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片岡長正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かたおか ちょうせい(ちょうしょう)
片岡 長正
片岡 長正
1923年の写真、満36歳。
本名 桑島 莊一郎 (くわじま そういちろう)
別名義 澤村 鶴松 (さわむら つるまつ)
桑島 壯一郎 (くわじま そういちろう)
久和島 壯一 (くわじま そういち)
久和島 莊一
生年月日 (1887-04-28) 1887年4月28日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区
身長 149.5cm
職業 俳優、元歌舞伎役者、元女形
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1895年 - 1937年
配偶者
主な作品
矢口の渡
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しょだい かたおか ちょうせい(ちょうしょう)
初代 片岡長正
屋号 若松屋
定紋 七つ割丸に二引
生年月日 1887年4月28日
没年月日 不詳年
本名 桑島 莊一郎 (くわじま そういちろう)
襲名歴 1. 桑島 莊一郎
2. 澤村 鶴松
3. 初代 片岡長正
俳名
出身地 東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区
桑島玄哲
当たり役
仮名手本忠臣蔵』の顔世御前
鎌倉三代記』の時姫
本朝廿四孝』の八重垣姫

片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元女形である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。芸名の読みは「かたおか ちょうしょう」と表記されることもある[3][5][9]。芸名を片岡 長生とするのは誤りである[1]。本名は桑島 莊一郎(くわじま そういちろう)とされる[7][8][10][13][14]が、桑島 長生(くわじま ちょうせい、くわじま ちょうしょう)[1][2][4]桑島 長正(読み同じ)[3][5][6][9]桑島 藏一郎(くわじま ぞういちろう)[11]幸島 喜一郎(こうじま きいちろう)の説もある[12]。幼名は澤村 鶴松(さわむら つるまつ)[1][2][3][4][5][6][7][9][11]。旧芸名は桑島 壯一郎(くわじま そういちろう)、久和島 壯一(くわじま そういち)、久和島 莊一(読み同じ)[5][6]旧劇を経て横田商会日活京都撮影所に所属し、尾上松之助の相手役として活躍した名女形として知られる[1]

来歴・人物

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1887年(明治20年)4月28日東京府南豊島郡内藤新宿北裏町(現在の東京都新宿区新宿歌舞伎町辺り)に生まれる、とされている[1][2][3][4][5][6][7][9][10][11][13]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治廿年四月廿七日」(1887年4月27日)、出生地は「四谷区内藤新宿北裏町」である旨が記されている[12]が、内藤新宿北裏町は東京市四谷区の編入によって町名消滅しているため、誤りである。また、『映画大観』(春草堂)によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は京都府京都市である旨が記されている[14]。実父の桑島玄哲は医師であった[1][3][6][7][8][9][11]

1894年(明治27年)、満7歳の時に実父を亡くし、厳格な実母の手で育てられた、とされる[1][7][11]。『花形活動俳優内証話』(杉本金成堂)などによれば、実父の死後、現在の福島県いわき市にある赤井嶽薬師(常福寺)に預けられ、満14歳となる1901年(明治34年)まで僧侶として修行を行っていた、とある[8][10]。1895年(明治28年)、尋常小学校在学中に、芸事が好きだった亡父の影響により芝居を志し、名女形としてならした歌舞伎役者三代目澤村門之助の門下となり、澤村鶴松を名乗って初舞台を踏む[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][13][14]。以降、三世門之助と共に宮城県仙台市を中心に東北地方を巡業し、若女形として修行を行っていたが、間も無く帰京して同じく三世門之助の門下だった澤村訥丸澤村傳次郎澤村鶴之助らと子供芝居の一座を組織、福島県福島市を中心に再び東北地方を巡業[1][6][7]。ところが、不入りのため再び帰京、今度は歌舞伎役者七代目市川八百蔵の内弟子となり、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)にあった宮戸座に出演[1][2][3][4][6][7][8][9][10][11]。その後、一時は三世門之助のもとに戻ったが、やがて東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区)にあった市村座に出演していた歌舞伎役者澤村村右衛門に見込まれ、急遽村右衛門の弟子となる[1][2][3][4][6][7][11]。ところが、鶴松を養子にしたいとまで可愛がっていた村右衛門が1904年(明治37年)4月13日に数え年46歳で急逝したため、鶴松は間も無く三代目中村歌六四代目淺尾工左衞門一座に加入し、東京府東京市浅草区にあった国華座に出演[4][7]。また、嵐芳五郎四代目嵐冠十郎一座にも加わり、石川県金沢市を中心に北陸地方を巡業する[6][7][9]。その後、大阪府大阪市に赴き、歌舞伎役者四代目片岡長太夫の門下となり、初代片岡長正を襲名、同市にあった松島八千代座天満座に出演した[1][2][3][4][6][7][8][9][10][11]

1910年(明治43年)、四世長太夫のもとを離れ、かつて四世冠十郎の門下だった映画俳優嵐冠三郎の招聘により、横田商会に入社する[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][13][14]。以来、尾上松之助一派に加わり、1912年(大正元年)9月に同所が日活京都撮影所と改称された後も継続入社、市川家久蔵中村歌枝、そして後に加わった片岡松燕らと共に同所の女形スターとして活躍し、1913年(大正2年)12月に公開された牧野省三監督映画『尼子十勇士』や、1918年(大正7年)4月25日に公開された牧野省三監督映画『矢口の渡』など、松之助映画の殆どに出演した[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]

『現代俳優名鑑』など一部の資料によれば、京都府京都市千本通出水東入ル(現在の同市上京区)、京都府葛野郡衣笠村(現在の同市北区衣笠)、京都府京都市御前通下長者町下ル東入西三丁(現在の同府同市上京区北町辺り)と転々とし、身長は4尺9寸(約149.5センチメートル)、体重は12貫400匁(約46.5キログラム)、趣味は筑前琵琶である旨が記されている[9][12][13][14]

1924年(大正13年)10月、同所旧劇部に岩井咲子(歌舞伎俳優澤村金十郎の実娘)、澤村春子などの女優が登場し、また、かつて日活向島撮影所に所属していた新派俳優小栗武雄を松之助映画に起用したことが引き金となり、日活を退社する[1][3][5][6]。退社後、尾上多摩之丞中村梅昇らと一座を組織し、関西地方を巡業していたが、1925年(大正14年)8月にマキノ派と分裂したばかりの 東亜キネマ等持院撮影所に入社[1][3][5][6]。以降、長正は女形を廃して男優に転向したが、あまり長くは続かず、翌1926年(大正15年)2月にはマキノ・プロダクション御室撮影所に移籍する[1][3][5][6]。芸名も本名の桑島莊一郎から、桑島壯一郎久和島壯一久和島莊一と変えながら活動を続けていたが、同所でもあまり役柄には恵まれず、同年6月11日に公開された牧野省三監督映画『お洒落狂女 前後篇』に脇役出演したのを最後に間も無く退社、映画界から一時姿を消した[3][5][6]

マキノ退社後の動向は明らかでないが、芸名を片岡長正に戻して再び地方巡業に出たものと思われ、1932年(昭和7年)12月に京都座で開催された「万歳大会」において、長正は趣味を生かして筑前琵琶を上演したという記録が残っている[15]。その後、1936年(昭和11年)に極東映画社へ入社、密かに映画界に復帰しており、翌1937年(昭和12年)に公開された西藤八耕監督映画『剣豪秋月隼人』まで出演作品が確認出来る[3][5][6]。ところが、1937年(昭和12年)に改組された極東キネマ株式会社に継続入社した様子はなく、以後の消息は全く伝えられていない[2][3][4][5][6]が、1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)によれば、同誌執筆の時点では、すでに死去したものとされている[1]。また、1940年(昭和15年)に日活太秦撮影所の撮影所長だった池永浩久の発願によって、京都府京都市上京区にある法輪寺に映画関係者400名余りの霊牌が奉祀されたが、その中に長正の名前も刻銘されている。没年不詳

おもなフィルモグラフィ

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、148-149頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年、212-213頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『映画俳優事典 戦前日本篇』未来社、1994年。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、141頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本映画人 改名・別称事典』国書刊行会、2004年、58頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『映画論叢 30』国書刊行会、2012年、91-92頁。 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『活動俳優銘々伝』活動写真雑誌社、1916年、11-18頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i 『花形活動俳優内証話』杉本金成堂、1918年、43-47頁。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 『人気役者の戸籍調べ』文星社、1919年、149頁。 
  10. ^ a b c d e f g h i 『世界映画俳優名鑑 大正十一年度』キネマ同好会、1922年、275頁。 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 『活動俳優名鑑 前編』活動新聞社、1923年、20頁。 
  12. ^ a b c d e 『現代俳優名鑑』揚幕社、1923年、17頁。 
  13. ^ a b c d e f g 『映画新研究十講と俳優名鑑』朝日新聞社、1924年、131-132頁。 
  14. ^ a b c d e f g 『俳優大観』春草堂、1924年、91頁。 
  15. ^ 『近代歌舞伎年表 京都篇9』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編、2003年、324頁。 

関連項目

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外部リンク

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