浅岡朝泰
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名前 | ||||||
カタカナ | アサオカ トモヤス | |||||
ラテン文字 | ASAOKA Tomoyasu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1962年4月6日 | |||||
出身地 | 東京都 | |||||
没年月日 | 2021年10月6日(59歳没) | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF、DF | |||||
ユース | ||||||
1978-1980 | 創価高校 | |||||
1981-1984 | 筑波大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1988 | 日本鋼管 | 63 | (6) | |||
1988-1991 | 読売クラブ | 39 | (2) | |||
通算 | 102 | (8) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1989[1] | 日本 | 8 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2009 | FC堺 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 2021年10月6日)は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(右ウイング)、MF(右ウイングバック)、DF(右サイドバック)。
略歴
[編集]筑波大学卒業後、1985年より日本サッカーリーグ1部の日本鋼管サッカー部に入部。俊足を活かしたドリブル突破と正確なセンタリングが持味で、そのシーズンに新人ながらアシスト王を獲得した。
1985年から1987年シーズンまで3年連続リーグ戦2位、1986年度に天皇杯全日本サッカー選手権大会準優勝、1987年にJSLカップを制覇し、同サッカー部の上位進出に貢献した。また日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選など8試合に出場した[1]。
1988年、サッカー日本代表に右ウイングバックとして選出され、同年にはブンデス・リーガ入りが報道されたが、読売サッカークラブへ移籍。同チームでは、フォワード、右サイドバックとして活躍した。1992年に右足靱帯断裂の怪我を負い[2]、1993年に現役を引退[2]。Jリーガーは叶わなかった。
1994年、第72回全国高校サッカー選手権大会のハイライト番組(日本テレビ系)に出演し、「浅岡朝泰のチェックでござる!!」と題した解説コーナーを担当した。
2003年より帝京大学可児高校サッカー部の総監督に就任した[2] が、2004年に大腸癌が見つかり2007年まで闘病生活を送った[2]。2007年より大阪商業大学大学院、2009年より岐阜大学大学院博士課程にそれぞれ進学した[2]。2009年にはFC堺の監督を務めた。
2012年7月時点でヴィズミックモデルエージェンシー(名古屋事業部)FC disport(名古屋市、愛知郡周辺にてスクール展開)に所属していた。
2021年10月6日、59歳で死去[3]。
所属クラブ
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1985 | 鋼管 | 19 | JSL1部 | 21 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 22 | 2 |
1986-87 | 21 | 2 | 3 | 1 | 5 | 0 | 29 | 3 | |||
1987-88 | 21 | 2 | 4 | 1 | 2 | 0 | 27 | 3 | |||
1988-89 | 読売 | 23 | 16 | 2 | 3 | 0 | 3 | 1 | 22 | 3 | |
1989-90 | 22 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 29 | 0 | |||
1990-91 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | ||
通算 | 日本 | JSL1部 | 102 | 8 | 14 | 2 | 15 | 1 | 131 | 11 | |
総通算 | 102 | 8 | 14 | 2 | 15 | 1 | 131 | 11 |
・JSLオールスターサッカー 1回出場(1987年)
その他の公式戦
- 1989年
- アジア・アフリカクラブ選手権 1試合0得点
- 1990年
- コニカカップ 5試合1得点
受賞歴
[編集]- 1985年 アシスト王、JSLシルバーボール賞、年間優秀11人賞、報知ベストイレブン
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 8試合 0得点(1987-1989)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1987 | 1 | 0 | 7 | 3 | 8 | 3 |
1988 | 5 | 0 | 4 | 0 | 9 | 0 |
1989 | 2 | 0 | 6 | 0 | 8 | 0 |
通算 | 8 | 0 | 17 | 3 | 25 | 3 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1987年04月12日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | シンガポール | ○1-0 | 石井義信 | オリンピック予選 |
2. | 1988年01月27日 | ドバイ | アラブ首長国連邦 | △1-1 | 横山謙三 | 国際親善試合 | |
3. | 1988年01月30日 | アブダビ | アラブ首長国連邦 | ●0-2 | 国際親善試合 | ||
4. | 1988年02月02日 | マスカット | オマーン | △1-1 | 国際親善試合 | ||
5. | 1988年06月02日 | 愛知県 | 名古屋市瑞穂公園陸上競技場 | 中華人民共和国 | ●0-3 | キリンカップ | |
6. | 1988年10月26日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | ●0-1 | 日韓定期戦 | |
7. | 1989年01月20日 | テヘラン | イラン | △2-2 | 国際親善試合 | ||
8. | 1989年05月05日 | ソウル | 韓国 | ●0-1 | 日韓定期戦 |