瀬越村
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せごえむら 瀬越村 | |
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廃止日 | 1954年3月10日 |
廃止理由 |
編入合併 瀬越村 → 大聖寺町 |
現在の自治体 | 加賀市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方(北陸地方) |
都道府県 | 石川県 |
郡 | 江沼郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
371人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 大聖寺町、塩屋村、三木村 |
瀬越村役場 | |
所在地 | 石川県江沼郡瀬越村 |
座標 | 北緯36度17分49秒 東経136度15分43秒 / 北緯36.29683度 東経136.26203度座標: 北緯36度17分49秒 東経136度15分43秒 / 北緯36.29683度 東経136.26203度 |
ウィキプロジェクト |
瀬越村(せごえむら)は石川県江沼郡にあった村。現在の加賀市大聖寺瀬越町(一時は吉崎町も含む)にあたる。戦前期までは北前船の船主・大家家、広海家の邸宅があり、加賀橋立とともに『日本一の富豪村』と称された[1]。
地理
[編集]歴史
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、瀬越村及び吉崎村の区域をもって、瀬越村が発足する。
- 1891年(明治24年)11月21日 - 大字吉崎の区域が三木村に編入する。
- 1954年(昭和29年)3月10日 - 大聖寺町に編入する。
広海二三郎
[編集]北前船の巨頭の大部分は瀬越村と橋立村にあり、両村とも日本有数の富裕な村だった[2]。瀬越の船主には、広海(ひろみ)、大家(おおいえ)、角谷、浜中等があった[2]。広海家は1820年頃、2代当主・広海二三郎が北前船による廻漕問屋を始め、大聖寺藩の御用を承る代々船主となった[2]。明治維新後の近代化により多くの船主が廃れていくなか、5代広海二三郎と大家七平(二三郎の弟)は産業革命の波に乗って大成した[2]。
5代広海二三郎(1854-1929)は1869年から北前船に乗り込んで5年間修業し、航海術や船の管理機構のほか、商売について習得した[2]。当時広海家では7隻の千石船を所有しており、1874年に二三郎を主任に小樽支店を開設、折から起こった西南戦争の特需で巨利を得た[2]。1879年には北前船主として初めて西洋型帆船を複数購入して成功し、1886年に大阪に移り、1888年に北前船主として初めて汽船を購入、大きな賭けであったがこれも成功させた[2]。広海汽船を設立して社長となり、1904年には貴族院の多額納税者議員となった[3]。九州で硫黄や石炭の鉱山経営も行い、1908年に広海商事を設立し、家業を大きく発展させた[3]。また北前船主を集めて日本海上保険を創立したほか、大阪商業会議所議員なども務めた[4]。
脚注
[編集]- ^ 橋立・瀬越 北前船で富を築いた日本一の富豪村
- ^ a b c d e f g 社外船の発達 (一〜四) 独立自営の船主団 半世紀の財界を顧る時事新報 1931.5.17-1931.5.22(昭和6)、神戸大学附属図書館
- ^ a b 広海 二三郎(読み)ヒロウミ ニサブロウ20世紀日本人名事典
- ^ 広海二三郎(読み)ひろうみ・にさぶろう朝日日本歴史人物事典
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 拝みどり「17. 瀬越町における「御両家」の存在(瀬越町)」『金沢大学文化人類学研究室調査実習報告書』第1997号、金沢大学、1997年7月、154-161頁、NAID 110004632370。