池島信平
いけじま しんぺい 池島 信平 | |
---|---|
生誕 |
1909年12月22日 東京市本郷区春木町 |
死没 | 1973年2月13日(63歳没) |
出身校 | 東京帝国大学文学部西洋史学科 |
職業 | 編集者、実業家 |
池島 信平(いけじま しんぺい、旧字体:池島 信平󠄁、1909年(明治42年)12月22日[1] - 1973年(昭和48年)2月13日)は日本の編集者、実業家。文藝春秋社長(第3代)。
人物・来歴
[編集]東京市本郷区春木町生まれ[2]。生家は牛乳の配達を営んでいた。東京府立第五中学校(四修)に進むが、当時としては異例の科学教育と国際主義の校風で、大正自由主義教育者である伊藤長七校長から強く影響を受けた。「わたくしのモノの考え方、生き方のどこかに、伊藤校長の遺したものが根強く残っている。」と後年語っている[3]。旧制新潟高等学校(現・新潟大学)に入学し、1929年(昭和4年)の第6回全国高等学校ア式蹴球大会にフォワードとして出場した。
文藝春秋入社
[編集]1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部西洋史学科卒業後[1][注釈 1]、文藝春秋社に第1期生として入社[1][4]。『文藝春秋』編集部に入ることを望んだが、創刊まもない小雑誌『話』編集部に配属され雑誌記者として活動。1940年(昭和15年)に話からリニューアルした月刊誌『現地報告』で編集長を務める。
1944年(昭和19年)、文藝春秋編集長に就任するが[1]、まもなく召集されて横須賀海兵団に入隊。2週間後に北海道の千歳第二基地に送られ、滑走路作りの工事に投入された。海軍に入ってすぐに体罰の横行を目の当たりにし、「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死」「万難を排して生きて帰ろう、と心に誓った」という[5]。終戦は青森で迎えた。
1946年(昭和21年)、菊池寛の意向により文藝春秋社が解散したため、菊池から社名と誌名を貰い受け、専務の佐々木茂索を社長に担ぎ出して11名の社員で文藝春秋新社を創立。
社長就任
[編集]1966年(昭和41年)3月、社名を文藝春秋に改め、第3代社長に就任。1968年前後からの全共闘運動に戦前の全体主義と似た匂いを感じ、保守思想を擁護する立場で、小林秀雄、福田恆存、三島由紀夫ら保守思想家が集う日本文化会議設立に大きく関与。機関誌を発行しようとしたが、社員から猛反発に遭う。改めて1969年夏に、保守派オピニオン誌『諸君!』を創刊した。また、十返肇と二人で「文人海軍の会」を創設。源氏鶏太、阿川弘之、豊田穣などが会員だった。その関連もあって『別冊文藝春秋』などで戦記特集を多く出した。
1973年2月13日、在職中に急死。亡くなる直前まで文筆活動を行っていた。
著書
[編集]- 『編集者の発言』暮しの手帖社、1955年。
- 『ジャーナリズムの窓から』修道社、1956年。
- 『雑誌記者』中央公論社、1958年。中公文庫、1979年、改版2005年。
- 『歴史好き』三月書房、1971年。中公文庫、1983年。
- 『池島信平文集』文藝春秋、1973年。巻末対談今日出海と永井龍男
編著・共著
[編集]- 『風流おかめ八目』扇谷正造共著・対談集、修道社、1955年。
- 『縦横おかめ八目』扇谷正造共著・対談集、修道社、1956年。
- 『文壇よもやま話』嶋中鵬二と聞き手:NHK編(上下) 青蛙房、1961年。中公文庫、2010年10・11月。
- 『歴史よもやま話 日本篇』(上下編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年。
- 『歴史よもやま話 西洋篇』(編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年。
- 『歴史よもやま話 東洋篇』(編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年。
- 『文学よもやま話 対談集』(上下) 文藝春秋、1974年。恒文社、1995年12月。
関連書籍
[編集]- 塩澤實信 『雑誌記者 池島信平』文藝春秋、1984年。文春文庫、1993年。跋文は司馬遼太郎。
- 新版改題『文藝春秋編集長 菊池寛の心を生きた池島信平』展望社、2005年。
- 菊池信平編『昭和十二年の週刊文春』文春新書、2007年。