源義親の乱
源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)は、平安時代中期に起きた反乱。康和の乱、源義親追討事件などとも言われる。
源義家の子の義親が九州で略奪を行い、官吏を殺したため、隠岐国へ流された。だが、義親は出雲国で再び目代を殺害して官物を奪う乱暴を働いた。父の義家の死後、白河法皇の起用により平正盛が派遣され義親は誅された。義親の首は京都で梟されたが、生存の噂が絶えず、その後、次々に「義親」を名乗る者が現れ、事件の余波は20年以上に渡って続いた。乱後に河内源氏では内訌が続き大きく凋落する。一方、平正盛による義親追討は伊勢平氏の台頭の契機となった。
背景
[編集]源義家は後三年の役で清原氏と戦って勝利したが、朝廷は私戦として論功行賞を認めなかった。このため義家は従軍した軍士に私財をなげうって報償し、これによって東国武士、百姓の義家への尊崇は絶大なものになっていた。京都でも義家の威名は高まり「天下第一の武勇の士」と呼ばれた。
この頃は摂関政治に代わる院政の時代で、白河法皇が「治天の君」として専制権力を振っていた。白河法皇は義家の武力を身辺警固に大いに活用する一方で、前陸奥守のまま昇進はさせず、あまつさえ寛治5年(1091年)には諸国の百姓に義家への田畑の寄進の禁止を命じる宣旨を出し、その力を抑え込もうとした。
一方で、法皇は義家の対抗馬を用意し、弟の義綱を積極的に起用し、同7年(1093年)に出羽国で平師妙・師季が叛乱を起こすと起用して鎮圧させ、義綱は師妙・師季の首を掲げ堂々行列して京都へ凱旋した。義綱は賞により従四位下に叙せられ、美濃守に任じられた。この義綱と義家の仲は極めて険悪だった。
それでも、義家の声望は依然として高く、承徳2年(1098年)法皇は義家に院の昇殿を許し、義家は感激したが、武士の身分を低く見る当時の公卿社会はこれすらも納得しない風潮だった。
源義親の横行と義家の死
[編集]義家の二男の義親は父譲りの剛勇で知られ、対馬守に任じられて九州に赴任していたが、康和3年(1101年)大宰大弐大江匡房から義親が人民を殺し、略奪を行っているとの訴えが起こされた。朝廷は追討を議し、まずは義家の郎党の豊後権守藤原資道を派遣し、説得して召還を試みることになった。ところが、現地に着いた資道は義親に従い官吏を殺してしまった。このため、翌同4年(1102年)12月、朝廷は義親を隠岐国へ流罪と決める。その後の動静は詳らかではなく、『大日本史』などは義親は配所には行かなかったとしている。
義親は出雲国へ渡り、目代を殺害して再び官物を奪う乱暴を働いた。義家の立場は苦しいものとなり、義家自らが子の義親追討に当たらねばならなくなった[1]。
嘉承元年(1106年)、常陸国でも三男の義国と弟の義光が合戦に及ぶ騒動を起こし(常陸合戦)、義家が京都への召還を命じている。このような一族が引き起こす騒擾のさなか、同年7月、義家は68歳で死去した。
平正盛による追討
[編集]平維衡を祖とする伊勢平氏は伊勢国に地盤を持った武士で、中央では検非違使などとして朝廷の武力として活動していたが、さほど目立った存在ではなかった。隠岐守だった平正盛は永長元年(1096年)に白河法皇の皇女媞子内親王を弔う六条院の御堂に伊勢の所領を寄進し、それを期に若狭守に転じ、法皇から目をかけられるようになっていた。
嘉承2年(1107年)12月19日、因幡守だった正盛は、依然として出雲で横行する義親の追討使に任じられた。出陣にあたり正盛は京都にあった義親の邸宅に向かって三度、鬨の声をあげ、三度、鏑矢を放って出立した(『源平盛衰記』)。
翌天仁元年(1108年)正月6日、正盛の軍は出雲国へ到着。そして、同月19日、はやくも正盛から義親と従類5人の首を切ったとの戦勝報告が京都へ入った。こうして、義親の乱はあっけなく鎮圧された。
合戦の経過は詳らかではないが、鎌倉時代末期成立の『大山寺縁起』によると、義親は蜘戸(雲津浦)に城を築いて立てこもり、正盛は因幡伯耆出雲三カ国の軍勢を率いて海を渡り、山を越えて、攻め立て、遂に義親を討ち取ったとある。
法皇はこれを喜び、異例にも正盛の帰還を待たずに行賞を行った。正盛は但馬守、子の盛康は右兵衛尉、盛長は左兵衛尉に任じた。当初の公卿の会議では正盛に対しては本人が上洛する前でも早急に恩賞を授ける方針であったが、実際には上洛後に手柄を審査した上で恩賞を授ける予定であった正盛の子供や郎党にも直ちに恩賞が与えられた[2]。当時の公家の日記『中右記』は「最下品の者が、第一国に任じられたのは院に近侍しているからだろう」との世評を載せている。
正月29日、正盛は京都へ帰着。義親ら討ち取った者たちの首を掲げて行列を組んで堂々と凱旋した。京の貴賤の人々はこれを見ようと大騒ぎになり、法皇まで車を出して見物に来た。義親の首は七条河原で検非違使に渡され、梟首となった。
河内源氏の内訌
[編集]一旦は義家の嫡子となった義親が追討の対象とされたことで、河内源氏一族には動揺が生じ、遂には深刻な内紛が起こった。
義家の遺志により河内源氏の家督は四男の義忠とされ、義親の長男の為義がその養子とされた。天元2年(1109年)2月、義忠が殺害される事件が起こる。容疑は義綱にかけられ、憤慨した義綱は一族とともに近江国甲賀に立て籠もり、為義がこの追討にあたり、合戦の末に義綱の子たちは殺され、義綱は降伏して佐渡国へ流され、後に自害している。
義綱の容疑は冤罪とされ、真相は不明だが『尊卑分脈』などでは義家の弟の義光を真犯人としている。この同族の内訌によって、河内源氏の力は大きく削がれた。
4人の「義親」
[編集]剛勇で知られた義親がそれまでさしたる武名もなかった正盛に簡単に誅されたことに疑問を持つ者は少なくなかった。正盛の武功は疑問とされ、義親生存の噂が流れた。
永久5年(1117年)、義親を名乗る法師が越後国に現れ、豪族平永基の屋敷に出入りした。国司が引き渡しを命じると、永基は法師の首を斬り梟首したが、誰の首かもわからず、永基は検非違使の尋問を受けている。
翌元永元年(1118年)常陸国に義親を名乗る者が現れた。下総守源仲政(源頼政の父)が捕縛しようとするが逃げられ、5年後の保安4年(1123年)になって下野国で捕えて京都へ送り、検非違使に引き渡した。これは白河法皇、鳥羽上皇が実見するまでの騒ぎになったが、結局、義親は既に討滅されているのだからと、この者は偽者とされ梟首された。
白河法皇が崩御した大治4年(1129年)9月、義親を名乗る者が関東から入洛したとの風聞があった。この者は鳥羽上皇の意向を受けて前関白藤原忠実の鴨院邸に匿われ、「鴨院義親」と呼ばれた。加賀介家定ら旧知の者たちが実見し、大方は別人と証言したが、本物と証言する者もいた。しかも、この「鴨院義親」とは別に義親の旧家人の応弁房が義親を熊野で目撃したという噂もあり、生存説は根強かった。
ところが、翌同5年(1130年)近江国大津に義親を名乗る別の者が現れて入京し、「大津義親」と呼ばれた。「義親」が二人同時に在京する奇怪な事態となった。同年10月、両者は党類を引き連れて源光信邸前で乱闘となり、「大津義親」が殺された。
11月、藤原忠実邸(鴨院)に居た「鴨院義親」を騎兵20、従者3-40人が襲撃。「鴨院義親」は党類10人とともに殺された。
鳥羽上皇は事件の下手人を捜すよう公卿会議に命じた。かつて義親を追討した正盛の子の忠盛も疑われたが、彼は潔白を主張し、自ら下手人を捕らえると言った。結局、検非違使の源光信が下手人ということにされ(動機は不明)、土佐国へ流され、弟の光保も連座して解官された。
この事件はかつて白河法皇が追討させた大罪人の義親を名乗る人物を、鳥羽上皇が藤原忠実に保護させ、更にこの罪人を殺した者を賞するどころか罰したなど、不審な点が多い[3]。
伊勢平氏の台頭
[編集]義親追討の「成功」後、白河法皇は源氏に対抗させるように正盛を引き立て昇進させた。山門衆徒の強訴の防禦、強盗の追捕や九州での平直澄の追討などに起用し功を上げさせ、従四位下にまで昇進させた。
一方、義親の子の為義は河内源氏の家督は継いだが、祖父が任じられた陸奥守となる願いも許されず、検非違使判官のまま長く留め置かれた。
正盛、忠盛父子は海賊の追捕などを経て西国に勢力を扶養し、やがて、清盛の時代に全盛を迎える。
脚注
[編集]- ^ 義親が出雲目代を殺害した時期ははっきりしない。安田元久『源義家』(吉川弘文館、1989年)と竹内理三『日本の歴史 (6) 武士の登場』(中央公論社、1973年)は義家存命中のこととし、一方、高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆』(文理閣、2004年)は義家死後の嘉承2年(1107年)6月のこととしている。
- ^ 古澤直人「謀叛に関わる勲功賞」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019年) ISBN 978-4-642-02953-7 P49-52.
- ^ 下向井龍彦『武士の成長と院政』(2002年、講談社)は「鴨院の義親はおそらく本物であり、正盛の義親追討は八百長だったのである。少なくとも多くの貴族はそう信じていた。義親の死で忠盛は安堵の息をついたことであろう」と推測している。
参考文献
[編集]- 高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆』(文理閣、2004年)ISBN 4892594652
- 奥富敬之など『歴史群像シリーズ36 平清盛』(学習研究社、1994年)ISBN 4056003661
- 安田元久『源義家』(吉川弘文館、1966年、新装版1989年)ISBN 464205166X
- 竹内理三『日本の歴史 (6) 武士の登場』(中央公論社、1973年)ISBN 4122000629
- 南条範夫『生きている義親』(角川文庫、1979年)
- 史料
- 大日本史「叛臣伝」