鬼塚忠久
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名前 | ||||||
カタカナ | オニヅカ タダヒサ | |||||
ラテン文字 | Oniduka Tadahisa | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1955年7月3日(69歳) | |||||
出身地 | 滋賀県甲賀郡甲西町(現・湖南市) | |||||
身長 | 169cm | |||||
体重 | 63kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
滋賀県立甲賀高校 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1974-1985 | 古河電工 | 145 | (19) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
鬼塚 忠久(おにづか ただひさ、1955年7月3日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。滋賀県甲賀郡甲西町(現・湖南市)出身。
略歴
[編集]滋賀県立甲賀高校時代、高校選手権、インターハイ、国体に出場。卒業後の1974年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部(現 ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入部し、1年目からレギュラーの座を獲得。以後、ウインガーとして古河の黄金時代を支え、1982年シーズンにはアシスト王にも輝いた。サイドからのドリブル突破を持ち味とし、得点能力も高かった。
引退後は、芸能人で結成されたサッカーチーム、ザ・ミイラにも所属していた。また、解説者やサッカースクールのコーチなどを経て、2004年に古河時代のチームメイトだった前田秀樹が監督を務める水戸ホーリーホックの強化部長兼取締役に就任。2008年4月まで務めた。
2024年現在、前田が監督を務める東京国際大学体育会サッカー部のスカウティングを務めている[1]。
所属クラブ
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1974 | 古河 | 27 | JSL1部 | 11 | 4 | ||||||
1975 | 10 | 1 | 0 | ||||||||
1976 | 13 | 2 | 2 | 1 | 5 | ||||||
1977 | 14 | 2 | 1 | ||||||||
1978 | 14 | 2 | 1 | 1 | 4 | ||||||
1979 | 12 | 1 | 5 | 0 | 3 | 1 | 20 | 2 | |||
1980 | 12 | 3 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 | ||
1981 | 15 | 3 | 3 | 0 | 2 | 1 | 20 | 4 | |||
1982 | 18 | 2 | 5 | 2 | 3 | 1 | 26 | 5 | |||
1983 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 15 | 0 | |||
1984 | 7 | 17 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 21 | 1 | ||
1985 | 4 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 11 | 1 | |||
通算 | 日本 | JSL1部 | 145 | 19 | |||||||
総通算 | 145 | 19 |
出典
[編集]- ^ 東京国際大学体育会サッカー部. “監督・コーチ紹介”. 2024年9月5日閲覧。
参考文献
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