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{{性的}}
{{出典の明記|date=2007年1月以前}}
[[File:Jules Arsene Gardier - Le Droit Du Seigneur (retouched).jpg|right|thumb|350px|[[1872年]]に描かれた、初夜権を題材にした[[フランス]]の絵画(Jules Arsène Garnier (1847-1889))。初夜権が存在しない時代に描かれた想像上のもの。]]
[[File:Jules Arsene Gardier - Le Droit Du Seigneur (retouched).jpg|right|thumb|350px|[[フランス]]出身の画家ジュール・アルセーヌ・ガルニエ([[:de:Jules Arsène Garnier|Jules Arsène Garnier]]、[[1847年]]-[[1889年]])が[[1872年]]に発表した絵画「初夜権(Le Droit du Seigneur)」。中央に[[領主]]と新婦([[妻]])、左側に新郎([[夫]])と説得する[[神父]]、周辺に警護する[[家臣]]やそれらを見物する[[民衆]]が描かれている。ガルニエが初夜権の様子を想像して描いた絵画である。]]
'''初夜権'''(しょやけん)とは、領主・聖職者等が新しい夫婦の新婚初夜に花嫁と[[性行為|性交]]をする[[権利]]のことである。世界各地であったとされているが、[[歴史]]上本当に実在したかについては論争がある(後述)。

'''初夜権'''(しょやけん)とは、主に[[中世]]の[[ヨーロッパ]]において[[権力者]]が統治する地域の新婚[[夫婦]]の初夜に、新郎([[夫]])よりも先に新婦([[妻]])と[[性交]](セックス)することが出来たとする権利である。世界各地で散見されたという[[伝説]]や[[伝承]]は多く残っているが、その実在については疑問視する専門家が多い。
==概要==
==概要==
'''初夜権'''(しょやけん)とは、[[領主]]や[[酋長]]などの[[権力者]]、または[[神父]]や[[僧侶]]などの[[聖職者]]、あるいは[[長老]]や年長者といった[[世俗]]的人格者などが、所有する[[領地]]や統治する[[共同体]]において、[[婚約]]したばかりの男女や[[結婚]]したばかりの新婚[[夫婦]]が存在した場合、その初夜において新郎([[夫]])よりも先に新婦([[妻]])と[[性交]](セックス)することが出来る権利を指す。または、[[成人]](大人)の年齢や[[結婚適齢期]]を迎えた女性と何らかの[[性行為]]を行い、その[[処女]]性を奪うことが出来る権利なども指す。<ref name="a">辞書「[[日本国語大辞典]] 第ニ版」([[小学館]]、[[2006年]])第7巻、辞書「[[広辞苑]] 第六版」([[岩波書店]]、[[2008年]])などの項目「初夜権」より。</ref><ref name="b">辞典「[[世界大百科事典]] 改定版」([[平凡社]]、[[2007年]])第14巻の項目「初夜権」より。</ref><ref name="c">辞典「世界宗教大事典 第三刷」([[平凡社]]、[[1991年]])の項目「初夜権」より。</ref><ref name="d">辞典「社会科学大辞典 第四刷」([[鹿島出版会]]、[[1971年]])第10巻の項目「初夜権」より。</ref>
[[中世]]東アジアや[[古代]]中東、[[東南アジア]]、中世ヨーロッパ、などでは、結婚儀式をとりおこなった後、[[権力]]者(領主や[[僧侶]]など)が、夫よりも先立って[[処女]]の花嫁と寝て[[性行為|性交]]を行うことが認められていたという説がある。そして、この権利は新郎が金銭と引き換えに権力者から取り戻すことが可能であったとされる。
処女と性行為をすることは災難を招く云々の[[迷信]]が信じられている場合、特別の権威を有する領主や聖職者にそれを取り除く機能が期待されていたとも言われる。もちろん領主や聖職者の性的な欲求との合致もまた理由の1つである。女性に対し婚姻以前の不貞の有無を問う事を難しくする機能も果たした。


初夜権について記録された文献は古今東西に多く存在しているが、伝聞や伝承の記録に留まることが多く、その真偽については「形骸化された儀式や儀礼(セレモニー)」や「結婚税などの徴収理由として方便化したり風聞化したもの」、あるいは「成人への通過儀礼を拡大解釈したもの」などと看做す専門家が多い。後述の「[[初夜権#真偽|真偽]]」も参照のこと。
また、法となっていないまでも世界各地にこれと類似した風習があったという。また女性の領主や聖職者の新郎に対する初夜権を認める地域もあった。


しかし、性交するまでの権利があったことを示す確固たる証拠は少なく、「初夜権」の制度が廃れ始めた時代に形成された不確かな伝承であると言う説もある。領主の権利として、新婦は領主の所有物であり(と言っても結婚初夜の初交まで奪う権利があると言う訳ではなく)、新郎が新婦を領主から買う、また特に違う領主の下に暮らす男女が結婚する場合、労働力としての女性が別の領主の下に行く代償としての「結婚税」制度が曲解されたのが真相に近いと言う説もある。いかに腐敗していたとはいえ、[[カトリック教会|カトリック]]の[[聖職者]]が世俗の女性と性的関係を結ぶことが公認されていたとは考え難く、いわば税を取り立てるための手段としての法律であったと考えるのが妥当である。


==語源==
類似の風習としては、[[ヘロドトス]]によれば、紀元前5世紀の[[バビロン]]には女性は結婚を許可されるためには[[イシュタル]]の神殿で一度見知らぬ男性に身を委ねなければならない、とする風習(いわゆる神殿売春)があったとされるが、これもイシュタルに仕える女性神官の振舞いを見誤ったものだとする説がある。
初夜権の[[語源]]は、[[ラテン語]]の「ユス・プリマエ・ノクティス('''Jus Primae Noctis''')」が最初に[[意訳]]された言葉として知られる。「Jus」は「権利」、「Primae」は「最初の」、「Noctis」は「夜」である。<ref name="a"></ref><ref name="b"></ref><ref>辞書「古典ラテン語辞典」([[大学書林]]、[[2005年]])より。</ref>


現在は[[フランス語]]の「トゥワ・デュ・セニエル('''Droit du Seigneur''')」が初夜権を意訳する言葉として世界各国で知られており、直訳は「法の主」といった意味である。<ref name="c"></ref><ref name="d"></ref><ref>辞書「ロベール仏和大辞典」([[小学館]]、[[1988年]])、辞書「新和英大辞典 第4版」([[研究社]]、[[1974年]])など。</ref>
==問題点==
「初夜権」が実際に行使された場合、[[新婦]]の[[長子]]の[[父親]]の特定をめぐって混乱が生じることになる。また為政者の[[相続権]]保持者が多数存在することになってしまう。このことは支配の[[正統性]]を弱めることになる。また[[新郎]]の不満が被支配者間で共有されることによる社会不安を考えると為政者がこの権利を恒常的に行使していたとは考えにくい{{要出典|date=2008年2月}}。


[[英語]]では「ゴッズ・ライト(God's right)」で「[[神]]の権利」や「ローズ・ライト(Lord's right)」で「主の権利」などとして初夜権を意味したり、「ローズ・ファーストナイト(Lord's first night)」で「主の初夜」や「ライト・オブ・ザ・ファーストナイト(Right of the first night)」で「初夜の権利」とする場合が多い。<ref name="e">Alain Boureau著, Lydia G. Cochrane訳 "The lord's first night: the myth of the droit de cuissage."([[:en:University of Chicago Press|University of Chicago Press]], [[1998年]])。アメリカの[[シカゴ大学出版局]]による初夜権の研究書。英語のみ。[[南方熊楠]]も参考にした[[カール・シュミット]]([[:de:Carl Schmitt|Carl Schmitt]])の「初婚夜権」(Karl Schmidt " Jus Primae Noctis " Eine geschichtlicbe Untersucbung, 1881)が引用されている。なお、この研究書では、カール・シュミットをドイツ語発音の Karl Schmidt で綴っている。</ref>
==日本の例==
{{quotation|「同県(福島県)の太平洋岸の相馬郡八幡村の例で、昭和十六年に採集されたものがある。(省略)富沢の赤田三郎の家のオツタは、オナゴにならず床入りしたので、「いやだ」といって、どうしようもなかった。それでヨメゾイ(嫁添い)と聟とで床入りさせて無事にすんだことがあった。(省略)オナゴにしてもらっていないと、満足しない(うまく納まらない)とよくいわれたものだった」|藤林貞雄「性風土記」岩崎美術社}}
{{quotation|「聟の父親が花嫁と初夜をすごす例が宮城県下に明治初年まで行なわれていたことは、明治十六年二月十五日付の郵便報知新聞に、掲載されていた」|藤林貞雄「性風土記」岩崎美術社}}
{{quotation|「十年ほど前のことであるが、私は相馬郡松川浦へ行ったとき、そこにある年とった漁師から、かつてその人が、「俺の家の娘を頼む」などといわれて、手拭一筋ぐらいを貰って、婚前の少女を破瓜したことがしばしばあったことを聞いた」|太田三郎「女」黎明書房}}
{{quotation|「年頃の娘に一升と桃色のフンドシを景物として神主または老人に割ってもらう所あり。小生みずからも十七、八の女子が、柱に両手を押しつけるごとき威勢でおりしを見、飴を作るにやと思うに、幾度その所を通るも、この姿勢故、何のことかわからず怪しみおると、若き男が籤でも引きしにや、「おれが当たった」と、つぶやきながら、そこへ来たり、後よりこれを犯すを見たことあり」|[[南方熊楠]]全集第8巻}}


== 初夜権を題材とした作品 ==
*[[ギルガメシュ叙事詩]]
*[[ヴォルテール]]が初夜権を題材とした書いた喜劇 - 生前に演じられることはなかった
*[[フィガロの結婚]]
*[[ジョージ・オーウェル]]の『[[1984年 (小説)|1984年]]』
*[[ブレイブハート]]
*[[哀しみのベラドンナ]]


==類語==
== 外部リンク ==
初夜権の日本における[[類語]]には、「'''初婚夜権'''(しょこんやけん)」や「'''処女権'''(しょじょけん)」などがある。また、ごく少数ではあるが「'''股の権利'''(またのけんり)」や「'''股権'''(またけん)」という隠語が使用されることがある。<ref>「股の権利」や「股権」は、[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]や[[南方熊楠]]などが著書の中で使用している。なお、中国語の株式用語「股権(股権分置)」とは全く関係がない。</ref>
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24436_14407.html 折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」] - 日本の初夜権についてふれる


なお、女性の[[処女喪失]]や処女性が失われるような性行為は、古くは「'''破瓜'''(はか)」や「'''破素'''(はそ、はす)」などと呼ばれた。また、主に[[四国地方]]の古い[[方言]]とされる「新鉢」は、「あなばち」や「あらばち」と読み、「あなばち割る」や「あなばち破り(わり)」、「はち割り」などが処女喪失の儀式を意味するなど、様々な類語が存在している。<ref name="a"></ref><ref>「破瓜(はか)」という言葉は、「爪」の漢字が破れる(別れる)と「八」の2偏になることから、8の2倍で16歳になった女性を意味することもあった。また、女性が[[初潮]]を迎えたり性交を[[初体験]]するような[[思春期]]の時期を「破瓜期(はかき)」と称して意味することもあった。</ref><ref>辞書「[[日本国語大辞典]] 第ニ版」([[小学館]]、[[2006年]])第7巻の項目「あなばち割る」より。</ref>
{{DEFAULTSORT:しよやけん}}
[[Category:性の文化]]
[[Category:中世の伝説]]


==時代と地域==
{{history-stub}}
初夜権の時代と地域は、主に[[中世]]([[5世紀]]頃から[[15世紀]]頃)の[[ヨーロッパ]]で存在したとする説が多い。また、[[インド]]の[[ヒンドゥー教]]や[[東南アジア]]の[[仏教]]を[[信仰]]していた[[民族]]、[[北極圏]]の[[エスキモー]]や[[南米]]の[[インディアン]]の中に存在した[[祈祷師]]([[シャーマン]])を頼っていた人々などにも散見されたとする説が多い。<ref name="c"></ref><ref name="d"></ref>


[[1921年]]に[[博物学者]]の[[南方熊楠]]が、雑誌「[[太陽 (博文館)|太陽]]」([[博文館]])で発表した随筆「十二支([[干支]])考」の項目「鶏([[酉]])に関する伝説」では、[[ドイツ]]の[[法学者]][[カール・シュミット]]による[[1881年]]の著書「初婚夜権」が引用されている。この著書は、「フライブルヒ・イム・ブライスガウ(現:[[ドイツ連邦共和国]][[バーデン=ヴュルテンベルク州]]にある[[フライブルク]]市、Freiburg im Breisgau)」の役所が[[カトリック教会]]と共に出版した当時の歴史調査書であるが、この中では、ヨーロッパの他に[[インド]]、[[アンダマン諸島]](インドの[[ベンガル湾]]地域)、[[クルディスタン]]([[クルド人]]居住地域)、[[カンボジア]]([[チャム族]])、[[チャンパ]]([[ベトナム]]中部沿海地域)、[[マラッカ]]([[マレー半島]]西海岸南部)、[[マリアナ諸島]]([[ミクロネシア]]北西部)、[[アフリカ]]、[[南米]]や[[北米]]の原住民などに散見されたとしている。<ref name="e"></ref>

なお、初夜権を題材に取り入れた著名な物語に、[[フランス]]の作家[[カロン・ド・ボーマルシェ]]が[[1775年]]に発表した「[[セビリアの理髪師]]」の続編として[[1784年]]に書き上げ、[[1786年]]に[[オーストリア]]の作曲家[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]がオペラ上演した戯曲「[[フィガロの結婚]]」が知られている。この「フィガロの結婚」は、新郎フィガロから新婦スザンナを強引に奪い取ろうとする浮気者のアルマヴィーヴァ伯爵が様々に邪魔をして、初夜権を復活させようと企む喜劇である。この「復活させよう」と画策している様子からは、[[18世紀]]中期のヨーロッパにおいても既に風聞や伝説として考えられていたことが伺える。


==意義==
[[File:Le droit du Seigneur by Vasiliy Polenov.jpg|right|thumb|350px|[[ロシア]]出身の画家バシリー・ドミトリッチ・ポレノフ([[:en:Vasily Dmitrievich Polenov|Vasily Dmitrievich Polenov]]、[[1844年]]-[[1927年]])が[[1874年]]に発表した絵画「領主(Pravo gospodina)」。右側に[[領主]]、左側に[[結婚適齢期]]を迎えたと思しき若い女性たちとそれを紹介する長老(恐らく[[正教会]]の神父を兼任する村の代表者)、左側後方に[[衛兵]]とこれを見守る村人が描かれている。]]
初夜権の意義、または発生原因には、諸説あるものの「権力的意義」「呪術的意義」「貞操的・身体的意義」の3つに大別することができる。なお、初夜権の一般的な解説の際にはこれらを組み合わせて紹介することが多い。

===権力的意義===
:[[権力者]]の[[所有権]]として、[[処女]]の女性や初婚の女性が土地や年貢と同一視されていたとする説がある。または、結婚税などと称して徴収されていた[[税金]]に対する反感が、「支払うことができれば妻の処女を権力者から取り戻せる」といった風説として変化しながら初夜権になったとする説などがある。なお、これらの税金は「処女税(しょじょぜい)」や「肌着金(はだぎきん)」と呼ばれたという。また、フランス語の「Droit du Seigneur」が広く知られるようになったのは、[[フランス国王]]があらゆる所有権を持つと制定されていたものの、これを完璧に個別行使することは不可能であり、転貸として地方の領主や富裕層などへ譲渡することで代行役として認め、この中に初夜権があったとされる為である。<ref name="e"></ref><ref name="f">辞典「新社会学辞典」([[有斐閣]]、[[1993年]])の項目「初夜権」より。</ref>

===呪術的意義===
:処女の血を忌み嫌う[[風習]]や[[迷信]]があった為、出血の可能性がある[[処女喪失]]の際、これを回避できるのは[[神]]の代理人や[[悪魔払い]]が可能な[[聖職者]]や[[祈祷師]]([[シャーマン]])、または神と同等と看做された権力者だけだったとする説がある。また、[[16世紀]]から[[17世紀]]に盛んだった迷信に[[魔女狩り]]があり、[[悪魔]]が処女の血を好むため、同時期の初夜権には新婚夫婦が厄災に見舞われないように代行する意味が籠められていたとする説などがある。なお、処女に対して重要な意味を持たせた[[宗教]]や[[呪術]]は古今東西に多く存在しており、[[11世紀]]の[[カトリック教会]]では、処女であることを見極めるために[[視診]]や[[触診]]による糾問法(きゅうもんほう、検査法)が定められていた。[[15世紀]]のフランスで「聖処女」と呼ばれた[[ジャンヌ・ダルク]]も、[[ベッドフォード公爵]]とその夫人がこの糾問法に従って検査を実施している。また、地域や時代によっては、処女に[[死刑]]判決が出た場合、執行までに第三者が性交を済ませておくことで神や悪魔からの厄災を避けるような風習もあったという。後述の「[[初夜権#初夜の忌|初夜の忌]](トビアの晩)」も参照のこと。<ref name="e"></ref><ref name="f"></ref><ref name="g">[[清水正二郎]]著「世界史の美しい裸女たち」(新風出版社、[[1970年]])。フランスの[[ブザンソン]]図書館に残るとされる、[[11世紀]]に発行された「カトリック教会年報」には、聖パトリシア修道会糾問士(検査官)ニコラス・ザンヌベチャによる記述で、[[処女膜]]とは[[膣]]の「入口をふさぎ、通常小指一本のみ通過する裂口なり。もしその裂口の周辺がさけ、粘膜の形、花弁のごとく前後に折れ倒れたるときは、すでに男性を知り足るものとして、その少女をきびしく鞭打つべし」などと解説されているという。なお、[[1999年]]に公開された[[リュック・ベッソン]]監督のハリウッド映画「[[ジャンヌ・ダルク (映画)|ジャンヌ・ダルク]]」にも処女検査の様子が登場するが、ここでは[[助産婦]]の経験があると思しき数人の[[尼]]たちが検査を担当している。</ref><ref name="h">[[桐生操]]著「やんごとなき姫君たちの秘め事」([[角川文庫]]、[[1997年]])の項目「真正なる初夜権」より。文中に「初夜権が、フランスでは十六世紀ごろまで、ロシアでは十九世紀まで存続していた」とあり、その前後に「いいな、そんな役目、うらやましいな、などとハシャぐのはまだ気が早い」や「領主にとって農夫の娘たちは、いわば無料の娼婦だったというわけだ」、「そんなことから、処女崇拝の習慣が、なお高まったのかもしれない」などとあり、これらは多少恣意的に表現されたものと思われる。</ref>

===貞操的・身体的意義===
:[[世俗]]的な人格者などが、新郎に対してその新婦が確かに処女であったと確認または保証するためだったとする説がある。また、新郎よりも先に信頼のおける人物などが性交を済ませることで、仮にその新婦が過去に[[不貞行為]]を犯していた場合(何らかの理由で既に[[処女膜]]を喪失していたような場合でも)、これを不問にすることが出来た(または結婚を考え直すように促すことが出来た)とする説がある。あるいは、性的経験が豊富な年長者などがその女性の[[成人]](大人)への[[通過儀礼]]を担当していたことなどが初夜権に発展したとする説などがある。また、その女性の貞操よりも、子孫繁栄を維持できる身体に成長しているかどうかを重視して、これを確認する儀式だったとする説も多い。<ref name="e"></ref><ref name="f"></ref><ref name="i">江守五夫著「現代教養文庫:結婚の起源と歴史」([[社会思想社]]、[[1965年]])、同著「日本の婚姻 その歴史と民俗」([[弘文堂]]、[[1986年]])、同著「婚姻の民俗 - 東アジアの視点から」([[吉川弘文館]]、[[1998年]])同訳・E. A. Westermarck 著「人類婚姻史」(社会思想社、[[1970年]])より。後者の原題は「A SHORT HISTORY OF MARRIAGE」で、[[フィンランド]]の[[文化人類学者]][[エドワード・ウェスターマーク|エドワード・アレクサンダー・ウェスターマーク]]([[:en: Edvard Alexander Westermarck|Edvard Alexander Westermarck]])が[[1929年]]に発表した研究書である。彼は、幼児が成長と共に近親者への性的興味を失う様子を分析した[[ウェスターマーク効果]]([[:en:Westermarck effect|Westermarck effect]])でも知られる。なお、様々な文献でよく引用される「スイスのチューリッヒやドイツのバイエルンで初夜権を拒否した場合の罰金や罰則」の事例は、ウェスターマークの研究書から引用されていることが多い。また、スイスの多くはドイツ語圏であることから、通貨単位が[[ドイツマルク]](DME)で記述されているが、現在のスイスの公式通貨は[[スイスフラン]](CHF)である。</ref>

===拒否===
前述した初夜権の意義に反し、新婚夫婦が拒否する場合は様々な[[罰金]]や[[罰則]]が課されたという。事例として、[[1538年]]に発行された[[スイス]]北部の[[チューリッヒ]]州議会の布告によると、初夜権を拒否する場合は新郎が4マルク30ペニヒ(1[[マルク (通貨)|マルク]] Mark = 100[[ペニヒ]] Pfennig)の罰金を支払わなければならないと定められていた。また、[[ドイツ]]南部の[[バイエルン]]地方では、初夜権を拒否した新郎は「上衣か毛布」を、それと合わせて新婦は「自分の尻が入るサイズの大鍋」か「自分の尻と同じ重さのチーズ」を罰則として納めなければならない習わしがあった。ただし、これらが所謂「形骸化した儀式や儀礼([[セレモニー]])」であった可能性は高く、結婚税に相当する税金の徴収理由や呪術的な厄払理由として都合よく正当化されたり通俗化された方便に過ぎなかったとする説も多い。<ref name="i"></ref>

==真偽==
古今東西で初夜権について言及した文献は多いが、風聞や又聞き、[[伝説]]や[[伝承]]を記録したものがほとんどである。[[1931年]]の「ウルトラ・モダン辞典」(一誠社)では「婚姻史の教ふ所に拠れば、初夜権は必ずしも花婿の専有でなく、或は[[神主]]、或は[[媒酌人]]その他がそれを有した時代もあったさうである」と、伝聞形式でそののまま解説として掲載している。<ref>辞書「[[日本国語大辞典]] 第ニ版」([[小学館]]、[[2006年]])第7巻の項目「処女権」より。</ref>

なお、この「婚姻史」とは、[[1928年]]に[[民俗学者]]の[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]が発表した著書「日本婚姻史」を指すが、この本の第一節に「初夜権の行使は団体婚の遺風(いふう、名残り)」とする章がある。中山は「(農村や漁村などの)部落の共有であった女子が共同婚([[複婚]]や[[乱婚]])から放たれて、一人の特定する男子の占有に帰するために科された義務」と述べているが、その書き出しには「本書の埒外(らちがい、範囲外)に出るので省略するが、私見を素直に言えば」との但し書きも加えている。<ref name="j">[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]著「日本婚姻史」([[春陽堂]]、[[1928年]])の第一節「初夜権の行使は団体婚の遺風」より。民俗学者の中山太郎([[1876年]]-[[1947年]])は、[[南方熊楠]]や[[柳田邦夫]]とも親交があった。ただし、研究スタイルは[[フィールドワーク]](現地調査)よりも、歴史書などの文献調査を重視する傾向にあった。なお、政治家の中山太郎は全くの別人。</ref>

「日本婚姻史」は貴重な民族史の記録であるが、このように信憑性が検証できるような専門家による文献でさえも、「聞いたことがある」や「そうだったのではないか」程度の推測に留まるものが多く、一般的に解釈される初夜権の実在についてはほとんどの文献で真偽が断定されていない。また、風聞や又聞きであった場合は、かなり恣意的な誇張表現や拡大解釈に過ぎた記述も多く、それらの「実在した」とする説は信憑性を疑わざるを得ない。ただし、実際に時間を遡ることは不可能であり、過去の歴史文献に頼らざるを得ず、また、非常にプライベート性の高い風習であるが故に確認が困難であるといった要素なども多々ある。ただし、少なくとも、民俗学の基本である[[フィールドワーク]](現地調査)によって実際に「初夜権の行使」あるいは「同等の性行為」を「著者自身が見た」とする文献はごく稀である。<ref name="h"></ref><ref name="j"></ref>

その為か、[[社会学者]]の井上吉次郎などは、「中世初期の無法時代」などに「たまたま行われたことはあったかもしれない」が、「人非人(ひとひにん、人で無し)の貴族」または「暴力的俗王と同じ範疇の俗僧の神の名による詐術(さじゅつ、[[詐欺]])」の範疇であり、権利と称して公式に認められるような性行為の史実はなく、「永久に西欧史上の[[神話]]かと考えられる」と、ほぼ完全に否定している。<ref name="d"></ref>


==日本==
[[日本]]における初夜権の存在は、古代の[[神事]]や[[祭祀]]を起源としたり、地方の風習に痕跡や類似が散見できると推測する専門家は多いものの、存在の有無まで断言している文献は少ない。
ただし、世界各国のあらゆる宗教や風習と同様に、成人(大人)になる若者を年長者が祝福し、それを村や町などの共同体の人々に紹介するような[[通過儀礼]]はごく日常的に存在していた。また、処女の女性、あるいは成人に達していない[[未婚]]の女性の所有権が神にあるとする考え方が存在していた為、結婚した最初の数日間は神に敬意を表する意味合いで性交を禁じる風習(後述の「[[初夜権#初夜の忌|初夜の忌]]」を参照)や、新婚夫婦に厄災が降りかからぬように第三者の男性が新婦や処女との性交を代行した事例は散見されている。<ref name="i"></ref><ref name="j"></ref>

従って、これらの風習や儀式を拡大解釈するという前提であれば、初夜権またはそれと同等の性行為が過去の日本に存在したのではないかと推測する専門家は多い。また、神事や祭祀であることから、あくまでも形骸化した儀式や儀礼(セレモニー)へ変化し、近代になるにつれ実際に処女を奪うような性行為そのものは衰退していったとする専門家も多い。<ref name="i"></ref><ref name="j"></ref>

===古代===
[[古代]]の[[神道]]において、神と交流できるのは、男性であれば[[神主]]、女性であれば[[巫女]]のみであった。従って、まだ[[精通]]経験のない男性や[[童貞]]の男性、[[初潮]]経験のない女性や処女の女性は、神や共同体の所有物であり、彼らを成人の社会へ導けるのは神主や巫女のみとされた。ここから、処女や新婦の女性を臨時的に巫女と同等に看做し、神の代行役である神主や媒酌人が性交することで神の怒りや厄災を回避したとする説がある。また、こういった考え方を受け継いだ風習が近代前後まで各地に残っていたとする説も多い。<ref name="j"></ref><ref name="k">[[折口信夫]]著「古代研究」(大岡山書店、[[1929年]])第一部「民俗学篇」の項目「古代生活の研究」「水の女」「最古日本の女性生活の根柢」より。[[民俗学者]]であり[[国文学者]]でもあった折口信夫([[1887年]]-[[1953年]])は[[歌人]]でもあり、著書は多い。[[同性愛者]]だったことでも知られる。彼の研究を学問として体系化した「[[折口学]]」も参照のこと。</ref>

なお、前述した[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]の著書「日本婚姻史」では、[[奈良時代]]の「[[日本書紀]]」(允恭紀)や[[平安時代]]の「[[本朝文粋]]」([[意見十二箇条]])などを事例に挙げ、神主や「座長(かみのくら)が処女を要求できた」とする説を紹介しつつ、「一種の呪術として処女膜を破る儀式」などが、現代では一般的に解釈される初夜権と同一視されがちだが「似て非なるものであることを注意されたい」と述べている。<ref name="j"></ref>

一方で、民俗学者の[[折口信夫]]は[[1926年]]に雑誌「人生創造」(人生創造社)に発表した「古代研究」の中で、少なくとも奈良時代以前の神主は初夜権と看做してよい権利を持ち、現人神(あらひとがみ)と看做された豪族などは「村のすべての処女を見る事の出来た風(確認することが可能だった世情)」が、近代まで残っていたと述べている。また、朝廷に従える[[采女]](うねめ)や「巫女の資格の第一は神の妻(かみのめ)となり得るか」どうか、つまり処女であるかどうかが重視されており、たとえ常世神(とこよのかみ、神の代理役)であっても現実的に貞操を守り続けることは困難であった為、処女や新婦は一時的に「神の嫁として神に仕へて後、人の妻(ひとのめ)となる事が許される」ような儀式へと変化し、これらが「長老・君主に集中したもの」が初夜権と同等であっただろうと述べている。また、「神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方」などもあった為、当時の性に対する感覚や処女の立場、初夜権の発生原因などを理解しないと「[[古事記]]・[[日本紀]]、或は[[万葉集]]・[[風土記]]なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多い」とも述べている。<ref>[[折口信夫]]著「古代研究」(大岡山書店、[[1929年]])第ニ部「国文学篇」の項目「『とこよ』と『まれびと』と」より。「折口信夫全集4」([[中央公論社]]、[[1995年]])に所蔵されている。</ref><ref name="l">[[折口信夫]]著「古代研究」(大岡山書店、[[1929年]])第ニ部「国文学篇」の項目「古代生活に見えた恋愛」より。「折口信夫全集1」([[中央公論社]]、[[1995年]])に所蔵されている。折口は「おえびす様」を「えびす様」と表記し、中部地方としている。「琉球」については沖縄地方としている。</ref><ref>雑誌「人生創造」は、[[1924年]]に啓蒙家で文筆家の[[石丸梧平]]が妻と共に創刊した。</ref>

===近代以前===
近代以前を[[1900年]]頃よりも前として定義し、初夜権やその名残りとして記録された主な事例を北から南の地方順に挙げる。なお、文末括弧にある名前は、(中山)が民俗学者の[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]、(折口)が民俗学者の[[折口信夫]]による著書からの抜粋である。
;[[陸奥国]](現:[[東北地方]]の主に太平洋側)
:花嫁が「自分の親族中の未婚の青年と通じてから華燭の式(かしょくのしき、結婚式)を挙げ、花婿はその後において専占」できる風習があった。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[羽前国]](現:[[山形県]])
:まず「媒酌する者(仲人)が花嫁となるべき者を貰い受け」て自宅へ戻り、「三晩の間は自分の側に起臥(きが、寝起き)させてから、百八個の円餅(まるもち)をつくり、それを媒酌人が背負い花嫁を同行して新婚の家に」赴いて、結婚式を挙げる風習があった。(中山)<ref name="j"></ref><ref>日本「近代以前」、[[羽前国]]の108個の円餅の事例は、[[南方熊楠]]も江戸時代の[[本草学者]](医者)、[[佐藤中陵]]の著作による随筆「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)第11巻」の中に同様の記述があるとしている。</ref>
;[[陸前国]](現:[[宮城県]])
:「おはぐろつけ」と称する風習があった。これは結婚式の前日に、近所の若い男性を対象に「新婦が目星をつけていた青年に身を任せ」るものだった。また、「青年が新婦を誘い出してもよく、また新婦の家に忍び込むのも差し支えなく、家族もこれを公然と認許(にんきょ)」し、「新郎もまた黙諾(もくだく)」していた。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[陸前国]](現:[[宮城県]])
:明治初年([[1868年]]頃)まで「聟(婿)の父親が花嫁と初夜をすごす」風習があった。これは、[[1883年]]2月15日付の「郵便報知新聞([[報知新聞]]を経て現:スポーツ[[報知]])」に掲載されていた。(藤林貞雄著「性風土記」より)<ref name="m">藤林貞雄著「性風土記」([[岩崎書店]]、[[1959年]])より。この本は後に、岩崎美術社から数回「民俗民芸双書シリーズ」として再刷されている。</ref>
;[[下野国]](現:[[北関東]])
:「土地の者の記憶」によると、「媒酌人八番(なこうどはちばん)なる俚諺(りげん、[[諺]])」の風習があった。これは、媒酌人が新婦に対して新郎よりも優先的に8回の性交が出来る権利があることを意味していた。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[下野国]](現:[[北関東]])
:結婚式の初夜に「お連れ様(おつれさま)という者を帯同させる」風習があった。初めての「床のべ(とこのべ、同衾)」の際、「お連れ様は無遠慮にも新夫婦と共に同じ室に枕を並べて寝るのが礼儀」であり、新婚初夜に新郎新婦が性交することはなかった。これは、中山の故郷である[[栃木県]][[塩谷郡]]栗山郷の調査で記録されており、「山間の僻村(へきそん)で、昔は他人の顔は一年中にも数えるほどしか見られぬと言われた土地」だった為、「婚姻は概して近親同士」であることが多く、「しかも山では恋を知るのが早く、ことごとく早婚」であったという。また、中山は「娘十三嫁(ゆ)きたがる(娘も13歳になれば結婚したがる)」という風潮で、「都会であれば通学盛りの小娘が、この地では立派に母親となって」いる土地柄だったという。なお、中山はこの風習を「古くはお連れ様なる者が初夜権を行使したのを、かく合理的に通俗化した」名残りではないかと述べている。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[能登国]](現:[[石川県]])
:結婚式に新郎は参列せず、別の場所で最初に舅姑(きゅうこ)などの[[義親]]とだけ盃事をする風習があった。新郎と新婦が出会うのは結婚式の後である。中山は「初夜権の実行される期間に、新郎が逃避した」名残りであろうと述べている。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[三河国]](現:[[愛知県]])
:初夜は「おえびす様にあげる」と称して「新夫婦が合衾(ごうきん)せぬ」風習があった。中山は「[[蛭子神]](ひるこ)の名に隠れて古代の神官が、初夜権を行使した」名残りではないかと述べている。(中山)<ref name="j"></ref> (折口)<ref name="l"></ref>
;[[山城国]](現:[[京都府]])
:「花嫁は近所の女達が送って新婿の家に行くが、家に着くと一応両親に挨拶して、すぐたすきをかけて勝手を出て(台所などで)手伝いする。そして夫婦の盃事もせず、その夜は合衾せぬ」風習があった。中山は「古い世相は、新婦に対して初夜権を行使される間だけ新郎が所在を隠し、またはわざと合衾を避けた」名残りではないかと述べている。(中山)<ref name="j"></ref>
;[[淡路国]](現:[[兵庫県]])
:新郎の最も親しい友人3名が新婦を「[[天神様]]と俚称(りしょう)する鎮守の森に誘い出して交会する」風習があった。「花嫁はこの義務を果たしてからでなければ花婿」と会うことが許されず、「また花婿もこの事件が済んだ後でなければ花嫁を独占」できなかった。(中山)<ref name="j"></ref>

;[[琉球]](現:[[沖縄県]]や[[琉球諸島]])
:結婚式が終わると「新郎はその場から友人と連れ立ち[[遊郭]]に赴き」、数日間そこで過ごす風習があった。この間、新婦は「毎日心を籠めたお料理をつくり、それを新郎の許へ持参」し、新婚生活の前に「新婦の嫉妬を矯める(ためる、慣らす)」とされた。中山は「土俗を方便的に倫理化したものであって、その真相は能登(石川県)のそれと同じく、初夜権の実行される期間に、新郎が逃避した」名残りであろうと述べている。(中山)<ref name="j"></ref>(折口)<ref name="l"></ref>
===近代以降===
近代以降を[[1900年]]頃よりも後と定義して、初夜権やその名残りとして記録された事例を挙げる。
;[[福島県]][[相馬郡 (福島県)|相馬郡]]八幡村
:[[1941年]]の記録として、「富沢の赤田三郎の家のオツタ(という名前の女性)は、オナゴにならず床入りした(処女のまま初夜を迎えた)ので『いやだ』といって、どうしようもなかった。それでヨメゾイ(嫁添い、付添人)と聟(婿)とで床入りさせて無事にすんだことがあった。オナゴにしてもらっていないと、満足しない(新婚家庭が円満に納まらない)とよくいわれた」という。(藤林貞雄著「性風土記」より)<ref name="m"></ref>

; [[福島県]][[相馬郡 (福島県)|相馬郡]]松川浦
:[[1940年代]]後半に訪れた際に「ある年とった漁師から、かつてその人が『俺の家の娘を頼む』などといわれて、手拭一筋(1本)ぐらいを貰って、婚前の少女を破瓜したことがしばしばあったことを聞いた」という。(太田三郎著「女」より)<ref>太田三郎著「女」(黎明書房、[[1957年]])より。文中の書き出しに、松川浦を訪れたのは「10年くらい前」とあることから、[[1940年代]]後半に聞いた話と思われる。</ref>

===その他===
[[映画倫理委員会]](映倫)事務局長を務めた阪田英一の回想録に、[[1970年]]に[[警視庁]]防犯部が猥雑性を指摘した[[ピンク映画]]の中に「初夜権」というタイトルの作品があったと述べられている。この作品の内容や制作会社、上映認可の可否などは不明である。<ref>阪田英一著「わが映倫時代」(共立通信社、[[1977年]])より。警視庁が指摘したのは公開前なのか公開後なのか、タイトルなのか内容なのか、製作した映画会社はどこなのかといった詳細については述べられていない。また、同時に指摘されたピンク映画のタイトルは「女体なで切り」「性教育裏口入門」「畜生道」「青い暴行」「娘の性道徳」「壷あらそい」「処女乗っ取り」「激情の宿」「セックス開放地帯」などだったと述べられている。</ref>


==参考:南方熊楠==
あらゆる学問において博識であり、[[フィールドワーク]](現地調査)を盛んに行った[[博物学者]]の[[南方熊楠]]は、自著の中で何度か初夜権について言及している。

その中で特筆すべきなのは、南方自身が「見たことがある」として述べた著書が存在することである。これは、[[1925年]]に発表した自伝的随筆「履歴書(矢吹義夫宛書簡)」の中の項目「僻地、熊野」で述べられており、文中の書き出しに「[[紀州]]の田辺より[[志摩]]の鳥羽辺まで」とあることから、故郷の[[和歌山県]]から[[三重県]]辺りを指す地域と考えられる。また、「二十四年前に帰朝した」時期とあることから、留学先の欧米諸国から帰国した[[1900年]]頃の出来事であったと思われる。<ref name="n">[[南方熊楠]]が「南方植物研究所」を設立しようと奔走していた際、募金活動の一環として[[日本郵船]]大阪支店副長の矢吹義夫から簡単な略歴を求められ、それに応えて宛てたのが[[1925年]]に発表した自伝的随筆「履歴書」である。結果的には総字数5万5千字以上という膨大な履歴書となった。現在は、「南方熊楠随筆集」([[筑摩書房]]、[[1994年]])や「南方熊楠コレクション 第4巻 動と不動のコスモロジー」([[河出文庫]]、[[1991年]])、「人間の記録84:南方熊楠 履歴書ほか」([[日本図書センター]]、[[1999年]]」)などで読むことが出来る。 </ref>

{{quotation|年頃の娘に一升(米)と桃色のフンドシを景物(土産)として神主または老人に割ってもらう所あり。小生みずからも十七、八の女子が、柱に両手を押しつけるごとき威勢でおりしを見、飴を作るにやと思うに、幾度その所を通るも、この姿勢故、何のことかわからず怪しみおると、若き男が籤(くじ)でも引きしにや、「おれが当たった」と、つぶやきながら、そこへ来たり、後よりこれを犯すを見たことあり。|[[南方熊楠]]著「履歴書」(僻地、熊野)}}

「割ってもらう」とは破瓜を意味し、「おりしを見」とは「折り敷き(おりしき)」と呼ばれる姿勢で「片膝立ちになってみせて」という意味である。ただし、これを以って南方自身が初夜権であると指摘している訳ではなく、当時の性交経験の年齢が現在よりも格段に低かったことなども考慮すると、くじ引きに当たった男性が犯した「十七、八の女子」が処女だったのかどうなのかは疑問も残る。実際、この記述の直後に、「十四、五に見える少女」が赤子を背負いながらに若い少年に「種臼(たねうす)切ってくだんせ」と頼む様子も見たことがあると述べている。「種」は「子種(こだね、[[男性器]])」であり、「臼」を「女陰(にょいん、[[女性器]])」として、[[仏典]]の事例から「悟り申した」と推測している。<ref name="n"></ref><ref>[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]は著書「日本婚姻史」の中で、[[南方熊楠]]の「種臼」話を引用しており、「十四歳くらいの少女が風呂屋へ来て、十七、八歳の木挽(こびき、材木職人)の少年を付けまわし、種臼きってくだんせ、としきりに言うていた。この年頃になっても処女でいるのを大恥辱に思っているらしいとのことである」と述べている。</ref>

[[File:Minakata Kumagusu.JPG|right|thumb|250px|[[南方熊楠]]。[[1867年]]に和歌山県で生まれ、[[1886年]]から[[1900年]]にかけてアメリカやイギリスへ留学、[[1941年]]に故郷で没した。驚異的な記憶力と読書量で、外国語は19カ国語に通じたという。この肖像写真はアメリカ留学中に撮影されており、20代前半頃と思われる。<ref>「南方熊楠を知る事典」([[講談社]]、[[1993年]])より。</ref>]]

一方、 [[1921年]]に雑誌「[[太陽 (博文館)|太陽]]」([[博文館]])で発表した随筆「十二支考」の項目「鶏に関する伝説」の中では、カール・シュミットの「初婚夜権」を手初めに様々な初夜権の事例を挙げている。<ref name="e"></ref>
これは、南方が「読んだ」ことのある古今東西の文献から紹介されており、文中で雑多に列挙しながら「奇抜な法じゃ」や「処女権の話に夢中になってツイ失礼しました」と茶化すような記述もあって、その直後には続けて「女の立ち尿(たちいばり、立ち小便)」の歴史について脱線してしまうような破天荒な構成にもなっている為、その真偽までは不明である。以下、「鶏に関する伝説」で紹介された初夜権の事例を、大まかな地域ごとに整理して抜粋する。なお、漢数字による出典は南方自身のものである。<ref>参考:南方熊楠。著書「十二支考 鶏に関する伝説」。初出は[[1921年]]の雑誌「[[太陽 (博文館)|太陽]]」([[博文館]])。その後、「南方熊楠全集」(乾元社、[[1951年]])や「十二支考」([[岩波書店]]、[[1994年]])などに収録されている。</ref>

===インド===
*インドの「西暦紀元([[紀元前1世紀]]から[[1世紀]])頃ヴァチヤ梵士(ぼんし、梵志、[[:en:Mallanaga Vatsyayana|Mallanaga Vatsyayana]])作『愛天経([[カーマ・スートラ]])』七篇二章」によると、「王者が臣民の妻娘を懐柔する方法」が説かれており、「アンドラの王は、臣民の新婦を最初に賞翫(しょうがん、賞味)する権利」があったとしている。<ref>参考:南方熊楠「インド」。「ヴァチヤ梵士」とはマッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ([[:en:Mallanaga Vatsyayana|Mallanaga Vatsyayana]])を指し、「愛天経」とは「愛経文」とも翻訳される「[[カーマ・スートラ]]」を指す。なお、「アンドラ」については、「[[インドラ]]」または「[[アーンドラ・プラデーシュ州]]」を指すと思われるが、原文を読む限り特定できない。</ref>

===ヨーロッパ===
*[[古代ローマ]]時代の王侯貴族は「わが国の師直(もろなお、武将)、[[豊臣秀吉|秀吉]]と同じく(『塵塚物語』五、『[[常山紀談]]』[[細川忠興]]妻義死の条、[[山路愛山]]『後編豊太閤』二九一頁参照)、毎度臣下の妻を招きてこれを濫したというから、中には(インドの)アンドラ王同様の事を行うた」であろうとしている。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。[[豊臣秀吉]]に関する出典は、原文のままである。</ref>
*古代ローマ時代に、「議院で[[シーザー]]([[ユリウス・カエサル]])に一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目に論じた例」があるという。また、[[スコットランド]]では「中古牛を以て処女権を償うに、女の門地(もんち、家の格式)の高下(高低)に従うて相場異なり、民([[庶民]])の娘は二牛、士([[士族]])の娘は三牛、[[太夫]](上流階級)の娘は十二牛など」であり、[[イングランド]]は異なって「民の娘のみこの恥を受けた([[ヘンリー・ブラクトン|ブラットン]]の『ノート・ブック』巻二六)」という。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブラットンのノート・ブック」とは、[[13世紀]]のイギリスの法学者[[ヘンリー・ブラクトン]]が[[1268年]]に発表した著書「Bracton's Note book」のことである。この本には「A collection of cases decided in the King's courts during the reign of Henry.」との副題があり、イングランドのヘンリー王時代にあった裁判記録が掲載されている。なお、原文ではスコットランドとイングランドの時代は特定されていないが、両国を並記していることからイングランド王がスコットランドに侵攻していた[[11世紀]]頃から[[15世紀]]頃を指すと思われる。</ref>

*古代ローマ時代には、「『大英百科全書(現:[[ブリタニカ百科事典]])』十一板、十五巻五九三頁に、[[紀元前398年|紀元三九八年]][[カルタゴ]]の耶蘇徒(やそと、[[キリスト教徒]])に新婚の夜、かの事(初夜権)を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした」ことがあったという。これを読んだ南方は、ヨーロッパにおいて「欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいた(領主が性交を済ませなければ妻帯を認めないような法律が定着した)と信ずるに至った」という。更に、「欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ(あてぶんだ)中古の初め(なれそめ)、欧州にこの風行われたは疑い容れず(いれず)」と述べている。これは、「法律として存在したかどうかは別にしても、ヨーロッパにおいて暴力的な武力行為よりも品が良いであろう初夜権が、風習として定着したのは疑いようがない」という意味である。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「『大英百科全書』十一板」とは、イギリスのジャーナリストであり編集者だったヒュー・チザム([[:en:Hugh Chisholm|Hugh Chisholm]])が、[[1910年]]に改訂出版した[[ブリタニカ百科事典]] 第11版(全29巻)を指す。また、原文は「紀元398年」だが、第二次シチリア戦争の最中だった[[紀元前398年]]と思われる。</ref>
*古代ローマ時代から「降って(くだって)[[中世]]紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍らしめねば(はべらしめねば、付き添われなければ)夫の手に」入らなかったという。また、[[スコットランド]]では「[[11世紀|十一世紀]]に、[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルコルム三世]]、この風(風習)を発せしが、仏国などでは股権とて[[17世紀|十七世紀]]まで幾分存した」という。「君主が長靴穿った(うがった)一脚を新婦の臥牀(ねどこ)に入れ、手鎗を以て疲るるまで坐り込み、君主去るまで夫が新婦の寝室に」は入れないので、「恥を免れんため税を払い、あるいは傭役([[兵役]])に出で、甚だしきは暴動を起し」、稀に「[[源義経|義経]]は母を何とかの唄通りで特種の返報(返礼)をした」という。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「マルコルム三世」とはスコットランド王の[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]を指す。また、「義経は母を何とか」とは、[[源義経]]と、彼の母親である[[常盤御前]]を指す。これは、[[平清盛]]が常盤御前と[[源義朝]]の間に出来た子供たちを殺そうとするが、彼女が絶世の美女であったことから助命嘆願を聞き入れ、その交換条件として[[妾]]になることを要求したとする故事に倣っている。</ref>
*[[フランス]]の「[[ブリーヴ=ラ=ガイヤルド|ブリヴ]]邑(むら)の若侍、その領主が自分の新婦に処女権を行うに乗じて、自らまた領主の艶妻を訪い、通夜(つうや)してこれに領主の体格不似合の大男児を産ませた椿事(ちんじ、珍事)」があったという。また、この事例のように子供の親が誰なのか判別しにくくなり易いので「この弊風(へいふう、悪習)ついに亡びた([[1819年|一八一九年]]板[[コラン・ド・プランシー|コラン・ド・ブランシー]]の『封建事彙』一巻一七三頁)」という。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブリヴ邑(村)」はフランスの[[コレーズ県]]にある[[ブリーヴ=ラ=ガイヤルド]]を指す。日本語では「ブリーブ」や「ブリブ」とも書かれる。「コラン・ド・ブランシー」とは「[[地獄の辞典]]」編纂をライフワークとしたフランスの作家[[コラン・ド・プランシー]]を指す。</ref>
*フランスの「[[アミアン]]の僧正は領内の新婦にこの事(初夜権)を行うを例(慣例)としたが、新夫どもの苦情しきりなるより、[[15世紀|十五世紀]]の初めに廃止」したという。<ref>参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。原文には特に出典がない。</ref>

===南米===
*フランスのアミアンと同様の事例として、「[[尾佐竹猛]]君の来示(らいじ、手紙)に、今も[[メキシコ]]で僧がこの権(初夜権)を振う所ある」という。<ref>参考:南方熊楠「南米」。啓蒙家で文筆家だった[[尾佐竹猛]]が、[[明治文化研究会]]の設立準備を進めていた時期にやりとりした書簡の中から引用したと思われる。従って、1900年初頭と思われるが、この件を尾佐が何かを読んで書いたのか、それとも誰かから聞いて書いたのかなどは不明である。</ref>
===中国===
*[[中国]]の「『[[後漢書]]』南蛮伝に[[交趾]](こうし、[[前漢]]から[[唐]]時代の[[交趾郡]])の西に人を喰らう国あり云々(うんぬん、その他に色々あって)、妻を娶って(めとって)美なる時はその兄に譲る」風習があったという。<ref>参考:南方熊楠「中国」。「南方は、この人々の末裔が「烏滸人(おこびと、[[アムダリヤ川]]流域の民族)」であり、「阿呆を烏滸という」起源であろうと述べている。</ref>
===日本===
*[[日本]]の「明和八年([[1771年]])板、増舎大梁の『当世傾城気質』四」にて、「藤屋伊左衛門(ふじやいざえもん)が諸国で見た奇俗」を述べており、結婚式の「振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々(うんぬん、その他に色々あった)」という。「幼き頃まで[[紀州]]の[[一向宗]]の有難屋(ありがたや、神仏を盲信する人々)」であった為、「厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡(神社仏閣など)の寝室近く妙齢の生娘を臥せ(がせ、ふせ、寝る)させもらい、以て光彩門戸(こうさいもんこ、最初の手習い)に生ずと大悦び」するような風習だったという。<ref>参考:南方熊楠「日本」。藤屋伊左衛門は[[吉田屋]]の[[若旦那]]で、現在でも[[歌舞伎]]の演目「廓文章(くるわぶんしょう)」の主役として演じられ続けている。</ref>
*[[和歌山県]]にある「[[勝浦漁港 (和歌山県)|勝浦港]]では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素(はす)してもらい」、返礼として「米や酒、あるいは桃紅色の褌(ふんどし)」を渡したという。南方の故国は和歌山県であり、これは前述した自伝的随筆「履歴書」の項目「僻地、熊野」でも述べられている。<ref>参考:南方熊楠「日本」。原文には特に出典がなく、南方の体験談を交えていると思われる。</ref>

*「藤沢([[藤沢衛彦]])君の『伝説』信濃([[信濃国]])巻に百姓の貢米(ぐまい)を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃(ぐまいちん)というて連れ来って慰んだ」という。<ref>参考:南方熊楠「日本」。「藤沢君の『伝説』信濃巻」とは、民俗学者の[[藤沢衛彦]]が[[1917年]]に発表した著書「日本伝説叢書 信濃の巻」(日本伝説叢書刊行会)を指す。これは、その後に「すばる書房」から何度か再刷された。なお、これは貢米賃の立替行為であって、南方も多少蛇足のように述べている節が伺える。</ref>

==参考:初夜の忌==
'''初夜の忌'''(しょやのい)とは、日本において結婚初夜(または数日間)、新婚夫婦の性交を禁じた風習である。処女や新婦は神の所有物であり、また、処女の血を忌み嫌う風習が存在した為である。社会学者の江守五夫は、「[[古事記]]における[[大国主命]]と[[沼河比売]]」の求婚譚、「[[万葉集]]における[[大津皇子]]と[[石川内命婦|石川郎女]]」の贈答歌などにもその片鱗が認められ、「女が男の求婚を受け入れながらも、一夜、(新郎を)家に入れず外に待たせる」風習などが起源ではないかと述べている。<ref name="i"></ref>

また、ヨーロッパ圏では「'''トビアの晩'''(Tobias nights)」と呼ばれる風習が[[ドイツ]]や[[スイス]]などの一部地域で存在しており、やはり結婚初夜の性交を禁じる風習だったという。これは、「経外書([[ラテン語]]の[[ウルガータ]]版と[[ギリシア語]]の[[アルドゥス・マヌティウス]]版から抜粋して再編した聖書)」や「[[トビト記]]」などに登場する伝説上の[[ユダヤ人]]男性「トビト」に由来し、彼の娶ったサラという女性の前夫たちは何れも結婚初夜に[[悪魔]][[アスモデウス]]によって殺害されていた為、これを回避しようとした故事に倣っている。<ref>辞書「事典 家族」([[弘文堂]]、[[1996年]] )の項目「初夜の忌」と項目「トビアの晩」より。共に、社会学者の江守五夫による解説である。</ref>


==作品 ==
初夜権を題材にしたり、その存在について言及した作品などを挙げる。
;[[ギルガメシュ叙事詩]]
:[[紀元前]]の古代[[メソポタミア]]文明の叙事詩。[[ギルガメシュ王]]の権限のひとつとして「全ての民の初夜権を有した」と伝えられている。
;Le Droit Du Seigneur
:[[1762年]]に[[フランス]]の作家[[ヴォルテール]]が発表した戯曲「初夜権」。<ref>レイモンド・モリゾー著・熊沢一衛訳「ヴォルテールの現代性」](三恵社、[[2008年]])。[[啓蒙思想]]家でもあったヴォルテールは政治や法律に関する著作が多く、彼を研究したこの著書の第XII(12)章「ジュラ山中の農奴とジェックス地方」では、遺産継承権(財産遺贈権)の考察で「カップルは初夜の日にどちらの家にいるかが問われる」とある。</ref>
;[[フィガロの結婚]]
:[[1784年]]にフランスの作家[[カロン・ド・ボーマルシェ]]が発表した戯曲。[[1775年]]の「セビリアの理髪師」と[[1792年]]の「罪ある母」と共に「フィガロ三部作」と呼ばれる。前述の「[[初夜権#時代と地域|時代と地域]]」も参照のこと。
;[[:it:Jus primae noctis|Jus primae noctis]]
:[[1972年]]に映画監督の[[パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ]]([[:it:Pasquale Festa Campanile|Pasquale Festa Campanile]])が指揮し、俳優のレンツォ・モンタニャーニ([[:it:Renzo Montagnani|Renzo Montagnani]])が主演した、イタリアのコメディ映画。日本未公開。海外ではDVDも発売されており、イタリア語の[[eBay]] [http://cgi.ebay.it/DVD-Jus-Primae-Noctis-1972-/280626741556 "Jus Primae Noctis 1972"] などから購入できる。
;[[哀しみのベラドンナ]]
:[[1973年]]に[[山本暎一]]が監督したアニメーション映画。舞台は中世のフランスで、貧しい農夫が領主に貢物を納められなかった為に、妻の処女を奪われる。
;[[1984年 (小説)|1984年]](Nineteen Eighty-Four)
:[[1949年]]に[[イギリス]]の作家[[ジョージ・オーウェル]]が発表した小説。ディストピア(悪夢的未来像)として、特権階級となった資本家が初夜権を持つとされる。
;[[ブレイブハート]]
:[[1995年]]に俳優[[メル・ギブソン]]が監督・主演したハリウッド映画。舞台は[[13世紀]]末頃から[[14世紀]]初頭の[[スコットランド]]で、当時の[[エドワード1世]]を領主とした[[イングランド]]人による横暴な権限として初夜権が描かれた。作中、結婚を誓った男女を祝うスコットランドの人々の前にイングランドの騎兵隊が突然現われ、「ライト・オブ・プリメ・ノクタ!(Right of primae noctis !)」と初夜権の存在を告知、反目しつつも従う人々を横目に騎兵隊が女を連れ去るというシーンがある。([http://www.youtube.com/watch?v=l0vKL6U7GFQ Braveheart "Wedding" Jus primae noctis] [[You Tube]]にて、該当動画の00分40秒辺りにこのシーンがある。)

==外部リンク==
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16032_14219.html 折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」] ⇒ 底本「古代研究 I - 祭りの発生」([[中央公論新社]]、[[2002年]])。[[青空文庫]]より。
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46950_27949.html 折口信夫「古代生活に見えた恋愛」] ⇒ 底本「折口信夫全集 1」([[中央公論社]]、[[1995年]])。青空文庫より。
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47176_37072.html 折口信夫「『とこよ』と『まれびと』と」] ⇒ 底本「折口信夫全集 4」(中央公論社、1995年)。青空文庫より。
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2540_35098.html 南方熊楠「十二支考 鶏に関する伝説」] ⇒ 底本「十二支考(下)」([[岩波書店]]、[[1994年]])。青空文庫より。
*[http://www.minakata.org/ 南方熊楠顕彰館] ⇒ 南方熊楠の故郷であり、最後の永住地と決めた和歌山県田辺市にある記念館。様々な資料のオリジナルを保管・展示している。
*[http://books.google.com/books?id=lFLqDHVYOHMC&printsec=frontcover&dq=The+lord's+first+night:+the+myth+of+the+droit+de+cuissage&source=bl&ots=QbaL4ong7B&sig=-5aPAGHeT2Dv0QnMbFQnyJeCX98&hl=en&ei=shNOTcKzBYnCvQOi_fHoDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CC4Q6AEwAw#v=onepage&q&f=false Alain Boureau, Lydia G. Cochrane "The lord's first night: the myth of the droit de cuissage."] ⇒ フランスの歴史家アラン・ブホー([[:fr:Alain Boureau|Alain Boureau]])による著書「初夜権:初夜権の神話」([[シカゴ大学出版局]]、[[1998年]])。[[Google ブックス]]より。リディア・G・コクラン(Lydia G. Cochrane)が翻訳した英語版のみ。原本はフランスで[[1995年]]に発表された著書「初夜権 - 神話となった歴史(Le Droit de cuissage. Histoire de la fabrication d'un mythe)」。カール・シュミットやコラン・ド・プランシーなど、非常に多くの引用先が参照できる。
*[http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/labelFRANCE47.pdf フランス外務省発行季刊広報誌 LABEL FRANCE] ⇒ 第47号・2002年7月号の日本語PDFより。特集「今日のフランスにおける男性と女性の関係」第5章「売春は、あたり前の男女関係だろうか?」にて、著書「初夜権、フランス1860年~1930年(Le Droit de cuissage, France 1860-1930)」(L'Atelier出版、[[1994年]])があるフランスの社会学者マリー=ヴィクトワール・ルイ([[:fr:Marie-Victoire Louis|Marie-Victoire Louis]])へのインタビュー。彼女は初夜権が[[売春]]や[[セクシャルハラスメント]]などと同様に「男性による女性支配の核心を占める」と述べている。
*[http://suwa3.web.fc2.com/enkan/index.html 円環伝承 ~神話・民話・雑学のサイト~] ⇒ コンテンツ「民話想」の「眠り姫」(「眠り姫のあれこれ・後半」)にて、初夜権について非常に詳しい考察が述べられている。[[2011年]]2月5日時点でリンクフリー。

== 脚注・出展 ==
<references/>

==関連項目==
*[[恋愛]]
*[[婚約]]
*[[結婚]]
*[[夫]]
*[[童貞]]
*[[妻]]
*[[処女]]
*[[処女喪失]]
*[[性行為]]
*[[性道徳]]
*[[神話]]
*[[伝説]]
*[[風習]]
*[[民俗学]]
*[[社会学]]

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2011年2月10日 (木) 10:47時点における版

フランス出身の画家ジュール・アルセーヌ・ガルニエ(Jules Arsène Garnier1847年-1889年)が1872年に発表した絵画「初夜権(Le Droit du Seigneur)」。中央に領主と新婦()、左側に新郎()と説得する神父、周辺に警護する家臣やそれらを見物する民衆が描かれている。ガルニエが初夜権の様子を想像して描いた絵画である。

初夜権(しょやけん)とは、主に中世ヨーロッパにおいて権力者が統治する地域の新婚夫婦の初夜に、新郎()よりも先に新婦()と性交(セックス)することが出来たとする権利である。世界各地で散見されたという伝説伝承は多く残っているが、その実在については疑問視する専門家が多い。

概要

初夜権(しょやけん)とは、領主酋長などの権力者、または神父僧侶などの聖職者、あるいは長老や年長者といった世俗的人格者などが、所有する領地や統治する共同体において、婚約したばかりの男女や結婚したばかりの新婚夫婦が存在した場合、その初夜において新郎()よりも先に新婦()と性交(セックス)することが出来る権利を指す。または、成人(大人)の年齢や結婚適齢期を迎えた女性と何らかの性行為を行い、その処女性を奪うことが出来る権利なども指す。[1][2][3][4]

初夜権について記録された文献は古今東西に多く存在しているが、伝聞や伝承の記録に留まることが多く、その真偽については「形骸化された儀式や儀礼(セレモニー)」や「結婚税などの徴収理由として方便化したり風聞化したもの」、あるいは「成人への通過儀礼を拡大解釈したもの」などと看做す専門家が多い。後述の「真偽」も参照のこと。


語源

初夜権の語源は、ラテン語の「ユス・プリマエ・ノクティス(Jus Primae Noctis)」が最初に意訳された言葉として知られる。「Jus」は「権利」、「Primae」は「最初の」、「Noctis」は「夜」である。[1][2][5]

現在はフランス語の「トゥワ・デュ・セニエル(Droit du Seigneur)」が初夜権を意訳する言葉として世界各国で知られており、直訳は「法の主」といった意味である。[3][4][6]

英語では「ゴッズ・ライト(God's right)」で「の権利」や「ローズ・ライト(Lord's right)」で「主の権利」などとして初夜権を意味したり、「ローズ・ファーストナイト(Lord's first night)」で「主の初夜」や「ライト・オブ・ザ・ファーストナイト(Right of the first night)」で「初夜の権利」とする場合が多い。[7]


類語

初夜権の日本における類語には、「初婚夜権(しょこんやけん)」や「処女権(しょじょけん)」などがある。また、ごく少数ではあるが「股の権利(またのけんり)」や「股権(またけん)」という隠語が使用されることがある。[8]

なお、女性の処女喪失や処女性が失われるような性行為は、古くは「破瓜(はか)」や「破素(はそ、はす)」などと呼ばれた。また、主に四国地方の古い方言とされる「新鉢」は、「あなばち」や「あらばち」と読み、「あなばち割る」や「あなばち破り(わり)」、「はち割り」などが処女喪失の儀式を意味するなど、様々な類語が存在している。[1][9][10]

時代と地域

初夜権の時代と地域は、主に中世5世紀頃から15世紀頃)のヨーロッパで存在したとする説が多い。また、インドヒンドゥー教東南アジア仏教信仰していた民族北極圏エスキモー南米インディアンの中に存在した祈祷師シャーマン)を頼っていた人々などにも散見されたとする説が多い。[3][4]

1921年博物学者南方熊楠が、雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支(干支)考」の項目「鶏()に関する伝説」では、ドイツ法学者カール・シュミットによる1881年の著書「初婚夜権」が引用されている。この著書は、「フライブルヒ・イム・ブライスガウ(現:ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州にあるフライブルク市、Freiburg im Breisgau)」の役所がカトリック教会と共に出版した当時の歴史調査書であるが、この中では、ヨーロッパの他にインドアンダマン諸島(インドのベンガル湾地域)、クルディスタンクルド人居住地域)、カンボジアチャム族)、チャンパベトナム中部沿海地域)、マラッカマレー半島西海岸南部)、マリアナ諸島ミクロネシア北西部)、アフリカ南米北米の原住民などに散見されたとしている。[7]

なお、初夜権を題材に取り入れた著名な物語に、フランスの作家カロン・ド・ボーマルシェ1775年に発表した「セビリアの理髪師」の続編として1784年に書き上げ、1786年オーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオペラ上演した戯曲「フィガロの結婚」が知られている。この「フィガロの結婚」は、新郎フィガロから新婦スザンナを強引に奪い取ろうとする浮気者のアルマヴィーヴァ伯爵が様々に邪魔をして、初夜権を復活させようと企む喜劇である。この「復活させよう」と画策している様子からは、18世紀中期のヨーロッパにおいても既に風聞や伝説として考えられていたことが伺える。


意義

ロシア出身の画家バシリー・ドミトリッチ・ポレノフ(Vasily Dmitrievich Polenov1844年-1927年)が1874年に発表した絵画「領主(Pravo gospodina)」。右側に領主、左側に結婚適齢期を迎えたと思しき若い女性たちとそれを紹介する長老(恐らく正教会の神父を兼任する村の代表者)、左側後方に衛兵とこれを見守る村人が描かれている。

初夜権の意義、または発生原因には、諸説あるものの「権力的意義」「呪術的意義」「貞操的・身体的意義」の3つに大別することができる。なお、初夜権の一般的な解説の際にはこれらを組み合わせて紹介することが多い。

権力的意義

権力者所有権として、処女の女性や初婚の女性が土地や年貢と同一視されていたとする説がある。または、結婚税などと称して徴収されていた税金に対する反感が、「支払うことができれば妻の処女を権力者から取り戻せる」といった風説として変化しながら初夜権になったとする説などがある。なお、これらの税金は「処女税(しょじょぜい)」や「肌着金(はだぎきん)」と呼ばれたという。また、フランス語の「Droit du Seigneur」が広く知られるようになったのは、フランス国王があらゆる所有権を持つと制定されていたものの、これを完璧に個別行使することは不可能であり、転貸として地方の領主や富裕層などへ譲渡することで代行役として認め、この中に初夜権があったとされる為である。[7][11]

呪術的意義

処女の血を忌み嫌う風習迷信があった為、出血の可能性がある処女喪失の際、これを回避できるのはの代理人や悪魔払いが可能な聖職者祈祷師シャーマン)、または神と同等と看做された権力者だけだったとする説がある。また、16世紀から17世紀に盛んだった迷信に魔女狩りがあり、悪魔が処女の血を好むため、同時期の初夜権には新婚夫婦が厄災に見舞われないように代行する意味が籠められていたとする説などがある。なお、処女に対して重要な意味を持たせた宗教呪術は古今東西に多く存在しており、11世紀カトリック教会では、処女であることを見極めるために視診触診による糾問法(きゅうもんほう、検査法)が定められていた。15世紀のフランスで「聖処女」と呼ばれたジャンヌ・ダルクも、ベッドフォード公爵とその夫人がこの糾問法に従って検査を実施している。また、地域や時代によっては、処女に死刑判決が出た場合、執行までに第三者が性交を済ませておくことで神や悪魔からの厄災を避けるような風習もあったという。後述の「初夜の忌(トビアの晩)」も参照のこと。[7][11][12][13]

貞操的・身体的意義

世俗的な人格者などが、新郎に対してその新婦が確かに処女であったと確認または保証するためだったとする説がある。また、新郎よりも先に信頼のおける人物などが性交を済ませることで、仮にその新婦が過去に不貞行為を犯していた場合(何らかの理由で既に処女膜を喪失していたような場合でも)、これを不問にすることが出来た(または結婚を考え直すように促すことが出来た)とする説がある。あるいは、性的経験が豊富な年長者などがその女性の成人(大人)への通過儀礼を担当していたことなどが初夜権に発展したとする説などがある。また、その女性の貞操よりも、子孫繁栄を維持できる身体に成長しているかどうかを重視して、これを確認する儀式だったとする説も多い。[7][11][14]

拒否

前述した初夜権の意義に反し、新婚夫婦が拒否する場合は様々な罰金罰則が課されたという。事例として、1538年に発行されたスイス北部のチューリッヒ州議会の布告によると、初夜権を拒否する場合は新郎が4マルク30ペニヒ(1マルク Mark = 100ペニヒ Pfennig)の罰金を支払わなければならないと定められていた。また、ドイツ南部のバイエルン地方では、初夜権を拒否した新郎は「上衣か毛布」を、それと合わせて新婦は「自分の尻が入るサイズの大鍋」か「自分の尻と同じ重さのチーズ」を罰則として納めなければならない習わしがあった。ただし、これらが所謂「形骸化した儀式や儀礼(セレモニー)」であった可能性は高く、結婚税に相当する税金の徴収理由や呪術的な厄払理由として都合よく正当化されたり通俗化された方便に過ぎなかったとする説も多い。[14]

真偽

古今東西で初夜権について言及した文献は多いが、風聞や又聞き、伝説伝承を記録したものがほとんどである。1931年の「ウルトラ・モダン辞典」(一誠社)では「婚姻史の教ふ所に拠れば、初夜権は必ずしも花婿の専有でなく、或は神主、或は媒酌人その他がそれを有した時代もあったさうである」と、伝聞形式でそののまま解説として掲載している。[15]

なお、この「婚姻史」とは、1928年民俗学者中山太郎が発表した著書「日本婚姻史」を指すが、この本の第一節に「初夜権の行使は団体婚の遺風(いふう、名残り)」とする章がある。中山は「(農村や漁村などの)部落の共有であった女子が共同婚(複婚乱婚)から放たれて、一人の特定する男子の占有に帰するために科された義務」と述べているが、その書き出しには「本書の埒外(らちがい、範囲外)に出るので省略するが、私見を素直に言えば」との但し書きも加えている。[16]

「日本婚姻史」は貴重な民族史の記録であるが、このように信憑性が検証できるような専門家による文献でさえも、「聞いたことがある」や「そうだったのではないか」程度の推測に留まるものが多く、一般的に解釈される初夜権の実在についてはほとんどの文献で真偽が断定されていない。また、風聞や又聞きであった場合は、かなり恣意的な誇張表現や拡大解釈に過ぎた記述も多く、それらの「実在した」とする説は信憑性を疑わざるを得ない。ただし、実際に時間を遡ることは不可能であり、過去の歴史文献に頼らざるを得ず、また、非常にプライベート性の高い風習であるが故に確認が困難であるといった要素なども多々ある。ただし、少なくとも、民俗学の基本であるフィールドワーク(現地調査)によって実際に「初夜権の行使」あるいは「同等の性行為」を「著者自身が見た」とする文献はごく稀である。[13][16]

その為か、社会学者の井上吉次郎などは、「中世初期の無法時代」などに「たまたま行われたことはあったかもしれない」が、「人非人(ひとひにん、人で無し)の貴族」または「暴力的俗王と同じ範疇の俗僧の神の名による詐術(さじゅつ、詐欺)」の範疇であり、権利と称して公式に認められるような性行為の史実はなく、「永久に西欧史上の神話かと考えられる」と、ほぼ完全に否定している。[4]


日本

日本における初夜権の存在は、古代の神事祭祀を起源としたり、地方の風習に痕跡や類似が散見できると推測する専門家は多いものの、存在の有無まで断言している文献は少ない。

ただし、世界各国のあらゆる宗教や風習と同様に、成人(大人)になる若者を年長者が祝福し、それを村や町などの共同体の人々に紹介するような通過儀礼はごく日常的に存在していた。また、処女の女性、あるいは成人に達していない未婚の女性の所有権が神にあるとする考え方が存在していた為、結婚した最初の数日間は神に敬意を表する意味合いで性交を禁じる風習(後述の「初夜の忌」を参照)や、新婚夫婦に厄災が降りかからぬように第三者の男性が新婦や処女との性交を代行した事例は散見されている。[14][16]

従って、これらの風習や儀式を拡大解釈するという前提であれば、初夜権またはそれと同等の性行為が過去の日本に存在したのではないかと推測する専門家は多い。また、神事や祭祀であることから、あくまでも形骸化した儀式や儀礼(セレモニー)へ変化し、近代になるにつれ実際に処女を奪うような性行為そのものは衰退していったとする専門家も多い。[14][16]

古代

古代神道において、神と交流できるのは、男性であれば神主、女性であれば巫女のみであった。従って、まだ精通経験のない男性や童貞の男性、初潮経験のない女性や処女の女性は、神や共同体の所有物であり、彼らを成人の社会へ導けるのは神主や巫女のみとされた。ここから、処女や新婦の女性を臨時的に巫女と同等に看做し、神の代行役である神主や媒酌人が性交することで神の怒りや厄災を回避したとする説がある。また、こういった考え方を受け継いだ風習が近代前後まで各地に残っていたとする説も多い。[16][17]

なお、前述した中山太郎の著書「日本婚姻史」では、奈良時代の「日本書紀」(允恭紀)や平安時代の「本朝文粋」(意見十二箇条)などを事例に挙げ、神主や「座長(かみのくら)が処女を要求できた」とする説を紹介しつつ、「一種の呪術として処女膜を破る儀式」などが、現代では一般的に解釈される初夜権と同一視されがちだが「似て非なるものであることを注意されたい」と述べている。[16]

一方で、民俗学者の折口信夫1926年に雑誌「人生創造」(人生創造社)に発表した「古代研究」の中で、少なくとも奈良時代以前の神主は初夜権と看做してよい権利を持ち、現人神(あらひとがみ)と看做された豪族などは「村のすべての処女を見る事の出来た風(確認することが可能だった世情)」が、近代まで残っていたと述べている。また、朝廷に従える采女(うねめ)や「巫女の資格の第一は神の妻(かみのめ)となり得るか」どうか、つまり処女であるかどうかが重視されており、たとえ常世神(とこよのかみ、神の代理役)であっても現実的に貞操を守り続けることは困難であった為、処女や新婦は一時的に「神の嫁として神に仕へて後、人の妻(ひとのめ)となる事が許される」ような儀式へと変化し、これらが「長老・君主に集中したもの」が初夜権と同等であっただろうと述べている。また、「神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方」などもあった為、当時の性に対する感覚や処女の立場、初夜権の発生原因などを理解しないと「古事記日本紀、或は万葉集風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多い」とも述べている。[18][19][20]

近代以前

近代以前を1900年頃よりも前として定義し、初夜権やその名残りとして記録された主な事例を北から南の地方順に挙げる。なお、文末括弧にある名前は、(中山)が民俗学者の中山太郎、(折口)が民俗学者の折口信夫による著書からの抜粋である。

陸奥国(現:東北地方の主に太平洋側)
花嫁が「自分の親族中の未婚の青年と通じてから華燭の式(かしょくのしき、結婚式)を挙げ、花婿はその後において専占」できる風習があった。(中山)[16]
羽前国(現:山形県
まず「媒酌する者(仲人)が花嫁となるべき者を貰い受け」て自宅へ戻り、「三晩の間は自分の側に起臥(きが、寝起き)させてから、百八個の円餅(まるもち)をつくり、それを媒酌人が背負い花嫁を同行して新婚の家に」赴いて、結婚式を挙げる風習があった。(中山)[16][21]
陸前国(現:宮城県
「おはぐろつけ」と称する風習があった。これは結婚式の前日に、近所の若い男性を対象に「新婦が目星をつけていた青年に身を任せ」るものだった。また、「青年が新婦を誘い出してもよく、また新婦の家に忍び込むのも差し支えなく、家族もこれを公然と認許(にんきょ)」し、「新郎もまた黙諾(もくだく)」していた。(中山)[16]
陸前国(現:宮城県
明治初年(1868年頃)まで「聟(婿)の父親が花嫁と初夜をすごす」風習があった。これは、1883年2月15日付の「郵便報知新聞(報知新聞を経て現:スポーツ報知)」に掲載されていた。(藤林貞雄著「性風土記」より)[22]
下野国(現:北関東
「土地の者の記憶」によると、「媒酌人八番(なこうどはちばん)なる俚諺(りげん、)」の風習があった。これは、媒酌人が新婦に対して新郎よりも優先的に8回の性交が出来る権利があることを意味していた。(中山)[16]
下野国(現:北関東
結婚式の初夜に「お連れ様(おつれさま)という者を帯同させる」風習があった。初めての「床のべ(とこのべ、同衾)」の際、「お連れ様は無遠慮にも新夫婦と共に同じ室に枕を並べて寝るのが礼儀」であり、新婚初夜に新郎新婦が性交することはなかった。これは、中山の故郷である栃木県塩谷郡栗山郷の調査で記録されており、「山間の僻村(へきそん)で、昔は他人の顔は一年中にも数えるほどしか見られぬと言われた土地」だった為、「婚姻は概して近親同士」であることが多く、「しかも山では恋を知るのが早く、ことごとく早婚」であったという。また、中山は「娘十三嫁(ゆ)きたがる(娘も13歳になれば結婚したがる)」という風潮で、「都会であれば通学盛りの小娘が、この地では立派に母親となって」いる土地柄だったという。なお、中山はこの風習を「古くはお連れ様なる者が初夜権を行使したのを、かく合理的に通俗化した」名残りではないかと述べている。(中山)[16]
能登国(現:石川県
結婚式に新郎は参列せず、別の場所で最初に舅姑(きゅうこ)などの義親とだけ盃事をする風習があった。新郎と新婦が出会うのは結婚式の後である。中山は「初夜権の実行される期間に、新郎が逃避した」名残りであろうと述べている。(中山)[16]
三河国(現:愛知県
初夜は「おえびす様にあげる」と称して「新夫婦が合衾(ごうきん)せぬ」風習があった。中山は「蛭子神(ひるこ)の名に隠れて古代の神官が、初夜権を行使した」名残りではないかと述べている。(中山)[16] (折口)[19]
山城国(現:京都府
「花嫁は近所の女達が送って新婿の家に行くが、家に着くと一応両親に挨拶して、すぐたすきをかけて勝手を出て(台所などで)手伝いする。そして夫婦の盃事もせず、その夜は合衾せぬ」風習があった。中山は「古い世相は、新婦に対して初夜権を行使される間だけ新郎が所在を隠し、またはわざと合衾を避けた」名残りではないかと述べている。(中山)[16]
淡路国(現:兵庫県
新郎の最も親しい友人3名が新婦を「天神様と俚称(りしょう)する鎮守の森に誘い出して交会する」風習があった。「花嫁はこの義務を果たしてからでなければ花婿」と会うことが許されず、「また花婿もこの事件が済んだ後でなければ花嫁を独占」できなかった。(中山)[16]
琉球(現:沖縄県琉球諸島
結婚式が終わると「新郎はその場から友人と連れ立ち遊郭に赴き」、数日間そこで過ごす風習があった。この間、新婦は「毎日心を籠めたお料理をつくり、それを新郎の許へ持参」し、新婚生活の前に「新婦の嫉妬を矯める(ためる、慣らす)」とされた。中山は「土俗を方便的に倫理化したものであって、その真相は能登(石川県)のそれと同じく、初夜権の実行される期間に、新郎が逃避した」名残りであろうと述べている。(中山)[16](折口)[19]

近代以降

近代以降を1900年頃よりも後と定義して、初夜権やその名残りとして記録された事例を挙げる。

福島県相馬郡八幡村
1941年の記録として、「富沢の赤田三郎の家のオツタ(という名前の女性)は、オナゴにならず床入りした(処女のまま初夜を迎えた)ので『いやだ』といって、どうしようもなかった。それでヨメゾイ(嫁添い、付添人)と聟(婿)とで床入りさせて無事にすんだことがあった。オナゴにしてもらっていないと、満足しない(新婚家庭が円満に納まらない)とよくいわれた」という。(藤林貞雄著「性風土記」より)[22]
福島県相馬郡松川浦
1940年代後半に訪れた際に「ある年とった漁師から、かつてその人が『俺の家の娘を頼む』などといわれて、手拭一筋(1本)ぐらいを貰って、婚前の少女を破瓜したことがしばしばあったことを聞いた」という。(太田三郎著「女」より)[23]

その他

映画倫理委員会(映倫)事務局長を務めた阪田英一の回想録に、1970年警視庁防犯部が猥雑性を指摘したピンク映画の中に「初夜権」というタイトルの作品があったと述べられている。この作品の内容や制作会社、上映認可の可否などは不明である。[24]


参考:南方熊楠

あらゆる学問において博識であり、フィールドワーク(現地調査)を盛んに行った博物学者南方熊楠は、自著の中で何度か初夜権について言及している。

その中で特筆すべきなのは、南方自身が「見たことがある」として述べた著書が存在することである。これは、1925年に発表した自伝的随筆「履歴書(矢吹義夫宛書簡)」の中の項目「僻地、熊野」で述べられており、文中の書き出しに「紀州の田辺より志摩の鳥羽辺まで」とあることから、故郷の和歌山県から三重県辺りを指す地域と考えられる。また、「二十四年前に帰朝した」時期とあることから、留学先の欧米諸国から帰国した1900年頃の出来事であったと思われる。[25]

年頃の娘に一升(米)と桃色のフンドシを景物(土産)として神主または老人に割ってもらう所あり。小生みずからも十七、八の女子が、柱に両手を押しつけるごとき威勢でおりしを見、飴を作るにやと思うに、幾度その所を通るも、この姿勢故、何のことかわからず怪しみおると、若き男が籤(くじ)でも引きしにや、「おれが当たった」と、つぶやきながら、そこへ来たり、後よりこれを犯すを見たことあり。 — 南方熊楠著「履歴書」(僻地、熊野)

「割ってもらう」とは破瓜を意味し、「おりしを見」とは「折り敷き(おりしき)」と呼ばれる姿勢で「片膝立ちになってみせて」という意味である。ただし、これを以って南方自身が初夜権であると指摘している訳ではなく、当時の性交経験の年齢が現在よりも格段に低かったことなども考慮すると、くじ引きに当たった男性が犯した「十七、八の女子」が処女だったのかどうなのかは疑問も残る。実際、この記述の直後に、「十四、五に見える少女」が赤子を背負いながらに若い少年に「種臼(たねうす)切ってくだんせ」と頼む様子も見たことがあると述べている。「種」は「子種(こだね、男性器)」であり、「臼」を「女陰(にょいん、女性器)」として、仏典の事例から「悟り申した」と推測している。[25][26]

南方熊楠1867年に和歌山県で生まれ、1886年から1900年にかけてアメリカやイギリスへ留学、1941年に故郷で没した。驚異的な記憶力と読書量で、外国語は19カ国語に通じたという。この肖像写真はアメリカ留学中に撮影されており、20代前半頃と思われる。[27]

一方、 1921年に雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支考」の項目「鶏に関する伝説」の中では、カール・シュミットの「初婚夜権」を手初めに様々な初夜権の事例を挙げている。[7]

これは、南方が「読んだ」ことのある古今東西の文献から紹介されており、文中で雑多に列挙しながら「奇抜な法じゃ」や「処女権の話に夢中になってツイ失礼しました」と茶化すような記述もあって、その直後には続けて「女の立ち尿(たちいばり、立ち小便)」の歴史について脱線してしまうような破天荒な構成にもなっている為、その真偽までは不明である。以下、「鶏に関する伝説」で紹介された初夜権の事例を、大まかな地域ごとに整理して抜粋する。なお、漢数字による出典は南方自身のものである。[28]

インド

  • インドの「西暦紀元(紀元前1世紀から1世紀)頃ヴァチヤ梵士(ぼんし、梵志、Mallanaga Vatsyayana)作『愛天経(カーマ・スートラ)』七篇二章」によると、「王者が臣民の妻娘を懐柔する方法」が説かれており、「アンドラの王は、臣民の新婦を最初に賞翫(しょうがん、賞味)する権利」があったとしている。[29]

ヨーロッパ

  • 古代ローマ時代の王侯貴族は「わが国の師直(もろなお、武将)、秀吉と同じく(『塵塚物語』五、『常山紀談細川忠興妻義死の条、山路愛山『後編豊太閤』二九一頁参照)、毎度臣下の妻を招きてこれを濫したというから、中には(インドの)アンドラ王同様の事を行うた」であろうとしている。[30]
  • 古代ローマ時代に、「議院でシーザーユリウス・カエサル)に一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目に論じた例」があるという。また、スコットランドでは「中古牛を以て処女権を償うに、女の門地(もんち、家の格式)の高下(高低)に従うて相場異なり、民(庶民)の娘は二牛、士(士族)の娘は三牛、太夫(上流階級)の娘は十二牛など」であり、イングランドは異なって「民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)」という。[31]
  • 古代ローマ時代には、「『大英百科全書(現:ブリタニカ百科事典)』十一板、十五巻五九三頁に、紀元三九八年カルタゴの耶蘇徒(やそと、キリスト教徒)に新婚の夜、かの事(初夜権)を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした」ことがあったという。これを読んだ南方は、ヨーロッパにおいて「欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいた(領主が性交を済ませなければ妻帯を認めないような法律が定着した)と信ずるに至った」という。更に、「欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ(あてぶんだ)中古の初め(なれそめ)、欧州にこの風行われたは疑い容れず(いれず)」と述べている。これは、「法律として存在したかどうかは別にしても、ヨーロッパにおいて暴力的な武力行為よりも品が良いであろう初夜権が、風習として定着したのは疑いようがない」という意味である。[32]
  • 古代ローマ時代から「降って(くだって)中世紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍らしめねば(はべらしめねば、付き添われなければ)夫の手に」入らなかったという。また、スコットランドでは「十一世紀に、マルコルム三世、この風(風習)を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀まで幾分存した」という。「君主が長靴穿った(うがった)一脚を新婦の臥牀(ねどこ)に入れ、手鎗を以て疲るるまで坐り込み、君主去るまで夫が新婦の寝室に」は入れないので、「恥を免れんため税を払い、あるいは傭役(兵役)に出で、甚だしきは暴動を起し」、稀に「義経は母を何とかの唄通りで特種の返報(返礼)をした」という。[33]
  • フランスの「ブリヴ邑(むら)の若侍、その領主が自分の新婦に処女権を行うに乗じて、自らまた領主の艶妻を訪い、通夜(つうや)してこれに領主の体格不似合の大男児を産ませた椿事(ちんじ、珍事)」があったという。また、この事例のように子供の親が誰なのか判別しにくくなり易いので「この弊風(へいふう、悪習)ついに亡びた(一八一九年コラン・ド・ブランシーの『封建事彙』一巻一七三頁)」という。[34]
  • フランスの「アミアンの僧正は領内の新婦にこの事(初夜権)を行うを例(慣例)としたが、新夫どもの苦情しきりなるより、十五世紀の初めに廃止」したという。[35]

南米

  • フランスのアミアンと同様の事例として、「尾佐竹猛君の来示(らいじ、手紙)に、今もメキシコで僧がこの権(初夜権)を振う所ある」という。[36]

中国

  • 中国の「『後漢書』南蛮伝に交趾(こうし、前漢から時代の交趾郡)の西に人を喰らう国あり云々(うんぬん、その他に色々あって)、妻を娶って(めとって)美なる時はその兄に譲る」風習があったという。[37]

日本

  • 日本の「明和八年(1771年)板、増舎大梁の『当世傾城気質』四」にて、「藤屋伊左衛門(ふじやいざえもん)が諸国で見た奇俗」を述べており、結婚式の「振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々(うんぬん、その他に色々あった)」という。「幼き頃まで紀州一向宗の有難屋(ありがたや、神仏を盲信する人々)」であった為、「厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡(神社仏閣など)の寝室近く妙齢の生娘を臥せ(がせ、ふせ、寝る)させもらい、以て光彩門戸(こうさいもんこ、最初の手習い)に生ずと大悦び」するような風習だったという。[38]
  • 和歌山県にある「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素(はす)してもらい」、返礼として「米や酒、あるいは桃紅色の褌(ふんどし)」を渡したという。南方の故国は和歌山県であり、これは前述した自伝的随筆「履歴書」の項目「僻地、熊野」でも述べられている。[39]
  • 「藤沢(藤沢衛彦)君の『伝説』信濃(信濃国)巻に百姓の貢米(ぐまい)を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃(ぐまいちん)というて連れ来って慰んだ」という。[40]

参考:初夜の忌

初夜の忌(しょやのい)とは、日本において結婚初夜(または数日間)、新婚夫婦の性交を禁じた風習である。処女や新婦は神の所有物であり、また、処女の血を忌み嫌う風習が存在した為である。社会学者の江守五夫は、「古事記における大国主命沼河比売」の求婚譚、「万葉集における大津皇子石川郎女」の贈答歌などにもその片鱗が認められ、「女が男の求婚を受け入れながらも、一夜、(新郎を)家に入れず外に待たせる」風習などが起源ではないかと述べている。[14]

また、ヨーロッパ圏では「トビアの晩(Tobias nights)」と呼ばれる風習がドイツスイスなどの一部地域で存在しており、やはり結婚初夜の性交を禁じる風習だったという。これは、「経外書(ラテン語ウルガータ版とギリシア語アルドゥス・マヌティウス版から抜粋して再編した聖書)」や「トビト記」などに登場する伝説上のユダヤ人男性「トビト」に由来し、彼の娶ったサラという女性の前夫たちは何れも結婚初夜に悪魔アスモデウスによって殺害されていた為、これを回避しようとした故事に倣っている。[41]


作品

初夜権を題材にしたり、その存在について言及した作品などを挙げる。

ギルガメシュ叙事詩
紀元前の古代メソポタミア文明の叙事詩。ギルガメシュ王の権限のひとつとして「全ての民の初夜権を有した」と伝えられている。
Le Droit Du Seigneur
1762年フランスの作家ヴォルテールが発表した戯曲「初夜権」。[42]
フィガロの結婚
1784年にフランスの作家カロン・ド・ボーマルシェが発表した戯曲。1775年の「セビリアの理髪師」と1792年の「罪ある母」と共に「フィガロ三部作」と呼ばれる。前述の「時代と地域」も参照のこと。
Jus primae noctis
1972年に映画監督のパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレPasquale Festa Campanile)が指揮し、俳優のレンツォ・モンタニャーニ(Renzo Montagnani)が主演した、イタリアのコメディ映画。日本未公開。海外ではDVDも発売されており、イタリア語のeBay "Jus Primae Noctis 1972" などから購入できる。
哀しみのベラドンナ
1973年山本暎一が監督したアニメーション映画。舞台は中世のフランスで、貧しい農夫が領主に貢物を納められなかった為に、妻の処女を奪われる。
1984年(Nineteen Eighty-Four)
1949年イギリスの作家ジョージ・オーウェルが発表した小説。ディストピア(悪夢的未来像)として、特権階級となった資本家が初夜権を持つとされる。
ブレイブハート
1995年に俳優メル・ギブソンが監督・主演したハリウッド映画。舞台は13世紀末頃から14世紀初頭のスコットランドで、当時のエドワード1世を領主としたイングランド人による横暴な権限として初夜権が描かれた。作中、結婚を誓った男女を祝うスコットランドの人々の前にイングランドの騎兵隊が突然現われ、「ライト・オブ・プリメ・ノクタ!(Right of primae noctis !)」と初夜権の存在を告知、反目しつつも従う人々を横目に騎兵隊が女を連れ去るというシーンがある。(Braveheart "Wedding" Jus primae noctis You Tubeにて、該当動画の00分40秒辺りにこのシーンがある。)

外部リンク

脚注・出展

  1. ^ a b c 辞書「日本国語大辞典 第ニ版」(小学館2006年)第7巻、辞書「広辞苑 第六版」(岩波書店2008年)などの項目「初夜権」より。
  2. ^ a b 辞典「世界大百科事典 改定版」(平凡社2007年)第14巻の項目「初夜権」より。
  3. ^ a b c 辞典「世界宗教大事典 第三刷」(平凡社1991年)の項目「初夜権」より。
  4. ^ a b c d 辞典「社会科学大辞典 第四刷」(鹿島出版会1971年)第10巻の項目「初夜権」より。
  5. ^ 辞書「古典ラテン語辞典」(大学書林2005年)より。
  6. ^ 辞書「ロベール仏和大辞典」(小学館1988年)、辞書「新和英大辞典 第4版」(研究社1974年)など。
  7. ^ a b c d e f Alain Boureau著, Lydia G. Cochrane訳 "The lord's first night: the myth of the droit de cuissage."(University of Chicago Press, 1998年)。アメリカのシカゴ大学出版局による初夜権の研究書。英語のみ。南方熊楠も参考にしたカール・シュミットCarl Schmitt)の「初婚夜権」(Karl Schmidt " Jus Primae Noctis " Eine geschichtlicbe Untersucbung, 1881)が引用されている。なお、この研究書では、カール・シュミットをドイツ語発音の Karl Schmidt で綴っている。
  8. ^ 「股の権利」や「股権」は、中山太郎南方熊楠などが著書の中で使用している。なお、中国語の株式用語「股権(股権分置)」とは全く関係がない。
  9. ^ 「破瓜(はか)」という言葉は、「爪」の漢字が破れる(別れる)と「八」の2偏になることから、8の2倍で16歳になった女性を意味することもあった。また、女性が初潮を迎えたり性交を初体験するような思春期の時期を「破瓜期(はかき)」と称して意味することもあった。
  10. ^ 辞書「日本国語大辞典 第ニ版」(小学館2006年)第7巻の項目「あなばち割る」より。
  11. ^ a b c 辞典「新社会学辞典」(有斐閣1993年)の項目「初夜権」より。
  12. ^ 清水正二郎著「世界史の美しい裸女たち」(新風出版社、1970年)。フランスのブザンソン図書館に残るとされる、11世紀に発行された「カトリック教会年報」には、聖パトリシア修道会糾問士(検査官)ニコラス・ザンヌベチャによる記述で、処女膜とはの「入口をふさぎ、通常小指一本のみ通過する裂口なり。もしその裂口の周辺がさけ、粘膜の形、花弁のごとく前後に折れ倒れたるときは、すでに男性を知り足るものとして、その少女をきびしく鞭打つべし」などと解説されているという。なお、1999年に公開されたリュック・ベッソン監督のハリウッド映画「ジャンヌ・ダルク」にも処女検査の様子が登場するが、ここでは助産婦の経験があると思しき数人のたちが検査を担当している。
  13. ^ a b 桐生操著「やんごとなき姫君たちの秘め事」(角川文庫1997年)の項目「真正なる初夜権」より。文中に「初夜権が、フランスでは十六世紀ごろまで、ロシアでは十九世紀まで存続していた」とあり、その前後に「いいな、そんな役目、うらやましいな、などとハシャぐのはまだ気が早い」や「領主にとって農夫の娘たちは、いわば無料の娼婦だったというわけだ」、「そんなことから、処女崇拝の習慣が、なお高まったのかもしれない」などとあり、これらは多少恣意的に表現されたものと思われる。
  14. ^ a b c d e 江守五夫著「現代教養文庫:結婚の起源と歴史」(社会思想社1965年)、同著「日本の婚姻 その歴史と民俗」(弘文堂1986年)、同著「婚姻の民俗 - 東アジアの視点から」(吉川弘文館1998年)同訳・E. A. Westermarck 著「人類婚姻史」(社会思想社、1970年)より。後者の原題は「A SHORT HISTORY OF MARRIAGE」で、フィンランド文化人類学者エドワード・アレクサンダー・ウェスターマークEdvard Alexander Westermarck)が1929年に発表した研究書である。彼は、幼児が成長と共に近親者への性的興味を失う様子を分析したウェスターマーク効果Westermarck effect)でも知られる。なお、様々な文献でよく引用される「スイスのチューリッヒやドイツのバイエルンで初夜権を拒否した場合の罰金や罰則」の事例は、ウェスターマークの研究書から引用されていることが多い。また、スイスの多くはドイツ語圏であることから、通貨単位がドイツマルク(DME)で記述されているが、現在のスイスの公式通貨はスイスフラン(CHF)である。
  15. ^ 辞書「日本国語大辞典 第ニ版」(小学館2006年)第7巻の項目「処女権」より。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中山太郎著「日本婚姻史」(春陽堂1928年)の第一節「初夜権の行使は団体婚の遺風」より。民俗学者の中山太郎(1876年-1947年)は、南方熊楠柳田邦夫とも親交があった。ただし、研究スタイルはフィールドワーク(現地調査)よりも、歴史書などの文献調査を重視する傾向にあった。なお、政治家の中山太郎は全くの別人。
  17. ^ 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第一部「民俗学篇」の項目「古代生活の研究」「水の女」「最古日本の女性生活の根柢」より。民俗学者であり国文学者でもあった折口信夫(1887年-1953年)は歌人でもあり、著書は多い。同性愛者だったことでも知られる。彼の研究を学問として体系化した「折口学」も参照のこと。
  18. ^ 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第ニ部「国文学篇」の項目「『とこよ』と『まれびと』と」より。「折口信夫全集4」(中央公論社1995年)に所蔵されている。
  19. ^ a b c 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第ニ部「国文学篇」の項目「古代生活に見えた恋愛」より。「折口信夫全集1」(中央公論社1995年)に所蔵されている。折口は「おえびす様」を「えびす様」と表記し、中部地方としている。「琉球」については沖縄地方としている。
  20. ^ 雑誌「人生創造」は、1924年に啓蒙家で文筆家の石丸梧平が妻と共に創刊した。
  21. ^ 日本「近代以前」、羽前国の108個の円餅の事例は、南方熊楠も江戸時代の本草学者(医者)、佐藤中陵の著作による随筆「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)第11巻」の中に同様の記述があるとしている。
  22. ^ a b 藤林貞雄著「性風土記」(岩崎書店1959年)より。この本は後に、岩崎美術社から数回「民俗民芸双書シリーズ」として再刷されている。
  23. ^ 太田三郎著「女」(黎明書房、1957年)より。文中の書き出しに、松川浦を訪れたのは「10年くらい前」とあることから、1940年代後半に聞いた話と思われる。
  24. ^ 阪田英一著「わが映倫時代」(共立通信社、1977年)より。警視庁が指摘したのは公開前なのか公開後なのか、タイトルなのか内容なのか、製作した映画会社はどこなのかといった詳細については述べられていない。また、同時に指摘されたピンク映画のタイトルは「女体なで切り」「性教育裏口入門」「畜生道」「青い暴行」「娘の性道徳」「壷あらそい」「処女乗っ取り」「激情の宿」「セックス開放地帯」などだったと述べられている。
  25. ^ a b 南方熊楠が「南方植物研究所」を設立しようと奔走していた際、募金活動の一環として日本郵船大阪支店副長の矢吹義夫から簡単な略歴を求められ、それに応えて宛てたのが1925年に発表した自伝的随筆「履歴書」である。結果的には総字数5万5千字以上という膨大な履歴書となった。現在は、「南方熊楠随筆集」(筑摩書房1994年)や「南方熊楠コレクション 第4巻 動と不動のコスモロジー」(河出文庫1991年)、「人間の記録84:南方熊楠 履歴書ほか」(日本図書センター1999年」)などで読むことが出来る。
  26. ^ 中山太郎は著書「日本婚姻史」の中で、南方熊楠の「種臼」話を引用しており、「十四歳くらいの少女が風呂屋へ来て、十七、八歳の木挽(こびき、材木職人)の少年を付けまわし、種臼きってくだんせ、としきりに言うていた。この年頃になっても処女でいるのを大恥辱に思っているらしいとのことである」と述べている。
  27. ^ 「南方熊楠を知る事典」(講談社1993年)より。
  28. ^ 参考:南方熊楠。著書「十二支考 鶏に関する伝説」。初出は1921年の雑誌「太陽」(博文館)。その後、「南方熊楠全集」(乾元社、1951年)や「十二支考」(岩波書店1994年)などに収録されている。
  29. ^ 参考:南方熊楠「インド」。「ヴァチヤ梵士」とはマッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ(Mallanaga Vatsyayana)を指し、「愛天経」とは「愛経文」とも翻訳される「カーマ・スートラ」を指す。なお、「アンドラ」については、「インドラ」または「アーンドラ・プラデーシュ州」を指すと思われるが、原文を読む限り特定できない。
  30. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。豊臣秀吉に関する出典は、原文のままである。
  31. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブラットンのノート・ブック」とは、13世紀のイギリスの法学者ヘンリー・ブラクトン1268年に発表した著書「Bracton's Note book」のことである。この本には「A collection of cases decided in the King's courts during the reign of Henry.」との副題があり、イングランドのヘンリー王時代にあった裁判記録が掲載されている。なお、原文ではスコットランドとイングランドの時代は特定されていないが、両国を並記していることからイングランド王がスコットランドに侵攻していた11世紀頃から15世紀頃を指すと思われる。
  32. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「『大英百科全書』十一板」とは、イギリスのジャーナリストであり編集者だったヒュー・チザム(Hugh Chisholm)が、1910年に改訂出版したブリタニカ百科事典 第11版(全29巻)を指す。また、原文は「紀元398年」だが、第二次シチリア戦争の最中だった紀元前398年と思われる。
  33. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「マルコルム三世」とはスコットランド王のマルカム3世を指す。また、「義経は母を何とか」とは、源義経と、彼の母親である常盤御前を指す。これは、平清盛が常盤御前と源義朝の間に出来た子供たちを殺そうとするが、彼女が絶世の美女であったことから助命嘆願を聞き入れ、その交換条件としてになることを要求したとする故事に倣っている。
  34. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブリヴ邑(村)」はフランスのコレーズ県にあるブリーヴ=ラ=ガイヤルドを指す。日本語では「ブリーブ」や「ブリブ」とも書かれる。「コラン・ド・ブランシー」とは「地獄の辞典」編纂をライフワークとしたフランスの作家コラン・ド・プランシーを指す。
  35. ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。原文には特に出典がない。
  36. ^ 参考:南方熊楠「南米」。啓蒙家で文筆家だった尾佐竹猛が、明治文化研究会の設立準備を進めていた時期にやりとりした書簡の中から引用したと思われる。従って、1900年初頭と思われるが、この件を尾佐が何かを読んで書いたのか、それとも誰かから聞いて書いたのかなどは不明である。
  37. ^ 参考:南方熊楠「中国」。「南方は、この人々の末裔が「烏滸人(おこびと、アムダリヤ川流域の民族)」であり、「阿呆を烏滸という」起源であろうと述べている。
  38. ^ 参考:南方熊楠「日本」。藤屋伊左衛門は吉田屋若旦那で、現在でも歌舞伎の演目「廓文章(くるわぶんしょう)」の主役として演じられ続けている。
  39. ^ 参考:南方熊楠「日本」。原文には特に出典がなく、南方の体験談を交えていると思われる。
  40. ^ 参考:南方熊楠「日本」。「藤沢君の『伝説』信濃巻」とは、民俗学者の藤沢衛彦1917年に発表した著書「日本伝説叢書 信濃の巻」(日本伝説叢書刊行会)を指す。これは、その後に「すばる書房」から何度か再刷された。なお、これは貢米賃の立替行為であって、南方も多少蛇足のように述べている節が伺える。
  41. ^ 辞書「事典 家族」(弘文堂1996年 )の項目「初夜の忌」と項目「トビアの晩」より。共に、社会学者の江守五夫による解説である。
  42. ^ レイモンド・モリゾー著・熊沢一衛訳「ヴォルテールの現代性」](三恵社、2008年)。啓蒙思想家でもあったヴォルテールは政治や法律に関する著作が多く、彼を研究したこの著書の第XII(12)章「ジュラ山中の農奴とジェックス地方」では、遺産継承権(財産遺贈権)の考察で「カップルは初夜の日にどちらの家にいるかが問われる」とある。


関連項目