池田政喬
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元文4年3月7日(1739年4月14日) |
死没 | 文化6年7月15日(1809年8月25日) |
改名 | 幼名:岑次郎、通称:主税、号:成心斎 |
戒名 | 徳芳院前倉部郎孤室有隣大居士 |
墓所 | 天城海禅寺(倉敷市藤戸町天城)楫山墓所 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 池田宗政、治政、斉政 |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 池田氏(宗家、天城池田家) |
父母 |
父:池田継政、母:千代野(西川氏) 養父:池田政純 |
兄弟 | 宗政、政喬 |
妻 | 唯子(池田政純の娘) |
子 | 政恒、政孝、長興、和子(四辻公万室)、幸子(荒尾成尚室)、松子(池田義路室)、小弁(池田博教室)、濤子(養父政純嫡男政辰の娘・池田長玄室)、政真(政辰の長男) |
池田 政喬(いけだ まさたか)は、岡山藩の家老。天城池田家第7代当主。
生涯
[編集]元文4年(1739年)、岡山藩第4代藩主池田継政の子として岡山で生まれる。明和3年(1766年)、叔父である池田政純の養子として天城領3万石を相続、支藩主並みの待遇を受ける。政純の嫡男であった政辰の遺児・政真を養子としていたが、政真は安永7年(1778年)に20歳で早世した。寛政3年(1791年)、隠居して次男の政孝に家督を譲った。長男の政恒は別に5000石の知行を受け、藩の家老となっている。文化6年(1809年)7月15日没。享年71。
人物
[編集]人柄は温和でつつしみ深く、親には孝を尽くし、兄の藩主宗政に対しては慎み敬い、家臣に対しては慈愛を持って接した。また、書画、散楽、茶の湯を好み、その技に秀でた文化人であった。岐阜県揖斐郡池田町龍徳寺所蔵の池田恒興像と池田元助像の賛は、政喬のものである。
参考文献
[編集]- 『岡山県人名辞書』