-233|ps=南太平洋に散った戦士たち}}。再建を目指した航空部隊は[[い号作戦]]、[[ろ号作戦]]([[ブーゲンビル島沖航空戦]])、[[トラック島空襲]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[台湾沖航空戦]]等ですり潰され、この後終戦まで二度と同規模・同水準の部隊となることはなかった。

== 人物像 ==
第二航空戦隊司令官[[角田覚治]]少将は、勇猛果敢な指揮により日本軍の勝利に貢献した{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|pp=166-167|ps=角田覚治 第二航空戦隊司令官}}。空母同士の交戦がはじまると、角田は旗艦隼鷹をためらわずに敵機動部隊の方向に進出させた{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|p=167}}。攻撃を命じる際、角田少将の意を受けて空母隼鷹の崎長飛行長が発した「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という命令は<ref>[[#山川艦爆隊]]134頁</ref>、彼の猛将ぶりを示すものとして伝説になっている。更に、炎上中の空母ホーネットに向かった攻撃隊を、無傷のエンタープライズが発見されるや即座に攻撃目標の変更を命じるなど、柔軟にして即断即決の指揮は、高く評価されている。[[奥宮正武]]第二航空戦隊参謀は、日本軍水上艦艇(近藤中将)の追撃は及び腰で「水上部隊にも角田がいれば」と述べている<ref>[[#機動部隊(学研M)]]109-110頁</ref>。

角田の他にも、[[有馬正文]]大佐(当時、翔鶴艦長)の果敢な姿勢が目立った{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|pp=168-169|ps=有馬正文 空母翔鶴艦長}}。SBDの爆撃で翔鶴が被弾炎上すると、有馬は{{読み仮名|囮|おとり}}としてアメリカ軍機動部隊に突入することを主張したが{{Sfn|提督有馬正文|1982|pp=172-174}}、草鹿参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と諌められた<ref>[[#草鹿回想]]176-177頁「ホーネットに留めを刺す」</ref>。
翔鶴と瑞鳳がトラック泊地に帰投した際、有馬艦長と瑞鳳艦長の[[大林末雄]]大佐は戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]の連合艦隊司令部をたずねた{{Sfn|日本海軍英傑伝|1994|p=257}}。[[山本五十六]]長官は有馬を呼び止め「もう少し追撃はできなかったのか」と問いかけ、有馬は南雲中将と草鹿少将の判断を庇うつもりで「あれが精一杯のところでした。あれ以上の追撃は無理だったでしょう」と返すと、2人のやりとりを耳にしていた[[黒島亀人]]先任参謀は「そうでしょうなぁ。あんたのところ(機動部隊)は北にばかり走りたがっていたから、追撃の考えは出なかったんでしょうね」と揶揄した{{Sfn|日本海軍英傑伝|1994|p=257}}。その後、翌年の1943年(昭和18年)4月18日に山本五十六長官が[[戦死]]([[海軍甲事件]])した後日、有馬は海兵同期の[[高木惣吉]]に「山本長官は間もなく戦死された。それなら、あの時に本音を言っておけば」と語ったという{{Sfn|提督有馬正文|1982|pp=178-179}}。
このように連合艦隊司令部は、南雲機動部隊の作戦に不満を抱いていた。本海戦時、[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は翔鶴の損傷と第一航空戦隊の後退を知り、撤退の禁止と米艦隊攻撃続行を命じた<ref name="吉田比叡182">[[#吉田比叡]]182-183頁</ref>。するとある参謀が「敵と距離をとることは、むしろ敵をアウトレンジするのに有利」と進言し、その消極的な姿勢で宇垣参謀長を激怒させている<ref>[[#戦藻録(九版)]]218頁、[[#吉田比叡]]183頁</ref>。

一方で[[南雲忠一]]中将は、[[ミッドウェー海戦]]以降、数少なくなった空母を危険にさらすことを恐れ、敵の索敵機に発見されては避退の為に反転を繰り返すといった慎重な行動がみられる{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|pp=164a-165|ps=南雲忠一 第三艦隊司令長官}}。瑞鳳と翔鶴の損傷後は、残る瑞鶴の指揮を角田少将に委ねて戦場を後にした。この後にエンタープライズを撃破し、先の攻撃で炎上していたホーネットに隼鷹攻撃隊を送り込んで止めを刺したのは、指揮権を移譲された角田少将の指揮によるものである。南雲は戦場を離れると17時30分に第四駆逐隊([[有賀幸作]]司令)旗艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]に移乗し、近藤艦隊を追いかけている<ref>[[#続海軍くろしお]]231-232頁、[[#橋本信号員]]246頁</ref>。翔鶴に乗艦していた[[中島親孝]]第三艦隊通信参謀によれば、翔鶴はアンテナの損傷により送信不可能となったため南雲司令部は秋月型駆逐艦[[照月 (駆逐艦)|照月]]経由で瑞鶴に移乗しようとしたところ照月が見当たらず、仕方なく駆逐艦嵐(第四駆逐隊司令艦)経由で命令を発していたという<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]119頁</ref>。海戦終了後、第三艦隊の参謀達が大勝利を喜ぶ中で、南雲はひとり物思いに沈んでいる様子だったという{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=165}}。本海戦のあと第三艦隊司令長官を[[小沢治三郎]]中将に譲った南雲中将は、11月11日付で[[佐世保鎮守府]]司令長官に任命される{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=165}}。翌年3月には[[村田重治]]大佐の生家を弔問している{{Sfn|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995|p=171}}。

奥宮とは対照的に、[[草鹿龍之介]](当時機動部隊参謀長)と[[吉田俊雄]](当時海軍少佐、軍令部参謀)は、角田よりも[[近藤信竹]]中将(当時第二艦隊司令長官)を高く評価している<ref>[[#吉田比叡]]180-181頁、[[#草鹿回想]]169頁</ref>。たとえば近藤と南雲の2人は同じ階級の中将だが、[[軍令承行令]]上、先任である近藤が南雲の指揮をとることになっていた<ref name="別歴全史実158">{{Harvnb|機動部隊全史|1999|p=158}}、[[#草鹿回想]]169頁</ref>。しかし近藤は第二次ソロモン海戦に続き、本海戦でも南雲機動部隊の行動に従い、機動部隊の行動に制約をあたえなかった<ref name="別歴全史実158"/>。また近藤は指揮下の第二航空戦隊(空母隼鷹)を第三艦隊に預けると、自身は前進部隊を率いてアメリカ軍機動部隊を追撃した<ref>[[#第八戦隊日誌(4)]] p.13(10月26日)〔 〇九〇〇|支援部隊(指揮官)→支援部隊|支援部隊電令作第一五號 2Sf(飛鷹欠)及黒潮 早潮ヲKdB指揮官ノ指揮下ニ入ル.2Sf〇八〇〇地点「ケリト37」針路一二〇度速力二四節 敵大二空母ニ対シ第二攻撃隊(艦攻六機)發進準備中 全sン部隊ハ本職之ヲ率ヰ敵方ニ進撃ス〇八一八|同右(無電) 〕</ref>。吉田は「武人らしい気魂を感じさせるのは、近藤の采配が最も圧巻である」と述べている<ref>[[#吉田比叡]]180-181頁</ref>。草鹿参謀長は「近藤の宏大な度量、人格は私の大きな力になった」と回想している<ref name="草鹿回想169">[[#草鹿回想]]169頁</ref>。なお草鹿は海戦後の研究会で「機動部隊指揮官が所在部隊(第二艦隊、第三艦隊)を統一指揮する必要がある。第二艦隊司令長官が(機動部隊を)指揮するのは作戦上具合が悪い」と意見している{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=318}}。

== 参加艦艇 ==
=== 日本 ===
連合艦隊司令長官 :[[山本五十六]]大将 参謀長:[[宇垣纏]]少将(<!--司令部 -->[[チューク島|トラック島]]){{#tag:Ref|連合艦隊旗艦主隊([[大和 (戦艦)|大和]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]])ほか。|group="注"}}

支援部隊(軍隊区分):指揮官 第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将、旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」
==== 第二艦隊 ====
前進部隊(軍隊区分)<ref name="五戦隊(4)17">[[#S1706第五戦隊日誌(4)]] pp.17-18〔 二.計画(一)軍隊區分 自十月五日 至十月三十日(機密支援部隊命令作第三號) 〕</ref><!-- 飛行場砲撃は終了しており、本隊と挺身攻撃隊を区別せず -->
第二艦隊司令長官:[[近藤信竹]]中将 参謀長:[[白石萬隆]]少将
*第三戦隊 司令官:[[栗田健男]]中将<!-- 中将昇進辞令<ref name="jirei851">{{アジア歴史資料センター|C13072112000|昭和17年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第851号 p.1}}</ref> --><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086200|昭和17年7月13日(発令7月12日付)海軍辞令公報(部内限)第898号 p.49}}</ref>
**[[戦艦]]:[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]
**[[戦艦]]:[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]
*第四戦隊 第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将直率
*第四戦隊
**[[重巡洋艦]]:愛宕、高雄
**[[重巡洋艦]]:[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]](第二艦隊旗艦支援部隊および前進部隊旗艦)、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]
*第五戦隊 司令官:[[高木武雄]]中将<!-- 中将昇進辞令<ref name="jirei851" />  --><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088000|昭和17年11月10日(発令11月10日付)海軍辞令公報(部内限)第982号 }} p.24高木中将(免第五戦隊司令官)、p.25大森仙太郎少将(補第五戦隊司令官)</ref>
*第五戦隊
**重巡洋艦:[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]{{#tag:Ref|摩耶は戦時編制において第四戦隊所属だが、臨時に第五戦隊司令官の指揮下で行動していた<ref>[[#S1710第五戦隊日誌(4)]] p.3〔 (イ)自十月一日至十月十日「トラツク」ニ在リテ警戒待機十月六日前進部隊電令作第五九號ニ依リ摩耶ヲ當隊ノ指揮下ニ入ル 〕</ref>。第五戦隊所属の重巡[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]は整備艦船に区分されており<ref name="五戦隊(4)17" />、内地の[[佐世保海軍工廠]]で修理中だった{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|p=234|ps=重巡洋艦『羽黒』行動年表}}。|group="注"}}
**重巡洋艦:妙高、摩耶
*第二航空戦隊 司令官:[[角田覚治|角田覚治少将]]
*第二航空戦隊 司令官:[[角田覚治]]少将<ref name="jirei899a">{{アジア歴史資料センター|C13072086200|昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50}}</ref>
**[[航空母艦]]:[[隼鷹 (空母)|隼鷹]] ― [[航空機|艦載航空機]]48機{{#tag:Ref|二航戦には空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]が所属するが、10月20日に機関故障を起こし作戦行動不能となる{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=157}}。飛鷹は航空隊を隼鷹に補充し、駆逐艦[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]](第19駆逐隊)と[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]](第6駆逐隊)に護衛されトラック泊地に後退した<ref name="叢書(83)249" />。|group="注"}}
**[[航空母艦]]:[[隼鷹]]―[[航空機|艦載航空機]]48機
*第二水雷戦隊 司令官:[[田中頼三|田中頼三少将]]
*第二水雷戦隊 司令官:[[田中頼三]]少将
**軽巡洋艦:[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070423100|昭和17年10月14日(水)海軍公報(部内限)第4219号 p.32}}〔 ○旗艦變更 第二水雷戰隊司令官ハ九月二十六日旗艦ヲ五十鈴ニ變更セリ 〕</ref>
**軽巡洋艦:[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]
*第十五駆逐隊 司令:[[佐藤寅治郎]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081400|自昭和16年6月 至昭和16年9月 海軍辞令公報}}昭和16年6月18日付 海軍辞令公報 (部内限) 第657号。</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088700|自昭和17年11月 至昭和17年12月 海軍辞令公報}}昭和17年12月26日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1021号。</ref>
*第一五駆逐隊
**駆逐艦:[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]
**駆逐艦:[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]
*第二十四駆逐隊 司令:[[中原義一郎]]中佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086800|自昭和17年7月 至昭和17年10月 海軍辞令公報}}昭和17年9月3日付 海軍辞令公報 (部内限) 第936号。</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090800|自昭和18年4月 至昭和18年6月 海軍辞令公報}}昭和18年5月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1103号。</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|自昭和18年7月 至昭和18年9月 海軍辞令公報}}昭和18年7月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1169号。</ref>
*第二四駆逐隊
**駆逐艦:[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]
**駆逐艦:[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]
*第三十一駆逐隊 司令:[[清水利夫]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086700|自昭和17年7月 至昭和17年10月 海軍辞令公報}}昭和17年8月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第931号。</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089700|自昭和18年1月 至昭和18年3月 海軍辞令公報}}昭和18年2月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1053号。</ref>
*第三一駆逐隊
**駆逐艦:[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]、[[高波 (駆逐艦)|高波]]
**駆逐艦:[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]、[[高波 (駆逐艦)|高波]]
*付属<ref name="五戦隊(4)17" />
** 工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]、タンカー神風丸、尾上丸、日栄丸、神国丸、健洋丸、日本丸、玄洋丸、康良丸、駿河丸


==== 第三艦隊 ====
==== 第三艦隊 ====
機動部隊本隊(軍隊区分)
[[南雲忠一|南雲忠一中将]]
第三艦隊司令長官:[[南雲忠一]]中将<ref name="jirei899a" /> 参謀長:[[草鹿龍之介]]少将<ref name="jirei899b">{{アジア歴史資料センター|C13072086300|昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.1}}</ref>
* 第一航空戦隊 司令官:南雲忠一中将
* 第一航空戦隊:[[南雲忠一]]司令長官直率
** 航空母艦:[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]
** 航空母艦:[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]
** 重巡洋艦:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]{{#tag:Ref|最上型重巡洋艦4番艦の熊野は戦時編制において第七戦隊所属だが、本作戦時は故障に悩まされていた<ref name="七戦隊(2)5">[[#第七戦隊記録(2)]] pp.4-5〔 (ハ)作戰指導(一)(中略)本作戰行動中熊野機関故障續出ノ爲爾後ノ作戰任務ヲ考慮シ十八日〇九〇八旗艦ヲ熊野ヨリ鈴谷ニ変更ス/爾後「ガ」島北東海面ヲ機宜行動二十六日南太平洋海戰ニ参加シタル後主隊ト共ニ三十日一四一九「トラツク」ニ帰投ス(詳細第七戰隊戰斗詳報第十三号記載ノ通) 〕</ref>。第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将は<ref>[[#第七戦隊記録(2)]] pp.6-7〔 二.人員ノ現状 〕</ref>、10月18日に旗艦を[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]に変更し、鈴谷は機動部隊前衛、熊野は機動部隊本隊となった<ref name="七戦隊(2)4" />。|group="注"}}
* 第四駆逐隊
* 第四駆逐隊 司令:[[有賀幸作]]大佐
** [[駆逐艦]]:[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]
** [[駆逐艦]]:[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]{{#tag:Ref|野分は補給部隊護衛のため、10月26日の航空戦には参加していない{{Sfn|野分物語|2004|p=23}}。第4駆逐隊の駆逐艦[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]は[[イル川渡河戦#一木支隊のトラック泊地出撃|一木支隊先遣隊輸送]]で損傷し{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=102}}、修理中のため海戦に参加せず。|group="注"}}
* 第一六駆逐隊
* 第十六駆逐隊 司令:[[荘司喜一郎]]大佐
** 駆逐艦:[[初風 (駆逐艦)|初風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[天津風 (駆逐艦)|天津風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[浜風 (駆逐艦)|浜風]]、[[照月 (駆逐艦)|照月]]
** 駆逐艦:[[初風 (駆逐艦)|初風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]{{#tag:Ref|浜風は第17駆逐隊に所属するが、本作戦では第17駆逐隊(谷風、浦風、磯風)が機動部隊前衛、浜風は機動部隊本隊の護衛となった。|group="注"}}
* 第一一戦隊 司令官:[[阿部弘毅|阿部弘毅少将]]
* 第六十一駆逐隊 司令:[[則満宰次]]大佐
** 駆逐艦:[[照月 (駆逐艦)|照月]]{{#tag:Ref|第61駆逐隊には駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]が所属するが、外南洋部隊([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]])に編入されて第四水雷戦隊旗艦となり、10月25日の戦闘で損傷した<ref name="叢書(83)260" />。|group="注"}}
機動部隊前衛(軍隊区分)
* 第十一戦隊 司令官:[[阿部弘毅]]少将<ref name="jirei899a" />
** [[戦艦]]:[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]
** [[戦艦]]:[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]
* 第七戦隊 司令官:[[西村祥治]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085900|昭和17年6月25日(発令6月25日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.24}}</ref>
* 第七戦隊
** 重巡洋艦:[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]{{#tag:Ref|南太平洋海戦当日の鈴谷(艦長[[木村昌福]]大佐)は第七戦隊旗艦であり、機動部隊前衛に所属する<ref name="七戦隊(2)5" />。熊野は機動部隊本隊に所属しており、別行動(既述)<ref name="七戦隊(2)4" />。|group="注"}}
** 重巡洋艦:[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]
* 第八戦隊 司令官:[[原忠一]]少将<ref name="jirei899b" />
* 第八戦隊
** 重巡洋艦:[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]
** 重巡洋艦:[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]
* 第十戦隊 司令官:[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将<!-- 少将昇進辞令<ref name="jirei851">  -->
* 第一〇戦隊
** 軽巡洋艦:長良
** 軽巡洋艦:長良
* 第一〇駆逐隊
* 第駆逐隊 司令:[[阿部俊雄]]大佐
** 駆逐艦:[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]
** 駆逐艦:[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]
* 第七駆逐隊
* 第七駆逐隊 司令:[[北村昌幸]]大佐
** 駆逐艦:[[浦風 (駆逐艦)|浦風]]、[[磯風 (駆逐艦)|磯風]]、[[谷風 (駆逐艦)|谷風]]
** 駆逐艦:[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]


===アメリカ===
==== その他 ====
南東方面部隊(軍隊区分)
*南太平洋部隊司令官 [[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将(<!--司令部・-->ヌーメア)
*第十一航空艦隊(司令長官[[草鹿任一]]中将<!-- 10月1日、[[塚原二四三]]中将から草鹿中将に交代 -->){{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=23-25|ps=海軍部隊の概況}}([[ニューブリテン島]][[ラバウル]])
**基地航空部隊(10月20日ころの作戦可能機数){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=304-305|ps=彼我基地航空戦力の比較}}
***第五空襲部隊 ラバウル(一号零戦32、[[九六式艦上戦闘機|九六艦戦]]3<!-- 出典は96艦爆だが、第五空襲部隊は戦闘機部隊 -->、[[九八式陸上偵察機|九八陸偵]]1)、ショートランド([[九七式飛行艇]]5)
***第六空襲部隊 ラバウル(一式陸攻26)、ブイン(二号零戦19乃至26、九九艦爆10)
***第一空襲部隊 カビエン(一式陸攻10程度)
***R方面航空部隊 ショートランド泊地(水上戦闘機、水上偵察機、合計20機程度){{Sfn|戦史叢書28|1969|pp=127-129|ps=海軍側の部署}}
外南洋部隊(軍隊区分)
*第八艦隊(司令長官[[三川軍一]]中将)
**水上艦艇:重巡[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]{{#tag:Ref|外南洋部隊の主戦力であった第六戦隊は、[[第一次ソロモン海戦]]の帰路で潜水艦により重巡[[加古 (重巡洋艦)|加古]]が沈没{{Sfn|ニミッツ|1962|p=361}}、10月11日-12日の[[サボ島沖海戦]](連合軍呼称:エスペランス岬沖海戦){{Sfn|ニミッツ|1962|p=127|ps=第17図 エスペランス岬沖海戦(1942年10月11~12日)}}で重巡[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]が沈没し旗艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]が大破(第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将戦死){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=282-283|ps=サボ島沖夜戦}}、健在艦は衣笠だけになった。|group="注"}}、駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]]
**増援部隊:第三水雷戦隊、第四水雷戦隊{{#tag:Ref|第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将:軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、第11駆逐隊([[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]])<!-- 吹雪と叢雲はサボ島沖海戦で沈没 -->、第19駆逐隊([[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]<!-- 磯波は前進部隊として飛鷹護衛 -->)。第四水雷戦隊司令官[[高間完]]少将:秋月型駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)、第9駆逐隊(朝雲)<!-- 峯雲は空襲で損傷しトラック泊地で修理中、夏雲はサボ島沖海戦で沈没 -->、第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)、第6駆逐隊(暁、雷)<!-- 第6駆逐隊の響は北東方面で空襲をうけ損傷、修理中。電は前進部隊として飛鷹を護衛 -->。|group="注"}}
**その他:敷設艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]、軽巡[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]](第十八戦隊)<!-- 第十八戦隊には軽巡天龍が所属するが、トラック泊地で修理中。 -->、各根拠地隊
先遣部隊(軍隊区分)
*[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]](司令長官[[小松輝久]]中将){{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=150}}([[チューク諸島|トラック泊地]]、旗艦「[[香取 (練習巡洋艦)|香取]]」)

=== アメリカ ===
*南太平洋部隊司令官 [[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将(ニューカレドニア島[[ヌメア]])


'''第16任務部隊'''
'''第16任務部隊'''
*[[トーマス・C・キンケイド]]少将
*[[トーマス・C・キンケイド]]少将
*空母 [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、航空機90(F4F 36機、SBD 41機、TBF 13機)
*空母 [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、搭載航空機95(F4F36機、SBD44機、TBF15機)<ref name="Cruz">http://www.navweaps.com/index_oob/OOB_WWII_Pacific/OOB_WWII_Santa-Cruz.php</ref>
*但し航空機の収納スペースの関係で稼動は69(F4F 29機、SBD 27機 TBF 13機)
*1942年10月26日の搭載航空機75(F4F31、SBD34機、TBF10機)
*戦艦 [[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]
*戦艦 [[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]
*第4巡洋艦戦
*第4巡洋隊
**重巡洋艦:[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]
**重巡洋艦:[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]
**軽巡洋艦:[[サンフアン_(軽巡洋艦)|サン・ファン]]
**軽巡洋艦:[[サンフアン_(軽巡洋艦)|サン・ファン]]
*第5駆逐戦隊
*第5駆逐戦隊
**駆逐艦:マハン、カッシング、ポーター、スミス、プレストン、モーレー、ショー、カニンガム
**駆逐艦:マハン、カッシング、ポーター、スミス、プレストン、モーレー、ショー、カニンガム


'''第17任務部隊'''
'''第17任務部隊'''
*ジョージ・D・マレ少将
*[[ジョージ・D・マレー]]少将
*空母 [[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、航空機85機 (F4F 38 SBD 31TBF 16機)
*空母 [[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、搭載航空機82機 (F4F37、SBD30、TBF15機)<ref name="Cruz"/>
*稼動は73(F4F 33機、SBD 24機、TBF 16機)
*1942年10月26日の搭載航空84(F4F37機、SBD30機、TBF17機)
*第5巡洋艦戦
*第5巡洋隊
**重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]、[[ペンサコラ (重巡洋艦)|ペンサコラ]]
**重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]、[[ペンサコラ (重巡洋艦)|ペンサコラ]]
**軽巡洋艦:[[サンディエゴ_(軽巡洋艦)|サン・ディエゴ]]、[[ジュノー (CL-52)|ジュノー]]
**軽巡洋艦:[[サンディエゴ_(軽巡洋艦)|サン・ディエゴ]]、[[ジュノー (CL-52)|ジュノー]]
*第2駆逐戦隊
*第2駆逐戦隊
**駆逐艦:モーリス、アンダーソン、ヒューズ、オースチン、ラッセル、バートン
**駆逐艦:モーリス、アンダーソン、ヒューズ、オースチン、ラッセル、バートン


'''第64任務部隊'''
'''第64任務部隊'''
*ウィリス・A・リー少将
*ウィリス・A・リー少将
*戦艦:[[ワシントン (戦艦)|ワシントン]]
*戦艦:[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]
*重巡洋艦:[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]
*重巡洋艦:[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]
*軽巡洋艦:[[ヘレナ (軽巡洋艦)|ヘレナ]]、[[アトランタ (軽巡洋艦)|アトランタ]]
*軽巡洋艦:[[ヘレナ (軽巡洋艦)|ヘレナ]]、[[アトランタ (軽巡洋艦)|アトランタ]]
*駆逐艦6隻
*駆逐艦6隻


'''その他'''
ガダルカナル島
*10月24日時点の連合軍航空兵力{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=304-305|ps=彼我基地航空戦力の比較}}
*ヘンダーソン基地:航空機60機
**ガダルカナル島ヘンダーソン基地:航空機約70機(F4F 26機、SBD 20機、[[P-39 (航空機)|P-39]] 20機、[[P-40 (航空機)|P-40]] 6機、TBF 2機)
**エスピリサント島 大型機83、小型機26
**ニューカレドニア 大型機29、小型機61


== 南太平洋海戦が描かれた作品 ==
==損害==
; 映画
===日本===
*[[日本映画社|日本ニュース]]第177号「決戦〈南太平洋海戦〉」 - アメリカ側が撮影した戦闘中のホーネットのフィルム映像を日本側が入手し6分ほどに編集したもので、1943年10月27日に国民に向け公開された。この映像はNHKの[https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg 戦争証言アーカイブス]内で公開されており、ネット視聴することができる。
*大破:重巡 「筑摩」
*[[連合艦隊司令長官 山本五十六]](監督:[[丸山誠治]]、1968年)
*中破:空母 「翔鶴」、軽空母 「瑞鳳」
*[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]](監督:[[松林宗恵]]、1981年)
*小破:駆逐艦 「秋月」「照月」

*航空機損失:92機
; 書籍(ノンフィクション)
*航空機搭乗員戦死:148名
*[[豊田穣]]『悲劇の提督・南雲忠一中将 波まくらいくたびぞ』[[講談社]]
*艦船乗組員戦死:250-350名<ref>Richard B. frank, Guadalcanal: The Definitive Account of the Landmark Battle, p.400-401.</ref>
*空母艦攻隊 - [[滝沢聖峰]]のコミックス。[[真珠湾攻撃]]とその帰路の [[ウェーク島]]攻略から、南太平洋海戦までを[[九七式艦上攻撃機]]のペア(この機体の場合3座なので、機体前方から操縦員・偵察員兼機長・電信員兼射撃要員の合計3名の事をペアと言う)を中心に描いている。
*日米空母決戦(双葉社スーパームック 超精密3D CGシリーズ 42) - 大戦期に造詣の深い[[栃林秀]]により、当時の機械の動作や戦史に忠実に、全編CGで制作されたドキュメントDVD。書籍に付録する形式で販売されている。27分。


; ボードシミュレーションゲーム
===アメリカ===
*南太平洋海戦([[ツクダホビー]])
*沈没:空母 「ホーネット」、駆逐艦 「ポーター」
*大破:駆逐艦 「スミス」
*中破:空母 「エンタープライズ」
*小破:戦艦 「サウスダコタ」、軽巡 「サン・ファン」
*航空機損失:74機
*航空機搭乗員戦死:39名
*艦船乗組員戦死:254名<ref>The Office of Navy Intelligence, p.67.</ref>


==脚注==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
==南太平洋海戦が描かれた作品==
===映画===
=== 主要参考文献 ===
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
*[[日本映画社|日本ニュース]]第177号「決戦」 - アメリカ側が撮影した戦闘中のホーネットのフィルム映像を日本側が押収し編集したもの。同時上映の[[学徒出陣]]に関する映像とともに、「日本の[[ニュース映画]]史上最高の名作」とも言われている。
**Ref.A06031047900「週報 第317号」(1942年11月4日号)「南太平洋海戦の戦果」
*[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]]
**Ref.A06031084100「写真週報 246号」(1942年11月11日号)「反攻の敵艦隊撃滅」
*[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]
**Ref.A06031084300「写真週報 248号」(1942年11月25日号)「壮絶南太平洋海戦」
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030041700|title=昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=3戦隊日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030044200|title=昭和17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1706第五戦隊日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030051700|title=昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=11戦隊日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030749500|title=昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)|ref=筑摩日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030749600|title=昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)|ref=筑摩日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030048500|title=昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(4)|ref=第八戦隊日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030745600|title=昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)|ref=愛宕詳報(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030744500|title=昭和16年12月1日〜昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(3)|ref=愛宕日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030744600|title=昭和16年12月1日〜昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(4)|ref=愛宕日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030768000|title=昭和17年9月~昭和17年11月 第7戦隊作戦記録綴 其の2(2)|ref=第七戦隊記録(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030768100|title=昭和17年9月~昭和17年11月 第7戦隊作戦記録綴 其の2(3)|ref=第七戦隊記録(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030097600|title=昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1709二水戦日誌(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030097700|title=昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=S1709二水戦日誌(6)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030097800|title=昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1709二水戦日誌(7)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051577300|title=昭和16年12月〜昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(3)|ref=翔鶴飛行調書(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051577900|title=昭和16年12月〜昭和18年4月 瑞鶴飛行機隊戦闘行動調書(4)|ref=瑞鶴飛行調書(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051583500|title=昭和17年6月〜昭和18年1月 隼鷹飛行機隊戦闘行動調査(2)|ref=隼鷹飛行調書(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051580500|title=昭和17年4月〜昭和17年12月 瑞鳳飛行機隊戦闘行動調書(2)|ref=瑞鳳飛行調書(2)}}


=== 参考文献 ===
===書籍(ノンフィクション)===
{{Refbegin}}
*[[空母艦攻隊]] [[滝沢聖峰]]のコミックス [[ウェーク島]]攻略から[[南太平洋海戦]]までを[[九七式艦上攻撃機]]のペアを中心に描いている。
<!-- 著者五十音順 -->
*<!-- イケダ 2002 -->{{Cite book|和書|author=池田清|authorlink=池田清 (政治学者)|coauthors=|date=2002-01|origyear=1986|chapter=|title=重巡摩耶 {{small|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}}
*<!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|date=2011-10|origyear=1999|title={{smaller|波濤の中の青春}} 駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}}}}
*<!-- イワサキ -->{{Cite book|和書|author=岩崎剛二|date=2003-04|origdate=1995-1|chapter=蒼空の飛翔雲 {{small|歴戦の飛行隊長・高橋定少佐の航跡}}|title={{small|海と空の八人の武人の生涯}} 最前線指揮官の太平洋戦争|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2379-7|ref={{SfnRef|八人武人生涯|2003}}}}
*{{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏(著)|coauthors=[[成瀬恭]](発行人)|year=1968|title=[[戦藻録]]|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}}
*{{Cite book |和書 |title=ソロモンの激闘 ガダルカナル島争奪を巡る日米機動部隊総力戦の全貌 |year=2007 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |series=歴史群像太平洋戦史シリーズ59 |chapter=大塚好古「ガダルカナル島争奪を巡る日米空母決戦 |isbn=978-4-05-604823-0 |ref={{SfnRef|大塚|2007}} }}
*{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=1996|title=戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官|publisher=[[潮書房光人社|光人社]] |series=光人社NF文庫|ref=大和 艦長}}
*: [[有賀幸作]](第四駆逐隊司令)から見た南太平洋海戦を描写。
*{{Cite book|和書|author=奥宮正武|authorlink=奥宮正武|date=2001-03|origyear=1992|title=ラバウル海軍航空隊|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901045-6|ref={{SfnRef|ラバウル海軍航空隊|2001}}}}
*{{Cite book|和書|author=桂理平|authorlink=桂理平|year=1999|month=10|title=空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり|publisher=霞出版社|isbn=4-87602-213-5|ref=空母瑞鳳生涯}}
*: 田中一郎(海兵67期、瑞鳳艦攻隊分隊長)の証言収録。田中は瑞鶴艦攻隊の指揮を任され「ホーネット」に水平爆撃を行った。
*{{Cite book|和書|author=金沢秀利|authorlink=金沢秀利|year=2002|title=空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記|publisher=光人社|isbn=4-7698-1055-5|ref=空母雷撃隊}}
*:金沢は元「飛龍」所属で、沈没後「飛鷹」艦攻搭乗員。本海戦では「隼鷹」第二次攻撃隊として出撃した。
*{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|isbn=4-87538-039-9|ref=草鹿回想}}
*<!-- キクムライタル1982 -->{{Cite book|和書|author=菊村到|coauthors=|authorlink=|date=1982-12|title=提督有馬正文 {{small|付・あゝ江田島}}|publisher=光人社|ISBN=4-7698-0192-0|ref={{SfnRef|提督有馬正文|1982}}}}
*<!-- キマタジロウ2013 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎|date=2013-08|chapter=第2節 アメリカ空母「ワスプ」/第9節 アメリカ重巡洋艦「ノーザンプトン」/第14節 アメリカ駆逐艦「メレディス」|title=連合軍艦艇撃沈す {{small|日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡}}|isbn=978-4-7698-2794-8|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|ref={{SfnRef|連合軍艦艇撃沈す|2013}}}}
*<!--ゲンタ1996-12 -->{{Cite book|和書|author=源田實|authorlink=源田実|coauthors=|date=1996-12|origyear=1962|title=海軍航空隊始末記|chapter=南太平洋海戦と頽勢の建直し|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=4-16-731003-1|ref={{SfnRef|海軍航空隊始末記|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author=小板橋孝策|authorlink=小板橋孝策|year=2008|title=「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2560-9|ref=愛宕奮戦記}}
*: 高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。
*{{Cite book|和書|editor=古村啓蔵回想録刊行会|year=1982|month=2|title=海の武将-古村啓蔵回想録|publisher=[[原書房]]|isbn=4-562-01216-1|ref={{SfnRef|海の武将|1982}}}}
*{{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正 |year=1988 |title=太平洋海戦 |volume=2(激闘篇) |publisher=講談社 |isbn=4062037424|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=佐藤和正|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2106-9|ref=佐藤 艦長続編(文庫)}}
**「信頼の絆」〈航空母艦「瑞鶴」艦長・野元為輝少将の証言〉(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦時、瑞鶴艦長)
*<!-- サトウキヨオ -->{{Cite book|和書|author=佐藤清夫|date=2004-01|title=駆逐艦「野分」物語 {{Small|若き航海長の太平洋海戦記}}|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2408-4|ref={{SfnRef|野分物語|2004}}}}
*<!-- サネマツユズル1994 -->{{Cite book|和書|author=実松譲|date=1994-12|title=日本海軍英傑伝 {{small|日本海軍人物太平洋戦争}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2067-4|ref={{SfnRef|日本海軍英傑伝|1994}}}}
**(243-274頁)「指揮官陣頭、信念に殉ず ― 第二十六航空戦隊司令官有馬正文の決意」
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一|date=2014-07|origiyear=2009|chapter=第三章 ― 餓島の死闘|title=落日の日本艦隊 {{small|体験的連合艦隊始末記}}|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2841-9|ref={{SfnRef|落日の日本艦隊|2014}}}}
*<!-- ジョウエイイチロウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|authorlink=城英一郎|editor=野村実|editor-link=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref={{SfnRef|城英一郎日記|1982}}}}
*<!-- ショウグチヤスヒロ2009 -->{{Cite book|和書|author=将口泰浩|date=2012-08|origyear=2009|title=キスカ島奇跡の撤退 {{smaller|木村昌福中将の生涯}}|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4-10-138411-5|ref={{SfnRef|キスカ島奇跡の撤退|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=エドワード・P・スタッフォード|others=井原裕司(訳)|year=2007|title=空母エンタープライズ THE BIG E |volume=上|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-157-8|ref=BIG E上}}
*<!-- タカド1999 -->{{Cite book|和書|author=高戸顕隆|year=1999|title=海軍主計大尉の太平洋戦争 私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2227-8|ref=高戸主計大尉}}
*:高戸は駆逐艦「照月」主計長。南太平洋海戦を「照月」艦橋で体験。
*<!-- トール2016上 -->{{Cite book|和書|author1=イアン・トール(著)|author2=村上和久(訳)|date=2016-03|chapter=第六章 新指揮官ハルゼーの巻き返しが始まった|title=太平洋の試練 {{small|ガダルカナルからサイパン陥落まで}} 〈上〉|series=|volume=|publisher=株式会社文藝春秋|isbn=978-4-16-390423-8|ref={{SfnRef|トール、ガ島からサイパン(上)|2016}} }}
*<!-- トヨダ2004 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|coauthors=|date=2004-11|title=雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫新装版|isbn=978-4-7698-2027-7|ref={{SfnRef|雪風ハ沈マズ|2004}}}}
*{{Cite book |和書 |editor=駆逐艦秋雲会 |year=1986 |title=栄光の駆逐艦 秋雲 |publisher=駆逐艦秋雲会 |chapter=中島斎「南太平洋の激闘」 |ref={{SfnRef|中島|1986}} }}
*{{Cite book|和書|author=中島親孝|authorlink=中島親孝|year=1997|month=10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref=聯合艦隊作戦室}} 中島は第三艦隊通信参謀として「翔鶴」に乗艦していた。
*{{Cite book|和書|author1=チェスター・ニミッツ|authorlink1=チェスター・ニミッツ |author2=E・B・ポッター|others=[[実松譲]]、富永謙吾(共訳)|year=1962|month=12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}}}}
*{{Cite book|和書|author=橋本廣|authorlink=橋本廣|year=2001|title=機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記|publisher=光人社|isbn=4-7698-1028-8|ref=橋本信号員}}
*: 橋本は司令部信号兵。南雲司令部の一員として「翔鶴」艦橋勤務。
*{{Cite book|和書|author=橋本衛|authorlink=橋本衛|year=1984|month=3|title=奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0230-7|ref=奇蹟の海から}}
*: 橋本は「雷」主砲発令所配置。
*{{Cite book|和書|author=原為一|authorlink=原為一|coauthors=|year=2011|month=7|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref={{SfnRef|帝国海軍の最後|2011}}}}
*: 当時駆逐艦「天津風」駆逐艦長として南太平洋海戦に参加。
*{{Cite book|和書|author=原為一ほか|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref=軽巡二十五隻}}
**当時由良の機械分隊長・海軍大尉 上村嵐「乗艦由良わが訣別の絶唱を聞け 敵機の空爆によりガ島輸送に殉じた長良型四番艦の沈没遭難体験記」
*{{Cite book|和書|author=福地周夫|authorlink=福地周夫|year=1962|month=6|title=空母翔鶴海戦記|publisher=出版共同社|isbn=|ref=翔鶴海戦記}}
*{{Cite book|和書|author=福地周夫|year=1982|month=6|title=続・海軍くろしお物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0179-3|ref=続海軍くろしお}}
*{{Cite book|和書|author=福地周夫|year=1985|month=11|title=海軍美談よもやま物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0287-0|ref=海軍美談}}
*{{Cite book|和書|author=福地周夫|year=1992|month=12|origyear=1956|title=温故知新ちょっといい話 海軍くろしお物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0179-3|ref=海軍くろしお(文庫)}}
*{{Cite book|和書|editor=文藝春秋|year=1991|month=12|chapter=|title=完本・太平洋戦争(上)|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-345920-0|ref=完本太平洋戦争上}}
**長井純隆(第三艦隊作戦参謀)『南太平洋海戦の勝利』
*{{Cite book|和書|author=淵田美津雄|authorlink=淵田美津雄|coauthors=[[奥宮正武]]|year=1992|month=12|title=機動部隊|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17269-X|ref=機動部隊(朝日)}}
*{{Cite book|和書|author=淵田美津雄|coauthors=奥宮正武|year=2008|title=機動部隊|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=978-4-05-901222-1|ref=機動部隊(学研M)}}
*<!--ホウエイチョウ12 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 マリアナ沖海戦|volume=第12巻|year=1968|month=2|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書12|1968}}}}
*<!--ボウエイチョウ28 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<2> {{small|ガダルカナル・ブナ作戦}}|volume=第28巻|year=1969|month=07|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書28|1969}}}}
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}}}}
*<!--ホウエイチョウ63 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<5> {{small|昭和十七年十二月まで}}|volume=第63巻|year=1973|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書63|1973}}}}
*<!--ホウエイチョウ77 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> {{small|―昭和18年2月まで―}}|volume=第77巻|year=1974|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}}}}
* {{Cite book|和書|editor=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=南東方面海軍作戦 |volume=2(ガ島撤収まで)|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=戦史叢書83 |ref=叢書83ガ島戦}}
*<!--ホウエイチョウ88 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍戦備<2> {{small|― 開戦以後}}|volume=第88巻|year=1975|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書88|1975}}}}
*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
*{{Cite book |和書 |author=牧島貞一 |year=2001 |title=炎の海 報道カメラマン空母と共に |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2328-2 |ref=harv}}
*:牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、本海戦に参加する。
*{{Cite book|和書|author=松田憲雄|authorlink=松田憲雄|year=1993|month=10|title=忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿|publisher=光人社|isbn=4-7698-0663-9|ref=電信員遺稿}}
*: 松田は九七式艦攻電信員。「赤城」沈没後「翔鶴」配属。翔鶴第一次攻撃隊として本海戦に参加。
*<!--マル1989-4巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|title=写真 日本の軍艦 第4巻 {{Small|空母II}}|publisher=光人社|date=1989-10|isbn=4-7698-0454-7|ref={{SfnRef|写真日本の軍艦(4)空母(II)|1989}}}}
*<!--マル1989-5巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|year=1989|month=11|title=写真 日本の軍艦 {{small|重巡 I}} 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達|volume=第5巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0455-5|ref={{SfnRef|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989}}}}
*{{Cite book|和書|editor=「丸」編集部|editor-link=丸 (雑誌)|coauthors=|year=2010||month=7|title=空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!|publisher=光人社|isbn=|ref=空母機動部隊(2010)}}
**元空母「飛鷹」艦長・海軍少将 別府明朋「空母「飛鷹」ガダルカナル沖の悲運」
**当時第三艦隊参謀・元海軍中佐 中島親孝「南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊」
**当時「瑞鶴」艦長・元海軍少将 野元為輝「武運艦「瑞鶴」南太平洋の凱歌」
*{{Cite book|和書|editor=「丸」編集部|year=2010|month=11|title=重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1485-6|ref=重巡洋艦戦記(2010)}}
**当時「筑摩」艦長・元海軍少将 古村敬三『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』
*{{Cite book|和書|author=イヴァン・ミュージカント|authorlink=イヴァン・ミュージカント|others=[[中村定]](訳)|year=1988|title=戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争|publisher=光人社|isbn=|ref=ワシントン}}
*安永弘『死闘の水偵隊』(朝日ソノラマ 1994)
*: 著者は「妙高」偵察操縦者。本海戦でも索敵任務にあたった。
*安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』(光人社、2002)朝日ソノラマ文庫の改訂版。
*<!-- ヤマモトテイイチロウ1996 -->{{Cite book|和書|author=山本悌一郎|dater=1996-07|chapter=第六章 沈黙の帰還|title=海軍魂 {{small|若き雷撃王村田重治の生涯}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2129-8|ref={{SfnRef|海軍魂|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author=山川新作|authorlink=山川新作|year=1985|title=空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録|publisher=[[今日の話題社]]|isbn=4-87565-118-X|ref=山川艦爆隊}}
*:山川は「隼鷹」九九艦爆操縦者。真珠湾攻撃時「加賀」所属のベテラン。
*{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|year=1985|title=戦艦比叡|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17051-4|ref=吉田比叡}}
*: 吉田は軍令部参謀。本海戦における陸軍と海軍の連携問題について言及。
*{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|chapter=幸運の神 航空母艦「瑞鶴」の強運|title=造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|year=1995|origyear=1989|ISBN=4-7698-2103-4|ref=造艦テクノロジーの戦い}}
*{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|coauthors=|year=2002|title=戦艦比叡 新装文庫版|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2345-2|ref=吉田比叡新装}}
*<!-- レキシグンゾウ1994-11 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1994|month=11|title=ソロモン海戦 {{small|米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第5巻|publisher=学習研究社|isbn=|ref={{SfnRef|ソロモン海戦(歴群05)|1994}} }}
*<!-- レキシグンゾウ1995-01 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1995|month=01|title=死闘ガダルカナル {{small|"連合艦隊最後の勝利" 南太平洋海戦を中心にガ島を巡る争奪の後半戦を分析する}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第6巻|publisher=学習研究社|isbn=|ref={{SfnRef|死闘ガダルカナル(歴群06)|1995}} }}
*{{Cite book |和書 |year=1999 |title=海軍機動部隊全史 |publisher=[[新人物往来社]] |series=別冊歴史読本 戦記シリーズ No.46 |isbn=4-404-02722-2 |ref={{SfnRef|機動部隊全史|1999}} }}
*{{Cite book |last=Brayton |first=Harris |year=2011 |title=Admiral Nimitz: The Commander of the Pacific Ocean Theater |publisher=Palgrave Macmillan Trade |isbn=978-0-23010-765-6 |ref=harv}}
*{{Cite book |last=Frank |first=Richard B. |year=1992 |title=Guadalcanal: The Definitive Account of the Landmark Battle |publisher=Penguin Books |isbn=0140165614 |ref=harv}}
*{{Cite book |last=Hammel |first=Eric M. |year=2004 |title=Carrier Strike: The Battle of the Santa Cruz Islands,october 1942 |publisher=Zenith Press |isbn=0760321280 |ref=harv}}
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==関連項目==
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南太平洋海戦

空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1942年10月26日
場所ソロモン諸島サンタ・クルーズ諸島
結果:日本の戦術的勝利

米軍の稼働空母が一時的に空白

交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
日本 山本五十六
日本 近藤信竹
日本 南雲忠一
日本 角田覚治
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・F・ハルゼー
アメリカ合衆国の旗 トーマス・C・キンケイド
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・D・マレー
アメリカ合衆国の旗 ウィリス・A・リー
戦力
空母4
戦艦4
重巡洋艦8
軽巡洋艦2
駆逐艦22
基地航空隊
空母2
戦艦2
重巡洋艦4
軽巡洋艦5
駆逐艦20
基地航空隊
損害
空母2損傷
重巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
空母1沈没
駆逐艦1沈没
空母1損傷
戦艦1損傷
軽巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
ソロモン諸島の戦い

南太平洋海戦(みなみたいへいようかいせん)は[1]1942年10月26日ソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦のこと[2]アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)[3]。日本軍は空母翔鶴瑞鳳が大破・中破という損害を受けたものの、米空母ホーネットを撃沈、空母エンタープライズを中破という戦果を挙げ、戦術的には日本軍の勝利であった[4]。しかし多数の航空機と搭乗員を失い、また戦闘の主目的であるガダルカナル島飛行場も占領できなかった[5]

概要

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ガダルカナル島における日米の戦いにおいて、最も重要な役割を担った同島ヘンダーソン飛行場基地をめぐって行われた日米主力機動部隊の海戦[6]。1942年(昭和17年)10月下旬、ガダルカナル島の日本陸軍第十七軍が米軍支配下のヘンダーソン飛行場に総攻撃を実施することになり、日本海軍は空母機動部隊を含む多数の水上艦艇を投入して支援にあたることとなった[7]。 これを阻止するためアメリカ軍も空母機動部隊をサンタクルーズ諸島方面に派遣し、10月26日の本海戦に至った[8]。日本海軍はアメリカ機動部隊を撃退して戦術的には勝利を収めたが、日本陸軍のガ島ヘンダーソン飛行場に対する総攻撃は失敗した[9]。戦略的にはアメリカ軍の勝利(飛行場維持成功)に終わった[5]。日本海軍機動部隊の航空隊の消耗も甚大で、その後の日本軍の作戦行動に影響を与える[10]

背景

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1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍主力空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)を撃沈して勝利したアメリカ軍は、2か月後の8月7日ウォッチタワー作戦を発動し[11]アメリカ軍海兵隊ツラギ島フロリダ諸島)とガダルカナル島に上陸する[12]フロリダ諸島の戦い)。ガダルカナル島では、完成したばかりの日本軍飛行場を占領した[13]。この飛行場は、のちにヘンダーソン飛行場と命名された[14]

日本軍は基地航空部隊の第十一航空艦隊[注 1]と、南東方面を担当する第八艦隊[注 2]にアメリカ軍の撃退を命じ、外南洋部隊は第一次ソロモン海戦で勝利を収めた[15]。だが海軍特別陸戦隊の輸送船団はツラギ島に到着できず[注 3]8月18日にガ島に上陸した一木清直陸軍大佐の一木支隊先遣隊イル川渡河戦で壊滅し[17][18]、アメリカ海兵隊の早期撃退企図は頓挫した[19]。この間、アメリカ軍は護衛空母ロングアイランドによりヘンダーソン飛行場へ航空隊を空輸することに成功した[20][21]。これ以降、ヘンダーソン飛行場の航空隊は逐次増強され、ガ島へ向かう日本軍増援部隊は絶えず空襲に晒されるようになった[22](川口支隊第一次輸送失敗など)[23]

8月24日、日本艦隊(第二艦隊司令長官近藤信竹中将が指揮する前進部隊、第三艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する機動部隊)は[24]、アメリカ軍の二つの任務部隊、すなわち空母サラトガを基幹とする第11任務部隊と、空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊と交戦した[25](日本側呼称:第二次ソロモン海戦、連合軍側呼称:東部ソロモン海戦)[26]。 この戦いでアメリカ軍は日本軍の軽空母龍驤を撃沈し、水上機母艦千歳を撃破した[27]。さらに日本軍輸送船団を航空攻撃で阻止し、勝利を収めた[注 4]。日本軍は輸送船団によるガ島増援作戦をあきらめ、駆逐艦など軽快艦艇による鼠輸送を開始した[31]。 その一方、一航戦の空襲で空母エンタープライズが損傷し、真珠湾に回航されて修理をおこなった[32]

8月31日、伊号第二十六潜水艦の攻撃でフランク・J・フレッチャー中将の旗艦サラトガが大破して、長期修理を余儀なくされた[33][34]

9月12日以降、ガダルカナル島に上陸していた川口清健陸軍少将の日本陸軍川口支隊が、ヘンダーソン飛行場に総攻撃を敢行した[35][36]。支援部隊(前進部隊、機動部隊)はトラック泊地を出撃してガ島北方海面を遊弋したが[37]、川口支隊攻撃失敗によりトラック泊地に引き揚げた[38]。日本艦隊阻止のため行動していたアメリカ海軍機動部隊も、9月15日に伊19の奇襲で空母ワスプが沈没した[39][40]。さらにホーネットを護衛していた戦艦ノースカロライナも中破した[41][42]。この時点で、太平洋戦線で作戦行動をとれる正規空母ホーネット[43]、新鋭戦艦はワシントンのみとなった[44]。 アメリカ軍は修理中のエンタープライズとサラトガの復帰を急いだ。このうち、エンタープライズは10月中旬までに対空火砲の強化を含む修理が完了した[45]。エンタープライズと最新鋭戦艦サウスダコタをふくむ第16任務部隊は真珠湾を出撃して南下し、10月24日午後4時頃にエスピリッツサント島から北東約500kmの地点で、ホーネットを基幹とする第17任務部隊英語版に合流した[46]

また、太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ大将は、南西地区の司令官をゴームレー中将からハルゼー中将に交代させた[47][48]。ニミッツ大将は、ゴームレー中将がガダルカナルで苦戦する部隊を率いるにはあまりに狭量で、悲観的過ぎると感じていたのである[49][50]。ハルゼー中将は着任すると直ちに日本艦隊と決戦するための計画の策定を開始した[49]。この海域で作戦をおこなう第61任務部隊英語版の指揮官は、トーマス・C・キンケイド少将であった[51]

日本海軍連合艦隊も、ガ島攻勢に向けて動いていた[52]第十七軍(司令官百武晴吉中将)が10月中旬に予定していたガダルカナル島での総攻撃を支援するため[53]、南東方面ではラバウル所在の第八艦隊司令長官三川軍一中将を指揮官とする外南洋部隊が麾下の駆逐艦や巡洋艦でガ島への鼠輸送を実施し[54]、さらに水上機母艦日進が重機材を輸送していた[55][56]。日進輸送に加えて、高速輸送船団による大量輸送も実施予定であった[57]。 トラック泊地には、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)が指揮する支援部隊(近藤長官を指揮官とする前進部隊〈 第三戦隊:戦艦金剛榛名、第二航空戦隊:空母隼鷹飛鷹 〉および第三艦隊司令長官南雲忠一中将を指揮官とする機動部隊〈 第一航空戦隊〈空母瑞鶴翔鶴瑞鳳〉等)が集結していた[58]。第一航空戦隊と第二航空戦隊にはミッドウェー海戦で乗艦を失ったパイロット達も多数着任しており、士気旺盛だったという[59]

10月7日、ガダルカナル島ではアメリカ軍の反撃により第二師団(師団長丸山政男中将)が後退を余儀なくされ[60]、第十七軍の作戦計画に齟齬が生じた[61][62]。ガ島現地軍を指導していた大本営陸軍部参謀辻政信中佐は[注 5]、ヘンダーソン基地への第十七軍総攻撃が10月25日に遅延すると海軍や大本営に通知した[65][66]。 10月11日午前中、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(支援部隊指揮官)が指揮する前進部隊(近藤長官)と機動部隊(南雲長官)は、それぞれトラック泊地を出撃した[67][68]サボ島沖海戦のあと[69]、10月13日から14日にかけて行われた挺身隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官:戦艦金剛榛名)によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の成功を受けて第十七軍は総攻撃の準備をおこなうが[70][71]、無事だった飛行場から飛来したアメリカ軍攻撃隊により高速輸送船団は空襲で輸送船3隻を喪失[72]、揚陸した物資もすべて焼き払われてしまった[73][74][注 6]。 第三戦隊に続き、10月14日に第八艦隊の重巡2隻(鳥海衣笠)、10月15日に第五戦隊(妙高摩耶)と第二水雷戦隊などが飛行場砲撃をおこなった[77][79]。飛行場を維持するガ島のアメリカ海兵隊も苦しい状況が続いた[80]

総攻撃準備のためガ島ヘンダーソン基地に対する空襲を強化中の10月20日夜、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)の旗艦飛鷹で火災と機関故障が発生し、速力低下により航空戦続行が不可能となる[81]。飛鷹は旗艦任務と搭載機を姉妹艦隼鷹に移し、駆逐艦2隻(磯波)に護衛されてトラック泊地に回航された[82]。日本軍はアメリカ軍と戦う前から空母1隻を事実上失ったことになる[83]。一方で、10月17日のガダルカナル島飛行場攻撃で消耗していた隼鷹の戦力は回復した[注 7]。また飛鷹の零戦16、九九艦爆17がラバウルに移動した[85]。 日米双方の事情により、日本陸軍のガ島総攻撃実施日(Y日)は10月21日から23日[86]、23日から24日へと[87]、たびたび延期された[88][82][89]。連合艦隊は燃料と月齢の関係から10月23日までに総攻撃を開始するよう要望しており、日本陸海軍間に微妙な空気が流れた[90]

同時期、アメリカ軍はガダルカナル島のヘンダーソン基地に航空燃料を補給するため、燃料補給船団(貨物輸送船〈ベラトリクス英語版アルキバ英語版〉、魚雷艇母艦〈ジェームズタウン英語版〉、艦隊曳船〈ヴィレオ英語版〉、駆逐艦〈メレディスニコラス〉)を編成してガ島にむかわせ、第64任務部隊(戦艦ワシントン、軽巡洋艦アトランタ、駆逐艦ウォーク英語版、駆逐艦ベンソン)が間接護衛をおこなった[91]。10月15日、南雲機動部隊は索敵機を発進させ、重巡の水上偵察機が米軍燃料補給船団を発見した[92]。一航戦攻撃隊(零戦8、艦爆21、艦攻9)は船団から分離してガ島へ進撃していたメレディスを撃沈[93](日本側は軽巡洋艦撃沈と誤認)[77]、曳船ヴィレオを損傷させたが、翔鶴艦爆1、瑞鶴艦攻2を失った[94]。10月18日、駆逐艦グウィングレイソン英語版、曳船セミノール英語版が曳船や生存者を発見し、ガ島へ曳航して燃料補給に成功した[95]

10月20日午後7時頃、サンクリストバル島東端の南100浬において伊号第百七十六潜水艦[注 8]は第64任務部隊を発見する[97]。伊176は重巡洋艦チェスターを雷撃して大破させた[81][98]。 これ以降、日本艦隊に敵主力部隊(第64任務部隊)に関する情報はたびたび入ってきたが[98][99]、肝心の敵機動部隊の所在がわからず、東方から奇襲される恐れがでてきた[100]。 10月22日夜、利根型重巡洋筑摩と秋月型駆逐艦照月が牽制部隊となり、日本軍機動部隊から分離して南方200(370km)地点に進出した[101][注 9]。筑摩は偵察機を発進させるが米艦隊を発見できず、アメリカ軍飛行艇の雷撃を回避したあと[102]、南雲部隊(筑摩は前衛、照月は本隊)に合流した[101]。10月23日、連合艦隊は以下の警告を発した[103]

  1. ここの数日来、敵空母の所在不明。敵機動部隊に対し、サンタクルーズ島方面、とくに警戒の要ありと認む。
  2. 24日、X区哨戒機および二式飛行艇はなるべく早く発進し、かつ許す限り長く哨戒のことに取り計らわれたし。

日本軍機動部隊は23日正午に前衛部隊を分離し、陸軍支援の態勢に入った[104]。しかし日本陸軍から総攻撃延期の連絡があり、日本軍機動部隊は北上した[104]。たびかさなる延期に苛立ち、またアメリカ軍哨戒機に発見される事を懸念した南雲機動部隊は、駆逐艦(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)を東方に派遣し、26日まで北方に待機する旨を連合艦隊司令部に報告させた[104]。宇垣纏(連合艦隊参謀長)は第三艦隊の行動を優柔不断・独断的措置と解釈し、前進部隊が孤立する事への懸念も示した[104]。24日午後6時44分、山本五十六連合艦隊長官の下令に従い、日本軍機動部隊は再び南下した[105]。南雲機動部隊の北上と南進の反復行動は草鹿龍之介参謀長の指示によるものだったが、南雲長官は草鹿を呼び出すと今後の作戦方針について検討を行い、連合艦隊の命令に従って南下を決定した[106]

10月23-25日にかけて、日本陸軍はガダルカナル島で総攻撃を行うが、猖獗しょうけつを極めるジャングルでの行軍で将兵は消耗して部隊間の連絡も途切れがちとなり[107]、さらに重装備を持たない戦闘のため苦戦を強いられる[108]。指揮系統も混乱する[109][注 10]。第二師団の総攻撃は、兵力を増強し防御陣地で待ち構えていたアメリカ軍海兵隊(2万3000名)の反撃に遭い失敗に終わった[111][112]。 にもかかわらず10月24日夜には「2100、バンザイ(21時、ガダルカナル飛行場を完全に占領)」「22時50分発信:2100やや前、第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時左翼隊ハ飛行場付近ノ敵ト交戦中」という一報が発信された[113][114]。日本海軍にも情報が伝わり、艦隊は一気に沸き立った[85]。飛行場占領の速報は大本営にも通知された[115]。その後、25日午前2時から午前3時にかけて「〇二一〇飛行場ハ未タ占領シアラス」「師団ハ未タ飛行場ヲ占領シアラス 両翼隊共飛行場付近ニ於テ激戦中」との情報が飛び込んだ[113]。日本艦隊では、飛行場占領が誤報とわかり落胆している[116]宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」からも、日本陸軍の度重なる総攻撃予定変更に対する当惑と苛立ちがうかがえる[117]。(詳しくはガダルカナル島の戦いを参照)

外南洋部隊(第八艦隊)は[118]、日本陸軍のガ島総攻撃に呼応して支援攻撃を行うことになっていた[119][120]。外南洋部隊麾下の第6駆逐隊司令山田勇助大佐が指揮する駆逐艦3隻(白露)と、第四水雷戦隊(司令官高間完少将)は、24日深夜から25日朝にかけてガダルカナル島泊地に突入する[121]

当時、掃海駆逐艦ゼイン英語版 (USS Zane, DMS-14) がルンガ泊地で荷役作業中であったが、3隻の日本駆逐艦の出現により逃亡を図る。日本側3隻はシーラーク水道英語版を突っ切ってゼインまで5カイリに接近したところで砲撃を開始し、ゼインに命中弾1発を与えるが主任務であるアメリカ軍陣地砲撃との兼ね合いからそれ以上の追撃はできなかった[122]

再度ルンガ泊地に向かうと、今度はアメリカ海兵隊向けの軍需品をガダルカナル島に陸揚げ中の艦隊曳船セミノール英語版 (Seminole, AT-65) と沿岸哨戒艇YP-284を発見した。セミノールとYP-284は接近してきたのが日本駆逐艦だと知ると陸揚げ作業を打ち切り、直ちに逃亡を開始した。間髪入れず砲撃を開始し、YP-284を砲撃で炎上させて撃沈したのに続きセミノールも砲撃により撃沈した[123]。突撃隊は小型輸送船1隻・仮装巡洋艦1隻の撃沈を記録した[121]。 続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが、海兵隊陣地の5インチ海岸砲からの反撃により暁の三番砲塔の薬室に1発が命中して一時火災が発生、4名の戦死者を出す被害を受けた[121]。雷も緊急発進したF4Fワイルドキャット戦闘機の機銃掃射で損傷、銃撃で数名が死傷する被害を受けた[121][124]

突撃隊は無事にルンガ泊地から脱出したが、続いてガ島に突入しようとした高間完第四水雷戦隊司令官指揮下の6隻(秋月〈四水戦旗艦〉、由良、村雨五月雨夕立春雨)はヘンダーソン飛行場から飛来したアメリカ軍SBDドーントレス急降下爆撃機とF4Fワイルドキャット戦闘機の波状攻撃を受け、軽巡由良が沈没している[125][注 11]。四水戦旗艦秋月も中破し、高間少将は村雨に移乗した[126]。これらの状況をうけて第八艦隊司令長官は外南洋部隊各隊にショートランドへの帰投を命じた[126]

ガ島でこのような戦闘が繰り広げられる中、第61任務部隊ことエンタープライズを基幹とするキンケイド提督の第16任務部隊と[127]、ホーネットを基幹とするマレー提督の第17任務部隊、戦艦ワシントンを基幹とするリー提督の第64任務部隊は、日本軍の攻撃と艦隊を邀撃するため[128]、ガダルカナル島北東海面[51]すなわちサンタ・クルーズ諸島北方を索敵して日本艦隊を邀撃するよう命じられた[46]

戦闘経過

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北方より進出する日本艦隊と南方より進出するアメリカ艦隊が会戦した

日本海軍の海戦参加部隊において、支援部隊指揮官(近藤長官、旗艦「愛宕」)が、前進部隊(第二艦隊)と機動部隊(第三艦隊、旗艦「翔鶴」)を指揮する[129]。支援部隊指揮官は前進部隊指揮官を兼ねる[129]

第三艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する機動部隊本隊(第一航空戦隊〈空母翔鶴瑞鶴瑞鳳〉、重巡〈熊野〉[130]、駆逐艦〈嵐、舞風、雪風、時津風、天津風、初風、浜風、照月〉)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦〈比叡霧島〉、重巡〈利根、筑摩、鈴谷〉、軽巡〈長良〉、駆逐艦〈谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲〉)、本隊の後方に補給部隊(駆逐艦〈野分〉[131]、油槽船6隻)、機動部隊より西方に第二艦隊司令長官近藤信竹中将が指揮する前進部隊(重巡〈愛宕、高雄、妙高、摩耶〉、戦艦〈金剛、榛名〉、第二水雷戦隊、第二航空戦隊〈隼鷹〉)という4つの集団にわかれて行動していた[129]

機動部隊前衛部隊は空母へ向かう敵機の攻撃を吸収するために、機動部隊前方に横一列に並んだ。

両軍の索敵

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10月25日、日本軍は数日前から見失っていたアメリカ軍機動部隊を求め索敵を活発に行ったが[132]、アメリカ軍機動部隊の発見には至らなかった[133]。対するアメリカ軍は、哨戒中のPBYカタリナ飛行艇25日午前中に日本軍機動部隊を発見した[134]。同25日正午すぎには、水上機母艦カーティスの水上偵察機が日本空母2隻を発見した[134]。 南雲中将は日本陸軍総攻撃成功(ヘンダーソン飛行場占領)の報告を受けて南下していたが、誤報と判明してから機動部隊本隊のみ北上、機動部隊前衛はそのまま南下をつづけていた[135]。アメリカ軍哨戒機の出現により、南雲中将は前衛にも反転北上を命じた[4]。前衛はB-17 6機の攻撃を受けたが被害を受けなかった[135]

一方、第61任務部隊のキンケイド少将は、指揮下のエンタープライズから索敵を兼ねてF4Fワイルドキャット戦闘機16機、SBDドーントレス急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機7機からなる攻撃隊を発進させた[136]。その後の報告で日本軍機動部隊が北に反転したことが判明したが、キンケイド少将は無線封止を維持するため攻撃隊に日本軍位置情報を転送しなかった。アメリカ軍攻撃隊は反転した日本軍機動部隊を捕捉出来ず、燃料切れや着艦時の事故でF4F1機、SBD4機、TBF3機の計8機(『THE BIG E』では7機)を失った[136]。また朝の着艦事故でF4F4機が失われており、エンタープライズの航空隊は決戦を前に航空機12機を失うという大きな痛手を受けている[137]

午前9時、山本五十六連合艦隊長官は前進部隊(第二艦隊、第二航空戦隊)の航空兵力で、ガダルカナル島の敵軍陣地・アメリカ艦隊の攻撃を命じた[138][139]。これを受けて空母隼鷹から発進した零戦12機、九九艦爆12機(攻撃隊指揮官志賀淑雄大尉)はガ島ヘンダーソン飛行場を爆撃し、石油タンクの炎上を確認した[140][138]。二航戦の空襲と並行して、基地航空部隊も飛行場爆撃と上空制圧をおこなった[141]。 午前10時、前衛部隊索敵機が「米軍戦艦2-3、防空巡洋艦4、巡洋艦1、駆逐艦12、ツラギより方位160度、170マイル」を報じた[142]。支援部隊指揮官(近藤長官)は南雲機動部隊に「成シ得レバ攻撃セヨ」と命じたが、機動部隊は「本日攻撃ノ見込ナシ」と返電した[143]。 19時18分、連合艦隊電令作第354号は『陸軍は今夜19時、ガ島突入の予定にして、26日、敵艦隊はガ島南東海面に出現の算大なり。連合艦隊は26日敵艦隊を捕捉撃滅せんとす』と伝える[144]。この電令の中で山本長官は日本軍基地航空隊も米艦隊を攻撃するよう求めているが[145]、実際の海戦は機動部隊と機動部隊の正面衝突となり、基地航空隊は全く関与しなかった[146]第四艦隊麾下の第四空襲部隊も飛行艇や陸攻で26日以降の偵察を実施したが、連合軍を発見しなかった[147]。 この時、アメリカ軍はハワイのラジオ放送を通じて「近くソロモン方面で大海空戦が行われる。米国民に良きプレゼントを送る」というプロパガンダを行っていたとされる[148]。夜間、前衛の磯風は飛行艇から雷撃されるが[149]、命中しなかった[144]

海戦当時の日本艦隊の配置は、機動部隊本隊(南雲長官)と前衛(阿部中将)の距離が50 - 60浬、第二航空戦隊ふくむ前進部隊(近藤長官)は機動部隊の西方100~120浬を行動していた[143]10月26日南雲忠一中将の機動部隊本隊は午前0時30-50分にアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇から爆撃を受け、瑞鶴の至近距離に爆弾が落下した[150][151]。各艦を攻撃したB-17はエスピリトゥサント島から、カタリナ飛行艇はヌデニ島などから飛来しており、爆撃・雷撃を実施するとともに日本艦隊の位置を通報している[134]。カタリナ飛行艇が発した情報は、エスピリトゥサント島基地航空隊を経由して2時間後の26日0312にアメリカ軍機動部隊へ届けられたという[150]ニューカレドニア島ヌーメアの司令部から指揮をとるハルゼー提督は「攻撃せよ、反覆攻撃せよ」の命令を発した[51]

これに対し、米艦隊の奇襲を受ける可能性があると判断した南雲機動部隊は、ガダルカナル島北東460km地点で反転北上する[152]。そして黎明(日出03時45分)から艦上攻撃機13機による二段索敵を開始した[153]。レーダーがないと夜間は索敵できないため、夜明け前と夜明けの直前といったように時間差をあけて同一の方面へ偵察機を派遣し、先発の機が索敵できなかった海域を後発の機が索敵、夜明けと同時または夜明けから短時間で捜索を完了させるという方法である。日本軍前進部隊(第二艦隊)からも、重巡洋艦や軽巡から零式水上偵察機九四式水上偵察機が発進し、索敵にあたった[154]。一方のアメリカ軍も、エンタープライズからドーントレス16機が発進し、2機ずつのペアになって索敵に向かった[155]

両軍の攻撃隊発進

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10月26日の日の出は、日本時間午前3時45分である[156]。天候は晴れ、風速は北西10ノット以下、海面は穏やかで、たびたびスコールがあった[157]。午前4時50分、日本軍翔鶴四番索敵機はアメリカ軍機動部隊を発見し「敵空母サラトガ型1、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦16、針路北西」(南雲機動部隊から125度210浬)を報告した[158][153]。瑞鶴索敵機も敵艦隊を発見していたが、同機の報告は母艦に届かなったという[153]。日本軍はアメリカ軍機動部隊戦力を空母3隻と判断した[159]

午前5時30分頃、翔鶴飛行隊長村田重治少佐が指揮する第一次攻撃隊が発進する[160][161]。内訳は旗艦翔鶴から24機(村田機を含む九七式艦上攻撃機20機、零式艦上戦闘機4機)が発進[162]瑞鶴から瑞鶴飛行隊長高橋定大尉が率いる29機(九九式艦上爆撃機21機[163]零式艦上戦闘機8機)[164]瑞鳳から(零戦9機)[165]、三艦合計62機(零戦21、艦爆21、艦攻20)が発進した[166]。また触接のため瑞鶴と瑞鳳から艦攻各1機が発進した[166]

続いて第2次攻撃隊として各艦合計44機(九七艦攻16機、九九艦爆19機、零戦9機)が発進準備を行う[167][168]。だが、翔鶴のレーダーがアメリカ軍機の機影をとらえたため第二次攻撃隊全機が揃うまで発進を調整せず[169]、まず翔鶴から(関衛少佐・翔鶴飛行隊長:艦爆19、新郷少佐・翔鶴飛行隊長:零戦5)が発進し[170]、30分遅れた午前6時45分、瑞鶴から(今宿大尉・瑞鶴飛行隊長:艦攻16、零戦4)が発進した[171]。他に触接のため艦攻2機(翔鶴1、瑞鶴1)が発進した[168]。母艦上空直掩に零戦を配備したため、南雲部隊は攻撃隊に十分な数の護衛機をつけられなかった[172]

またアメリカ軍機動部隊発見の報告は日本軍前進部隊(第二艦隊)麾下の空母隼鷹(二航戦)にも伝えられ、前進部隊はガダルカナル島攻撃を中止した[173][174]。アメリカ軍機動部隊の攻撃に向け、航空隊の発進準備がはじまった[175]。前進部隊指揮官の近藤信竹中将は第二航空戦隊を南雲機動部隊の指揮下に預けると[176]自身はアメリカ軍方向に南下し、同時に機動部隊前衛(第十一戦隊:戦艦比叡霧島等)を指揮下に入れ夜戦を挑む考えを各部隊に通達した[177]

ほぼ同時刻、アメリカ軍も日本艦隊を発見した。エンタープライズはSBD 16機を偵察に投入しており、SBD 2機のペアは第61任務部隊の北東方面を捜索した[178]。ウェルチ大尉機とマクグロウ中尉機は[179]、「フロート1つ」の日本軍水上偵察機とすれ違い、20分後に金剛型戦艦を発見した[155]。キンケイド提督は「戦艦2隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦7隻、南緯8度10分、東経163度55分、針路北、速度20ノット」という報告を受け取る[180]。まもなく、第10偵察隊隊長J・R・"バッキー"・リー少佐と僚機から「空母2隻、護衛艦、南緯7度5分、東経163度38分」(距離320km)の連絡が入った[179]。リー機とジョンソン中尉機は襲ってきた零戦3機を返り討ちにしたと主張し、2機とも生還した[181]。日本軍機動部隊の位置をつかんだキンケイド少将は、指揮下の第16任務部隊と第17任務部隊に対し、直ちに攻撃隊発進を命令する。空母ホーネットから第1次攻撃隊29機(F4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス15機、TBFアベンジャー6機)、空母エンタープライズから第2次攻撃隊19機(F4F 8機、SBD 3機、TBF 8機)[182]、さらに「ホーネット」から第3次攻撃隊25機(F4F 7機、SBD 9機、TBF 9機)、合計73機が推定距離200浬の日本艦隊にむけて発進した[183]

南雲機動部隊から空母翔鶴の第二次攻撃隊の発艦準備が終了しかけたとき、瑞鶴より「発艦作業30分遅れる」と報告が来た[168]。さらに、索敵中のアメリカ軍SBDドーントレス2機(バーニー・ストロング大尉機、チャールズ・アーヴィン少尉機)が彼らに全く気付いていない空母瑞鳳に奇襲をかける[184]。上空警戒中の零戦9機もSBD 2機を阻止できなかった[185]。SBD 2機が投下した爆弾は瑞鳳の飛行甲板後部を直撃した[161]。ストロング機とアーヴィン機は日本軍の対空砲火と零戦の迎撃をふりきり、逆に計2機の零戦の撃墜を主張して生還している[186]。日本軍にとって幸運なことに被弾箇所が最後部であったこと、被害艦が第二次攻撃隊を艦内に抱えていた瑞鶴でなかったため、誘爆によるミッドウェー海戦の悪夢再現は避けられた[187]。しかし飛行甲板の破孔により、瑞鳳は発着艦不能となった[188]。瑞鳳は駆逐艦2隻(舞風、初風)に護衛され戦線を離脱する[189][189]。このため南雲長官は瑞鶴隊を置いて、翔鶴隊を発進させた(第二次攻撃隊戦力は上記参照)[168]。攻撃隊が発進すると翔鶴では被弾に備えて可燃物を全て捨てたが、この時、演芸会用の女着物とかつらが投げ込まれるのが目撃された[190]

日本軍機動部隊の第一次攻撃隊は、進撃途中に日本艦隊を目指すアメリカ軍のホーネット隊とすれ違った[161]。お互いに相手を視認しながら、両軍とも素知らぬふりをしてやり過ごそうとする[191]。次にエンタープライズ隊とすれ違って間もなく、日本軍攻撃隊最後尾に位置していた瑞鳳零戦隊9機(指揮官/日高盛康大尉)が反転し、エンタープライズ隊19機(艦戦8、艦爆3、艦攻8)を追撃した[192]。エンタープライズ攻撃隊は零戦の奇襲で損害を受けた[157]。F4F 3機が撃墜され、1機は被弾し機銃と無線を破壊されて母艦エンタープライズへの帰投を余儀なくされた[193]。また雷撃隊も指揮官機を含む2機を撃墜され、1機が不時着し、別の1機が被弾により攻撃を諦め母艦へ帰還した[194]。エンタープライズ隊はF4F 4機、SBD 3機、TBF 4機となったが、進撃を続けた[195]。一方瑞鳳隊(零戦9)は空戦により零戦2機が撃墜されて残存7機となった上、母艦の方角がわからなくなってしまう[196]。第一小隊2機(日高大尉)、第2小隊(内海秀一中尉)2機、第3小隊(河原政秋飛曹長)3機の各小隊ごとに分散して帰投するも[197]、内海小隊2機が帰途行方不明、誘導機も帰投しなかった[198]。瑞鳳零戦隊9機は4機喪失(2機撃墜、2機行方不明)1機大破という損害を出した[166]

米空母被弾

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空襲下にある空母 エンタープライズ。
左舷に爆弾が命中したエンタープライズ。

6時55分、日本軍第1次攻撃隊は第17任務部隊(空母ホーネット、重巡2、防空巡2、駆逐艦6、直衛戦闘機38)を発見、ホーネットに攻撃を集中した[166]。エンタープライズ隊はスコールの下にあって、攻撃を受けなかった[199]。まず瑞鶴艦爆隊第二中隊が攻撃し、1発目の爆弾は至近弾となり、2発目は飛行甲板中央部に命中[200]。さらにこの後爆弾2発が命中した[200]。続いて第一中隊と第三中隊が攻撃、爆弾は命中しなかったが被弾した佐藤兵曹長機がホーネットの煙突前部に突入し火災を生じさせた[200][注 12]。その後、翔鶴の艦攻隊が攻撃を実施し、ホーネットの右舷の前部機械室と対空砲弾庫付近に魚雷が命中した[200]。被雷による浸水でホーネットは全動力を失い停止した[200]。 また付近にいた護衛艦艇も攻撃を受け、雷撃機1機は重巡ペンサコラを攻撃したが魚雷は外れた。被弾した雷撃機はペンサコラに突入を試みたものの、艦首外側数メートルの海中に墜落した。また駆逐艦アンダーソンは雷撃機から機銃掃射を受けたものの目立った被害はなかった。

日本軍攻撃隊は7時20分には引き上げ、海上ではホーネットが激しく炎上していた。同艦は電気系統の全滅により消火ポンプが使用不能であったため消火器やバケツリレーによる消火作業が行われ、さらに駆逐艦モリス英語版ラッセル英語版、マスティンによる消火作業の支援により8時ごろまでにはほぼ消火に成功した[202]。重巡洋艦ノーザンプトンが依然航行不能であったホーネットの曳航を開始したが、曳航索が切れ作業はやり直しとなった[203]。日本軍第一次攻撃隊はホーネットに重大な損傷を与えたものの、大損害を受けた。零戦5、艦爆17、艦攻16(翔鶴〈零戦2、艦攻16〉、瑞鶴〈零戦3、艦爆17〉)を喪失[162][166]。戦死者には攻撃隊指揮官村田重治少佐も含まれる[204]。瑞鶴飛行隊長高橋定大尉の艦爆と僚機は被弾損傷と燃料切れで墜落し、高橋大尉はタンカー玄洋丸に救助された[205]。また不時着により艦攻6機、艦爆5機、零戦2機が失われた[166]。これは後述の翔鶴と瑞鳳の被弾損傷により収容可能艦が瑞鶴のみとなり、燃料切れで不時着した機が多数あった為である[166][注 13]。また生還しつつも誘導の失敗により帰投できなかった機が2機あったという[166]

日本側第2次攻撃隊は、8時15分に健在の第16任務部隊(空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタほか)と、炎上漂流中のホーネットを発見する[168]。先に到着した翔鶴艦爆隊は無傷のエンタープライズに攻撃を集中し、直撃弾を与えた[注 14]。 また翔鶴艦爆隊が到着する直前の8時1分、不時着したエンタープライズの雷撃機の救助に向かった駆逐艦ポーターに雷撃機から誤って発射された魚雷が命中した[注 15]。ポーターは航行不能になり僚艦の砲撃により処分された。8時35分、遅れて発進した瑞鶴雷撃隊はエンタープライズに魚雷を発射したが命中しなかった[210][注 16]。被弾した艦攻1機は駆逐艦スミス英語版に体当たりした[211]。艦攻が搭載していた魚雷が爆発し、砲塔付近にあった弾薬が誘爆して大火災が発生した[211]。しかし艦長の判断で付近を航行中の戦艦サウスダコタに接近し、サウスダコタの艦尾波でスミスは奇跡的に消火に成功した[212]。日本軍第2次攻撃隊はエンタープライズ等に損害を与えたものの、未帰還(艦攻9機、艦爆10機、零戦1機)、不時着(艦攻1機、艦爆2機、零戦1機)、合計24機(零戦2、艦爆12、艦攻10)を喪失した[213]。サウスダコタは対空砲火で日本軍機26機撃墜を報じた[168]

翔鶴の被弾と日本軍の追撃

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全速で回避する筑摩。
戦艦サウスダコタに雷撃する97艦攻

日本軍南雲機動部隊では、午前6時40分に翔鶴レーダーが135度距離145kmに敵機群を発見した[213]。午前7時18分にSBDドーントレス爆撃機15機を確認する[214]。直衛の零戦は15機(翔鶴10、瑞鶴5)だったという[183]。 まず重巡洋艦熊野が攻撃されたが、命中弾はなかった[214]。ホーネット第1次攻撃隊は午前7時27分(日本時間10時50分)、日本機動部隊を発見する[215]。直後に零戦9機からなる日本軍直掩隊が現れF4F 2機が撃墜された。急降下爆撃隊15機は戦闘機の掩護なく進撃を続けたが、更に零戦隊に襲われた。SBD 2機が撃墜され、2機が被弾により母艦に帰投した[183]。残る11機は南雲機動部隊の旗艦翔鶴を攻撃し、飛行甲板後部に450キロ爆弾4発命中という戦果を挙げた[216]。この攻撃で翔鶴では高角砲弾が誘爆するも、ミッドウェー海戦の時とは異なり航空機用燃料・弾薬誘爆を避けられたため、沈没には至らなかった[217][218]。受信可能だが送信不可能になった翔鶴は消火作業を行いつつ北上し(8時20分以降、駆逐艦嵐が通信代行)、瑞鳳と護衛駆逐艦と共に戦場から避退した[219]。南雲長官は航空戦の指揮を第二航空戦隊司令官(隼鷹)に委ね、瑞鶴を指揮するよう命じた[220]。機動部隊司令部が駆逐艦に移乗したのは、損傷艦がアメリカ軍機の攻撃圏外に出た夕刻のことだった[221][222]

エンタープライズ隊およびホーネット攻撃隊の一部(第一次攻撃隊のTBF 6機、第二次攻撃隊のF4F 7機、SBD 9機、TBF 9機)[223]は日本空母を発見できず、南雲機動部隊前衛部隊を攻撃した[224]。特にエンタープライズ隊は瑞鳳零戦隊と空中戦をおこなったため燃料が不足しており[193]、さらに高度を失っていたので、目の前の機動部隊前衛を攻撃するしかなかった[215]。雷撃機は鈴谷と磯風を狙い[225]、鈴谷(第七戦隊司令官西村祥治少将、鈴谷艦長木村昌福大佐)は複数の魚雷を回避した[226]。また利根も魚雷を回避した[224]。 また3機のドーントレスは金剛型戦艦を攻撃し、二番砲塔と右舷中央に命中させたと主張する[227]。実際に彼らが攻撃し大破させたのは、戦艦ではなく利根型重巡洋艦筑摩だった[224]。前衛艦隊の先頭にいた筑摩は午前7時から8時にかけての空襲で複数の爆弾が命中、多数の乗組員が死傷し、艦長の古村啓蔵大佐は負傷した[228]。午前9時19分、最大発揮速力23ノットとなった筑摩は[224]、駆逐艦2隻(谷風、浦風)に護衛されて退避した[229]

日本軍前進部隊(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)に属していた角田覚治少将麾下の第二航空戦隊(空母隼鷹)は、まず午前7時に隼鷹第1次攻撃隊29機(指揮官志賀淑雄大尉:艦爆17機、零戦12機)を発進させた[230][174]。午前8時40分ごろ米軍機動部隊を発見[231]。つづいて近藤長官の命令により午前8時18分をもって機動部隊指揮官(南雲忠一中将)の指揮下に入り[213]、3隻(隼鷹、黒潮、早潮)は機動部隊本隊と合流すべく行動を開始(前進部隊との分離は9時30分)[232]。続いて南雲部隊旗艦翔鶴の被弾と通信能力喪失により航空戦の指揮をまかされ[233]、瑞鶴を指揮下に入れた[220][189]

二航戦第一次攻撃隊は、午前9時20分以降、第16任務部隊に対する攻撃を開始した[234]。雲高3500メートル雲底500メートルと視界が悪く、攻撃は分散され、また爆撃精度も悪化した[235]。空母を狙おうとして果たせず、仕方なく護衛の戦艦や巡洋艦を爆撃した機もある[236]。攻撃隊はエンタープライズに至近弾1発を与え、右舷中央部の船体を60センチ陥没させ、若干の浸水が始まった[237]。戦艦サウスダコタには4発の爆弾が投下され、1発が第一砲塔に命中する[238]。艦長が軽傷を負い、付近の銃座に損害を与えたが、決定的打撃とはならなかった[239]。にもかかわらず、動揺した士官が操舵系を無断で第2戦闘指揮所に切り換えたため数分間操艦不能となり、結果サウスダコタは空母エンタープライズに突進した[239]。この時はエンタープライズが4万トンの巨艦を回避し、大惨事をまぬかれた[240]。また軽巡サン・ファンには6発の爆弾が投下され、内1発が艦尾に命中したが、船体を貫通して海中で爆発した[240]。サン・ファンは一時的に操舵不能となった[240]。隼鷹第1次攻撃隊は攻撃終了後、集合点に集まったところを先回りしたアメリカ軍戦闘機に襲われ、艦爆9機が一挙に撃墜されたという[241]。二航戦第一次攻撃隊は艦爆11(自爆9、不時着2)を喪失し、零戦4機が瑞鶴に着艦した[174]

アメリカ軍の撤退

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駆逐艦に乗員を退艦させるホーネット。

日本軍機動部隊の三次にわたる攻撃により、ホーネットは戦闘力を喪失、エンタープライズも中破した[242]。エンタープライズは自身の所属機にくわえてホーネットの艦上機を収容しており、この時点で95機を積載していた[243]。損傷しているエンタープライズは、空爆に対して極めて脆弱になっていた[243]。第61任務部隊の状況に対し、日本軍には無傷の空母が残っており、キンケイド少将は撤退を決めた[243]。キンケイド提督は、第17任務部隊のマレー少将にホーネットの曳航作業継続を命じると、第16任務部隊は南東へ退避をはじめた[207]。ノーザンプトンはより太い曳航索を用いてホーネットの曳航を再開した[244]

一方日本軍は航空機に多大な損害を受けていたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始した。第一次攻撃隊発進後の空母隼鷹はただちに第二次攻撃隊発進準備につとめたが、戦艦榛名より『敵大型陸上機十数機発見』の報告があり、攻撃隊発進を中止して上空警戒機(零戦4、艦攻5空中退避)を発進させる[232]。だが味方機と判明し、ふたたび第二次攻撃隊発進準備に努めた。午前11時13分、隼鷹から第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が発進した[234]。零戦のうち2機は瑞鶴所属機(白根大尉)、1機は瑞鳳所属機だった[245]。この時の隼鷹には白根大尉の零戦だけではなく、被弾した他艦所属機(翔鶴艦攻1、瑞鶴零戦3、瑞鶴艦爆5、瑞鳳零戦1)も収容している[232][246]

続いて11時15分に瑞鶴から残存機すべての零戦5、艦爆2機、艦攻6機(爆弾装備)からなる第3次攻撃隊(指揮官田中一郎瑞鶴分隊長)が発進、他に触接の艦攻1機が同行した[247][248]。艦攻6機のうち5機は瑞鳳の所属機だった[249]。彼らは索敵から帰還後被弾した瑞鳳に降りられず、瑞鶴に着艦していたのである[250]。また翔鶴所属の零戦2、艦爆1も参加している[251]

隼鷹第2次攻撃隊は13時13分に戦場に到達し硝煙で視界がぼやける中[252]、速力3-4ノット程度でホーネットを曳航中のノーザンプトンを襲った[242]。ノーザンプトンは曳航索を切って魚雷をすべて回避したが、ホーネットには魚雷1本が命中、傾斜が14度に増大する[232]。また電気系統の復旧も不可能となった[253]。そのためメーソン(ホーネット)艦長は総員退艦準備を発令した[253]。隼鷹第2次攻撃隊は敵空母に魚雷3本以上命中、重巡洋艦に魚雷命中を報告し、零戦2機が行方不明・3機が不時着、艦攻2機が撃墜という損害を出し、零戦3機は「瑞鶴」に、艦攻5機は「隼鷹」に帰投した[232]。1機の艦攻は魚雷を発射できず、隼鷹着艦寸前に魚雷を棄てている[254]

数十分後、瑞鶴第3次攻撃隊がホーネットを爆撃した[248]。まず艦爆2機による爆撃で1発が至近弾となり、それにより傾斜が20度となった[253]。ここに至って艦長は退艦命令を出した[253]。次いで艦攻隊が高度2000m(規定では3000m)から800キロ爆弾による水平爆撃を行う[255]。1発が飛行甲板後端に命中[248]。他の5発は至近距離に落下し、衝撃波によりホーネットに大きな損害を与えた。この時、鈴谷索敵機や利根索敵機が、ホーネットがまだ沈没していないことを報告した[256]。瑞鶴第3次攻撃隊は艦爆1機が隼鷹に不時着した他、全機無事に瑞鶴へ帰投した[248]

13時35分[234]、隼鷹からこの日最後となる艦爆4機、零戦6機からなる隼鷹第3次攻撃隊が発進していた[257][258]。攻撃前、奥宮航空参謀が加藤舜孝中尉(隼鷹艦爆隊先任将校)[注 17]に出撃を命じると、加藤中尉は「またいくんですか」と仰天して立ち上がったという[259]。15時10分、隼鷹第3次攻撃隊は漂流中のホーネットを発見、20分ほどエンタープライズを捜索したが発見できず、ホーネットを目標として爆撃を開始した[260]。爆弾1発が命中[258]。ホーネットは炎上しつつ右舷に傾斜した。隼鷹第3次攻撃隊は爆弾4発命中を記録し、全機が帰還している[258]。隼鷹は第三次攻撃隊を収容したのち、一旦北上して破損機の修理を実施[189]。23時頃、空母瑞鶴と合同した[189]。翌日使用可能兵力は、隼鷹隊(零戦11、艦爆8、艦攻5)、瑞鶴隊(零戦33、艦爆10、艦攻19)であったという[189]

支援部隊指揮官(近藤信竹中将、旗艦「愛宕」)が指揮する前進部隊は、アメリカ軍機動部隊に水上戦闘を挑むため追撃戦に移った[219]。機動部隊前衛も近藤長官の指揮下に入ったが動きが鈍く、旗艦「愛宕」からの再三による進撃命令を受けてようやく東進を開始、前進部隊と協同行動をとることになった[261]

一方のアメリカ軍はホーネットから総員を退艦させると、駆逐艦マスティン英語版アンダーソン英語版にホーネットの自沈処分を命令した[262]。2隻は少なくとも魚雷16本を発射し、9本は起爆した[262]。だがホーネットは沈まず、魚雷を使い果たした両艦は12.7cm砲弾300発を撃ち込んだが、ホーネットなおも浮いていた[261]。2隻は日本軍索敵機(長良機)に発見されたため、急いで現場海域から離脱した[261][263]。日本軍前進部隊は、長良機・五十鈴機・摩耶機などに誘導されながら接近した[261]。日が暮れようとする海原を前進した日本海軍前進部隊は、彼方から遠雷のような砲声を聞いた[264]。これは、先にマスティンとアンダーソンがホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた[264]

18時30分頃、近藤長官は第二水雷戦隊や各艦(妙高、高雄、巻波、陽炎)に米駆逐艦2隻や残存部隊の追跡を命じたが[265][266]、全速で逃走する駆逐艦の捕捉は難しく、各隊は追跡を諦めてホーネットの傍に戻った[261][267]

連合艦隊司令部はドーリットル空襲で日本に衝撃を与えたホーネットを捕獲しようと試み、「事情許さば、拿捕曳航されたし」と前進部隊に迫った[268]。だがホーネットは火災と浸水でひどく損傷しており、曳航は不可能だった[269]。「鉄の船があんなによく燃えるものか」という愛宕乗組員の感想が残っている[267]。 秋雲は12.7センチ砲24発をホーネットに撃ち込んだが微動だにせず、爆雷での処分も検討されたが、爆雷の射程が短く断念された[270]。結局、魚雷で処分することとなり、秋雲と巻雲からそれぞれ2本ずつ発射され、3本が命中した[271]。ホーネットは秋雲と巻雲が見守る中、10月27日午前1時35分、サンタクルーズ諸島沖に沈んでいった[272]。日本軍は救助したアメリカ軍兵士の尋問結果から、アメリカ軍の戦力や沈んだ空母がホーネットであることを知った[273][274]

結果

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空母翔鶴にはレーダー(21号電探)が装備されていたため、日本側はミッドウェー海戦に比べると効果的な防空を行うことができた。また機動部隊の前方に囮として前衛部隊(戦艦〈比叡、霧島〉、重巡洋艦〈鈴谷、利根、筑摩〉、第十戦隊の軽巡洋艦と駆逐艦)を横に並べたため、筑摩の大破と引き換えに後方の空母への被弾を抑えることができた。10月30日、支援部隊(前進部隊、機動部隊)はトラック泊地に帰投した[275]。ただし空母4隻(飛鷹、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)それぞれ損傷の修理と航空隊の補充のため随時内地へ回航されることになり、太平洋で作戦行動可能な日本軍の空母は隼鷹1隻となった[276][注 18][注 19]

この海戦でアメリカ軍は空母ホーネットを失い、エンタープライズも中破したため、太平洋における稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた[280][281]。しかし搭乗員の損害は少なく、ヘンダーソン飛行場基地も健在だった[282]。アメリカ軍はニューカレドニアのヌーメアでエンタープライズの応急修理を実施した[283]。同艦は修理をおこないながら第三次ソロモン海戦に参戦し、ガダルカナル島南方に進出して日本軍の艦艇に脅威を与え続けた[284][285]。1943年からは修理を終えた空母サラトガに加え[283]、イギリス海軍から空母ヴィクトリアスを借りて間を埋めた。日本側は本海戦によりアメリカ機動部隊を一時的に行動不能としたが局地的勝利にとどまり[286]、ガダルカナル島奪回という戦略目標を達成できなかった[287]

連合艦隊は昭和天皇から勅語を賜った[288]。天皇は侍従武官城英一郎大佐に「敵空母を大いに撃破したから本土空襲(ドーリットル空襲)の可能性はなくなったのではないか」と下問し、武官は「(連合軍には)特設航空母艦が20数隻あるので楽観できない」と上聞している[289]

日本側はこの海戦において勝利を収めたが、宇垣連合艦隊参謀長が翔鶴艦長や瑞鳳艦長に「敵ばかりやっつけて味方が何の損害のないと云う事はあり得ない」と諌めた通り、大きな損害を出した[290][291]。特に艦爆隊や艦攻隊の損害が大きく、翔鶴飛行隊長村田重治少佐[292](戦死後大佐)[293]をはじめとする真珠湾攻撃以来のベテラン搭乗員を多数失い[294]、爾後の作戦に影響を与えた[269](下記損害参照)。特に急降下爆撃機の損害が大きく、戦訓から母艦搭載機定数は艦爆の数を減らしている[295]。また投弾後の艦上爆撃機が敵戦闘機に襲われた時の空戦能力の低さ、九九式艦上爆撃機の旧式化など複数の要素が絡み、零式艦上戦闘機戦闘爆撃機として運用する爆戦の構想がうまれた[296]。1943年(昭和18年)中盤より第二航空戦隊で爆装零戦の訓練がはじまった[297]。1944年(昭和19年)2月1日に小型空母3隻(瑞鳳、千歳千代田)で第三航空戦隊が新編されると[298]、三航戦の第六五三海軍航空隊の主力は爆装零戦となった[297][299]

本海戦の損害を補うべく、日本海軍は教育部隊の教官を前線に出したり、飛行学生を卒業したばかりの士官を母艦に配属するなど、必死で穴埋めをする[300]。奥宮参謀は、新任搭乗員が本海戦前母艦航空隊の技量になる時期を1943年6月以降と推測したが[301]、その再建した航空兵力はい号作戦ろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)、ギルバート諸島沖航空戦ギルバート・マーシャル諸島の戦いトラック島空襲マリアナ・パラオ諸島の戦いといった航空戦における大敗北で完全に消耗してしまい、終戦までその損害を補うことが出来なかった。

また本海戦の目的の一つとも言うべき日本陸軍部隊の支援についても結果的には失敗[302]、連合軍はヘンダーソン基地を堅持した[282]山本五十六連合艦隊長官は「海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし」と陸軍に連絡したが、陸軍は予備兵力なしとして断ったという[303]。日本海軍では下士官兵はおろか将校までが陸軍を批判していたのが目撃されている[304][303]

日本側の連合艦隊戦闘速報第一号は「「ソロモン」海域ニ作戦中ノ聯合艦隊ハ二十六日早暁「サンタクルーズ」北方海面ニ於テ空母四隻、戦艦四隻其他巡洋艦、駆逐艦ヲ合セ 計二十余隻ヨリナル敵艦隊ヲ捕捉シ 二十時迄ニ其全空母ヲ撃滅、敵ヲ潰乱ニ陥シイレ目下夜戦部隊ノ全力ヲ以テ残敵ヲ追撃中ナリ」というものだった[1]。 その後も「米空母3、戦艦サウスダコタ、巡洋艦3隻(内1隻戦艦なるやもしれず)、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦3隻大破、駆逐艦3隻大破または中破、航空機50以上撃墜」と報じた[305][306]。10月27日午後8時30分、大本営海軍部は「米空母3-4隻、戦艦1隻撃沈。大破戦艦1隻、巡洋艦1隻、艦種不明1隻。中破戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻。敵機200機以上を喪失せしむ。わが方の損害は空母2隻、巡洋艦1隻小破せるも、戦闘航海に支障なし。未帰還機40機、本海戦を南太平洋海戦と呼称す」と大勝利を宣伝した[307][308][注 20]

また愛宕(第二艦隊旗艦)が傍受した日本語のハワイ放送(日本向け宣伝放送)によれば「日本軍空母7隻、大巡5隻、駆逐艦数隻撃沈、米軍損害は駆逐艦1隻沈没」だったという[310]。しかし、これはあくまで敵国に対するプロパガンダであり、アメリカ海軍の公式発表では戦果を「日本軍空母2隻損傷、巡洋艦1隻大破」とほぼ正確に伝えており、損失を「空母1隻沈没、駆逐艦『ポーター』沈没」と、撃沈された艦も隠さず発表している[311]。特に、空母が撃沈されたことはルーズベルト大統領が自分で発表したもので、敵に情報を与えないことを重要視していたニミッツはこれに激怒、後日のレンネル島沖海戦で重巡洋艦シカゴが撃沈された時は[312]、副官のドレークに「(ホーネットの時のように)シカゴが沈んだことをもらす者は撃ち殺してやる」と言っていた[313]

日本軍大勝利の報道に対し、奥宮参謀は「空母1隻撃沈程度と推定しつつも、搭乗員の申告を黙認せざるを得なかった」と述べている[280]。村田少佐をはじめ、熟練搭乗員や攻撃隊主要幹部が戦死したことも戦果確認を困難とした一因だった[314]。また搭乗員の中には米空母6隻存在を主張する者もあり、また第二航空戦隊の強い主張で空母3隻撃沈という判定になったという[284]。これは双方の機動部隊が広範囲に展開するため敵軍の全貌をつかみにくいという問題も絡んでおり[315]、第十一戦隊は二式艦上偵察機のような高速偵察機の本格的な投入と、常に敵艦隊と接触し続けることの重要性を報告している[315]。二式艦上偵察機は機体の強度不足を補強する前の彗星艦上爆撃機の試作機の改造機で、その高速度からミッドウェー海戦でも試作機の十三試艦上爆撃機が空母蒼龍で使用されたが無線機故障で索敵の役を果たせず、さらに母艦の喪失で失われて「彗星」開発計画に多大な遅延が生じた。本海戦では空母翔鶴から偵察機として2機が発進した[153]。アメリカ軍機動部隊と違う方向を偵察してしまい、索敵に失敗したという[316]。「翔鶴飛行機隊戦闘行動調書」には記録が残っていない[153]。この二式艦偵は陸上基地を経由して母艦に帰投した[94]

日本軍は軍令部や大本営を含めて本海戦で大勝利を収めたと信じ[272][317]、「今一押し」でガダルカナル島の戦いに勝利するのも目前だと考えた[318]。日本陸軍総攻撃の失敗は衝撃的だったが、本海戦の勝利により、大本営陸海軍部は従来どおりガダルカナル島奪回の方針を維持した[319]。またアメリカ海軍機動部隊を撃破したので、日本側の作戦にとって相当有利と認識した[320]。 そこで陸軍第三十八師団を輸送船11隻に分乗させ、ガダルカナル島へ強行輸送する作戦を立案する[5]。この時、戦艦2隻(比叡、霧島)でヘンダーソン飛行場砲撃を実施することになった[321]。 日本軍の作戦を察知したアメリカ軍は、空母エンタープライズに応急修理を施して戦線に復帰させ、さらに大和型戦艦と同世代の新型戦艦2隻(サウスダコタワシントン)をガダルカナル島周辺海域に投入した[322]。こうしてガダルカナル島へ向かう日本軍艦隊との間に第三次ソロモン海戦が発生し、鉄底海峡(アイアンボトム・サウンド)に多数の両軍艦艇が沈むことになった[323]

損害

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日本

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  • 大破:空母 翔鶴、重巡 筑摩[188]
  • 中破:空母 瑞鳳[188]
  • 小破:駆逐艦 照月[188](26日夜、大型機の爆撃による)
  • 航空機損失:92機
  • 航空機搭乗員戦死:148名[324]
  • 艦船乗組員戦死:250-350名[325]

アメリカ

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  • 沈没:空母 ホーネット、駆逐艦 ポーター
  • 大破:駆逐艦 スミス
  • 中破:空母 エンタープライズ
  • 小破:戦艦 サウスダコタ、軽巡 サン・ファン
  • 航空機損失:81機
  • 航空機搭乗員戦死:26名(捕虜となった4名含む)
  • 艦船乗組員戦死:240名
  • 戦死者合計266名[326]

日本海軍艦載機群

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この戦いで、日本海軍の艦載機部隊は艦爆・艦攻隊を中心に大きな被害を出した[327]

  • 出撃機数
    • 翔鶴
    第一次攻撃隊 零戦4、艦攻20(総指揮官:翔鶴飛行隊長村田重治少佐)
    第二次攻撃隊 零戦5、艦爆19(指揮官:翔鶴飛行隊長関衛少佐)
    直掩機 零戦10
    触接機 艦攻1
    偵察隊 艦攻 数機(早朝出撃)
    全機母艦に収容不能(翔鶴被弾に因る。一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
    • 瑞鳳機
    偵察隊 艦攻 数機
    第一次攻撃隊 零戦9
    全機母艦に収容不能(瑞鳳被弾に因る、一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
    • 瑞鶴
    第一次攻撃隊 零戦8 艦爆21
    第二次攻撃隊 零戦4 艦攻16(帰還・再出撃機含)
    第三次攻撃隊 零戦5、艦爆2、艦攻6(帰還・再出撃機含)
    • 隼鷹
    第一次攻撃隊 零戦12、艦爆17
    第二次攻撃隊 零戦8、艦攻7(帰還・再出撃機含)
    第三次攻撃隊 零戦6、艦爆4(帰還・再出撃機含)
  • 帰還機数
    • 一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)
    第一次攻撃隊 20(このうち約半数が修理不能として海中投棄。3艦で62機出撃して瑞鶴、隼鷹に着艦できたもの)
    第二次攻撃隊 20(これも半数以上が修理不能のため海中投棄。翔鶴、瑞鶴合わせて44機出撃)
    第三次攻撃隊 13(未帰還機無)
    • 二航戦(隼鷹)
    第一次攻撃隊 18
    第二次攻撃隊 8
    第三次攻撃隊 10(未帰還機無)
  • 総計
未帰還機数 零戦17、艦爆31、艦攻21、計69。
不時着 零戦7、艦爆9、艦攻7、計23。(海中投棄機数を除く)
喪失機数計 零戦24(39.3%) 艦爆40(63.4%) 艦攻28(58.3%)
※カッコ内の割合は延べ全出撃数(偵察・直掩機は除く)に対する喪失機数割合
戦死搭乗員 零戦17、艦爆62、艦攻66、計145名[328]


ミッドウェー海戦と、ガダルカナル島を巡る一連の海戦(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦)で、ハワイ奇襲以来の日本海軍空母航空部隊は完全に消耗した[329]。再建を目指した航空部隊はい号作戦ろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)、トラック島空襲マリアナ沖海戦台湾沖航空戦等ですり潰され、この後終戦まで二度と同規模・同水準の部隊となることはなかった。

人物像

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第二航空戦隊司令官角田覚治少将は、勇猛果敢な指揮により日本軍の勝利に貢献した[330]。空母同士の交戦がはじまると、角田は旗艦隼鷹をためらわずに敵機動部隊の方向に進出させた[331]。攻撃を命じる際、角田少将の意を受けて空母隼鷹の崎長飛行長が発した「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という命令は[332]、彼の猛将ぶりを示すものとして伝説になっている。更に、炎上中の空母ホーネットに向かった攻撃隊を、無傷のエンタープライズが発見されるや即座に攻撃目標の変更を命じるなど、柔軟にして即断即決の指揮は、高く評価されている。奥宮正武第二航空戦隊参謀は、日本軍水上艦艇(近藤中将)の追撃は及び腰で「水上部隊にも角田がいれば」と述べている[333]

角田の他にも、有馬正文大佐(当時、翔鶴艦長)の果敢な姿勢が目立った[334]。SBDの爆撃で翔鶴が被弾炎上すると、有馬はおとりとしてアメリカ軍機動部隊に突入することを主張したが[335]、草鹿参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と諌められた[336]。 翔鶴と瑞鳳がトラック泊地に帰投した際、有馬艦長と瑞鳳艦長の大林末雄大佐は戦艦大和の連合艦隊司令部をたずねた[337]山本五十六長官は有馬を呼び止め「もう少し追撃はできなかったのか」と問いかけ、有馬は南雲中将と草鹿少将の判断を庇うつもりで「あれが精一杯のところでした。あれ以上の追撃は無理だったでしょう」と返すと、2人のやりとりを耳にしていた黒島亀人先任参謀は「そうでしょうなぁ。あんたのところ(機動部隊)は北にばかり走りたがっていたから、追撃の考えは出なかったんでしょうね」と揶揄した[337]。その後、翌年の1943年(昭和18年)4月18日に山本五十六長官が戦死(海軍甲事件)した後日、有馬は海兵同期の高木惣吉に「山本長官は間もなく戦死された。それなら、あの時に本音を言っておけば」と語ったという[338]。 このように連合艦隊司令部は、南雲機動部隊の作戦に不満を抱いていた。本海戦時、宇垣纏連合艦隊参謀長は翔鶴の損傷と第一航空戦隊の後退を知り、撤退の禁止と米艦隊攻撃続行を命じた[339]。するとある参謀が「敵と距離をとることは、むしろ敵をアウトレンジするのに有利」と進言し、その消極的な姿勢で宇垣参謀長を激怒させている[340]

一方で南雲忠一中将は、ミッドウェー海戦以降、数少なくなった空母を危険にさらすことを恐れ、敵の索敵機に発見されては避退の為に反転を繰り返すといった慎重な行動がみられる[341]。瑞鳳と翔鶴の損傷後は、残る瑞鶴の指揮を角田少将に委ねて戦場を後にした。この後にエンタープライズを撃破し、先の攻撃で炎上していたホーネットに隼鷹攻撃隊を送り込んで止めを刺したのは、指揮権を移譲された角田少将の指揮によるものである。南雲は戦場を離れると17時30分に第四駆逐隊(有賀幸作司令)旗艦に移乗し、近藤艦隊を追いかけている[342]。翔鶴に乗艦していた中島親孝第三艦隊通信参謀によれば、翔鶴はアンテナの損傷により送信不可能となったため南雲司令部は秋月型駆逐艦照月経由で瑞鶴に移乗しようとしたところ照月が見当たらず、仕方なく駆逐艦嵐(第四駆逐隊司令艦)経由で命令を発していたという[343]。海戦終了後、第三艦隊の参謀達が大勝利を喜ぶ中で、南雲はひとり物思いに沈んでいる様子だったという[344]。本海戦のあと第三艦隊司令長官を小沢治三郎中将に譲った南雲中将は、11月11日付で佐世保鎮守府司令長官に任命される[344]。翌年3月には村田重治大佐の生家を弔問している[345]

奥宮とは対照的に、草鹿龍之介(当時機動部隊参謀長)と吉田俊雄(当時海軍少佐、軍令部参謀)は、角田よりも近藤信竹中将(当時第二艦隊司令長官)を高く評価している[346]。たとえば近藤と南雲の2人は同じ階級の中将だが、軍令承行令上、先任である近藤が南雲の指揮をとることになっていた[347]。しかし近藤は第二次ソロモン海戦に続き、本海戦でも南雲機動部隊の行動に従い、機動部隊の行動に制約をあたえなかった[347]。また近藤は指揮下の第二航空戦隊(空母隼鷹)を第三艦隊に預けると、自身は前進部隊を率いてアメリカ軍機動部隊を追撃した[348]。吉田は「武人らしい気魂を感じさせるのは、近藤の采配が最も圧巻である」と述べている[349]。草鹿参謀長は「近藤の宏大な度量、人格は私の大きな力になった」と回想している[350]。なお草鹿は海戦後の研究会で「機動部隊指揮官が所在部隊(第二艦隊、第三艦隊)を統一指揮する必要がある。第二艦隊司令長官が(機動部隊を)指揮するのは作戦上具合が悪い」と意見している[351]

参加艦艇

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日本

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連合艦隊司令長官 :山本五十六大将 参謀長:宇垣纏少将(トラック島[注 21]

支援部隊(軍隊区分):指揮官 第二艦隊司令長官近藤信竹中将、旗艦「愛宕

第二艦隊

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前進部隊(軍隊区分)[352] 第二艦隊司令長官:近藤信竹中将 参謀長:白石萬隆少将

第三艦隊

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機動部隊本隊(軍隊区分) 第三艦隊司令長官:南雲忠一中将[357] 参謀長:草鹿龍之介少将[367]

機動部隊前衛(軍隊区分)

その他

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南東方面部隊(軍隊区分)

  • 第十一航空艦隊(司令長官草鹿任一中将)[372]ニューブリテン島ラバウル
    • 基地航空部隊(10月20日ころの作戦可能機数)[373]
      • 第五空襲部隊 ラバウル(一号零戦32、九六艦戦3、九八陸偵1)、ショートランド(九七式飛行艇5)
      • 第六空襲部隊 ラバウル(一式陸攻26)、ブイン(二号零戦19乃至26、九九艦爆10)
      • 第一空襲部隊 カビエン(一式陸攻10程度)
      • R方面航空部隊 ショートランド泊地(水上戦闘機、水上偵察機、合計20機程度)[118]

外南洋部隊(軍隊区分)

先遣部隊(軍隊区分)

アメリカ

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第16任務部隊

第17任務部隊

第64任務部隊

その他

  • 10月24日時点の連合軍航空兵力[373]
    • ガダルカナル島ヘンダーソン基地:航空機約70機(F4F 26機、SBD 20機、P-39 20機、P-40 6機、TBF 2機)
    • エスピリサント島 大型機83、小型機26
    • ニューカレドニア 大型機29、小型機61

南太平洋海戦が描かれた作品

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映画
書籍(ノンフィクション)
  • 豊田穣『悲劇の提督・南雲忠一中将 波まくらいくたびぞ』講談社
  • 空母艦攻隊 - 滝沢聖峰のコミックス。真珠湾攻撃とその帰路の ウェーク島攻略から、南太平洋海戦までを九七式艦上攻撃機のペア(この機体の場合3座なので、機体前方から操縦員・偵察員兼機長・電信員兼射撃要員の合計3名の事をペアと言う)を中心に描いている。
  • 日米空母決戦(双葉社スーパームック 超精密3D CGシリーズ 42) - 大戦期に造詣の深い栃林秀により、当時の機械の動作や戦史に忠実に、全編CGで制作されたドキュメントDVD。書籍に付録する形式で販売されている。27分。
ボードシミュレーションゲーム

脚注

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注釈

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  1. ^ 十一航艦司令長官は塚原二四三中将で、軍隊区分においては南東方面部隊指揮官となり、外南洋部隊を指揮する。
  2. ^ 第八艦隊司令長官は三川軍一中将で、軍隊区分においては外南洋部隊指揮官となる。
  3. ^ 敷設艦津軽、運送艦運宗谷、輸送船明陽丸のうち、明陽丸は潜水艦により撃沈された[16]
  4. ^ ガ島から発進したSBD ドーントレスと、エスピリトゥサント島から発進したB-17型重爆[28]、一木支隊第二梯団と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊を乗せた輸送船3隻と護衛部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)を襲った[29]。空襲で軽巡神通(二水戦旗艦)中破、駆逐艦睦月と輸送船金龍丸が沈没、輸送船や護衛艦はニューブリテン島ラバウルブーゲンビル島南東端のショートランド泊地に避退した[30]
  5. ^ 第十七軍司令官百武中将や辻参謀は、駆逐艦五月雨親潮を乗り継いでラバウルからガダルカナル島へ進出、10月9日夜にガ島タサファロング岬に上陸した[63]。連絡と中継のため、第十七軍参謀長宮崎周一少将はラバウルに残った[64]
  6. ^ 高速輸送船団は優秀輸送船6隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸、南海丸、佐渡丸、崎戸丸)から成り[75]、第四水雷戦隊(司令官高間完少将)が指揮する駆逐艦8隻(秋月〈四水戦旗艦〉、村雨五月雨夕立春雨時雨白露有明)が護衛していた[76]。優秀船3隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸)を喪失した[77][78]
  7. ^ 17日の飛行場攻撃では、零戦18と艦攻18が出撃し、艦攻8を失った[84]
  8. ^ 伊176潜水艦長田辺弥八少佐は、ミッドウェー作戦時の伊号第百六十八潜水艦の艦長である。この海戦で伊168は空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンを撃沈した[96]
  9. ^ 利根型重巡洋艦は水上偵察機5-6機を搭載する偵察能力に優れた艦種、秋月型駆逐艦10cm連装高角砲を装備した防空駆逐艦である。
  10. ^ 第二師団司令部と辻政信参謀の協議により、右翼隊長の川口清健少将が突然罷免され、東海林俊成大佐が右翼隊長に任命された[110]
  11. ^ 乗組員を各艦に収容したあと、由良は夕立と春雨により自沈処理された[126]
  12. ^ 一部の二次資料では、瑞鶴艦爆隊長の坂本明大尉機と記述する[201]
  13. ^ 原為一(当時、天津風艦長)によれば、同艦は搭乗員15名(うち2名戦死)を収容した[206]
  14. ^ 翔鶴隊は空母1隻を爆撃して6発命中、この空母を瑞鶴隊雷撃と協同で撃沈、駆逐艦1隻大破炎上、撃墜1を報告した[168]
  15. ^ アメリカ側の資料で、南太平洋海戦の対空戦闘中に日本軍の潜水艦[207]伊号第二十一潜水艦)が第16任務部隊を襲撃して重巡ポートランドや駆逐艦ポーターを雷撃、ポーターを撃沈したとの資料があるが[42]、日本側記録では該当艦がない[208]。確認できる攻撃は、10月27日午前3時38分の伊21から戦艦ワシントンに対するもの[209]。魚雷が早爆してワシントンに被害はなかった[209]
  16. ^ 瑞鶴隊はエンタープライズ型空母1撃沈、サウスダコタ型戦艦1轟沈、艦型不詳巡洋艦1撃沈、駆逐艦1大破、撃墜8を報告した[168]
  17. ^ 隼鷹艦爆隊隊長の山口正夫大尉や分隊長の三浦尚彦大尉は隼鷹第1次攻撃で戦死し、中尉の彼が最先任となっていた。
  18. ^ トラック残留(主隊〈大和、陸奥、第7駆逐隊〉、前進部隊〈金剛、榛名、愛宕、高雄、隼鷹、飛鷹〉、機動部隊〈比叡、霧島、利根、雪風、天津風、照月、浜風〉)、内地回航(空母〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、重巡〈妙高、熊野、筑摩〉、駆逐艦〈嵐、舞風、谷風、浦風、磯風、秋雲、時津風、初風〉)[277]
  19. ^ 南太平洋海戦時点で日本軍が保有していた軽空母3隻(大鷹雲鷹鳳翔)は、機動部隊として使用できなかった[278]。空母飛鷹は、第三次ソロモン海戦のあと12月5日にトラック泊地を出発、内地に帰投した[279]
  20. ^ 大本營発表 二十七日午後八時三十分/一 帝国艦隊は十月二十六日黎明より夜間に亙りサンタクルーズ諸島北方洋上において敵有力艦隊と交戦、敵航空母艦四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻を撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を中破し、敵機二百機以上を撃墜その他により喪失せしめたり。我方の損害、航空母艦二隻、巡洋艦一隻小破せるも、何れも戦闘航海に支障なし。未帰還機四十數機。(註)本海戦を南太平洋海戦と呼称す(第二次ソロモン海戦以後の戦果喪失略)[309]
  21. ^ 連合艦隊旗艦主隊(大和陸奥)ほか。
  22. ^ 摩耶は戦時編制において第四戦隊所属だが、臨時に第五戦隊司令官の指揮下で行動していた[355]。第五戦隊所属の重巡羽黒は整備艦船に区分されており[352]、内地の佐世保海軍工廠で修理中だった[356]
  23. ^ 二航戦には空母飛鷹が所属するが、10月20日に機関故障を起こし作戦行動不能となる[358]。飛鷹は航空隊を隼鷹に補充し、駆逐艦磯波(第19駆逐隊)と(第6駆逐隊)に護衛されトラック泊地に後退した[82]
  24. ^ 最上型重巡洋艦4番艦の熊野は戦時編制において第七戦隊所属だが、本作戦時は故障に悩まされていた[368]。第七戦隊司令官西村祥治少将は[369]、10月18日に旗艦を鈴谷に変更し、鈴谷は機動部隊前衛、熊野は機動部隊本隊となった[130]
  25. ^ 野分は補給部隊護衛のため、10月26日の航空戦には参加していない[131]。第4駆逐隊の駆逐艦萩風一木支隊先遣隊輸送で損傷し[370]、修理中のため海戦に参加せず。
  26. ^ 浜風は第17駆逐隊に所属するが、本作戦では第17駆逐隊(谷風、浦風、磯風)が機動部隊前衛、浜風は機動部隊本隊の護衛となった。
  27. ^ 第61駆逐隊には駆逐艦秋月が所属するが、外南洋部隊(第八艦隊)に編入されて第四水雷戦隊旗艦となり、10月25日の戦闘で損傷した[126]
  28. ^ 南太平洋海戦当日の鈴谷(艦長木村昌福大佐)は第七戦隊旗艦であり、機動部隊前衛に所属する[368]。熊野は機動部隊本隊に所属しており、別行動(既述)[130]
  29. ^ 外南洋部隊の主戦力であった第六戦隊は、第一次ソロモン海戦の帰路で潜水艦により重巡加古が沈没[374]、10月11日-12日のサボ島沖海戦(連合軍呼称:エスペランス岬沖海戦)[375]で重巡古鷹が沈没し旗艦青葉が大破(第六戦隊司令官五藤存知少将戦死)[376]、健在艦は衣笠だけになった。
  30. ^ 第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将:軽巡川内、第11駆逐隊(白雪初雪)、第19駆逐隊(敷波浦波綾波)。第四水雷戦隊司令官高間完少将:秋月型駆逐艦秋月、軽巡由良、第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)、第9駆逐隊(朝雲)、第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)、第6駆逐隊(暁、雷)。

出典

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  376. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 282–283サボ島沖夜戦
  377. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 150.
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参考文献

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主要参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031047900「週報 第317号」(1942年11月4日号)「南太平洋海戦の戦果」
    • Ref.A06031084100「写真週報 246号」(1942年11月11日号)「反攻の敵艦隊撃滅」
    • Ref.A06031084300「写真週報 248号」(1942年11月25日号)「壮絶南太平洋海戦」
    • Ref.C08030041700『昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030044200『昭和17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030051700『昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030749500『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030749600『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030048500『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(4)』。 
    • Ref.C08030745600『昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030744500『昭和16年12月1日〜昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030744600『昭和16年12月1日〜昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030768000『昭和17年9月~昭和17年11月 第7戦隊作戦記録綴 其の2(2)』。 
    • Ref.C08030768100『昭和17年9月~昭和17年11月 第7戦隊作戦記録綴 其の2(3)』。 
    • Ref.C08030097600『昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030097700『昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。 
    • Ref.C08030097800『昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。 
    • Ref.C08051577300『昭和16年12月〜昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(3)』。 
    • Ref.C08051577900『昭和16年12月〜昭和18年4月 瑞鶴飛行機隊戦闘行動調書(4)』。 
    • Ref.C08051583500『昭和17年6月〜昭和18年1月 隼鷹飛行機隊戦闘行動調査(2)』。 
    • Ref.C08051580500『昭和17年4月〜昭和17年12月 瑞鳳飛行機隊戦闘行動調書(2)』。 

参考文献

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  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年。 
    有賀幸作(第四駆逐隊司令)から見た南太平洋海戦を描写。
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 桂理平『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5 
    田中一郎(海兵67期、瑞鳳艦攻隊分隊長)の証言収録。田中は瑞鶴艦攻隊の指揮を任され「ホーネット」に水平爆撃を行った。
  • 金沢秀利『空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-1055-5 
    金沢は元「飛龍」所属で、沈没後「飛鷹」艦攻搭乗員。本海戦では「隼鷹」第二次攻撃隊として出撃した。
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。ISBN 4-87538-039-9 
  • 菊村到『提督有馬正文 付・あゝ江田島』光人社、1982年12月。ISBN 4-7698-0192-0 
  • 木俣滋郎「第2節 アメリカ空母「ワスプ」/第9節 アメリカ重巡洋艦「ノーザンプトン」/第14節 アメリカ駆逐艦「メレディス」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • 源田實「南太平洋海戦と頽勢の建直し」『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年12月(原著1962年)。ISBN 4-16-731003-1 
  • 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年。ISBN 978-4-7698-2560-9 
    高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。
  • 古村啓蔵回想録刊行会 編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1 
  • 佐藤和正『太平洋海戦』 2(激闘篇)、講談社、1988年。ISBN 4062037424 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 「信頼の絆」〈航空母艦「瑞鶴」艦長・野元為輝少将の証言〉(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦時、瑞鶴艦長)
  • 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4 
  • 実松譲『日本海軍英傑伝 日本海軍人物太平洋戦争』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年12月。ISBN 4-7698-2067-4 
    • (243-274頁)「指揮官陣頭、信念に殉ず ― 第二十六航空戦隊司令官有馬正文の決意」
  • 重本俊一「第三章 ― 餓島の死闘」『落日の日本艦隊 体験的連合艦隊始末記』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年7月。ISBN 978-4-7698-2841-9 
  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • 将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮社〈新潮文庫〉、2012年8月(原著2009年)。ISBN 978-4-10-138411-5 
  • エドワード・P・スタッフォード『空母エンタープライズ THE BIG E』 上、井原裕司(訳)、元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8 
  • 高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争 私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部』光人社〈光人社NF文庫〉、1999年。ISBN 4-7698-2227-8 
    高戸は駆逐艦「照月」主計長。南太平洋海戦を「照月」艦橋で体験。
  • イアン・トール(著)、村上和久(訳)「第六章 新指揮官ハルゼーの巻き返しが始まった」『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 〈上〉』株式会社文藝春秋、2016年3月。ISBN 978-4-16-390423-8 
  • 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社〈光人社NF文庫新装版〉、2004年11月。ISBN 978-4-7698-2027-7 
  • 駆逐艦秋雲会 編「中島斎「南太平洋の激闘」」『栄光の駆逐艦 秋雲』駆逐艦秋雲会、1986年。 
  • 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1  中島は第三艦隊通信参謀として「翔鶴」に乗艦していた。
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8 
    橋本は司令部信号兵。南雲司令部の一員として「翔鶴」艦橋勤務。
  • 橋本衛『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』光人社、1984年3月。ISBN 4-7698-0230-7 
    橋本は「雷」主砲発令所配置。
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
    当時駆逐艦「天津風」駆逐艦長として南太平洋海戦に参加。
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • 当時由良の機械分隊長・海軍大尉 上村嵐「乗艦由良わが訣別の絶唱を聞け 敵機の空爆によりガ島輸送に殉じた長良型四番艦の沈没遭難体験記」
  • 福地周夫『空母翔鶴海戦記』出版共同社、1962年6月。 
  • 福地周夫『続・海軍くろしお物語』光人社、1982年6月。ISBN 4-7698-0179-3 
  • 福地周夫『海軍美談よもやま物語』光人社、1985年11月。ISBN 4-7698-0287-0 
  • 福地周夫『温故知新ちょっといい話 海軍くろしお物語』光人社、1992年12月(原著1956年)。ISBN 4-7698-0179-3 
  • 文藝春秋 編『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0 
    • 長井純隆(第三艦隊作戦参謀)『南太平洋海戦の勝利』
  • 淵田美津雄奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ、1992年12月。ISBN 4-257-17269-X 
  • 淵田美津雄、奥宮正武『機動部隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2008年。ISBN 978-4-05-901222-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<2> ガダルカナル・ブナ作戦』 第28巻、朝雲新聞社、1969年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで』 第63巻、朝雲新聞社、1973年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> ―昭和18年2月まで―』 第77巻、朝雲新聞社、1974年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『南東方面海軍作戦』 2(ガ島撤収まで)、朝雲新聞社〈戦史叢書83〉、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備<2> ― 開戦以後』 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』光人社〈光人社NF文庫〉、2001年。ISBN 4-7698-2328-2 
    牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、本海戦に参加する。
  • 松田憲雄『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9 
    松田は九七式艦攻電信員。「赤城」沈没後「翔鶴」配属。翔鶴第一次攻撃隊として本海戦に参加。
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』 第5巻、光人社、1989年11月。ISBN 4-7698-0455-5 
  • 「丸」編集部 編『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』光人社、2010年7月。 
    • 元空母「飛鷹」艦長・海軍少将 別府明朋「空母「飛鷹」ガダルカナル沖の悲運」
    • 当時第三艦隊参謀・元海軍中佐 中島親孝「南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊」
    • 当時「瑞鶴」艦長・元海軍少将 野元為輝「武運艦「瑞鶴」南太平洋の凱歌」
  • 「丸」編集部 編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6 
    • 当時「筑摩」艦長・元海軍少将 古村敬三『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』
  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定(訳)、光人社、1988年。 
  • 安永弘『死闘の水偵隊』(朝日ソノラマ 1994)
    著者は「妙高」偵察操縦者。本海戦でも索敵任務にあたった。
  • 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』(光人社、2002)朝日ソノラマ文庫の改訂版。
  • 山本悌一郎「第六章 沈黙の帰還」『海軍魂 若き雷撃王村田重治の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉。ISBN 4-7698-2129-8 
  • 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』今日の話題社、1985年。ISBN 4-87565-118-X 
    山川は「隼鷹」九九艦爆操縦者。真珠湾攻撃時「加賀」所属のベテラン。
  • 吉田俊雄『戦艦比叡』朝日ソノラマ、1985年。ISBN 4-257-17051-4 
    吉田は軍令部参謀。本海戦における陸軍と海軍の連携問題について言及。
  • 吉田俊雄「幸運の神 航空母艦「瑞鶴」の強運」『造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年(原著1989年)。ISBN 4-7698-2103-4 
  • 吉田俊雄『戦艦比叡 新装文庫版』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年。ISBN 4-7698-2345-2 
  • 歴史群像編集部編『ソロモン海戦 米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析』 第5巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年11月。 
  • 歴史群像編集部編『死闘ガダルカナル "連合艦隊最後の勝利" 南太平洋海戦を中心にガ島を巡る争奪の後半戦を分析する』 第6巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1995年1月。 
  • 『海軍機動部隊全史』新人物往来社〈別冊歴史読本 戦記シリーズ No.46〉、1999年。ISBN 4-404-02722-2 
  • Brayton, Harris (2011). Admiral Nimitz: The Commander of the Pacific Ocean Theater. Palgrave Macmillan Trade. ISBN 978-0-23010-765-6 
  • Frank, Richard B. (1992). Guadalcanal: The Definitive Account of the Landmark Battle. Penguin Books. ISBN 0140165614 
  • Hammel, Eric M. (2004). Carrier Strike: The Battle of the Santa Cruz Islands,october 1942. Zenith Press. ISBN 0760321280 

関連項目

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