ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェン
ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェン(チベット文字:རིན་ཆེན་རྒྱལ་མཚན; ワイリー方式:Jam dbyangs rin chen rgyal mtshan、1256年 - 1305年)は、チベット仏教サキャ派の仏教僧。サキャ派第9代目の座主と、大元ウルスにおける6代目の帝師を務めた。先々代帝師のイェシェー・リンチェンの異母弟にあたる。
漢文史料の『元史』では輦真監蔵(niǎnzhēnjiānzàng)と表記される。
概要
[編集]『フゥラン・テプテル』によると、サキャ・パンディタとパクパの弟子にはシャル(Shar/東)、ヌプ(Nub/西)、クン(Gun/中間)という三派があり、その内シャル派に属するチュポジェツンキャプ(Phyug po rje btsun skyabs)の息子がイェシェー・リンチェンとジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンであったという[1]。
1280年代、大元ウルスはチベットや高麗などの周辺属国への干渉を強めており、その一環としてサキャ派第8代座主のダルマパーラ・ラクシタは帝師に任命され大元ウルス朝廷に留まることになった[2]。その結果、チベット本国ではサキャ派の中核氏族たるコン氏の男子がいなくなってしまったため、サキャ派の歴史上始めて非コン氏のジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンが座主に就任することになった[3]。『フゥラン・テプテル』には1287年(丁亥)から16年間「名代(=座主)」であったとされる[1]。
大徳2年(1298年)には長らく大元ウルスに留め置かれたコン氏のサンポペルが帰国し、ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンはすぐに座主の地位を譲ろうとしたが、サンポペルは教学に専念するとして就任を一度断った[4]。一方、大元ウルス朝廷ではジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンが座主の地位にあったのとほぼ同時期にサキャ派の支派カンサルパのタクパ・オーセルが長期にわたって帝師の地位にあったが、大徳7年(1303年)に亡くなっていた[5]。そこで、ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンが新たな帝師に選ばれて大元ウルス朝廷に赴き、今度こそサンポペルがサキャ派座主の地位を継承した[6]。
ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンは大徳8年(1304年)正月に帝師の地位を受け継いだものの[7]、この時既に高齢であったため、早くも大徳9年正月11日(1305年2月5日)に亡くなった[8]。ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンの没後は、再びカンサルパに属するサンギェパルが帝師の地位を継いだ[9]。
脚注
[編集]- ^ a b 佐藤/稲葉1964,123頁
- ^ 乙坂1989,29頁
- ^ 乙坂1989,30-31頁
- ^ 乙坂1989,30頁
- ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。…乞剌思八斡節児嗣、成宗特造宝玉五方仏冠賜之。元貞元年、又更賜双龍盤紐白玉印、文曰『大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印』。大徳七年卒。明年、以輦真監蔵嗣、又明年卒」
- ^ 稲葉1965,128-129頁
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳八年春正月]庚午、以輦真監蔵為帝師」
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳九年春正月]戊午、帝師輦真監蔵卒、賻金五百両・銀千両・幣帛万匹・鈔三千錠、仍建塔寺」
- ^ 稲葉1965,129頁
参考文献
[編集]- 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
- 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
- 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
- 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
- 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
- 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26、ISSN 0019-4344、NAID 130004028242。
- 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687。
|
|