コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

池田斉政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
池田斉政
池田斉政像(林原美術館蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永2年4月8日1773年5月28日
死没 天保4年6月26日1833年8月11日
改名 本之丞(幼名)、政久(初名)、斉政
別名 新十郎(通称
戒名 観国院殿西嶽宗周大居士
墓所 岡山県岡山市中区円山の曹源寺内池田家墓所
官位 従四位下上総介左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
備前岡山藩
氏族 池田氏(利隆流)
父母 池田治政酒井忠恭娘米姫
兄弟 政恭[1]斉政政芳堀直温、晴姫、
兼子、佐野茂好正室
池田重寛の娘・絲子
斉輝、祐仙院、金子、睿姫
斉成斉敏
テンプレートを表示

池田 斉政(いけだ なりまさ)は、備前岡山藩6代藩主。岡山藩池田家宗家8代。

生涯

[編集]

安永2年(1773年)4月8日、第5代藩主・池田治政の次男として江戸藩邸で生まれる。庶出の兄政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた[1]寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久(まさひさ)から斉政に改名した。

父・治政の代の放漫財政を改めて、役職に見合う予算制度の導入や出費の制限など、倹約財政を断行して藩財政の回復を図った。また、文化振興や有能な人材登用などにも努め、藩政をいくらかは再建している。

文政2年(1819年)、嫡子・斉輝が23歳で早世し、文政3年(1820年)に斉輝の長男・本之丞も5歳で死去した。そのため、弟・政芳の長男・斉成婿養子に迎えるが、文政9年(1826年)8月に斉成も18歳で死去した[2]。その後、幕府から将軍・家斉の子女を養子に迎えるようにもちかけられるものの、それを断って文政9年(1826年)10月に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧(のち為政、斉敏、鳥取藩池田治道の孫)を婿養子として迎えた。文政12年(1829年)2月7日、家督を斉敏に譲って隠居する。

天保4年(1833年)6月26日、岡山城西の丸で死去した。享年61。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 「華族系譜20」p.65
  2. ^ a b 大森 2004, pp. 185–187.

参考文献

[編集]
  • 宮内庁書陵部所蔵「華族系譜20」
  • 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』〈角川選書〉2004年。ISBN 9784047033689 
曹源寺の斉政夫妻の墓。右が斉政の墓