金子真人
金子 真人(かねこ まこと、1945年3月15日 - )は、日本の実業家、馬主。株式会社図研の代表取締役社長、ハワイの会員制ゴルフ場「キングカメハメハ・ゴルフ・クラブ」のオーナーなどを務める。
機械メーカー勤務を経て、1976年に電子機器設計・製造関連ソフトウェア開発を主とする図形処理技術研究所(後の図研)を創業。一介のベンチャー企業から1994年には東証一部上場を果たし、CAD/CAMシステムを手がける企業として国内最大手[1]の存在に成長させた。競走馬の馬主としても知られ、中央競馬で「七冠」を制し殿堂入りしたディープインパクトなど数々の活躍馬を所有。個人馬主としては初の記録である旧八大競走完全制覇を達成している。
経歴
早稲田大学教育学部数学科を卒業後、設計製図機械を製造する武藤工業に入社[2]。当初は希望と異なる営業部に配属されたが、入社初年度から全国支店のセールスコンペでベスト10に入るなど優秀な営業成績を挙げる[2]。しかし単調な営業の仕事に嫌気が差し、間もなく辞表を提出したが、専務直々に慰留されてコンピュータ開発部門への転属が叶った[2]。当時の武藤工業の製図機械はアナログによるものだったが、コンピュータによる自動製図機械の開発にも乗り出しており、金子も技術者としてこれに携わり、造船・地図作成用の自動製図機の商品化に成功した[2]。
その後、金子は販売した製図機の技術指導のため全国の取引先を回っていたが、機械(ハードウェア)をより効率的に運用できるソフトウェアを求める取引先に対し、会社は「ソフトウェアはサービス」であるとして、そうした要求を軽視しており、金子はその姿勢に疑問を抱き始める。そうした最中の1975年、晴海で行われたビジネス展示会を訪れた金子は、アメリカの企業が出展したIC回路製図用のCAD/CAMシステムの精巧さに驚愕する。金子は自社でもシステム開発に乗り出すよう訴えたが容れられず、独立してソフトウェア開発の会社を興すという考えに至った[2]。そして1976年11月、志を同じくした社内の部下4人と共に武藤工業を退社[2]。同年12月17日、「図形処理技術研究所」を創業した[2]。この社名はハードウェアとしてのコンピュータではなく、処理技術、つまりソフトウェアを開発する企業であるという明確な意図が込められていた[2]。
ソフトウェアは成長の端緒についたばかりの新興産業であり、その先行きは極めて不透明であったことから、引き抜いた社員については家庭を守る責任のない独身者を選んだという[2]。当初の社屋は神奈川県横浜市磯子区に見出した塗装店の2階にあった[2]。金子は社員らと中古の印刷機で刷ったホチキス留めの事業説明書を携えて会社回りを続けたが、CAD/CAMシステムについての社会的認知は乏しく、最初の半年ほどは全く相手にされなかった[3]。武藤工業で築いた人脈も「武藤工業の金子真人」ではなくなったことで役に立たなかったという[3]。
400にも上る会社から断られ続けた末、電子回路の焼き付け原版を製造する中堅企業・進映社よりはじめての発注を取り付け、半年後に納入。この「CR-1000」は日本国内で製造された最初のCAD/CAMシステムであった[3]。そして進映社を通じて、図形処理技術研究所の名はエレクトロニクス系企業の間で徐々に広まっていった[3]。それでも当時は多くの企業にとって「聞いたこともない会社」であり、両者の接触は、企業が信用調査を依頼した興信所からの面接要求という地点からの出発であった[3]。金子は松下電器、ソニーといったエレクトロニクス先進企業の技術者に接触して「CR-1000」についての意見を求め、汲み取ったアドバイスを元に、1978年6月に改良版「CR-2000」を発売。このシステムはケンウッドをはじめ、意見を求めた松下、ソニーにも採用されたことで大きな注目を集め、図形処理技術研究所の経営基盤確立に大いに貢献、10年以上に渡り主力商品であり続けた[3]。
1980年頃からは「CR-2000」を擁してアメリカ進出を図り、製品開発に使用していたプロッターを生産するカルコンプ日本支社長の勝部迅也を営業本部長として迎え入れる。そして勝部を通じてヒューレット・パッカード(HP)との業務提携を取り付け、アメリカでの販路を開拓した[4]。1983年にはより積極的な販路拡大に取り組むため、現地法人「ズケン・アメリカ」を設立。1985年には日本でも商号を「図研」に改めた[2]。1988年には、アメリカで広く普及していたオペレーティングシステム(OS)・UNIXを用い、移植性の高いC言語で開発した「CR-3000」でIBMとのOEM契約(相手方ブランドによるソフトウェア販売)を勝ち取った[4]。
その後も図研は順調に成長を続け、1991年10月、株式公開し東証二部上場を果たす。このとき金子は約400人の社員に50株ずつを無償で贈与した[5]。さらに1994年9月には東証一部上場企業となった[6]。
2004年、ハワイのマウイ島にあるゴルフ場を1250万ドルで購入し、4000万ドルをかけて改装し、愛馬の名前を冠した「キングカメハメハ・ゴルフ・クラブ」をオープン(開業は2006年)[7]。
馬主活動
金子は競走馬の馬主としても著名である。1990年代の半ば頃までは馬券すら知らない人物であったが、知人から馬を持つことを勧められ、ノーザンファームの吉田勝己を紹介されたのがきっかけとなった。金子は吉田の意欲と現代感覚に「パートナーとして信じられる」と感じ、また牧場の広大な風景にも感銘を受け、馬主として競馬界に参入した[8]。勝負服色は図研のコーポレートカラーを用いた「黒、青袖、黄鋸歯形」[8]。馬主名義は2005年秋ごろより個人名から「金子真人ホールディングス(株)」としている。
GI・JpnIに優勝したものに限ってもブラックホーク、トゥザヴィクトリー、クロフネ、ユートピア、キングカメハメハ、ディープインパクト、カネヒキリ、ピンクカメオ、アパパネ、ラブリーデイ、マカヒキといった馬を所有。2015年にはサンデーレーシングに次ぐ史上2例目、個人馬主としては初の記録である旧八大競走完全制覇を達成している[9]。馬は自ら選んで決めるといい、「おまえに馬が分かるかと決めつけられればそれまでだけど、私も競馬にはまって、だんだんと深みにはまった。わからないことをわかろうとしたいというのが深みで、そうでなければつまらない」と述べている[8]。
所有馬
GI・JpnI競走優勝馬
- ブラックホーク(1999年スプリンターズステークス 2000年安田記念など重賞5勝)[10]
- クロフネ(2001年NHKマイルカップ、ジャパンカップダートなど重賞4勝)[11]
- 2001年度JRA賞最優秀ダートホース[11]
- トゥザヴィクトリー(2001年エリザベス女王杯など重賞4勝)[12]
- 2001年度JRA賞最優秀4歳以上牝馬[12]
- ユートピア(2002年全日本2歳優駿 2003年ダービーグランプリ 2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯など重賞6勝)[13][注 1]
- キングカメハメハ(2004年NHKマイルカップ、東京優駿など重賞4勝)[14]
- 2004年度JRA賞最優秀3歳牡馬[14]
- ディープインパクト(2005年皐月賞、東京優駿、菊花賞 2006年天皇賞・春、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念など重賞10勝)[15]
- カネヒキリ(2005年ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、ジャパンカップダート 2006年フェブラリーステークス 2008年東京大賞典、ジャパンカップダート 2009年川崎記念など重賞9勝)[16]
- ピンクカメオ(2007年NHKマイルカップ)[17]
- アパパネ(2009年阪神ジュベナイルフィリーズ 2010年桜花賞、優駿牝馬、秋華賞 2011年ヴィクトリアマイル)[18]
- ラブリーデイ(2015年宝塚記念、天皇賞・秋など重賞6勝)[19]
- 2015年度JRA賞最優秀4歳以上牡馬
- マカヒキ(2016年東京優駿など重賞2勝)[20]
その他重賞競走優勝馬
- ブラックタキシード(1999年セントライト記念)[21]
- シルヴァコクピット(2000年きさらぎ賞、毎日杯)[22]
- ブロードアピール(2000年シルクロードステークス、根岸ステークス 2001年かきつばた記念、プロキオンステークス、シリウスステークス 2002年ガーネットステークス)[23]
- ホットシークレット(2000年ステイヤーズステークス 2001年目黒記念 2002年ステイヤーズステークス)[24]
- ボーンキング(2001年京成杯)[25]
- ブルーイレヴン(2002年東京スポーツ杯2歳ステークス 2004年関屋記念)[26]
- サイレントディール(2003年シンザン記念、武蔵野ステークス 2007年佐賀記念)[27]
- ブラックタイド(2004年スプリングステークス)[28]
- ホオキパウェーブ(2005年オールカマー)[29]
- ピカレスクコート(2007年ダービー卿チャレンジトロフィー)[30]
- ユキチャン(2008年関東オークス 2009年クイーン賞 2010年TCK女王盃)[31]
- ムードインディゴ(2009年府中牝馬ステークス)[32]
- フォゲッタブル(2009年ステイヤーズステークス 2010年ダイヤモンドステークス)[33]
- メテオロロジスト(2011年佐賀記念)[34]
- ボレアス(2011年レパードステークス)[35]
- ピイラニハイウェイ(2012年佐賀記念、浦和記念)[36]
- ストローハット(2012年ユニコーンステークス)[37]
- カミノタサハラ(2013年弥生賞)[38]
- デニムアンドルビー(2013年フローラステークス、ローズステークス)[39]
- パッションダンス(2013年新潟大賞典 2015年新潟記念 2016年新潟大賞典)[40]
- ウリウリ(2014年京都牝馬ステークス 2015年CBC賞)[41]
- フルーキー(2015年チャレンジカップ)[42]
- マウントロブソン(2016年スプリングステークス)[43]
その他の馬
脚注
注釈
出典
- ^ 『週刊東洋経済』2016年3月12日号、p.82
- ^ a b c d e f g h i j k 鶴蒔(1994)pp.54-67
- ^ a b c d e f 鶴蒔(1994)pp.67-79
- ^ a b 鶴蒔(1994)pp.112-121
- ^ 鶴蒔(1994)pp.207-209
- ^ 鶴蒔(1994)p.249
- ^ Maui course tees it up for the wealthy/Pacific Business News
- ^ a b c 『優駿』2004年7月号、pp.17-18
- ^ 内海裕介 (2015年11月2日). “金子真人氏「8大競走」完全制覇!”. ZAKZAK(夕刊フジ). 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ブラックホーク”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b “クロフネ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b “トゥザヴィクトリー”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ユートピア”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b “キングカメハメハ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b c “ディープインパクト”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b c “カネヒキリ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ピンクカメオ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b c “アパパネ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ラブリーデイ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “マカヒキ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ブラックタキシード”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “シルヴァコクピット”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ブロードアピール”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ホットシークレット”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ボーンキング”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ブルーイレヴン”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “サイレントディール”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ブラックタイド”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ホオキパウェーブ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ピカレスクコート”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ユキチャン”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ムードインディゴ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “フォゲッタブル”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “メテオロロジスト”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ボレアス”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ピイラニハイウェイ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ストローハット”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “カミノタサハラ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “デニムアンドルビー”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “パッションダンス”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “ウリウリ”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “フルーキー”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ “マウントロブソン”. JBISサーチ. 2016年6月3日閲覧。
- ^ 『優駿』2007年5月号、p.90
参考文献
- 鶴蒔靖夫『日本一小さな大企業 - 頭脳集団「図研」の世界戦略』(IN通信社、1994年)ISBN 978-4872180831
- 『優駿』2004年7月号(日本中央競馬会)
- 吉川良「金子真人オーナー - 2分23秒3の表現者」