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藤原縄主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 縄主
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平宝字4年(760年
死没 弘仁8年9月16日817年10月29日
官位 従三位中納言従二位
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原蔵下麻呂
母:粟田廉刀自(粟田馬養の娘)
兄弟 宗継、縄主綱継、網主、浄本、八綱、清綱、姉子、藤原真友
藤原薬子藤原種継の娘)
貞本、貞吉、安殿親王妃、貞庭
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藤原 縄主(ふじわら の ただぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿藤原式家参議藤原蔵下麻呂の長男。官位従三位中納言従二位

経歴

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桓武朝初頭の延暦2年(783年従五位下中衛少将に叙任。のち右衛士佐近衛少将や、少納言式部少輔等、文武の諸官を歴任する。延暦10年(791年)従五位上・左中弁に叙任されると、延暦12年(793年正五位下と桓武朝半ばから順調に昇進し、延暦17年(798年)参議に任ぜられ公卿に列す。桓武朝末にかけて議政官として式部大輔左京大夫・近衛中将等を兼帯する。延暦18年(799年)からは皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の春宮大夫も務めたが、これは縄主の室である藤原薬子と安殿親王の不倫関係を嫌った桓武天皇が薬子の夫を監視役に置いた人事ともいわれる。

大同元年(806年)平城天皇が即位すると従三位大宰帥に叙任され大宰府に赴任し、入れ代わるように尚侍として天皇に呼び戻された薬子は憚らずに天皇の寵愛を受ける事となった。大同2年(807年観察使制度の設置により大宰帥のまま西海道観察使にも任ぜられる。この間の大同3年(808年)に観察使に対して封戸が支給される事になった際、既に大宰帥としての公廨を支給されており俸給が重複するため、封戸の支給を辞退するよう上表しているが、許されなかった[1]

大同5年(810年薬子の変が発生し、妻の薬子は自殺、子の貞本連座して飛騨権守左遷されるが、大宰府に赴任していた縄主は乱に関与せず難を逃れる。弘仁3年(812年中納言に至った。

弘仁8年(817年)9月16日薨去享年58。最終官位は中納言従三位兼兵部卿。淳和朝初頭の天長元年(824年)に従二位位階追贈されている。

人物

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酒を好む性質であったが、職務を欠くような事はなかった。内と外とを区別せず、親族にも慕われたという[2]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』大同3年6月11日条
  2. ^ 『日本後紀』弘仁8年9月16日条
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『公卿補任』

出典

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