波勝 (標的艦)
波勝 | |
---|---|
1943年11月19日、竣工翌日に相生を出港中と推定される「波勝」[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 播磨造船所[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 標的艦 |
母港 | 呉 |
艦歴 | |
計画 | 1941年度(マル追計画) |
起工 | 1943年2月1日[2] |
進水 | 1943年6月27日[2] |
竣工 | 1943年11月18日[2] |
除籍 | 1945年11月30日 |
その後 |
復員輸送任務 その後解体 |
要目(基本計画時) | |
基準排水量 | 1,641英トン[2] |
公試排水量 |
計画 1,900トン[2] 実際 1,909.592トン[3] |
満載排水量 | 2,039.10トン[4] |
全長 | 93.50m[2] |
水線長 | 92.00m[2] |
垂線間長 | 84.75m[2] |
最大幅 | 12.31m[4] |
水線幅 | 11.30m[4][注釈 1] |
深さ | 6.75m[2] |
吃水 |
公試平均 3.81m[2] 満載平均 3.97m[4] |
ボイラー | ホ号艦本式重油専焼缶2基[2] |
主機 | 艦本式タービン2基[2] |
推進 | 2軸[2][5] |
出力 | 4,400shp[2] |
速力 | 19.3ノット[2][注釈 1] |
燃料 | 重油 330トン[2][注釈 1] |
航続距離 | 4,000カイリ / 14ノット[2][注釈 1] |
乗員 | 計画乗員 148名[6][注釈 1] |
兵装 |
計画[7] 13mm機銃 連装2基 出撃時[8] 12cm単装高角砲2門 25mm3連装機銃、同単装機銃多数 |
装甲 |
計画[9] 船首楼甲板、上甲板 25mmDS鋼 艦橋 天蓋25mmDS鋼、囲壁12-20mmDS鋼 実際[10] 船首楼甲板、上甲板 22mmDS鋼 天蓋22mmDS鋼、囲壁18-20DS鋼 煙突開口部グレーチング、囲壁12-25mmDS鋼 |
搭載艇 |
7.5m内火艇1隻[11] 7mカッター2隻[11] 6m通船1隻[11] |
レーダー | 電探(訓練地への回航時に装備)[8] |
ソナー | 水中聴音機(訓練地への回航時に装備)[8] |
その他 | 4,000mから投下される10kg演習弾に耐える防御[12][注釈 1] |
波勝(はかち)は、日本海軍の標的艦[13]。艦名は伊豆半島南西にある「波勝岬」に由来する[14]。当時の読みは「はかちさき」だったが現在の読みは「はがちさき」となっている。
概要
[編集]1941年(昭和16年)度の戦時追加計画(マル追計画)により建造された標的艦。計画番号J32[4]。標的艦として建造された日本海軍初の艦である。爆撃練習や、爆撃回避研究を主任務とする[15]。船体は船首楼型船体を採用し、船体から分離した上甲板には爆撃演習弾に耐えるよう防御甲板には22mmDS鋼板が張られ、その下に空間を設けて安全性を向上させた。艦載艇などはこの空間に搭載され、甲板上には船として最低限必要な艦橋、煙突、マスト以外なく、小型の航空母艦のような艦型となった。甲板上には13mm機銃が搭載されたが、爆撃訓練に使用する際は撤去された。また艦幅を重巡洋艦程度に見せるための幕的を備え、それを防御甲板の舷側に並べたブームで左右水平方向に展張出来るようになっていた[16]。
当時、河内型戦艦から標的艦に改造されていた「摂津」[17]より優速(摂津18ノットに対し19.3ノット)となり運動性能も良くなった。ただし実戦では駆逐艦など30ノット程度で航行しており、標的艦にもより高い速力が要求された[18]。また復元性能に不安があったため同型艦は作られず、改⑤計画ではその点を改良した大浜型が建造された[18]。
艦歴
[編集]仮称艦名第660号艦[4]。1943年(昭和18年)11月18日に播磨造船所で竣工、呉鎮守府籍となる[19]。瀬戸内海で訓練をおこなう[19]。12月1日に連合艦隊付属となり24日に呉港を出港、トラックに向かった。訓練地への往復の際に護衛任務にも使えるよう、13mm機銃は12cm単装高角砲2門に交換された[8]。同時に25mm3連装機銃や同単装機銃も多数装備、電探や水中聴音機も装備され、訓練時には取り外す予定だった[8]。トラックでは爆撃訓練に従事していたが翌1944年(昭和19年)2月17日のトラック島空襲により被爆、パラオに退避して工作艦「明石」による修理を受けた。3月以降はリンガ泊地やミンダナオ島ダバオなどで爆撃訓練に従事した。
6月には、軽巡夕張沈没時の航海長だった津田少佐が波勝艦長として赴任してきた[20]。第二十六航空戦隊(司令官有馬正文少将)の指揮下に入り、航空隊の訓練に協力している[21]。ダバオも頻繁に空襲を受けるようになって訓練をおこなう状況ではなくなり、ルソン島マニラに回航を命じられた[21]。マニラでは日本陸軍航空部隊の爆撃訓練に協力し、7月下旬には南方軍総司令官寺内寿一元帥が波勝に乗艦して訓練を視察した[22]。 アメリカ海軍機動部隊の襲撃に対処して、9月に基隆回航する[22]。10月1日に基隆発の船団を護衛し[23]10月6日に呉に帰着した。対空兵装を増強すると共に、本土決戦時の白兵戦に備えて、呉海軍工廠と交渉して全乗組員分の軍刀を確保した[24]。その後は瀬戸内海での爆撃訓練に従事し、1945年4月6日には別府湾で沖縄特攻にむかう大和部隊を見送ったという[25]。内海西部も激しい空襲を受けるが、波勝は無傷で終戦の日を迎えた[19]。
1945年12月1日、呉地方復員局所管の特別輸送艦に指定され[26]、その後は復員輸送に従事する。 1946年12月23日、特別輸送艦の指定を解かれて[27]藤永田造船所に引き渡され解体[28]された。
歴代艦長
[編集]- 艤装員長
- 特務艦長
(注)1945年12月20日以降は「艦長」[31]。
- 仁藤仁之助 中佐/大佐:1943年11月18日[30] - 1944年6月10日[32]
- 津田武彦 少佐:1944年6月10日[33] - 1945年10月13日[34]、以後1945年10月20日まで艦長の発令無し。
- (臨時)天野孝哉 少佐:1945年10月20日[35] - 1945年11月12日[36] (本職:第百五十三号輸送艦長)
- 橋口百治 少佐:1945年11月12日[37] - 1945年11月25日[38]
- 高根嘉根次 少佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1945年11月25日[38] - 1946年12月23日[39]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ #日本海軍全艦艇史873頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #昭和造船史1 794-795頁。
- ^ #海軍造船技術概要928頁。
- ^ a b c d e f 「一般計画要領書」3頁。
- ^ 「一般計画要領書」25頁。
- ^ 「一般計画要領書」28頁。
- ^ 「一般計画要領書」6頁。
- ^ a b c d e #海軍造船技術概要927頁。
- ^ 「一般計画要領書」23頁。
- ^ #海軍造船技術概要930頁、「標的艦波勝防御配置」。
- ^ a b c 「一般計画要領書」31頁。
- ^ #海軍造船技術概要926頁。
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 285a波勝(はかち/標的艦)
- ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝598頁。
- ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 157a-158標的艦に新天地をもとめて
- ^ 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦艇史』、p.42。
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 284攝津(せっつ/標的艦)
- ^ a b #海軍造船技術概要931頁。
- ^ a b c 補助艦艇奮戦記 2016, p. 285b.
- ^ 軽巡二十五隻 2014, p. 157b.
- ^ a b 軽巡二十五隻 2014, p. 158.
- ^ a b 軽巡二十五隻 2014, p. 159.
- ^ 丸スペシャル『特務艦』、p.50。
- ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 160–161刀工場と化した波勝
- ^ 軽巡二十五隻 2014, p. 161.
- ^ 昭和20年12月1日付 第二復員省内令第6号。
- ^ 昭和21年12月23日付 復員庁第二復員局 復二第489号。
- ^ 昭和21年12月23日付 大阪地方復員局 阪複総務局ノ二 『波勝引渡作業経過概要並所見』。
- ^ 昭和18年10月6日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1231号。
- ^ a b 昭和18年11月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1265号。
- ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号。
- ^ 昭和19年6月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1510号。
- ^ 昭和19年6月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1511号。
- ^ 昭和20年11月6日付 海軍辞令公報 甲 第1973号。
- ^ 昭和20年11月14日付 海軍辞令公報 甲 第1982号。
- ^ 昭和20年11月26日付 海軍辞令公報 甲 第1991号。
- ^ 昭和20年11月24日付 海軍辞令公報 甲 第1990号。
- ^ a b 昭和20年12月4日付 第二復員省辞令公報 甲 第3号。
- ^ 昭和22年1月8日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第117号。
参考文献
[編集]- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、2014年(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。
- 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1。
- (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争』
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- (148-161頁)当時「夕張」航海長・海軍少佐津田武彦(夕張沈没後、波勝艦長)『袖珍軽巡「夕張」ソロモンへの片道切符 船団を護衛して魔の海域に作戦する小型軽巡を襲った痛恨の一撃』
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年。ISBN 4-87565-205-4。
- 『特務艦』 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズ No.34、潮書房、1979年。
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6。
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』(第3版)原書房〈明治百年史叢書〉、1981年(原著1977年)。ISBN 4-562-00302-2。
- 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」