ラミロ2世 (アラゴン王)
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ラミロ2世 Ramiro II | |
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アラゴン国王 | |
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在位 | 1134年 - 1137年11月13日 |
出生 |
1086年4月24日 |
死去 |
1157年8月16日(71歳没) アラゴン王国、ウエスカ |
埋葬 | アラゴン王国、ウエスカ、サン・ペドロ・エル・ビエホ修道院 |
配偶者 | アニェス・ド・ポワティエ(イネス・デ・ポイトウ) |
子女 | ペトロニーラ |
家名 | ヒメノ家 |
王朝 | ヒメノ朝 |
父親 | サンチョ1世 |
母親 | フェリシー・ド・ルシー |
レミーロ2世(アラゴン語:Remiro II、1086年4月24日 - 1157年8月16日)は、アラゴン王(在位:1134年 - 1137年)。アラゴン王兼ナバラ王サンチョ・ラミレスの子。ペドロ1世の異母弟、アルフォンソ1世の同母弟。よく知られるラミロ2世(Ramiro II)という名は、カスティーリャ王国の言語であるカスティーリャ語(一般にスペイン語として知られる)の名である。
生涯
[編集]1134年の同母兄アルフォンソ1世の死後、アラゴン王位を継いだが、ナバラ王位にはガルシア6世が就き、父サンチョ・ラミレス以来続いていた同君連合は解消された。俗事を嫌い僧籍にあったが、兄の死により仕方なく王位を継いだと言われる。また、兄と遺恨のあるカスティーリャ王アルフォンソ7世がサラゴサを占領していた[1][2]。
即位から翌1135年にアキテーヌ公ギヨーム9世の娘アニェス(イネス)と結婚し、1136年に一人娘ペトロニーラをもうけた[3]。そして1137年に生まれたばかりのペトロニーラを隣国カタルーニャの君主、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世に嫁がせると、同年11月に王位をペトロニラに譲り、娘婿ラモン・バランゲー4世にアラゴンの統治を託した。こうしてアラゴンとカタルーニャの王朝連合(アラゴン連合王国)が成立した[1][4]。
退位後、1157年に死去するまでの20年間、レミーロは俗世からは身を引き、ウエスカのサン・ペドロ・エル・ビエホ修道院(サン・ペール・オ・ビエーリョ修道院)で一修道士として暮らした。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中央公論新社(中公新書)、2000年。ISBN 4-12-101564-9
- 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
- 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語』彩流社、2016年。
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.