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源重光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 重光
時代 平安時代中期
生誕 延長元年(923年
死没 長徳4年7月10日998年8月4日
別名 致仕大納言
官位 正三位権大納言
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 醍醐源氏
父母 父:代明親王、母:藤原定方の娘
兄弟 重光保光、恵子女王、延光、荘子女王、厳子女王、遠光
行明親王の娘
通雅長経方理則理、康経、藤原伊周室、藤原道長
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源 重光(みなもと の しげみつ)は、平安時代中期の公卿歌人醍醐天皇の第三皇子・代明親王の長男。官位正三位権大納言致仕大納言と称す。

経歴

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承平8年(938年従四位下に叙される。侍従を経て天暦4年(950年信濃権守に任ぜられる。

天暦7年(953年右近衛中将に任ぜられる。翌年には伊予守を兼ね、天暦9年11月(956年1月)従四位上に昇叙。天徳2年(958年)左近衛中将に転じる。播磨守左京大夫備中権守を歴任。応和4年(964年参議に任ぜられ公卿に列し、宮内卿を兼ねる。康保2年(965年伊勢権守を務め、康保4年(967年正四位下に叙される。

右兵衛督を経て、安和元年(968年従三位・播磨権守に叙任される。天禄3年(972年)に大蔵卿天延2年(974年)には検非違使別当に任ぜられる。貞元2年(977年中納言天元5年(982年正三位永観3年(985年)3月円融上皇読経結願に参会[1]。同年4月には警固を行う[2]永祚元年(989年)8月に藤原頼忠の七七日忌が行われた際、これに参会している[3]正暦2年(991年)9月の任大臣の儀に参り[4]、同日極官の権大納言に至っている。

正暦3年(992年)辞任し、官職を藤原伊周に譲る。その為、致仕大納言と称された。正暦4年(993年)参議・藤原実資を乞い、これを送られている[5]長徳4年(998年)7月10日子刻[6]薨去。享年76。薨去前日には大甥にあたる藤原行成が見舞いに来ている。その際、子・明理は病悩は甚だ重いと重光の病の様子に言及している。

重光楽という曲を作るなど音楽に秀でる。また、和歌にも通じ、『後撰和歌集』には数首が残っている。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 承平8年(938年)正月7日:従四位下
  • 天慶5年12月13日(943年1月21日):侍従
  • 天慶7年(944年)4月14日:昇殿
  • 天暦4年(950年)正月30日:信濃権守
  • 天暦7年(953年)4月29日:右近衛中将
  • 天暦8年(954年)3月14日:伊予守
  • 天暦9年11月21日(956年1月7日):従四位上
  • 天徳2年(958年)7月28日:左近衛中将
  • 天徳3年(959年)7月17日:播磨守
  • 応和元年(961年)7月3日:左京大夫
  • 応和4年(964年)正月27日:備中権守、3月27日:参議
  • 康保元年(964年)7月29日:宮内卿
  • 康保2年(965年)5月11日:伊勢権守
  • 康保4年(967年)10月11日:正四位下(御即位次)
  • 康保5年(968年)6月14日:右兵衛督
  • 安和元年(968年)11月14日:播磨権守(與弟延光朝臣相替。止卿)、11月23日:従三位(去卿。主基)
  • 天禄3年(972年)2月29日:大蔵卿
  • 天禄4年(973年)3月28日:右衛門督并伊與権守
  • 天延2年(974年)2月17日:使別当
  • 天延3年(975年)正月26日:左兵衛督
  • 貞元2年(977年)4月24日:中納言
  • 天元5年(982年)正月7日:正三位
  • 永観3年(985年)3月30日:円融上皇読経結願4月21日:有警固行之
  • 永祚元年(989年)8月11日:藤原頼忠七七日忌参会
  • 正暦2年(991年)9月7日:任大臣事参会、権大納言
  • 正暦3年(992年)8月28日:上表辞任、藤原伊周に権大納言を譲る

系譜

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脚注

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  1. ^ 小右記』永観3年3月30日条
  2. ^ 『小右記』永観3年4月21日条
  3. ^ 『小右記』永祚元年8月11日条
  4. ^ 権記』正暦2年9月7日条
  5. ^ 『小右記』正暦4年3月11日条
  6. ^ 『権記』長徳4年7月10日条
  7. ^ a b c d e f g 尊卑分脈』醍醐源氏