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{{otheruses|[[三重県]][[伊賀市]]にあった上野城|その他|上野城 (曖昧さ回避)}}
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== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Haiseiden.jpg|thumb|left|俳聖殿]]
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある海抜180メートルほどの丘に建てられた。
伊賀上野城は、[[上野盆地]]のほぼ中央にある上野台地の北部にある[[標高]]184メートルほどの丘に建てられた平山城である。北には[[服部川]]と[[柘植川]]、南には[[久米川]]、西側には[[木津川]]の[[本流]]が流れ、城と[[城下町]]を取り巻く要害の地にある。


[[北畠信雄]]の家臣である[[滝川雄利]]は平楽寺の跡に砦を築いた。その後{{和暦|1585}} に筒井定次によって改修を受け、{{和暦|1611}}に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、[[大坂の役]]によって、当時高虎が従属する[[徳川家康]]に対立していた[[豊臣氏]]が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
北畠信雄の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いた。その後{{和暦|1585}} に筒井定次によって改修を受け、{{和暦|1611}}に[[徳川家康]]の命を負って[[藤堂高虎]]が拡張したが、[[大坂の役]]によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた[[豊臣氏]]が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま[[江戸時代]]を過ごした。


現在、旧城域一帯が国の[[史跡]]に指定されている。城を含めた近隣一帯は'''上野公園'''として整備されており、[[松尾芭蕉]]を祀る[[俳聖殿]]や[[芭蕉翁記念館]]があるほか、[[伊賀流忍者博物館]]があり、[[伊賀市|伊賀上野]]の[[観光名所|観光地]]として利用され、各種イベントなどが行われている。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30メートルの石垣<ref>実際には[[大坂城]]が最も高い</ref>や[[三重県立上野高等学校]]敷地内に武庫が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。現在、天守台にある3層3階の[[天守]]は[[昭和]]初期築の模擬天守で、正式には'''伊賀文化産業城'''という。<!--また藤堂家所縁の御殿の御門が現存している。-->
現在、旧城域一帯が国の[[史跡]]に指定されている。城を含めた近隣一帯は'''上野公園'''として整備されており、[[松尾芭蕉]]を祀る[[俳聖殿]]や[[芭蕉翁記念館]]があるほか、[[伊賀流忍者博物館]]があり、[[伊賀市|伊賀上野]]の[[観光名所|観光地]]として利用され、各種イベントなどが行われている。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30メートルの石垣<ref group="注釈">実際には[[大坂城]]が最も高い</ref>や[[三重県立上野高等学校]]敷地内に武庫[[蔵]]が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。現在、天守台にある3層3階の[[天守]]は[[昭和]]初期築の模擬天守で、正式には'''伊賀文化産業城'''という。


== 歴史・沿革 ==
== 沿革 ==
[[ファイル:KitabatakeTomofusa.jpg|thumb|織田信雄像]]
=== 近代以前 ===
[[ファイル:Tutui Sadazugi.jpg|thumb|筒井定次像]]
{{右|
城のある丘は[[平清盛]]の発願によって建立された平楽寺という大寺院があり、西の丘陵には伊賀国[[守護]][[仁木氏]]の館があった。[[天正]]7年([[1579年]])9月、伊勢国の[[織田信雄]]が8千兵を率いて[[伊賀流#天正伊賀の乱|伊賀平定]]に乗り出したが、[[伊賀衆]]の前に敗退し、天正9年([[1581年]])9月[[織田信長]]の援軍をうけ4万兵で伊賀国を平定。織田信雄の家臣である[[滝川雄利]]を伊賀国守護とした。滝川雄利は大寺院、[[丸山城 (伊賀国)|丸山城]]、[[滝川氏城]]を改修し伊賀国を支配した。[[本能寺の変]]後[[豊臣政権]]となると、天正12年([[1584年]])10月[[脇坂安治]]が伊賀国守護となったが、天正13年([[1585年]])5月に[[摂津国]]に移封された。
[[ファイル:IgaUenojyo03.jpg|thumb|none|220x220px|模擬天守と小天守]]
[[ファイル:Iga Ueno Castle01.jpg|thumb|none|220x220px|高]]
[[ファイル:IgaUenojyo10.jpg|thumb|left|筒井天守跡の]]
[[ファイル:Iga Ueno Castle02.jpg|thumb|none|220x220px|上から見た高石垣]]}}
[[ファイル:IgaUenojyo23.jpg|thumb|left|上野城絵図の部分図/個人蔵]]
=== 筒井氏時代 ===
同年8月 [[郡山城 (大和国)|郡山城]]から移ってきたのが羽柴の姓を賜った[[筒井定次]]であった。[[伊賀流#天正伊賀の乱|天正伊賀の乱]]で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにした。
{{Cquote3|
迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草館ヲ造立シ屢比ニ幽栖ス。而後数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬師寺ニケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ヌ。三層ノ高楼ヨリ内外ノ曲輪要害太厳重也|4=伊水温故
}}
とあり、城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、[[大手]]を三の丸の北谷口とした。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられている<ref>加藤理文
ほか著『【決定版】図解 よみがえる名城 白亜の巨城 徳川の城』学習研究社 2008年</ref>。


{{和暦|1600}}、[[関ヶ原の戦い]]が起こると筒井定次は東軍の徳川家康方につき、[[会津征伐]]に参戦し、上野城は[[筒井玄蕃]]が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津国[[高槻城]]主[[新庄直頼]]、[[新庄直定|直定]]父子に上野城が攻撃されたが、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し[[高野山]]に逃亡した。筒井定次は徳川家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た。
{{和暦|1585}} [[郡山城 (大和国)|大和郡山]]から移ってきて伊賀を拝領した[[筒井定次]]により、[[伊賀流#天正伊賀の乱|天正伊賀の乱]]で焼け落ちた[[平楽寺]]の跡に築城された。天守は3層であったといわれるが、史料は残っていない。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられている<ref>加藤理文
ほか著『【決定版】図解 よみがえる名城 白亜の巨城 徳川の城』学習研究社 2008年</ref>。{{和暦|1600}}、[[関ヶ原の戦い]]が起こると定次は東軍に就いて本戦にも参加したが、西軍の[[摂津国|摂津]][[高槻城]]主[[新庄直頼]]、[[新庄直定|直定]]父子に攻め落とされた。戦後、新庄直頼は改易され定次は本領安堵、[[伊賀上野藩]]を立藩した。


関ヶ原の戦いの戦後、新庄直頼は改易され筒井定次は本領安堵、[[伊賀上野藩]]を立藩した。しかし、徳川家康は[[大坂城]]を包囲する必要に迫られ、[[彦根城]]同様重要な地点である伊賀上野城を強固にすべく、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で[[島清興]]などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、[[慶長]]13年([[1608年]])6月に領地没収、[[磐城平城]][[鳥居忠政]]のもとに預けた。一説には、筒井定次が[[キリシタン大名]]で棄教を聞き入れなかった為とも言われている。
しかし、定次はかねてから不行状で[[島清興]]などの重臣に多く出奔されており、ついに{{和暦|1608}}、[[徳川家康]]の命により改易させられた。その後[[伊予国|伊予]]・[[宇和島城|宇和島]]から築城の名手とされる[[藤堂高虎]]の持ち城(本拠地は[[伊勢国|伊勢]][[津城]])となり、城の大改修が行われた。


=== 藤堂氏時代 ===
改修は豊臣討伐に備えて堀を深く、石垣も高くし、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、[[今治城]]天守を移築しようとしたが、天下普請となった[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に献上したため新規に5層天守を建設した。しかし、竣工をひかえた{{和暦|1612}}に嵐のため天守は倒壊しその後、[[豊臣氏]]の滅亡で堅固な城が必要なくなったのに加え、[[武家諸法度]]による新規築城や改修の規制により江戸時代を通じて再建されることはなかった。
同年8月[[伊予国]][[宇和島城]]から築城の名手とされる[[藤堂高虎]]が、伊賀国に入国した。
[[ファイル:Toudou Takatora2.jpg|thumb|center|600px|藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵]]
[[ファイル:Toudou Takatora.jpg|thumb|left|藤堂高虎/個人蔵]]
大坂城に対抗する以外にも、[[大和国]]、[[紀伊国]]を抑えるためにも藤堂高虎の力が必要となったと思われている。慶長16年([[1611年]])[[正月]]より、伊賀上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。
{{Cquote3|
本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を開く南側の東西百三十間とし、北側の東西百三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い、西側は幾度新に南北百三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり|4=公室年譜略
}}
としている。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城の事を指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を[[大手]]とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、[[今治城]]天守を移築しようとしたが、[[天下普請]]となった[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に献上したため新規に5層天守を建設した。


筒井定次時代は、伊賀上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂高虎時代は大坂城を攻める為の城というまったく正反対の立場をとった城とされている。
{{和暦|1825}}[[藤堂高猷]]が最後の城主となる。


東西十三[[間]]、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設は五人の[[大工]][[棟梁]]の分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成をひかえた慶長17年([[1612年]])9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだした。
[[ファイル:IgaUenojyo25.jpg|thumb|ニ之丸櫓図/個人蔵]]
{{和暦|1614}}、{{和暦|1615}}[[大坂の役]]で徳川家康の勝利となり、[[豊臣氏]]の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守閣は再建されなかった。天守閣や本丸に[[櫓]]は建てられなかったが、外堀の[[土塁]]上には、二層櫓がニ棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、また長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。藤堂影虎は大坂の役が終わった後、[[交通]]の便利がいい[[津城]]を本城とし、伊賀上野城を[[支城]]とした。

[[一国一城令]]で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の[[藤堂高清]]を城代とし、藤堂高清の死後は[[藤堂元則]]が城代となり、{{和暦|1825}}[[藤堂高猷]]が最後の城主となるまで[[世襲]]した。
[[ファイル:Kaeaski Katu.jpg|thumb|川崎克]]
=== 近現代 ===
=== 近現代 ===
*{{和暦|1869}}[[版籍奉還]]。
*{{和暦|1869}}[[版籍奉還]]。
*[[明治維新]]後、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊され、さらに小高い丘にあったこともあってその後の転用もままならず、放置されたために城跡はうっそうと草に覆われた状態になった。
*[[明治維新]]後、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。
*{{和暦|1874}}[[博覧会]]開催後、太鼓櫓、下之段米蔵が民間に払い下げになった。
*{{和暦|1896}}この状態を改善したのが伊賀出身の実業家[[田中善助]]であり、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。
*東大手門を中心に、[[三重県庁]]上野支庁と第三警備駐屯所が置かれた。
*{{和暦|1887}}東大手門が解体。
*{{和暦|1896}}伊賀出身の実業家[[田中善助]]が、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。
*{{和暦|1907}}西大手門が解体。
*{{和暦|1935}}、[[衆議院]]議員であった[[川崎克]]の私財により模擬天守が建設される。
*{{和暦|1935}}、[[衆議院]]議員であった[[川崎克]]の私財により模擬天守が建設される。
*{{和暦|1967}}[[12月27日]] 国の史跡に指定される。
*{{和暦|1967}}[[12月27日]] 国の史跡に指定される。
*{{和暦|1980}}4月に公開された[[映画]]『[[影武者 (映画)|影武者]]』の撮影現場として用いられた。
*{{和暦|1980}}4月に公開された[[映画]]『[[影武者 (映画)|影武者]]』の撮影現場として用いられた。
*{{和暦|2006}}4月6日、[[日本100名城]](47番)に選定された。
*{{和暦|2006}}4月6日、[[日本100名城]](47番)に選定された。{{-}}
== 城郭 ==
[[ファイル:IgaUenojyo22.jpg|thumb|300px|伊賀上野城と周辺地域の空中写真/{{国土航空写真}}]]
藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。藤堂高虎は伊賀[[忍者]]に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。


筒井定次時代の城を取り込み、大きさも約3倍となり7千[[坪]]に拡張した。筒井定次時代の本丸の西を拡張し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台と通称するようになった。東側の外堀は218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側は254間、堀幅12間、北側が17間、北の山下の土塁と堀は筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。

本丸の西、内堀を隔てた台地、現在の[[三重県立上野高等学校]]の[[グランド]]付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。[[城下町]]は外堀の南に置かれ、本町筋、ニの町筋、三の町筋があり、三の町筋に[[家臣]]や住民の消費にそなえた[[商人]]町があった。三の町筋の南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外[[馬場]]となった。これ以外に馬場の南一帯は外輪と呼ばれる[[侍]]町、忍町が置かれ、更にその南に[[鉄砲]]組[[足軽]]の[[長屋]]が置かれ、[[鉄砲町]]と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる[[農家]]があったが、次第に町が形成され東の枝町と呼ばれていた。

[[嘉永]]7年([[1854年]])6月に、[[安政の大地震]]があり伊賀上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破損した。その後[[御殿]]、城代[[役所]]、武具蔵、米蔵をはじめ、東大手門、西大手門等、城として最小限のものが補修されたが、外郭の櫓は再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓櫓と菱櫓が残るものとなった。{{-}}

=== 高石垣 ===
大坂城の高石垣と共に日本で一、ニを競う石垣は{{和暦|1611}}に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。
{|
|[[ファイル:Iga Ueno Castle01.jpg|thumb|高石垣]]
|[[ファイル:Iga Ueno Castle02.jpg|thumb|上から見た高石垣]]
|[[ファイル:IgaUenojyo12.jpg|thumb|240px|高石垣]]
|}
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo07.jpg|thumb|水濠]]
|[[ファイル:IgaUenojyo16.jpg|thumb|城代役所曲輪跡]]
|[[ファイル:IgaUenojyo06.jpg|thumb|250px|{{和暦|2010}}発掘調査を伴う石垣の組み換え]]
|}
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo15.jpg|thumb|打込み接ぎの石垣]]
|[[ファイル:IgaUenojyo13.jpg|thumb|東大手門]]
|[[ファイル:IgaUenojyo14.jpg|thumb|230px|上野城の石碑]]
|}
=== 古写真 ===
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo17.jpg|thumb|西大手門(非現存)]]
|[[ファイル:IgaUenojyo19.jpg|thumb|東大手門(非現存)]]
|[[ファイル:IgaUenojyo21.jpg|thumb|230px|武具蔵]]
|}
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo29.jpg|thumb|西大手門(非現存))/伊賀市上野図書館蔵]]
|[[ファイル:IgaUenojyo30.jpg|thumb|御屋敷(非現存)/伊賀市上野図書館蔵]]
|[[ファイル:IgaUenojyo31.jpg|thumb|武具蔵/伊賀市上野図書館蔵]]
|}
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo24.jpg|thumb|330px|上野城絵図/個人蔵]]
|[[ファイル:IgaUenojyo26.jpg|thumb|380px|上野城下町絵図(伊賀市指定文化財)/個人蔵]]
|}
== 伊賀文化産業城 ==
== 伊賀文化産業城 ==
[[ファイル:UenojyoSyachihoko.jpg|thumb|180px|鯱]]
[[ファイル:IgaUenojyo28.jpg|thumb|昭和8年([[1933年]])11月19日の天守閣棟上げ式]]
[[ファイル:IgaUenojyo02.jpg|thumb|模擬大天守]]
'''伊賀文化産業城'''(いがぶんかさんぎょうじょう)は、伊賀上野城跡にある藤堂高虎が構築した天守台に、衆議院議員であった川崎克が私財を投じて建てた復興天守または模擬天守である。川崎の「''攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である''」との理想をもとに、「伊賀文化産業城」と命名された。
'''伊賀文化産業城'''(いがぶんかさんぎょうじょう)は、伊賀上野城跡に[[衆議院議員]]であった川崎克が私財を投じて建てた模擬天守である。川崎の「''攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である''」との理想をもとに、「伊賀文化産業城」と命名された。昭和7年([[1932年]])10月14日[[地鎮祭]]を執行、工事に着手、翌年11月19日の[[棟上式]]、昭和10年([[1935年]])10月18日に完成した。


=== 構造 ===
=== 構造 ===
川崎の純和風への強い要望により、同時期に[[鉄骨鉄筋コンクリート造|コンクリート建築]]で再建された[[大坂城]]復興天守とは異なり、木造で瓦葺き、白漆喰塗籠の層塔型3層3階、高さ23メートルの大天守と、2層2階の小天守が建てられた<ref>天守の完成という点でいえば、これが伊賀上野城の創建天守である</ref>。木造で建てられているが、五層天守の天守台に三層天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用しておらず、史的考証などもなされていない。
川崎の純和風への強い要望により、同時期に[[鉄骨鉄筋コンクリート造|コンクリート建築]]で再建された[[大坂城]]復興天守とは異なり、木造で瓦葺き、白漆喰塗籠の層塔型3層3階、高さ23メートルの大天守と、2層2階の小天守が建てられた<ref group="注釈">天守の完成という点でいえば、これが伊賀上野城の創建天守である</ref>。木造で建てられているが、五層天守の天守台に三層天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用しておらず、史的考証などもなされていない。


===所蔵文化財===
===所蔵文化財===
模擬天守内には、藤堂高虎の黒漆塗の兜などがある。
模擬天守内には、藤堂高虎の黒漆塗の兜などがある。また3階の天井には、[[横山大観]]らの色紙46枚が張られている。また天守閣は昭和60年([[1985年]])3月18日に伊賀市文化財に指定された
また3階の天井には、[[横山大観]]らの色紙46枚が張られている。
{{-}}


== 現地情報 ==
=== 施設情報 ===
*開館時間
所在地 三重県伊賀市上野丸之内106
**午前9時-午後5時
;交通アクセス
**(入館は午後4時30分まで)
* 伊賀鉄道伊賀線「上野市」駅から徒歩約8分
*休館日
;その他
**12月29日-31日
*{{和暦|2006}}、[[日本100名城]](47番)に選定され、{{和暦|2007}}6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
*入館料
**大人500円、こども200円 {{-}}
{|
|[[ファイル:IgaUenojyo03.jpg|thumb|模擬大天守と小天守]]
|[[ファイル:IgaUenojyo05.jpg|thumb|忍び井戸]]
|[[ファイル:IgaUenojyo08.jpg|thumb|天守からの眺望]]
|}
== 城跡へのアクセス ==
[[ファイル:UenojyoSyachihoko.jpg|thumb|鯱]]
*電車でのアクセス
** [[伊賀鉄道]] [[伊賀線]] [[上野市駅]]
** 徒歩約8分
*車でのアクセス
** [[名阪国道]] [[上野インターチェンジ|上野IC]] → [[国道368号]] → [[国道25号]]
** 城内に有料駐車場有り

== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}}
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}}

== 参考文献 ==
*創史社『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、217-220頁。
*福井健二『三重の城』三重県良書出版会、1979年2月、181-193頁。
*西ヶ谷恭弘編著『日本城郭事典』定本、秋田書店、2000年9月、200-202頁。
*福井健二『伊賀上野城』伊賀文化産業協会、2009年4月。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[日本の城一覧]]
* [[日本の城一覧]]
* [[中部の史跡一覧]]
* [[中部の史跡一覧]]
* [[日本100名城]]
* [[近畿の史跡一覧]]
* [[近畿の史跡一覧]]
* [[徳川政権]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Iga Ueno Castle}}
{{Commons|Category:Iga Ueno Castle}}
* [http://www.city.iga.lg.jp/ctg/22102/22102.html 上野城/伊賀市公式ホームページ]
* [http://www.city.iga.lg.jp/ctg/22102/22102.html 上野城/伊賀市公式ホームページ]
* [http://www.ict.ne.jp/~uenojyo/ 伊賀文化産業協会公式ホームページ]
* [http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース]
* [http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース]
* [http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.77015611212&lon=136.12714647317&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.77015611212&hlon=136.12714647317&layout=&ei=utf-8&p= 伊賀上野城周辺地図/Yahoo!地図情報]
* [http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.77015611212&lon=136.12714647317&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.77015611212&hlon=136.12714647317&layout=&ei=utf-8&p= 伊賀上野城周辺地図/Yahoo!地図情報]
92行目: 182行目:
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[[Category:三重県にある国指定の史跡]]
[[Category:伊賀市]]
[[Category:伊賀市]]
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[[ca:Castell Iga Ueno]]
[[ca:Castell Iga Ueno]]
98行目: 190行目:
[[eu:Iga Ueno gaztelua]]
[[eu:Iga Ueno gaztelua]]
[[ko:우에노 성]]
[[ko:우에노 성]]
[[pt:Castelo de Iga Ueno]]
[[zh:上野城]]
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2011年1月11日 (火) 17:15時点における版

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上野城
三重県
模擬天守
模擬天守
別名 白鳳城、伊賀上野城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 5層天守閣(完成まじかに倒壊)
層塔型3層3階(木造・1935年模擬)
築城主 筒井定次
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 藤堂高虎
主な城主 筒井定次、藤堂氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀、武具蔵
指定文化財 国指定史跡
天守は伊賀市指定文化財
再建造物 模擬天守
位置 北緯34度46分12.51秒 東経136度7分37.71秒 / 北緯34.7701417度 東経136.1271417度 / 34.7701417; 136.1271417
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上野城(うえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった平山城である。白鳳城伊賀上野城とも呼ばれる。

概要

俳聖殿

伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184メートルほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川柘植川、南には久米川、西側には木津川本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。

北畠信雄の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いた。その後1585年(天正13年) に筒井定次によって改修を受け、1611年(慶長16年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

現在、旧城域一帯が国の史跡に指定されている。城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿芭蕉翁記念館があるほか、伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野観光地として利用され、各種イベントなどが行われている。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30メートルの石垣[注釈 1]三重県立上野高等学校敷地内に武庫が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。現在、天守台にある3層3階の天守昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。

沿革

織田信雄像
筒井定次像

城のある丘は平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院があり、西の丘陵には伊賀国守護仁木氏の館があった。天正7年(1579年)9月、伊勢国の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆の前に敗退し、天正9年(1581年)9月織田信長の援軍をうけ4万兵で伊賀国を平定。織田信雄の家臣である滝川雄利を伊賀国守護とした。滝川雄利は大寺院、丸山城滝川氏城を改修し伊賀国を支配した。本能寺の変豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月脇坂安治が伊賀国守護となったが、天正13年(1585年)5月に摂津国に移封された。

筒井天守跡の石碑
上野城絵図の部分図/個人蔵

筒井氏時代

同年8月 郡山城から移ってきたのが羽柴の姓を賜った筒井定次であった。天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにした。

迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草館ヲ造立シ屢比ニ幽栖ス。而後数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬師寺ニケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ヌ。三層ノ高楼ヨリ内外ノ曲輪要害太厳重也

—伊水温故

とあり、城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口とした。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられている[1]

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると筒井定次は東軍の徳川家康方につき、会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津国高槻城新庄直頼直定父子に上野城が攻撃されたが、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。筒井定次は徳川家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た。

関ヶ原の戦いの戦後、新庄直頼は改易され筒井定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩した。しかし、徳川家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、彦根城同様重要な地点である伊賀上野城を強固にすべく、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城鳥居忠政のもとに預けた。一説には、筒井定次がキリシタン大名で棄教を聞き入れなかった為とも言われている。

藤堂氏時代

同年8月伊予国宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が、伊賀国に入国した。

藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵
藤堂高虎/個人蔵

大坂城に対抗する以外にも、大和国紀伊国を抑えるためにも藤堂高虎の力が必要となったと思われている。慶長16年(1611年正月より、伊賀上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。

本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を開く南側の東西百三十間とし、北側の東西百三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い、西側は幾度新に南北百三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり

—公室年譜略

としている。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城の事を指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設した。

筒井定次時代は、伊賀上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂高虎時代は大坂城を攻める為の城というまったく正反対の立場をとった城とされている。

東西十三、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだした。

ニ之丸櫓図/個人蔵

1614年(慶長19年)、1615年(元和元年)大坂の役で徳川家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守閣は再建されなかった。天守閣や本丸には建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓がニ棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、また長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。藤堂影虎は大坂の役が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、伊賀上野城を支城とした。

一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、1825年(文政8年)藤堂高猷が最後の城主となるまで世襲した。

川崎克

近現代

  • 1869年(明治2年)版籍奉還
  • 明治維新後、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。
  • 1874年(明治7年)博覧会開催後、太鼓櫓、下之段米蔵が民間に払い下げになった。
  • 東大手門を中心に、三重県庁上野支庁と第三警備駐屯所が置かれた。
  • 1887年(明治20年)東大手門が解体。
  • 1896年(明治29年)伊賀出身の実業家田中善助が、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。
  • 1907年(明治40年)西大手門が解体。
  • 1935年(昭和10年)、衆議院議員であった川崎克の私財により模擬天守が建設される。
  • 1967年(昭和42年)12月27日 国の史跡に指定される。
  • 1980年(昭和55年)4月に公開された映画影武者』の撮影現場として用いられた。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(47番)に選定された。

城郭

伊賀上野城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

筒井定次時代の城を取り込み、大きさも約3倍となり7千に拡張した。筒井定次時代の本丸の西を拡張し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台と通称するようになった。東側の外堀は218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側は254間、堀幅12間、北側が17間、北の山下の土塁と堀は筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。

本丸の西、内堀を隔てた台地、現在の三重県立上野高等学校グランド付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、ニの町筋、三の町筋があり、三の町筋に家臣や住民の消費にそなえた商人町があった。三の町筋の南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外馬場となった。これ以外に馬場の南一帯は外輪と呼ばれる町、忍町が置かれ、更にその南に鉄砲足軽長屋が置かれ、鉄砲町と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる農家があったが、次第に町が形成され東の枝町と呼ばれていた。

嘉永7年(1854年)6月に、安政の大地震があり伊賀上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破損した。その後御殿、城代役所、武具蔵、米蔵をはじめ、東大手門、西大手門等、城として最小限のものが補修されたが、外郭の櫓は再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓櫓と菱櫓が残るものとなった。

高石垣

大坂城の高石垣と共に日本で一、ニを競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

高石垣
上から見た高石垣
高石垣
水濠
城代役所曲輪跡
2010年(平成22年)発掘調査を伴う石垣の組み換え
打込み接ぎの石垣
東大手門
上野城の石碑

古写真

西大手門(非現存)
東大手門(非現存)
武具蔵
西大手門(非現存))/伊賀市上野図書館蔵
御屋敷(非現存)/伊賀市上野図書館蔵
武具蔵/伊賀市上野図書館蔵
上野城絵図/個人蔵
上野城下町絵図(伊賀市指定文化財)/個人蔵

伊賀文化産業城

昭和8年(1933年)11月19日の天守閣棟上げ式
模擬大天守

伊賀文化産業城(いがぶんかさんぎょうじょう)は、伊賀上野城跡に衆議院議員であった川崎克が私財を投じて建てた模擬天守である。川崎の「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」との理想をもとに、「伊賀文化産業城」と命名された。昭和7年(1932年)10月14日地鎮祭を執行、工事に着手、翌年11月19日の棟上式、昭和10年(1935年)10月18日に完成した。

構造

川崎の純和風への強い要望により、同時期にコンクリート建築で再建された大坂城復興天守とは異なり、木造で瓦葺き、白漆喰塗籠の層塔型3層3階、高さ23メートルの大天守と、2層2階の小天守が建てられた[注釈 2]。木造で建てられているが、五層天守の天守台に三層天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用しておらず、史的考証などもなされていない。

所蔵文化財

模擬天守内には、藤堂高虎の黒漆塗の兜などがある。また3階の天井には、横山大観らの色紙46枚が張られている。また天守閣は昭和60年(1985年)3月18日に伊賀市文化財に指定された。

施設情報

  • 開館時間
    • 午前9時-午後5時
    • (入館は午後4時30分まで)
  • 休館日
    • 12月29日-31日
  • 入館料
    • 大人500円、こども200円
模擬大天守と小天守
忍び井戸
天守からの眺望

城跡へのアクセス

注釈

  1. ^ 実際には大坂城が最も高い
  2. ^ 天守の完成という点でいえば、これが伊賀上野城の創建天守である

脚注

  1. ^ 加藤理文 ほか著『【決定版】図解 よみがえる名城 白亜の巨城 徳川の城』学習研究社 2008年

参考文献

  • 創史社『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、217-220頁。
  • 福井健二『三重の城』三重県良書出版会、1979年2月、181-193頁。
  • 西ヶ谷恭弘編著『日本城郭事典』定本、秋田書店、2000年9月、200-202頁。
  • 福井健二『伊賀上野城』伊賀文化産業協会、2009年4月。

関連項目

外部リンク