藤原興範
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和11年(844年) |
死没 | 延喜17年11月1日(917年12月17日) |
別名 | 字:常生 |
官位 | 正四位下・参議 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原正世、母:山背氏娘 |
兄弟 | 真房、興氏、真湛、興範 |
妻 | 藤原有恒娘 |
子 | 公葛 |
藤原 興範(ふじわら の おきのり)は、平安時代前期の公卿。中納言・藤原縄主の曾孫。因幡介・藤原正世の九男。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集]清和朝の貞観15年(873年)文章生に補され、大宰少監・大舎人大允・式部丞・民部丞を経て、陽成朝末の仁和3年(883年)従五位下・掃部頭に叙任される。同年筑前守に転じると、宇多朝では豊前守・筑前守・大宰少弐と長く九州の地方官を務めた。
醍醐朝に入り、昌泰3年(900年)右中弁に遷り、翌昌泰4年(901年)正五位下に叙せられるが、延喜2年(902年)従四位下・大宰大弐に叙任され、再び大宰府へ赴任する。延喜7年(907年)右京大夫として京官に復すと、式部大輔を経て、延喜10年(910年)従四位上に昇叙された。またこの間、延喜7年(907年)完成の延喜格の編集に参加した。延喜11年(911年)正四位下・参議に叙任され公卿に列すが、再び大宰大弐を兼帯してまたもや大宰府へ赴任する。
延喜16年(916年)大宰大弐から弾正大弼に転じて帰京し、翌延喜17年(917年)近江守も兼帯するが、同年11月1日卒去。享年74。最終官位は参議正四位下行弾正大弼兼近江守。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 貞観15年(873年) 春:文章生(字常生)
- 貞観19年(877年) 正月15日:大宰少監。2月29日:大舎人大允
- 元慶2年(878年) 2月15日:治部少丞
- 元慶5年(881年) 3月8日:民部少丞
- 元慶7年(883年) 正月11日:式部少丞
- 元慶9年(885年) 正月16日:式部大丞
- 仁和3年(883年) 正月7日:従五位下。2月2日:掃部頭[1]。8月22日:筑前守[1]
- 寛平5年(893年) 正月11日:豊前守。4月20日:筑前守。8月9日:兼大宰権少弐
- 寛平7年(895年) 正月11日:大宰少弐
- 昌泰3年(900年) 2月20日:右中弁
- 昌泰4年(901年) 正月7日:正五位下
- 延喜2年(902年) 正月26日:従四位下、大宰大弐
- 延喜7年(907年) 2月29日:右京大夫
- 延喜9年(909年) 正月11日:式部大輔
- 延喜10年(910年) 正月7日:従四位上
- 延喜11年(911年) 2月15日:参議、式部大輔如元。4月28日:兼大宰大弐、去大輔か。9月24日:正四位下
- 延喜16年(916年) 正月25日:兼弾正大弼
- 延喜17年(917年) 正月29日:兼近江守。11月1日:卒去(参議正四位下行弾正大弼兼近江守)