滋野井公光
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 貞応2年(1223年) |
死没 | 建長7年11月10日(1255年12月10日) |
官位 | 正二位・権中納言 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 |
父:滋野井実宣 母:藤原宗子(持明院基宗の娘) |
兄弟 | 公賢、公蔭、公光、公基、公源、藤原盛兼室 |
妻 | 一条実有の娘 |
子 | 実冬、従三位中納言典侍、一条実家室 |
滋野井 公光(しげのい きんみつ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。権大納言・滋野井実宣の二男。官位は正二位・権中納言。
経歴
[編集]嘉禄2年(1226年)兄・公賢が父と妻について対立し、出家してしまったため急遽公光が嫡男とされた。嘉禄3年(1227年)従五位上に叙せらる。安貞2年(1228年)侍従に任じ、寛喜2年(1230年)正五位下に進む。寛喜3年(1231年)従四位下・右近衛少将に叙任された。
寛喜4年(1232年)従四位上・近江権介に叙任。天福元年(1233年)皇太后権亮に任ぜられる。文暦2年(1235年)正四位下・右近衛中将に叙任され、美濃権介を兼ねる。延応元年(1239年)に蔵人頭に補任された後、仁治元年(1240年)従三位・参議に叙任され公卿に列し、右近衛中将・備前権守・右衛門督・近江権守を兼任する。仁治3年(1242年)には正三位に叙された。
仁治4年(1243年)権中納言に任ぜられる。寛元2年(1244年)勅授帯剣。寛元4年(1246年)従二位に昇叙され、建長2年12月(1250年1月)中納言に転任する。建長3年(1250年)には正二位に至った。
建長6年(1254年)に中納言を辞退し、建長7年(1255年)11月9日に出家し、10日に薨去。享年33。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 年 月 日:従五位下に叙爵。
- 嘉禄3年(1227年)正月5日:従五位上に叙す。
- 安貞2年(1228年)2月1日:侍従に任ず。
- 寛喜2年(1230年)正月5日:正五位下に叙す。
- 寛喜3年(1231年)正月29日:右近衛少将に任ず。10月12日:従四位下に叙す。少將如元。
- 寛喜4年(1232年)正月12日:従四位上に叙す(朝覲行事。安嘉門院院司賞)。正月30日:近江権介を兼ぬ。
- 天福元年(1233年)6月20日:皇太后権亮に任ず。
- 文暦2年(1235年)6月17日:右近衛中将に転ず。権亮に止む。11月19日:正四位下に叙す(大嘗會國司近江)。
- 嘉禎2年(1236年)2月30日:美濃権介を兼ぬ。
- 延応元年(1239年)11月16日:蔵人頭に補す。
- 仁治元年(1240年)10月20日:参議に任ず。10月24日:更に右近衛中将を兼ぬ。11月12日:従三位に叙す。
- 仁治2年(1241年)2月1日:備前権守を兼ぬ。
- 仁治3年(1242年)7月15日:右衛門督を兼ぬ。検非違使別当に補す。11月4日:近江権守を兼ぬ。11月12日:正三位に叙す(大嘗會國司賞)。
- 仁治4年(1243年)7月27日:権中納言に任ず。右衛門督・別當如元。10月5日:別当を辞す。辞状を返り下らる。10月25日:勅許。
- 寛元2年(1244年)2月23日:勅授帯剣。
- 寛元4年(1246年)正月5日:従二位に叙す。
- 建長元年12月24日(1250年1月28日):任に復す。
- 建長2年12月15日(1251年1月8日):中納言に転ず。
- 建長3年(1251年)正月22日:正二位に叙す。
- 建長6年(1254年)正月13日:辞す。
- 建長7年(1255年)11月9日:出家[1]。11月10日:薨去。