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サーマッラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サーマッラー
سامراء
イラクの旗
位置
サーマッラーの位置の位置図
サーマッラーの位置
位置
サーマッラーの位置(イラク内)
サーマッラー
サーマッラー
サーマッラー (イラク)
座標 : 北緯34度11分 東経43度52分 / 北緯34.183度 東経43.867度 / 34.183; 43.867
行政
イラクの旗 イラク
  サラーフッディーン県
 市 サーマッラー
人口
人口 (現在)
  市域 20万人

サーマッラーسامراء Sāmarrāʾ)はサラーフッディーン県に属するイラクの都市。

歴史

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古代

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チグリス川に面しており、メソポタミア文明以来の歴史を持つ。

4世紀のローマ皇帝ユリアヌスが死去した街である[要出典]

アッバース朝の首都

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836年、アッバース朝の8代カリフであるムウタスィムは、マムルーク軍団とアッバース朝正規軍の対立を背景として[1]、即位3年ながら都をバグダードからサーマッラーに移した。それから892年までの約50年間サーマッラーはアッバース朝の都であり続け[2]、今日まで残るモスクとしては世界最大であるサーマッラーの大モスクが築かれるなど[3]、一定の繁栄を保った。しかし、東西貿易の幹線道路から外れていたことなどが影響してバグダードを超える都市機能を備えるまでには至らなかった[2]

近代

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20世紀に入るとサーマッラーの発掘調査が行われるようになり、1911年にはヘルツフェルト (Ernst Herzfeld) 率いるドイツ調査団がサーマッラーの発掘をおこなった[4]。1965年にはイラク考古局のカッサール (Awad al-Kassar) のもとで大モスクやアッバース宮殿、アル=アーシク宮殿の修復が行われた[5]

20世紀に、チグリス川の氾濫を防ぐダムが建設されると、洪水が減って人口が増加し、現在およそ20万人の人口を擁する[要出典]

スンナ派が多数を占めているが[要出典]シーア派の12代イマームであるムハンマド・アルムンタザルを祀る聖地であり[6]、スンナ派のバアス党を率いて一党独裁していたサッダーム・フセイン元大統領がイラク戦争に敗れて失脚すると、両派の間に緊張が引き起こされるようになった[要出典]

特産品

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サーマッラーは、ラグビーボールを大きくしたようなスイカの名産地として名高い[6]

世界遺産

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世界遺産 都市遺跡サーマッラー
イラク
マルウィヤ・ミナレット
英名 Samarra Archaeological City
仏名 Ville archéologique de Samarra
面積 15,058ha
(緩衝地帯 31,414 ha)
登録区分 文化遺産
文化区分 遺跡
登録基準 (2), (3), (4)
登録年 2007年
第31回世界遺産委員会
危機遺産 2007年 -
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

2007年に「都市遺跡サーマッラー」としてユネスコ世界遺産に登録された。イラクの情勢に鑑みて、登録と同時に「危機にさらされている世界遺産」リストにも加えられた。

主な建造物

  • 大モスクと螺旋ミナレット(The Great Mosque and its Spiral Minaret)
焼成煉瓦と石膏モルタルで作られた264m×159mの大モスクは、建造された849年~852年ではイスラム世界最大のモスクであった。高さ10.5mの壁面は均等に並んだ半円の塔で補強されており、16の門を有している。モスクは開けた中庭を囲う4つの部分から構成されている。螺旋ミナレット(マルウィヤ・ミナレット、Al-Malwiya)はイスラム世界で最も際立ったものである。四角の基礎は一辺32mあり、5つの円が層となって54mの高さの巨大な螺旋塔を作り上げている。
  • アブ・ドゥラフ・モスク(Abu Dulaf Mosque)
街の北部に位置し大モスクと似ているもののより小さいアブ・ドゥラフ・モスクは、四方を柱廊玄関(ポルティコ)で囲われた一つの中庭からなっている。モスクの壁面は半円形の塔で補強されている。ミナレットも大モスクと似通っているが、規模は小さい。
  • カリフ宮殿(The Caliphal Palace(Qasr ar-Khalipha))
カリフのアル・ムータシィム・ビラーの命で作られたカリフ宮殿は、大通り沿いのティグリス川を見渡す位置にある。アラブイスラーム世界において最大級の宮殿であり(125ha)、居住区、ホール、施政室、ディワーン、衛兵詰所、休憩所などを含んでいる。後期古代の皇帝宮殿として唯一のもので、初期の配置が完全に残されている。宮殿の発掘は1910年から行われているが、4分の3が未だ埋まったままであり、西側庭園は水没した状態にある。
  • アル・フワイシラ宮殿(Al-Huwaysilat Palace)
  • バルクワラ宮殿(Balkuwara Palace)
  • アル・マシュク宮殿(Al-Ma'shuq Palace)
  • バイト・アル・ザハリフ(Bayt al-Zakharif)
  • フスン・アル・カディシーヤ(Husn al-Qadisiyya)
  • アル・ムシャラハト宮殿(Al-Musharrahat Palace)
  • アル・イスタブラト(Al-Istablat)
  • テル・アル・アリジ(Tell Al-Alij)
  • クバット・アル・スライビーヤ(Qubbat al-Sulaybiyya)
  • アル・ジャファリ宮殿(Al-Ja'fari Palace)

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

脚注

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  1. ^ 中野 2003, p. 34.
  2. ^ a b 佐藤 2008, p. 176.
  3. ^ 羽田 1994, p. 72.
  4. ^ 糸賀 1969, p. 135.
  5. ^ 糸賀 1969, p. 134.
  6. ^ a b 佐藤 2008, p. 177.

参考文献

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  • 羽田正『モスクが語るイスラム史』中央公論新社中公新書〉、1994年。ISBN 4-12-101177-5 
  • 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』中央公論新社〈中公文庫、世界の歴史 ; 8〉、2008年。ISBN 9784122050792NCID BA88092299 
  • 中野さやか「M. S. ゴードン著『千の剣の破壊―サーマッラーにおけるトルコ系軍人の歴史(ヒジュラ暦200~275年/西暦815~889年)』」『東洋学報』第85巻第3号、東洋文庫、2003年12月、415-422頁、ISSN 0386-9067NAID 120006516900 
  • 糸賀昌昭「イラクにおける最近の考古活動」『オリエント』第12巻第1-2号、日本オリエント学会、1969年、129-147,177、doi:10.5356/jorient.12.129ISSN 0030-5219NAID 130000822347 

関連項目

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