太陰太陽暦
太陰太陽暦(たいいんたいようれき、英: lunisolar calendar)とは、太陰暦を基にしつつも、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦(暦法)である[1]。太陽太陰暦と呼ぶ場合もある。また太陰太陽暦を太陰暦と呼ぶ場合もあるが、これは太陰太陽暦が太陰暦から派生し、どちらも日は月の運行によって決められるという共通点による。
概要
純粋な太陰暦では1回帰年の近似値である12ヶ月を1年とした場合、1年が354日となり太陽暦の1年に比べて11日ほど短くなる。このずれが3年で約1か月となるので、約3年に1回、余分な1か月=閏月を挿入してずれを解消した。閏月を19年(メトン周期)に7回挿入すると誤差なく暦を運用できることが古くから知られ、世界各地で行われた。しかし閏月が入ることにより、1年の日数に大きな差が出てくるなどの欠点もあることから現在それを正式に用いている国はないという[1]。
ユーラシア(中華圏を除く)
オリエント
エジプト以外のユーラシア大陸のほとんどの地方における最も古い暦法は、太陰太陽暦である。世界で最も古くから太陰太陽暦を用いたのは、メソポタミア文明である。楔形文字の解読によると、紀元前2000年頃にはすでに太陰太陽暦が行われていたようである。補正周期としてのメトン周期なども発見されて徐々に精密さを増したこの暦法は、新バビロニア王国の時代に完成を見、これがバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれて、現在のユダヤ暦に引き継がれている。この暦では年初の基準点が一貫して春分に置かれていたことが特徴的である。しかし、イスラム教が広まってからは、太陰暦を用いるヒジュラ暦が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く西アジアで太陽太陰暦が用いられることはなくなっている。
ヨーロッパ
古代ギリシア
古代ギリシアでも、太陰太陽暦が用いられていたとされる。メトン周期の命名などにその痕跡が残っており、実際にアテナイのアッティカ暦などの運用で利用された。
古代ローマとキリスト教会
古代ローマでは、当初は、春分前後の新月を第1月とし、10か月を数えた後は翌春まで暦をなくしてしまうという極めて大雑把な太陰暦が用いられていたが、のちに太陰太陽暦の形を整えた。しかし毎年コンスルが交代する共和政のローマ社会では、閏月の挿入が政争の具として時の政治家により恣意的に行われたため、ユリウス・カエサルは紀元前45年の冬至後の最初の新月をもって暦を朔望月から切り離し、太陽暦に移行させた。これがユリウス暦である。
その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教ではユリウス暦を採用することとなるが、新約聖書に記載されたイエス・キリストの復活の故事がユダヤ暦の日付で記されているため、キリスト教最大の祝祭である復活祭を祝うために、太陽暦であるユリウス暦だけではどうしても不足であった。そこで、ユリウス暦を元に春分日を3月21日に「固定」した上で、今度は月の朔望を考えて春分直後の満月の日を計算することにより、復活祭の日付を算出するエパクトという計算方法を、教会暦の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で、現在のグレゴリオ暦に至るヨーロッパの暦は、太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。
中華圏
中国では暦と季節とのずれを検出するために二十四節気が考案された。二十四節気は1つおきに正節(節気)と中気に分けられ、正節から次の正節までの間を節月という。節月は約30日であり、1朔望月よりも長い。よって暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月を閏月とする。また、月名もその月に含まれる中気によって決め、例えば雨水を含む月を「一月(正月)」とした。
日本
日本では飛鳥時代の元嘉暦導入以来、中国王朝が制定した暦(中国暦、日本では漢暦とも呼称)をそのまま導入し和暦として使用していた。862年に導入された宣明暦への改暦以後、およそ800年にもわたって改暦が行われず宣明暦を使用し続けることとなったが、江戸時代の1685年になってようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の授時暦)である貞享暦への改暦が実現した。それ以来、貞享暦(1685-1755)、宝暦暦(1755-1798)、寛政暦(1798-1844)、天保暦(1844-1872)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「#日本で過去に使用された暦」も参照)が、明治時代の1873年に西洋に合わせる形でグレゴリオ暦が導入されたことで、その歴史に幕を閉じた[注 1]。
なお1873年以降、現代までのいわゆる「旧暦」として、最後の太陰太陽暦である天保暦の暦法を延長したものが使われることがしばしばあるが、これは何らの公的な裏付けのない暦法(グレゴリオ暦項の「グレゴリオ暦導入の経緯」節も参照)であることに注意すべきである[注 2]。
改暦以前における日付対応の留意点
1873年より過去の歴史的事象の年については、一般に和暦年号(太陰太陽暦)による年と西暦(グレゴリオ暦)による年が対応しない日が存在する。そのため、例えば「寛永7年(1630年)」というような表記は不適切な場合がある。なぜなら、寛永7年に対応するのは、グレゴリオ暦1630年2月12日 - 1631年1月31日だからである。よく見るものでは、赤穂浪士の討ち入りの日を「元禄15年(1702年)12月14日」としているものが多いが、これでは1702年12月14日と間違える可能性があるので、不適切である[2]。「元禄15年12月14日(1703年1月30日)」としなければならない[3][4]。
太陰太陽暦に基づく暦法
日本で過去に使用された暦
脚注
注釈・引用
- ^ 明治5年(1872年)12月2日(天保暦)の翌日を明治6年(1873年)1月1日(グレゴリオ暦)とした。
- ^ 国立天文台、質問3-4) 「旧暦」ってなに? 「現在、日本で「公式な」太陰太陽暦の計算というものはおこなわれていません。そのため国立天文台でも、「今日は旧暦の何日か?」などの、太陰太陽暦に関するお問い合わせには、はっきりとしたお答えができないことがありますことをご理解ください。(太陰太陽暦が公式の暦として使われていた時代については、当時の暦とグレゴリオ暦の対応などを、記録に基づいてお答えすることができます。)」