池田宗政
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保12年6月24日(1727年8月11日) |
死没 | 宝暦14年3月14日(1764年4月14日) |
改名 | 幼名:峯千代、茂太郎、初名:尚政→宗政 |
別名 | 燕々子(号) |
戒名 | 寿国院殿豊山延祥大居士 |
墓所 | 岡山県岡山市中区円山の曹源寺 |
官位 | 従四位下、伊予守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 備前岡山藩主 |
氏族 | 池田氏 |
父母 | 父:池田継政、母:村子(伊達吉村次女) |
兄弟 | 宗政、政喬 |
妻 | 正室:藤子(黒田継高長女) |
子 | 治政、相良長寛、久子(榊原政敦正室) |
池田 宗政(いけだ むねまさ)は、備前岡山藩の第4代藩主。岡山藩池田家宗家6代。
生涯
[編集]第3代藩主・池田継政の長男。母は伊達吉村の次女・村子(心定院)。幼名は峯千代、茂太郎。
幼少期より水戸の鶴千代(徳川宗翰)、加賀の勝丸(前田宗辰)、出雲の幸千代(松平宗衍)と共に四君子と称され、聡明で知られた。元文5年(1740年)に元服する。初名は尚政(なおまさ)、のちに将軍徳川吉宗より偏諱を受け宗政に改名する。宝暦2年(1752年)12月6日、父の隠居により跡を継いだ。
岡山藩藩学の充実に努めており、また自身は書画に優れ作品を残しているほか、俳諧や和歌もなした。宗政は信仰していた餘慶寺(瀬戸内市邑久町北島)に正室藤子の打掛を法衣にして寄進している。宝暦14年(1764年)3月14日、父に先立って38歳で病死した。跡を長男の治政が継いだ。