「エルヴィン・シュルホフ」の版間の差分
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悲惨な歴史の犠牲者は敢えてホロコーストについて加えるべきである タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> |
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[[ファイル:Schulhoff Mayerova 1931.jpg|250px|thumb|シュールホフ(1931年)]] |
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| Name = エルヴィン・シュルホフ<br />Erwin Schulhoff |
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{{クラシック音楽}} |
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| Img = Schulhoff Mayerova 1931.jpg |
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'''エルヴィン・シュルホフ'''(''Erwin Schulhoff''、[[1894年]][[6月8日]] - [[1942年]][[8月18日]])は、[[チェコ]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]。ピアニストの[[ユリウス・シュルホフ]]([[:w:Julius Schulhoff|Julius Schulhoff]]、[[1825年]]-[[1898年]])は彼の大叔父に当たる。 |
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| Img_capt = シュルホフ(左、1931年) |
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| Img_size = 250 |
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| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |
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| Background = classic |
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| Birth_name = |
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| Alias = |
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| Blood = <!-- 個人のみ --> |
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| School_background = <!-- 個人のみ --> |
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| Born = [[1894年]][[6月8日]]<br />{{AUT1867}} [[プラハ]] |
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| Died = {{死亡年月日と没年齢|1894|6|8|1942|8|24}}<br />{{DEU1935}} [[バイエルン州]] [[ヴァイセンブルク・イン・バイエルン|ヴァイセンブルク]] |
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| Origin = |
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| Occupation = 作曲家、ピアニスト、指揮者 |
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| Current_members = <!-- グループのみ --> |
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| Past_members = <!-- グループのみ --> |
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| Notable_instruments = |
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{{Portal クラシック音楽}} |
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'''エルヴィン・シュルホフ'''('''シュールホフ'''とも、{{lang-en|Erwin Schulhoff}}、{{lang-cs|Ervín Schulhoff}}、[[1894年]][[6月8日]] - [[1942年]][[8月18日]])は、[[チェコ]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]<ref name="gayd10">Gayda (1995) p.10</ref>、[[ホロコースト]]犠牲者。ピアニストの{{仮リンク|ユリウス・シュルホフ|en|Julius Schulhoff}}([[1825年]]-[[1898年]])は彼の大叔父に当たる<ref name="kre">Krejci, Sarka. Ervin Schulhoff: a musician without prejudices. Czech Music (Jul. 1, 2006) [http://www.thefreelibrary.com/Ervin+Schulhoff%3A+a+musician+without+prejudices.-a0152011208] (2011年11月3日閲覧)</ref>。 |
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[[第一次世界大戦]]後の[[ダダイスム]]運動の音楽家として重要な人物とされており<ref>Bek (1995) p.12</ref>、[[ジャズ]]や[[実験音楽]]の要素を取り入れた曲など、あらゆるジャンルの作品を残し、生涯に作曲した作品は200作にのぼる<ref name="gogiv">Gogichashvili (2003) p.iv</ref>。しかし[[ナチス・ドイツ]]によってシュルホフの曲は「[[退廃音楽]]」という烙印を押され、演奏活動の禁止や作品の出版も認められなくなるなど迫害を受け、[[1942年]]に[[強制収容所]]で命を落とした。 |
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シュルホフの死後、彼の作品は半世紀にわたって日の目をみることはなかったが<ref name="gayd12">Gayda (1995) p.12</ref>、[[テレージエンシュタット]]などで迫害された他のチェコの作曲家([[ギデオン・クライン|クライン]]、[[ヴィクトル・ウルマン|ウルマン]]、[[パヴェル・ハース|ハース]]など)と同様に、再評価が進みつつある<ref name="gogiv"/>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 少年期 === |
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[[1894年]]、ドイツ系[[ユダヤ人]]の子として[[プラハ]]に生まれた<ref name="kre"/>。家庭は裕福であり<ref>Fred Mazelis (2004) The rediscovered music of Erwin Schulhoff. [http://www.wsws.org/articles/2004/may2004/schu-m11.shtml World Socialist Web Site]</ref>、エルヴィンの母ルイーズは、ヨーロッパ中の有名な教師に連絡を取って幼いエルヴィンの指導のために雇い、エルヴィンを連れてあらゆるところに出かけた<ref name="gog4">Gogichashvili (2003) p.4</ref>。また幼い頃から母に連れられて沢山の演奏会に足を運び、[[ピエトロ・マスカーニ|マスカーニ]]や[[ヤン・クーベリック|クーベリック]]などのサインを集めていた<ref name="gog7">Gogichashvili (2003) p.7</ref>。 |
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ルイーズは特に[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]に息子を指導してもらうことにこだわったが、結局ドヴォルザークはルイーズの意に沿わず、直接指導することはなかった<ref name="gog4"/>。しかしドヴォルザークは後にエルヴィンの才能を認めて<ref name="gog4"/>、7歳のエルヴィンにピアノ・レッスンをつけられるよう推薦し<ref name="kre"/>、10歳の頃には音楽院へ推薦した<ref name="gayd10"/>。エルヴィン自身も後年の日記で「ドヴォルザークに生徒としては受け入れてもらえなかったが、彼にその後の方向を定められた」と綴っている<ref name="gog4"/>。 |
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ドイツ系[[ユダヤ人]]の子として[[プラハ]]に生まれた。[[プラハ]]、[[ウィーン]]、[[ライプツィヒ]]、[[ケルン]]で[[作曲]]と[[ピアノ]]を学んだ。[[第一次世界大戦]]後の演奏と作品は[[ジャズ]]と[[ダダイズム]]の影響を受けた[[前衛]]へと進むようになった。彼はジャズのリズムにインスピレーションを見出したヨーロッパのクラシック作曲家の最初の1人だった。有名なピアノの名手で[[ドイツ]]の広い範囲で演奏旅行を行い、さらに[[イギリス]]や[[フランス]]にも進出した。1928年にラジオ放送用に行ったピアノ協奏曲を含む自作自演の録音が残されており、CD化もされている。 |
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ドヴォルザークの推薦を受けて、エルヴィンは1901年から Jindrich Kaan に師事してピアノのプライベート・レッスンを受け、1904年には[[プラハ音楽院]]へ進学<ref name="kre"/>。1906年以降は[[ウィーン]]に移ってレッスンを受けた<ref name="gog4"/>。その練習は非常に厳しく、その甲斐あってシュルホフは非常に優れた演奏技術を身につけた<ref name="gog4"/>。のちにシュルホフは両親に連れられて[[ライプツィヒ]]に移り、14歳の時に[[ライプツィヒ音楽院]]への入学を許可された<ref name="gog4"/>。そこで[[マックス・レーガー]]に師事し、作曲にも関心をもつようになった<ref name="gog5">Gogichashvili (2003) p.5</ref>。レーガーは[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]や[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]などを課題としてレッスンを行い、シュルホフも好んでレーガーのレッスンを受けた<ref name="gog5"/>。 |
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だが、1930年代になって状況が悪化した。彼がユダヤ人であることと過激な主張によって、[[ナチス・ドイツ]]から「[[退廃音楽]]」の烙印を押されたのである。もはやドイツで演奏活動を行うことができず、作品の出版も公に行うことができなくなった。 |
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ライプツィヒ音楽院を卒業後、シュルホフは[[コローニュ音楽院]]に留学して{{仮リンク|ラザーロ・ウジェリ|de|Lazzaro Uzielli}}にピアノを、[[フリッツ・シュタインバッハ]]に作曲と指揮を師事した<ref name="gog5"/>。シュタインバッハは、シュルホフに器楽曲を作曲することも認め、レーガーの倍音構造を用いた「ヴァイオリンとピアノのための組曲 WV 18」(1912年)などの作品を残している<ref name="gog5"/>。また指揮では、[[リヒャルト・シュトラウス]]「[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]」の指揮で[[ヴュルナー賞]]を受賞した<ref name="gog6">Gogichashvili (2003) p.6</ref>。 |
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作品内容も[[共産主義]]への傾斜が顕著となっていき、[[チェコスロバキア]]政府からも危険視された。プラハに避難してラジオのピアニストの職を得たが、日々の生活をまかなうのがやっとの状態だった。[[1939年]]ナチス・ドイツがチェコに侵攻すると、やむを得ず偽名で演奏活動を行うようになった。[[1941年]]に[[ソビエト連邦]]が彼の請願を承認して市民権を付与したが、チェコを去る前の同年6月にナチス・ドイツに逮捕されてしまった。間もなく[[バイエルン州]]の[[ヴァイセンブルク]]近郊のヴュルツブルク強制収容所に収容され、翌年8月に[[結核]]のため死去した。 |
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また1913年の夏には、作風に強い影響を受けた[[クロード・アシル・ドビュッシー|ドビュッシー]]に個人レッスンを申し込み、フランスに出向いて作曲などを師事したが、平行5度など伝統的な[[和声]]進行で禁じられているメロディは使わないようにさせるなど、シュルホフの期待と異なる指導であったため、落胆してドビュッシーの指導を受けるのをやめた<ref name="gog8">Gogichashvili (2003) p.8</ref>。 |
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=== 反戦主義からダダイスムへ === |
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[[第一次世界大戦]]でシュルホフは[[オーストリア軍]]に徴兵されて従軍したが、その経験から自身の信条として反戦主義的な考えを持つようになった<ref name="gayd10"/>。この徴兵経験は、シュルホフの政治的立場だけでなく文化的、芸術的な物の見方にも大きく影響を及ぼし、戦後は[[ナショナリズム]]への反発や[[軍隊]]への反対意識がより深く、過激なものとなった<ref name="Bek12">Bek (1995) p.12</ref>。シュルホフは第一次世界大戦後に、[[フランス]]の[[左派]]の活動家である[[アンリ・バルビュス]]が率いる平和主義運動「クラルテ」を支持し、[[画家]]である[[ジョージ・グロス]]や[[オットー・ディクス]]、[[ハンス・アルプ]]らが活動している急進的なダダイスム運動のメンバーに加わった<ref name="Bek12"/><ref name="gayd11">Gayda (1995) p.11</ref>。また同時期に[[アルバン・ベルク]]と文通を始め、[[ドレスデン]]や[[プラハ]]での演奏会でベルクの曲を取り上げた<ref name="derek">Biography of Erwin Schulhoff (Written by Derek Katz) The OREL Foundation [http://orelfoundation.org/index.php/composers/article/erwin_schulhoff/] (2011年11月9日閲覧)</ref>。1919年からは、シェーンベルクらが開催していた[[私的演奏協会]]に参加し、自らの楽曲などを演奏した<ref name="derek"/>。 |
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{{Quotation|「文化を守れ!」と叫ぶ一方で、人々が殺されそうになっている、こんなことは私にとっては痛ましく悪趣味なことだ。私は、1914年、1915年、そして1916年は人間のレベルが最も低い年であるし、もっと率直に言うと、この3年が20世紀を台無しにしている、と主張する。私自身も兵士であるが、それでも私はそう主張する。 |
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The popular cry 'Saveguard your culture', while men are being killed, is for me painfully tasteless. i maintain that the years 1914, 1915 and 1916 are on the lowest human level, and quite frankly make a mockery of the twentieth century. I say this, even though I am a soldier myself.|エルヴィン・シュルホフ|1916年1月8日の日記より<ref name="Bek12"/>}} |
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1921年に Alice Libochowitz と結婚<ref name="derek"/>。1922年にはベルリンに移住したが<ref name="derek"/>、その翌年の1923年にはプラハに戻り、ピアニストや作曲家として精力的に活動した。1920年代なかばごろには、シュルホフは「ダダの」作曲家として世に知られるようになり、前衛的な作曲家として、あるいはその曲の演奏者などとして、当時の[[前衛音楽]]の最前線に立っていた<ref name="gayd11"/>。各国のあらゆる現代音楽の音楽祭でシュルホフの音楽が聞かれ、[[エーリヒ・クライバー]]や[[エルネスト・アンセルメ]]、[[ピエール・モントゥー]]、[[ジョージ・セル]]、[[ヴァーツラフ・ターリヒ]]などがシュルホフの作品を指揮した<ref name="gayd11"/>。楽譜も[[マインツ]]や[[ロンドン]]、[[ウィーン]]など各地の出版社から次々と出版され、1920年代の半ば頃には、ウィーンで最も多くの楽譜を出版した作曲家の一人となっていた<ref name="Bek2002">Bek, Josef. Editions of Erwin Schulhoff. Czech Music (May 1, 2002) [http://www.thefreelibrary.com/Editions+of+Erwin+Schulhoff.-a090190509] (2011年11月3日閲覧)</ref>。シュルホフ自身も、1913年に[[メンデルスゾーン賞]]を受賞するなどピアノの腕は高く評価されており<ref name="gog9">Gogichashvili (2003) p.9</ref>、プラハを始めドイツの多くの都市や、フランス、オランダなど、ヨーロッパの広い範囲で演奏を披露した<ref name="kre"/>。ラジオ放送でも演奏を披露し<ref name="gog10">Gogichashvili (2003) p.10</ref>、チェコのラジオ局をはじめ[[英国放送協会|BBC]]や[[西部ドイツ放送協会|WDR]]で、チェコの作曲家の作品や自作曲を放送した<ref name="kre"/>。またシュルホフがピアニストとして自作曲を演奏したライブの一部については録音されており、ピアノ協奏曲を含む自作自演の録音が残されている(一部の音源については、デッカの「退廃音楽シリーズ」からCD化されている)<ref>『シュールホフ:ピアノ協奏曲「アラ・ジャズ」他』(DECCA UCCD-3448)ライナーノーツ p.8</ref>。特にジャズを取り入れた「ジャズ様式の5つの練習曲」(1926年)、「ジャズ様式のエスキス」(1927年)、「ホット・ミュージック」(1928年)などは軒並み出版され、ヨーロッパ各地で行われた演奏会では、例外なく成功を収めたとされる<ref name="jazz"/>。またプラハで興った前衛芸術活動である{{仮リンク|解放劇場|en|Osvobozené divadlo}}とも何度か演奏を行った<ref>Holzknecht, p. 305</ref>。 |
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シュルホフは作曲家、演奏家としてだけでなく、文筆家や講演家としても人気を博した<ref name="gayd11"/>。1924年から1926年にかけては、プラハの新聞である「''Prager Abendblatt''」誌の音楽記事を扱う記者としても活動<ref name="kre"/>。特に[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]については数多くの記事を残している<ref name="gog12">Gogichashvili (2003) p.12</ref>。 |
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なおこの時期にシュルホフはプラハのドイツ音楽アカデミーの教員に何度か申し込んだが、結局そのポストは得られなかった<ref name="kre"/>。 |
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=== 迫害と死 === |
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[[ファイル:Grabstein Schulhoff klein.JPG|thumb|250px|シュルホフの墓([[ドイツ]]・[[バイエルン州]]・[[ヴァイセンブルク=グンツェンハウゼン郡]])]] |
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1920年代には精力的に活動していたシュルホフであったが、1930年代に入ると、多くの楽譜出版社がシュルホフの作品に関心を見せなくなり始めるなど<ref name="Bek2002"/>、シュルホフの活動を取り巻く状況に変化が現れ始めた。これにはシュルホフが大編成の曲を作曲するようになり、出版しやすい小品が減ったという理由もあったが、それ以上に政情の変化によるところが大きかった<ref name="Bek2002"/>。シュルホフは[[ユダヤ人]]であることのみならず、その政治的な信念と過激な主張によって<ref name="Bek13">Bek (1995) p.13</ref>、[[ナチス・ドイツ]]から「[[退廃音楽]]」の烙印を押され、迫害を受けるようになった。1932年に完成した歌劇「炎」は、[[エーリヒ・クライバー]]指揮のもと初演する計画があったが、ナチスの圧力によりその計画は潰された<ref name="Bek16">Bek (1995) p.16</ref>。1933年以降は、シュルホフは自ら国際的な音楽シーンから姿を消した<ref name="Bek2002"/>。 |
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作品内容も[[共産主義]]への傾斜が顕著となっていき、[[チェコスロバキア]]政府からも危険視された。プラハに避難してラジオ局での仕事やピアニストの職を得たが<ref name="derek"/>、日々の生活をまかなうのがやっとの状態だった。シュルホフの家族の生活状況も悪くなっていき、1938年には母が亡くなった<ref name="derek"/>。またシュルホフの妻も病に伏せたが、同じ頃彼は自らの教え子に熱を上げており、最終的に妻とは離婚することになった<ref name="derek"/>。母の死後すぐに、シュルホフは再婚した<ref name="derek"/>。 |
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シュルホフが交響曲第5番を完成させた1939年頃になると、ナチス・ドイツに侵攻された母国チェコでもあらゆる職を奪われ<ref name="sym35"/>、やむを得ず偽名で演奏活動を行うようになった。そんな折シュルホフは、以前からその社会主義リアリズムの考え方に共感していた[[ソビエト連邦]]に対して、市民権の付与を要請した<ref name="derek"/>。シュルホフの妻と息子についても同様に市民権の付与を要請しており、[[1941年]]4月にソビエト連邦はシュルホフ一家の市民権付与を承認した<ref name="derek"/><ref name="gog13">Gogichashvili (2003) p.13</ref>。しかしソビエト連邦に移住する直前の同年[[6月23日]]に、プラハを占拠した[[ナチス・ドイツ]]に逮捕された<ref name="derek"/><ref name="Bek13"/>。シュルホフは間もなく、当時[[強制収容所]]として使用されていた{{仮リンク|ヴュルツブルク城|de|Wülzburg}}([[バイエルン州]]・[[ヴァイセンブルク・イン・バイエルン|ヴァイセンブルク]])に収容され、翌年の1942年に[[結核]]のため死去した<ref name="gayd12"/>。 |
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死後、長い間シュルホフの作品は顧みられることがなかったが、1992年頃から[[ギドン・クレーメル]]が演奏会でシュルホフの作品を取り上げたことがひとつのきっかけとなり<ref name="Bek2002"/>、未出版であった作品の出版やこれまで出版された作品のリイシューが進むなど<ref name="Bek2002"/>、徐々に再評価が進んでいる。 |
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== 作風 == |
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シュルホフは新しいアイデアを次々と受け入れようとし、また幸運にも、広い範囲のさまざまな事物から影響を受けることとなった<ref name="gog3">Gogichashvili (2003) p.3</ref>。そのため、シュルホフの作風にはあらゆる様式やさまざまな作品などからの影響が見られ、非常に多彩な作品が残されている<ref name="derek"/>。 |
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シュルホフの音楽的な特徴は、大きく分けて第一次世界大戦前と大戦後に分けられ、大戦前には師事を受けた教師や自らのレパートリーとした作曲家から大きな影響を受けたのに対し、大戦後には[[前衛芸術]]などの芸術運動や先進的な演奏会から計り知れない影響を受けている<ref name="gog2">Gogichashvili (2003) p.2</ref>。 |
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=== 演奏会や教師からの影響 === |
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幼少期には母親に数多くの演奏会に連れていってもらっており、そこで多くの音楽家から影響を受けている。特に[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]の曲には強い影響を受け、「弦楽オーケストラのための3つの小品 WV 5」などグリーグを讃えた曲も作曲している<ref name="gog7"/>。また「[[牧神の午後への前奏曲]]」や「[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]」(1908年の初演時に観劇している)などといった[[クロード・アシル・ドビュッシー|ドビュッシー]]の音楽からも非常に大きなインパクトを受けており、後年「ピアノのための4つの絵画 WV 22」「ピアノのための小品 WV 23」(ともに1913年)などドビュッシーに影響を受けたピアノ曲を作曲している<ref name="gog7"/>。また前述のとおり、師事したレーガーからも強い影響を受けており、レーガーに師事していた頃にも、レーガーに影響を受けた「ヴァリエーションとフーガ WV 5」などの作品を残している<ref name="gog5"/>。 |
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=== ジャズとの出会い === |
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第一次世界大戦後には、シュルホフはジャズのリズムにインスピレーションを見出し、ジャズの影響を受けた作品を数多く残している。シュルホフはヨーロッパの作曲家で最初にジャズを取り入れた作曲家の一人であり<ref name="paul">Paul Brody "Paul Brody's Far from Sadawi Moldova" booklet. Morgenland ml7001</ref>、特にピアノ曲でジャズに影響を受けた曲が多く見られる<ref name="jazz">Schulhoff "Jazz-inspired piano works" booklets (written by Dana Melanova) Supraphon 1993.</ref>。シュルホフは第一次世界大戦後に参加したダダイスム運動のメンバーの一人、[[ジョージ・グロス]]のスタジオで、彼が所有していたジャズレコードの膨大なコレクションに触れ、ジャズに親しんだものと考えられている<ref name="gayd11"/><ref name="jazz"/>。ジャズに影響を受けて作曲した最初の作品は、ピアノ独奏曲である「5つのピトレスク(音画)作品31 WV 51」(1919年)であり、シュルホフはこの曲をグロスに献呈している<ref name="gayd11"/>。 |
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シュルホフはジャズを[[ダンス・ミュージック]]として扱ったが<ref>Susan C. Cook, 1989. Jazz as Deliverance: The Reception and Institution of American Jazz during the Weimar Republic. American Music, Vol. 7, No. 1, Special Jazz Issue. pp. 30-47.</ref>、その一方で、古い様式の音楽を攻撃するため<ref name="bek1994">Bek (1994) p.11</ref>、既存の音楽作品を否定するダダの活動にふさわしい題材としてもジャズを扱っており、グロスらの[[視覚芸術|ビジュアルアート]]と平行してこのようなジャズを取り入れた作曲活動を行なっている<ref name="jazz"/>。またヨーロッパでの演奏旅行などを通して、ピアニストとしてのレパートリーを増やす中で、ピアノ曲の技巧的な限界を追求する[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[フランツ・リスト|リスト]]、[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]などに触れ、そこからピアノ曲の様式などについて影響を受けている<ref name="gog9"/>。 |
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=== ダダから前衛へ === |
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[[ダダイスム]]から感化された実験的な手法を用いた作品も知られており、耳障りな[[不協和音]]をリズムに挿入するなど、現代のポピュラー音楽にも通じる手法を用いた曲もある<ref name="gayd12"/>。全曲が長さの異なる[[休符]]と[[アゴーギク]]のみからなる「5つの演奏会小品 作品3」の第3曲「''In futurum''」は、典型的なダダ的風刺がこめられた作品であるとされている<ref name="kre"/>。そのほか女声と効果音からなる「シアター・ピース WV 197」、女性の喘ぎ声と水音を組み合わせた「ソナタ・エロティカ WV 197」など、第二次世界大戦後の[[前衛音楽]]を先取りしたような作品もある。 |
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シュルホフは旧習を否定するために前衛的な試みを支持していたが、実験のための実験には反対する立場をとっていた<ref name="kre"/>。前衛的な作曲技法である[[十二音技法]]を推し進めた[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]についての文章も残しているが、シュルホフはシェーンベルクの音楽的哲学には共感できず、「リズムを欠いた騒々しいだけの音楽である」と評しており、自ら[[十二音技法]]を作曲に用いることもなかった<ref name="gog12"/>。これはシュルホフが、芸術音楽と大衆音楽の溝を埋めたいと思っており、「音楽は決して哲学ではない!(中略)ブルジョワだけが音楽は哲学であると信じている」として、哲学的な音楽の捉え方を否定していた<ref name="kre"/>ためであった。ただしシェーンベルクの楽曲に見られる、緻密なフレーズとダイナミックな表現に織り交ぜられる主題的な旋律については、シュルホフも高く評価している<ref name="gog10"/>。またシュルホフは音楽におけるリズムの重要性を強調しており、リズムを通した肉体的な至福感や、そこから得られる恍惚感を重視していた<ref name="kre"/>。 |
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作品の中には、[http://homepage1.nifty.com/iberia/score_gallery_schulhoff.htm 全曲休符だけの曲](作品31-5)や女声と効果音からなる[[シアター・ピース]](WV.197)など第二次世界大戦後の[[前衛音楽]]を先取りしたような作品もあり、上記のジャズの影響を受けた作品と共に近年再評価が進んでいる。 |
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==作品== |
==作品== |
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=== 舞台作品 === |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 備考 |
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| バレエ「オゲララ」作品53 WV 64 || 1922-1924 || |
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| 夢遊病の者:グロテスクな踊り WV 78 || 1925 || パーカッションのみで演奏する「Step (without music)」という楽章がある<ref name="gayd12"/>。 |
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| 歌劇「炎」作品68 WV 93 || 1928/1932 || |
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| オラトリオ「HMS Royal Oak」 || 1930 || イギリスの戦艦である[[ロイヤル・オーク (戦艦)|ロイヤル・オーク]]への風刺がこめられている<ref>{{cite web|url=http://www.exil-archiv.de/html/biografien/schulhoff.htm|title=Erwin Schulhoff|work=exil-archiv|publisher=Else Lasker-Schüler-Foundation|accessdate=3 September 2009|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071018030334/http://www.exil-archiv.de/html/biografien/schulhoff.htm |archivedate = October 18, 2007|deadurl=yes}} (ドイツ語)</ref>。 |
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|} |
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===交響曲=== |
===交響曲=== |
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{| class="sortable wikitable" |
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* 交響曲第1番(1925年)Op.5 WV.76 |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 備考 |
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* 交響曲第2番(1932年)Op.81 WV.101 |
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* 交響曲第3番(1935年)Op.85 WV.118 |
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| 交響曲第1番 作品5 WV 76 || 1925 || [[ヴァーツラフ・ターリヒ|ターリヒ]]に献呈<ref name="sym12"/>。初演は1928年に[[エーリヒ・クライバー|クライバー]]によって行われた<ref name="sym12">Schulhoff "Symphonies Nos.1 and 2" booklets (written by Nad'a Dvorska) Supraphon 1995.</ref>。 |
|||
* 交響曲第4番(1936-37年)Op.88 WV.123 |
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|- |
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* 交響曲第5番(1938/39年)Op.89 WV.125 |
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| 交響曲第2番 作品81 WV 101 || 1927 || [[カレル・ボレスラフ・イラーク|イラーク]]に献呈され、初演もイラークによって1935年に行われた<ref name="sym12"/>。 |
|||
* 交響曲第6番(1940/41年)Op.94 WV.138 |
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|- |
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| 交響曲第3番 作品85 WV 118 || 1937 ||死後の1950年に初演された<ref name="sym35">Schulhoff "Symphonies Nos.3 and 5" booklets (written by Nad'a Dvorska) Supraphon 1995.</ref>。 |
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|- |
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| 交響曲第4番 作品88 WV 123 || 1936-1937 || |
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|- |
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| 交響曲第5番 作品89 WV 125 || 1938-1939 || |
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|- |
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| 交響曲第6番 作品94 WV 138 || 1940-1941 || 「自由の交響曲」(合唱つき) |
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|- |
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| 交響曲第7番 WV 139 || 1941-1942 || 未完<ref name="nax">Whitehouse (2010) p.2</ref> |
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|- |
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| 交響曲第8番 作品99 WV 141 ||1941-1942 || 未完<ref name="nax"/><ref name="gog32"/>。編成は管弦楽と混声合唱が予定されていた<ref name="gog32">Gogichashvili (2003) p.32</ref>。[[ナクソス (レコードレーベル)|ナクソスレーベル]]の KZ MUSIK シリーズで、ピアノと男声合唱版として音源化されている<ref>Mark L. Lehman 2009. In American Record Guide November-December 2009.</ref><!--<ref>Seth Colter Walls (2010)‘Degenerate’ Opera: Hear No Evil. Newsweek. 2010-03-04 [http://www.thedailybeast.com/newsweek/2010/03/04/degenerate-opera-hear-no-evil.html]</ref>-->。 |
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|} |
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===協奏曲=== |
===協奏曲=== |
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{| class="sortable wikitable" |
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* ピアノ協奏曲「ジャズ風に」(1923年)Op.43 WV.66…同じくジャズを取り入れた[[ジョージ・ガーシュウィン]]の[[ピアノ協奏曲 (ガーシュウィン)|ピアノ協奏曲]]よりも2年早く作曲された。 |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 編成 !! 備考 |
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* フルート、ピアノと管弦楽のための二重協奏曲(1927年)Op.63 WV.89 |
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* 弦楽四重奏と管楽器のための協奏曲(1930年)WV.97 |
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| ピアノ協奏曲第1番 作品11 WV 28 || 1913-1914 || pf, Orch || |
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| ピアノ協奏曲第2番 作品43 WV 66「ジャズ風に(アラ・ジャズ)」|| 1923 || pf, Orch || 同じくジャズを取り入れた[[ジョージ・ガーシュウィン]]の[[ピアノ協奏曲 (ガーシュウィン)|ピアノ協奏曲]]よりも2年早く作曲された。 |
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| フルート、ピアノと管弦楽のための二重協奏曲 作品63 WV 89 || 1927 || pf, Orch || |
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| 弦楽四重奏と管楽器のための協奏曲 WV 97 || 1930 || sq, wind || ラジオでの演奏のために作曲<ref name="derek"/>。 |
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===室内楽曲・器楽曲=== |
===室内楽曲・器楽曲=== |
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{| class="sortable wikitable" |
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* 室内管弦楽のための組曲(1921年)Op.37 WV.58 |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 編成 !! 備考 |
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* 弦楽六重奏曲(1920-24年)Op.45 WV.70 |
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* 弦楽四重奏のためのディヴェルティメント(1914年)Op.14 WV.32 |
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| 室内管弦楽のための組曲 作品37 WV 58|| 1921 || Chamber Orch. || |
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|- |
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* 弦楽四重奏曲第1番(1924年)Op.8 WV.72 |
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| 弦楽六重奏曲 作品45 WV 70 || 1920-1924 || 2vn, 2va, 2vc || |
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* フルート、ヴィオラ、コントラバスのための小協奏曲(1925年)WV.75 |
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| 弦楽四重奏のためのディヴェルティメント 作品14 WV 32 || 1914 || sq || |
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|- |
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* ヴァイオリンとピアノのための組曲(1912年)Op.1 WV.18 |
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| 弦楽四重奏のための5つの小品 WV 68 || 1923 || sq || |
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* ヴァイオリン・ソナタ第1番(1913年)Op.7 WV.24 |
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|- |
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* チェロ・ソナタ(1914年)Op.17 WV.35 |
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| 弦楽四重奏曲第1番 作品8 WV 72 || 1924 || sq || |
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* ホット・ソナタ アルト・サクソフォーンとピアノのための(1930年)Op.70 WV.95 |
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|- |
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* 低声のうぐいす コントラファゴットのための(1922年)Op.38 WV.59 |
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| 弦楽四重奏曲第2番 WV 77 || 1925 || sq || |
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| フルート、ヴィオラ、コントラバスのための小協奏曲 WV 75|| 1925 || fl va cb || |
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| オーボエ、クラリネットとファゴットのためのディヴェルティメント WV 87 || 1925 || ob, cl, fg || |
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| ヴァイオリンとピアノのための組曲 作品1 WV 18 || 1912 || vn, pf || |
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| ヴァイオリン・ソナタ第1番 作品7 WV 24 || 1913 || vn, pf || |
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| ヴァイオリン・ソナタ第2番 WV 91 || 1927 || vn, pf || |
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| チェロ・ソナタ 作品17 WV 35|| 1914 || vc, pf || |
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|- |
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| ホット・ソナタ アルト・サクソフォーンとピアノのための 作品70 WV 95 || 1930 || altosax, pf || |
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|- |
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| 低声のうぐいす コントラファゴットのための 作品38 WV 59 || 1922 || cfg || |
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|- |
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|} |
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===ピアノ曲=== |
===ピアノ曲=== |
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{| class="sortable wikitable" |
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* ピアノ・ソナタ第1番(1924年)WV.69 |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 備考 |
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* ピアノ・ソナタ第2番(1928年)WV.82 |
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|- |
|||
* ピアノ・ソナタ第3番(1927年)WV.88 |
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| [[5つのピトレスク]](音画)作品31 WV 51 || 1919 || |
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* ジャズ様式の5つの練習曲(1926年)Op.58 WV.81 |
|||
|- |
|||
* 6つのジャズ風のスケッチ(1927年) |
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| ピアノ・ソナタ第1番 WV 69 || 1924 || |
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* ジャズの舞踏組曲(1931年)Op.74 WV.98 |
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|- |
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* 5つの音画(1919年)Op.31 WV.51 |
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| ピアノ・ソナタ第2番 WV 82 || 1928 || |
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===その他=== |
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|- |
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* バレエ「オゲララ」(1922-24年)Op.53 WV.64 |
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| ピアノ・ソナタ第3番 WV 88 || 1927 || |
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* オペラ「炎」(1928/32年)Op.68 WV.93 |
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|- |
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* ソナタ・エロティカ 女声のための(1919年)WV.197 |
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| ジャズ様式の5つの練習曲 作品58 WV 81 || 1926 || |
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| 6つのジャズ風のスケッチ || 1927 || |
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| ジャズの舞踏組曲 作品74 WV 98 || 1931 || |
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|} |
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===歌曲=== |
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{| class="sortable wikitable" |
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! 作品タイトル !! 作曲年 !! 備考 |
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| 4つの歌 作品2 WV 19 || 1912 || |
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| 3つの歌 作品14 WV 12 || 1914 || |
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| 風景 作品26 WV 44 || 1918-1919 || |
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| 人間性 作品28 WV 28 || 1919 || |
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| ソナタ・エロティカ WV 197 || 1919 || |
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| 5つの歌 || 1919 || |
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| 雲のポンプ 作品40 WV 61 || 1922 || |
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| 共産党宣言による交唱曲 作品82 || 1932-1933 ||『[[共産党宣言]]』に基づく[[カンタータ]]。 |
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== 関連項目 == |
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*{{仮リンク|ポール・ブレイディ|en|Paul Brody}} - イギリスのシンガーソングライター。シュルホフの楽曲をアレンジした「Erwin Schulhoff Suite」をアルバムに収録している<ref name="paul"/>。 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*Bek, Josef (1994) Schulhoff "Ensemble works vol.1" booklet (Channel Classics CCS 6994) |
|||
*Bek, Josef (1995) "ERWIN SCHULHOFF Flammen - A work of 'boundless fantasy'" Schulhoff:Flammen ([[デッカ・レコード|DECCA]] ENTARTETE MUSIK 444 630-2) |
|||
*Gayda, Thomas (1995) "FRANZ SCHREKER, ERWIN SCHULHOFF, PAUL HINDEMITH - Dance pantomimes, Dance grotesque" (DECCA ENTARTETE MUSIK 444 182-2) |
|||
*Gogichashvili, Eka (2003) Erwin Schulhoff (1884-1942) - A Brief History; Examination Of The Sonata For Violin And Piano (WV 91). Doctor of Musical Arts (D.M.A.) of Louisiana State University [http://etd.lsu.edu/docs/available/etd-1111103-195959/ Title page for ETD etd-1111103-195959] |
|||
*Holzknecht, Václav (2007). Jaroslav Ježek a Osvobozené divadlo. Prague: Arsci. ISBN 978-80-86078-67-0. |
|||
*Whitehouse, Richard (2010) "Erwin Schulhoff (1894–1942) String Quartets Nos. 1 and 2 • Five Pieces for String Quartet" ([[ナクソス|NAXOS]] 8.570965) |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Erwin Schulhoff}} |
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* {{IMSLP|id=Schulhoff, Erwin}} |
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[[Category:フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ出身の人物]] |
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[[Category:ホロコースト犠牲者]] |
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[[Category:ユダヤ人の作曲家]] |
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[[Category:プラハの人物]] |
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[[da:Erwin Schulhoff]] |
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[[de:Erwin Schulhoff]] |
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[[en:Erwin Schulhoff]] |
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[[es:Erwin Schulhoff]] |
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[[fr:Erwin Schulhoff]] |
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[[he:ארווין שולהוף]] |
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[[it:Erwin Schulhoff]] |
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[[nl:Ervín Schulhoff]] |
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[[ru:Шульгоф, Эрвин]] |
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[[zh:埃尔文·舒尔霍夫]] |
2022年8月5日 (金) 15:20時点における最新版
エルヴィン・シュルホフ Erwin Schulhoff | |
---|---|
シュルホフ(左、1931年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1894年6月8日 オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ |
死没 |
1942年8月24日(48歳没) ドイツ国 バイエルン州 ヴァイセンブルク |
職業 | 作曲家、ピアニスト、指揮者 |
エルヴィン・シュルホフ(シュールホフとも、英語: Erwin Schulhoff、チェコ語: Ervín Schulhoff、1894年6月8日 - 1942年8月18日)は、チェコの作曲家、ピアニスト、指揮者[1]、ホロコースト犠牲者。ピアニストのユリウス・シュルホフ(1825年-1898年)は彼の大叔父に当たる[2]。
第一次世界大戦後のダダイスム運動の音楽家として重要な人物とされており[3]、ジャズや実験音楽の要素を取り入れた曲など、あらゆるジャンルの作品を残し、生涯に作曲した作品は200作にのぼる[4]。しかしナチス・ドイツによってシュルホフの曲は「退廃音楽」という烙印を押され、演奏活動の禁止や作品の出版も認められなくなるなど迫害を受け、1942年に強制収容所で命を落とした。
シュルホフの死後、彼の作品は半世紀にわたって日の目をみることはなかったが[5]、テレージエンシュタットなどで迫害された他のチェコの作曲家(クライン、ウルマン、ハースなど)と同様に、再評価が進みつつある[4]。
生涯
[編集]少年期
[編集]1894年、ドイツ系ユダヤ人の子としてプラハに生まれた[2]。家庭は裕福であり[6]、エルヴィンの母ルイーズは、ヨーロッパ中の有名な教師に連絡を取って幼いエルヴィンの指導のために雇い、エルヴィンを連れてあらゆるところに出かけた[7]。また幼い頃から母に連れられて沢山の演奏会に足を運び、マスカーニやクーベリックなどのサインを集めていた[8]。
ルイーズは特にドヴォルザークに息子を指導してもらうことにこだわったが、結局ドヴォルザークはルイーズの意に沿わず、直接指導することはなかった[7]。しかしドヴォルザークは後にエルヴィンの才能を認めて[7]、7歳のエルヴィンにピアノ・レッスンをつけられるよう推薦し[2]、10歳の頃には音楽院へ推薦した[1]。エルヴィン自身も後年の日記で「ドヴォルザークに生徒としては受け入れてもらえなかったが、彼にその後の方向を定められた」と綴っている[7]。
ドヴォルザークの推薦を受けて、エルヴィンは1901年から Jindrich Kaan に師事してピアノのプライベート・レッスンを受け、1904年にはプラハ音楽院へ進学[2]。1906年以降はウィーンに移ってレッスンを受けた[7]。その練習は非常に厳しく、その甲斐あってシュルホフは非常に優れた演奏技術を身につけた[7]。のちにシュルホフは両親に連れられてライプツィヒに移り、14歳の時にライプツィヒ音楽院への入学を許可された[7]。そこでマックス・レーガーに師事し、作曲にも関心をもつようになった[9]。レーガーはブラームスやJ.S.バッハ、ベートーヴェンなどを課題としてレッスンを行い、シュルホフも好んでレーガーのレッスンを受けた[9]。
ライプツィヒ音楽院を卒業後、シュルホフはコローニュ音楽院に留学してラザーロ・ウジェリにピアノを、フリッツ・シュタインバッハに作曲と指揮を師事した[9]。シュタインバッハは、シュルホフに器楽曲を作曲することも認め、レーガーの倍音構造を用いた「ヴァイオリンとピアノのための組曲 WV 18」(1912年)などの作品を残している[9]。また指揮では、リヒャルト・シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の指揮でヴュルナー賞を受賞した[10]。
また1913年の夏には、作風に強い影響を受けたドビュッシーに個人レッスンを申し込み、フランスに出向いて作曲などを師事したが、平行5度など伝統的な和声進行で禁じられているメロディは使わないようにさせるなど、シュルホフの期待と異なる指導であったため、落胆してドビュッシーの指導を受けるのをやめた[11]。
反戦主義からダダイスムへ
[編集]第一次世界大戦でシュルホフはオーストリア軍に徴兵されて従軍したが、その経験から自身の信条として反戦主義的な考えを持つようになった[1]。この徴兵経験は、シュルホフの政治的立場だけでなく文化的、芸術的な物の見方にも大きく影響を及ぼし、戦後はナショナリズムへの反発や軍隊への反対意識がより深く、過激なものとなった[12]。シュルホフは第一次世界大戦後に、フランスの左派の活動家であるアンリ・バルビュスが率いる平和主義運動「クラルテ」を支持し、画家であるジョージ・グロスやオットー・ディクス、ハンス・アルプらが活動している急進的なダダイスム運動のメンバーに加わった[12][13]。また同時期にアルバン・ベルクと文通を始め、ドレスデンやプラハでの演奏会でベルクの曲を取り上げた[14]。1919年からは、シェーンベルクらが開催していた私的演奏協会に参加し、自らの楽曲などを演奏した[14]。
「文化を守れ!」と叫ぶ一方で、人々が殺されそうになっている、こんなことは私にとっては痛ましく悪趣味なことだ。私は、1914年、1915年、そして1916年は人間のレベルが最も低い年であるし、もっと率直に言うと、この3年が20世紀を台無しにしている、と主張する。私自身も兵士であるが、それでも私はそう主張する。 The popular cry 'Saveguard your culture', while men are being killed, is for me painfully tasteless. i maintain that the years 1914, 1915 and 1916 are on the lowest human level, and quite frankly make a mockery of the twentieth century. I say this, even though I am a soldier myself. — エルヴィン・シュルホフ、1916年1月8日の日記より[12]
1921年に Alice Libochowitz と結婚[14]。1922年にはベルリンに移住したが[14]、その翌年の1923年にはプラハに戻り、ピアニストや作曲家として精力的に活動した。1920年代なかばごろには、シュルホフは「ダダの」作曲家として世に知られるようになり、前衛的な作曲家として、あるいはその曲の演奏者などとして、当時の前衛音楽の最前線に立っていた[13]。各国のあらゆる現代音楽の音楽祭でシュルホフの音楽が聞かれ、エーリヒ・クライバーやエルネスト・アンセルメ、ピエール・モントゥー、ジョージ・セル、ヴァーツラフ・ターリヒなどがシュルホフの作品を指揮した[13]。楽譜もマインツやロンドン、ウィーンなど各地の出版社から次々と出版され、1920年代の半ば頃には、ウィーンで最も多くの楽譜を出版した作曲家の一人となっていた[15]。シュルホフ自身も、1913年にメンデルスゾーン賞を受賞するなどピアノの腕は高く評価されており[16]、プラハを始めドイツの多くの都市や、フランス、オランダなど、ヨーロッパの広い範囲で演奏を披露した[2]。ラジオ放送でも演奏を披露し[17]、チェコのラジオ局をはじめBBCやWDRで、チェコの作曲家の作品や自作曲を放送した[2]。またシュルホフがピアニストとして自作曲を演奏したライブの一部については録音されており、ピアノ協奏曲を含む自作自演の録音が残されている(一部の音源については、デッカの「退廃音楽シリーズ」からCD化されている)[18]。特にジャズを取り入れた「ジャズ様式の5つの練習曲」(1926年)、「ジャズ様式のエスキス」(1927年)、「ホット・ミュージック」(1928年)などは軒並み出版され、ヨーロッパ各地で行われた演奏会では、例外なく成功を収めたとされる[19]。またプラハで興った前衛芸術活動である解放劇場とも何度か演奏を行った[20]。
シュルホフは作曲家、演奏家としてだけでなく、文筆家や講演家としても人気を博した[13]。1924年から1926年にかけては、プラハの新聞である「Prager Abendblatt」誌の音楽記事を扱う記者としても活動[2]。特にシェーンベルクについては数多くの記事を残している[21]。
なおこの時期にシュルホフはプラハのドイツ音楽アカデミーの教員に何度か申し込んだが、結局そのポストは得られなかった[2]。
迫害と死
[編集]1920年代には精力的に活動していたシュルホフであったが、1930年代に入ると、多くの楽譜出版社がシュルホフの作品に関心を見せなくなり始めるなど[15]、シュルホフの活動を取り巻く状況に変化が現れ始めた。これにはシュルホフが大編成の曲を作曲するようになり、出版しやすい小品が減ったという理由もあったが、それ以上に政情の変化によるところが大きかった[15]。シュルホフはユダヤ人であることのみならず、その政治的な信念と過激な主張によって[22]、ナチス・ドイツから「退廃音楽」の烙印を押され、迫害を受けるようになった。1932年に完成した歌劇「炎」は、エーリヒ・クライバー指揮のもと初演する計画があったが、ナチスの圧力によりその計画は潰された[23]。1933年以降は、シュルホフは自ら国際的な音楽シーンから姿を消した[15]。
作品内容も共産主義への傾斜が顕著となっていき、チェコスロバキア政府からも危険視された。プラハに避難してラジオ局での仕事やピアニストの職を得たが[14]、日々の生活をまかなうのがやっとの状態だった。シュルホフの家族の生活状況も悪くなっていき、1938年には母が亡くなった[14]。またシュルホフの妻も病に伏せたが、同じ頃彼は自らの教え子に熱を上げており、最終的に妻とは離婚することになった[14]。母の死後すぐに、シュルホフは再婚した[14]。
シュルホフが交響曲第5番を完成させた1939年頃になると、ナチス・ドイツに侵攻された母国チェコでもあらゆる職を奪われ[24]、やむを得ず偽名で演奏活動を行うようになった。そんな折シュルホフは、以前からその社会主義リアリズムの考え方に共感していたソビエト連邦に対して、市民権の付与を要請した[14]。シュルホフの妻と息子についても同様に市民権の付与を要請しており、1941年4月にソビエト連邦はシュルホフ一家の市民権付与を承認した[14][25]。しかしソビエト連邦に移住する直前の同年6月23日に、プラハを占拠したナチス・ドイツに逮捕された[14][22]。シュルホフは間もなく、当時強制収容所として使用されていたヴュルツブルク城(バイエルン州・ヴァイセンブルク)に収容され、翌年の1942年に結核のため死去した[5]。
死後、長い間シュルホフの作品は顧みられることがなかったが、1992年頃からギドン・クレーメルが演奏会でシュルホフの作品を取り上げたことがひとつのきっかけとなり[15]、未出版であった作品の出版やこれまで出版された作品のリイシューが進むなど[15]、徐々に再評価が進んでいる。
作風
[編集]シュルホフは新しいアイデアを次々と受け入れようとし、また幸運にも、広い範囲のさまざまな事物から影響を受けることとなった[26]。そのため、シュルホフの作風にはあらゆる様式やさまざまな作品などからの影響が見られ、非常に多彩な作品が残されている[14]。
シュルホフの音楽的な特徴は、大きく分けて第一次世界大戦前と大戦後に分けられ、大戦前には師事を受けた教師や自らのレパートリーとした作曲家から大きな影響を受けたのに対し、大戦後には前衛芸術などの芸術運動や先進的な演奏会から計り知れない影響を受けている[27]。
演奏会や教師からの影響
[編集]幼少期には母親に数多くの演奏会に連れていってもらっており、そこで多くの音楽家から影響を受けている。特にグリーグの曲には強い影響を受け、「弦楽オーケストラのための3つの小品 WV 5」などグリーグを讃えた曲も作曲している[8]。また「牧神の午後への前奏曲」や「ペレアスとメリザンド」(1908年の初演時に観劇している)などといったドビュッシーの音楽からも非常に大きなインパクトを受けており、後年「ピアノのための4つの絵画 WV 22」「ピアノのための小品 WV 23」(ともに1913年)などドビュッシーに影響を受けたピアノ曲を作曲している[8]。また前述のとおり、師事したレーガーからも強い影響を受けており、レーガーに師事していた頃にも、レーガーに影響を受けた「ヴァリエーションとフーガ WV 5」などの作品を残している[9]。
ジャズとの出会い
[編集]第一次世界大戦後には、シュルホフはジャズのリズムにインスピレーションを見出し、ジャズの影響を受けた作品を数多く残している。シュルホフはヨーロッパの作曲家で最初にジャズを取り入れた作曲家の一人であり[28]、特にピアノ曲でジャズに影響を受けた曲が多く見られる[19]。シュルホフは第一次世界大戦後に参加したダダイスム運動のメンバーの一人、ジョージ・グロスのスタジオで、彼が所有していたジャズレコードの膨大なコレクションに触れ、ジャズに親しんだものと考えられている[13][19]。ジャズに影響を受けて作曲した最初の作品は、ピアノ独奏曲である「5つのピトレスク(音画)作品31 WV 51」(1919年)であり、シュルホフはこの曲をグロスに献呈している[13]。
シュルホフはジャズをダンス・ミュージックとして扱ったが[29]、その一方で、古い様式の音楽を攻撃するため[30]、既存の音楽作品を否定するダダの活動にふさわしい題材としてもジャズを扱っており、グロスらのビジュアルアートと平行してこのようなジャズを取り入れた作曲活動を行なっている[19]。またヨーロッパでの演奏旅行などを通して、ピアニストとしてのレパートリーを増やす中で、ピアノ曲の技巧的な限界を追求するショパンやリスト、スクリャービンなどに触れ、そこからピアノ曲の様式などについて影響を受けている[16]。
ダダから前衛へ
[編集]ダダイスムから感化された実験的な手法を用いた作品も知られており、耳障りな不協和音をリズムに挿入するなど、現代のポピュラー音楽にも通じる手法を用いた曲もある[5]。全曲が長さの異なる休符とアゴーギクのみからなる「5つの演奏会小品 作品3」の第3曲「In futurum」は、典型的なダダ的風刺がこめられた作品であるとされている[2]。そのほか女声と効果音からなる「シアター・ピース WV 197」、女性の喘ぎ声と水音を組み合わせた「ソナタ・エロティカ WV 197」など、第二次世界大戦後の前衛音楽を先取りしたような作品もある。
シュルホフは旧習を否定するために前衛的な試みを支持していたが、実験のための実験には反対する立場をとっていた[2]。前衛的な作曲技法である十二音技法を推し進めたシェーンベルクについての文章も残しているが、シュルホフはシェーンベルクの音楽的哲学には共感できず、「リズムを欠いた騒々しいだけの音楽である」と評しており、自ら十二音技法を作曲に用いることもなかった[21]。これはシュルホフが、芸術音楽と大衆音楽の溝を埋めたいと思っており、「音楽は決して哲学ではない!(中略)ブルジョワだけが音楽は哲学であると信じている」として、哲学的な音楽の捉え方を否定していた[2]ためであった。ただしシェーンベルクの楽曲に見られる、緻密なフレーズとダイナミックな表現に織り交ぜられる主題的な旋律については、シュルホフも高く評価している[17]。またシュルホフは音楽におけるリズムの重要性を強調しており、リズムを通した肉体的な至福感や、そこから得られる恍惚感を重視していた[2]。
作品
[編集]舞台作品
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 備考 |
---|---|---|
バレエ「オゲララ」作品53 WV 64 | 1922-1924 | |
夢遊病の者:グロテスクな踊り WV 78 | 1925 | パーカッションのみで演奏する「Step (without music)」という楽章がある[5]。 |
歌劇「炎」作品68 WV 93 | 1928/1932 | |
オラトリオ「HMS Royal Oak」 | 1930 | イギリスの戦艦であるロイヤル・オークへの風刺がこめられている[31]。 |
交響曲
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 備考 |
---|---|---|
交響曲第1番 作品5 WV 76 | 1925 | ターリヒに献呈[32]。初演は1928年にクライバーによって行われた[32]。 |
交響曲第2番 作品81 WV 101 | 1927 | イラークに献呈され、初演もイラークによって1935年に行われた[32]。 |
交響曲第3番 作品85 WV 118 | 1937 | 死後の1950年に初演された[24]。 |
交響曲第4番 作品88 WV 123 | 1936-1937 | |
交響曲第5番 作品89 WV 125 | 1938-1939 | |
交響曲第6番 作品94 WV 138 | 1940-1941 | 「自由の交響曲」(合唱つき) |
交響曲第7番 WV 139 | 1941-1942 | 未完[33] |
交響曲第8番 作品99 WV 141 | 1941-1942 | 未完[33][34]。編成は管弦楽と混声合唱が予定されていた[34]。ナクソスレーベルの KZ MUSIK シリーズで、ピアノと男声合唱版として音源化されている[35]。 |
協奏曲
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 編成 | 備考 |
---|---|---|---|
ピアノ協奏曲第1番 作品11 WV 28 | 1913-1914 | pf, Orch | |
ピアノ協奏曲第2番 作品43 WV 66「ジャズ風に(アラ・ジャズ)」 | 1923 | pf, Orch | 同じくジャズを取り入れたジョージ・ガーシュウィンのピアノ協奏曲よりも2年早く作曲された。 |
フルート、ピアノと管弦楽のための二重協奏曲 作品63 WV 89 | 1927 | pf, Orch | |
弦楽四重奏と管楽器のための協奏曲 WV 97 | 1930 | sq, wind | ラジオでの演奏のために作曲[14]。 |
室内楽曲・器楽曲
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 編成 | 備考 |
---|---|---|---|
室内管弦楽のための組曲 作品37 WV 58 | 1921 | Chamber Orch. | |
弦楽六重奏曲 作品45 WV 70 | 1920-1924 | 2vn, 2va, 2vc | |
弦楽四重奏のためのディヴェルティメント 作品14 WV 32 | 1914 | sq | |
弦楽四重奏のための5つの小品 WV 68 | 1923 | sq | |
弦楽四重奏曲第1番 作品8 WV 72 | 1924 | sq | |
弦楽四重奏曲第2番 WV 77 | 1925 | sq | |
フルート、ヴィオラ、コントラバスのための小協奏曲 WV 75 | 1925 | fl va cb | |
オーボエ、クラリネットとファゴットのためのディヴェルティメント WV 87 | 1925 | ob, cl, fg | |
ヴァイオリンとピアノのための組曲 作品1 WV 18 | 1912 | vn, pf | |
ヴァイオリン・ソナタ第1番 作品7 WV 24 | 1913 | vn, pf | |
ヴァイオリン・ソナタ第2番 WV 91 | 1927 | vn, pf | |
チェロ・ソナタ 作品17 WV 35 | 1914 | vc, pf | |
ホット・ソナタ アルト・サクソフォーンとピアノのための 作品70 WV 95 | 1930 | altosax, pf | |
低声のうぐいす コントラファゴットのための 作品38 WV 59 | 1922 | cfg |
ピアノ曲
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 備考 |
---|---|---|
5つのピトレスク(音画)作品31 WV 51 | 1919 | |
ピアノ・ソナタ第1番 WV 69 | 1924 | |
ピアノ・ソナタ第2番 WV 82 | 1928 | |
ピアノ・ソナタ第3番 WV 88 | 1927 | |
ジャズ様式の5つの練習曲 作品58 WV 81 | 1926 | |
6つのジャズ風のスケッチ | 1927 | |
ジャズの舞踏組曲 作品74 WV 98 | 1931 |
歌曲
[編集]作品タイトル | 作曲年 | 備考 |
---|---|---|
4つの歌 作品2 WV 19 | 1912 | |
3つの歌 作品14 WV 12 | 1914 | |
風景 作品26 WV 44 | 1918-1919 | |
人間性 作品28 WV 28 | 1919 | |
ソナタ・エロティカ WV 197 | 1919 | |
5つの歌 | 1919 | |
雲のポンプ 作品40 WV 61 | 1922 | |
共産党宣言による交唱曲 作品82 | 1932-1933 | 『共産党宣言』に基づくカンタータ。 |
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c Gayda (1995) p.10
- ^ a b c d e f g h i j k l Krejci, Sarka. Ervin Schulhoff: a musician without prejudices. Czech Music (Jul. 1, 2006) [1] (2011年11月3日閲覧)
- ^ Bek (1995) p.12
- ^ a b Gogichashvili (2003) p.iv
- ^ a b c d Gayda (1995) p.12
- ^ Fred Mazelis (2004) The rediscovered music of Erwin Schulhoff. World Socialist Web Site
- ^ a b c d e f g Gogichashvili (2003) p.4
- ^ a b c Gogichashvili (2003) p.7
- ^ a b c d e Gogichashvili (2003) p.5
- ^ Gogichashvili (2003) p.6
- ^ Gogichashvili (2003) p.8
- ^ a b c Bek (1995) p.12
- ^ a b c d e f Gayda (1995) p.11
- ^ a b c d e f g h i j k l m Biography of Erwin Schulhoff (Written by Derek Katz) The OREL Foundation [2] (2011年11月9日閲覧)
- ^ a b c d e f Bek, Josef. Editions of Erwin Schulhoff. Czech Music (May 1, 2002) [3] (2011年11月3日閲覧)
- ^ a b Gogichashvili (2003) p.9
- ^ a b Gogichashvili (2003) p.10
- ^ 『シュールホフ:ピアノ協奏曲「アラ・ジャズ」他』(DECCA UCCD-3448)ライナーノーツ p.8
- ^ a b c d Schulhoff "Jazz-inspired piano works" booklets (written by Dana Melanova) Supraphon 1993.
- ^ Holzknecht, p. 305
- ^ a b Gogichashvili (2003) p.12
- ^ a b Bek (1995) p.13
- ^ Bek (1995) p.16
- ^ a b Schulhoff "Symphonies Nos.3 and 5" booklets (written by Nad'a Dvorska) Supraphon 1995.
- ^ Gogichashvili (2003) p.13
- ^ Gogichashvili (2003) p.3
- ^ Gogichashvili (2003) p.2
- ^ a b Paul Brody "Paul Brody's Far from Sadawi Moldova" booklet. Morgenland ml7001
- ^ Susan C. Cook, 1989. Jazz as Deliverance: The Reception and Institution of American Jazz during the Weimar Republic. American Music, Vol. 7, No. 1, Special Jazz Issue. pp. 30-47.
- ^ Bek (1994) p.11
- ^ “Erwin Schulhoff”. exil-archiv. Else Lasker-Schüler-Foundation. October 18, 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。3 September 2009閲覧。 (ドイツ語)
- ^ a b c Schulhoff "Symphonies Nos.1 and 2" booklets (written by Nad'a Dvorska) Supraphon 1995.
- ^ a b Whitehouse (2010) p.2
- ^ a b Gogichashvili (2003) p.32
- ^ Mark L. Lehman 2009. In American Record Guide November-December 2009.
参考文献
[編集]- Bek, Josef (1994) Schulhoff "Ensemble works vol.1" booklet (Channel Classics CCS 6994)
- Bek, Josef (1995) "ERWIN SCHULHOFF Flammen - A work of 'boundless fantasy'" Schulhoff:Flammen (DECCA ENTARTETE MUSIK 444 630-2)
- Gayda, Thomas (1995) "FRANZ SCHREKER, ERWIN SCHULHOFF, PAUL HINDEMITH - Dance pantomimes, Dance grotesque" (DECCA ENTARTETE MUSIK 444 182-2)
- Gogichashvili, Eka (2003) Erwin Schulhoff (1884-1942) - A Brief History; Examination Of The Sonata For Violin And Piano (WV 91). Doctor of Musical Arts (D.M.A.) of Louisiana State University Title page for ETD etd-1111103-195959
- Holzknecht, Václav (2007). Jaroslav Ježek a Osvobozené divadlo. Prague: Arsci. ISBN 978-80-86078-67-0.
- Whitehouse, Richard (2010) "Erwin Schulhoff (1894–1942) String Quartets Nos. 1 and 2 • Five Pieces for String Quartet" (NAXOS 8.570965)