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源延光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 延光
時代 平安時代中期
生誕 延長5年(927年
死没 天延4年6月17日976年7月16日
別名 枇杷大納言
官位 従三位権大納言
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 醍醐源氏
父母 父:代明親王、母:藤原定方
兄弟 重光保光、恵子女王、延光
荘子女王、厳子女王、遠光
藤原敦忠
泰平藤原済時
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源 延光(みなもと の のぶみつ)は、平安時代中期の公卿歌人醍醐源氏中務卿代明親王の三男。官位従三位権大納言枇杷大納言と号す。

経歴

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朱雀朝末の天慶9年(946年従四位下に叙され、同年11月に源朝臣姓を賜り臣籍降下し、天暦2年(948年侍従に任官する。天暦3年(949年)には右大臣藤原師輔を請客使として出迎えている。

春宮権亮内蔵頭右兵衛督を務めたのち、天徳4年(960年)従四位上・蔵人頭右近衛権中将に叙任され、康保3年(966年)に参議に任ぜられ公卿に列す。兄・保光よりも4年早い参議昇進であった。

議政官の傍らで、右近衛権中将や春宮大夫を兼帯し、安和2年(969年正四位下に叙せられている。円融朝初頭の天禄元年(970年従三位権中納言に叙任され、天禄3年(972年)に中納言となる。天禄4年(973年)に検非違使別当に補されるが翌年に兄・重光にこれを譲り、天延3年(975年権大納言に至る。

天延4年(976年)6月14日に病のために出家し、17日に薨去享年50。

勅撰歌人として、『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集和歌作品5首が入集している[1]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 九暦天暦3年正月11日条
  3. ^ 一代要記』など。

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年

外部リンク

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