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滋野井公光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
滋野井公光
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 貞応2年(1223年
死没 建長7年11月10日1255年12月10日
官位 正二位権中納言
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇
氏族 滋野井家
父母 父:滋野井実宣
母:藤原宗子持明院基宗の娘)
兄弟 公賢公蔭公光公基、公源、藤原盛兼
一条実有の娘
実冬、従三位中納言典侍、一条実家
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滋野井 公光(しげのい きんみつ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿権大納言滋野井実宣の二男。官位正二位権中納言

経歴

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嘉禄2年(1226年)兄・公賢が父と妻について対立し、出家してしまったため急遽公光が嫡男とされた。嘉禄3年(1227年従五位上に叙せらる。安貞2年(1228年侍従に任じ、寛喜2年(1230年正五位下に進む。寛喜3年(1231年従四位下右近衛少将に叙任された。

寛喜4年(1232年)従四位上・近江権介に叙任。天福元年(1233年皇太后権亮に任ぜられる。文暦2年(1235年正四位下・右近衛中将に叙任され、美濃権介を兼ねる。延応元年(1239年)に蔵人頭に補任された後、仁治元年(1240年従三位参議に叙任され公卿に列し、右近衛中将・備前権守右衛門督・近江権守を兼任する。仁治3年(1242年)には正三位に叙された。

仁治4年(1243年)権中納言に任ぜられる。寛元2年(1244年)勅授帯剣。寛元4年(1246年従二位に昇叙され、建長2年12月(1250年1月)中納言に転任する。建長3年(1250年)には正二位に至った。

建長6年(1254年)に中納言を辞退し、建長7年(1255年)11月9日に出家し、10日に薨去。享年33。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 年 月 日:従五位下に叙爵。
  • 嘉禄3年(1227年)正月5日:従五位上に叙す。
  • 安貞2年(1228年)2月1日:侍従に任ず。
  • 寛喜2年(1230年)正月5日:正五位下に叙す。
  • 寛喜3年(1231年)正月29日:右近衛少将に任ず。10月12日:従四位下に叙す。少將如元。
  • 寛喜4年(1232年)正月12日:従四位上に叙す(朝覲行事。安嘉門院院司賞)。正月30日:近江権介を兼ぬ。
  • 天福元年(1233年)6月20日:皇太后権亮に任ず。
  • 文暦2年(1235年)6月17日:右近衛中将に転ず。権亮に止む。11月19日:正四位下に叙す(大嘗會國司近江)。
  • 嘉禎2年(1236年)2月30日:美濃権介を兼ぬ。
  • 延応元年(1239年)11月16日:蔵人頭に補す。
  • 仁治元年(1240年)10月20日:参議に任ず。10月24日:更に右近衛中将を兼ぬ。11月12日:従三位に叙す。
  • 仁治2年(1241年)2月1日:備前権守を兼ぬ。
  • 仁治3年(1242年)7月15日:右衛門督を兼ぬ。検非違使別当に補す。11月4日:近江権守を兼ぬ。11月12日:正三位に叙す(大嘗會國司賞)。
  • 仁治4年(1243年)7月27日:権中納言に任ず。右衛門督・別當如元。10月5日:別当を辞す。辞状を返り下らる。10月25日:勅許。
  • 寛元2年(1244年)2月23日:勅授帯剣。
  • 寛元4年(1246年)正月5日:従二位に叙す。
  • 建長元年12月24日(1250年1月28日):任に復す。
  • 建長2年12月15日(1251年1月8日):中納言に転ず。
  • 建長3年(1251年)正月22日:正二位に叙す。
  • 建長6年(1254年)正月13日:辞す。
  • 建長7年(1255年)11月9日:出家[1]。11月10日:薨去。

系譜

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脚注

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  1. ^ 百錬抄建長7年11月9日条