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諸葛恪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸葛恪
諸葛恪像(『増像全図三国演義』)
諸葛恪像(『増像全図三国演義』)

丞相・揚州牧・荊州牧・陽都侯
出生 建安8年(203年
徐州琅邪郡陽都県
死去 建興2年(253年)10月
揚州丹陽郡建業県
拼音 Zhūgě Kè
元遜
主君 孫権孫亮
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諸葛 恪(しょかつ かく、拼音: Zhūgě Kè ジューガー・カァー)は、中国三国時代の政治家。に仕えた。元遜徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の長男で、(蜀漢)の丞相諸葛亮の甥にあたる。弟に諸葛喬諸葛融。子は諸葛綽諸葛竦諸葛建

概略

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孫権時代

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若い頃から機知と才気に溢れていた。一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも口達者で他人をやりこめるのが得意であり[1]、才能をひけらかすのが好きであったことから、家族から将来性を心配されていた。

逸話として、宴の最中に引き出された驢馬の額に、孫権が戯れて「諸葛子瑜」と書いたことがあった(子瑜は諸葛瑾の字、諸葛瑾は面長であったとされる)。一座の者は大笑いしたが、父を馬鹿にされて面白くない幼少の諸葛恪は、その下に2字を書き加えることを孫権に願い出て、「之驢」と書き加えた(「諸葛子瑜之驢」、即ち「諸葛瑾の驢馬」という意味になる)。孫権はじめ一座の者は諸葛恪の機転の良さに舌を巻き、その驢馬は諸葛瑾に与えられた。また、孫権に「お前の父と叔父と、どちらが偉いか?」(現代に至るもそうだが、当時も諸葛亮のほうが評価が高かった)と問われた際に、「父上でございます。仕えるべき主君を心得ておりますゆえ」と即座に返答した。孫権は感心して諸葛父子を「藍田生玉」(家柄のよい家から賢明な子弟が生まれること)と称賛した。他にも正史には彼の幼少時代の才気煥発さを示すエピソードが多く載せられている。

一方で負けず嫌いを示す逸話もある。皇太子孫登に「馬の糞でも食っていろ」とからかわれた際に、諸葛恪は「それでは太子様は鶏の卵をお召し上がり下さい」と言い返した。脇で聞いていた孫権が意味がわからず問いただすと「鶏の卵も馬の糞も出る所は同じでございます」と返答したという。孫権は大いに笑った。しかし婉曲な表現とはいえ、皇太子相手でも言い返さずには済まなかったのである。

その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。諸葛亮も陸遜に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしなさい」と窘めている。

諸葛恪は張休顧譚陳表とともに皇太子の孫登の側近となり、四人は孫登の四友と呼ばれた。

諸葛恪は「丹陽郡は山が険しく、住民の多くは勇敢なのですが、丹陽郡の奥地には不服住民(山越)が多いです。自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます」と上申した。嘉禾3年(234年)、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、陳表・顧承らとともに山越の討伐を命じられた。諸葛恪は策略を使って、あまり戦うことなく、3年で山越を帰順させ、4万人以上の山越兵を手に入れる事に成功した[2]。その功績をたたえられ、威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。

赤烏4年(241年)、皇太子の孫登が死去すると、翌赤烏5年(242年)、孫和が皇太子となった。しかし、孫和と孫覇との間で継承争いが起き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。諸葛恪は孫和を支持したが、長男の諸葛綽は孫覇を支持したようである。結局、孫和は太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇は処刑され、孫亮が皇太子となった(二宮事件)。孫権はこの事について諸葛恪に諸葛綽の再教育を命じた。諸葛恪は諸葛綽を毒殺した。

赤烏8年(245年)、陸遜は諸葛恪に謂うには 「私の前に在る者には、私は必ず同じく昇るよう奉じ、私の下に在る者には、これを扶持している。今、観たところ君の気は上を凌ぎ、意は下を蔑ろにしている。安徳の基とはならない」。諸葛恪は陸遜が行節面によって己れを嫌っている事を知っており、ゆえにその道理を広げて陸遜の主旨に賛同したのである。

赤烏9年(246年)、たびたびとの戦いで功績を挙げたことにより、大将軍に任ぜられた。陸抗と任地を交替し、節を仮されて武昌に駐屯し、陸遜に代って荊州の事を典領した。

太元元年(251年)12月、皇太子の孫亮がまだ幼かったので、孫権は寝疾(病臥)すると、付託の事を討議させた。時に朝臣の咸なが皆な諸葛恪に意を注いでおり、孫峻が上表して諸葛恪の器は輔政を任せ、大事を付託すべきものだと。孫権は諸葛恪が自らの働きの為に専断するのを嫌っていたが、孫峻は当今の朝臣では皆な及ぶ者が莫いとして固く自説を保ち、かくして諸葛恪を徴した。後に諸葛恪らを臥内で引見し、牀下に詔を受けさせた、諸葛恪は太子太傅に任ぜられた。

神鳳元年(252年)4月、孫権が危篤になると、孫弘孫峻滕胤呂拠と共に後事を託された。次の日、孫権は崩御し、孫亮が即位した。孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。これにより、その後の呉の実権は諸葛恪が握ることになった。

孫亮時代

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建興元年(252年)閏4月、諸葛恪は皇帝の孫亮の太傅となった。官吏を監察する校官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税を廃止したので、絶大な支持を受けた。韋昭(韋曜)を推薦して太史令とし、『呉書』を編纂させた。

またその頃、孫和の妃の張氏は黄門の陳遷を派遣し、建業に行って皇后に上疏させると共に諸葛恪にも挨拶をさせた。諸葛恪の姉の子が張氏である。その面会も済んで退出しようとしている時に諸葛恪は陳遷に言った、「お妃様にお伝え下さい、間も無く彼等よりも優位な立場にお立て致しますから」。その年の正月に孫和は南陽王に封ぜられ、長沙に追い遣られていた。この言葉が些か世間に泄れる事となった。それに加え諸葛恪は、遷都を行おうとの意図で武昌の宮殿を整備させていた事から、世間は孫和を武昌に迎えようとしているのだとも噂をした。

同年10月、諸葛恪は東興に大きなを造り、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。同年12月、胡遵諸葛誕らは東興を攻め堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築き、浮橋を渡り堤の上に進軍し、堤の上に陣を張り、堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけた。そこで、諸葛恪は丁奉留賛・呂拠・唐咨らを先鋒として魏軍を攻撃し、撃破した。敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の朱異によって浮橋が壊されたので大混乱になり、魏軍は韓綜桓嘉をはじめ数万人が戦死した(東興の戦い)。呉はこの戦いで多大な牛馬や軍事物資を手に入れた。諸葛恪は陽都侯に封ぜられ、揚州と荊州のに任ぜられ、国内の軍事全般の指揮を任されることになった。『建康実録』によればこのとき丞相に昇進している。

建興2年(253年)、前年の戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は北伐を主張し、周囲は兵の疲労を理由に強く反対した。諸葛恪は呉王夫差劉表の子(劉琮)が滅んだ故事を引き、手をこまねいていれば魏との国力差は広がる一方と説いた。そして魏で司馬懿はじめ曹操以来の宿将が死に、後継がまだ育っていない今が好機であり、十数年も経てば伊尹管仲でも逆転は不可能になると主張した。また叔父が賊と争うための計略(諸葛亮の『出師表』?)も引き合いに出し、あくまで北伐強行を主張した。友人の丹楊太守・聶友はなおも反対したが、諸葛恪は自説を曲げなかった。また、『漢晋春秋』によると、蜀漢の姜維にも北伐を呼びかけ、姜維の賛同を得た。

3月、20万を号する大軍を指揮して魏に侵攻した。4月、合肥新城を包囲した。魏の毌丘倹文欽は合肥新城の守将の張特とともにこれを防いだ。諸葛恪は合肥新城を攻め落し、張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守れば、その将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。このため諸葛恪はこれを信じ、城への攻撃を中止した。ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めたものの、呉軍内部で疫病が大流行し、非常に多くの兵が亡くなった。同年7月、魏の太尉司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、諸葛恪は合肥新城の包囲を陥落させられずに撤退することとなった(合肥新城の戦い)。なお、蜀漢の姜維も4月に出兵したが、戦果を挙げられずに撤退している。

8月、帰還した諸葛恪は役所に入ると中書令の孫嘿を呼びつけ、「卿たちはなぜ詔をでっち上げ(て軍を帰還させ)たのか」と問責した。孫嘿は恐懼して退出し、病と称して出仕しなくなった。諸葛恪はまた、自分が遠征している間に任命された長官を全て罷免してその選出をやり直させ、宿衛の士も自分と親しい者に入れ替えた。さらに兵士へ命令を下し、今度は青州徐州への出陣を計画した。

諸葛恪が人々の不満を集めていることを受け、孫峻は孫亮と共に政変を計画。10月、孫亮主催の酒宴の場で、諸葛恪は孫峻により斬殺された。弟の諸葛融は自殺し[3]、一族もまた罪人として処刑された。諸葛恪の遺体は葦の筵に巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられたが、後に旧臣たちがそれを回収し、埋葬した。

諸葛恪らの死後、蜀漢にいた諸葛瑾の孫の諸葛攀が呉へ戻り、諸葛瑾の後を継いだ[4]

人物・逸話

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  • 諸葛恪の身の丈7尺6寸(約175センチ)、鬚眉は少なく、鉤鼻で額は広く、大口で声が高かった[5]
  • 蜀漢から費禕が使者として会食にやってきた際に、孫権が前もっての命令で呉の臣下たちに礼を尽くさせずそのまま食事を続けさせた。費禕は、あなたたちは能力がないからそんな態度をとっているのだと笑った。諸葛恪は逆にあなたに能力がないから我々はこういう態度をとってるのだと言い返した。費禕は自分の能力を誇示するために筆を借り詩を作ると、諸葛恪も負けじと筆をとり詩を作った。両者の詩のできばえに場の人間は感嘆した[6]
  • 孫権は諸葛恪に行酒を命じた。諸葛恪は張昭の前に至ると、張昭には先に酔色があり、飲むことを肯んぜず、「これは養老の礼とはいえぬ」と言った。孫権は諸葛恪に「卿が張公を言辞で屈させられれば、飲むであろう」。諸葛恪が張昭を難じるには「昔、師尚父は齢九十にして旄を秉り鉞に仗りましたが、猶お老いを告げた事はありませんでした。今の軍旅の事では将軍は後方に在り、酒食の事では将軍は先に在ります。どうして養老していないと謂えましょう?」張昭にはついに言辞が無く、かくて酒爵を尽した。
  • 蜀漢の使者が至って群臣が並び会した時、孫権が使者に謂った 「この諸葛恪は騎乗を好んでいる。還って丞相によき馬を送致するよう告げよ」。諸葛恪が坐を下って謝すと、孫権は 「馬が至っていないのに謝すのは何故か?」と問うと、諸葛恪は対えて 「蜀とは陛下の外厩であり、今、恩詔があったからには馬は必ず至りましょう。どうして謝せずにおれましょうか?」
  • 諸葛恪が嘗て孫権に馬を献じた時、先んじて馬の耳をうがっていた。范慎が時に坐に在り、諸葛恪を嘲って 「馬は大畜ではあるが、天の気をうけている。今、その耳を損ったのは、仁を傷った事になるのではないか?」 諸葛恪は答えて 「母の娘への恩愛は至篤ですが、耳を穿って珠を附す事が仁を傷っておりましょうか?」[6]
  • 曾て白頭鳥が殿前に集った事があった。孫権は「これは何鳥か?」と問うと、諸葛恪は「白頭翁(シロガシラ)です」と答した。張昭は自身が坐中で最も老いており、諸葛恪が鳥によって戯れているかと疑い、「諸葛恪は陛下を欺いております。未だ嘗て鳥の名で白頭翁とは聞いたことがありません。試しに諸葛恪に白頭母を求めさせましょう」と言った。諸葛恪は 「鳥には鸚母(インコ)という名がありますが、必ずしも対があるとは限りません。試しに輔呉将軍に鸚父を求めさせましょう」。張昭は答えられず、坐中は皆な歓笑した[7]
  • 孫権は武昌を巡幸し、大臣たちに「みんな、皇太子をよく輔導しなければなりません。太子が進歩すれば、重賞がある。進歩がなければ、責められる」と言った。張昭と薛綜は答えられない。諸葛恪は「皇太子は人並み優れた明察力を備えていた。陛下がまた来る時、太子はきっと一を聞いて十を知る。諸臣はどうしてご褒美を得ないじゃないか」と答した[8]
  • 諸葛恪は孫権から「卿は丞相(諸葛亮)と比べてどうか」と問われたため、これに対し「丞相が私に及びません」と答えている。孫権は「丞相が遺詔を受けて国政を補佐する。昔の周公伊尹と比べるとあまり差がありません。彼はまだ卿の叔父です。どうして卿が彼に勝ったと言ったのか?」「確かに陛下のおっしゃるとおりです。しかし愚かな君主のために奉仕するよりも、私のように清明な朝廷に頼って、天下から称賛される君主のために力を尽くしたほうがいい」と答えている[8]
  • 魏の将軍となった韓綜はしばしば辺境を犯し、呉の平民を殺害した。それによって孫権は常に切歯した。後に東興の役では韓綜は前鋒となったが、軍は敗れて自身は死に、諸葛恪がその首を斬って送り、孫権の廟にもうした。
  • 諸葛恪が魏の淮南の遠征から帰ってきた後、朝廷に参内する前夜、胸騒ぎがし、一晩中眠ることができなかった。翌日、身支度をし出掛けようとすると、犬が服の裾をくわえて引っ張る。諸葛恪は、「犬は私に行ってほしくないようだ。」と言い、家の中に戻り座った。しばらくしてから立ち上がると、犬が再度服の裾をくわえる。諸葛恪は従者に命じて、犬を追い払い、城内に入ったところ、待ち構えていた孫峻の兵に殺害されてしまう[9]

評価

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三国志』の著者の陳寿は「諸葛恪は才気にあふれ、大きな展望をもって働く事ができ、国内の人々の賞賛を受けていたが、驕慢で狭量であった」と評している。その上で「仮令周公であっても(その様な欠点が在れば)その長所を台無しにしてしまう。まして諸葛恪なら尚更で、己を誇って他人を踏付けにしたのだから、どうして身を滅ぼさずに済む筈があろう。若し彼が陸遜や弟達に与えた手紙に述べた内容を実践していたならば、後悔する事にも災禍を被る事にもならなかったのである」と締めている。

家系図

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諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕

伝説・伝承

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諸葛恪は正史のエピソード以外にも、知恵者としての伝承が後世に伝わっている。

  • 諸葛恪が丹陽太守であったころ、狩りで山間に差し掛かった際に子供のような姿の妖怪が現れ、手を伸ばして引っ張ろうとしてきた。伸びた手を諸葛恪が掴み逆に妖怪をその場から引き離すと、妖怪はすぐに死んでしまった。感嘆した部下が、諸葛恪は神通力を持っているのかと尋ねると、諸葛恪は「このことは『白沢図』に書かれている。『山間に住む精は子供のような姿をしており、人を見ると手を伸ばして引っ張ろうとする。名を「傒嚢」といい、その場所から引き離せばすぐに死んでしまう』と。私はこれを知っていて、諸君はたまたま知らなかったというだけだ」と答えた[10]
  • 恪が淮南を征討して帰ったのち朝廷の会合に出ようとする前夜、目がさえ胸騒ぎもして一晩中眠れなかった。夜が明けて家を出ようとすると飼い犬が着物を加えて引っ張る。恪は「この犬はわしに出ていくなというつもりか?」と言っていったん出たのをまた家にはいり腰を下ろしていたがしばらくしてまた立ち上がると犬のほうでもまた着物を銜える。恪は供のものに命じて犬を追い払わせたがそれから参内すると恪は殺されてしまった。このとき恪の妻は部屋にいたが召使の女から血の匂いがするので問いただすと女は立ち上がって首が屋根まで伸びて腕まくりをしながら「諸葛閣下が殺されたぞ」といった。そこで家人は恪が殺されたのを知ったのである[11]
  • 孫権が王であった時代、ある人が大きなを捕まえたところ、亀は「運悪く捕まってしまった」と呟いた。彼はこれを不思議に思い、孫権に献上しようと建業へと向かった。その途上、亀を憐れんだの古木が亀に話しかけるが、亀はどんなに火を焚こうが煮殺されはしないという。そこで桑の古木は「孫権に仕えている諸葛恪は博識だ、彼は必ず答えを見つけ出し、君と私を殺そうとするだろうから油断しないように」と忠告した。亀が献上されると孫権はこれを煮るように部下に命じるが、どれだけ火を焚いても亀に変化がない。それを見た諸葛恪が「桑の古木を薪とすれば亀を煮ることが出来るでしょう」と孫権に進言した。献上した者がこれを聞いて途上の桑の木のことを話すと、孫権は人を使わしてこの桑の木を切り倒し、これを薪にして火を焚いた。すると立ち所に亀の肉は熟れていき、ついに亀は煮殺されてしまった[12]

関連作品

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参考文献

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脚注

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  1. ^ 江表伝
  2. ^ 諸葛恪とともに山越を討伐した顧承は諸葛恪とは別に8000人の山越兵を徴兵し、陳表は1万人以上の山越兵を徴兵した。
  3. ^ 『三国志』呉書 諸葛瑾伝付 諸葛融伝
  4. ^ 『三国志』蜀書 諸葛亮伝
  5. ^ 『呉録』
  6. ^ a b 『諸葛恪別伝』
  7. ^ 『江表伝』
  8. ^ a b 『太平広記』巻173
  9. ^ 干宝『捜神記』 巻9。 
  10. ^ 干宝著 竹田晃訳『捜神記』(初版)平凡社ライブラリー、2000年。ISBN 9784582763225 
  11. ^ 干宝著 竹田晃訳『捜神記』(初版)平凡社ライブラリー、2000年、190頁。ISBN 9784582763225 
  12. ^ 『異苑』中国古典小説選2:明治書院