冲鷹 (空母)
艦歴 | |
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起工 | 1938年12月14日 |
進水 | 1939年5月20日 |
就役 | 1940年3月23日「新田丸」として竣工 1942年11月25日空母へ改装完了 |
退役 | |
その後 | 1943年12月4日戦没 |
除籍 | 1944年2月5日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:17,830t 公試:20,000t |
全長 | 180.24m |
水線幅 | 22.5m |
全幅 | |
吃水 | 8.00m (公試状態) |
飛行甲板 | 長さ:172.0m x 幅:23.7m |
主缶 | 三菱式水管缶4基 |
主機 | 三菱ツェリー式タービン2基2軸 25,200hp |
速力 | 21.0ノット |
航続距離 | 18ktで8,500浬 |
乗員 | 約850名 |
兵装 (竣工時) |
12.7cm連装高角砲4基 25mm3連装機銃10基 |
搭載機 (常用+補用) |
艦上戦闘機 9+2機 艦上攻撃機 14+2機 合計23+4機 (資料によっては合計26+4機) |
冲鷹(ちゅうよう)は、日本海軍の航空母艦。大鷹型の1隻で日本郵船の客船新田丸を航空母艦に改造したものである。(注記:「冲」の字はサンズイではなくニスイ)
概要
「新田丸」は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船として誕生した。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。
「新田丸」は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工、1939年(昭和14年)5月20日進水、1940年(昭和15年)3月23日に竣工している。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。
天洋丸、浅間丸、氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、本船は中村順平(大阪商船の天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾、山下寿郎、松田軍平ら建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞と高島屋が担当した新日本様式だった。
一等ラウンジは六歌仙をエッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された[1]。
第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航していたが、日米関係の悪化に伴い航路は休止、1941年(昭和16年)9月12日、日本海軍に徴用される。
太平洋戦争開戦当初は運送艦として用いられていたが、1942年(昭和17年)8月に海軍が買収し、呉海軍工廠で航空母艦への改装が開始される。艦名も「冲鷹」と命名された。改装は1942年(昭和17年)11月25日に完了した。そのため本艦には他の2隻と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。
改装完了後連合艦隊付属として海軍籍に入り、12月13日に横須賀を出撃しトラック島へ陸軍の白城子教導飛行団を運んだ。その後も1943年(昭和18年)4月25日~5月13日、5月24日~6月9日、6月16日~7月2日にトラック島への航空機の輸送を行った。
1943年9月24日、空母「大鷹」とともにトラックから横須賀に向けて航行中、小笠原諸島北東沖でアメリカ潜水艦の雷撃により「大鷹」が損傷、「冲鷹」は航行不能となった「大鷹」を曳航して約8ノットで航行し横須賀にたどり着いた[2]。
1943年(昭和18年)11月30日、「冲鷹」は空母「雲鷹」、「瑞鳳」、重巡洋艦「摩耶」、駆逐艦「曙」、「朧」、「漣」、「浦風」とともにトラックを出港し日本へ向かった[3]。空母にはソロモン・ニューギニアからの人員、機材が搭載されており、また「冲鷹」には民間人や20名の捕虜も乗っていた[2]。その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読した米軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じた[4]。12月3日夜、荒天のため各艦は分散してしまい、互いの位置すら掴めていなかった[5]。一方、船団を追跡していたアメリカ潜水艦セイルフィッシュは八丈島東方で2度目の襲撃を行う。レーダーで目標を探知すると、4本の魚雷を発射して命中音2本を確認、これに対し「冲鷹」は『0時10分、われに魚雷1本命中す、前部居住区火災、航行可能』と発信した[6]。セイルフィッシュは落伍した「冲鷹」を追跡し、浮上すると5時50分に魚雷3本を発射、命中2本を記録している[7]。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射、2回の命中音と破壊音を確認した[7]。三度被雷した「冲鷹」は沈没[7]。「冲鷹」には約3000名(内乗員は553名)が乗っており、救助されたのは約170名と言う[2]。また同乗していた捕虜は19名が命を落とした[2]。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』73-74頁、『日本海軍史』第9巻「将官履歴」に基づく。
艤装員長
- 石井芸江 大佐:1942年8月20日 -
艦長
- 石井芸江 大佐:1942年11月20日 -
- 加藤与四郎 大佐:1943年2月1日 -
- 大倉留三郎 大佐:1943年9月27日 - 12月4日戦死
同型艦
脚注
参考文献
- 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
- 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ、光人社、1989年
- 桂理平『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5。
- モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9