「バグダード」の版間の差分
Luckas-bot (会話 | 投稿記録) m r2.5.2) (ロボットによる 追加: hsb:Bagdad |
m →歴史的建造物: lk、微調整 |
||
(3人の利用者による、間の9版が非表示) | |||
75行目: | 75行目: | ||
|備考 = |
|備考 = |
||
}} |
}} |
||
'''バグダード'''({{Lang-ar|'''بغداد'''}}/{{Lang|ar|''Baghdad''}})は、[[イラク]]の[[首都]]。[[バグダード県]]の[[県都]]。 |
|||
'''バグダード'''({{Lang-ar|'''بغداد'''}}/{{Lang|ar|''Baghdad''}})は、[[イラク]]の[[首都]]で同国最大の都市。また、[[バグダード県]]の[[県都]]でもある。[[アッバース朝]]によって建設された[[古都]]であり、[[中東]]諸国では[[カイロ (エジプト)|カイロ]]、[[テヘラン]]、[[イスタンブル]]に次ぐ大都市である。[[2005年]]の人口はおよそ590.4万人<ref>『データブック・オブ・ザ・ワールド 2009年版』p.50</ref>。 |
|||
== 概要 == |
|||
[[アッバース朝]]によって建設された古都で、[[中東]]諸国では[[カイロ (エジプト)|カイロ]]、[[テヘラン]]、[[イスタンブル]]に次ぐ大都市。[[2003年]]の人口はおよそ577万人。 |
|||
日本では多くの場合'''バグダッド'''と表記されるが、[[アラビア語]]の綴り |
日本では多くの場合'''バグダッド'''と表記されることも少なくないが、[[アラビア語]]の[[綴り]]と[[発音]](bæɣˈdæːd)に近づけると'''バグダード'''という表記になる。バグダッ'''ト'''なる[[誤記]]も散見されるが、これは「ベット」「バック」などと同じ誤りである<ref group="注釈">記事「''[[日本語の誤用#濁点・半濁点の混乱]]''」参照のこと</ref>。 |
||
バグダードは、[[2003年]]3月の[[イラク戦争]]で[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、[[連合国暫定当局]](CPA)本部が置かれた<ref name=hara>『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分</ref>。その後、[[2004年]]6月には[[イラク暫定政権]]への主権移譲がなされ、[[イラク移行政府]]を経て[[2006年]]には[[ヌーリー・マーリキー|ジャワド・マリキ]](ヌーリー・マーリキー)を首班とする[[イラク正式政府]]が成立し、現在に至っている。 |
|||
== 地理 == |
|||
イラクのほぼ中央にあり、メソポタミア平原の中心。[[チグリス川|ティグリス河]]畔に位置する。川の左岸には諸官庁、右岸には空港やテレビ局などがある。 |
|||
== 立地と地理概況 == |
|||
バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、[[チグリス川|ティグリス川]]中流の河畔に位置する。その西を流れる[[ユーフラテス川]]は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。 |
|||
バグダードの市街地は、蛇行するティグリス川の両岸にひろがっている。左岸(東岸)にはラシード通りや[[バザール]](市場)、諸[[官庁]]および在外公館、旧[[王宮]]、[[カージマイン・モスク]]([[:en:Kadhimiya|en]])、民族解放記念碑、[[バグダード大学]]、[[銀行]]、また、[[ホテル]]や[[レストラン]]、新住宅地などがあり、右岸(西岸)には[[空港]]や[[テレビ局]]、大統領府や議事堂、バグダード中央駅、[[病院]]、高級住宅街などがある<ref name=hara/>。歴史的には西岸が古いものの、東岸より先に荒廃し、むしろ東岸に古さが残っている<ref name=banyu>末尾(1975)p.468</ref>。なお、かつての環状都市は現在その痕跡をとどめていない<ref name=banyu/>。 |
|||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
{{See also|en:History of Baghdad}} |
|||
[[ファイル:1973 Baghdad mosque.jpg|thumb|220px|left|バグダードの[[モスク]](1973年)]] |
|||
=== イスラーム以前 === |
|||
[[ファイル:Kiowa over Baghdad.jpg|thumb|220px|left|バグダード上空を飛ぶアメリカ軍のヘリコプター]] |
|||
バグダードの歴史は古代[[メソポタミア文明]]にさかのぼる。すでに紀元前3000年代の[[シュメール人]]の[[都市国家]]の時代、あるいは[[アッカド|アッカド王国]]の時代から[[集落]]の存在が確認されており、[[ハンムラビ王]]の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる<ref name=banyu/>。また、バグダードの周辺には[[バビロン]]、[[セレウキア]]、[[クテシフォン]]、[[アカルクーフ]]など古代の首都遺跡が数多く分布する<ref name=britanica>『ブリタニカ国際大百科事典』(1974)pp.158-159「バグダード」(糸賀昌昭訳)</ref>。[[紀元前8世紀]]ころには[[アラム人]]が集住を開始しており、やがて、年ごとの[[定期市]]を開くことが慣例になったものと考えられる<ref name=sato>佐藤(1988)pp.437-438</ref><ref group="注釈">中世ヨーロッパでは長いあいだバグダードは王都[[バビロン]]と同一であると誤認されていたが、イスラーム以前のバグダードは[[定期市]]がひらかれる一集落にすぎなかった。</ref>。 |
|||
バグダードの歴史は[[メソポタミア文明]]にまでさかのぼり、[[サーサーン朝]]時代にはチグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。都市名のバグダードは[[ペルシア語]]で「神の贈り物」を意味するとされる。 |
|||
[[サーサーン朝]]時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。都市名のバグダードは[[ペルシア語]]で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる<ref name=sato/><ref group="注釈">「羊の家」をあらわす[[アラム語]]が[[語源]]であるという異説もあって、一定しない。</ref>。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の[[農産物]]の集積地として[[食糧]]事情に恵まれ、東西の[[隊商]]ルートと南北の[[河川]]ルートの交わる[[交易]]の結節点となりうる地の利を持っていた<ref name=sato/>。この地方が[[アラブ人]]に占領されたのは、[[634年]]のことである。 |
|||
=== アッバース朝カリフの都 === |
|||
[[ファイル:Baghdad 150 to 300 AH.gif|350px|thumb|right|アッバース朝下のバグダード(767年ころ-912年ころ)]] |
|||
バグダードは、[[762年]]に[[アッバース朝]]第2代[[カリフ]]の[[マンスール]]によって新都に定められた[[計画都市]]で、[[北アフリカ]]から[[中央アジア]]に至る広大な[[イスラーム帝国]]の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された<ref name=sato/><ref group="注釈">初代の[[アブー・アル=アッバース]](サッファーフ)は、いわゆる「[[アッバース革命]]」の成功により[[クーファ]]で即位した。サッファーフは、クーファから北方の[[ハーシミーヤ]]、さらにはバグダード西方の[[アンバール]]に都を遷した。第2代カリフのマンスールはサッファーフの兄にあたり、いったんはハーシミーヤに復都したものの、その地は多数のシーア派住民が住むクーファに近く政情不安が懸念されたので新都の建設が求められた。</ref>。当時のバグダードは[[キリスト教]]の[[司祭]]や[[羊飼い]]などが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の[[運河]](イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた<ref name=banyu/><ref name=stu79>スチュアート(1973)pp.79-81</ref>。イスラームの[[年代記]]によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って[[綿]]油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる<ref name=sugita12>杉田(2006)pp.12-15「アラビアン・ナイトの時代」</ref><ref group="注釈">円城都市には[[メディア王国]]の首都[[エクバタナ]](現在の[[ハマダーン]])やサーサーン朝の都市グール(現在のフィールザーバード)など古代[[オリエント]]以来の伝統がある</ref>。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万[[ディルハム]]の[[費用]]を投じて[[766年]]に完成した<ref name=sato/><ref name=sugita12/>。 |
|||
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また[[東ローマ帝国]]やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となった[[ホラーサーン]]軍団<ref group="注釈">アラブ大遠征以降、軍団内でのアラビア半島出身者のアラブ人兵士の重要性が減じ、かわってホラーサーン地方出身者の軍人やその他の側近軍団、9世紀以降はトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)が軍の主力をになうようになった。</ref>とその子孫の駐屯地として繁栄した<ref name=ama> {{PDFlink|[http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_amabe.pdf 余部福三「アッバース朝期のバグダードの民衆運動」]}}</ref>。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する[[宮殿]]や[[モスク]]が建てられ、それぞれの[[ドーム]]は高貴な色とされた[[緑色]]の[[タイル]]で覆われた。周囲には、諸[[官庁]]、カリフ一族の館、[[親衛隊]]駐屯所などが並び、 |
|||
*[[南西]]の「クーファ門」([[アラビア半島]]から[[メッカ]]へ) |
|||
*[[北西]]の「シリア門」([[シリア]]から[[地中海]]を経て[[東ローマ帝国]]へ) |
|||
*[[北東]]の「ホラーサーン門」([[イラン]]のホラーサーンから[[シルクロード|絹の道]]により[[中央アジア]]・[[中国]]へ) |
|||
*[[南東]]の「バスラ門」([[バスラ]]から[[シルクロード#海のシルクロード|海の道]]により[[インド洋]]を経て[[東南アジア|東南アジア世界]]へ) |
|||
の4つの[[門]]を有していた<ref name=sato/>。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった <ref name=daigeidai>{{PDFlink|[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_13.pdf 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」]}}(大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」)</ref>。 |
|||
城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、[[商人]]や[[職人]]などの一般市民は城外への居住が義務づけられた。円城の都は、直交する2条の[[道路]]により4つの[[おうぎ形]]の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした<ref name=stu79/>。第3代カリフの[[マフディー (アッバース朝カリフ)|マフディー]](マンスールの子、在位[[775年]] - [[785年]])の代にはティグリス川東岸にも[[軍隊]]が置かれ、それにともなって[[商人]]や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという<ref name=banyu/>。また、アッバース朝の歴代[[宰相]](ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている<ref name=sato/>。 |
|||
[[アラビア語]]で「平安の都」を意味する'''マディーナ・アッ=サラーム'''の名が与えられた新都バグダードは、当時、[[唐]]の[[長安]]と並ぶ世界最大の都市であった<ref group="注釈">「マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)」はマンスールによる命名。[[天国]]を意味する「ダール・アッ=サラーム(平安の館)」が意識されたものといわれるが、実際には従来よりの呼称バグダードが多用された。なお、中国では[[宋]]代以降「白達」と表記され、[[イタリア語]]ではバルダッコ(Baldacco)の名で知られた。</ref>。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、[[ハールーン・アッ=ラシード]](在位[[786年]] - [[809年]])の時代には150万人におよんだとみられる<ref name=iwa34>岩淵(1993)pp.34-37</ref>。バグダード市民はとりわけ[[コーラン]]の教えを遵守するよう求められ、バグダードの街には6万の礼拝所と3万の[[公衆浴場]]があったといわれる。大説話集『[[千夜一夜物語]]』収載の多くの物語の舞台にもなっており<ref group="注釈">『千夜一夜物語』は単にお伽噺のみならず、史実にもとづいた物語を数多く含んでいるとみられている。しかし、後世換骨奪胎してつくられた話やハールーンに仮託された話も多く、その場合はハールーンを主人公とし、バグダードを舞台としておりながらも実際の細部の地理などについては不正確なことも多い。</ref>、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている<ref group="注釈">好色な場面はハールーンが登場人物となることが多いところからバグダード起源の説話が多く、悪漢の登場する説話は[[カイロ]]起源のものが多いと考えられている。</ref>。 |
|||
[[ファイル:Baghdad old Abbasid Minaret.jpg|140px|right|thumb|スーク・アル=ガーズル寺院のミナレット(尖塔)<br/>バグダード現存最古と記録される10世紀初頭の建造物(撮影は1911年)]] |
|||
アッバース朝は[[駅伝制 (アッバース朝)|駅伝制]](バリード)によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、[[中近東]]における代表的な商業都市であるというばかりではなく、[[中国]]、[[東南アジア]]、[[インド]]から[[サハラ砂漠|サハラ]]以南の[[アフリカ]]までを含む国際[[交易]]網の中心として、また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた<ref name=iwa34/>。 |
|||
バグダードはまた、[[イスラーム世界]]の[[学問]]の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]において唐軍を破り、唐で国外不出とされた[[紙]]の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちには[[ダマスクス]]にも設けたといわれている<ref>岩村(1975)pp.244-246</ref>。中国からは[[養蚕]]の技術や[[羅針盤]]も伝わった。インドからは[[ゼロ]]の数字をもつ[[数学]]が伝来し、インド数字をもとに[[アラビア数字]]がつくられた<ref name=iwa34/>。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人[[アブー・ヌワース]]、歌手[[イブラーヒーム・アルマウスィリー]]とイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した<ref>杉田(2006)pp.18-19「ハールーン・アッラシード」</ref><ref group="注釈">「創造されたコーラン」説を唱え、アッバース朝下の各民族を描写した文でも知られる、9世紀アラブの文人[[ジャーヒズ]]もバグダードで活躍した人物である。</ref>。また、数多くの[[ギリシア語]]文献が収集されて[[アラビア語]]に翻訳された。とくに9世紀前半に第7代カリフ[[マアムーン]]によってバグダードに建設された「[[知恵の館]]」では、[[プラトン]]や[[アリストテレス]]などの著作が翻訳・研究された<ref group="注釈">詩人でもあったマアムーンは翻訳者に訳した本と同じ重さの[[黄金]]をあたえたという。</ref>。こうして[[ギリシア]]・イラン・インドにおける[[哲学]]・数学・[[自然科学]]・[[医学]]などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちに[[ラテン語]]にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。 |
|||
商業のさかんであったバグダードの[[市場]](スーク)には世界中の[[商品]]が集まった。中国の[[絹織物]]や[[陶磁器]]、インド・東南アジアの[[香辛料]]、アフリカの[[金]]や[[奴隷]]などである。世界で初めて[[小切手]]が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶ[[アーケード]]に設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は[[773年]]におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。その後、カルフ地区は[[シーア派]]を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や[[綿織物]]、[[ガラス]]・[[金属]]工芸、[[刀剣]]、紙などが産品として著名であり、とくに[[織物]]は各地に[[輸出]]されている<ref name=sato/>。 |
|||
[[ワクフ]]といわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、[[モスク]]や医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって[[国富]]が増大した。特に医療面では世界初の総合[[病院]]が設けられている。イスラームの医学は、のちの[[西洋医学]]に大きな影響をあたえた。 |
|||
ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子([[アミーン]]とマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全に復旧されなかった<ref name=banyu/><ref name=ama/>。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。 |
|||
[[9世紀]]の[[ムウタスィム]]による一時的な[[サーマッラー]]への遷都([[836年]])後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の[[813年]]と第12代カリフ[[ムスタイーン]]治下の[[865年]]に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。[[892年]]、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた<ref name=britanica/>。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から[[10世紀]]初頭にかけてといわれている<ref name=sato/>。しかし、[[946年]]には[[十二イマーム派]]を奉ずる[[ブワイフ朝]]のアフマドがバグダード入りしてカリフより政治の実権を奪い、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える[[軍人]]相互の抗争、民衆暴動の頻発<ref name=ama/>、[[洪水]]の頻発などによって次第に荒廃しはじめた<ref name=morimoto>『日本大百科全書』(2004)森本公誠執筆分</ref>。 |
|||
=== アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退 === |
|||
[[1055年]]、[[トルコ人]]による中央アジア出身の王朝[[セルジューク朝]]がバグダードを占領した。セルジューク朝初代の[[トゥグリル・ベグ]]は、ブワイフ朝の勢力を駆逐してバグダードのカリフより「[[スルタン]]」の称号<ref group="注釈">こののち、「スルタン」はスンナ派イスラーム国家の君主号として定着して広く用いられる。</ref>を受け、カリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「[[バグダード・カリフ領]]」としてセルジューク朝および[[ホラズム・シャー朝]]の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝のイラン人宰相[[ニザームルムルク]]は、シーア派勢力の拡大に対抗して[[スンナ派]]の[[ウラマー]](法学者)を養成する必要から、[[1067年]]、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠した[[マドラサ]]([[ニザーミーヤ学院]])を建設した<ref group="注釈">ニザーミーヤ学院は、バグダードのみならず[[ニーシャープール]]や[[イスファハーン]]、[[ライイ|レイ]]にも建てられた。この学院がイスラーム世界のマドラサ教育の先がけとなった。</ref>。 |
|||
[[ファイル:Hulagu Baghdad 1258.jpg|320px|thumb|right|1258年のフレグのバグダード侵攻を描いた14世紀の[[細密画]]([[パリ国立図書館]]蔵)]] |
|||
[[1258年]]、[[モンゴル帝国]]軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した([[バグダードの戦い]])。[[チンギス・カン]]の孫にあたるモンゴルの将[[フレグ]]は最後のカリフ[[ムスタアスィム]]を殺害し、住民80万を殺戮したといわれる<ref name=britanica/>。豊かな農耕地と[[灌漑]]施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てた[[イルハン朝]]に属した。[[1234年]]完成の[[ムスタンスィリーヤ学院]]や12世紀の城門のひとつ[[バーブ・アルワスターニー]]などを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の[[遺構]]はごく少数しか遺存していない<ref name=sugita12/>。 |
|||
[[14世紀]]にモンゴルより独立した[[ジャライル朝]]は、[[ミルジャン・モスク]]([[1358年]])や現在イスラーム博物館となっている[[ハーン・マルジャーン]]などの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も[[マムルーク朝]]の都[[カイロ (エジプト)|カイロ]]にうつり、イラク地方における一地方都市へと転落した。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者[[イブン=バットゥータ]]がバグダードを訪れている<ref> [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0658.html 松岡正剛の千夜千冊/イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』]</ref>。こののち、バグダードは、14世紀末と[[15世紀]]初め、2度にわたって[[ティムール]]の略奪を受け、15世紀なかばには[[廃墟]]同然になった<ref name=morimoto/>。 |
|||
アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、[[ティムール朝]]の支配を受けたのち、[[1410年]]には[[テュルク系]]の[[黒羊朝]]、[[1469年]]からは同じテュルク系の[[白羊朝]]の支配を受け、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけては、トルコの[[オスマン帝国|オスマン朝]]のスルタンとペルシアの[[サファヴィー朝]]の[[シャー]]とのあいだで争奪の対象となった。すなわち、[[1508年]]にはシャー[[イスマーイール1世]]のサファヴィー朝、[[1534年]]には皇帝[[スレイマン1世]]のオスマン帝国、[[1623年]]には[[アッバース1世]]のサファヴィー朝、[[1634年]]には[[ムラト4世]]のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている<ref name=britanica/>。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。 |
|||
17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守[[アフメット・パシャ]]および[[ハサン・パシャ]]は、行政機構の内部に[[シルカシア人]][[マムルーク]]の奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した<ref name=britanica/>。 |
|||
=== イラク王国の首都に === |
|||
[[ファイル:Baghdad-Carriage 1930.jpg|270px|right|thumb|1930年のバグダード]] |
|||
[[1798年]]、[[イギリス]]の[[商館]]がバグダードに建設され、[[1802年]]にはその駐在官が[[領事]]としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた<ref name=britanica/>。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、[[ヨーロッパ大陸]]においては従来小国分立の状態にあった[[ドイツ]]と[[イタリア]]に統一国家([[ドイツ帝国]]、[[イタリア王国]])が成立し、とくに新興ドイツは[[中近東]]への進出をめざした。ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世]]は大海軍の建造に着手する一方、[[1899年]]にオスマン帝国から[[バグダード鉄道]]の敷設権を獲得して、[[ベルリン]]、[[イスタンブル]](ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に[[資本]]を投下することにより[[西アジア]]地域への勢力拡大をはかった([[3B政策]])。しかし、この政策は[[イギリス]]の[[3C政策]]のみならず[[ロシア]]の南下政策との対立を招いた。 |
|||
[[1914年]]に起こった[[第一次世界大戦]]は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の[[1915年]]、「[[アラブの反乱]]」をあおってアラブの名門[[ハーシム家]]の[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]にマクマホン書簡を手渡した([[フサイン=マクマホン協定]])<ref>岩淵(1993)pp.38-39</ref>。[[1917年]]、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。 |
|||
戦後の[[1921年]]には現在のイラクの領域に[[イギリス委任統治領メソポタミア]]が成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。[[1932年]]には委任統治が終了し、ハーシム家の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]](フサインの三男)を君主とする[[イラク王国]]が成立した<ref group="注釈">ハーシム家のイラク王国は、[[サウード家]]の[[サウジアラビア]]とは対立した。</ref>。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった[[1900年]]の段階では14万人だったバグダードの人口は、[[1950年]]には50万人に達している。 |
|||
=== 現代 === |
|||
メソポタミアの農産物の集積地として食料事情に恵まれ、交易の結節点となりうる地の利を持つバグダードの地は[[762年]]に[[アッバース朝]]の第2代[[カリフ]]、[[マンスール]]によって新都に定められ、[[北アフリカ]]から[[中央アジア]]に至る広大な[[イスラム帝国]]の中心にふさわしい新都として、直径2.35kmの正円の城壁を持った都市が建設された。[[アラビア語]]で「平安の都」を意味する'''マディーナ・アッ=サラーム'''の名が与えられた新都バグダードは中近東の代表的な商業都市として栄え、市街地は城壁を越えてチグリス川の対岸まで大きく広がった。 |
|||
[[ファイル:1973 Baghdad mosque.jpg|thumb|170px|left|バグダードのアルブネーヤ・モスク(1973年撮影)</br>手前を走る赤白のバスは[[ハンガリー]]製]] |
|||
[[第二次世界大戦]]直後の[[1946年]]、イラク王国は[[アラブ連盟]]に加盟したが、やがて世界は「[[冷たい戦争]]」とよばれる東西対立の時代にはいった。[[1955年]]、[[パキスタン]]、[[イラン]]、イラク、[[トルコ]]、イギリスの5か国は[[中央条約機構|中東条約機構]](METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これは[[ソ連]]封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、[[1958年]]7月14日、バグダードで反英米共和政派による[[クーデタ]]([[7月14日革命]])が起こった。この政変により、国王一家や[[摂政]]が殺害され、[[アブド・アル=カリーム・カーシム]]を首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌[[1959年]]にバグダード条約機構を脱退した。 |
|||
その後、[[1963年]]の[[バアス党]]のクーデタ、[[1968年]]の同党による一党独裁、[[1979年]]の[[サッダーム・フセイン]]政権の成立、[[1980年]]から[[1988年]]までの[[イラン・イラク戦争]]<ref group="注釈">1988年に停戦が実現し、1990年イラン側の和平条件を全面的に受け入れることを表明した。</ref>、[[1990年]]の[[クウェート侵攻]]とそれにつづく[[1991年]]までの[[湾岸戦争]]、[[2003年]]の[[イラク戦争]]など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。 |
|||
アッバース朝の最盛期を築いた[[ハールーン・アッ=ラシード]]の時代から数十年のあいだ繁栄を極めたバグダードの人口は100万人を越え、[[イスラム世界]]の学問の中心地として各地から多くの学者が集まり、[[千夜一夜物語]]の多くの物語の舞台にもなった。[[コーラン]]の教えを忠実に守り商業が奨励され世界で初めて小切手が使用された。 |
|||
世界の十字路と呼ばれ、交易が盛んとなり、[[キルギス]]での[[唐]]との戦いに勝利、当時国外不出であった製紙法を獲得し、行政通達の円滑化が進んだ。 |
|||
また、[[ワクフ]]といわれる有力者による寄付行為が盛んに行われ[[モスク]]や医療施設、市場が多数創られ市場からの収益が国益を産んだ。特に医療面では世界初の総合病院が設けられ、西洋医学の基礎につながった。 |
|||
なお、バグダード郊外の[[サドルシティ]]は[[イスラム主義]]が影響力を持っており、かつては[[イラク共産党]]が強いところであった。1963年のバアス党のクーデタの際には[[レジスタンス運動]]が起こっており、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。 |
|||
[[9世紀]]の一時的な[[サーマッラー]]への遷都の時代もバグダードの繁栄は揺るがなかったが、[[10世紀]]頃からアッバース朝を支える軍人同士の抗争や洪水の頻発から次第に荒廃し始め、[[1258年]]の[[モンゴル帝国]]軍の侵攻によってアッバース朝が滅ぼされ、カリフの都の座を奪われると学問の中心の座も[[マムルーク朝]]の都[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に譲り、ただイラク地方の中心に過ぎない地方都市へと転落した。 |
|||
[[ファイル:Kiowa over Baghdad.jpg|thumb|220px|right|バグダード上空を飛ぶアメリカ軍のヘリコプター(2004年3月)]] |
|||
アッバース朝滅亡後のバグダードは[[イルハン朝]]、[[ティムール朝]]の支配を受けたのち、[[オスマン帝国|オスマン朝]]と[[サファヴィー朝]]の争奪を経て[[17世紀]]にオスマン朝の支配下に入った。この間、政治的には全く周縁であったバグダードは衰退を続けたが、オスマン帝国支配下で次第に復興を遂げた。[[1921年]]に[[イギリス]]の委任統治下で成立したイラク王国の首都となり、[[1900年]]に14万人だった人口は[[1950年]]には50万人に増加した。 |
|||
2003年のイラク戦争では米軍が[[空爆]]をおこない最終的に[[陸軍]]を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された<ref group="注釈">しかし、「大量破壊兵器」なるものが存在しなかったことは[[アメリカ合衆国連邦議会]]によってのちに証明された。</ref>。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的[[民主主義]]への反発などから抗争が続いている。 |
|||
[[2009年]]1月より[[アメリカ合衆国大統領]]を務める[[バラク・オバマ]]は[[2011年]]中のイラクからの完全撤退を公約しており、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了した。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模な[[テロ]]や爆破がつづいている。 |
|||
[[2003年]]の[[イラク戦争]]では[[アメリカ軍]]が空爆を行い、最終的には制圧したが、反米組織やテロ組織による[[テロ]]が増え、治安が悪化している。 |
|||
== 自然 == |
|||
バグダード郊外のサドルシティは[[イスラム主義]]が影響力を持っており、かつては[[イラク共産党]]が強いところで[[1963年]]の[[バアス党]]のクーデターに[[レジスタンス運動]]を起こさせており、[[サッダーム・フセイン]]政権ではサダムシティとされた。 |
|||
ティグリス川の両側に発達したバグダードの街は、鉄道橋も含め5つの[[橋]]で東西が結ばれている<ref name=britanica/>。6番目の橋が、カージマイン・モスクのある北郊のカージミーヤ地区に通じている<ref name=britanica/>。 |
|||
== 気候 == |
=== 気候 === |
||
[[ケッペンの気候区分]]でいう[[砂漠気候]]に属する。年平均気温は約22℃と温暖。気温の日較差は一年を通して大きい。 |
[[ケッペンの気候区分]]でいう[[砂漠気候]](BW)に属する<ref>岩淵(1993)pp.28-29</ref>。年平均気温は約22℃と温暖である。冬も平均最高気温が15℃をくだらないが、夏の暑さは厳しい。気温の日較差は一年を通して大きい。年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。冬季は、[[北極]]方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数<ref group="注釈">「月平均降雨日数」とは、日降水量0.25mm以上の月平均日数を指している。</ref>が3日ないし5日に達する。 |
||
{{Infobox Weather |
{{Infobox Weather |
||
166行目: | 221行目: | ||
|accessdate = 2010-10-13 |
|accessdate = 2010-10-13 |
||
}} |
}} |
||
=== 自然災害 === |
|||
バグダードは、その自然条件により、しばしば大[[洪水]]に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、ティグリス川上流のサーマッラーに[[治水]]用の[[ダム]]が設けられため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた<ref name=britanica/>。 |
|||
== 産業 == |
== 産業 == |
||
伝統的 |
バグダードは、イラクの経済・交通・文化の中心であり、イラク工業の大半が集中する。伝統的工業として[[じゅうたん]]や絹織物、また綿製品・[[皮革]]製品・[[たばこ]]・[[アラック|アラック酒]]などがあり、[[セメント]]や鉄道修理、食品加工、[[繊維]]などの近代工業もさかんである<ref name=hara/><ref name=britanica/>。また[[石油]]化学工業なども盛んであるが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争など度重なる戦争で多くの施設が破壊されたこともあり、現在修復作業がさかんに行われている。 |
||
== 交通 == |
== 交通 == |
||
[[ファイル:Baghdad International Airport (October 2003).jpg|280px|right|thumb|バグダード国際空港(2003年撮影)]] |
|||
[[バグダード国際空港]]から[[ヨルダン]]の[[アンマン]]や[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]などに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離[[バス (交通機関)|バス]]やチャーター[[タクシー]]で行くことができる。 |
[[バグダード国際空港]]から[[ヨルダン]]の[[アンマン]]や[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]などに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離[[バス (交通機関)|バス]]やチャーター[[タクシー]]で行くことができる。 |
||
イラクの[[鉄道]]は、オスマン帝国時代末期にさかのぼるが、鉄道網の大部分は第一次世界大戦中にメソポタミアを占領したイギリス軍によって建設されたものである<ref>フォーダー(1979)pp.342-343</ref>。バグダードからは、[[バスラ]]や[[モスル]]、[[キルクーク]]などイラク国内の主要都市と結ばれるだけでなく、[[シリア]]やトルコなどへも延伸しており、さらにヨーロッパ大陸に通じる<ref name=hara/>。 |
|||
[[汽船]]がティグリス川を航行し、バスラとのあいだを結んでいる。なお、バグダードの交通網を改善するため19世紀に実施された調査では、ユーフラテス川の汽船航行は不可能であることが判明している<ref name=britanica/>。 |
|||
幹線道路は、イラク国内各地のみならずヨルダン、シリア、イラン、[[クウェート]]などと結ばれており、現代においてもバグダードは水陸交通の要衝となっている。 |
|||
== 観光 == |
== 観光 == |
||
=== 歴史的建造物 === |
|||
モンゴルとティムールの侵攻による破壊や[[煉瓦]]という[[風化]]しやすい素材が建築用材として用いられることが多かったことが原因で、現存する遺構の数は決して多くない。アッバース朝時代の建築としては、以下の数棟がのこるのみである<ref name=sugimura>杉村(1988)p.438</ref>。 |
|||
[[ファイル:Mustansiriya University CPT.jpg|200px|right|thumb|ムスタンスィリーヤ学院]] |
|||
ムスタンスィリーヤ学院([[:en:Mustansiriya Madrasah|en]])は[[1234年]]に建てられた煉瓦造のマドラサで、しばしば「世界最古の大学」と称される。名称は創設者の第36代カリフ[[ムスタンスィル]]に由来する。この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、1258年、フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、そのため川は[[インク]]で黒く染まったといわれている<ref name=abe>{{PDFlink|[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/abemasao.pdf 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」]}}</ref><ref group="注釈">フレグの七男[[テグデル]]はムスタンスィリーヤ学院への[[寄進]]をおこなっている。</ref>。[[中庭]]には泉水をともない、複数の[[イーワーン]]が外部と中庭をつないでいる<ref name=daigeidai/>。建物は現在、[[博物館]]として利用されており、[[イラク中央銀行]]の発行する[[イラク・ディナール]]紙幣の図柄にもなっている。 |
|||
[[アッバース宮殿]]は[[1230年]]ころマドラサとして建設された建物で、ミダーン地区に所在する。博物館に改装されて利用されていた<ref name=sugimura/>が、2003年、強盗団によってアッバース朝時代の[[家具]]・調度品・書籍のほとんどが略奪された<ref>『文化財発掘出土情報』2003年7月号</ref>。 |
|||
12世紀に建設された[[バーブ・アルワスターニ]]は、バグダードに現存する唯一の城壁門であり、円形都市建設時の「ホラーサーン門」に相当する。現在は戦争博物館になっている<ref name=sugita12/><ref> [http://www.ersdac.or.jp/ASTERimage2/library_J.html ASTERがとらえた世界の都市]</ref>。 |
|||
スーク・アル=ガーズル寺院の[[ミナレット]](尖塔)は市内で最も古い建造物で10世紀初頭の作といわれる。なお、スーク・アル=ガーズルとは「糸市場」の意であり、現在は古い街並みを見下ろす位置にあるが、かつてはカリフのモスクの尖塔であった。この尖塔の下位部分はいまだ土に埋もれたままである<ref name=asahi>『朝日旅の百科』(1981)pp.1608-1614</ref>。 |
|||
[[シッタ・ズバイダの墓塔]]は[[1179年]]ころから[[1225年]]ころまでの時期に建設されたもので、[[八角形]]の基台のうえに[[ムカルナス]]装飾をともなった[[三角錐]]の形状の塔をのせた墓である。 |
|||
アッバース朝滅亡以後のものとしては、モスク、マドラサ、墓廟より成る[[マルジャーニーヤ建築群]]や隊商宿として用いられたハーン・マルジャーンがあり、ともに14世紀中葉の遺構である<ref name=sugimura/>。イラク観光省の修復を経て[[料亭]]としても用いられたハーン・マルジャーンは、[[アミン・アルジャーン]]によって建設されたイラク唯一の屋根付きハーン(宿舎)である。2階建てでユニークな設計プラン・採光法を採用している<ref name=sugimura/><ref name=abe/>。 |
|||
=== 聖地・宗教施設 === |
|||
{{see also|:en:List of mosques in Baghdad}} |
|||
[[ファイル:Kadhm mosque.jpg|180px|right|thumb|カージマイン・モスクのドームと尖塔]] |
|||
[[カージマイン・モスク]]([[:en:Al-Kadhimiya Mosque|en]])は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。[[金色]]をした[[銅板]]の[[ドーム]]と美しい[[釉薬|彩釉]]タイルの門で知られ、シーア派第7代[[イマーム]]の[[ムーサー・カーズィム]](位[[765年]]-[[799年]])および第9代イマームの[[ムハンマド・タキー]](位[[818年]]-[[835年]])が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名もある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀に[[ガージャール朝]]ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれた<ref name=abe/>。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している<ref name=abe/>。カージマイン・モスクの周辺には住宅が広がっている<ref name=britanica/><ref group="注釈">[[正統カリフ時代]]第4代カリフの[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]](預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の[[従兄弟|従弟]]で[[女婿]]、シーア派の初代イマーム)は、現バグダード市南部のカルフにあったモスクで暗殺されたと伝承される。バグダードの南160キロメートルの[[ナジャフ]]にはアリーの墓廟があり、ナジャフとバグダードのおよそ中間に位置する[[カルバラー]]もシーア派の聖地となっている。</ref>。 |
|||
一方、スンニ派信者の多い地区には[[アブ・ハニファ・モスク]]([[:en:Abu Hanifa Mosque|en]])などのスンニ派モスクがある。 |
|||
=== 博物館 === |
|||
{{see also|:en:National Museum of Iraq}} |
|||
[[ファイル:Baghdadmuseum.png|240px|left|thumb|イラク国立博物館「アッシリアの間」]] |
|||
「''[[バグダード#歴史的建造物|歴史的建造物]]''」の節で示したように、バクダードでは歴史的建造物の多くは[[博物館]]に改装されている。 |
|||
イラク王国成立時の[[1926年]]に創設された[[イラク国立博物館]]は世界有数の考古学的博物館である。[[先史時代]]からメソポタミア文明、アッバース朝イスラーム帝国、および、イスラーム諸王朝の貴重な[[文化遺産]]・[[遺物]]が文明史ごとに28のギャラリーに分けて分類展示されている。しかし、2003年のイラク戦争の混乱に乗じて約1万5000点の収蔵品が密売目的で略奪されてしまい、これは世界的な話題となった。その後、数千点が返還されたものの、今なお数千点が行方不明のままである。この博物館には、古代史や各文明にかかわる諸言語の出版物を備えた考古学図書館も附設されている。 |
|||
上記のほかには、自然史博物館、民俗博物館、国立近代美術館などがある<ref name=sugimura/>。 |
|||
=== バグダード動物園 === |
|||
{{See also|en:Baghdad Zoo}} |
|||
イラン戦争においては[[バグダード動物園]]も米軍の攻撃対象とされた。バグダード陥落後、貧窮した一部の市民によって動物園は襲撃を受け、多くの動物が殺され、食べられたという<ref name=anthony>アンソニー&スペンス(2007)</ref>。残された動物も不衛生なまま放置されていたが、[[南アフリカ共和国]]出身の自然保護活動家[[ローレンス・アンソニー]]([[:en:Lawrence Anthony|en]])が中心となって動物救済と動物園復興がなされた<ref name=anthony/>。 |
|||
=== その他 === |
|||
他の観光資源としては、イラク随一の繁華街であるラッ=シード通り、また、市内各地の大モスクの周囲にひろがる古いスーク(市場)の街並みがある。バグダードは中近東において、とりわけ[[書店]]の数の多い都市であり、[[露天商]]も少なくない<ref name=abe/>。 |
|||
バグダードには、横幅50メートルにおよぶ『自由のモニュメント』(ジャワード・セリーム作)や「アラブの盾」を造形した巨大なドーム『無名戦士の墓』([[:en:The Monument to the Unknown Soldier|en]]、[[ハリード・アル・ラハル]]作)、2つに割れた[[桃]]のかたちをした「殉教者の墓」([[:en:Al-Shaheed Monument|en]]、イスマイル・ファッタールとサマン・アサド・カマルの合作)などの巨大な記念物がある。その他、著名な彫刻として『アリババと40人の盗賊』『シャイアールとシェラザード』はともに[[モハメド・ガーニ]]の作品で街頭に所在し、ハリード・アル・ラハルの作品『前進』『アル・マンスールの像』はいずれもイラク国立博物館横にある<ref name=abe/>。 |
|||
== 市内行政区分 == |
|||
{{main|:en:Baghdad#Administrative divisions|:en:Government of Baghdad|:en:Administrative districts in Baghdad}} |
|||
バグダード市は9区のなかに89(当初は88)の公共地域を有している。9区とは、 |
|||
# アッ=ラシード([[:en:Al Rashid, Baghdad|en]])<ref>{{cite web|url=http://www.defendamerica.mil/articles/sept2006/a091906dg2.html |title=Leaders Highlight Successes of Baghdad Operation - DefendAmerica News Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27}}</ref>…西岸旧市街 |
|||
# カルフ([[:en:Karkh|en]])<ref>{{cite web|url=http://www.defenselink.mil/news/newsarticle.aspx?id=27637 |title=DefenseLink News Article: Soldier Helps to Form Democracy in Baghdad |publisher=Defenselink.mil |date= |accessdate=2010-04-27}}</ref>…西地区 |
|||
# カージミーヤ([[:en:Kadhimyah|en]])<ref>{{cite web|url=http://www.defendamerica.mil/articles/mar2004/a031804d.html |title=DefendAmerica News - Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27}}</ref>…北部地区 |
|||
# マンスール([[:en:Mansour district|en]])…国際空港よりも西側の地区 |
|||
# ルサーファ([[:en:Rusafa|en]])…東岸旧市街 |
|||
# カッラーダ([[:en:Karrada|en]])<ref>{{cite web|url=http://www.defendamerica.mil/articles/june2005/a060105la2.html |title=Zafaraniya Residents Get Water Project Update - DefendAmerica News Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27}}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.usatoday.com/news/world/iraq/2006-03-26-councils-work_x.htm | work=USA Today | title=Basics of democracy in Iraq include frustration | first1=Thomas | last1=Frank | date=2006-03-26 | accessdate=2010-04-26}}</ref>…中央東岸の半島状の地区 |
|||
# サドル・シティ([[:en:Sadr City|en]])<ref>{{cite web|url=http://www.csmonitor.com/2003/1205/p01s04-woiq.html |title=Democracy from scratch |publisher=csmonitor.com |date=2003-12-05 |accessdate=2010-04-27}}</ref>…東部新市街 |
|||
# アダミーヤ([[:en:Adhamiyah|en]])…東地区 |
|||
# 新バグダード([[:en:New Baghdad|en]])<ref>[http://www.kcentv.com/news/c-article.php?cid=5&nid=235 NBC 6 News - 1st Cav Headlines]{{Dead link|date=April 2010}}</ref> |
|||
であり、1.から4.まではティグリス川西岸、5.から9.は東岸に所在する。 |
|||
89の地域は、イラク戦争のあった2003年までは、自治体による公的な配送サービスの管理には用いられていたが、政治的な機能をまったく有していなかった。2003年4月、米軍管理下の連合国暫定当局(CPA)は、これら89地域に新規の機能を創出していく事業をはじめた。地域執行部の選出する地域評議員選挙が最初の事業であり、現在では市内行政区として自治的役割を有するに至っている。 |
|||
== 教育 == |
== 教育 == |
||
[[ファイル:BaghdadUnivSite.jpg|250px|right|thumb|バグダード大学のキャンパス配置図]] |
|||
[[バグダード大学]]([[:en:University of Baghdad|en]])は1958年に創立され、、理学・工学・医学・政治・経済・文学の各[[学部]]を有する総合大学である<ref name=britanica/>。現政権のジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)や[[ジャラル・タラバニ]]、フセイン政権時代の[[ターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ]]、[[ラシード・ムハンマド・サイード・アッ=リファーイー|ラシード・M・S・アルリファイ]]、[[ターリク・ミハイル・アズィーズ]]、[[ムハンマド・サイード・アル=サハフ|アル・サハフ]]、[[ナージ・サブリー]]、[[アワド・ハマド・バンダル]]、[[ニザール・ハムドゥーン]]、[[アービド・ハーミド・マフムード]]、またフセインの次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ]]などはバグダード大学の出身者である。 |
|||
[[アル・ムスタンスィリーヤ大学]]([[:en:Al-Mustansiriya University|en]])は、13世紀創設のマドラサ、ムスタンスィリーヤ学院の流れを汲む綜合大学である。 |
|||
他に、フセイン長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ]]の卒業した[[バグダード工科大学]]([[:en:University of Technology, Iraq|en]])や、 |
|||
*[[アル・ナーライン大学]]([[:en:Al-Nahrain University|en]]) |
|||
*[[イスラーム大学バグダード校]]([[:en:The Islamic University, Baghdad|en]]) |
|||
*[[アル・ヒクマ大学]]([[:en:Al-Hikma University (Baghdad)|en]]) |
|||
などがある。 |
|||
== 文化・スポーツ == |
|||
[[ファイル:Baghdad Convention Center inside.jpg|thumb|left|300px|多くの催し物がひらかれるバグダード・コンベンション・センター]] |
|||
=== 文化の概要 === |
|||
現在、バグダードで話されているアラビア語[[方言]]は、イラク国内の他の大都市の中心部で話されることばとは異なり、より[[遊牧民]]的な特徴をもっている。これは、中世以降[[遊牧]]を離れて帰農した人びとが多数この地に入植したことによって起こった可能性が考えられる。 |
|||
バグダードはまた、現代アラブ文化のなかで常に重要な役割を担っており、著名な[[作家]]、[[音楽家]]、また、ヴィジュアル分野の芸術家たちの活動拠点となっている。 |
|||
=== 文化機関・施設 === |
|||
[[ファイル:Iraqi National Orchestra.jpg|200px|right|thumb|イラク国立交響楽団による2007年のコンサート]] |
|||
[[ファイル:Iraq-National unity ballet2 600.jpg|thumb|right|200px|イラク国立バレエ団のダンサー]] |
|||
バグダード市には、国内の重要な文化機関・文化施設が集中している。 |
|||
[[イラク国立交響楽団]]([[:en:Iraqi National Orchestra|en]])は[[1959年]]に正式に設立された[[交響楽団]]であり、第二次湾岸戦争では短期間[[リハーサル]]と[[公演]]を中断したが、その後は通常に復している。イラク戦争により楽団員も著しく減少したが、[[2010年]]5月にはアメリカ人少年との共演もなされた<ref>{{cite news|url=http://www.47news.jp/http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052301000089.html|title=米少年とイラク交響楽団共演 バグダッド |
|||
|newspaper=共同ニュース|date=2010-05-23|accessdate=2011-01-19}}</ref>。 |
|||
イラク国立劇場は、2003年のイラク攻撃の際に略奪に見舞われた施設であるが、目下、修復にむけた努力が続けられている<ref>[http://csmonitor.com/2003/0716/p01s04b-woiq.htm Five women confront a new Iraq | csmonitor.com]{{Dead link|date=April 2010}}</ref>。2006年6月にはイラク戦争後はじめてとなる「イラク映画祭」がおこなわれた<ref>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2079859/698215|title=戦後初の「イラク映画祭」、政府高官らが出席 - イラク|newspaper=AFP通信|date=2006-07-03|accessdate=2011-01-19}}</ref>。 |
|||
劇場の生(ナマ)の舞台は、[[国際連合]]の制裁によって外国[[映画]]輸入制限のあった1990年代を通じ、当局からの援助を受けてきた。また、30ほどあった[[映画館]]はすべて生ステージに転換され、広範囲にわたって[[コメディー]]ないし[[ドラマ]]作品の制作をおこなったと報告されている<ref>{{cite web|url=http://www.commondreams.org/headlines03/0102-04.htm |title=In Baghdad, Art Thrives As War Hovers |publisher=Commondreams.org |date=2003-01-02 |accessdate=2010-04-27}}</ref>。 |
|||
バグダードで文化教育のために供される公共施設は、音楽アカデミー、美術協会および[[バグダード音楽バレエ学校]]([[:en:The Music and Ballet School of Baghdad|en]])に帰属している。 |
|||
=== スポーツ === |
|||
イラクスーパーリーグ(Dawri Al-Nokhba)に属する[[アル・ザウラ]]([[:en:Al-Zawra'a SC|en]])<ref group="注釈">[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000]]準優勝ティーム。決勝戦では[[日本]]の[[清水エスパルス]]に敗れた。</ref>、[[アル・タラバ]]([[学生]]のクラブ)、[[アル・クワ・アル・ジャウィヤ]]([[:en:Al-Quwa Al-Jawiya|en]]、[[空軍]]兵士のクラブ)、[[アル・ショルタ]]([[:en:Al-Shorta|en]]、[[警察]])など、多くの有力な[[サッカー]]クラブがバグダードを本拠地としている。バクダード最大の[[アル・シャアブ・スタジアム]]([[:en:Al-Shaab Stadium|en]])は、[[1966年]]に開園された[[スタジアム]]である。これよりもはるかに大規模なスタジアムの建設もはじまっているが、まだ工事に着手したばかりの段階である。 |
|||
== 主要な通り・道路 == |
|||
== スポーツ == |
|||
[[ファイル:Al Rasheed Street.jpg|250px|right|thumb|バグダード中心部にあるアッ=ラシード通り]] |
|||
[[アル・ザウラ]]、[[アル・タラバ]]、[[アル・クワ・アル・ジャウィヤ]]、[[アル・ショルタ]]など、多くの有力な[[サッカー]]クラブがバグダードを本拠地としている。 |
|||
* ハイファ通り([[:en:Haifa Street|en]]) |
|||
* ムタナビ通り([[:en:Mutanabbi Street|en]]) |
|||
* アッ=ラシード通り([[:en:Al Rasheed Street|en]]) |
|||
* アル・ジャムーリア通り([[:en:Al Jamhuriah Street|en]]) |
|||
* パレスティナ通り([[:en:Falastin (Palestine) Street|en]]) |
|||
* バグダード空港道路([[:en:Baghdad Airport Road|en]]) |
|||
== 友好都市 == |
== 友好都市 == |
||
* {{Flagicon|Jordan}} '''[[アンマン]]'''([[ヨルダン]]) |
|||
* {{Flagicon|Lebanon}} '''[[ベイルート]]'''([[レバノン]])<ref name="twins">{{cite web|url=http://www.beirut.gov.lb/MCMSTest/Menu-Pages/SisterCitiesEN.aspx?NRMODE=Published&NRORIGINALURL=%2fwww%2ebeirut%2egov%2elb%2fMCMSEN%2fTwinning%2bthe%2bCities%2f&NRNODEGUID=%7b18839037-0140-436E-A1AF-7F8F3693C3E6%7d&NRCACHEHINT=NoModifyGuest#|title=Twinning the Cities|publisher=City of Beirut|accessdate=2008-01-13}}</ref> |
|||
* {{Flagicon|Egypt}} '''[[カイロ]]'''([[エジプト]]) |
|||
* {{Flagicon|United Arab Emirates}} '''[[ドバイ]]'''([[アラブ首長国連邦]]) |
|||
* {{Flagicon|Yemen}} '''[[サヌア]]'''([[イエメン]])<ref>Iraqi capital of Baghdad twinned with North Yemen counterpart of Sanaa [Yemen news items 1989:Twinning]</ref> |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[首都の一覧]] |
* [[首都の一覧]] |
||
* [[ティグリス川]] |
|||
* [[サッダーム・フセイン]] |
|||
* [[バグダードの戦い]] |
* [[バグダードの戦い]] |
||
* [[イスラム帝国]] |
|||
* [[バグダード鉄道]] |
|||
* [[サッダーム・フセイン]] |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{reflist}} |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 参照 === |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* NHK海外取材班(中谷和男・木村征男・内田義雄)『アラブの世界』[[日本放送協会]]、1972年1月。 |
|||
* デズモンド・スチュアート『ライフ人間世界史12 イスラム』タイム・ライフ・ブックス、1973年。 |
|||
* フランク.B.ギブニー編『[[ブリタニカ国際大百科事典]]16 ノウシーピヨ』[[ティビーエス・ブリタニカ]]、1974年12月。 |
|||
* [[岩村忍]]『世界の歴史5 西域とイスラム』[[中央公論社]]<[[中公文庫]]>、1975年1月。 |
|||
* 末尾至行「バグダッド」小学館編『万有百科大事典10 世界地理』[[小学館]]、1975年3月。 |
|||
* ユージン・フォーダー編『世界の鉄道』綜合社、1979年6月。 |
|||
* [[朝日新聞社]]編『朝日旅の百科海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン/湾岸諸国』朝日新聞社、1981年6月。 |
|||
* [[佐藤次高]]・杉村棟「バグダード」[[平凡社]]編『[[世界大百科事典]]22 ヌ-ハホ』[[平凡社]]、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8 |
|||
* 岩淵孝『地球を旅する地理の本3 西アジア・アフリカ』[[大月書店]]、1993年4月。ISBN 4-272-50163-1 |
|||
* 原隆一・[[森本公誠]]「バグダード」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459 |
|||
* [[杉田英明]]「アラビアン・ナイトの時代」週間朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』[[朝日新聞社]]、2006年3月。 |
|||
* 杉田英明「ハールーン・アッラシード」週間朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』朝日新聞社、2006年3月。 |
|||
* ローレンス・アンソニー、グレアム・スペンス『戦火のバグダッド動物園を救え』[[早川書房]]、2007年10月。ISBN 4152088656 |
|||
* 『データブック・オブ・ザ・ワールド2009年版』[[二宮書店]]、2009年1月。ISBN 978-4-8176-0333-3 |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [http://www.bm.gov.iq/amanaen/indexen.htm Municipality of Baghdad] |
* [http://www.bm.gov.iq/amanaen/indexen.htm Municipality of Baghdad] |
||
* [http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/iraq/baghdadmapb.jpg Map of Baghdad] |
* [http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/iraq/baghdadmapb.jpg Map of Baghdad] |
||
*[http://www.iauiraq.org Iraq Inter-Agency Information & Analysis Unit] Reports, Maps and Assessments of Iraq from the UN Inter-Agency Information & Analysis Unit |
* [http://www.iauiraq.org Iraq Inter-Agency Information & Analysis Unit] Reports, Maps and Assessments of Iraq from the UN Inter-Agency Information & Analysis Unit |
||
* [http://www.iraqimage.com/pages/browse/Baghdad.html Iraq Image - Baghdad Satellite Observation] |
* [http://www.iraqimage.com/pages/browse/Baghdad.html Iraq Image - Baghdad Satellite Observation] |
||
* [http://www.investpromo.gov.iq National Commission for Investment in Iraq] |
* [http://www.investpromo.gov.iq National Commission for Investment in Iraq] |
||
206行目: | 397行目: | ||
* [http://www.tufts.edu/home/feature/?p=ashkouri Man With A Plan: Hisham Ashkouri] |
* [http://www.tufts.edu/home/feature/?p=ashkouri Man With A Plan: Hisham Ashkouri] |
||
* [http://www.globalpost.com/dispatch/iraq/090824/behind-baghdads-9-11 Behind Baghdad's 9/11] |
* [http://www.globalpost.com/dispatch/iraq/090824/behind-baghdads-9-11 Behind Baghdad's 9/11] |
||
* {{PDFlink|[http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_amabe.pdf 余部福三「アッバース朝期のバグダードの民衆運動」]}}(東京経済大学人文自然科学論集第118号) |
|||
* {{PDFlink|[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_13.pdf 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」]}}(大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」) |
|||
* {{PDFlink|[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/abemasao.pdf 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」]}}(日本ペンクラブ電子文藝館) |
|||
* [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0658.html 松岡正剛の千夜千冊/イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』] |
|||
{{commons|Baghdad}} |
{{commons|Baghdad}} |
||
{{wikitravel}} |
{{wikitravel}} |
||
{{world-stub}} |
{{world-stub}} |
||
{{DEFAULTSORT:はくたあと}} |
{{DEFAULTSORT:はくたあと}} |
||
310行目: | 504行目: | ||
[[roa-rup:Bagdad]] |
[[roa-rup:Bagdad]] |
||
[[ru:Багдад]] |
[[ru:Багдад]] |
||
[[rue:Баґдад]] |
|||
[[sah:Багдад]] |
[[sah:Багдад]] |
||
[[scn:Baghdad]] |
[[scn:Baghdad]] |
2011年1月28日 (金) 06:39時点における版
バグダード市 بغداد/Baghdad | |
---|---|
バグダード市街 | |
位置 | |
バグダードの位置 | |
バクダード市内図 | |
座標 : 北緯33度20分00秒 東経44度26分00秒 / 北緯33.33333度 東経44.43333度 | |
行政 | |
国 | イラク |
県 | バグダード県 |
市 | バグダード市 |
地理 | |
面積 | |
市域 | 734 km2 (283.4 mi2) |
標高 | 34 m (112 ft) |
人口 | |
人口 | (2006年現在) |
市域 | 約7,000,000人 |
人口密度 | 34,280人/km2(88,784人/mi2) |
都市圏 | 約9,000,000人 |
その他 | |
等時帯 | グリニッジ標準時 (UTC+3) |
バグダード(アラビア語: بغداد/Baghdad)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではカイロ、テヘラン、イスタンブルに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人[1]。
日本では多くの場合バグダッドと表記されることも少なくないが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。バグダットなる誤記も散見されるが、これは「ベット」「バック」などと同じ誤りである[注釈 1]。
バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた[2]。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)を首班とするイラク正式政府が成立し、現在に至っている。
立地と地理概況
バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置する。その西を流れるユーフラテス川は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。
バグダードの市街地は、蛇行するティグリス川の両岸にひろがっている。左岸(東岸)にはラシード通りやバザール(市場)、諸官庁および在外公館、旧王宮、カージマイン・モスク(en)、民族解放記念碑、バグダード大学、銀行、また、ホテルやレストラン、新住宅地などがあり、右岸(西岸)には空港やテレビ局、大統領府や議事堂、バグダード中央駅、病院、高級住宅街などがある[2]。歴史的には西岸が古いものの、東岸より先に荒廃し、むしろ東岸に古さが残っている[3]。なお、かつての環状都市は現在その痕跡をとどめていない[3]。
歴史
イスラーム以前
バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる[3]。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する[4]。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる[5][注釈 2]。
サーサーン朝時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。都市名のバグダードはペルシア語で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる[5][注釈 3]。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の農産物の集積地として食糧事情に恵まれ、東西の隊商ルートと南北の河川ルートの交わる交易の結節点となりうる地の利を持っていた[5]。この地方がアラブ人に占領されたのは、634年のことである。
アッバース朝カリフの都
バグダードは、762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められた計画都市で、北アフリカから中央アジアに至る広大なイスラーム帝国の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された[5][注釈 4]。当時のバグダードはキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた[3][6]。イスラームの年代記によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って綿油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる[7][注釈 5]。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万ディルハムの費用を投じて766年に完成した[5][7]。
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また東ローマ帝国やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となったホラーサーン軍団[注釈 6]とその子孫の駐屯地として繁栄した[8]。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する宮殿やモスクが建てられ、それぞれのドームは高貴な色とされた緑色のタイルで覆われた。周囲には、諸官庁、カリフ一族の館、親衛隊駐屯所などが並び、
- 南西の「クーファ門」(アラビア半島からメッカへ)
- 北西の「シリア門」(シリアから地中海を経て東ローマ帝国へ)
- 北東の「ホラーサーン門」(イランのホラーサーンから絹の道により中央アジア・中国へ)
- 南東の「バスラ門」(バスラから海の道によりインド洋を経て東南アジア世界へ)
の4つの門を有していた[5]。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった [9]。
城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、商人や職人などの一般市民は城外への居住が義務づけられた。円城の都は、直交する2条の道路により4つのおうぎ形の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした[6]。第3代カリフのマフディー(マンスールの子、在位775年 - 785年)の代にはティグリス川東岸にも軍隊が置かれ、それにともなって商人や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという[3]。また、アッバース朝の歴代宰相(ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている[5]。
アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームの名が与えられた新都バグダードは、当時、唐の長安と並ぶ世界最大の都市であった[注釈 7]。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位786年 - 809年)の時代には150万人におよんだとみられる[10]。バグダード市民はとりわけコーランの教えを遵守するよう求められ、バグダードの街には6万の礼拝所と3万の公衆浴場があったといわれる。大説話集『千夜一夜物語』収載の多くの物語の舞台にもなっており[注釈 8]、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている[注釈 9]。
アッバース朝は駅伝制(バリード)によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、中近東における代表的な商業都市であるというばかりではなく、中国、東南アジア、インドからサハラ以南のアフリカまでを含む国際交易網の中心として、また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた[10]。
バグダードはまた、イスラーム世界の学問の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、唐で国外不出とされた紙の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちにはダマスクスにも設けたといわれている[11]。中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた[10]。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人アブー・ヌワース、歌手イブラーヒーム・アルマウスィリーとイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した[12][注釈 10]。また、数多くのギリシア語文献が収集されてアラビア語に翻訳された。とくに9世紀前半に第7代カリフマアムーンによってバグダードに建設された「知恵の館」では、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究された[注釈 11]。こうしてギリシア・イラン・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。
商業のさかんであったバグダードの市場(スーク)には世界中の商品が集まった。中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などである。世界で初めて小切手が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶアーケードに設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は773年におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。その後、カルフ地区はシーア派を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や綿織物、ガラス・金属工芸、刀剣、紙などが産品として著名であり、とくに織物は各地に輸出されている[5]。
ワクフといわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、モスクや医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって国富が増大した。特に医療面では世界初の総合病院が設けられている。イスラームの医学は、のちの西洋医学に大きな影響をあたえた。
ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子(アミーンとマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全に復旧されなかった[3][8]。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。
9世紀のムウタスィムによる一時的なサーマッラーへの遷都(836年)後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の813年と第12代カリフムスタイーン治下の865年に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。892年、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた[4]。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から10世紀初頭にかけてといわれている[5]。しかし、946年には十二イマーム派を奉ずるブワイフ朝のアフマドがバグダード入りしてカリフより政治の実権を奪い、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える軍人相互の抗争、民衆暴動の頻発[8]、洪水の頻発などによって次第に荒廃しはじめた[13]。
アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退
1055年、トルコ人による中央アジア出身の王朝セルジューク朝がバグダードを占領した。セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、ブワイフ朝の勢力を駆逐してバグダードのカリフより「スルタン」の称号[注釈 12]を受け、カリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝のイラン人宰相ニザームルムルクは、シーア派勢力の拡大に対抗してスンナ派のウラマー(法学者)を養成する必要から、1067年、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠したマドラサ(ニザーミーヤ学院)を建設した[注釈 13]。
1258年、モンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した(バグダードの戦い)。チンギス・カンの孫にあたるモンゴルの将フレグは最後のカリフムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる[4]。豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。1234年完成のムスタンスィリーヤ学院や12世紀の城門のひとつバーブ・アルワスターニーなどを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の遺構はごく少数しか遺存していない[7]。
14世紀にモンゴルより独立したジャライル朝は、ミルジャン・モスク(1358年)や現在イスラーム博物館となっているハーン・マルジャーンなどの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心もマムルーク朝の都カイロにうつり、イラク地方における一地方都市へと転落した。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者イブン=バットゥータがバグダードを訪れている[14]。こののち、バグダードは、14世紀末と15世紀初め、2度にわたってティムールの略奪を受け、15世紀なかばには廃墟同然になった[13]。
アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、16世紀から17世紀にかけては、トルコのオスマン朝のスルタンとペルシアのサファヴィー朝のシャーとのあいだで争奪の対象となった。すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている[4]。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。
17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守アフメット・パシャおよびハサン・パシャは、行政機構の内部にシルカシア人マムルークの奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した[4]。
イラク王国の首都に
1798年、イギリスの商館がバグダードに建設され、1802年にはその駐在官が領事としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた[4]。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、ヨーロッパ大陸においては従来小国分立の状態にあったドイツとイタリアに統一国家(ドイツ帝国、イタリア王国)が成立し、とくに新興ドイツは中近東への進出をめざした。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は大海軍の建造に着手する一方、1899年にオスマン帝国からバグダード鉄道の敷設権を獲得して、ベルリン、イスタンブル(ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に資本を投下することにより西アジア地域への勢力拡大をはかった(3B政策)。しかし、この政策はイギリスの3C政策のみならずロシアの南下政策との対立を招いた。
1914年に起こった第一次世界大戦は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の1915年、「アラブの反乱」をあおってアラブの名門ハーシム家のフサイン・イブン・アリーにマクマホン書簡を手渡した(フサイン=マクマホン協定)[15]。1917年、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。
戦後の1921年には現在のイラクの領域にイギリス委任統治領メソポタミアが成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。1932年には委任統治が終了し、ハーシム家のファイサル1世(フサインの三男)を君主とするイラク王国が成立した[注釈 14]。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった1900年の段階では14万人だったバグダードの人口は、1950年には50万人に達している。
現代
第二次世界大戦直後の1946年、イラク王国はアラブ連盟に加盟したが、やがて世界は「冷たい戦争」とよばれる東西対立の時代にはいった。1955年、パキスタン、イラン、イラク、トルコ、イギリスの5か国は中東条約機構(METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これはソ連封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、1958年7月14日、バグダードで反英米共和政派によるクーデタ(7月14日革命)が起こった。この政変により、国王一家や摂政が殺害され、アブド・アル=カリーム・カーシムを首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌1959年にバグダード条約機構を脱退した。
その後、1963年のバアス党のクーデタ、1968年の同党による一党独裁、1979年のサッダーム・フセイン政権の成立、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争[注釈 15]、1990年のクウェート侵攻とそれにつづく1991年までの湾岸戦争、2003年のイラク戦争など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。
なお、バグダード郊外のサドルシティはイスラム主義が影響力を持っており、かつてはイラク共産党が強いところであった。1963年のバアス党のクーデタの際にはレジスタンス運動が起こっており、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。
2003年のイラク戦争では米軍が空爆をおこない最終的に陸軍を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された[注釈 16]。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的民主主義への反発などから抗争が続いている。
2009年1月よりアメリカ合衆国大統領を務めるバラク・オバマは2011年中のイラクからの完全撤退を公約しており、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了した。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模なテロや爆破がつづいている。
自然
ティグリス川の両側に発達したバグダードの街は、鉄道橋も含め5つの橋で東西が結ばれている[4]。6番目の橋が、カージマイン・モスクのある北郊のカージミーヤ地区に通じている[4]。
気候
ケッペンの気候区分でいう砂漠気候(BW)に属する[16]。年平均気温は約22℃と温暖である。冬も平均最高気温が15℃をくだらないが、夏の暑さは厳しい。気温の日較差は一年を通して大きい。年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。冬季は、北極方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数[注釈 17]が3日ないし5日に達する。
バグダードの気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 25 (77) |
30 (86) |
32 (90) |
40 (104) |
44 (111) |
48 (118) |
49 (120) |
49 (120) |
47 (117) |
42 (108) |
34 (93) |
26 (79) |
49 (120) |
平均最高気温 °C (°F) | 15.5 (59.9) |
18.5 (65.3) |
23.6 (74.5) |
29.9 (85.8) |
36.5 (97.7) |
41.3 (106.3) |
44.0 (111.2) |
43.5 (110.3) |
40.2 (104.4) |
33.4 (92.1) |
23.7 (74.7) |
17.2 (63) |
30.6 (87.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 3.8 (38.8) |
5.5 (41.9) |
9.6 (49.3) |
15.2 (59.4) |
20.1 (68.2) |
23.3 (73.9) |
25.5 (77.9) |
24.5 (76.1) |
20.7 (69.3) |
15.9 (60.6) |
9.2 (48.6) |
5.1 (41.2) |
14.9 (58.8) |
最低気温記録 °C (°F) | −8 (18) |
−5 (23) |
−3 (27) |
3 (37) |
11 (52) |
14 (57) |
17 (63) |
18 (64) |
11 (52) |
4 (39) |
−2 (28) |
−7 (19) |
−8 (18) |
降水量 mm (inch) | 27.2 (1.071) |
19.1 (0.752) |
22.0 (0.866) |
15.6 (0.614) |
3.2 (0.126) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
3.3 (0.13) |
12.4 (0.488) |
20.0 (0.787) |
122.8 (4.834) |
平均降雨日数 | 4 | 3 | 4 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 5 | 24 |
出典:World Meteorological Organization(averages for 1976-2008) , BBC Weather 2010-10-13 |
自然災害
バグダードは、その自然条件により、しばしば大洪水に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、ティグリス川上流のサーマッラーに治水用のダムが設けられため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた[4]。
産業
バグダードは、イラクの経済・交通・文化の中心であり、イラク工業の大半が集中する。伝統的工業としてじゅうたんや絹織物、また綿製品・皮革製品・たばこ・アラック酒などがあり、セメントや鉄道修理、食品加工、繊維などの近代工業もさかんである[2][4]。また石油化学工業なども盛んであるが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争など度重なる戦争で多くの施設が破壊されたこともあり、現在修復作業がさかんに行われている。
交通
バグダード国際空港からヨルダンのアンマンやアラブ首長国連邦のドバイなどに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離バスやチャータータクシーで行くことができる。
イラクの鉄道は、オスマン帝国時代末期にさかのぼるが、鉄道網の大部分は第一次世界大戦中にメソポタミアを占領したイギリス軍によって建設されたものである[17]。バグダードからは、バスラやモスル、キルクークなどイラク国内の主要都市と結ばれるだけでなく、シリアやトルコなどへも延伸しており、さらにヨーロッパ大陸に通じる[2]。
汽船がティグリス川を航行し、バスラとのあいだを結んでいる。なお、バグダードの交通網を改善するため19世紀に実施された調査では、ユーフラテス川の汽船航行は不可能であることが判明している[4]。
幹線道路は、イラク国内各地のみならずヨルダン、シリア、イラン、クウェートなどと結ばれており、現代においてもバグダードは水陸交通の要衝となっている。
観光
歴史的建造物
モンゴルとティムールの侵攻による破壊や煉瓦という風化しやすい素材が建築用材として用いられることが多かったことが原因で、現存する遺構の数は決して多くない。アッバース朝時代の建築としては、以下の数棟がのこるのみである[18]。
ムスタンスィリーヤ学院(en)は1234年に建てられた煉瓦造のマドラサで、しばしば「世界最古の大学」と称される。名称は創設者の第36代カリフムスタンスィルに由来する。この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、1258年、フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、そのため川はインクで黒く染まったといわれている[19][注釈 18]。中庭には泉水をともない、複数のイーワーンが外部と中庭をつないでいる[9]。建物は現在、博物館として利用されており、イラク中央銀行の発行するイラク・ディナール紙幣の図柄にもなっている。
アッバース宮殿は1230年ころマドラサとして建設された建物で、ミダーン地区に所在する。博物館に改装されて利用されていた[18]が、2003年、強盗団によってアッバース朝時代の家具・調度品・書籍のほとんどが略奪された[20]。
12世紀に建設されたバーブ・アルワスターニは、バグダードに現存する唯一の城壁門であり、円形都市建設時の「ホラーサーン門」に相当する。現在は戦争博物館になっている[7][21]。
スーク・アル=ガーズル寺院のミナレット(尖塔)は市内で最も古い建造物で10世紀初頭の作といわれる。なお、スーク・アル=ガーズルとは「糸市場」の意であり、現在は古い街並みを見下ろす位置にあるが、かつてはカリフのモスクの尖塔であった。この尖塔の下位部分はいまだ土に埋もれたままである[22]。
シッタ・ズバイダの墓塔は1179年ころから1225年ころまでの時期に建設されたもので、八角形の基台のうえにムカルナス装飾をともなった三角錐の形状の塔をのせた墓である。
アッバース朝滅亡以後のものとしては、モスク、マドラサ、墓廟より成るマルジャーニーヤ建築群や隊商宿として用いられたハーン・マルジャーンがあり、ともに14世紀中葉の遺構である[18]。イラク観光省の修復を経て料亭としても用いられたハーン・マルジャーンは、アミン・アルジャーンによって建設されたイラク唯一の屋根付きハーン(宿舎)である。2階建てでユニークな設計プラン・採光法を採用している[18][19]。
聖地・宗教施設
カージマイン・モスク(en)は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。金色をした銅板のドームと美しい彩釉タイルの門で知られ、シーア派第7代イマームのムーサー・カーズィム(位765年-799年)および第9代イマームのムハンマド・タキー(位818年-835年)が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名もある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀にガージャール朝ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれた[19]。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している[19]。カージマイン・モスクの周辺には住宅が広がっている[4][注釈 19]。
一方、スンニ派信者の多い地区にはアブ・ハニファ・モスク(en)などのスンニ派モスクがある。
博物館
「歴史的建造物」の節で示したように、バクダードでは歴史的建造物の多くは博物館に改装されている。
イラク王国成立時の1926年に創設されたイラク国立博物館は世界有数の考古学的博物館である。先史時代からメソポタミア文明、アッバース朝イスラーム帝国、および、イスラーム諸王朝の貴重な文化遺産・遺物が文明史ごとに28のギャラリーに分けて分類展示されている。しかし、2003年のイラク戦争の混乱に乗じて約1万5000点の収蔵品が密売目的で略奪されてしまい、これは世界的な話題となった。その後、数千点が返還されたものの、今なお数千点が行方不明のままである。この博物館には、古代史や各文明にかかわる諸言語の出版物を備えた考古学図書館も附設されている。
上記のほかには、自然史博物館、民俗博物館、国立近代美術館などがある[18]。
バグダード動物園
イラン戦争においてはバグダード動物園も米軍の攻撃対象とされた。バグダード陥落後、貧窮した一部の市民によって動物園は襲撃を受け、多くの動物が殺され、食べられたという[23]。残された動物も不衛生なまま放置されていたが、南アフリカ共和国出身の自然保護活動家ローレンス・アンソニー(en)が中心となって動物救済と動物園復興がなされた[23]。
その他
他の観光資源としては、イラク随一の繁華街であるラッ=シード通り、また、市内各地の大モスクの周囲にひろがる古いスーク(市場)の街並みがある。バグダードは中近東において、とりわけ書店の数の多い都市であり、露天商も少なくない[19]。
バグダードには、横幅50メートルにおよぶ『自由のモニュメント』(ジャワード・セリーム作)や「アラブの盾」を造形した巨大なドーム『無名戦士の墓』(en、ハリード・アル・ラハル作)、2つに割れた桃のかたちをした「殉教者の墓」(en、イスマイル・ファッタールとサマン・アサド・カマルの合作)などの巨大な記念物がある。その他、著名な彫刻として『アリババと40人の盗賊』『シャイアールとシェラザード』はともにモハメド・ガーニの作品で街頭に所在し、ハリード・アル・ラハルの作品『前進』『アル・マンスールの像』はいずれもイラク国立博物館横にある[19]。
市内行政区分
バグダード市は9区のなかに89(当初は88)の公共地域を有している。9区とは、
- アッ=ラシード(en)[24]…西岸旧市街
- カルフ(en)[25]…西地区
- カージミーヤ(en)[26]…北部地区
- マンスール(en)…国際空港よりも西側の地区
- ルサーファ(en)…東岸旧市街
- カッラーダ(en)[27][28]…中央東岸の半島状の地区
- サドル・シティ(en)[29]…東部新市街
- アダミーヤ(en)…東地区
- 新バグダード(en)[30]
であり、1.から4.まではティグリス川西岸、5.から9.は東岸に所在する。
89の地域は、イラク戦争のあった2003年までは、自治体による公的な配送サービスの管理には用いられていたが、政治的な機能をまったく有していなかった。2003年4月、米軍管理下の連合国暫定当局(CPA)は、これら89地域に新規の機能を創出していく事業をはじめた。地域執行部の選出する地域評議員選挙が最初の事業であり、現在では市内行政区として自治的役割を有するに至っている。
教育
バグダード大学(en)は1958年に創立され、、理学・工学・医学・政治・経済・文学の各学部を有する総合大学である[4]。現政権のジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)やジャラル・タラバニ、フセイン政権時代のターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ、ラシード・M・S・アルリファイ、ターリク・ミハイル・アズィーズ、アル・サハフ、ナージ・サブリー、アワド・ハマド・バンダル、ニザール・ハムドゥーン、アービド・ハーミド・マフムード、またフセインの次男クサイなどはバグダード大学の出身者である。
アル・ムスタンスィリーヤ大学(en)は、13世紀創設のマドラサ、ムスタンスィリーヤ学院の流れを汲む綜合大学である。
他に、フセイン長男ウダイの卒業したバグダード工科大学(en)や、
などがある。
文化・スポーツ
文化の概要
現在、バグダードで話されているアラビア語方言は、イラク国内の他の大都市の中心部で話されることばとは異なり、より遊牧民的な特徴をもっている。これは、中世以降遊牧を離れて帰農した人びとが多数この地に入植したことによって起こった可能性が考えられる。
バグダードはまた、現代アラブ文化のなかで常に重要な役割を担っており、著名な作家、音楽家、また、ヴィジュアル分野の芸術家たちの活動拠点となっている。
文化機関・施設
バグダード市には、国内の重要な文化機関・文化施設が集中している。
イラク国立交響楽団(en)は1959年に正式に設立された交響楽団であり、第二次湾岸戦争では短期間リハーサルと公演を中断したが、その後は通常に復している。イラク戦争により楽団員も著しく減少したが、2010年5月にはアメリカ人少年との共演もなされた[31]。
イラク国立劇場は、2003年のイラク攻撃の際に略奪に見舞われた施設であるが、目下、修復にむけた努力が続けられている[32]。2006年6月にはイラク戦争後はじめてとなる「イラク映画祭」がおこなわれた[33]。
劇場の生(ナマ)の舞台は、国際連合の制裁によって外国映画輸入制限のあった1990年代を通じ、当局からの援助を受けてきた。また、30ほどあった映画館はすべて生ステージに転換され、広範囲にわたってコメディーないしドラマ作品の制作をおこなったと報告されている[34]。
バグダードで文化教育のために供される公共施設は、音楽アカデミー、美術協会およびバグダード音楽バレエ学校(en)に帰属している。
スポーツ
イラクスーパーリーグ(Dawri Al-Nokhba)に属するアル・ザウラ(en)[注釈 20]、アル・タラバ(学生のクラブ)、アル・クワ・アル・ジャウィヤ(en、空軍兵士のクラブ)、アル・ショルタ(en、警察)など、多くの有力なサッカークラブがバグダードを本拠地としている。バクダード最大のアル・シャアブ・スタジアム(en)は、1966年に開園されたスタジアムである。これよりもはるかに大規模なスタジアムの建設もはじまっているが、まだ工事に着手したばかりの段階である。
主要な通り・道路
友好都市
関連項目
脚注
注釈
- ^ 記事「日本語の誤用#濁点・半濁点の混乱」参照のこと
- ^ 中世ヨーロッパでは長いあいだバグダードは王都バビロンと同一であると誤認されていたが、イスラーム以前のバグダードは定期市がひらかれる一集落にすぎなかった。
- ^ 「羊の家」をあらわすアラム語が語源であるという異説もあって、一定しない。
- ^ 初代のアブー・アル=アッバース(サッファーフ)は、いわゆる「アッバース革命」の成功によりクーファで即位した。サッファーフは、クーファから北方のハーシミーヤ、さらにはバグダード西方のアンバールに都を遷した。第2代カリフのマンスールはサッファーフの兄にあたり、いったんはハーシミーヤに復都したものの、その地は多数のシーア派住民が住むクーファに近く政情不安が懸念されたので新都の建設が求められた。
- ^ 円城都市にはメディア王国の首都エクバタナ(現在のハマダーン)やサーサーン朝の都市グール(現在のフィールザーバード)など古代オリエント以来の伝統がある
- ^ アラブ大遠征以降、軍団内でのアラビア半島出身者のアラブ人兵士の重要性が減じ、かわってホラーサーン地方出身者の軍人やその他の側近軍団、9世紀以降はトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)が軍の主力をになうようになった。
- ^ 「マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)」はマンスールによる命名。天国を意味する「ダール・アッ=サラーム(平安の館)」が意識されたものといわれるが、実際には従来よりの呼称バグダードが多用された。なお、中国では宋代以降「白達」と表記され、イタリア語ではバルダッコ(Baldacco)の名で知られた。
- ^ 『千夜一夜物語』は単にお伽噺のみならず、史実にもとづいた物語を数多く含んでいるとみられている。しかし、後世換骨奪胎してつくられた話やハールーンに仮託された話も多く、その場合はハールーンを主人公とし、バグダードを舞台としておりながらも実際の細部の地理などについては不正確なことも多い。
- ^ 好色な場面はハールーンが登場人物となることが多いところからバグダード起源の説話が多く、悪漢の登場する説話はカイロ起源のものが多いと考えられている。
- ^ 「創造されたコーラン」説を唱え、アッバース朝下の各民族を描写した文でも知られる、9世紀アラブの文人ジャーヒズもバグダードで活躍した人物である。
- ^ 詩人でもあったマアムーンは翻訳者に訳した本と同じ重さの黄金をあたえたという。
- ^ こののち、「スルタン」はスンナ派イスラーム国家の君主号として定着して広く用いられる。
- ^ ニザーミーヤ学院は、バグダードのみならずニーシャープールやイスファハーン、レイにも建てられた。この学院がイスラーム世界のマドラサ教育の先がけとなった。
- ^ ハーシム家のイラク王国は、サウード家のサウジアラビアとは対立した。
- ^ 1988年に停戦が実現し、1990年イラン側の和平条件を全面的に受け入れることを表明した。
- ^ しかし、「大量破壊兵器」なるものが存在しなかったことはアメリカ合衆国連邦議会によってのちに証明された。
- ^ 「月平均降雨日数」とは、日降水量0.25mm以上の月平均日数を指している。
- ^ フレグの七男テグデルはムスタンスィリーヤ学院への寄進をおこなっている。
- ^ 正統カリフ時代第4代カリフのアリー(預言者ムハンマドの従弟で女婿、シーア派の初代イマーム)は、現バグダード市南部のカルフにあったモスクで暗殺されたと伝承される。バグダードの南160キロメートルのナジャフにはアリーの墓廟があり、ナジャフとバグダードのおよそ中間に位置するカルバラーもシーア派の聖地となっている。
- ^ アジアカップウィナーズカップ1999-2000準優勝ティーム。決勝戦では日本の清水エスパルスに敗れた。
参照
- ^ 『データブック・オブ・ザ・ワールド 2009年版』p.50
- ^ a b c d 『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分
- ^ a b c d e f 末尾(1975)p.468
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『ブリタニカ国際大百科事典』(1974)pp.158-159「バグダード」(糸賀昌昭訳)
- ^ a b c d e f g h i 佐藤(1988)pp.437-438
- ^ a b スチュアート(1973)pp.79-81
- ^ a b c d 杉田(2006)pp.12-15「アラビアン・ナイトの時代」
- ^ a b c 余部福三「アッバース朝期のバグダードの民衆運動」 (PDF)
- ^ a b 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」 (PDF) (大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」)
- ^ a b c 岩淵(1993)pp.34-37
- ^ 岩村(1975)pp.244-246
- ^ 杉田(2006)pp.18-19「ハールーン・アッラシード」
- ^ a b 『日本大百科全書』(2004)森本公誠執筆分
- ^ 松岡正剛の千夜千冊/イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』
- ^ 岩淵(1993)pp.38-39
- ^ 岩淵(1993)pp.28-29
- ^ フォーダー(1979)pp.342-343
- ^ a b c d e 杉村(1988)p.438
- ^ a b c d e f 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」 (PDF)
- ^ 『文化財発掘出土情報』2003年7月号
- ^ ASTERがとらえた世界の都市
- ^ 『朝日旅の百科』(1981)pp.1608-1614
- ^ a b アンソニー&スペンス(2007)
- ^ “Leaders Highlight Successes of Baghdad Operation - DefendAmerica News Article”. Defendamerica.mil. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “DefenseLink News Article: Soldier Helps to Form Democracy in Baghdad”. Defenselink.mil. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “DefendAmerica News - Article”. Defendamerica.mil. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “Zafaraniya Residents Get Water Project Update - DefendAmerica News Article”. Defendamerica.mil. 2010年4月27日閲覧。
- ^ Frank, Thomas (2006年3月26日). “Basics of democracy in Iraq include frustration”. USA Today 2010年4月26日閲覧。
- ^ “Democracy from scratch”. csmonitor.com (2003年12月5日). 2010年4月27日閲覧。
- ^ NBC 6 News - 1st Cav Headlines[リンク切れ]
- ^ “米少年とイラク交響楽団共演 バグダッド”. 共同ニュース. (2010年5月23日) 2011年1月19日閲覧。
- ^ Five women confront a new Iraq | csmonitor.com[リンク切れ]
- ^ “戦後初の「イラク映画祭」、政府高官らが出席 - イラク”. AFP通信. (2006年7月3日) 2011年1月19日閲覧。
- ^ “In Baghdad, Art Thrives As War Hovers”. Commondreams.org (2003年1月2日). 2010年4月27日閲覧。
- ^ “Twinning the Cities”. City of Beirut. 2008年1月13日閲覧。
- ^ Iraqi capital of Baghdad twinned with North Yemen counterpart of Sanaa [Yemen news items 1989:Twinning]
参考文献
- NHK海外取材班(中谷和男・木村征男・内田義雄)『アラブの世界』日本放送協会、1972年1月。
- デズモンド・スチュアート『ライフ人間世界史12 イスラム』タイム・ライフ・ブックス、1973年。
- フランク.B.ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典16 ノウシーピヨ』ティビーエス・ブリタニカ、1974年12月。
- 岩村忍『世界の歴史5 西域とイスラム』中央公論社<中公文庫>、1975年1月。
- 末尾至行「バグダッド」小学館編『万有百科大事典10 世界地理』小学館、1975年3月。
- ユージン・フォーダー編『世界の鉄道』綜合社、1979年6月。
- 朝日新聞社編『朝日旅の百科海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン/湾岸諸国』朝日新聞社、1981年6月。
- 佐藤次高・杉村棟「バグダード」平凡社編『世界大百科事典22 ヌ-ハホ』平凡社、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8
- 岩淵孝『地球を旅する地理の本3 西アジア・アフリカ』大月書店、1993年4月。ISBN 4-272-50163-1
- 原隆一・森本公誠「バグダード」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
- 杉田英明「アラビアン・ナイトの時代」週間朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』朝日新聞社、2006年3月。
- 杉田英明「ハールーン・アッラシード」週間朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』朝日新聞社、2006年3月。
- ローレンス・アンソニー、グレアム・スペンス『戦火のバグダッド動物園を救え』早川書房、2007年10月。ISBN 4152088656
- 『データブック・オブ・ザ・ワールド2009年版』二宮書店、2009年1月。ISBN 978-4-8176-0333-3
外部リンク
- Municipality of Baghdad
- Map of Baghdad
- Iraq Inter-Agency Information & Analysis Unit Reports, Maps and Assessments of Iraq from the UN Inter-Agency Information & Analysis Unit
- Iraq Image - Baghdad Satellite Observation
- National Commission for Investment in Iraq
- Investment Guide in Iraq
- Interactive map
- Iraq - Urban Society
- Envisioning Reconstruction In Iraq
- Description of the original layout of Baghdad
- Ethnic and sectarian map of Baghdad - Healingiraq
- Baghdad Renaissance Plan
- UAE Investors Keen On Taking Part In Baghdad Renaissance Project
- Man With A Plan: Hisham Ashkouri
- Behind Baghdad's 9/11
- 余部福三「アッバース朝期のバグダードの民衆運動」 (PDF) (東京経済大学人文自然科学論集第118号)
- 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」 (PDF) (大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」)
- 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」 (PDF) (日本ペンクラブ電子文藝館)
- 松岡正剛の千夜千冊/イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』