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太政官

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太政官とは、日本のほぼ奈良時代から始まる最高行政機関。律令制に基づき司法行政立法を司った。鎌倉時代から始まる武家政権の時代には実質的には機能せず、それを挟んだ前後二種類がある。

  1. 律令制下の太政官(だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ) - 律令制における最高国家機関。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。ただし通常はこれに次ぐ左大臣右大臣が実質的な長官としての役割を担った。事務局として少納言局左右弁官局が附属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。
  2. 近代の太政官(だじょうかん) - 幕末から明治にかけて設けられた官僚。
    1. 1868年6月11日慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。当初は、議政官以下7官の総称だった。
    2. 1869年明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄し、左右両大臣が置かれた。
    3. 1871年、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。
    4. 1885年(明治18年)、内閣制度の発足に伴い廃止された。

律令制下

平城宮 推定太政官跡
2019年発掘調査時。

古代日本において中国から律令制を導入する際、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けた。太政官の原型は天武天皇の時代に形成された。初期の太政官には「納言」と「大弁官」という職があったが、飛鳥浄御原令で、納言は大中小の3つに、大弁官は左右に大中小とする6つに分割された。中納言は大宝令成立時に廃止されたが、4年後に復置されている。太政官は中務省式部省民部省治部省兵部省刑部省大蔵省宮内省の八省を統括する最高機関である(因事管隷)。尚、天平宝字2年(758年)から同8年(764年)まで乾政官(けんせいかん)と改称されていた時期がある(官職の唐風改称)。平安時代になると、本来、律令で定められていない令外官にすぎなかった摂政関白が、天皇の代理として政治を執り行ったため、相対的に地位が低下したが、国政に関する最高機関として機能し続けた。武家社会の時代に入っても、鎌倉時代には政務機関として機能していたが、室町時代になると次第に形骸化が進み、単純に格式を表す職名になった。明治維新律令制が廃止されるまで存在した。

太政官の職

太政官も、律令制の他の官制と同じように、長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の四階級が存在する。太政官は、機構としては政策決定機関である議政官(ぎじょうかん)と、事務部門である少納言局・左弁官局・右弁官局及び臨時監察官である巡察使に分かれた。その下に八省が置かれた。太政官は唐の制度における門下省尚書省の役割を統合した性格を有しており、門下省的な役割を担った少納言局と、尚書省的な役割を担った弁官局が並立しており、元来は少納言局が判官・主典、弁官局が太政官から独立した性格を持つ品官として位置づけられたとする見方[1]や、反対に弁官局が判官・主典を構成しており、大納言―少納言は天皇への奏上・天皇からの奉勅を行う仕奉の役割を担った独自の役割であったものが大宝令によって初めて四等官に組み込まれたとする説がある[2]。後に、議政官が実際の審議機関となったことによって少納言局の権限が形骸化する一方で、行政事務を管轄する弁官局の力が強まって、外記に対しても影響を行使するようになったとされている。やがて少納言局から外記局が分立し、少納言局・左弁官局・右弁官局・外記局に属する官人は政官(じょうかん)と称された。地方官も左右弁官局の共同管理下に置かれている。

官位相当

庁舎

太政官の庁舎は「太政官庁」または「官庁」と呼ばれ、大内裏の中の八省院の東に置かれた。

太政官庁は天皇の即位礼の会場であったことから、鎌倉時代に大内裏が荒廃して太政官の機能が内裏に移された後も設備の一部は引き続き再建・存続し続けていたが、応仁の乱で残された施設も焼失して朝廷には再興する費用がなく、後柏原天皇の即位式の際には内裏を大内裏に見立てて実施されてそちらが慣例化したため、再建されることがなくなった[3]

唐の律令制との違い

古代中国では、八省の上にあってこれを統括し、また皇帝を補佐して政策を審議する機関のことを「台閣」と呼んだ。日本でも律令制が導入されて太政官が八省の上に置かれると、政策決定機関である議政官のことを特に唐名で「台閣」(たいかく)と呼ぶようになった。この呼称は明治の太政官制にも引き継がれ、やがてこれを言い替えた「内閣」を中心とする内閣制度が、1885年に太政官制に取って代わった。

唐の律令制では、中書・門下・尚書の三つをひっくるめて、太政官と呼称したが、この尚書の中の一つの部に神祇祭祀を司る「祠部」があるものの、日本のように神祇官と太政官の二つを置いて、並列した官として扱っているわけではなく、この点が異なることからも、日本の太政官(および神祇官)はオリジナルの律令である[4][注釈 1]。このことは、日本が中国律令制をそのまま導入したのではなく、国風実情に合わせて日本律令を形成していったことを示している。

近代

歌川広重 (3代目)による太政官所、駅逓寮、元老院議事堂。
太政官の印

太政官(特に「だじょうかん」と読み分けられる)は、明治維新が開始された慶応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された最高行政機関である。立法行政司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。明治18年(1885年)に内閣制度の発足に伴い、廃止された。

官制

慶応4年から明治18年に至る期間は、官制の改廃が著しく、常に一定しない。官制は大要、下記のように改編された。

三職

慶応3年旧12月9日1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると同時に戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い)が始まり、依然として強力な政治体制を維持していた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府征夷大将軍摂政関白に代わるものとして、総裁有栖川宮熾仁親王)、議定皇族2名・公卿3名・薩摩尾張越前安芸土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任命された。

慶応4年(明治元年)1月には、この下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七科とし、当面の政務に当たることになった。翌2月には、科を局として総裁局を設置し、三職八局とした(なお、海陸軍科軍防事務局と改称された)。総裁局には副総裁を置き、議定の岩倉具視三条実美をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。

『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から始まっている[5]

二月十四日 午の半󠄁刻より申の刻までに 大坂西本願寺に於󠄁て

醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し

但 外國事務係 及󠄁び 諸󠄀藩家老列座

東久世殿發話 我日本 政體復古

帝󠄁自ら政權を握し 外國の交󠄁際も 一切朝廷󠄁にて曳請󠄁 裁判󠄁致可 … 
— 『太政官日誌』第一

また当時の法規は『太政類典』に見ることができる。

政体書

慶応4年旧閏4月21日(1868年6月11日)、副島種臣福岡孝弟の起草による、基本法ともいえる政体書(慶応4年太政官達第331号)が、太政官の名で布告された。政体書は、新政府の政体を「五箇条の御誓文」に基づくものとし、権力分立官吏公選府藩県三治制などについて規定している。この政体書に基づいて旧閏4月27日6月17日)、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとした。

政體(慶應四年太政官達󠄁第331號)
(略)
一 天下ノ權力總テコレヲ太政官ニ歸ス則チ政令二途󠄁ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ權力ヲ分󠄁ツテ立法司法行政ノ三權トス則偏󠄁重ノ患無カラシムルナリ
一 立法官ハ行政官ヲ兼󠄁ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼󠄁ヌルヲ得ス但シ臨時都󠄁府巡󠄁察ト外國應接トノ如キ猶󠄁立法官得管之
(略)

三職のうち総裁が廃止されて(当時熾仁親王は江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相(ほしょう)と称して事実上の政府首班に就いた。立法権を司る議政官は、議定・参与からなる上局と諸藩の代表(貢士)からなる下局から構成された。行政権を司るのは、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(官庁)からなる五官であり、特に行政官は輔相を長として他の4官を監督する役割も担った。三権を担う官の内司法権を扱う刑法官は、実際には4官同様、行政官の監督を受けていたため、司法権の独立は形骸化した。さらに、輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあったため、権力分立は形ばかりとなっていた。

戊辰戦争終了後の明治2年(1869年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置付けられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。

明治の太政官制

こうした政治情勢の変動に対応して、明治2年7月8日(1869年8月15日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院弾正台集議院大学校などの諸機関が置かれた。

また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は明治天皇に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔は従三位、少輔は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の位階が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については勅任奏任判任と改称されることになった。

だが、蓋を開けてみると右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則がついたのを始めとして主要官職を皇族と公家が独占して、わずかに参議に前原一誠・副島種臣、民部卿に前福井藩主松平春嶽(慶永)が武士階層から選ばれただけであった。保守派の画策によって木戸孝允大久保利通板垣退助らは閑職であった侍詔院学士に追いやられてしまったのである。これに反発した岩倉は、三条と相談して大久保と広沢真臣(後に佐々木高行も加えて)を追加任命して巻き返しを図ったのである。

こうした中で問題となったのは、民部省と大蔵省の合併問題であった。徴税機構と財政機構の一本化を目指して明治2年8月11日に両省を合併、民部卿松平春嶽が大蔵卿を、大蔵大輔大隈重信民部大輔を兼任した。今度は中央集権体制の確立を急ぐ木戸の支持を得た大隈や大蔵少輔伊藤博文ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らはこうした動きに対して、新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、他の参議や地方官と結んで大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。これには、大蔵省の管轄が広くなりすぎて、目配りが利かなくなり不効率になったことと、大蔵省の地方官が徴税徴兵令(予定)に対して農民に十分な説明を怠り、不満の声にも十分な対応をせず、結果、全国各地で農民騒乱が多発していたことが念頭にあった。大蔵省の地方官の中には、旧殿様気分で民情への配慮に欠ける人物もおり、地方行政を管轄する省が必要との意見が大久保を中心に出ていた。明治3年7月10日1870年8月6日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。

だが、最終的に両派の間で妥協が成立して、明治3年10月20日1870年12月12日)に殖産興業を専門に扱う工部省の分離と引き換えに、明治4年7月27日1871年9月11日)に民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは木戸への妥協という政治的事情だけでなく、新たに地方行政を統括する省のあり方を巡って、太政官内部での意思統一が出来ていなかったことと、大久保が旧来の民部省ではなく、自身が密かに青写真を描いていた内務省を新設して、内政全般を統括させることを考えていたからである。

明治4年に入ると廃藩置県に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を御親兵として集めるとともに、郷里に帰っていた西郷隆盛と板垣退助を呼び戻した。

廃藩置県後の官制

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が断行された。ほぼ前後して司法省文部省が設置され次いで正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置され、神祇官が神祇省に格下げされるなどの改革が断行された。更に同時に人事面でも改革が進められ、太政大臣に三条、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉と万里小路博房が政府内に留まったものの他の公家・諸侯は悉く職を免ぜられ、旧来通りの宮中の女官の排除も行われた。更に位階制を廃止して15階からなる官等制(文官は3等・武官は4等以上を勅任官、7等以上を奏任官、それ以下を判任官とする)を導入した。これによって、天皇が親臨・親裁形式で太政官以下を率い、三大臣がこれを輔弼して参議・卿を指揮する(従って参議以下には輔弼責任はなかった)という明治の太政官制の基本形式と薩長土肥出身者による藩閥の原点が確立した。

明治8年の官制

明治6年9月21日1873年11月10日)、大久保により「国内安寧・人民保護」をスローガンに、巨大官僚組織である内務省が設立される。大久保自らが初代内務卿となった内務省は、絶大な権力で内政を専管するだけでなく殖産興業政策を推進し、日本近代化のための司令塔として君臨した。西郷と木戸は政治活動における組織的基盤を持たなかったが、大久保は内務省と内務官僚という、自らが作り上げた官僚機構を基盤として、「維新のリーダー」のような強烈な個性で国を牽引するのではなく、組織や集団が着実に国の近代化を推し進める新しい政治スタイルへと転換させていった[6]

明治8年(1875年)1月、参議の大久保と伊藤博文は、征韓論などを巡って辞職した木戸と板垣に対し、参議に復職することを求めた(大阪会議)。同年2月に至り、立憲体制へ漸次的に移行することで一致し、2人の復帰が決まった。4月14日には立憲政体の詔書(太政官布告第58号)を発して、行政を担当する太政官・正院、立法を担当する元老院地方官会議、司法を担当する大審院を置く三権分立制の基礎を形作ると同時に、神祇省宮内省の所管となった[7]

省寮の構造は次のとおり[8]

中央省寮
地方(府藩県)

この体制は、明治18年に内閣制度が発足するまで続いた。

太政官制における法令

この時代に出された太政官布告・太政官達などの法令は、のちに制定された法令に矛盾しない限り、効力は存続するとされている[要出典]。現在でも、大日本帝国憲法下で法律としての効力があったと解される場合は、日本国憲法の内容に反しない限り、効力は存続していると解されている[要出典]

脚注

注釈

  1. ^ の律令制にも太政官という語は存在するものの、日本とは指す内容が異なる。

出典

  1. ^ 森田悌『日本古代律令法史の研究』第二部第一章第二節「太政官制と政務手続」、文献出版1986年。および大隅清陽『律令官制と礼秩序の研究』第一部第一章「弁官の変質と律令太政官制」、吉川弘文館2011年
  2. ^ 柳雄太郎『律令制と正倉院の研究』第一部第三章「太政官における四等官構成」、吉川弘文館2015年。柳は大納言・少納言の四等官編入によって右大臣は次官から長官に上昇し、四等官に組み込めなかった中納言は一時廃止されたとする。
  3. ^ 久水俊和「内野の太政官庁」『中世天皇家の作法と律令制の残像』八木書店出版部、2020年、ISBN 978-4-8406-2239-4、pp. 283-311。
  4. ^ 参考:小和田哲男『この一冊で日本の歴史がわかる!』三笠書房、1996年、p. 111。
  5. ^ 太政官日誌 第一(慶應四戊辰二月)』。国立国会図書館デジタルコレクション。
  6. ^ 佐々木克『NHKさかのぼり日本史4 : 明治「官僚国家」への道』NHK出版、2011年。
  7. ^ 神祇省は1872年、設置後半年で教部省と改称したが以後に廃止された。改称した際に一部分が分割され式部寮として残った。
  8. ^ 掌中官員録』西村組出版組、1875年(明治8年)。

関連項目

関連書籍