ノート:エーリンナ
受容セクションについて
この編集で利用者:Stella marisさんが日本語の漫画についての記述を削除されたのですが、受容セクションを作って以下の内容を記載することを提案します。既にノート:中島敦#ウィキペディアブンガク_中島敦などで議論になっていることですが、歴史上の文人がその後にどういう作品に登場しているかということは受容を知る上で重要な情報であり、きちんとした出典があれば書いてよいはずです。以下の内容を付加することを提案します。
- ページ上でも使われているシメオン・ソロモンの絵(これはテイトギャラリーに説明があります)
- マイケル・フィールドの詩 (これは出典にできそうな論文や紹介記事が複数あります。これやこれなど)
- 除去された日本語の漫画 --さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 04:28 (UTC)
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- ご提案、有り難うございます。しかし、別の方がどこかで述べられていましたが、似たようなことを感じます。それは、どの記事でもそうですが、記事を執筆する人、編集する人は、基本的な知識や教養が必要になるということです。出典と言っても、それがどの程度信頼できるのか、また資料としてどう扱えばよいのか、こういう作業のためにも、基本的な教養は必須で、出典さえあれば何を書いてもよいということではないのです。どうもあなたは分かっておられないようです。失礼な言い方かも知れませんが、わたしの主観的に感じます処では、どうもあなたは古代ギリシアや西欧古典学などの分野では、基本的な教養がないように思えます。つまり、何かお話ししても無意味なように思えます。
- 前回のアニュテーのときのやりとりがすでにありますので、尚更に感じます。あそこでは、あなたは完全に間違った翻訳をされたので、わたしは取り消したのですが、何が間違いなのかは述べませんでした。これは、記事編集が何か分かっていないか、または専門分野、古代ギリシア文学での知識の欠落を意味するのだと思いました。今回、その両方であると感じました。それ故、ご自分がよく知らない分野には今後関与しないで頂きたく伏してお願い致します。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)
- 付記しますと、この記事の元記事は、英語版の「良質な記事」で、どういう意味で良質な記事なのか、わたしは実に納得が行くのです(審議過程があります)。エーリンナの記事は元々書ける内容が限られているのです(フランス語版、ドイツ語版等を参照)。つまり、この記事は、英語版の実質「秀逸な記事」に該当するのです。良質な記事、秀逸な記事の改善、質の向上というのは、実に難しいです。知識と力量が必要になります。わたし自身、本文にはほとんど手を触れていません。「注釈」として追加説明を入れたのみです。それは、記事が非常に高度に完成しているからで、このような記事に簡単に手を出すことはできない。また何かを付け加えるにしても、よほどに深く考えて判断しなければならない。と言うことで、はっきり言います。あなたがどうこうできる記事ではありません。従って、再度述べますが、関与しないで頂きたくお願いします。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)
- まず、ノート:アニュテーでのやりとりについて「完全に間違った翻訳」とおっしゃっておられるのは完全なStella marisさんの主観であり、私は正直申し上げて"female Homer"を「女性ホメーロス」と訳すことのどこに間違いがあるのか全く理解できておりません(訳語の選定について見解の相違があるというのはそうでしょうが、これを「完全に間違った翻訳」扱いするのは単なるStella marisさんの趣味の問題だと思います)。また、「あなたがどうこうできる記事ではありません。従って、再度述べますが、関与しないで頂きたくお願いします」という発言は完全な記事の私物化であり、またWikipedia:礼儀を忘れないやWikipedia:個人攻撃はしないにも抵触していて、誰でも加筆できるウィキペディアの精神に反するものであると考えます。私は記事の充実を目指してセクションを増やすことを提案しただけであり、それに対してなぜ記述を増やすことがダメなのかに答えもせず、これは良質な記事で完成しているからこれ以上記事をいじるなという答えを返すのはWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#記事ごとに筆者が存在すると考えることやWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#意味のある記述を除去してしまうことなどにも抵触しています。一度こうした決まりを熟読し、ウィキペディアの記事は私物化してよいものではないということを認識して頂きたいと思います。--さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 10:16 (UTC)
- こんにちは、さえぼーさん。まず、決めつけるような言い方をしたことをお詫び致します。
- 完全な誤訳というのは、言葉が過ぎたと思いますが、これは、female Homer のことなどではありません。それは先のアニュテーのノートで言及していますので、違います。述べていない誤訳とは何か、というのは、これはいささか込み入った話なので、あえて述べていないのですが、こういうことが起こるとはわたしはまったく思っていなかった。
- わたしの翻訳が下手だとしても、明らかに知識がないと分かる人から、見当違いの添削など受けたことはまず記憶にありません。わたしの訳文や、文章はあるいは読みにくいかも知れませんが、それはわたしの文体というべきものです。何より、詩の翻訳をしていると思いますが、それを見れば、添削などする相手ではないと分かるように思うのですが。わたしは、何十年も翻訳を行っており、翻訳の初心者などではありません。
- それぞれの翻訳において、文体に特異性があるかも知れないが、それなりに完成した訳文を仕上げているつもりです。あなたから生徒や子供相手のような扱いを受けるいわれはない。他のウィキペディアンに対する「敬意」というものが、ここではガイドラインになっていますが、あなたのやりようからは、人を見下す傲慢な態度と不快感しか感じません。
- (他の人の訳文を、改善のため手を入れるのと、添削するというのは根本的に違うのです。この違いは微妙ですが、おそらく「敬意」が感じられるかどうかにあると思います)。
- なお、「関与しないでほしい」というのは明確な条件がついており、例えば、古代ギリシア文学について基本的な知識をお持ちでないなら、ということです。そうして、あなたはそういう基本知識を持っているようには見えないのです。(わたしは古代ギリシアの詩人の記事を、この一ヶ月で五件ほど翻訳で作成しましたが、基本的な知識というのは、こういう作業ができるかということです。これらの記事は、誰からも、意味不明とか、翻訳になっていないと言うような指摘は受けていません。あなた以外の人からは)。
- わたしは、翻訳で記事を作成して感謝されたことはあるが、こんなひどい侮辱を受けたことはありません。あなたの態度は、思い上がりで他人を見下しているとしか思えない。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)
- Wikipedia is neither a room for translation seminar nor a place for pragmatic English-Japanese translation lessons, and I am not a student whom receives the guidance and instructions from you.
- You just seem to be a non-purpose user.--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)
- Stella marisさんはウィキペディアの記事の翻訳ということについて完全に勘違いをしておられるのではないかと思います。Wikipedia:記事の所有権にあるように、「何人も――どんなに熟練していて、コミュニティ内でどんなに高い地位にあろうと――ある記事を所有しているかのように振る舞う権利はありません」。専門家や初稿執筆者であっても記事を所有することはできませんし、他の人が改善のために加筆をしているのであれば許容しなければならない場合のほうが多いはずです。このガイドラインでは、「あなたには、この記事を編集するにふさわしい資質があるといえるのでしょうか?」とか「あなたは明らかに、このテーマについての実務経験が不足している」とか「この記事を見た限り、問題はまったくないと思います、この記事を変更する必要は全くありません」といった発言が記事の私物化の例としてあげられていますが、Stella marisさんはこの3つに該当する発言をこのノートでしておられます。Wikipedia:記事の所有権を再度、一読することをおすすめします。
- なお、私はStella marisさんが書いた文章が「意味不明とか、翻訳になっていない」などということは一切言っておりませんし、また思ってもおりません。アニュテーではごくわずかな編集しかしておらず、いずれもノート:アニュテーで説明したように、いきなり半角数字が出てくると読みづらいとか、多少読みやすくなるだろうと考えてやっただけのものです。私は新着記事に推薦されているような記事については多くのものについてこういうことをしております。ウィキペディアはみんなで記事を良くしていくプロジェクトなので、自分が書いた文章が人に読まれて直されるというのは全く当たり前のことでしょう。私は自分が翻訳した記事について他の方が冷静な目でチェックや修正をして下さるのは大変ありがたいことだと思っていますし(自分だけで文章を書いているとよくわからなくなることもありますので)、明らかな誤訳になるとかならともかく、そうでなければ感謝をしています。また、エーリンナではそもそもStella marisさんが書いた文章には一切手を付けておりません。書き足しただけです。
- また正直、翻訳や文章の表記をいじることと「古代ギリシア文学について基本的な知識」の関連がわかりかねます。そもそも数字の表記とか読みやすさのために文を数語程度変えたり、エーリンナに新しいセクションを作って後世の受容がわかる作品を3つくらい書き加えようという提案に「古代ギリシア文学について基本的な知識」はほぼ関係ありませんので、おっしゃることには筋が通っていないと思います。--さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 16:58 (UTC)
コメント お二方ともこんにちは。議論に水を差す形で恐縮ですが、一点だけ、Stella marisさんに 質問させてください。結局のところ、Stella marisさんは、受容セクションの設置について許可なのでしょうか、それとも不許可なのでしょうか。お答えいただければ幸いです。許可していただけた場合、私のほうで本ノート冒頭のさえぼーさんの提案内容を加筆しておきます。
(この質問自体、Wikipedia:記事の所有権からしてナンセンスな質問なのですが、編集合戦になったら嫌なので一応確認させてください。)
また、Stella marisさんにおかれましては、以下の情報も参考材料としてご査収ください。当該の漫画の作者の方は、リュラの再現奏者としても著名な方で、2017年の日本西洋古典学会などにも登壇しています[1][2]。その際に、漫画の作者であることも明言されています[3]。つまり要するに、当該の漫画は、西洋古典学の専門家の方々も認知している著名な漫画ということです。ですので、記事内のコメントで心配されているような宣伝目的の問題に関しては、問題ないと思います。--Vetalapancavimsatika(会話) 2020年7月24日 (金) 19:03 (UTC)
- まず答えの前に、記事の私物化とか、何を言っているのかということになります。古代ギリシア文学について、知識を持ち、記事を精査して、どのように記事を発展させるのが良いか、相談できる人たち、つまりプロジェクトを立てるに必要な人がいるなら、プロジェクトを立てて、そこで様々に議論したり提案し合ったりして、方針を決めるのです。この場合、3,4人のプロジェクトで、記事あるいは記事群の発展についてプロジェクトを造って活動しているということで、記事の私物化などではない。ところが、現実に、そういう人員、人材がいないのが日本語版なのです。そのため、わたしが私物化しているかのように見えるだけです。ガイドラインは、英語版にあるガイドラインを日本語に翻訳して導入しているだけだと思いますが、英語版のガイドラインは英語版では、かなり有効に働くが、日本語版では有効に働かない。こういう現実があります。(何故、うまく働かないかというと、知識を持った編集者の層が、英語版ではかなり厚いが、日本語版では、薄いか、またはまったくないという現実があるのです)。
- そこで質問に対する答えですが、わたしは、はっきりと答えていますし、その理由も明確に述べています。答えは、もっと深い考察や、配慮が必要だと、そう述べた通りです。つまり、記事をどうするか、エーリンナの場合は、もっと寝かして日本語版で、なじませる必要がある。こういう過程で、どういう記事かということも、冷静に見ることができるようになる。つまり、何か編集を加えるにしても、急ぐことはない。むしろ、急ぐと、ネガティヴな結果になることが多いと思う。また、何故そんなに記事の新規編集をしたがるのか、理解できない。先にプロジェクトと述べましたが、これはプロジェクトの問題になっているのが本当の処である。つまり、数ヶ月、一年、二年というような時間スパンで考えることで、今日、明日、一週間以内とかに、どうこうする必要などどこにもない。この記事の場合は、慎重に対応する必要があるのは、これは本当に良質な記事で、実に見事にできています。下手に触ると、壊れてしまう。そして壊れると、日本語版では、元の水準に戻すのは難しい(どうして難しいのか理由があるのですが、これは考えてください)。この記事は、必要なことはすべて書かれており、記述のバランスも実に見事になっている。また簡潔明晰な表現になっていて、いささか簡潔すぎるのではないかとも思いますが、それは足りない簡潔さではなく、明晰さの簡潔さだと思います。わたしは、この記事に、別の画像を貼ってみたのですが、(プレビューで見て)、サイズとかキャプションとか色々と考えて試してみたが、英語版で、簡潔になっている理由が逆に分かったようにも思います。つまり、実際に貼ってみて、色々と吟味した結果、これは何もない方が、記事として完成していると思った。微妙な話なので、違う意見の人もいるかも知れないが、わたしの意見では、これは簡単にはさわれないということです。従って、記事は寝かして、この記事を編集しようと思う人がいたら、記事が何なのか、十分に理解できるまでなじんでいただくのが望ましい。すでに述べたように、何故編集を急ぐ必要があるのか分からないです。現在の記事でも、漫画でエーリンナを知った人が検索すると、記事がある。それを読むと、色々なことが分かる。当面は、それで十分ではないか。「注釈」で色々な背景説明をしているので、実は英語版よりも詳しい記事になっている。ただし、本文は英語版にほぼ忠実な形になっている。これだけ完全な記事だと、何を加えても余分なものにしか見えない。それが分かるには、記事になじまなければならない。いまの認識だと、何をしても記事は劣化する。「注釈」を増やすというのはあると思う。しかし、この記事は、非常にレヴェルが高い記事で、高校生が読んですぐ分かるようなものではない。大人でも分かりにくい。何度も読んでいると、分かってくるか、あるいは理解が進む。英語版の記事は、明らかに、西欧古典学の知識を持った人を読者として考えている。また、それぐらいの高いレベルでないと記事が成立しない。
- 英語版ではガイドラインがある程度うまく働くという理由を少し述べます。英語版で、幾つかの関心のある秀逸な記事をウォッチに入れていると、その編集状態が分かる。秀逸な記事でも編集する人はいるのです。ところで、誰かが編集すると、すぐにか、一日以内程度には、もし削除が行われる場合は、それが起こる。他方、削除されないで維持される編集もある。この削除される編集と、維持される編集で、どういう違いがあるのか差分で調べると、削除されない編集は、記事にとって有益な加筆か、記事のバランスを乱さないものである。他方、削除されるのは、荒らしか、または確かにそんな加筆は不要だとか、その削除は行ってはならないと、納得の行くものになっている。ここから考えると、英語版の秀逸な記事には、20人ぐらい、常時監視しているというか、編集をチェックしている人たちがいると考えざるを得ない。つまり「どしどし編集してください」とかガイドラインにあっても、有効な、あるいは有益な編集は残るが、そうでないものは、どしどし削除される。つまり、10人か20人かそれ以上か、かなりに高度な知識を持つ人たちが、こういう風に監視・チェックしているので、記事の劣化は起こらない。また大きな規模の編集は、それなりに認められた人、あるいは多くの人が納得の行くような編集でないと、受け入れられない。つまり、「大胆に編集」しても記事は劣化しない。「知識のない人」が編集しても、それが受け入れられものなら残るし、受け入れられなければ削除される。英語版に常駐していた頃があり、半年か八ヶ月か、こういう風にウォッチしていて、つくづく感じたのは、英語版は優れた人材が大勢いるという実感です。層が非常に厚い。また、良質な記事の場合、人数は少ないが、やはり、こういう風に記事をウォッチしていて劣化を防ぐグループがいる。
- 英語版では、多数のポータルがあり、すべてではないが、ほとんどの記事が、重要度評価や品質評価を受けている。日本語版では、これはできない。「プロジェクト:スポーツ」で、重要度と評価のシステムを持っていたが、機能しないので廃止となった。関連カテゴリすべてが、いま削除依頼に出されているか、削除されたかも知れない。「良質な記事」カテゴリやテンプレートがあるプロジェクトは、日本語版では、五つぐらいのプロジェクトしかない。そのなかの一つは、最近、わたしが発足させた、「良質な記事クラスのギリシア神話記事」です。プロジェクトが低迷しているので、わたしがいるあいだに造っておこうと思って造った。ギリシア神話関係の全記事への品質評価など、まず無理でしょうし、評価した後、メンテナンスができない。
- というように書きましたが、英語版ではうまく行くことが、日本語版ではうまく行かない。評価システムは、フランス語版ではそれなりに機能していたと思う。民族の気質や性格の問題かも知れない。フランス語版も英語版も、新規記事は、必ずどれかのポータルの管轄のもとにおかれる(新規記事が作成されると、ポータルが貼られていない記事は誰かが貼りにやってくる)。ドイツ語版はどううなっていたのかはよく知らない。フランス語版は、そんなにユーザーがいないと思うが、コミュニティは機能している。日本語版は、コミュニティなど機能していない。これぐらいにしておきます(non revoir, farewell)。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 23:02 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。私としてはノーコメントということでお願いします。すみません。--Vetalapancavimsatika(会話) 2020年7月25日 (土) 00:24 (UTC)
- 条件付賛成 受容の節を設けた例として挙がっている中島敦の2019年 良質な記事選考にて投票参加した者です。今回のエーリンナについても受容の節を設け、現代社会でどのように解釈されて二次的著作物が創作されているのかを語るのは、百科事典として重要と思います。ただし賛成に条件をつけます。さえぼーさんが受容節を書き足した初回編集を拝見しましたが、これだと単なる箇条書きに過ぎず、主題であるエーリンナの解説につながっていないことから、ここだけ浮いていて違和感があります。このような記述を1件書き足すと、他ユーザは少しでもエーリンナの単語が使われていたら追加列記し始め、記事の質をどんどん落としていく懸念があります。したがって、以下のようなイメージでしっかり文脈を持たせて解説を加えて頂ければと思います。
エーリンナを主人公とした日本の漫画『うたえ! エーリンナ』(YYYY年ツイッター配信開始、YYYY年星海社よりウェブ単行本化) は、エーリンナが古代ギリシアの女学校に在学して詩人を目指す青春物語である。同校の教師には、実際にエンリーナに影響を与えたとするサッポーが登場するなど、史実を尊重した設定となっている。作者の佐藤二葉は漫画のプロットを考案するにあたり、エンリーナの生涯を解説した書『○○○』を参考にしたと語っている。また、主人公のキャラクター作りにあたってはエーリンナの『糸巻棒』を参考にしている。『糸巻棒』は悲嘆詠唱の作品とされるが、これを佐藤は「少女時代の私的体験の結果」と仮定し、漫画の中では女学校で数々の悲嘆に遭遇するエピソードを盛り込んでいる。
- まぁ、これは完全に空想で書いているイメージです。この漫画家はエーリンナについてある程度の造詣の深さがあるようなので、佐藤二葉がどうやってキャラ作りやプロット作りをしたのか、そしてそれは実在のエーリンナのどの部分を解釈したのかなどが語られたインタビュー記事などが出典で見つかれば、きちんと書いてほしいなと思います。でなければ、主題である実在のエーリンナの理解を深めるための百科事典記事から遠ざかってしまいますので。
- 佐藤の漫画よりも、マイケル・フィールドの詩の方が出典が見つかりやすいようでしたら、先にフィールド分だけ下書きしてみてイメージの擦り合わせをしていく方が効率的かもしれませんね。--ProfessorPine(会話) 2020年7月25日 (土) 01:26 (UTC)
- ProfessorPineさんのおっしゃるとおり、1行程度では不足だというのはそのとおりです。今だと漫画から検索で来る人のほうが多いだろうと思いましたのでとりあえず付け加えて(「エーリンナ」でグーグル検索すると「エーリンナ 実在」というのが関連ワードで出ます)、後でソロモンの絵などについてもぼちぼち加筆して増やそうと思っていたのですが、その前にセクションが削除されました。『うたえ!エーリンナ』についてはBlogos(及びそのもとになった「スゴ本」)と歴史の呼び声にレビューがありますが、スゴ本も歴史の呼び声もよく読まれている書評ブログと歴史ニュースサイトではあるものの、このあたりを信頼できる情報源として使用出来るかというと疑問です。--さえぼー(会話) 2020年7月25日 (土) 02:20 (UTC)
- 人気のある漫画だけに、逆に中途半端に「エーリンナ#受容」で漫画のことを言及してしまうと、Wikipedia編集方法を知らない読者ファンがネット検索経由でやってきて、「エーリンナはギリシャ人なのに漫画では日本のおにぎり食べてる」「エーリンナはドジっ子」みたいな、どうでもいいトリビアを書き足す人が出てきそうな気がします...。なので「受容」の意義がしっかり伝わるよう、まずはフィールドの詩など別ネタで書き方の雛型を整えた方が良いのではないでしょうか。その上で、『うたえ! エーリンナ』関連の有意な出典を探した方が手間がかからないと思います。
- 『うたえ! エーリンナ』に関してWP:RSに合致する第三者言及を探すのが難しければ、佐藤二葉氏のブログなど一次資料を使うのも今回のケースであれば問題ないかなと思います。というのも、今回は『うたえ! エーリンナ』という作品そのものの評価を大々的に解説する必要はなく、『うたえ! エーリンナ』という作品と実在人物の関係性を作者がどう解釈・表現したのかに重きが置かれるからです。仮に今のブログに上述イメージのような創作背景や着想について書かれていなくても、Twitter @baccheuo にコンタクトして、こういう創作秘話をブログに書いてくれとリクエストする裏の手も使えるかもしれません。あくまで加筆作業の進め方の一案ですので、どうぞご参考程度に。--ProfessorPine(会話) 2020年7月25日 (土) 03:50 (UTC)
- とりあえずサンドボックスで受容セクションの下書きを書き始めましたが、調べてみるとドイツなどでもエーリンナを扱った作品があるようで、もう少し19世紀頃の受容について包括的に書く方向性でいきたいと思うようになりました。このため、資料探しにもう少し時間がかかると思います。--さえぼー(会話) 2020年7月29日 (水) 04:38 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 7月26日版サンドボックスを拝見しました。出典に使っているのが沓掛良彦氏の書籍ですし、WP:RS上も全く問題ないですし、場合によっては受容節以外にも加筆できる要素が拾えるのではないでしょうか? また、フランスだけでなくドイツ作品も文献が見つかりそうとのこと。加筆を首を長くしてお待ちしています。--ProfessorPine(会話) 2020年7月29日 (水) 23:35 (UTC)
- 返信 (Stella marisさん宛) 「エーリンナの現行版全体構成から浮いた1文加筆編集だった」という点においては、Stella marisさんと私の評価は一致しています。ですが当ノート上でのアプローチは全く異なります。Stella marisさんはノート上の論点である受容節を設けることの要否を論ぜず、過去の別案件を蒸し返しただけになっていて、総計1万5千バイト超も使って記事の発展には何らつながっていません。何が私のアプローチとの違いを生んだかというと、さえぼーさんが当ノート冒頭で提示した「ノート:中島敦#ウィキペディアブンガク 中島敦」そして、「中島敦」がGA通過する様をStella marisさんが読んで、過去から学ぼうとしなかった姿勢にあると思います。もしこれらに目を通していれば、「記事が非常に高度に完成している」なんて言葉は出てこなかったはずです。英語版の「Good」Articleは比較的審査基準が緩いので、日本語版の「良質」な記事の水準だと通過しないものが多いのです。しかも残念ながら、現行版のエーリンナでは訳語のかたい箇所が多くて読みづらさを感じます。誰もが自分は完璧でないと認識し、他者からアイディアや情報を引き出そうとする前向きな姿勢がないと、Wikipediaでの共同執筆作業は難しいと思います。
- なお、記事のコメントアウトで除去理由を書き込む行為も不適切利用でしょう。私でしたら、さえぼーさんの初期編集は残したままで{{疑問点}}テンプレートを挿入し、詳細議論はノートで行ったと思います。今後同じようなケースがありましたら、トラブル回避の手段としてご一考下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月29日 (水) 23:35 (UTC)
- 利用者:さえぼー/sandbox2に受容セクションの下書きを作りました。1週間ほど置いておきますので、コメントがありましたらなんでもこちらに書いていただけますと幸いです。あまりないようでしたら1週間後にこちらの記事に追加いたします。--さえぼー(会話) 2020年7月30日 (木) 05:38 (UTC)
- さえぼーさん、大変お疲れ様でした。受容の下書きは執筆の完成度が高いので大して言うことないです。先に細かいことだけ。(1) 時系列で並んでいるようなので、第1段落のメーリケは「ドイツロマン主義の詩人...」の手前に「19世紀中期に活躍した」みたいに時間軸が分かるようにすると良いと思います。(2) 最終段落は「2017年の8月より...」の手前に「日本においては」を入れると、時空情報が全ての段落で揃うのでバランス良いかと。(3) 出典に使った筆者のうち、沓掛良彦はページがあるので内部リンクを (これは現行版でも沓掛 (1994) が使われているのですが、他著者は{{Sfn}}を使っているのに、なぜか沓掛だけベタ打ちで参考文献節に飛ばないエラーになっていますので、ついでに直して貰えると大変助かります)。
- ここからが本題なのですが、約1万バイトの加筆となると、全体的に少しいじった方が良いでしょう。とりあえず気づいたのが、2点。(4) まず、導入節でも軽く受容について触れておいては? (5) あと「#評価」節では第2文で「現代にあっては、エーリンナはほとんど知られていないが」(West 1977, p. 95.) となっていますが、これは受容節と矛盾するので要調整でしょうか (そもそも1977年の書籍を使って「現代」という書き方がWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに適合しませんし)。--ProfessorPine(会話) 2020年7月30日 (木) 08:56 (UTC)
英語版からの履歴継承不備
今更気づいたのですが、英語版からの履歴継承に一部不備があります。Stella marisさん新規立項時の要約欄に translation: [[en:Erinna]] 22:43, 27 April 2020
と書かれているのですが、タイムゾーン (デフォルト設定ならUTC) が抜けています。「Wikipedia:翻訳のガイドライン#翻訳記事の投稿の手続き」で示されているように、タイムゾーンまで指定しないと、どの版なのか一意にならないため日時指定の場合はタイムゾーンも必須です。
ただし今回のエーリンナに関しては、英語版の編集履歴一覧を見ると4月27日の前後24時間に編集したのは「22:43, 27 April 2020 (UTC), oldid=953573667」の版しかないため、UTC抜けでも「たまたま」一意になります。よって、版指定削除依頼までは不要と私は判断します。が、この判断が正しいか念のため「Wikipedia:利用案内」で確認とっておきます。
@Stella marisさんにおかれましては、他にも英語版からの翻訳を手掛けておられるようなので、以下の対応をお願いします。
- まず、エーリンナについては、念のため要約欄で履歴継承の補遺をしておいた方が良いでしょう。「Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入忘れ・誤記入」をご参照下さい。
- 同様にタイムゾーン抜け漏れを起こした翻訳案件がないか、ご確認の上、履歴補遺をお願いします。
- 一意にならない場合は、「Wikipedia:削除の方針#ケース_B-1:著作権問題に関して」に該当しますので、削除の方針をお読み頂いた上で、ご自身でケースB-1事由で「Wikipedia:削除依頼」をご提出下さい。削除依頼の書き方は複雑なので、最初は分かりづらいかもしれませんが、翻訳を手掛ける人は少なからず履歴継承ミスでケースB-1の依頼を出すこともあるでしょうから、覚えておいて損はありません。--ProfessorPine(会話) 2020年7月31日 (金) 02:24 (UTC)
UTC抜けはやりがちなので、私はいつも [[:en: Special:Permalink/953573667|en: Erinna]] (22:43, 27 April 2020 UTC, oldid=953573667) から翻訳
のように記入しています。「en: Erinna (22:43, 27 April 2020 UTC, oldid=953573667) から翻訳」と表示され、リンククリックすると特定版が表示されます。便利ですので今後ご活用下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月31日 (金) 02:24 (UTC)