毛利梅園
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛政10年(1798年) |
死没 | 嘉永4年8月7日(1851年9月2日) |
別名 |
名:元寿(もとひさ)[1] 通称:鉙三郎(かねさぶろう)[1]、十郎左衛門[2] 号:梅園、写生斎、写真斎、写真洞、梅竜園、欑華園、華魁舎、三脚、白石瑛、茗渓、環、蘆環瑛等[2] |
戒名 | 梅園院善慶道全居士[3] |
墓所 | 三田正覚院[3] |
幕府 | 江戸幕府書院番 |
氏族 | 藤姓毛利氏もしくは平姓毛利氏 |
父母 | 父:毛利元苗、母:安部信富養女(安部信允娘)[1] |
毛利 梅園(もうり ばいえん)は、江戸時代後期の旗本、本草学者。諱は元寿(もとひさ)。主著に『梅園画譜』『皇代系譜』。
生涯
[編集]寛政10年(1798年)、江戸幕府旗本毛利兵橘元苗(もとひで)の長男として生まれた[3]。家系は大江毛利氏ではなく、毛利重政を祖とする藤姓毛利氏である。
享和3年(1803年)、木挽町築地の拝領屋敷500坪が旗本寄合席有馬熊五郎へ譲られ、白山鶏声ヶ窪古河藩土井家屋敷内852坪地に転居した[2]。
文政3年(1820年)頃から植物に興味を持ち、写生に熱中するようになった[2]。屋敷内に草木を植え、当初梅樹園と号していたが、後に阿部正精に欑華園の号を賜った[2]。文政5年(1822)12月24日書院番諏訪備前守組に加入し、文政13年(1830年)5月4日父の遺領を相続した[2]。
天保2年(1831年)動物、天保6年(1835年)菌類に関心が移り、天保10年(1839年)活動が一端途絶える[2]。天保13年(1842年)3月7日牛込からの大火に類焼し、3月15日麻布龍土町長州藩毛利家下屋敷に移り、梅竜園と号した[2]。弘化2年(1845年)8月25日白山に新居を着工した[2]。
弘化元年(1844年)写生活動を再開し、初めツバキの諸品種を模写している[2]。江戸近郊へも積極的に採集に出かけるようになり、嘉永元年(1848年)9月高尾山、嘉永2年(1849年)3月箱根に採集を行い、また小仏峠、大山、江ノ島、鎌倉、金沢等も巡った[2]。しかし、嘉永2年(1849年)で活動が途絶え[2]、嘉永4年(1851年)8月7日死去し、三田正覚院に葬られた[3]。
著書
[編集]『梅園画譜』
[編集]国立国会図書館所蔵の一連の画譜を『梅園画譜』と総称する。
- 『梅園禽譜』 NDLJP:1286915
- 『梅園魚譜』 NDLJP:1286914
- 『梅園介譜』 NDLJP:1286918
- 『梅園草木花譜』 春NDLJP:1287072 夏NDLJP:1287075 秋NDLJP:1287024 冬NDLJP:1286927
- 『梅園海石榴花譜』 NDLJP:1286917
- 『梅園菌譜』 NDLJP:1286916
- 『草木実譜』 NDLJP:2537209
- 『梅園虫譜』 散佚したが、田中芳男等が町田久成蔵本より大部分を『博物館図譜』[4]に模写している[2]。
自ら採集、知人より得た実物を中心に写生し、写生日、実写か模写かを記し、更にしばしば入手元を記載している点が先進的と評価される一方、縮尺を示さず、分類学に意識が向けられていないことが欠点である[2]。
その他
[編集]- 『梅園採薬紀行図絵』 散佚[2]。
- 『欑華園中輳集草木志』 国立国会図書館所蔵。
- 『皇代系譜』 第1-10冊が元苗、第11-12冊が元寿の手になる[3]。内閣文庫所蔵。
- 『梅園雑話』伊藤篤太郎旧蔵、天理大学附属天理図書館所蔵。
なお、『梅園奇賞』は大坂野里梅園作で、国立国会図書館蔵『魚図』[5]も梅園と号する別人の作と見られる[3][2]。
後世
[編集]生前著書は刊行されず、赭鞭会の設楽貞丈を除き他の本草学者と交流を持たなかったため、本草界の間では無名の存在だった[2]。明治15年(1882年)伊藤圭介80歳を祝う錦窠翁耋筵会が行われた際、『梅園画譜』が出品され、名が知られるようになったが、素性は判然とせず、右田毛利家毛利元寿[6]や、大坂町年寄野里梅園[7]と事跡が混同された[2]。
白山の屋敷地は現在の文京区白山五丁目29番[2]、東洋大学白山キャンパス京北門外に当たる。
家系
[編集]森重高 - 毛利重政 - 毛利重次 - 毛利重長 - 毛利重勝(元教) - 毛利元卓 - 毛利元苗 - 毛利元寿(梅園)