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高井戸宿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高井戸宿(たかいどしゅく)は、かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿[1]。現在の杉並区高井戸にあった。

概要

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通行大名が少なく、脇本陣は置かれなかった。当初は甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。

周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める[2]合宿としていた。

助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。

下高井戸宿

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日本橋から4。宗源寺(下高井戸4-2-3)の西隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿

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日本橋から4里1240。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。

沿革

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  • 1602年(慶長7年) - 高井戸宿が設けられる。
  • 1604年(慶長9年) - 上・下高井戸宿に分けられる。
  • 1673年(延宝元年) - 1680年(延宝8年)ころ - 旅籠が24軒存在。
  • 1698年(元禄11年) - 内藤新宿が設置され、高井戸宿は甲州街道の第二番目の宿場となる。
  • 1781年(天明元年) - 1789年(寛政元年)ころ - 旅籠が6軒存在。
  • 1839年(天保10年) - 下高井戸宿の本陣は、すでになかった[3]
  • 1843年(天保14年)ころ - 旅籠は、上高井戸宿で2軒、下高井戸宿で3軒。
  • 1872年(明治5年)[西暦年要検証] - 駅制業務は、明治政府が管掌し、半強制的に新たな陸運会社が置かれ、旧高井戸宿では旧宿場役人を中心に「高井戸駅陸運会社」を設立する。

隣の宿

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内藤新宿 - 高井戸宿(下高井戸宿 - 上高井戸宿) - 国領宿-布田宿-上布田宿-下石原宿-上石原宿(布田五宿

脚注

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  1. ^ 複数の宿場が、月の日数ごとに継ぎ立て(馬や人の背で宿から宿へと継ぎ送ること)を勤める。
  2. ^ 新編武蔵風土記稿 上高井戸宿.
  3. ^ 細淵家文書、1839年(天保10年)

参考文献

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関連項目

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