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「日中戦争」の版間の差分

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→‎南京大虐殺について: 中国政府の公式見解(30万人説)のみが「南京大虐殺」ではない。30万人でなければ南京大虐殺でないというのは誤魔化し。
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[[南京大虐殺]]とは、日中戦争初期に[[日本軍]]が[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年~1949年)|中華民国]]の首都[[南京市|南京]]を占領した際、約6週間-2ヶ月にわたって多数の[[中華民国国軍|中国軍]][[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。個々の事件についてはその資料解釈、[[国際法]]解釈などによる虐殺の定義や規模の論争が続いている。また交戦勢力及び地域勢力の関係や実態、一般民衆の様子や立場なども十分に解明されていない。
[[南京大虐殺]](南京大屠殺)とは、日中戦争初期に[[日本軍]]が[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年~1949年)|中華民国]]の首都[[南京市|南京]]を占領した際、約6週間にわたって30万人以上の[[中華民国国軍|中国軍]][[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。この期間及び虐殺数は世界に発信されている中国政府の公式見解であり、[[南京大虐殺紀念館]](「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)で「南京大屠殺([[南京大虐殺]])」の犠牲者''300000''と掲示されている<ref>[[南京大虐殺論争]]を参照</ref>。紀念館を建設中、半本茂ら日本の教科書是正グループ等が建設の中止を申し入れた際、南京市当局は「[[日本社会党]]の[[田辺誠]]・書記が二度も頼みに来た ので建設しているのだ。30万人と言う被害者数は、政治的数字だ」と返答した<ref>[http://jp.youtube.com/watch%3Fv%3DS4W85wZWRds 「南京大虐殺記念館は日本人が造った」(H19.1.29)]</ref>。また、東京財団主催の講演で張連紅(南京師範大教授)も「30万人は[[学術]]的に根拠はなく、中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗する[[イデオロギー]]的なもので、自分が当館を経営していれば、この数字は使わない」と述べている<ref name=B>[http://s02.megalodon.jp/2008-0709-0042-42/www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/070131.html 日本財団「東京財団主催の中国人学者講演」]</ref>。また、国際世論を得るために[[エキストラ]]を用いて撮影された謀略映画や日中戦争とは関係ない[[国共内戦]]などでの写真や映像資料を加工しそのまま日本軍の行為として[[反日教育]]に使用している<ref>当時作成された謀略映画や日中戦争とは関係ない[[中国共産党]]軍と[[中国国民党]]軍による内戦の資料や新たに撮影された映像などをそのまま反日教育の資料などに使用している。[http://jp.youtube.com/watch?v=gdMrUGkr4Is 極東軍事裁判の証拠映像にもなった映画『バトル・オブ・チャイナ』の例]</ref>。近年では[[アメリカ]]に住む中国移民も同様の行動を取り、現代においては過大に被害が加算され、被害者数や住民の計画虐殺など一部が明確に[[捏造]]されていることが明らかとなっている<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=KUSYzFMb658&feature=related 加害者側からの南京大虐殺の真実-投降中国兵の処分(捕虜虐殺)]・[http://jp.youtube.com/watch?v=XkzV_hH5ehg 1937年12月17日の朝香宮鳩彦(陸海軍共同)入城式のため、12月14-16日まで実施された敗残兵掃討での証言(一般住民も捕らえ殺害した可能性がある)]・[http://jp.youtube.com/watch?v=PLBLDqLU0TU その他南京作戦に参加した日本兵の証言]</ref>。いわゆる「[[南京大虐殺]]」などを題材とした反日映画を北米で盛んに作製し全米をはじめ世界(特に中国が[[ODA]]支援を行っている[[アフリカ]]や中近東地域)に向けて発信している。映画作品の多くは反日思想家の中国人が作成した「[[ザ・レイプ・オブ・南京]]<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=mpvx__IniTg&feature=related ザ・レイプ・オブ・南京の検証]</ref>」などの作品を参考としたものが多い<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=AOV1OEi8W2s ]</ref>。
このように虐殺数30万人とする「南京大屠殺([[南京大虐殺]])」は誇張された[[プロパガンダ]]であることは中国側関係者だけでなく日本側識者も認識しているのであるが、個々の事件についてその資料解釈、国際法解釈などによる虐殺の定義や規模の論争が続いている([[南京大虐殺論争]]を参照)。また両者で交戦勢力及び地域勢力の関係や実態、一般民衆の様子や立場なども十分に解明されていない。


== 日中戦争の被害 ==
== 日中戦争の被害 ==

2008年12月28日 (日) 18:05時点における版

日中戦争(支那事変)
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争:日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部[1]となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中国大陸内蒙古華北華中華南)、ビルマの他、抗日華僑勢力のいるアジア各地
結果:連合国側による太平洋戦争(大東亜戦争)の勝利により終結
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国
蒙古自治邦政府
満洲国
汪兆銘政権(1940-)
中華民国
紅軍
アメリカ合衆国(1937-45)
大英帝国(1941-)
ソビエト連邦(1945-)
指導者・指揮官
日本の旗 香月清司(1937-38)
日本の旗 松井石根(1937-38)
日本の旗 朝香宮鳩彦王(1937-38)
日本の旗 西尾寿造(1939-41)
日本の旗 畑俊六(1941-44)
日本の旗 岡村寧次(1944-45)
デムチュクドンロブ(1940-1945)
張景恵
汪兆銘(1940-1945)
蒋介石
毛沢東
ジョセフ・スティルウェル(1937-44)
クレア・リー・シェンノート(1937-44)
ルイス・マウントバッテン(1941-45)
戦力
軍人
約(最盛期)<name=A>出典:</ref>
軍人
約(最盛期)<name=A>出典:</ref>
損害
軍人
約<name=A>出典:</ref>
民間人 不明
軍人
約<name=A>出典:</ref>
民間人
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(民兵及び民間人の内訳は不明)

日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国中華民国との間で行われた戦争事変)である。戦場の様子はアフガン戦争の状況に近い[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

呼称と期間について

日本では一般的に日中戦争(にっちゅうせんそう)と呼ばれる。日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である[2]。また英語では、Second Sino-Japanese War第二次中日戦争)と表記する[3]

「戦争」か「事変」かの論争

北伐後の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配域。満州張学良山西省閻錫山の支配域、陝西省寧夏等の北西部は馮玉祥の支配域、広東省広西等の南部は李宗仁の支配域

日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。現在でも日本政府の正式な呼称は変らず、防衛省防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では「支那事変」の呼称を使用している。

しかしマスコミでは「日中戦争」という呼び方が広く定着している。これは日英米間の開戦(1941年12月)とともに蒋介石政権が日本に宣戦布告したため、おおまかに「戦争」と認識されることが多いからである。さらにマスコミでは「支那」という言葉の使用を嫌って日中戦争と言い換える例が多い。 「事変」という呼称が選ばれたのは、「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望んだからである。宣戦布告を避けたのは両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためである。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても宣戦布告は不利とされたのである。なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱の講和条約である北京議定書に基づいている。


文明論的に解釈するならば、この戦争は日米を中心とした太平洋戦争のように、近代国家対近代国家の戦いではない。中国大陸には、現在の中華人民共和国ような近代国家はなく軍閥や分裂政権が互いに内戦を繰り返す地帯だった。清国が滅亡した後の主力勢力である国民政府(蒋介石の時代には国民政府も北京南京に分列状態で北伐が行われていた)のほかに、共産党軍と複数の軍閥が各地を統治していた。いわば、日本の戦国時代のような戦国大名が群雄し覇を争っている様な地帯で、蒋介石北伐などによって少しずつ統一され、ようやく祖国愛国心というものが芽生えはじめていた時期だった。日本はその頃満州国を建国し、建国まもない満州の安定を図ることを目的として北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐した[4]。その後、蒋介石の部下であった張学良は父張作霖関東軍に謀殺されたことから日本に強い不信を抱き西安事件を起こして蒋介石に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め、中華民国と紅軍の間で国共合作が成立した。蒋介石は日本との対決姿勢を固めると当時華北に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に中国全土で存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)を展開する。現代的な感覚では、戦争とは主権国家同士の戦いだが、当時、中国には交渉できる主権国家がなく、日本の戦争に対する関与的立場は近代国家間の戦争だったのに対し中国では、前近代(戦国時代)のように各地の勢力(日本軍南京中華民国政府軍蒋介石中華民国政府軍中国共産党軍(現・中国人民解放軍の前身)など)がお互いに覇を争うような構図だった。このことから日本が西欧的「近代的なルール」に従う戦争をしても、講和など近代ルールに基づく交渉も難しい相手だった。

日本は日中戦争開始前、開始後、それぞれその地方を治めていた北京政府南京政府国際条約を結んで駐屯していたが、最終的に太平洋戦争の敗戦によってそれらの存在が無効となり、そのような条約があったという事実も消滅してしまった。

戦闘関与勢力の立場と目的

大日本帝国
1937年7月7日に発生した盧溝橋事件の報を受けた近衛内閣は、11日に関東軍朝鮮軍・内地師団の華北派兵を閣議決定し、事件を北支事変として華北へ出兵することを発表した。同日現地において停戦協定が締結され、事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は見合わせとなったが、13日に北京市(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。17日には蒋介石が日本の出方次第では徹底抗戦する意志を表明し、19日、現地停戦協定には中国政府の承認が必要として、日中両軍の同時撤退案と外交交渉案を通告すると共に、武力行使の可能性を宣言する。20-21日にかけて近衛内閣及び参謀本部は内地師団の派兵を巡り二転三転するが、対支一撃論を唱える拡大派の軍幹部の主張に加え、関東軍・朝鮮軍の華北到着により緊張の高まった現地での国民党軍の挑発行為(20日の中国軍による蘆溝橋城発砲事件、25日の郎坊事件、 26日の広安門事件など)によって日本国内の反中世論が悪化し、日本人居留民保護という名目も加わって、27日に内地師団の派兵を決定。28日には日本軍が華北で総攻撃を開始した。日本政府は当初華北での限定作戦を意図して戦闘の不拡大方針を取るが、8月9日に上海大山中尉殺害事件が発生し、13日には中国軍の攻撃によって第二次上海事変が勃発。戦火は華中にも飛び火することになった。日本政府(近衛内閣)は同日夜から緊急閣議を開き、それまでの不拡大政策を転換し、15日未明に「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[5]
日本軍は中国軍の抗戦意欲を過小評価していたこともあり、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソ連への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐中ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強気に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。最終的に近衛内閣は、蒋介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蒋介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蒋ルートの遮断を狙いフランス領インドシナへと進駐。太平洋戦争を招く要因の一つとなった。
蒙古聯合自治政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争。盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古聯合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国政府下の自治政府という位置づけだった。
満洲国
日本への同調と自国存立のための戦争。
汪兆銘中華民国政府(中華民国南京国民政府)
日本との徹底抗戦を主張する蒋介石に対して、当時の日本の首相近衛文麿は近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。日本が中国大陸での和平交渉の道を探る中で、蒋介石に代わる新たな交渉相手とした汪兆銘による中国国民党政権。汪兆銘は蒋介石の督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発を持ち、和平解決を重視して蒋介石の中華民国政府から離反し、日本の力を背景として北平中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結して、1940年に蒋介石とは別個の国民政府を設立した。しかし、諸軍閥や中国民衆からはほとんど支持されず、国際的な承認も得られなかった。主に共産党軍を相手に戦った。

蒋介石中華民国政府
国内が分裂状態の中、蒋介石率いる国民党軍は共産党軍などと内戦を繰り広げていた。蒋介石の部下であった張学良は父張作霖関東軍に謀殺されたことから日本に強い不信を抱き西安事件を起こして蒋介石に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め、中国国民党中国共産党の間で第二次国共合作が成立した。蒋介石は当時華北に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の兵士市民が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。郎坊事件広安門事件などの紛争をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民党軍の存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)が展開される。装備などの面で劣勢にあった国民党軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処[6]を組織し謀略を駆使して国際世論を味方につけてアメリカ合衆国から支援(援蒋ルート等)を引き出し、最終的には日本を国際戦争(太平洋戦争)に引き込むことに成功した[7]
アメリカ合衆国
日中戦争開戦当初はアジアで膨張を続ける日本に対する牽制と日中両勢力の疲弊を狙い、援蒋ルートを通じて中華民国に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)の提供を行った。1937年からは義勇軍フライング・タイガースを派遣し、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まると本格的に戦争に介入した。
ソビエト連邦
中国における共産勢力拡大のため、紅軍をはじめとする共産勢力、抗日武装組織への支援を実施した。本格的にソ連軍が参戦するのは太平洋戦争末期の1945年8月8日だが、日中戦争の作戦でも限定的に軍隊を投入している。

関与勢力の概要

日本軍

軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊

中国国民党軍

軍装・装備
戦法・戦術

蒋介石の中国国民党の軍隊では、ソ連軍のやり方を色々模倣し、督戦隊制度を輸入していた。当時、中国では分裂国家で統一国家ではなく、日本のように教育や軍事教練などもしっかり行われなかった中国共産党軍はゲリラ戦による奇襲攻撃を主な戦法とした。また、兵士には戦うための戦争目的も意識も低かったことから兵士の戦闘意欲をたかめ、戦線離脱を防ぐために、トーチカを守備する兵士や民間人(民兵)の足に鎖をつけ、後ろから督戦隊を配置し逃亡を防ぎ絶対絶命的な状況を作り最後まで交戦をさせた。この状況は1939年に作成された土と兵隊にも描写されている。(田坂具隆監督)


参加部隊

中国共産党軍

軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊

中国住民

日本軍との関係
中国国民軍との関係
中国共産党軍との関係

南京大虐殺について

南京大虐殺とは、日中戦争初期に日本軍中華民国の首都南京を占領した際、約6週間-2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。個々の事件についてはその資料解釈、国際法解釈などによる虐殺の定義や規模の論争が続いている。また交戦勢力及び地域勢力の関係や実態、一般民衆の様子や立場なども十分に解明されていない。

日中戦争の被害

日本軍の犠牲者数

  • 45万5700人(1937-1945)

中国勢力の犠牲者数

共産党政権維持のための反日プロパガンダも加わり、中国側の「日中戦争の犠牲者数」は日々成長している。特に1950年以降国内で中国政府が起こした大躍進政策での大量餓死(死者は推計2000万-5000万人)、文化大革命での大虐殺(推計3000万-7000万人)、天安門事件などへの国内批判の払拭と中国の対日政策[8]のため、反日教育の一環として大幅に犠牲者数が増えていった。そのうち、当時の中国人口よりも犠牲者数が増えるのではないかと揶揄する歴史家もいる。[4][5]

発表年 犠牲者数 調査・出典 補足
終戦時 132万 GHQ調査・発表 国民党軍人のみ
終戦時 132万 国民党政府調査・発表 国民党軍人のみ
1948年 438万 国民党政府報告書 1948年までの確認数(【注意!】この時加算された犠牲者数の中には日中戦争終戦後に勃発した国共内戦などでの犠牲者数が含まれていることに注意。)
1950年 1000万 共産党政権発表
1970年 1800万 共産党政権発表
1985年 2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年) これ以後 博物館教科書で公式数字となる
1998年 3500万 江沢民発表 江沢民氏の演説で発言後、南京大虐殺記念館での公式数字となる
2005年 5000万 卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)

中国政府が提示した数字を達成するのに必要な日数
3500万人を殺害するには

日中戦争が行われたのは1937年7月から1945年8月。約8年(96ヶ月間)に、日本軍は3500万人の中国人を殺すことになると月平均、約36.5万人。中国政府が30万人を殺したと主張している南京大虐殺では戦闘活動に時間を費やされることもなかったにも関わらず、2ヶ月を要した。つまり計算では南京大虐殺の2倍以上の殺戮を毎月欠かさず96ヶ月行わないといけない計算となり、事件では通常の半分しか殺されなかった計算となる。

5000万人を殺害するには

日中戦争が行われたのは1937年7月から1945年8月。約8年(96ヶ月間)に、日本軍は3500万人の中国人を殺すことになると月平均、約52.1万人。中国政府が30万人を殺したと主張する南京事件では戦闘活動に時間を費やされることもなかったにも関わらず、2ヶ月を要した。つまり計算では南京大虐殺の3倍以上の殺戮を毎月欠かさず96ヶ月行わないといけない計算となり、事件では通常の3分の1以下しか殺されなかった計算となる。

戦火の中での犠牲

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるがこの数字は中国国民党軍人のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。当時の中国大陸では、日本軍南京中華民国政府軍蒋介石国民党軍共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。その中で各地で暮らしていた中国人達は翻弄され、農業商業工業運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中で各勢力に食糧徴発され、飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍機による上海空爆を参照)

但し中華民国政府の発表と異なり、現在中華人民共和国政府が公表している統計は学術的検証がなされておらず根拠とならない[9]

日中戦争年表

1941年以後は太平洋戦争の年表も合わせて参照されたし。

前史

1905年(明治38年)

1911年(明治44年)

1912年(明治45年)

1915年(大正4年)

  • 1月18日 - 日本、中国に対して対華21ヶ条要求し、これを承認させる。
  • 12月 - 中国、第三革命では袁世凱の帝政打倒という結果に結びつくが、中国全土が分裂し軍閥が割拠する時代となる。

1923年(大正12年)

1924年(大正14年)

1926年(大正15年)

1927年(昭和2年)

1928年(昭和3年)

1929年(昭和4年)

  • 中国兵による日本兵射殺事件。

1930年(昭和5年)

1931年(昭和6年)

1932年(昭和7年)

1933年(昭和8年)

1934年(昭和9年)

1935年(昭和10年)

1936年(昭和11年)

1937年(昭和12年)

  • 4月16日 - 日本、第三次北支処理要綱を制定。

1937年(昭和12年)

1938年(昭和13年)

1939年(昭和14年)

1940年(昭和15年)

1941年(昭和16年)

1942年(昭和17年)

1943年(昭和18年)

1944年(昭和19年)

1945年(昭和20年)

戦後史

中華人民共和国に対する戦後賠償

戦後、中国との国交正常化は、1972年(昭和47年)に周恩来田中角栄の手により実現した。

中国側は日中共同声明で賠償放棄を宣言、代わりに「隣国として助け合うこと」・「過去の過ちと反省」などの理由から日本は中国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することを約束した。

日本が1979年から中国に対し行ってきたODA総額は、現在までに3兆円を超え[14]、現在も年間1000億円の資金が中国に援助されている。しかし中国政府は共産党政権維持のため情報操作・情報規制が行われているため、中国国民の大半は賠償放棄は知っていても日本からのODAは知らないのが現状である[15]

脚註

  1. ^ 日中戦争(支那事変)は閣議決定によってはじめられたものではないため、日本側の実質的な責任者・司令官は不在のまま、事変として軍部・現地軍が対応。1941年に大東亜戦争に組み込まれ一戦線に移行する
  2. ^ 中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)
  3. ^ First Sino-Japanese War日清戦争。また欧米では日中戦争は太平洋戦争
  4. ^ a b 当時関東軍参謀だった瀬島龍三氏の戦後の談話によると「満洲建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」とされる 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "A"が異なる内容で複数回定義されています
  5. ^ 『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面
  6. ^ 東中野修道「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」2006年[1]
  7. ^ 野田毅の「対日包囲網形成」談話(7:00)より
  8. ^ [2]
  9. ^ 日本財団「東京財団主催の中国人学者講演」
  10. ^ 上海に上陸した際、行われた記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語っている。(前掲「知性」山浦貫一述『森格』)
  11. ^ 中国国民党政府は長城以南に非武装地帯を設定、満州国への通車・通郵手続きを承認し、事実上満州国を黙認した。
  12. ^ 昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」
  13. ^ 蒋介石国民党への寝返り行動
  14. ^ [3] 出典:外務省ホームページ・中国へのODA実績概要
  15. ^ 日本のODA支援を知らなかった中国人

参考文献

日中戦争を扱った著作

日中戦争を描いた作品

小説

映画

関連項目

日中関係
第二次世界大戦
その他


外部リンク