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清閑寺熙房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清閑寺煕房
時代 江戸時代前期
生誕 寛永10年3月29日1633年5月7日
死没 貞享3年10月10日1686年11月25日
別名 一字名:賢
戒名 真空院円明常念
官位 従一位権大納言
主君 明正天皇後光明天皇後西天皇霊元天皇
氏族 清閑寺家
父母 父:清閑寺共綱、母:中院通村の娘
兄弟 熙房岡崎宗房常盤直房、共子
貞了院(高倉永敦の娘)
熈定万里小路尚房野宮定基正室、寿光院勧修寺尹隆[1]室、愛宕通晴[1]室、俊了院
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清閑寺 熙房(せいかんじ ひろふさ、旧字体:淸閑寺 煕房)は、江戸時代前期の公卿権大納言清閑寺共綱の子。官位従一位・権大納言。明正天皇(109代)・後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)の四朝に亘って仕えた。

経歴

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寛永11年(1634年)に叙爵。以降、平堂上として少しずつ累進し、左兵衛権佐権右少弁蔵人右少弁左少弁右中弁蔵人頭右大弁を歴任。明暦元年(1655年)に参議となり、公卿に列する。その後、左大弁踏歌節会外弁・権中納言を経て、寛文9年(1669年)に神宮伝奏となっている。延宝元年(1673年)まで伝奏を務めた。

延宝4年(1676年)に権大納言に任官。延宝5年(1677年)には神宮伝奏に再任し、延宝8年(1680年)まで務めた。天和2年(1682年)には賀茂伝奏に就任し、翌年まで務めている。貞享元年(1684年)に権大納言に再任されたが、貞享2年(1685年)には辞した。同年従一位に叙せられている。

嫡男・熈定は、浅野長矩吉良義央に対する殿中刃傷があった元禄14年(1701年)3月の年始答礼の際に霊元上皇院使として江戸へ下向していたことで知られる。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 権中納言

演じた俳優

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