清原真貞
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 真貞王→清原真貞 |
官位 | 従五位下・筑後守 |
主君 | 文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 清原真人 |
兄弟 | 真貞、清貞 |
清原 真貞(きよはら の まさだ)は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初真貞王を名乗る。臣籍降下後の氏姓は清原真人。舎人親王の後裔。官位は従五位下・筑後守。
経歴
[編集]当初真貞王を名乗り、父祖は明らかでないが、舎人親王の四世孫にあたるか。仁寿3年(853年)従五位下・長門守に叙任される。文徳朝末の天安2年(858年)正月に弟の清貞王と共に清原真人姓を与えられて臣籍降下し、同年7月に内膳正に任ぜられる。
清和朝に入り、天安3年(859年)正月に上総介に任ぜられるも、2月には左京亮に遷るが、翌貞観2年(860年)正月に越後守として地方官に転じている。その後、筑後守と清和朝前半は地方官を歴任する。筑後守の任期を終えて、貞観11年(869年)採山城国岡田山銅使に任ぜられ、山城国相楽郡岡田郷(現在の京都府木津川市加茂町付近)の銅山の責任者となるが、早くも貞観12年(870年)には筑後守に再任されている。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 仁寿3年(853年) 正月7日:従五位下。正月16日:長門守
- 天安2年(858年) 正月29日:臣籍降下(清原真人)。7月5日:内膳正
- 天安3年(859年) 正月13日:上総介。2月13日:左京亮
- 貞観2年(860年) 正月16日:越後守
- 時期不詳:筑後守
- 貞観11年(869年) 7月10日:採山城国岡田山銅使
- 貞観12年(870年) 正月25日:筑後守