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「マジャル人」の版間の差分

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[[Image:Hungarians in Romania.png|thumb|250px|right|ルーマニアにおけるハンガリー人の割合]]
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'''マジャル人'''(マジャールじん、<small>[[ハンガリー]]</small> '''magyar(magyarok=複数形''')は、[[ハンガリー]]国家の根幹をな[[民族]]'''[[ハンガリー人]]'''(<small>[[英語]]</small> '''Hungarian''')とも言うがこ場合[[ハンガリー]][[国籍]]を有する人という意味になるで注意が必要である[[言語]]的・系統的には[[ウラル語族]]([[サモエード諸族]])に属する。言語は[[ハンガリー語]](マジャール語)。全人口はおよそ1500万人。多くの[[民族集団]]を含み、また[[ルーマニア]]の200万人をはじめとして、全人口の1/3はハンガリー以外に居住している。
'''マジャル人'''<ref>一般的に用いられる"[[ハンガリー]]"は、本項で解説するマジャル民族と言う意味の他に、民族に関係なく、ハンガリーに居住る人と言う意味をも持つため、特に民族について言及する際に"マジャル人"と言う呼称が用いられることがある</ref>(マジャルじん、[[ハンガリー語]]:''magyar'')とは、国家としての[[ハンガリー]]と歴史的に結びつた民族ことを指す固有の言語は[[ウラル語族]]([[サモエード諸族]])[[ハンガリー語]]である。


マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)<ref>[http://www.nepszamlalas.hu/eng/volumes/18/tables/load1_30_1.html 18. Demographic data – Hungarian Central Statistical Office]</ref>のマジャル人が居住している。彼らは、およそ1000年間にわたり存在していた[[ハンガリー王国]]の主要民族であったが、[[トリアノン条約]]による領土の分割の結果、多くのマジャル人がハンガリー周辺諸国の少数民族として生活しており、その内訳は[[ルーマニア]]の144万人をはじめとして、[[スロバキア]]の52万人、[[セルビア]]の29万人、[[ウクライナ]]および[[ロシア]]の17万人、[[オーストリア]]の4万人、[[クロアチア]]の1万6000人、[[チェコ]]の1万5000人、そして[[スロベニア]]の1万人となっている。また、マジャル人を祖先にもつ民族集団は世界の様々な地域(例えば[[アメリカ合衆国]]に140万人)に居住しているが、ハンガリー語及びハンガリーの文化や伝統を現在も保持している人々は少数にすぎない。
==概要==
一般的にはマジャル人の起源は以下のように説明される。


==起源==
マジャル人は[[ウラル山脈]]の中南部の草原で遊牧を営んでいたが、[[9世紀]]に[[ヨーロッパ]]への移住を開始し、[[黒海]]北岸に到達。さらに[[アールパード]]王に率いられ[[ハンガリー平原]]に移住した。彼らはヨーロッパを荒らしまわったが、[[レヒフェルトの戦い]]において[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]に敗れると、ハンガリー平原に統一国家を建設するに至った。[[10世紀]]後半にはアールパード家の[[イシュトヴァーン1世]]が[[キリスト教]]に改宗し、[[教皇]]からハンガリー王の戴冠を受け、[[ハンガリー王国]]が成立した。
一般的にはマジャル人の起源は以下のように説明される。


マジャル人は[[ウラル山脈]]の中南部の草原で遊牧を営んでいたが、[[9世紀]]に[[ヨーロッパ]]への移住を開始し、[[黒海]]北岸に到達。さらに[[アールパード]]王に率いられ[[ハンガリー平原]]に移住した。彼らはヨーロッパを荒らしまわったが、[[レヒフェルトの戦い]]において[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]に敗れると、ハンガリー平原に統一国家を建設するに至った。[[10世紀]]後半にはアールパード家の[[イシュトヴァーン1世]]が[[キリスト教]]に改宗し、[[教皇]]からハンガリー王の戴冠を受け、[[ハンガリー王国]]が成立した。
しかし、「ハンガリー人」は歴史的に、多くの民族の影響を受けた([[フン族|フン]]、[[アバール]]、[[ゲルマン]]、[[ケルト]]、[[キンメリア|キンメリオス人]]、[[サルマート]]、[[スキタイ]]、[[カフカス]]、[[ハザール]]、[[クマン]]、[[パローツ]]、[[アラン人]]、[[スラブ人]]、[[ルーマニア人]]、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、[[ドイツ人]]、[[アルメニア人]]など)。[[ドハーニ街シナゴーグ]]に代表される[[ユダヤ教]][[改革派 (ユダヤ教)|改革派]]は、ユダヤ教徒のハンガリー人であるといってもいい。
[[フン族]]もマジャル人の起源のひとつとされており、そのフン族は[[古代]][[中国]]の[[漢]]王朝を苦しめた[[匈奴]]族の末裔とされているため、ハンガリー人は匈奴族の血をひく民族のひとつの可能性がある。


しかし、「マジャル人」は歴史的に、多くの民族の影響を受ている。<ref>[[フン族|フン]]、[[アバール]]、[[ゲルマン]]、[[ケルト]]、[[キンメリア|キンメリオス人]]、[[サルマート]]、[[スキタイ]]、[[カフカス]]、[[ハザール]]、[[クマン]]、[[パローツ]]、[[アラン人]]、[[スラブ人]]、[[ルーマニア人]]、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、[[ドイツ人]]、[[アルメニア人]]など</ref>[[ドハーニ街シナゴーグ]]に代表される[[ユダヤ教]][[改革派 (ユダヤ教)|改革派]]は、ユダヤ教徒のハンガリー人であるといってもいい。
[[バルトーク・ベーラ]]作曲・[[バラージュ・ベーラ]]([[ユダヤ系]])脚本の[[オペラ]]「[[青髭公の城]]」は、[[サボー・イシュトヴァーン]]監督、[[ショルティ・ジェルジ]]参加の映画化が決定されていた(残念ながらショルティは死去する)。サボーはショルティに「ハンガリーに優れた音楽家が生まれるのはなぜか」と聞かれ、「マジャル性と[[ユダヤ]]性との混交、そこにハンガリー音楽の特性がある」と述べている。[[チャールダーシュ]]という言葉を初めに使った[[ロージャヴェルジ・マールク|ロージャヴェルジ]]、[[トランシルバニア]][[民謡]]を採集しバルトークを引き継いだ[[リゲティ・ジェルジ|リゲティ]]もユダヤ人であった。
バルトークのような「純粋な」マジャール性だけでなく、ユダヤ性との混交、それも[[ハンガリー音楽]]・文化を解く重要なキーワードである。


[[バルトーク・ベーラ]]作曲・[[バラージュ・ベーラ]]([[ユダヤ系]])脚本の[[オペラ]]「[[青髭公の城]]」は、[[サボー・イシュトヴァーン]]監督、[[ショルティ・ジェルジ]]参加の映画化が決定されていた(残念ながらショルティは死去する)。サボーはショルティに「ハンガリーに優れた音楽家が生まれるのはなぜか」と聞かれ、「マジャル性と[[ユダヤ]]性との混交、そこにハンガリー音楽の特性がある」と述べている。[[チャールダーシュ]]という言葉を初めに使った[[ロージャヴェルジ・マールク|ロージャヴェルジ]]、[[トランシルバニア]][[民謡]]を採集しバルトークを引き継いだ[[リゲティ・ジェルジ|リゲティ]]もユダヤ系ハンガリー人であった。また、バルトークは純粋なハンガリー民謡のみならず、当時のハンガリー王国内に居住していた様々な民族の民謡を採集し、作曲の素材として用いている。そうした多民族性は、[[ハンガリー音楽]]・文化を解く重要な鍵かもしれない
また、[[ロマ]]はその国の[[音楽]]を守っている、ともいわれる。[[伝統]]的なもの、その上のロマ性、などを抜きにしてはハンガリー音楽や[[ルーマニア音楽]]が成り立たないのと同じである。

== 脚注 ==
<references/>


== 関連項目、外部リンク ==
== 関連項目、外部リンク ==

2007年4月2日 (月) 18:04時点における版

マジャル人の分布及び割合
ルーマニアにおけるマジャル人の割合

マジャル人[1](マジャルじん、ハンガリー語:magyar)とは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族のことを指す。固有の言語はウラル語族サモエード諸族)のハンガリー語である。

マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)[2]のマジャル人が居住している。彼らは、およそ1000年間にわたり存在していたハンガリー王国の主要民族であったが、トリアノン条約による領土の分割の結果、多くのマジャル人がハンガリー周辺諸国の少数民族として生活しており、その内訳はルーマニアの144万人をはじめとして、スロバキアの52万人、セルビアの29万人、ウクライナおよびロシアの17万人、オーストリアの4万人、クロアチアの1万6000人、チェコの1万5000人、そしてスロベニアの1万人となっている。また、マジャル人を祖先にもつ民族集団は世界の様々な地域(例えばアメリカ合衆国に140万人)に居住しているが、ハンガリー語及びハンガリーの文化や伝統を現在も保持している人々は少数にすぎない。

起源

一般的にはマジャル人の起源は以下のように説明される。

マジャル人はウラル山脈の中南部の草原で遊牧を営んでいたが、9世紀ヨーロッパへの移住を開始し、黒海北岸に到達。さらにアールパード王に率いられハンガリー平原に移住した。彼らはヨーロッパを荒らしまわったが、レヒフェルトの戦いにおいてオットー1世に敗れると、ハンガリー平原に統一国家を建設するに至った。10世紀後半にはアールパード家のイシュトヴァーン1世キリスト教に改宗し、教皇からハンガリー王の戴冠を受け、ハンガリー王国が成立した。

しかし、「マジャル人」は歴史的に、多くの民族の影響を受ている。[3]ドハーニ街シナゴーグに代表されるユダヤ教改革派は、ユダヤ教徒のハンガリー人であるといってもいい。

バルトーク・ベーラ作曲・バラージュ・ベーラユダヤ系)脚本のオペラ青髭公の城」は、サボー・イシュトヴァーン監督、ショルティ・ジェルジ参加の映画化が決定されていた(残念ながらショルティは死去する)。サボーはショルティに「ハンガリーに優れた音楽家が生まれるのはなぜか」と聞かれ、「マジャル性とユダヤ性との混交、そこにハンガリー音楽の特性がある」と述べている。チャールダーシュという言葉を初めに使ったロージャヴェルジトランシルバニア民謡を採集しバルトークを引き継いだリゲティもユダヤ系ハンガリー人であった。また、バルトークは純粋なハンガリー民謡のみならず、当時のハンガリー王国内に居住していた様々な民族の民謡を採集し、作曲の素材として用いている。そうした多民族性は、ハンガリー音楽・文化を解く重要な鍵かもしれない。

脚注

  1. ^ 一般的に用いられる"ハンガリー人"は、本項で解説するマジャル民族と言う意味の他に、民族に関係なく、ハンガリーに居住する人と言う意味をも持つため、特に民族について言及する際に"マジャル人"と言う呼称が用いられることがある。
  2. ^ 18. Demographic data – Hungarian Central Statistical Office
  3. ^ フンアバールゲルマンケルトキンメリオス人サルマートスキタイカフカスハザールクマンパローツアラン人スラブ人ルーマニア人ユダヤ人ロマドイツ人アルメニア人など

関連項目、外部リンク