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「ノート:冀察政務委員会」の版間の差分

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PSIA (会話 | 投稿記録)
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:::あなたの意見や質問は、またもすべて私が今までに答えたものばかりです。私の意見は、もう何度も何度も書いてきていることなのでもうこれ以上繰り返しません。堂々巡りになるだけですから(それともそれが狙いなのでしょうか?)。これまでの議論を、理解できるまで何度でも読み返してください。--[[利用者:ロンドル|ロンドル]] 2010年3月17日 (水) 15:34 (UTC)
:::あなたの意見や質問は、またもすべて私が今までに答えたものばかりです。私の意見は、もう何度も何度も書いてきていることなのでもうこれ以上繰り返しません。堂々巡りになるだけですから(それともそれが狙いなのでしょうか?)。これまでの議論を、理解できるまで何度でも読み返してください。--[[利用者:ロンドル|ロンドル]] 2010年3月17日 (水) 15:34 (UTC)

::::回答が見つかりません。ひとつずつ明確にお答えください。--[[利用者:PSIA|PSIA]] 2010年3月22日 (月) 15:34 (UTC)
::::回答が見つかりません。ひとつずつ明確にお答えください。--[[利用者:PSIA|PSIA]] 2010年3月22日 (月) 15:34 (UTC)


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::::丸一週間、回答をお待ちしていたことを提示しておきます。これ以上コンスタントにチェックもしていられませんので、回答はお待ちしていますが、それに対する返答が長い期間なくてもロンドル氏は文句は言えず、自身の責任であることを認識しておいていただきたい。--[[利用者:PSIA|PSIA]] 2010年3月29日 (月) 06:26 (UTC)
::::丸一週間、回答をお待ちしていたことを提示しておきます。これ以上コンスタントにチェックもしていられませんので、回答はお待ちしていますが、それに対する返答が長い期間なくてもロンドル氏は文句は言えず、自身の責任であることを認識しておいていただきたい。--[[利用者:PSIA|PSIA]] 2010年3月29日 (月) 06:26 (UTC)

>PSIAさん

もう1度書きますが、あなたの意見や質問は今までに答えたものばかりですので繰り返しはいたしません。他人に面倒をかけず、どうぞご自分で見つけてください。

>Sweeper tamontenさん

そうすると、あなたは日本語版ウィキペディアにおいて、日本語版のではなく英語版のルールやガイドラインを用いて議論するべきだと仰るのでしょうか?(日本語版に問題があるというのなら、英語に詳しいあなたが改訂の提案をするなりすればいいのでは?) どうか日本語版のルールやガイドラインに基づいて議論してください。また、確かに草案には拘束力はありませんが、だからといって無視していいわけではないでしょう。

なお、新年度から忙しくなるため、議論に継続的に参加することが困難となります。残念かつ申し訳ないのですが、議論の行く末については、残った方にお任せいたします。どうぞ、ご自由になさってください。--[[利用者:ロンドル|ロンドル]] 2010年3月29日 (月) 17:28 (UTC)

2010年3月29日 (月) 17:28時点における版

漢字の表記

項目中にある、現在では一般的にほとんど使われず、また読むのが難しい漢字を、一般的な読みやすい漢字(またはひらがな)に修正したのですが、そのたびにリバートされています。百科事典である以上、多くの人が読みやすいように修正するのは当然のことで、何の問題もない(というよりもむしろ望ましい)ことだと思うのですが、リバートする理由をお聞かせください。正直に言いまして編集合戦になるようなこととも思えないのですが……。--210.138.182.133 2008年9月26日 (金) 14:48 (UTC)[返信]

編輯の理由として旧字体、一般的、平易を挙げていますが、これは何に基づいて行っているのでしょうか。根拠を示していただければと思います。--廿粁 2008年9月28日 (日) 01:46 (UTC)[返信]
旧字体については私の誤りです。一般的・平易に根拠などと言われましても……(苦笑)。常識的に考えればわかることなのではないでしょうか? ちなみに上の「編輯」も一般的には「編集」だということはわかりますよね?(わからなければ手近な国語辞典でもお読みください) そしてリバートする理由をお聞かせください。--210.138.182.133 2008年9月28日 (日) 05:08 (UTC)[返信]
ほぼ1週間がたちましたが、どうしてご返答がないのでしょうか? 一般的な読みやすい漢字(またはひらがな)に修正したものを、現在では一般的にほとんど使われず読むのが難しい漢字にリバートする理由・根拠をお聞かせください。明日になってもご返答がないようでしたら、本文を編集させていただきます。--210.138.182.133 2008年10月4日 (土) 05:56 (UTC)[返信]
私の理由は既に編輯した際の要約に述べているとおりです。あなた自身が認められたように誤った理由による編輯に対するものです。--廿粁 2008年10月5日 (日) 01:44 (UTC)[返信]
平易で読みやすい漢字を、難解で読みにくい漢字に戻す理由を聞いているのです。--210.138.182.133 2008年10月5日 (日) 05:18 (UTC)[返信]

これ以上は水掛け論でしょう。正しい、誤りという判断基準は、一般的には一つのものではないわけですし。「よる」という和語に「依」(イ)という文字をあてて「依る」と読ませること自体、よるという日本語を表現する方法として正しいといいきれるか、という気もします。わざわざカッコつきで読みを入れるようなことをするのなら、この記事に限ったことではないので、正しいという信念に基づいて全記事の記載の変更を提案すべきという話になりますしね。表記ガイドの解釈に相違があるのならば、コメント依頼を出して下さい。この記事に限ったことではないでしょう。いい加減にしませんか。--はるひ 2008年10月5日 (日) 05:30 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。正直に言いまして、僕自身もどうしてこんな瑣末なことで編集合戦になるのかが理解できないでいます。最初にも書いたとおり、難解で読みにくい漢字よりも平易で読みやすい漢字のほうが望ましいというのは、ほとんど常識の範疇に属することなのではないかと思いましたので。そこで、難解で読みにくい漢字のほうが望ましいとする理由をぜひお聞きしたかったわけですが、その理由をいつまでたっても説明されないので、話がさっぱり前に進みません。僕自身もこんな不毛なことはいい加減にしたいのですが……。--210.138.182.133 2008年10月5日 (日) 08:23 (UTC)[返信]
こんにちは。ですから、二人で話していてもらちが明かないと思うので、ぜひ、コメント依頼を出してみて下さい。--はるひ 2008年10月5日 (日) 09:07 (UTC)[返信]
ありがとうございます。コメント依頼というものを今までしたことがなかったのですが、出してみようと思います。今「コメント依頼」の項目を初めて見たのですが、よくわからないところがありましたので、ご助言をいただきければありがたく思います。この場合は「議論活性化のためのコメント」「合意形成のためのコメント」「利用者の行為についてのコメント」「その他のコメント」のどれにするのが適当でしょうか?--210.138.182.133 2008年10月5日 (日) 09:41 (UTC)[返信]
「議論活性化」のところに、第三者の方のコメントを求めたい旨、できるだけ簡潔に述べたらよいでしょう。--はるひ 2008年10月5日 (日) 10:59 (UTC)[返信]

コメント依頼を見て参りました。 Wikipedia:表記ガイド#漢字に「漢字の字体は、原則として常用漢字表に従います」とあります。常用漢字は戦後の当用漢字を引き継ぐものですが、この間、同音の漢字による書きかえという指針も発表され、21世紀までに、この書き換えを受け入れる日本語話者がほとんどを占めるようになって今日に至っています。正誤の問題ではなく、習慣の問題です。

「要人に依り」については、「〜によって〜される」という受身構文において動作の主体や原因につける「によって」の意味だろうと思います。「依拠する」「根拠とする」とかの意味ではないと思います。Wikipedia:表記ガイド#仮名書きに、「補助用言」や「形式名詞」で「本来の意味がほとんど失われているもの」は仮名書きすることを推奨しています。この場合の「よる」には、もはや「依」の意味は希薄になっていると思います。これを仮名書きするのも習慣の問題であり、仮名書きしたくなる動機も、広く言語の変化の一般的な傾向(具体→抽象、実質語→文法形式)に則ったものでもあります。--КОЛЯ 会話 2008年10月5日 (日) 16:28 (UTC) 一部削除--КОЛЯ 会話 2008年10月19日 (日) 23:35 (UTC)[返信]

ご意見、ありがとうございます。他に問題となった部分に「聯絡(連絡)」「看做される(見なされる)」がありますので、そちらに対するご意見も伺いたく思います。個人的には「聯絡」が1番読みも難しく、問題があるのではないかと考えております。--210.138.182.133 2008年10月5日 (日) 17:26 (UTC)[返信]
「聯」「做」はどちらも当用漢字・常用漢字に入っていないため、「聯」は「連」に書き換え、「做」は仮名書きということになります。個人的には「看做す」を使うこともあるのですが、Wikipediaでは「見なす」と書きますし、そうすべきだと思っています。--КОЛЯ 会話 2008年10月6日 (月) 02:59 (UTC)[返信]
「看做す」はいっそ「みなす」にする手もあるかと。個人的に「見なす」は少し気持ち悪いです。--123.224.169.131 2008年10月6日 (月) 13:47 (UTC)[返信]
Wikipedia:表記ガイドに拠るとJIS X 0208の文字の使用が出来ることになります。--廿粁 2008年10月13日 (月) 01:39 (UTC)[返信]
「使用可能な文字」の節のことを言っているのでしょうが、それは技術的に可能であるといっているだけです。技術的には漢字で表記することが可能である表現のうち、どの表現を漢字で書きどの表現をかなで書くことを推奨するか、という指針は、もっと下に書いてあります。--123.224.169.131 2008年10月13日 (月) 02:02 (UTC)[返信]
それは具体的にどの部分でしょうか。--廿粁 2008年10月13日 (月) 02:52 (UTC)[返信]
既にКОЛЯさんがご指摘のとおりです。--123.224.169.131 2008年10月13日 (月) 03:31 (UTC)[返信]
Wikipedia:表記ガイド内の仮名書きには「以下の例は、かな書きとします。」とありますが、その他は書手に委ねられているかと思いますが。--廿粁 2008年10月14日 (火) 01:00 (UTC)[返信]
あなたが漢字にしようとなさっている表現が、その「以下の例」に該当している、というのがКОЛЯさんのご指摘です。また、「漢字」の節には「ただし、歴史的文書の引用と固有名詞の表記に際しては、常用漢字以外の漢字を使用してよい場合があります。」とあります。これを反対解釈すれば、常用漢字で表記することも可能な表現に対してわざわざ常用漢字外の字を用いることは推奨されていないと解釈するべきでしょう。--123.224.169.131 2008年10月14日 (火) 09:52 (UTC)[返信]
Wikipedia:表記ガイド、仮名書き「以下のは、かな書きとします。」の下には、このを挙げています。КОЛЯ氏のあげた解釈は一つの意見を表明したものです。Wikipedia:表記ガイドはあくまで考慮すべきガイドラインであって、これをさらに個人的に斟酌し解釈した事柄を以て他へ強制するようなことがあってはならないでしょう。また、あなたはWikipedia:表記ガイドを引き、常用漢字を以て漢字の使用を制限すべきだと解釈している様に見えますが、Wikipedia:表記ガイドの漢字には「漢字の字体は、原則として常用漢字表に従います。」とあります。なんら常用漢字外の漢字に制限を課していません。さらにあなたが引用した「ただし、歴史的文書の引用と固有名詞の表記に際しては、常用漢字以外の漢字を使用してよい場合があります。」は但書で、更にその説明には「旧字によるものと常用漢字によるものと2通りの表記が可能である場合については、どちらを正式名称とすべきかについてはまだ議論がまとまっていません」とあります。Wikipedia:表記ガイドの内容を先入観なしに素直に読解すべきではないでしょうか。--廿粁 2008年10月15日 (水) 01:29 (UTC)[返信]
КОЛЯです。確かに私は意見述べましたが、意見しか述べなかったわけではありません。210.138.182.133さんの編集が正当である根拠を述べようとしたものです。--КОЛЯ 会話 2008年10月15日 (水) 15:49 (UTC) 話の流れの位置に移動--КОЛЯ 会話 2008年10月16日 (木) 23:19 (UTC)[返信]

コメント依頼より。123.224.169.131の編集により文の意味が変わるとかではないのなら個人的には簡単な漢字の方がいいです。とりあえず私には読み仮名なしでは読めませんでした。読み仮名をふること自体は問題ないと思いますが固有名詞の場合とは違うと思います。--NAZONAZO 2008年10月14日 (火) 17:08 (UTC)[返信]

素直に考えるべきだとすれば、「看做す(みなす)」のような、重畳的で、かつ実効性の薄い表現を用いるのはいかがなものなんでしょうね。和語に無理に漢字をあてたうえに、さらにふりがなをふるとは。例示は例示で、列挙されたものに限定されているわけではない以上、例示に従って解釈・適用するものです。だからこそ「例」なのですし(類推適用する)。他へ「強制」ではなく、それが至極当然なわけです。考慮すべきガイドラインである以上、考慮すべきですしね。

廿粁さんの表記こそが適切だとする根拠はないでしょう。個人的には、看做すとか依るなどと無理な漢字をあてて和語を壊す行為の、何が素直なのか分かりません。こうした表記法やいわゆる旧字が好きな人がいるのも分かりますが、理解いたしかねます。--はるひ 2008年10月15日 (水) 05:05 (UTC)[返信]

無理な漢字を当てはめたわけではありません。私がこの項目を立て記事を起草しましたが、その参考とした文献から引きまた要約したのみです。123.224.169.131氏も誤解していますが、私が無理に漢字にしようとしているのではなく、210.138.182.133氏が誤った理由により行った編輯が抑もの発端です。また振仮名を否定しているようですがWikipedia:表記ガイドでは明記されていますので否定されるのは如何かと思います。--廿粁 2008年10月16日 (木) 00:55 (UTC)[返信]
旧字体については私の誤りでしたが、一般・平易については別に誤りではないはずです。最初から、「旧字体など非一般的な表記を改める」と書いてあるはずです。また、あなたが参考とした文献にそう表記してあったとしても、意味・内容に変更がない限りはわかりやすい表記に置き換えることに何の問題もないと思うのですが。--210.138.182.133 2008年10月16日 (木) 14:50 (UTC)[返信]

振り仮名について、Wikipedia:表記ガイドでは「熟語は、常用漢字外をかなとする「熟語のまぜ書き」にせず、読みがなを全角括弧内に併記します。」とあります。私は今まで「みなす」という単語を日本語の「熟語」だと思ったことはないのですが、廿粁さんはいかがでしょうか?また、この部分は、混ぜ書きを否定しているだけで、「聯絡」は「連絡」と常用漢字のみの表記に置き換えることができるのですから、置き換えるのが適切です。「聯絡」も「連絡」も、少なくとも現代の日本語話者は同じ意味の単語として理解するのが一般的ですから、置き換えることによるメリットはあれど、デメリットはまったくありません。--123.224.169.131 2008年10月16日 (木) 13:32 (UTC)[返信]

210.138.182.133さん、123.224.169.131さんに賛同します。昔ふうの表記に戻す理由が参考文献の表記に従うということならば、誤った理由による編集です(自分の文章として執筆しなければなりません)。そして他の執筆者による改変を妨げる理由は何もありません。--КОЛЯ 会話 2008年10月16日 (木) 23:19 (UTC)[返信]
表現方法はWikipedia:表記ガイドでの範囲に止ることからであって、昔ふうの表記だからということではありません。これは私の解釈ですが、このWikipedia:表記ガイドの解釈される相違又は幅なる点については書手に委ねられるべきとするのは私が上で既に述べたとおりです。--廿粁 2008年10月17日 (金) 01:38 (UTC)[返信]
廿粁さんが執筆者であるのと同様、210.138.182.133さんも執筆者です。貢献度の違いはあれ、両者は対等です。いつでも他人による改変が許されています。210.138.182.133さんの編集は、Wikipediaで推奨される形にするものであるのに対し、それに対する廿粁さんのリバートは、推奨されない形に敢えて変更するものです。百歩譲っても「明文で禁止されていない」ものに過ぎません。敢えてリバートを繰り返す理由がありません。--КОЛЯ 会話 2008年10月17日 (金) 02:39 (UTC)[返信]
Wikipedia:表記ガイド、読み仮名も参考にして下さい。--廿粁 2008年10月17日 (金) 01:38 (UTC)[返信]
こういうルールは厳格にしすぎると問題が起こるためある程度幅を持たせてあります。そのため「禁止されていない」というだけです。そのため廿粁も210.138.182.133もどちらもルール上は間違っていないということになります。見たところ議論は平行線のままほとんど進んでいません。こういう場合は多数決に委ねるのが普通だと思います。--NAZONAZO 2008年10月17日 (金) 11:07 (UTC)[返信]
その部分は、もしも常用漢字表にない漢字を使わざるをえないのならば読み仮名をつけろ、といっているだけで、読み仮名をつけるのであればどんな箇所でも常用漢字表にない字を使ってもよい、とは言っていません。--123.224.169.131 2008年10月17日 (金) 12:05 (UTC)[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアルによるWikipedia:表記ガイドの解釈です。以下に当論点の箇所を引用します。

「日本語表記についてはWikipedia:表記ガイドで詳しく規定されています。以下は要点をまとめたものです。

  • 漢字の字体が複数ある場合には常用漢字表にある字体の採用を原則とします。ただし、固有名詞や歴史的文書の引用などでは、原文にあわせて用います。
  • どの日本語環境下でも表示できるもの(JIS X 0208等)以外の字体を使う場合には、表示できない環境に配慮してください。」

漢字使用制限が常用漢字にないことはおわかり頂けるかと思いますが。--廿粁 2008年10月18日 (土) 02:01 (UTC)[返信]

「歴史的文章の引用」って原文をそのまま載せる場合とかに使うんじゃないんですか?--NAZONAZO 2008年10月18日 (土) 08:43 (UTC)[返信]

廿粁さんは何の話をされているのでしょう?引用されたのは「漢字の字体」つまり「高」とはしご高や、體と体のようなものであり、「みなす」と「看做す」は漢字の字体の話とは全然別です。--はるひ 2008年10月18日 (土) 09:25 (UTC)[返信]

「依り」と「聯絡」と「看做される」とはそれぞれに事情が異なります。分けて議論しましょうか。
  • 「依り」はWikipedia:表記ガイド#仮名書きにて仮名書き推奨。
  • 「聯絡」は「聯」が当用漢字外なので「連絡」と書き換えるのが21世紀の日本国では一般。
  • 「看做す」は「做」が常用漢字外であるが、21世紀現在、「みなす」「見なす」「看做す」いずれも使用されている(なお法律用語には「看做(かんさ)す」という用語があるらしい)。これらはどれも使用することができる。
当初私のコメントにWikipedia:表記ガイド#漢字を引用したのは、議論をあらぬ方向に逸脱させるきっかけになってしまいました。この点訂正します。
(なお余談ですが日本国以外で暮らしている執筆者にとって、日本国での日本表記制限に縛られる必要はないわけですが、日本語話者の圧倒的多数が日本国在住者なので、早晩、日本国在住の執筆者によって「修正」されることは必至です。なら初めから日本国での日本語表記習慣に合わせてくれてもいいのではないかと思います。なおこれは廿粁氏のことではありません。)--КОЛЯ 会話 2008年10月19日 (日) 23:35 (UTC)[返信]
「看做す」についての個人的意見を付記しますと、繰り返しになりますが、Wikipediaでは「見なす」か「みなす」と書くべきだと思います。なぜなら、平易で読みやすいからです。従って、この方向に編集することは自然なことであると思います。反対の方向に編集することは理解しがたいです。「看做す」を用いるのなら何か特別な理由、例えば法律の世界では「見なす」と「看做す」は別の意味として区別されているらしいですが、そういうような理由が必要だと思います。--КОЛЯ 会話 2008年10月19日 (日) 23:56 (UTC)[返信]
結局結論はどうなったのですか?--NAZONAZO 2008年10月31日 (金) 04:09 (UTC)[返信]

固有名詞でない場合、かつ代替表記で誤解を生む恐れの無い場合、読みがなを振らずに済む表記を選択すべきでしょう。これまでのところ、「看做(みな)される」にすべきと主張しておられたのは廿粁さんおひとりですし、その方がКОЛЯさんの2008年10月19日のコメント以来、このノートに書き込みをなさっておられないことから、不承不承にせよ「看做(みな)される」以外の表記にすることをご納得いただいたものと見做してよいのではないでしょうか。もちろん、ノートでの表記方法は個人の自由だろうと思いますが、本文ではとりあえず「みなされる」にしておいてはどうでしょう。--miya 2008年11月1日 (土) 04:58 (UTC)[返信]

Miyaさんのコメントに賛同します。「みなす」「よる」でよいでしょう。--はるひ 2008年11月1日 (土) 05:07 (UTC)[返信]

Wikipedia:表記ガイドにて許容されている表記である以上、使用の自由を認めるべきだと思います。--廿粁 2008年11月2日 (日) 00:44 (UTC)[返信]

「使用の自由」で問題があったからこうなったのでは?廿粁の編集後に読みにくいと思った人が編集する。これも広義の「使用の自由」といえる。書き換えられる漢字も使用は禁止されていませんから。その後また廿粁が編集する。これの繰り返しが起こったから議論になったんじゃないですか。これだけ話し合って議論がまとまらないなら個人的にはもう投票しかないと思います。--NAZONAZO 2008年11月2日 (日) 10:29 (UTC)[返信]
投票するまでもなく、既に合意は得られていると思います。廿粁さんの言動は、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないでしかないかと。--123.224.169.131 2008年11月2日 (日) 12:08 (UTC)[返信]
(きりがないので終わりにしませんか)結論は出ていると思います、というか、出ているとみなしてよいのではないでしょうか。読みやすいとか読みにくいとかいうのは主観が入りますが、廿粁さんがしきりに持ち出す「表記ガイド」を見ても、どこにも「みなす」を排除して「看做す」にしなければならない、とは書かれていません。廿粁さんは、「漢字で書く」というところをスタート地点にされているようですので、かみ合わないのだと思います。表記ガイドを誤読しているか、あえて誤読して持論を押し通そうとされているのかわかりませんが、使用の自由があるとか表記ガイドにかかれているとだけおっしゃるのでは、残念ながら廿粁さんの論を受容する理由がないです。また、「使用の自由」ですが、すでにNAZONAZOさんにも指摘されているとおり(その前にも同じような指摘はあったのですが)、廿粁さんだけに認められるものではありません。「使用の自由がある、だから自分の好きな表記法を採用せよ」ということなのでしょうか。使用の自由なるものの定義ははっきりしませんが、仮にそれがあったとして、それは廿粁さんだけにあるものではないことは、論を俟ちません。そのガイドラインとして表記ガイドが存在します。そこには、「みなす」は駄目で「看做す(みなす)」と採用しなければならないとする基準は書かれていませんよね。しかし、残念ながら廿粁さんにはそれを理解していただけないのが現状でしょう(参考までに、利用者‐会話:はるひ#管理者であるはるひさんの「さらにふりがなをふるとは。」の発言に疑問もご覧下さい)。廿粁さんには、表記ガイドをもう一度きちんと読んでいただきたいと思います。これ以上はきりがないと思います。--はるひ 2008年11月2日 (日) 13:57 (UTC)[返信]
編輯合戦になった後、Wikipedia:表記ガイドに拠るとして読み仮名を振りました。読みにくさにも配慮し妥協したつもりです。看做す、看做(みな)すはどちらも駄目で、みなすのみが正当であるかのように当初から一貫して譲らず持論を主張しているのはどちらでしょうか。まだ論議の余地はあると思います。--廿粁 2008年11月3日 (月) 01:10 (UTC)[返信]
誰もみなすのみが政党だなどという話はしていないわけです。それはミスリードというものですよ。なにが「正当」かなどということは一般的に決めようがないからこそ話し合っているのです。議論の余地とおっしゃっても、同じことの繰り返しで、もう十分でしょう。--はるひ 2008年11月3日 (月) 01:48 (UTC)[返信]
Wikipedia:表記ガイドに照らして使用の自由が双方にあるなら、それぞれの言分を入れ合意を優先すべきでしょう。はるひさんがこちらで自ら「利用者‐会話:はるひ#管理者であるはるひさんの「さらにふりがなをふるとは。」の発言に疑問」に触れたので言いますが、こちらで議論をするよう誘導しておきながら議論の打切りを行おうするのはいささか矛盾があると私は思います。--廿粁 2008年11月4日 (火) 02:22 (UTC)[返信]
別にコメント依頼を見てやって来た訳ではないのですが。コメントを。>廿粁さん■「読みにくさ」が存在すると認識しておきながら、「読みにく」い漢字を使う理由が良く分かりません。■というか、それ以前に表記ガイドをもう少しよくお読みになることをお勧めしたいのですが(ヒント:括弧)。 ... Kanoe 2008年11月4日 (火) 10:38 (UTC)[返信]
廿粁さんは最初から「聯絡」「看做される」「依り」でもかまわない理由ばかり書いておられますが、ここで求められているのは「聯絡」「看做される」「依り」の方がよい理由です。あなた以外の方々は(最初に書いた私も含めて)全員「連絡」「みなされる」「より」の方がよいとしているのですから、もし議論をお続けになりたいのでしたら、まず「聯絡」「看做される」「依り」の方がよい理由を書かれるべきでしょう。--210.138.182.133 2008年11月4日 (火) 16:27 (UTC)[返信]
読みにくさには配慮すべきかと思います。しかしそれを以て他の表現へ変えることは無いと感じました。特に歴史的事項を扱う記事ですし、起草した段階に於いてこの表現がしっくりするであろうことなどです。この表現が読みにくいからと一律に平仮名にしてしまうのは全くないと思います。漢字にはそれぞれ意味というものがありますので、微妙なニュアンスを伝えるのに役立つのではないかと思います。--廿粁 2008年11月5日 (水) 01:36 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございました。■読みにくさには配慮すべきかと思います。:この辺り、合意が形成できそうなんですが。■特に歴史的事項を扱う記事:原文を引用する場合は難読漢字でもそのまま用いるべきとは思いますが。記事全体をそうする、というのはちょっとどうかなあ、と。我々の身の回りの「歴史的事項を扱」っているものにどれだけ、そう言った事例があるんでしょうか。■…しっくりする…。:この辺りは各個の主観に拠るので難しい問題だと思っています。■漢字にはそれぞれ意味というものがあり…、微妙なニュアンスを伝える…。:これに関しての疑問なのですが、例えば、user:R-hさんによるこの編集廿粁さんによるこの編集の「微妙なニュアンス」を台無しにはしないのでしょうか? しないとすると、それは何故でしょうか。■個人的にはですね。難しい漢字を読める人と読めない人が同居しているときに、今回の場合では、読める人は譲歩できますが、読めない人は譲歩できないのではないかと思うんです。まあ、「だから読み仮名ふってます」とか言われたら、リソースとかそっち方面に話を転嫁すると思うんですが。... Kanoe 2008年11月5日 (水) 14:26 (UTC)[返信]
「この表現がしっくりする」というのは、廿粁さん個人の主観であって、客観的な根拠とは言いがたい。「漢字にはそれぞれ意味というものがありますので、微妙なニュアンスを伝えるのに役立つ」というのも漠然としすぎていて、その「微妙なニュアンス」が具体的にどういうものなのかわかりません。いずれも「の方がよい理由」としては弱すぎると言わざるを得ません。--210.138.182.133 2008年11月5日 (水) 15:24 (UTC)[返信]
南京攻略戦は私ではなく元々於いてを使っていた方が居たのですが、それを嫌ってか不服としてか他の方が編輯合戦へと持込んだのが始りですね。リソースを考えるなら編輯合戦そのものも考えざるを得ないと思います。読み易さにについては振仮名を附けることにより対応可能ではと考えています。記事を執筆するに当って第一としたのは、百科項目の一つとして冀察政務委員会の意味内容を伝えることでした。数ある同様の言葉からどれを選ぶかによって記事の印象はがらりと変るでしょうし、その単語はその記事を構成する一つでもあるわけです。--廿粁 2008年11月6日 (木) 01:12 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございました。Wikipedia全般に関わる問題かなあ、と(勝手に)思いましたので井戸端の方で伺いを立ててきました。議論の要約がざっくりと(?)なっていますので、あちらの方で適宜フォローして頂けますでしょうか。宜しくお願いします。... Kanoe 2008年11月6日 (木) 14:29 (UTC)[返信]
  • (終了提案)さて、本当にきりがないですし、コンセンサスというのは、最後の一人を説得する作業とは意味が異なります。そろそろ終了でよろしいでしょうか。すでにMiyaさんから「みなされる」にしておいてはどうかというご提案もありました。--はるひ 2008年11月3日 (月) 01:48 (UTC)[返信]
賛成します。これ以上やっても記事内容が充実するわけでもなく、コミュニティが疲弊するだけで益はないでしょう。--123.224.169.131 2008年11月3日 (月) 01:50 (UTC)[返信]
(コメント)僕は最初に問題提起した者ですので、自分の意見は棚上げして、とりあえず皆さんのご意見を伺いたいと思います。--210.138.182.133 2008年11月5日 (水) 15:24 (UTC)[返信]
井戸端から来ました。もういいんじゃないですか。はるひさんに同意します。私も漢字を使いたがる方ですが、流石に「聯絡」は行き過ぎかと。誰にでも手軽に読むことが出来る、またそれを目的にしているオンライン百科事典である以上、誰にでも読めて理解できる文章(言い回し、漢字を含みます)で書くことは、歴史的などの必然性がない限りは当然でしょう。--光舟 2008年11月6日 (木) 14:51 (UTC)[返信]
Wikipedia:スタイルマニュアル#日本語表記 によれば、「漢字の字体が複数ある場合には常用漢字表にある字体の採用を原則とします。ただし、固有名詞や歴史的文書の引用などでは、原文にあわせて用います。」で、Wikipedia:表記ガイド#仮名書きによれば、当て字は仮名書きの対象だそうです。したがいまして、「連絡」「みなす」とすることが推奨される、ということになります。
あとは、「考慮すべきガイドライン」だから従わなくていい、という解釈が可能かどうかという問題になりますが、基本的にはガイドラインに従うにしても、Wikipedia:論争の解決に従って合意形成がなされた場合に限って、別の方針が取りうると考えられるでしょう。恣意的に無視できるのでは、ガイドラインの意味がありませんので。Kurz 2008年11月7日 (金) 07:10 (UTC)[返信]

最後のコメントから2週間経過しました。「みなす」「連絡」を用いるということでよろしいですね。--はるひ 2008年11月21日 (金) 11:43 (UTC)[返信]

合意が形成されず妥協が図られないまま、はるひ氏によって議論が一方的に打ち切られ記事が書換えられたことは非常に残念です。--廿粁 2008年11月22日 (土) 01:54 (UTC)[返信]
合意は形成されています。廿粁さん一人がおいつまでも理解できないだけです。残念に思うのはご自由ですが、一方的に打ち切られ、などという解釈をされるようなら、方針文書の無理解や、疲弊させるユーザー(一人でいつまでも納得しないで文句を言い続ける)しばらく参加をお控えいただくしかないと思います。廿粁さんの主張はことごとく的を射ておらず、表記ガイドにも基づかないものであることはすでに指摘済みです。同じことを何度も何度も繰り返さないで下さい。--はるひ 2008年11月22日 (土) 15:39 (UTC)[返信]

はるひ氏が私への「投稿ブロック依頼も必要だろうと」いうことですのでこれ以上は議論致しません。ただ合意が計られず一方が排除されるという形になったのは不信の表れであると捉えることが出来、又他の方が当記事に加筆され充実が図られたことから、私が起草した部分は削除させていただきます。--廿粁 2008年11月23日 (日) 01:59 (UTC)[返信]

これ以上議論いたしませんということについて、感謝します。なお、合意形成とは、最後の一人を説得することではありませんので、すでに十分コンセンサスが得られています。指摘されているWP:POINTをご理解いただければと思います。ここを理解されませんと、コミュニティを疲弊させるユーザーという認識が醸成されやすいと思いますので、老婆心ながら申し上げます。--はるひ 2008年11月23日 (日) 02:09 (UTC)[返信]

Wikipediaへの挑戦です

廿粁氏は自分の執筆した文章に対して要出典タグを貼り付ける行為を繰り返しています。出典は、まずは執筆した当人が責任を持って示すべきものであり、こうした行為は、Wikipediaへの挑戦、Wikipediaの破壊と感じます。強く抗議します。

2008-11-23T02:09:28(UTC), 2008-11-24T00:57:54(UTC); 廿粁氏によって要出典タグの貼られた文章

初版2008-09-21T02:37:36(UTC); 廿粁氏による執筆

2008-11-23T02:09:28(UTC); 廿粁氏によって要出典タグの貼られた文章

  • この委員会は軍事、外交、財政及び人事などについての権限を有していたが、しかし実際には国民政府の要人により大部分が組織され綿密な連絡を取るなどしており、国民政府の一機関とみなされる二面性を持っていた[要出典]

初版2008-09-21T02:37:36(UTC); 廿粁氏による執筆

  • この委員会は軍事、外交、財政及び人事などについての権限を有して居たが、しかし実際には国民政府の要人に依り大部分が組織され綿密な聯絡を取るなどしており、冀察政権は国民政府の一機関と看做される二面性を持っていた。

へそを曲げるのもいい加減にして下さい。Wikipediaを出典クイズにしないで下さい。--КОЛЯ 会話 2008年11月24日 (月) 01:48 (UTC)[返信]

ちょっとびっくりです。ご自分の記述ですから、ご自分で出典を明記するのが筋でしょう。廿粁さんには、方針文書を全般的に理解してから共同作業に臨むことを強くお願いしたいです。それでも納得できないのならば、2週間から1か月ほど、ウィキブレイクを取られることをお勧めします。今回の行為は、ほとんどいたずらか荒らしといってよいでしょう。--はるひ 2008年11月24日 (月) 02:00 (UTC)[返信]
出典クイズにするつもりはありませんでした。この点については誤解されることがありましたので訂正いたします。ただ、当該箇所は、私の責任に於いて削除させていただきたく御願いします。--廿粁 2008年11月24日 (月) 02:15 (UTC)[返信]
釈明のお言葉、ありがとうございます。なお、文章自体の削除をなさるおつもりでしたら、定義部分を含みますので、あまりお奨めしたくないところです。--КОЛЯ 会話 2008年11月24日 (月) 12:17 (UTC)[返信]
当箇所については、すでに信頼関係が崩れたこともあり記述に責任を持つ立場として削除させていただくことが適当であると考えております。--廿粁 2008年11月25日 (火) 01:55 (UTC)[返信]
他に異論がありませんでしたので、私の記述は削除[1]。代えて劈頭部分は概要の参考文献より引きました。--廿粁 2008年12月1日 (月) 01:32 (UTC)[返信]

2009年6月29日以後のSweeper tamonten氏の編集について

以下の2点で問題があると思います。

①「全面的な見直しを行った」として、それ以前の記述をすべて削除しておられますが、そういう行為を行うにはそれ相応の理由が必要です。もし相応の理由がないのなら、それ以前の記述を残した(生かした)形で加筆するべきです。

②参考文献として挙げている5つの文献のうち3つまでが同時代(戦前)の文献です。歴史の分野においては、もっと後世、できればより近年の出版物を参考文献として記述するべきです。--ロンドル 2009年7月11日 (土) 02:21 (UTC)[返信]

R-hさんが行ったような編集を期待しました。{{参照方法}}の案内にもあるように「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示」すべきです。以前にはその気配がありませんでした。情報を持っている方には出典情報をはっきり示しながら加筆していただくことを望みました。すでに加筆がそのように始まったことは喜ぶべきことです。「近年の出版物を参考文献として記述するべきです。」とする根拠は何でしょうか?--Sweeper tamonten 2009年7月12日 (日) 02:23 (UTC)[返信]
横から申し訳ないけど。「近年の出版物を参考文献として記述するべきです。」っていうのは、Wikipedia:中立的な観点とかの話ではないのかな。少なくとも、俺はそう思った。例えば、戦前・戦中の文書は軍部の検閲を受けているんで中立ではない、と。そういう意味からいえば、「近年の出版物」が戦後のものであれば少なくとも検閲は受けてない、と。--とおりかかったひと 2009年7月12日 (日) 03:00 (UTC)[返信]
①について。「どの記述の情報源であるかを明示」されていないからといって、いきなり削除してもよいという理由にはなりません。[要出典]をつけるなど他にいくらでも方法はあります。②について。基本的にはとおりかかったひとさんの仰るとおりです(「横から申し訳ない」ことなどありません。多くの方に議論に参加していただくのは望ましいことです)が、歴史の分野では新しい時代のものほど最新の研究の成果が反映されているという意味で、「近年の」という表現にしました。--ロンドル 2009年7月20日 (月) 16:12 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性#方針の2には「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。」とあります。そして「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示」すべきです。しかし、今Wikipedia:ページの編集は大胆にという方針により過ぎたという反省もしております。大胆な編集を行うとする予告はしておくべきでした。さて、私の編集手法に瑕疵があったとする貴方の主張とは別に善後策を論じることができます。善後策はどのようなものになるでしょうか?--Sweeper tamonten 2009年7月21日 (火) 01:08 (UTC)[返信]
Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいを参照してください。善後策としては、現在の記述にSweeper tamontenさんが削除した(元々あった)記述を加筆する、という方法がよいと思います。そしてその作業はSweeper tamontenさんにしていただきたく思います。本来は、元々あった記述Aに新たな記述Bを加筆するべきなのに、Aを削除してBのみの記述にしてしまったのですから。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 14:33 (UTC)[返信]
検閲について一言。戦前戦中の検閲は○×などがあてがわれたので痕が分ります。それに対して被占領期に行われたGHQによる検閲は秘匿された為、一文ごと削除され、検閲があったかどうかさえもそこからは分らず趣旨がねじ曲られることもあるように思います。--廿粁 2009年7月21日 (火) 01:52 (UTC)[返信]
何を仰りたいのかわかりかねますが、私は前述のとおり「近年の」と表現しており、GHQ占領期のような古い出典も好ましくないと考えています。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 14:33 (UTC)[返信]
これは俺に対するコメントね? 検閲されるという前提の元に、出版される文書がどういうバイアスがかかっているのか想像してもらいたい、ってところまで言うのは語るに落ちた感があるのだがなあ。--とおりかかったひと 2009年7月30日 (木) 13:43 (UTC)[返信]
どのような背景があるのか考えて読むことは重要ですが、Wikipedia:中立的な観点の云う中立的観点と一般にいわれる「中立」は別です。--廿粁 2009年8月1日 (土) 01:29 (UTC)[返信]
これは俺に対して言ってるの? そうだとしてレスするけど、別なら別で良いけれど(何も同じなんて俺は言ってないよね?)、何がどう「別」なのかはっきり言った方が建設的だと思わないのかなあ。俺がここであなたに反論したとして、「私(=廿粁氏)の言う、「別」はそうではない。こうです」って後出しじゃんけんみたななことがしたいわけじゃないんでしょうに。(というか、GHQの検閲が捻じ曲がってるとか言ってるのは何だったのか、って感じだなあ。)--とおりかかったひと 2009年8月1日 (土) 08:19 (UTC)[返信]
意味が異なると云うことです。とおりかかったひとさんは「何も同じなんて俺は言ってないよね?」と言っていますが、別の意味で「中立」を使っていたのでしょうか。--廿粁 2009年8月10日 (月) 01:35 (UTC)[返信]
あの。俺は、「何がどう「別」なのかはっきり言った方が建設的だ」と言ってますよ? 「別」=「意味が異なる」ってことを意味してるこたあ分かってますって。んー。というか、本筋と逸れてるんでもうイイデスヨ。何かこれ以上は不毛なんで。--とおりかかったひと 2009年8月10日 (月) 03:40 (UTC)[返信]
ロンドルさん、Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいを読みました。そこで示されている検証できないものだったので削除したわけです。貴方が検証できるという情報をお持ちならその部分を加筆してください。--Sweeper tamonten 2009年7月26日 (日) 14:44 (UTC)[返信]

検証不可能なものとは参考文献も挙げられていないものです。参考文献は挙げられていたわけですから該当しません。というわけで、あなたが加筆をお願いします。加筆がなされたなら、より詳しく脚注をつけますので。なお、前述の「参照方法」を見つけられなかったので、どこにあるのかお教えいただければ幸いです。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 15:04 (UTC)[返信]

その参考文献は2008年11月23日 (日) 04:31の編集で追加されたものですがコメントが不十分でいずれの記述がどの資料のどのページにあるかという他の編集者に対する配慮がありません。こういうものは一旦削除して情報を持っている方にちゃんと記述していただくべきでしょう。--Sweeper tamonten 2009年7月26日 (日) 15:21 (UTC)[返信]
ですから、「要出典」をつけるなどいくらでも方法があった、いきなり全削除すべきではなかったと言っております。あなたが加筆ができないというのなら、差し戻しより他に方法がなくなってしまいます。なお、該当の文章および参考文献は私が記述したものです。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 15:37 (UTC)[返信]
全削除しても履歴に残ります。私が消した部分の内容がわからないまま下手に文章を構成すると余計面倒なことになると判断しました。各記述の前後関係が分からないからです。残しておくべき文章をどこにおけばいいのか判断できない場合には削除したほうがいいと考えています。--Sweeper tamonten 2009年7月26日 (日) 15:50 (UTC)[返信]
履歴に残る云々を問題にしているわけではありません。「各記述の前後関係が分からないから」削除してもよいのなら、wikipediaのあちこちで削除が行われることになってしまいます。そのようなものは理由にならないし、そのような行為は不穏当です。そのような理由・行為で編集の手間隙を他人に負わせることが問題なのです。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 16:09 (UTC)[返信]
私が間違った場所に記述を残し、参考文献を追加された方だとは思いますが、その方が後で面倒な作業を行うよりは何も無い状態のほうがよろしいと判断しました。参考文献があってもそれが直ちに記述を保障するものでないとも考えております。以前の状態の非を述べてから編集作業をすべきだったのかもしれませんがそれよりは今回のように作業して脚注機能などを利用して出典情報を明らかにする手段をとるべきだったと考えています。よりいい方法があれば参考にさせていただきますのでご提示ください。--Sweeper tamonten 2009年7月26日 (日) 16:18 (UTC)[返信]

私はあなたがこの記事の編集を始める前に編集をしていた者です(当時はipユーザーでした)。つまりあなたが全削除した記述を編集した者です。最初から言っているとおり、それ以前の記述を残した(生かした)形で加筆するのが妥当な編集の仕方だと考えます。あなたの言うような理由で全削除するのは不穏当です。--ロンドル 2009年7月26日 (日) 16:33 (UTC)[返信]

貴方の主張に沿うようなウィキペディアの方針はないように思われます。貴方がこれまであげられたウィキペディアの方針では貴方の主張を支持していないように思われます。そして「要出典」をつけるのは出典情報を得たいためです。編集者の判断で削除しても構わない例のひとつと考えています。--Sweeper tamonten 2009年7月26日 (日) 16:55 (UTC)[返信]
編集者1人の判断では後々問題になるでしょう。それからSweeper tamontenさんは方針を自己に都合良く解釈しているように感じます。--花蝶風月雪月花警部 2009年7月27日 (月) 13:27 (UTC)[返信]

私は、正直なところ、Sweeper tamonten氏の編集後も、それ以前の内容は保持されていると思います。概要部分はあまりにも簡略なもので、現在の記事のごく一部に過ぎませんから、逆に出展付きで加筆されたようなものではないでしょうか?

現在の問題はむしろ、日本の当時の資料に依拠しすぎた、POV違反だと思われます。たとえば、日本の新聞記事を出展として香河県の「非武装自治運動」などが記載されていますが、『華北事変の研究』p.239には、「武力衝突の末、・・・県政府・公安局を占拠」との当時の『大公報(天津)』の記事を引いて記述されており、当時の状況を考えれば、日本の報道を一方的に信用できないことは明らかです。(さらに同ページによれば、この事件を抗日的に報道した天津新聞の職員(つまり中国人)を支那駐屯軍憲兵隊が逮捕したというのですから、もはや国内報道は事実として信頼に足るとは言いにくいのではないでしょうか。)--R-H 2009年7月27日 (月) 14:53 (UTC)[返信]

そうですね。どうやらSweeper tamontenさんは当時の日本側資料や新聞報道を鵜呑みにしているようです。部分的であれ日本側が関与していることを考慮すれば、少なくともこれらの引用については慎重になったほうがいいと思うのですが。彼はもしかすると「報道された事実」と「確定した事実」を混同しているのかもしれません。--花蝶風月雪月花警部 2009年7月28日 (火) 12:20 (UTC)[返信]

Sweeper tamontenさんの主張には納得できないのですが、これ以上議論を長引かせても得るところはなさそうですし、①については私が出典つきで加筆するということで譲歩します。ただし今後は安易に全削除などなさらないよう留意していただきたく思います。②については、R-Hさん、花蝶風月雪月花警部さんに同意です。--ロンドル 2009年7月29日 (水) 01:52 (UTC)[返信]

R-Hさん、新しい展開を招いていただいたことに感謝します。さて貴方が指摘されたように香河県の「非武装自治運動」には納得できない部分があります。修正する準備はできていますがロンドルさんが作業の準備をしていると思われますので、その作業後に修正を加えたいと思います。またWikipedia:中立的な観点#中立的な観点についての方針声明(新版 拡張版)には「記事を中立的なものにするためには、我々の共同作業が不可欠です。」とあり、中立ということを考えるなら共同作業がなされるべきとされていますので互いの作業を助け合う姿勢を大切にしたいと考えています。
ロンドルさん、申し上げたとおりWikipedia:ページの編集は大胆にという方針により過ぎたという反省もしております。大胆な編集を行うとする予告はしておくべきでした。貴方の編集作業に期待します。--Sweeper tamonten 2009年7月31日 (金) 05:31 (UTC)[返信]
私は②の点についてもある程度の結論が出てから加筆しようと考えていたのですが……。R-Hさんが挙げている件はあくまで一例という意味で書かれたのだと思うのですが、Sweeper tamontenさんはその部分だけではなく全体的な疑問点についてはどうお考えなのでしょうか?--ロンドル 2009年8月1日 (土) 09:53 (UTC)[返信]
Wikipedia:中立的な観点を基準として考えます。つまり「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」ということを根本にすべきと考えています。--Sweeper tamonten 2009年8月1日 (土) 23:52 (UTC)[返信]
Wikipedia:中立的な観点の前提として、「近年」発表された査読論文など「信頼される情報源」が優先されることをお忘れなく。当時の資料は「一次資料」であって、それを根拠に歴史解釈し編集するのは独自の研究に過ぎないよ。それは専門家しかできないことだし、Wikipediaの独自の研究をしないというルールに抵触している。今現在の学術研究を把握できない学力レベルであるなら、つまり『史学雑誌』や『日本史研究』、あるいは中国の『近代史研究』といった査読雑誌を見たことも聞いたことも触ったことすらない、ましてや調べたこともないようなら、編集自体が時期尚早かな。--118.105.234.7 2009年8月2日 (日) 00:06 (UTC)[返信]
Wikipedia:中立的な観点を基準として考えます。つまり「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」ということを根本にすべきと考えています。
対話者の方々は、Sweeper tamontenさんご自身がそれに沿った編集を行っていない点を問題視しているのです。--花蝶風月雪月花警部 2009年8月2日 (日) 03:36 (UTC)[返信]
Sweeper tamontenさんからのご回答が未だにないようですが、私以外の方の意見にもきちんとお答えくださるようお願いいたします。--ロンドル 2009年8月7日 (金) 18:17 (UTC)[返信]
私に回答を求められている方はその旨明示願います。--Sweeper tamonten 2009年8月8日 (土) 09:45 (UTC)[返信]
Sweeper tamontenさんのコメントに対して、コメントがつけられているのですから、いちいち明示せずともSweeper tamontenさんの回答(もしくは返事)が求められていることはわかると思うのですが。--ロンドル 2009年8月10日 (月) 16:16 (UTC)[返信]
未だSweeper tamontenさんからのご回答がないようですが、答えることができないと解釈してよろしいのでしょうか?--ロンドル 2009年8月16日 (日) 01:52 (UTC)[返信]
回答を求める意思表示がありませんので答える必要がないものと解釈しております。重ねてうかがいますが私に回答を求められている方はその旨明示願います。--Sweeper tamonten 2009年8月16日 (日) 02:38 (UTC)[返信]
繰り返しますが、Sweeper tamontenさんのコメントに対してコメントがつけられているのですから、いちいち明示せずともSweeper tamontenさんの回答(もしくは返事)が求められていることは、文章をきちんと読めばはっきりとわかることです。もし、わからないのなら読解力に問題があると言わざるを得ませんし、わかっていて答えないのなら対話拒否と見られる可能性があります。あなたの解釈はあまりにも自分に都合のよい解釈です。--ロンドル 2009年8月16日 (日) 12:59 (UTC)[返信]

Sweeper tamonten氏の編集について、私は前述で例示して当時の新聞の報道をもって出展となすことに反対したのですが、Sweeper tamonten氏は当該部分だけが信用に足らないと判断しておりませんか?

この編集でも、たとえば中国側の「指令」を推察にすぎないはずの当時の日本側の新聞記事から事実として記述しています。そのような編集はきちんと「日本側が報じた」という形で書くことが事実であり、中国側が実際に指示を出したという風に書くことはやめていただきたいと考えます。

当時の新聞報道をもって「事実」を記述することの是非について、Sweeper tamonten氏の考えをうかがいたいです。--R-H 2009年8月17日 (月) 01:11 (UTC)[返信]

「当該部分だけが信用に足らないと判断しておりませんか?」とはその通りです。そして「日本側が報じた」とか「中国側が報じた」といちいち説明をつけることは正直面倒だと思っていますがこれを徹底させるなら各記述がどちら側の発表に基いているのかということを述べなくてはいけないかなとも考えています。すると『華北事変の研究』などは中国側の資料を多く利用していますのでいちいちどちら側の発表を基にしているという記述がうるさく付くことになるのかなとも考えています。読みやすさを考えれば大きなブロックに分けるという手段もありますし、いろいろ考えたいと思います。--Sweeper tamonten 2009年8月17日 (月) 02:54 (UTC)[返信]
最も簡単な解決方法としては、より近年の出版物を参考文献として編集し直すということだと考えます。なお、Sweeper tamontenさんには、118.105.234.7さんの「Wikipedia:中立的な観点の前提として、「近年」発表された査読論文など「信頼される情報源」が優先されることをお忘れなく。当時の資料は「一次資料」であって、それを根拠に歴史解釈し編集するのは独自の研究に過ぎないよ。それは専門家しかできないことだし、Wikipediaの独自の研究をしないというルールに抵触している。」という意見に対してもお答えいただきたく思います。--ロンドル 2009年8月17日 (月) 13:41 (UTC)[返信]
当時の新聞をそのまま引用した場合には、それは「当時の報道」の域を出ませんから、それに対して「○○であった」などと記述することには問題が残ります。つまり、当時の報道からそれが事実であったと記載することで、独自研究となってしまうのではないでしょうか?一方で、研究論文を踏み台にすれば、「報じた」という記載をする必要はないでしょう。研究論文が「報じた」としていなければ、その研究論文が事実として取り扱ったということです。つまり、『華北事変の研究』という研究論文が、中国側の資料が「史実」と認定していることを記載できるわけです。これは独自研究ではありません。それがどちらよりか、というのはまた別の問題でしょう。
なお、『華北事変の研究』は確かに中国側の資料を多く使っていますが、それらは新聞ではなく電報書簡=公文書と研究論文ですし、むしろ「大公報」・「朝日新聞」などの新聞記事の情報の場合、本文で報道として紹介・引用されております。事実誤認がありましたので訂正します。
この点、ロンドル氏の発言と合わせてSweeper tamonten氏にもう一度お聞きいたします。Wikipedia執筆者が当時の新聞を出典として「事実」を書くことは独自研究ではないでしょうか?斜体追記、署名忘れ追記--R-H 2009年8月23日 (日) 16:02 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかから考えると問題ないようです。--Sweeper tamonten 2009年8月23日 (日) 23:32 (UTC)[返信]
日本軍が関与していたことを考慮すれば、当時の日本における新聞報道の内容をそのまま記述することは危険でしょう。Sweeper tamontenさんは、ご自身の提示した出典の内容を「盲信」していらっしゃるのではありませんか?それが記事の編集にも表れてしまっているのだと思います。--花蝶風月雪月花警部 2009年8月24日 (月) 14:10 (UTC)[返信]
とおりかかっただけですまないけれど。それって、結局俺が上で言ってたことなんだよなあ。何かループしているというか。ここでも、話が進んでいないというか。俺がSweeper氏なら、「「新聞報道の内容をそのまま記述することは危険」というのは具体的にWikipediaのどういう方針に基づいていますか?」とか切り返すと思うんだ。まあ、とりあえずここもコメント依頼に出しちゃあどうかね。--とおりかかったひと 2009年8月24日 (月) 14:24 (UTC)[返信]
Sweeper氏に質問(と明記しておく)。1、近現代史関連のページにおいて、戦前戦中の日本のメディアで報じられた内容をそのまま「事実」として書くことにWikipediaの何らかの方針に関して問題があると考えているのか、ないと考えているのか? 1-2、あると考えている場合はそれはどういう場合か? 2、近現代史関連のページにおいて、戦前戦中の日本のメディアで報じられる内容・説が、現在知られている内容・説と全く逆もしくは異なる内容である場合、どう記述するべきと考えているのか?--とおりかかったひと 2009年8月31日 (月) 17:42 (UTC)修正。--とおりかかったひと 2009年8月31日 (月) 18:01 (UTC)[返信]
(1)ウィキペディアの認める事実として問題はない。(2)ウィキペディアではあらゆる観点からの記述が求められている。--Sweeper tamonten 2009年9月14日 (月) 14:21 (UTC)[返信]
あー、どもども。問題ないんだ。なるほど。Sweeper氏だったら満州事変についてどう書くのか知りたかったなあ。--とおりかかったひと 2009年11月28日 (土) 15:16 (UTC)[返信]

Wikipedia:信頼できる情報源#情報源には、「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。ほとんどの一次情報源となる資料は、適切に用いるための訓練が必要です。」とあります。--ロンドル 2009年9月17日 (木) 15:22 (UTC)[返信]

なんて言うか、すでに「方針文書要熟読」のレベルに達していると思うが・・・。とりあえずSweeper tamonten氏に関してコメント依頼を出して多方面から意見をもらい、それでWikipediaのルールが理解できないのであれば、「方針文書要熟読」対象者として頭を冷やしてもらうしかないのではないか。--118.105.203.156 2009年9月23日 (水) 01:41 (UTC)[返信]

編集内容についての結論

「2009年6月29日以後のSweeper tamonten氏の編集について」の節において、1ヶ月以上新たな書き込みがありません。何らかの結論を出したく思いますので、ご意見をお寄せください。--ロンドル 2009年10月23日 (金) 13:54 (UTC)[返信]

新聞報道、また一次史料を出典に書けないということはないので(断定表現はいかがかとは思うが)、「東京朝日新聞による」「戦史叢書による」と前置きして「伝えられている事実」とすれば済む話でしょう。--PSIA 2009年10月28日 (水) 03:56 (UTC)[返信]
前述してあるWikipedia:信頼できる情報源#情報源の「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。ほとんどの一次情報源となる資料は、適切に用いるための訓練が必要です。」については、どうお考えなのでしょうか?--ロンドル 2009年11月2日 (月) 12:31 (UTC)[返信]
その一文は一次情報をもとに編集者が事実を否かを判断し、断定表現で記載したり、解説することが問題である(それには高度な技術が必要だから)ことを述べているものであり、一次情報に何が書かれているかの事実を記載することに問題はないはずです。「○○には~と書かれている」との記載法にしておけば良いのみ。--PSIA 2009年11月2日 (月) 15:24 (UTC)[返信]
そこに書かれているのは、ごく単純に「一般的に、ウィキペディアの記事は信頼できる二次情報源に頼るべきで、一次情報源に基づくべきではない。なぜならほとんどの一次情報源は、適切に用いるための訓練が必要だから。」としか読めません。あなたの解釈には無理があると言わざるを得ない。Sweeper tamontenさんによる編集は、ほぼ一次情報源のみによって書かれており、そのような記事の書き方には非常に問題があります。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料にも「なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。アップルパイ最近の出来事などが、この例として挙げられます。ただし、こういったことは例外です。」とあります。--ロンドル 2009年11月6日 (金) 04:20 (UTC)[返信]
一次資料が禁止されているわけではありません。「ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません」。問題なのは公表されていない自身の調査による一次情報がマズイことがしっかり書かれているでしょうに。すでに公表されている資料(戦史叢書、東京朝日新聞)は問題はありませんよ。そもそも東京朝日新聞の記事を一時情報と言えるのかも疑問ではありますが、少なくとも公表されている資料をもとに「○○には~と書かれている」と事実の記載にすれば何も問題は残らず、一発で解決することです。--PSIA 2009年11月6日 (金) 23:23 (UTC)[返信]

(インデント戻し)一次資料が禁止されていると言っているのではなく、Sweeper tamontenさんによる編集は「もっぱら一次資料に基づいてい」る、そのような編集は問題がある、と言っているわけです。一次資料を使ってもかまわないが、記事の大半が一次資料ではいけない、ということがWikipedia:信頼できる情報源#情報源Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料には書かれているわけです。--ロンドル 2009年11月13日 (金) 08:27 (UTC)[返信]

まあ、一次資料をもとに断定表現で書いている部分はミスしているとは思いますよ。そこで訂正するならば、どう訂正するのか、提案文をいただきたい。--PSIA 2009年11月13日 (金) 11:39 (UTC)[返信]
なぜ提案文なんてお話が出てくるんでしょう? 私がSweeper tamontenさんの編集には問題があると指摘し、その上で上節での議論がなされ、私はそれについて何らかの結論を出したいと言っているだけです。花蝶風月雪月花警部さんの仰るように、私もSweeper tamontenさんご自身に再編集していただくことを希望しています。それは上節にも記してあるとおりです。--ロンドル 2009年11月21日 (土) 01:55 (UTC)[返信]
そうなんですか。文を改変させたいお気持ちがビンビン伝わってきていたので、ならば提案文を、ということなんですが、編集した本人に期待するならば待つしかあるませんな。--PSIA 2009年11月22日 (日) 03:21 (UTC)[返信]

コメント 当時の新聞報道や一次資料には一定のバイアスが掛かっている事を踏まえて、文章表現には注意する必要があります。Sweeper tamonten氏は自身が「信頼できる情報源」とみなしたものについてはそのまま断定的に記述してしまう傾向が強く出ているようなので、ロンドルさんが以前指摘されたこと([2])に留意して、記事の「書き方」を改善していただくことを希望します。--花蝶風月雪月花警部 2009年10月29日 (木) 12:04 (UTC)[返信]

私もそう望むとかなり前に書いたのですが、結局のところSweeper tamontenさんご自身が記事を書き直さない限りどうしようもないというところがあります。かといって私が書き直すのも少々骨が折れ、そこまでの余裕が目下のところないので、悩ましいところではあります。なお、Sweeper tamontenさんはここ1ヶ月以上ウィキペディアの編集をされておられないようです。--ロンドル 2009年11月2日 (月) 12:31 (UTC)[返信]

では、Sweeper tamontenさんにWikipedia:信頼できる情報源#情報源Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料に十分留意した上で記事を再編集していただくことを要望する、という結論とさせていただきます。--ロンドル 2009年11月26日 (木) 06:04 (UTC)[返信]

あー、どうも、一足も二足も遅かったようで。俺のコメントは、一次資料に基づいた部分は要出典タグ的なものをつけて、一定期間放置されている様なら、ごっそり削除するのが望ましい、って感じかなあ。--とおりかかったひと 2009年11月28日 (土) 15:30 (UTC)[返信]
お久しぶりです。出典(脚注)の一次資料(一次情報源)を要出典タグ(的なもの)に置き換えるということでしょうか? 要出典タグ自体は出典が示されていない部分につけられるものですし、出典自体は示されているのでちょっと違うかなという気がします。それと、その部分をごっそり削除すると記事が8~9割減ってしまい、残った部分だけではぜんぜん意味が通らなくなってしまうので、結局全面的な書き直しとなってしまうんですよね。私もちょっと考えはしたのですが……。
「二次資料(二次情報源)で編集しなおせ」という趣旨のタグがあれば、どなたかが気づいて再編集していただける可能性もあると思うのですが(僕個人としては再編集はちょっとしんどい)、一応、議論告知タグでその代用としておきました。--ロンドル 2009年11月29日 (日) 13:15 (UTC)[返信]

私が「参考文献」として挙げ、Sweeper tamontenさんが「関連文献」に移したものは、現状の記事内容に反映してませんので削除させていただきます。

なお、Sweeper tamontenさんに限らず、二次情報源による編集が可能だという方がおられましたら、どなたでもご自由に全面的な再編集をよろしくお願いします。--ロンドル 2009年12月2日 (水) 06:35 (UTC)[返信]

概要と河北自治運動の節だけ手直ししてみましたが[3]、このように一次資料に記載されている事実として記載することは問題ありません。手直しすれば済むことです。--PSIA 2009年12月13日 (日) 01:54 (UTC)[返信]
「一次資料に記載されている事実として記載する」よりも「二次資料による記載」のほうが、より望ましいことは明らかです。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源には、「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。ほとんどの一次情報源となる資料は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。」とある、ということは何度も言っているはずです。--ロンドル 2009年12月13日 (日) 03:45 (UTC)--ロンドル 2009年12月14日 (月) 02:35 (UTC)(追記)[返信]
二次資料を中心に書くことは重要ですが、「一次史料だから」との理由で削除できるものではありません。書き方の問題です。--PSIA 2009年12月17日 (木) 10:13 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、上記のWikipedia:信頼できる情報源#情報源の文章をよくお読みください。一次情報源による記事よりも、二次情報源による記事のほうが優先されるということが書いてあります。よって二次情報源による編集が可能なら、それを押しとどめる理由はまったくありません。もし、一次情報源を使用するにしても、二次情報源を補足する形で使うべきなのは明らかであり、あなたの主張はまったく的を射ていません。
というわけで、二次情報源による編集が可能だという方がおられましたら、どなたでもご自由に全面的な再編集をよろしくお願いします。--ロンドル 2009年12月17日 (木) 13:45 (UTC)[返信]
一方を優先することが、もう一方を消し去る権利・義務には有り得ません。二次資料を優先しつつ、一次資料に記載されている事実も併記しておけば良いことです。--PSIA 2009年12月19日 (土) 09:01 (UTC)[返信]
あなたはガイドラインを正しく解釈できていません。「ウィキペディアの記事は一次情報源ではなく二次情報源で書かれるべきだ」→「しかしSweeper tamontenさんは一次情報源のみを使用して記事を書いてしまった」→「それを二次情報源による記事に編集しなおす」、という過程になんら問題はありません。
二人だけで議論していても埒が明かないので(他の方々の書き込みも頻繁にはありませんし)、コメント依頼をして第三者にも意見を聞いてみましょう。コメント依頼を出しておきます。--ロンドル 2009年12月23日 (水) 14:19 (UTC)[返信]

インデント戻します。議論を見る限りロンドル氏に一票投じます。理由は1史料に記載されていること≠歴史学的事実であるため。専門家たる歴史家は史料が本物かどうか、あるいは版による誤字脱字や改変・脱落はないか調べることを当然のごとくしています(校勘学ということばすらあり、これは歴史学の一分野です)。これを史料批判と言いますが、当該の史料について仮に史料批判を終えたとしても、その後に他の史料との整合性を照らし合わせ、歴史的事実というものを確定していく作業があります。この記事の場合、総合的に歴史的事実は探っていくならば、日本語の史料のみならず、中国語の史料や他の言語の史料についても読解力が必要でしょう。こうした史料の扱い方や読解能力が歴史学的探求する上では不可欠です。以上の一連の作業は、歴史学を学んだ者なら誰でも行う手続きであり、もし仮に1Wikipedianが行っても独自の研究に当たるものです。一次史料を引用するなとは言いませんが、この場合、歴史家の査読研究の中で引用された史料をその歴史家の解釈に従って記述すべきでしょう。ただ単に史料のみを引用し、何の解釈も書かないのは読者に不親切であり、避けるべきです。無論、1Wikipedianの歴史解釈は記述すべきではありません。どこの誰かも分からない、史料を適切に扱う能力があるかどうかも分からない、つまりは査読論文や研究書を発表したことがあるのかどうかも分からない人間の解釈を求めて事典を調べる人はまずいないでしょう。単に史料を掲載したいのであれば、Wikisourceに転載してはどうでしょうか。--118.105.232.98 2009年12月23日 (水) 15:22 (UTC)[返信]

一理ある論とは思います。一次史料で埋め尽くし、報告だけするような記事はまずいでしょうね。wikipediaは新聞ではないですからね。しかし当時の研究者の見解、新聞報道の事実を除外することはできません。方針上、除外できるのは「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次情報源は、使ってはいけません。」です。朝日新聞や当時の研究者の書物はこれに該当しません。もちろん一次史料をもとに編集者が解説したらアウトですが、二次資料を中心としつつ、当時の研究者の見解や新聞報道がある事実も記載することがPOVな記事と考えます。その当時の記事・研究者の意見などに反論・見解があるならば、それも記載すれば良いことです。存在の事実は事実として記載することが読者の知識をサポートするものと考えます。存在する事実を隠蔽してしまうことは方針を歪曲したPOVにもなりえるものではないでしょうか。(できましたらアカで出てきていただければ幸いです)--PSIA 2009年12月24日 (木) 12:04 (UTC)--PSIA 2009年12月24日 (木) 12:54 (UTC)[返信]
最初から言っているとおり、この記事では大量の記述のほとんどが一次情報源のみによって執筆されており、それが問題なわけです。二次情報源による記述を記事の中心とすることにはPSIAさんも同意されているようですが、現段階では一次情報源による記述の量が多すぎて、それに見合うだけの二次情報源による記述量を足すのが難しい。一次情報源による記述はなくてもかまわないものですので、二次情報源による再編集をする場合に、戦前の新聞報道が中心となっている現在の記述が大きく削られるのは避けられないことでしょう。--ロンドル 2009年12月25日 (金) 06:31 (UTC)[返信]
「一次情報源による記述はなくてもかまわないもの」か否かはロンドルさんの個人的見解であり、問題だと思われるならば、記事の充実のために現在の詳細な情報を維持しつつ、二次資料を加筆されることを願います。--PSIA 2009年12月26日 (土) 02:57 (UTC)[返信]
同じことを何度も繰り返したくないのですが、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源には「ウィキペディアの記事は一次情報源ではなく二次情報源で書かれるべきだ」ということが書いてあるのです。つまり現段階では、望ましくない編集がなされてしまっているわけです。よってそれらが二次情報源によって裏づけされない限り、削除されるのはやむを得ません。--ロンドル 2009年12月29日 (火) 17:37 (UTC)[返信]
えっと、繰り返し炊くないのですが、よーくお読みください。新聞の記事は、記者が検証しないでそのまま書いたインタビューなどを除き、全て多くの一次情報をまとめ、多方面から精査された二次情報源となります。信頼できる情報源には「主流の新聞」が該当することが方針では述べられていますよね(Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料)。それはなぜか?その理由はこちらに書いてあります。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
報道機関は学術論文のように)査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです。 だからwikipediaでは「主流の新聞」を信頼できるとしているのです。論文などのように査読があるもの=二次情報源となるわけです。新聞が一次情報と主張されるならば、しっかりとした方針の根拠をご提示ください。--PSIA 2010年1月3日 (日) 09:46 (UTC)[返信]

(インデント戻し)Sweeper tamontenさんが出典としてあげた東京朝日新聞の記事は時期的に見ても速報記事がほとんどであり、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源のいう「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」に該当する可能性大です。さらに、ここまでの議論で、私も含めた多くの方(というかSweeper tamontenさんご自身とあなたを除く全ての方)事実誤認を修正。--ロンドル 2010年1月13日 (水) 15:47 (UTC) が指摘しているように、当時(戦前)の報道にはある一定のバイアスがかかっている可能性が大きいという、非常に大きな問題があります。よって、当時(戦前)の報道がほとんどを占めている現在の記述を丸ごと残すべきだというあなたの意見には同意できません。二次情報源による編集の過程で削除される部分があってもやむをえないと考えます。[返信]

なお、ここまでの議論を読み直して、とおりかかったひとさんが最初のほうで指摘したWikipedia:中立的な観点と、118.105.232.98さんが指摘した独自の研究は、非常に重要かつ的を射た指摘であると思います。どのようなタグをつけておくか悩みの種だったのですが、上記の理由からも中立的な観点独自研究のタグが妥当であろうと思いますので、そのようにさせていただきます。--ロンドル 2010年1月9日 (土) 09:20 (UTC)[返信]

「速報記事」である確定している出典をお願いします。そして大手新聞社の速報記事は一次情報であるという出典もお願いします。「私も含めた多くの方」と仰ってますが、「多くの方」と言えるほどの人数でしょうか(笑)。そもそもwikipediaは多数決ではないので、意味のない発言はお控えください。信頼できる出典が出ているため「独自研究」にはあたりませんので、そのタグは剥がします。--PSIA 2010年1月10日 (日) 02:09 (UTC)[返信]
「速報記事」は「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」の場合が多いことは言うまでもないでしょう。もし「速報記事」がそれに該当しなかったら、何が該当するのでしょうか? その可能性が非常に大きいというだけで十分です。むしろそうまでして現在の記述を丸ごと残さなければならない理由がよくわかりません。戦後(近年)の二次資料で編集しなおされたときに、裏づけの取れなかった記述が削除されるのはむしろ当然のことではないでしょうか。また、「当時(戦前)の報道にはある一定のバイアスがかかっている可能性が大きい」という指摘をしている方は、ざっと数えただけで私を含めて6人ほどいらっしゃいますが、これを多いととるか多くないととるかはあなたの自由です(一般的にノートでの議論においては決して少なくない人数だとは思いますが)。問題は、その指摘にSweeper tamontenさんは明確な返答ができなかったことです。あなたにも、きちんとその問題自体(戦前報道のバイアス)に対して返答していただきたいと思います。--ロンドル 2010年1月13日 (水) 15:47 (UTC)[返信]
このような場合は個人の意見・感想では埒が開かないので、しっかり方針に則って判断すべきです。例の報道が速報記事であり、且つ大手新聞の報道が一次情報であるという方針をご提示ください。方針には新聞は二次情報であると逆のことが書かれています。まずご提示ください。あなたの感想文は必要ありませんし、それでは話が進みません。--PSIA 2010年1月14日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
あなたが示した部分に書かれているのは「主流新聞は信頼できる情報源だ」というものであって、「二次情報源だ」とは書かれていません。私が示した部分には「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事は一次情報源だ」と書かれています。逆にお聞きしたいのですが、「主流新聞は二次情報源であって、実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事(一次情報源)は主流新聞には含まれていない」という根拠がありますか? あと、戦前報道のバイアスについてもきちんとお答えください。--ロンドル 2010年1月16日 (土) 03:33 (UTC)[返信]
ロンドルさん、それは恐らくご自身でも気付いておられると思いますが、少し苦しい言い訳ですよ。もう一度お読みください[4]。二次情報源とは何か?わかりますよね?そんな苦し紛れな質問はやめましょうよ。新聞は学術論文と同じく査読があるものとWIKIPEDIAはしているのです。主流新聞は信頼できる情報源でokとしている中で、大手新聞社が報道したものが「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事は一次情報源だ」とする確実な根拠をはやくご提示ください。あなたの主張が通るならばwkipedia中の新聞報道の出典を消せることになってしまいますからね。--PSIA 2010年1月17日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
また脳内ルールですか。『マスメディアと国際関係 日本韓国中国の国際比較』とかにも似たような記述がありますが、独自取材による報道は一次資料で、文書や資料に関する報道、他社報の加工物や分析・統計などは二次資料、記者の意識のうちでは取材源が直接のものは一次資料、別の資料のものによれば二次資料でしょう。文脈でも違うでしょう『新聞研究』なら新聞は一次資料です。高山正也[5]などもどうぞ。また「消せる」んじゃなくて事実に疑いがある場合は◯◯は「」と報じているとすべきでしょう。johncapistrano 2010年1月18日 (月) 09:19 (UTC)[返信]
脳内も何も私はwikipediaの方針をリンクしているのみですからねえ。確かにwikipediaの方針は脳内に入っていますけれど。主要の新聞は研究論文のように査読された信頼ある情報源であり、記載できるものであるという方針上当然のことしか言っておりません。違うならば方針の提示をお願いしますと何度も申しているところです。方針上、新聞出典は除去しなければならないものであると、どうぞ私を納得・説得してみてください。納得できたらその理由で私はwikipedia中の新聞出典を除去してきますので(笑)。◯◯は「」と報じているとすべきでしょう⇒かねてからそのように主張しています。すべてを読んでから出てきてください。参照でwikipediaのように新聞を二次情報と述べているリンクを提供しておきましょう[6][7][8][9]--PSIA 2010年1月18日 (月) 13:02 (UTC)[返信]
方針のどこにも仰るようなことは書いてません。挙げられているリンクも研究者や記者が新聞記事を利用すれば二次情報になるとごく当然のことを書いているだけです。自分で方針文書を確認して下さい。除去する程ではないが信頼できる情報源と限らないぐらいが方針上の扱いでしょう。wikipedia:信頼できる情報源#歴史では新聞は一次情報だと書かれています。wikipedia:信頼できる情報源#科学では一般向けの出版物からの引用を避けるでも新聞が専門分野に関しては信頼性が乏しいとあります。「(主要)新聞が査読された信頼ある情報源」というご主張はどこから湧いてきたんでしょうか。 johncapistrano 2010年1月18日 (月) 14:42 (UTC)[返信]

(インデント戻し)同じことの繰り返しですが、PSIAさんが示したWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料に書かれているのは、文字通り「信頼できる資料(情報源)」についての説明です。そしてその中には一次資料も含まれていることにもきちんと言及されています。「一次資料・二次資料」と「信頼できる資料・信頼できない資料」は別物なのです。さらに冒頭には、詳細は「Wikipedia:信頼できる情報源」を参照とも書いてあり、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源には、実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事は一次情報源だと書いてある(そもそもWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に書かれている新聞についての言及は、現在の事物に対する現在の報道についてであって、70年も前の歴史分野についての記述に70年前当時の新聞を出典とするようなことは想定されていないと考えるべきでしょう)。また、本項目の速報記事が、もし百歩譲って「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」でなかったとすれば、それは状況的に見て、いわゆる「大本営発表」である可能性が高い。そうなると前記の「戦前報道のバイアス」に引っかかる信頼性の低い資料となります。それ以前の問題として、ごく常識的に考えて、歴史分野の記事は後世、特に近年の研究を元に書かれるのが当然ではないでしょうか。そのような近年の研究によって否定されたり、事実と違っていた部分などは、推敲の過程で全体の文章の流れに合わない場合に削除されることがあってもやむをえないものでしょう。--ロンドル 2010年1月19日 (火) 17:35 (UTC)[返信]

johncapistrano氏へ。「(主要)新聞が査読された信頼ある情報源」というご主張はどこから湧いてきたんでしょうか。⇒良くお読みください[10]。「主張」ではなく方針文章そのままです。新聞が信頼できない情報源であるならばその根拠をお願いします。そして新聞が一次か二次かは微妙であり、あなたのリンクした一部のサイトだけでは判断できないということを申しているまでです。「新聞が一次情報であるからwikipediaから除去できる」というロンドル氏の主張の根拠を聞いているのです。
ロンドル氏へ。johncapistrano氏がリンクしている方針先にも「検証可能であるには、研究は一次情報源に基づいていなければなりません。」そしてそこには新聞が入るとしている。新聞が一次か二次かは議論があるところでしょうが、少なくとも主要の新聞はwikipediaに載せることができるとしています。さて、あなたが主張している「新聞が一次情報であるからwikipediaから除去しなければならない」とする根拠の提示をお願いします。もし「そのような主張はしていない。二次情報を中心に多く載せればよいと言ってるのみなんだ」と仰るならば、異論はありません。現在の一次情報の文を維持しつつ、加筆修正すればよいことですから。そして大量に加筆修正するならば提案文をお願いしますと最初から私は申しているので、お願いしますね。--PSIA 2010年1月21日 (木) 11:04 (UTC)[返信]
私も文書を挙げているので繰返しませんが、検証可能性の箇所は「大手紙であれば記事が何重かチェックされる筈だ」程度の意味で大手紙なら記事の存在を検証し易いという意味以上ではないでしょう。除去が適切かどうかは新聞記事の関連度に依るんじゃないですかね。
そもそもが註が外されて文献もろとも書換えられたのを問題にしていたようですが、あべこべにされてますね。これが認められるならどんな記事でも書換えられてしまうでしょう。信頼できる情報源や中立的な観点の無視でしょう。
註を外した方はノートの履歴からロンドル氏自身の様ですが、内容に関して中立的でないという議論は外部の文献にも沿っていると思います。外務省文書より後退した記事はあり得ないと思います。johncapistrano 2010年1月21日 (木) 16:49 (UTC)[返信]
「大手紙であれば記事が何重かチェックされる筈だ」程度の意味⇒さて、そうでしょうか?私には方針のトップに書かれている重要な一文であり、大手新聞はチェックされているもので記載可能としか読めません。「新聞出典は除去」のしっかりとした根拠の提示がなければここは話が進まないと思われます。その提示がないのならば、除去ではなく加筆修正しかないでしょう。他者の書いた文は気軽に除去できるものではありませんから(Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください)。--PSIA 2010年1月22日 (金) 11:58 (UTC)[返信]
私の意見は前回書いたとおりですので繰り返しませんが、PSIAさんの誤りを2点ほど指摘しておきます。
wikipedia:信頼できる情報源#歴史にある件の部分の「研究」とは歴史学者による歴史研究のことであって、wikipediaの記事編集のことではありません。そもそもwikipediaの記事編集を「研究」とは表現しませんし、あなたの言うとおりに解釈したら、歴史学者の歴史研究(二次情報源)を出典とした記事編集ができなくなってしまいます。また、私の主張とあなたが言っているものも間違いです。「新聞が一次情報であるからwikipediaから除去しなければならない」という表現では、私が「新聞記事は全て一次情報源だ」と言っているかのようではありませんか。私の主張はこれまでの記述を読んでいただければわかると思うのですが、「新聞記事には一次情報源も含まれている」というものであって、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にある「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」がそれだ、ということです。
なお、johncapistranoさんの仰る「註を外した」部分は今回の問題の発端ではありません。その部分については、ノート:冀察政務委員会#Wikipediaへの挑戦ですの節も参照してください。--ロンドル 2010年1月23日 (土) 10:45 (UTC)[返信]
組んでそのような行為があれば問題だと思いますが、前者がここで提起しているロンドル氏だから違ったなぐらいの意味で、文献を持っておられるなら、記述を復帰させて新聞記事を当時の報道ということにすればいいと思いますが。johncapistrano 2010年1月23日 (土) 16:24 (UTC)[返信]

(インデント戻す)いったいロンドル氏がなにを主張されているのか意味不明になってまいりました。「新聞記事には一次情報源も含まれて」おり「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」がそれだ、と仰っている。で、こちらの新聞報道がそれにあたると言う主張なのでしょうか?ならば出典をと何度も申しており、待っているのですが未だ明確なものが出てきません。--PSIA 2010年1月27日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

私の主張のどこが意味不明になってきたというのでしょうか? それと私の指摘にお答えにならない部分がここでも多く見受けられますが、全てのものにお答えいただくようにお願いします。--ロンドル 2010年1月28日 (木) 15:26 (UTC)[返信]
ならば、わかりやすく主張していただけませんか?しばらく待ちましたが前回の簡単な質問にすらお答えでないようですが、明確にお願いします。--PSIA 2010年2月3日 (水) 11:34 (UTC)[返信]
私は最初から一貫して同じことを繰り返し主張しています。私のコメントを最初のほうから理解できるまで何度でもじっくりと読み直してください。--ロンドル 2010年2月5日 (金) 03:19 (UTC)[返信]

読み返しましたが、いまひとつあなたの主張がわかりません。個人的に気に入らない新聞出典を消し去りたいためにアレヤコレヤ難癖付け続けているとしか見えないもので(違うならば失礼)、読解力のない私に、あなたは何がしたいのか?もう一度主張をしていただけませんか?(新聞が一次資料か否かは議論のあるところだが)一次資料(新聞)に記載されている事実の表現ならば記載はできるという当然のことに反論があるのでしょうか。それすら消せ!と仰っているのでしょうか?ならば無理な話なんですが。まとめの意味を含めて、何がしたいのか?わかりやすく主張してください。--PSIA 2010年2月9日 (火) 17:17 (UTC)[返信]

ノート:冀察政務委員会#2009年6月29日以後のSweeper tamonten氏の編集についての最初から、議論の流れをよく読み返してください。議論を最初からやり直すのは時間とスペースの無駄です。私にはあなたが議論を長引かせて、相手が根負けするか全てがうやむやになるのを待っているようにしか見えません(違うならば失礼)。--ロンドル 2010年2月12日 (金) 15:17 (UTC)[返信]

えっと繰り返しますが、読みましたがあなたの主張がいまひとつ理解ができません。あなたの要望を主張すればよいだけの話なのですが、なぜ私の質問に素直に応えていただけないのでしょうか?では答えられるように簡単な質問しましょう。「当時の新聞で報道された事実は『○○新聞は□□と伝えている』とWIKIPEDIAで記載でき、出典が新聞だからという理由で除去はできない。」これにYESかNOかでお答えください。NOの場合、明確な根拠(方針等)を持って説明してください(本文にある朝日新聞が「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」であるとするならば、それを示す明確な根拠の提示、及び、ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合とされている中で当時の朝日新聞がそれに該当しないとの明確な根拠の提示などなど)。YESならば現在の本文の表現を少し訂正すれば済む話で解決に近づきます。また、あなたがなぜか消し去った二次資料をもとに戻させていただいたことをお伝えしておきます。--PSIA 2010年2月12日 (金) 17:09 (UTC)[返信]

ロンドルさんの行為はWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないにある「悪意ある編集者や、自説を何とか通したい編集者」が行う「要点をはっきりさせようとしてなされた、他者のささいな発言を根拠にして、次なる攻撃や妨害的編集を続けようとします。」に該当すると考えています。--219.176.136.38 2010年2月13日 (土) 03:50 (UTC)[返信]
PSIAさんへ
Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:信頼できる情報源#情報源Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料などに十分留意した上で記事を再編集していただく(無論Sweeper tamontenさんに限らず、編集できる方ならどなたでもかまわない)、というのが私の意見です。何度もそう書いてあると思うのですが、そんなにわかりにくい書き方でしょうか?
219.176.136.38さんへ
私はPSIAさんの行為がWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないにある「根拠に裏打ちされた意見を熟練した複数の編集者、管理者、調停者から示されても、「納得する」ことを意図的に拒否していることが明らかになった場合、納得の拒絶を継続することは、もはや正当性のある態度、方針に準拠している態度とはいえません。」に該当すると考えています。--ロンドル 2010年2月13日 (土) 13:06 (UTC)[返信]
YES、NOで答えてくれとお願いしましたが、答えていただけませんでした。あなたが提示したそれら方針から読み取れることは、二次資料の情報を重視して編集していけばよいのであり、「当時の新聞出典だから」として消すことはできないというものですね。あなたの主張も、どうもそうらしい(違うのですか?)。ならば、あなたの希望通りに二次資料を加筆すれば良いのみであり、二次資料をお持ちならば他者に頼らず加筆したい文案を問題意識を持っているあなた自身が提案をしたらいかがでしょうか。
またIPさんに対する発言ですが、議論相手というものは「いつまでも納得してくれない!」と思ってしまうものです。当事者でなくIPさんの第三者の意見ですので、少しは耳を傾けたほうがよろしいのではないでしょうか。イチイチ反論している時点で「いつまでも「納得」しない」人を証明してしまっているような気がします。--PSIA 2010年2月13日 (土) 16:29 (UTC)[返信]
IP氏へ。私は逆にWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないにある「悪意ある編集者や、自説を何とか通したい編集者」が行う「要点をはっきりさせようとしてなされた、他者のささいな発言を根拠にして、次なる攻撃や妨害的編集を続けようとします。」というのは、PSIA氏こそ当てはまると感じます。
記事内容そのものではなく、どのような資料に基づいて記述すべきかについてがテーマとなっているので、Wikipediaのルールに関することなので、井戸端あたりで尋ねた方が良いかと思いますね。--118.105.212.169 2010年2月13日 (土) 23:39 (UTC)[返信]

まず最初に、PSIAさんのコメントの以下の部分を前回見落としておりました。

>また、あなたがなぜか消し去った二次資料をもとに戻させていただいたことをお伝えしておきます。

よく見比べていただけばわかると思うのですが、私は二次資料を消し去っていません。要約部分に書いているとおり、参考文献と重複する脚注を削除し、あとは改行など細かい文章調整をしただけです。二次資料を消し去ったのはSweeper tamontenさんですね。ノート:冀察政務委員会#2009年6月29日以後のSweeper tamonten氏の編集についてを読んでいれば簡単にわかることだと思うのですが……。

私の意見はこれまで散々書いているのでいちいち繰り返しません。代表的な部分として以下を参照してください [11][12][13][14]。--ロンドル 2010年2月14日 (日) 14:09 (UTC)[返信]

出典の消し去りについてはあなたも、もう1人の方もどちらもどちらですね。消してはいけません。参考文献にあっても、その一文の出典をコレであると詳細に脚注で示しているものを消してはなりませんよ。どこがどの出典なのか不明になってしまいますから。その結果うやむやになって個人的に都合の悪い一文を消す輩も出てきてしまいますから。
あなたの主張が『「一次資料に記載されている事実として記載する」よりも「二次資料による記載」のほうが、より望ましい』ということはわかりました。新聞出典を消し去れという主張ではないようです。ならば「二次資料による記載」を加筆すればよいことです。問題意識を持っているあなたが加筆する文案を提出したらいかがでしょうか。--PSIA 2010年2月16日 (火) 11:46 (UTC)[返信]
脚注部分を編集したのは廿粁さんですが、脚注部分のみが当該文献からの引用と誤解されるので削除したわけです。ノート:冀察政務委員会#Wikipediaへの挑戦ですも参照してください。
私は上記部分で、「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源には、「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。(後略)」とある」「「ウィキペディアの記事は一次情報源ではなく二次情報源で書かれるべきだ」→「しかしSweeper tamontenさんは一次情報源のみを使用して記事を書いてしまった」→「それを二次情報源による記事に編集しなおす」、という過程になんら問題はありません。」「二次情報源による編集の過程で削除される部分があってもやむをえないと考えます。」「近年の研究によって否定されたり、事実と違っていた部分などは、推敲の過程で全体の文章の流れに合わない場合に削除されることがあってもやむをえないものでしょう。」と書いています。なお、私の意見はここここでも書いております。また、ここの下のほうここここにも書いております。同じことを何度も書かせないようお願いします。なお、「加筆する文案」を求めておられるようですが、本文のような長大なものをノートに記述させるおつもりでしょうか? 容量の点からも望ましくないし、そのようなことを他の編集者に強制できないと考えます(他の編集者が応じるなら別ですが)。他の記事でもそこまでしているものはないと思いますが。--ロンドル 2010年2月20日 (土) 05:27 (UTC)[返信]

あなたの主張は理解しました。しかし一次史料を記載してはならない方針はございませんので、除去することはできません。二次資料があるならば、「優先」して書けばよいのです。問題意識を持つあなた自身が二次資料を集めて二次資料を「優先」させた文案を出せば良いのです。その際、現在の一次史料の文を消し去ることはお止めくださいね。--PSIA 2010年2月22日 (月) 06:37 (UTC)[返信]

あの……私の記述を読みましたか? Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にあるとおり、記事は一次資料ではなく二次資料に基づいて書かれなければなりません。ところがこの記事は、現在ほぼ一次資料(当時の新聞報道。戦前報道のバイアス問題もあり)のみによって執筆されています。よって二次資料(近年の歴史研究)による編集に置き換えられなければなりませんが、その際に二次資料による裏づけができない部分は削除されても問題はありません。また、あなたが他の執筆者に文案の記述を強制することはできません。なお、私自身は現在のところ当記事を執筆する準備も力量もありませんが、もし記述することができたとしても文案をここに記載するつもりはありません。--ロンドル 2010年2月27日 (土) 17:21 (UTC)[返信]

二次資料による裏づけができない部分は削除されても問題はありません。

いや、個人の思想・立場からによる報道された事実の隠蔽(POV)の可能性の問題があります。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にはっきりと書いてあるとおり、信頼できる出版元から公刊されている場合の一次資料は使ってよいとされており、朝日新聞がコレに該当しないという根拠が提示できない限り禁止することはできません。残念ですが、朝日で報道された事実を隠蔽することはできません。また、現状に問題意識を持つあなたが文案を出して修正提案したらいかがか?という当然の指摘ですが、出すつもりがないならば現状で仕方がありませんね。--PSIA 2010年2月28日 (日) 19:43 (UTC)[返信]

私の意見は本当に何度も何度も書いているのであえて繰り返しません。
>個人の思想・立場からによる報道された事実の隠蔽(POV)の可能性の問題があります。
それは複数の二次資料を参照することによって十分に解決が可能です。
Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にはっきりと書いてあるとおり、信頼できる出版元から公刊されている場合の一次資料は使ってよいとされており
あなたの引用が含まれているWikipedia:信頼できる情報源#情報源の「一次資料」の部分を全文抜き出して書いておきます。
ある事柄の状態について直接の証拠となる記録物です。言いかえれば、書こうとしている対象の状況に非常に近い情報源です。この語は多くの場合、出来事の参加者やその出来事の目撃者によって作られたドキュメントを指します。公式な報告書、手紙の原本、実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事、あるいは自伝などになるでしょう。権威ある機関によってまとめられた統計も一次資料と考えられます。一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。例えば書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものがこれにあたります。信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。
信頼できる出版元から公刊されている一次資料の例として挙げられているのは、「書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書」といったものであり、新聞記事は含まれていません。また件の部分は、前段の「一次資料に基づくべきではなく」を受けて、もし一次資料を使うならばという使用の可否について述べられているものであって、削除の可否が述べられているものではありません。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんも参照してください。--ロンドル 2010年3月8日 (月) 12:58 (UTC)[返信]

突然ですが書き込みます。Wikipedia:信頼できる情報源は草案の状態であるし、en:Secondary source#In humanities and historyには "In the humanities, unlike the sciences and medicine, secondary sources in history and humanities are usually newspaper, magazine, academic journal, or other written accounts from the perspective of a different person than the person who experienced the event." とあり、歴史については新聞が二次資料として認識されているので問題ないでしょう。ロンドルさんの新聞が一次資料だから排除するという姿勢は乱暴でしょう。--Sweeper tamonten 2010年3月8日 (月) 13:51 (UTC)[返信]

ロンドル氏へ。WIKIPEDIAに出現していながら、こちらを放置していたのはなぜなのでしょう、ずいぶん遅い反応でしたね。もう一方の記事を放置している意味が不明ではありますが。
さて、あなたは「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」の一例として書かれている「書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書」のみが「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」という主張なのでしょうか? 「例」ってわかりますか?「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」は挙げられている一例のみだという主張って、あまりにも無理があると思わないのでしょうか?主張に無理があると見ていて痛々しいものです。お願いですから片意地張らずに素直になってください。「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」は使用がokとされており、新聞社が「信頼できる出版元ではない」とする根拠を提示しない限り、規制することはできません。
ちなみに信頼できる情報源(wikipediaに出典として記載してよい情報源)には「主流の新聞」が該当することが方針では述べられています(Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料)。それはなぜか?その理由はこちらに書いてあります。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
(報道機関は学術論文のように)査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです。 さて、(あなたが主張するには一次資料の)新聞は「信頼できる情報源(信頼できる出版元から公刊された情報源)」でwikipediaに出典として記載できるとされている中で、それは規制されていると仰るならば、はっきりとした明確な根拠をご提示ください。--PSIA 2010年3月8日 (月) 14:44 (UTC)[返信]
>Sweeper tamontenさん
お久しぶりです。あなたの会話ページを見て、てっきり当分議論には復帰しないのかと思ってました。さて、日本語版の記事は日本語版のルールやガイドラインに基づいて処理されなければなりません。英語版に基づいて議論するのは不適当だと思います。
>PSIAさん
もちろんあくまで「例」だということはわかってます。その後の部分については1度答えているので繰り返しません。--ロンドル 2010年3月8日 (月) 14:59 (UTC)[返信]
ロンドルさん、私が紹介したのはウィキペディアの英語版の記事ですが、その中で新聞が二次資料とされていることを英語版だから無視するということは理由にはなりませんよ。新聞も書籍も事物を伝える役目をするのに新聞だけが一次資料であるということにはならないでしょう。ロンドルさんからは新聞は一次資料としか判断できないとする根拠も示されていません。
--日本語版の記事は日本語版のルールやガイドラインに基づいて処理されなければなりません。英語版に基づいて議論するのは不適当だと思います。-- あなたが依拠している「信頼できる情報源」はガイドラインの草案ですし、言葉の定義も不十分でしょう。英文をただ機械的に和訳したからです。そしてその時期もかなり前で英語版との乖離もあって意味のない文章になっています。それに頼って主張されているのでは納得できませんよ。--Sweeper tamonten 2010年3月8日 (月) 15:51 (UTC)[返信]

一例だということはわかっているならば「書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書」のみが「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」という主張ではないということでよろしいのですね?ならば、これは(「書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書」といったものであり、新聞記事は含まれていません。)なにが言いたかった発言なんですか?「信頼できる出版元から公刊されている一次資料」に新聞は含まれないという主張ではないのですか?ならばその根拠を待っているのですが?

何度も申しますが、(あなたが一次資料とする)新聞というものは信頼できる情報源であり、信頼できる出版元から公刊されているものであり、wikipediaで記載できるものです(根拠;Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)。

1度答えているとのことで、ならば指摘させていただきます。

「一次資料・二次資料」と「信頼できる資料・信頼できない資料」は別物なのです。

まずこの発言も意味不明なのですが、あなたは「(実際に出来事を目撃した)ジャーナリストによる報道記事は一次情報源だと書いてある」として新聞は一次資料であり、記載できないという主張をされています。つまり新聞を一次資料とし、信頼できない情報源だから記載はできないと「一次資料・二次資料」と「信頼できる資料・信頼できない資料」を絡めて主張していることに気付かないのでしょうか?wikipedia上、「一次資料・二次資料」と「信頼できる資料・信頼できない資料」を別物として語るならば何の意味もなくなります。一次資料が信頼できる情報源か否かを証明することで記載するか否かの話となりますので、別物にしようがないのです。そしてあなたも当然に両者を絡めて語っている。いったい別物ってどういうことなのでしょうか?別々に語って何を主張されるおつもりなのですか?

70年も前の歴史分野についての記述に70年前当時の新聞を出典とするようなことは想定されていない

その根拠を提示ください。

新聞が信頼できる情報源であることが明記されている中で、当時の朝日新聞の記事は違うと主張し、もし本文から消去したいとお考えならば、朝日新聞の記事が「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」であること、信頼できる情報源にある「新聞」にこちらの朝日新聞が含まれないというwikipedia上の根拠をご提示ください。本文から消去するつもりがないのならば答えていただかなくてもけっこうです。--PSIA 2010年3月8日 (月) 17:29 (UTC)[返信]

>Sweeper tamontenさん
繰り返しになりますが、日本語版の記事は日本語版のルールやガイドラインによって運営されています。英語版に基づいて議論するのは不適切です。あなたは以前、別のところでも他の方に同様のことを指摘されていましたよね[15]。あと、あなたもPSIAさんと同じく間違えていますが、私は「新聞は一次資料だ」とは言っていません。
>PSIAさん
新聞は例に含まれていません。よって、例に挙げられてはいないが、「信頼できる出版元から公刊されている場合」に該当することをあなたは証明しなければなりません。なおかつ当項目に記載されている新聞記事が「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」ではないことを証明しなければならないが、それができていないということです。また、私が何度も指摘していることですが、私は「新聞が一次情報だ」などとは言っていません。「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」は一次資料ですが、新聞には「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」以外の記事も載っています。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にあるとおり、「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。」と指摘しているのです。
私の意見は、もう何度も何度も書いてきていることなのでもうこれ以上繰り返しませんが、ここまでの私や他の方々の記述とWikipedia:信頼できる情報源#情報源を、理解できるまで何百篇でも読み返すことをお勧めします。--ロンドル 2010年3月15日 (月) 14:48 (UTC)[返信]


あなたが頼るガイドラインの草案の一文「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事」が本文にある当時の朝日新聞に該当するのか否か、私には判断できません。該当するのか否か不明なものを根拠に、人が熱心に調べて記載した出典ある文を消し去る強引なことは、方針上も感情からも私にはできません(Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください)。
方針からはっきりとわかることは、新聞は記載可能であるということです(Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)。それ以上でも以下でもありません。
質問1、あなたは当該新聞記事が「それら方針のいう新聞ではない」「実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事に該当する」と主張されますか?yesかnoでお答えください。Yesの場合、該当しているという方針上の根拠を提示してください(マイルールにより人の編集を規制はできないので、あなたの個人的見解は必要ないことをあらかじめ申しておきます。根拠の提示をしてください)。
あなたの頼る草案には「信頼できる出版元から公刊」されている場合はokとされています。では大手新聞の記事は「信頼できる出版元から公刊」に該当するのでしょうか? 方針では大手新聞を「信頼できる資料」としており、「信頼できる『出版元』」どころか「『新聞』は信頼できる資料」と直接言及されています。マトモな方ならば、この方針提示で理解できるでしょう。また大手新聞は「公刊されている」ことが当然であり、国会図書館で確認したらいかがか?と提案するまでもないでしょう。方針から私たちがわかることは大手新聞の記事は「信頼できる公刊物」とされていることであり、当時の新聞は「信頼できない公刊物」とする方針上の区分け・規制はございません。
質問2、当時の新聞が「信頼できる出版元から公刊されたものではない」と主張されるのか?yesかnoでお答えください。Yesの場合は根拠と共に説明を願います(マイルールにより人の編集を規制はできないので、あなたの個人的見解は必要ないことをあらかじめ申しておきます。根拠の提示をしてください)。
ちなみに方針では、
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料
ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません
現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません。—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。
と「既に発表されている一次資料」が除外どころか、必要とされていることを示しておきます。
さて、あなたはいったい何を主張されているのでしょうか?上記質問1、2に明確にお答えいただき、主張をはっきりさせてください。
追記;何も草案だから守るなと主張するものではありませんが、拘束のない草案の一部分のみ切り取って永遠と唱え、人の出典ある文章を消し去ろうとしているように見えたので、草案と方針の違いをわかりやすくする記載法にさせていただきました。--PSIA 2010年3月16日 (火) 06:13 (UTC)[返信]
あなたの意見や質問は、またもすべて私が今までに答えたものばかりです。私の意見は、もう何度も何度も書いてきていることなのでもうこれ以上繰り返しません。堂々巡りになるだけですから(それともそれが狙いなのでしょうか?)。これまでの議論を、理解できるまで何度でも読み返してください。--ロンドル 2010年3月17日 (水) 15:34 (UTC)[返信]
回答が見つかりません。ひとつずつ明確にお答えください。--PSIA 2010年3月22日 (月) 15:34 (UTC)[返信]
ロンドルさん、あなたは「日本語版の記事は日本語版のルールやガイドラインによって運営されています。」と言われましたがこれはあなたの判断ですか、それともそのような文言が日本語版のルールやガイドラインにあるのでしょうか?また、「英語版に基づいて議論するのは不適切です。」とありますがあなたが拠っている根拠は日本語版のルールやガイドラインではなく草案です。あなたの「日本語版の記事は日本語版のルールやガイドラインによって運営されています。」という方針を遵守するなら日本語版のルールやガイドラインに拠るべきでしょう。まずはPSIAさんの質問にお答え下さい。--Sweeper tamonten 2010年3月28日 (日) 05:14 (UTC)[返信]
丸一週間、回答をお待ちしていたことを提示しておきます。これ以上コンスタントにチェックもしていられませんので、回答はお待ちしていますが、それに対する返答が長い期間なくてもロンドル氏は文句は言えず、自身の責任であることを認識しておいていただきたい。--PSIA 2010年3月29日 (月) 06:26 (UTC)[返信]

>PSIAさん

もう1度書きますが、あなたの意見や質問は今までに答えたものばかりですので繰り返しはいたしません。他人に面倒をかけず、どうぞご自分で見つけてください。

>Sweeper tamontenさん

そうすると、あなたは日本語版ウィキペディアにおいて、日本語版のではなく英語版のルールやガイドラインを用いて議論するべきだと仰るのでしょうか?(日本語版に問題があるというのなら、英語に詳しいあなたが改訂の提案をするなりすればいいのでは?) どうか日本語版のルールやガイドラインに基づいて議論してください。また、確かに草案には拘束力はありませんが、だからといって無視していいわけではないでしょう。

なお、新年度から忙しくなるため、議論に継続的に参加することが困難となります。残念かつ申し訳ないのですが、議論の行く末については、残った方にお任せいたします。どうぞ、ご自由になさってください。--ロンドル 2010年3月29日 (月) 17:28 (UTC)[返信]