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ハルマ和解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸ハルマから転送)

ハルマ和解』(ハルマわげ、波留麻和解[1]または法留麻和解[2])は、日本最初の辞典[1]江戸時代寛政8年(1796年)、蘭学者稲村三伯宇田川玄随岡田甫説らによって編纂された[1]ドゥーフ・ハルマと区別して江戸ハルマ(えどハルマ)とも[1]

概要

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蘭学の勃興により、蘭和辞典が求められた。長崎通詞西善三郎はピエール・マーリン(Pierre Marin)による『蘭仏・仏蘭大辞典』をもとに蘭日辞典編纂に着手したが、編纂作業中に死去し、未完成に終わった[3]。膨大なオランダ語の単語をABC順に並べる作業に、多大な労力が必要だったのである。

次に大槻玄沢門下の稲村三伯が蘭和辞典の編纂活動を開始した[2]。稲村三伯は、長崎通詞の石井恒右衛門を紹介され、オランダ人フランソワ・ハルマオランダ語版の『蘭辞書』(1729年)の日本語訳を作る要領で蘭日辞典編纂に取り組んだ[2]。この事で膨大なオランダ語の単語をABC順に並べる手間が、そっくり回避できたのである。稲村三伯の他、同じ大槻玄沢門下の宇田川玄随宇田川玄真、岡田甫説が参加した[4]

編纂事業は寛政8年(1796年)に終わり、『ハルマ和解(波留麻和解)』として完成を見た[4]。その後、寛政10年(1798年)から寛政11年(1799年)にかけて刊行された。刊行部数は30[4]

刊行にあたって、オランダ語部分は活版印刷が行われ、日本語部分は毛筆による縦書きで書写した[4]

従来は道教において用いられてきた「自然」という言葉を現在の意味で初めて用いるなど、西洋文明と近代文明受容の過程において日本語自体、ひいては日本人の意識を変える原動力となったと評される[5]

稲村三伯の弟子の藤林普山は『ハルマ和解』の収録語から約3万語を選び、文化7年(1810年)に簡略版『訳鍵(やくけん)』を刊行した[6]

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d ハルマ和解」『百科事典マイペディア』https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%92%8C%E8%A7%A3コトバンクより2024年3月9日閲覧 
  2. ^ a b c 片桐一男「ハルマ和解」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%92%8C%E8%A7%A3コトバンクより2024年3月9日閲覧 
  3. ^ 西善三郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%96%84%E4%B8%89%E9%83%8Eコトバンクより2024年3月9日閲覧 
  4. ^ a b c d ハルマ和解」『山川 日本史小辞典 改訂新版』https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%92%8C%E8%A7%A3コトバンクより2024年3月9日閲覧 
  5. ^ 江戸ハルマ早稲田大学図書館
  6. ^ 『訳鍵』〈三瀬諸淵朱書本〉 - 文化遺産オンライン文化庁

外部リンク

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