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#REDIRECT [[カトリック]]
'''カトリック教会'''、または'''キャソリック教会'''は[[キリスト教]]の教派。語源は[[ギリシア語]]の καθολική (普遍的)。'''公教会'''(特に日本語の旧名称では'''天主公教会''')という名称も使われる。また、[[プロテスタント教会]]が'''新教'''を名乗る場合、プロテスタントからは'''旧教'''という呼び方が使われる場合がある。

== 教団組織の規律 ==
=== 教義 ===
教義については、関連項目の列挙にとどめておく。
* [[三位一体]]
* [[両性説]]
* [[教皇首位権]]
* [[聖書]]
* [[聖伝]]
* [[原罪]]
* [[秘跡]]
* [[煉獄]]
* [[教皇不可謬性]]
* [[聖母被昇天]]
* [[無原罪の御宿り]]

=== 組織代表者 ===
[[ローマ教会]]の[[司教]]が、全教会の規律と統治を担い、[[教皇]]または[[法王]]と呼ばれる。
教皇は[[使徒]][[ペトロ]]の[[聖座]]における後継者とし、彼が[[聖座宣言]]という公的な決定を下したとき、信者が永遠に守るべき信仰と道徳に関する教理は不可謬であるとされている。現在、教皇が継承している聖座の所在は[[バチカン市国]]にある。ただし、聖座はバチカン市国の行政組織を指す場合があり、教皇庁とも呼ばれる。(その組織構造の詳細は[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/vatican/curia.htm] を参照)
現在の[[教会法]]において、死去または退位によって教皇の役職者が空位になったとき、[[枢機卿]]と称される教皇の顧問らが互選により選出する([[コンクラーヴェ]])。

=== 聖職者 ===
聖職者は[[叙階]]の[[秘跡]]という信仰上の特別な意義が保たれている。司祭には、[[教区]]に属する教区司祭と、[[修道会]]に属する修道会司祭とに大別されている。
修道司祭出身の[[教皇グレゴリウス1世]]による[[グレゴリオ改革]]以降、高位聖職者([[司教]]、[[司祭]]、[[助祭]])は独身制がとられている。

=== 典礼(礼拝)様式 ===
[[旧約聖書]]と[[新約聖書]]を正典とし、旧約聖書にはヘブライ語の[[マソラ本文]]にはない[[第二正典]]も含まれている。ユダヤ教では、[[シナゴーグ|会堂]]で暦に従って[[律法書]]([[トーラー]])が読まれていたため、その習慣にならい[[典礼暦]]に従って[[福音書]]が3年周期([[東方正教会]]では1年周期)で読まれる。さらに、キリスト教独自の習慣として、福音書と対応する[[使徒書]]([[第2ヴァティカン公会議]]の[[典礼刷新]]以降は[[旧約聖書]]も)の箇所が読まれる。

また、[[帰一東方典礼教会]]によって、それぞれの典礼様式が認められている。

== カトリックの信者が多い主な国 ==
前世紀前半頃までは[[ヨーロッパ]]圏内であったが、現在では大きく変化しており、三大カトリック国は、
* [[ブラジル]]
* [[メキシコ]]
* [[フィリピン]]
である。また、[[北アメリカ]]も現在では、[[ラテンアメリカ]]からの移民の増加により、カトリックが優勢である。

その他の主な国を以下に挙げる。
* [[イタリア]]
* [[スペイン]]
* [[ポルトガル]]
* [[フランス]]
* [[アイルランド]]
* [[オーストリア]]
* [[スロヴェニア]]
* [[クロアチア]]
* [[ポーランド]]
* [[チリ]]
* [[スペイン]]
* [[アルゼンチン]]

== 現在の日本におけるカトリック教会 ==

日本にはイエズス会の[[フランシスコ・サビエル|サビエル]]らが最初に伝えた。
宗教法人法による登録までは天主教(または天主公教会)と称した。
* カトリック中央協議会

* [[イエズス会]]
* [[サレジオ会]]
* [[神言会]]
* [[ドミニコ会]]
* [[フランシスコ会]]
* [[パリ外国宣教会]]
* [[ミラノ宣教会]]
* [[メリノール宣教会]]
* ヨゼフ会
* [[女子パウロ会]]

== 歴史 ==
=== 古代 ===
古代においては、キリスト教は[[古代イスラエル|イスラエル]]の民の一派として、[[ファリサイ派]]や[[サドカイ派]]などの他教派と対立していた。そして、[[ユダヤ戦争]]の後の神殿崩壊後、特にファリサイ派(現在の[[ユダヤ教]]主流派に近い)は[[ヤムニア会議]]でキリスト教を排斥することになり、信条の相違は決定的となった。やがて教勢が拡大すると[[古代ローマ]]により迫害を受けた。

この頃、[[エルサレム]]のヘブライズム教会と、[[シリア]]や[[エジプト]]のヘレニズム(ギリシャ系)教会とで異なる文化圏の教会が形成されていた。ヘブライズム教会は[[使徒]](司教)と[[長老]](司祭)、ヘレニズム教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型([[ヒエラルキー|ヒエラルキ]])が異なっていた。やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。6世紀頃シリアの聖イサクによってヒエラルキは公に制度化されるようになった。

また、[[グノーシス主義]]などの異端が現れ、新約の教典の中に[[偽典]]が混入するようになった。

* 関連・[[死海文書]]・[[新約外典]]・[[カルタゴ会議]]・[[使徒教父文書]]

=== 中世:教父時代(前期)===
都市部には大規模な教会が発展するようになる。4世紀には、キリスト教を国教化する国々が現れるようになった。最初に国教化したのが[[301年]]の[[アルメニア王国]]である。さらに続いて、[[350年]]に[[アクムス王国]](現在のエチオピア)が国教化した。[[380年]]には、遂にローマ帝国が[[テオドシウス]]により国教化された。392年帝国内の異教信仰が厳禁となり、これによって中世の教会時代に移り変わることとなる。

中世の神学の中心は主に東方の[[ギリシャ教父]]によるものであった。[[アレクサンドリア]]の[[オリゲネス]]、[[アタナシウス]]、[[カッパドキアの三教父]]の[[バシリウス]],[[ナツィアンツのグレゴリウス]]、[[ニッサのグレゴリウス]]などである。やがて西方の[[ラテン教父]]の[[アウグスティヌス]]などにも影響を与えている。

こういった神学の発展にともない教理論争が激しくなる。そのため、しばしば[[教会会議]]や[[世界公会議]]が執り行われるようになった。[[マニ教]]の流入や、[[モンタヌス派]]や[[アリウス派]]が起こり、教会の統一が損なわれると、皇帝[[コンスタンティヌス]]により[[ニケア公会議]]が開かれ、アリウス派は[[異端]]とされ追放された。皇帝[[テオドシウス2世]]により[[エフェソ公会議]]が開かれると、[[ネストリウス派]]は異端とされ追放された。また、皇帝[[マルキアヌス]]により[[カルケドン公会議]]が開かれ、[[単性論]]が異端とされた。しかし、単性論を支持する教会が多くあったため、各教会で[[対立司教]]が立つほどの分裂が生じた。

ラテン文化とギリシャ文化との相違、皇帝の世俗権力の支配から教会を取りもどそうとする教皇の立場と、東方の[[ビザンチン皇帝]]との対立など、政治的な問題が相俟って慢性的な分裂が続き、1054年に相互破門により分裂が決定的となった。

*関連・[[アレクサンドリア学派]]・[[ニケア・コンスタンチノープル信条]]・[[カルケドン信条]]・[[フィリオクェ問題]]・[[ヴルガタ訳]]

=== 中世:神聖ローマ帝国(後期)===
それまでローマ帝国の西方に皇帝の不在が続いていたが、[[神聖ローマ帝国]]が樹立し教皇はビザンチン帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、[[叙任権闘争]]の問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。その後、教皇および教会の権力が強化されることになり、やがて[[第1ラテラノ公会議]]によって[[十字軍]]の遠征が制定される。

[[カタリ派]]や[[ヴァルド派]]が拡大すると、異端の対策に着手せざるを得なくなり、[[教皇グレゴリウス9世]]によって[[異端審問]]の[[大勅書]] "[[Excommunicamus et anathematizamus]]" が出されることとなった。やがて異端審問は、[[司教]]や[[教会会議]]が異端者の有罪を決定し、後に世俗機関が処罰方法を決定するというシステムが確立するようになる。また、[[教皇インノケンティウス9世]]により[[魔術]]を排斥する[[大勅書]] "[[Summis desiderantes affectibus]]" が発せられ、特にドイツで[[魔女裁判]]が始まるようになった。この頃の神学においては、[[アリストテレス]]の[[形而上学]]を引用した[[スコラ学]]が[[ドミニコ会]]を中心として発展する。<br>
*関連・[[托鉢修道院]]・[[新プラトン主義]]

===近世・近代:宗教改革以降===
 封建社会における神聖ローマ帝国が衰退し、それに伴ない各君主や貴族の権力が強まった。[[ルネサンス]]時代には[[人文主義]]が生まれ、[[公会議首位説]]が彼等によって提唱されるようになった。これが、後に[[宗教改革]]へと発展する。[[プロテスタント]](抗議者)などが教会や神聖ローマ帝国の腐敗を批判し、カトリック教会から離れ独立した派を立てた。それに対する[[対抗改革]]として[[トリエント公会議]]が開かれ、この頃にカトリック教理はほぼ確定した。この対抗改革の推進に深く関わったのが、1534年に[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]が創立した[[イエズス会]]とされている。イエズス会はポルトガル王国の経済支援を背景として同国植民地圏への宣教にあたった。そして1549年、イエズス会士フランシスコ・サビエルの鹿児島上陸により、日本初のキリスト教宣教となった。<br>
 また、プロテスタントとの抗争は国家間も含む数々の戦争を引き起こした。
殊に神聖ローマ帝国の失墜をたくらむ君主や貴族らは、[[イスラム教]]の[[オスマン朝]]と同盟を組み[[ルター派]]諸侯として[[カール5世]]と対立した。なお、ルター派の創始者[[マルティン・ルター]]はこのことについて「トルコ人はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っていた。また、英国の内戦において、[[清教徒革命]]による共和党政権を獲得した[[組合派]]の[[クロムウェル]]は、さらに[[アイルランド]]征服に乗り出し、多くのカトリック信者が犠牲となった。これが今日の[[北アイルランド|アイルランド問題]]に至っている。
<small>プロテスタントとの間の[[戦争]]は出身階層や民族により様々な様相を見せたため、一概に評価できない。</small>

* 関連・[[ウィックリフ]]・[[ヤン・フス]]・[[ウルリヒ・ツヴィングリ]]・[[ジャン・カルヴァン]]・[[農民戦争]]

=== 現代 ===
民衆の精神的支柱であった教会の権威は、近代思想における[[合理主義]]や一切の宗教(特にキリスト教)を侮蔑し理性を崇拝する[[啓蒙主義]]などにより次第に衰えることとなった。しかし、このような近代思想は、ヨーロッパ諸国では多くの君主権力に対する革命の動力になったことも事実である。

[[1933年]]7月20日、パーチェリ枢機卿(のちの教皇ピウス12世)は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と政教条約を結んだ。教皇ピウス11世は、「ドイツ政府の首脳の中に、意志強堅な反共の徒が現われた」ことを大変うれしく思っている、とドイツの外交使節に語ったといわれる。[[第二次世界大戦]]中、ユダヤ人迫害に沈黙したため、「黙認した」と非難されてきた。近年、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]は、ユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし、近年の歴史的調査によると、第二次大戦中の教皇ピウス12世は、米国のルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことも明らかにされている。

[[第二次世界大戦]]後、カトリック教会は近代社会への適応が問われる時代となった。その背景を動機に[[第2ヴァティカン公会議]]が開かれることにたった。主な議題は[[典礼刷新]]、[[エキュメニズム]]、諸宗教との対話などであった。このような近年の「開かれた教会」のコンセプトは、[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[福者]][[マザー・テレサ]]などの優れた人物の輩出に繋がっている。
しかし、非常に大胆な改革が実現したものの過去の教理との不一致も見られ、保守派とリベラル派との解釈の相違が問題となっている。

* 関連・[[ドミヌス・イエスス]]・[[教皇庁科学アカデミー]]

== 関連項目 ==
* カトリック[[神学]]とその[[霊性]]
** キリスト論
** 教会論
** 秘跡論
** 終末論・救済論
** マリア論
* 聖母出現
** ルルドの聖母
** ファチマの聖母

* 不思議のメダイ
* ロザリオ
* 天使祝詞
* 隠れキリシタン(吉利支丹)
* カトリック芸術
** [[グレゴリオ聖歌]]
** [[ゴシック建築]]
** [[ルネサンス芸術]]
* カトリックの主な[[聖人]]([[聖者の一覧|聖人の一覧]])
** 古代教会・[[聖イレネウス]]・[[聖ポリュカルポス]]
** 教父時代・聖アウグスティヌス・[[聖ヒエロニムス]]・[[教皇レオ1世|聖大レオ1世教皇]]・[[教皇グレゴリウス1世|聖大グレゴリウス1世教皇]]
** 中世後期・近世・[[ジャンヌ・ダルク|聖ジャンヌ・ダルク]]・[[ジョバンニ・フランチェスコ・ベルナルドーネ|アッシジの聖フランシスコ]]・[[トマス・アクィナス|聖トマス・アクイナス]]
** 近代・現代・[[教皇ピオ10世|聖ピオ10世教皇]]・[[マキシミリアノ・ライモンド・コルベ|聖コルベ神父]]・[[聖ピオ神父]]
** 日本・[[二十六聖人の殉教]]

== 外部リンク ==

* [http://www.vatican.va/ The Holy See] (バチカンの公式サイト、ドイツ語、英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語)
* [http://www.newadvent.org/ New Advent] (カトリック・エンサイクロペディア、英語)
* [http://www.cbcj.catholic.jp/ カトリック中央協議会]
* [http://www.cwjpn.com/ カトリック新聞社]
* [http://directory.google.com/Top/Society/Religion_and_Spirituality/Christianity/Denominations/Catholicism/ Catholicism Googleディレクトリ] (英語)

[[da:Katolicisme]]
[[de:Katholizismus]]
[[en:Catholicism]]
[[eo:Katolikismo]]
[[es:Catolicismo]]
[[fr:Catholicisme]]
[[hr:Katoličanstvo]]
[[ia:Catholicismo]]
[[it:Cattolicesimo]]
[[pl:Katolicyzm]]
[[zh:天主教]]

2004年2月23日 (月) 13:20時点における版

カトリック教会、またはキャソリック教会キリスト教の教派。語源はギリシア語の καθολική (普遍的)。公教会(特に日本語の旧名称では天主公教会)という名称も使われる。また、プロテスタント教会新教を名乗る場合、プロテスタントからは旧教という呼び方が使われる場合がある。

教団組織の規律

教義

教義については、関連項目の列挙にとどめておく。

組織代表者

ローマ教会司教が、全教会の規律と統治を担い、教皇または法王と呼ばれる。 教皇は使徒ペトロ聖座における後継者とし、彼が聖座宣言という公的な決定を下したとき、信者が永遠に守るべき信仰と道徳に関する教理は不可謬であるとされている。現在、教皇が継承している聖座の所在はバチカン市国にある。ただし、聖座はバチカン市国の行政組織を指す場合があり、教皇庁とも呼ばれる。(その組織構造の詳細は[1] を参照) 現在の教会法において、死去または退位によって教皇の役職者が空位になったとき、枢機卿と称される教皇の顧問らが互選により選出する(コンクラーヴェ)。

聖職者

聖職者は叙階秘跡という信仰上の特別な意義が保たれている。司祭には、教区に属する教区司祭と、修道会に属する修道会司祭とに大別されている。 修道司祭出身の教皇グレゴリウス1世によるグレゴリオ改革以降、高位聖職者(司教司祭助祭)は独身制がとられている。

典礼(礼拝)様式

旧約聖書新約聖書を正典とし、旧約聖書にはヘブライ語のマソラ本文にはない第二正典も含まれている。ユダヤ教では、会堂で暦に従って律法書トーラー)が読まれていたため、その習慣にならい典礼暦に従って福音書が3年周期(東方正教会では1年周期)で読まれる。さらに、キリスト教独自の習慣として、福音書と対応する使徒書第2ヴァティカン公会議典礼刷新以降は旧約聖書も)の箇所が読まれる。

また、帰一東方典礼教会によって、それぞれの典礼様式が認められている。

カトリックの信者が多い主な国

前世紀前半頃まではヨーロッパ圏内であったが、現在では大きく変化しており、三大カトリック国は、

である。また、北アメリカも現在では、ラテンアメリカからの移民の増加により、カトリックが優勢である。

その他の主な国を以下に挙げる。

現在の日本におけるカトリック教会

日本にはイエズス会のサビエルらが最初に伝えた。 宗教法人法による登録までは天主教(または天主公教会)と称した。

  • カトリック中央協議会

歴史

古代

古代においては、キリスト教はイスラエルの民の一派として、ファリサイ派サドカイ派などの他教派と対立していた。そして、ユダヤ戦争の後の神殿崩壊後、特にファリサイ派(現在のユダヤ教主流派に近い)はヤムニア会議でキリスト教を排斥することになり、信条の相違は決定的となった。やがて教勢が拡大すると古代ローマにより迫害を受けた。

この頃、エルサレムのヘブライズム教会と、シリアエジプトのヘレニズム(ギリシャ系)教会とで異なる文化圏の教会が形成されていた。ヘブライズム教会は使徒(司教)と長老(司祭)、ヘレニズム教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型(ヒエラルキ)が異なっていた。やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。6世紀頃シリアの聖イサクによってヒエラルキは公に制度化されるようになった。

また、グノーシス主義などの異端が現れ、新約の教典の中に偽典が混入するようになった。

中世:教父時代(前期)

都市部には大規模な教会が発展するようになる。4世紀には、キリスト教を国教化する国々が現れるようになった。最初に国教化したのが301年アルメニア王国である。さらに続いて、350年アクムス王国(現在のエチオピア)が国教化した。380年には、遂にローマ帝国がテオドシウスにより国教化された。392年帝国内の異教信仰が厳禁となり、これによって中世の教会時代に移り変わることとなる。

中世の神学の中心は主に東方のギリシャ教父によるものであった。アレクサンドリアオリゲネスアタナシウスカッパドキアの三教父バシリウスナツィアンツのグレゴリウスニッサのグレゴリウスなどである。やがて西方のラテン教父アウグスティヌスなどにも影響を与えている。

こういった神学の発展にともない教理論争が激しくなる。そのため、しばしば教会会議世界公会議が執り行われるようになった。マニ教の流入や、モンタヌス派アリウス派が起こり、教会の統一が損なわれると、皇帝コンスタンティヌスによりニケア公会議が開かれ、アリウス派は異端とされ追放された。皇帝テオドシウス2世によりエフェソ公会議が開かれると、ネストリウス派は異端とされ追放された。また、皇帝マルキアヌスによりカルケドン公会議が開かれ、単性論が異端とされた。しかし、単性論を支持する教会が多くあったため、各教会で対立司教が立つほどの分裂が生じた。

ラテン文化とギリシャ文化との相違、皇帝の世俗権力の支配から教会を取りもどそうとする教皇の立場と、東方のビザンチン皇帝との対立など、政治的な問題が相俟って慢性的な分裂が続き、1054年に相互破門により分裂が決定的となった。

中世:神聖ローマ帝国(後期)

それまでローマ帝国の西方に皇帝の不在が続いていたが、神聖ローマ帝国が樹立し教皇はビザンチン帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、叙任権闘争の問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。その後、教皇および教会の権力が強化されることになり、やがて第1ラテラノ公会議によって十字軍の遠征が制定される。

カタリ派ヴァルド派が拡大すると、異端の対策に着手せざるを得なくなり、教皇グレゴリウス9世によって異端審問大勅書 "Excommunicamus et anathematizamus" が出されることとなった。やがて異端審問は、司教教会会議が異端者の有罪を決定し、後に世俗機関が処罰方法を決定するというシステムが確立するようになる。また、教皇インノケンティウス9世により魔術を排斥する大勅書 "Summis desiderantes affectibus" が発せられ、特にドイツで魔女裁判が始まるようになった。この頃の神学においては、アリストテレス形而上学を引用したスコラ学ドミニコ会を中心として発展する。

近世・近代:宗教改革以降

 封建社会における神聖ローマ帝国が衰退し、それに伴ない各君主や貴族の権力が強まった。ルネサンス時代には人文主義が生まれ、公会議首位説が彼等によって提唱されるようになった。これが、後に宗教改革へと発展する。プロテスタント(抗議者)などが教会や神聖ローマ帝国の腐敗を批判し、カトリック教会から離れ独立した派を立てた。それに対する対抗改革としてトリエント公会議が開かれ、この頃にカトリック教理はほぼ確定した。この対抗改革の推進に深く関わったのが、1534年にイグナチオ・デ・ロヨラが創立したイエズス会とされている。イエズス会はポルトガル王国の経済支援を背景として同国植民地圏への宣教にあたった。そして1549年、イエズス会士フランシスコ・サビエルの鹿児島上陸により、日本初のキリスト教宣教となった。
 また、プロテスタントとの抗争は国家間も含む数々の戦争を引き起こした。 殊に神聖ローマ帝国の失墜をたくらむ君主や貴族らは、イスラム教オスマン朝と同盟を組みルター派諸侯としてカール5世と対立した。なお、ルター派の創始者マルティン・ルターはこのことについて「トルコ人はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っていた。また、英国の内戦において、清教徒革命による共和党政権を獲得した組合派クロムウェルは、さらにアイルランド征服に乗り出し、多くのカトリック信者が犠牲となった。これが今日のアイルランド問題に至っている。 プロテスタントとの間の戦争は出身階層や民族により様々な様相を見せたため、一概に評価できない。

現代

民衆の精神的支柱であった教会の権威は、近代思想における合理主義や一切の宗教(特にキリスト教)を侮蔑し理性を崇拝する啓蒙主義などにより次第に衰えることとなった。しかし、このような近代思想は、ヨーロッパ諸国では多くの君主権力に対する革命の動力になったことも事実である。

1933年7月20日、パーチェリ枢機卿(のちの教皇ピウス12世)はナチスと政教条約を結んだ。教皇ピウス11世は、「ドイツ政府の首脳の中に、意志強堅な反共の徒が現われた」ことを大変うれしく思っている、とドイツの外交使節に語ったといわれる。第二次世界大戦中、ユダヤ人迫害に沈黙したため、「黙認した」と非難されてきた。近年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし、近年の歴史的調査によると、第二次大戦中の教皇ピウス12世は、米国のルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことも明らかにされている。

第二次世界大戦後、カトリック教会は近代社会への適応が問われる時代となった。その背景を動機に第2ヴァティカン公会議が開かれることにたった。主な議題は典礼刷新エキュメニズム、諸宗教との対話などであった。このような近年の「開かれた教会」のコンセプトは、ノーベル平和賞を受賞した福者マザー・テレサなどの優れた人物の輩出に繋がっている。 しかし、非常に大胆な改革が実現したものの過去の教理との不一致も見られ、保守派とリベラル派との解釈の相違が問題となっている。

関連項目

  • カトリック神学とその霊性
    • キリスト論
    • 教会論
    • 秘跡論
    • 終末論・救済論
    • マリア論
  • 聖母出現
    • ルルドの聖母
    • ファチマの聖母

外部リンク