池田斉政
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池田斉政像(林原美術館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 安永2年4月8日(1773年5月28日) |
死没 | 天保4年6月26日(1833年8月11日) |
改名 | 本之丞(幼名)、政久(初名)、斉政 |
別名 | 新十郎(通称) |
戒名 | 観国院殿西嶽宗周大居士 |
墓所 | 岡山県岡山市中区円山の曹源寺内池田家墓所 |
官位 | 従四位下・上総介、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 備前岡山藩主 |
氏族 | 池田氏(利隆流) |
父母 | 池田治政、酒井忠恭娘米姫 |
兄弟 |
政恭[1]、斉政、政芳、堀直温、晴姫、 兼子、佐野茂好正室 |
妻 | 池田重寛の娘・絲子 |
子 |
斉輝、祐仙院、金子、睿姫 斉成、斉敏 |
池田 斉政(いけだ なりまさ)は、備前岡山藩6代藩主。岡山藩池田家宗家8代。
生涯
[編集]安永2年(1773年)4月8日、第5代藩主・池田治政の次男として江戸藩邸で生まれる。庶出の兄政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた[1]。寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久(まさひさ)から斉政に改名した。
父・治政の代の放漫財政を改めて、役職に見合う予算制度の導入や出費の制限など、倹約財政を断行して藩財政の回復を図った。また、文化振興や有能な人材登用などにも努め、藩政をいくらかは再建している。
文政2年(1819年)、嫡子・斉輝が23歳で早世し、文政3年(1820年)に斉輝の長男・本之丞も5歳で死去した。そのため、弟・政芳の長男・斉成を婿養子に迎えるが、文政9年(1826年)8月に斉成も18歳で死去した[2]。その後、幕府から将軍・家斉の子女を養子に迎えるようにもちかけられるものの、それを断って文政9年(1826年)10月に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧(のち為政、斉敏、鳥取藩池田治道の孫)を婿養子として迎えた。文政12年(1829年)2月7日、家督を斉敏に譲って隠居する。
天保4年(1833年)6月26日、岡山城西の丸で死去した。享年61。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宮内庁書陵部所蔵「華族系譜20」
- 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』〈角川選書〉2004年。ISBN 9784047033689。