「薬師恵日」の版間の差分
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2024年6月29日 (土) 00:04時点における最新版
薬師 恵日(くすし の えにち、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人・医師。高句麗系渡来人・徳来(とこらい)の5世の孫。
経歴
[編集]恵日の五世の祖先である徳来は、元は高句麗人であったがのちに百済に移住[1]。さらに、雄略天皇7年(463年)雄略天皇の命令を受けて吉備上道弟君と吉備海部赤尾らが、百済に対して今来の才伎(いまきのてひと)[2](工人)を求めた際[3]、徳来は百済から日本に渡来したという[1]。
推古天皇16年(608年)第三回遣隋使において、恵日は小野妹子に随行して隋に渡り医術を修得する[4][5][1]。留学中、618年に随の滅亡・唐の建国が起きた。推古天皇31年(623年)ともに医術を学んだ倭漢福因や学問僧の恵斉・恵光らとともに、新羅使・智洗爾に従って日本に帰国する[6]。
その後、恵日は薬師となり、ついには薬師を姓とした。舒明天皇2年(630年)第一次遣唐使にて、大使・犬上三田耜に従って再び大陸に渡る(この時の冠位は大仁)[7]。以前の恵日の建言通り、舒明天皇4年(632年)遣唐使節一行は学問僧の霊雲・旻や勝鳥養らを連れて帰国する[8]。なお、この時に帰国しなかった留学生の高向玄理・南淵請安は、舒明天皇12年(640年)になって百済・新羅の使者とともに新羅経由で帰国している[9]。
孝徳朝の白雉5年(654年)第三次遣唐使では副使に任ぜられ、みたび大陸に渡った[10]。なお、この時の冠位は大山下(従六位相当)で、以前の大仁(正五位相当)より下位になっていることから、何かの理由で降格された可能性がある[11]。
医書として、隋から『病源候論』 、唐から『千金方』 を伝えたとされる[4]。 子孫は難波薬師を氏とした。
脚注
[編集]- ^ a b c 『続日本紀』天平宝字2年4月28日条
- ^ あるいは、手末(たなすえ)の才伎
- ^ 『日本書紀』雄略天皇7年是歳条
- ^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
- ^ ただし、『日本書紀』推古天皇16年9月5日条に記載される隨行した学生や学問僧計8名の中には、高向玄理・南淵請安や旻の名前があり、また倭漢福因は後の記述で一緒に登場するが、恵日の名前は見あたらない。
- ^ 『日本書紀』推古天皇31年7月条
- ^ 『日本書紀』舒明天皇2年8月5日条
- ^ 『日本書紀』舒明天皇4年8月条
- ^ 『日本書紀』舒明天皇12年10月11日条
- ^ 『日本書紀』白雉5年2月条
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』
参考文献
[編集]- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
- 『日本書紀 (三)』岩波文庫、1994年
- 『日本書紀 (四)』岩波文庫、1995年
- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』、中央公論社、1965年