コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

河鰭実文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河鰭 実文
かわばた さねふみ
生年月日 1845年5月10日
(旧暦弘化2年4月5日
没年月日 (1910-07-16) 1910年7月16日(65歳没)
前職 華族会館副幹事
現職 錦鶏間祗候
称号 従二位
子爵
親族 三条実美(兄)

日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院子爵議員
当選回数 1回
在任期間 1890年7月10日 - 1897年7月10日
テンプレートを表示

河鰭 実文(かわばた さねふみ)は、日本公家政治家位階従二位爵位子爵

元老院議官貴族院議員、錦鶏間祗候などを歴任した。

来歴

[編集]

戊辰戦争では錦旗奉行となり、慶応4年(1868年)4月には有栖川宮熾仁親王に従って江戸城に入った。

明治3年(1870年東京府権少参事となり、その後、内務省権少書記官などを務めた。明治6年(1873年イギリスに留学し、帰国後、華族会館副幹事となった。華族令に基づき、1884年(明治17年)7月8日子爵となる[1]。その後、第1回貴族院子爵議員選挙にて貴族院議員に選出された。1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。明治43年(1910年)7月16日、66歳で没した。墓所は多磨霊園の他、遺髪塚が京都市右京区二尊院にある。

政策・主張

[編集]

華族の学問の切磋と子弟の教育を図るため、秋月種樹らとともに「通款社」を結成した[3]。イギリス留学の経験から、イギリスの繁栄は議会によるところが大きいと考えていた[3]。そのため、日本も国会開設後は華族が上院議員として役割を果たすべきだと唱え、華族に対して議会制度を学ぶよう主張した[3]。この通款社の動きは、のちに華族会館の設立に繋がっていく。なお、帝国議会開設後は、自身も第1回貴族院子爵議員選挙にて貴族院議員に選出されている。

家族・親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 331.
  2. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  3. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 74.

参考文献

[編集]
  • 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。
  • 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年。
  • 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年。 
日本の爵位
先代
(叙爵)
子爵
河鰭家初代
1884年 - 1910年
次代
河鰭公篤
その他の役職
先代
河鰭公述
河鰭家当主
第25代:1864年 - 1910年
次代
河鰭公篤