横山堅七
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個人情報 | |
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国籍 | 日本 |
生誕 | 1916年9月22日 |
スポーツ | |
競技 | バスケットボール |
横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した[1]。
経歴
[編集]新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び[2]、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した[2][注釈 1]。早稲田大学に進み、バスケットボール部に所属。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに出場した[注釈 2]。1938年には東洋選手権大会日本代表、1939年には来日したカナダのチーム(「ウェスターン軍」)と対戦した日本代表チームの一員となり、宗像卯一とともに年間最優秀選手に選ばれた[3]。1940年には東亜競技大会の日本代表選手となる[3]。
その後、日本鋼管に所属[4]。戦後、池田博を日本鋼管に招いたほか[4]、新潟から高橋修・高橋実らを招くなど、日本鋼管のバスケットボール部(のちのNKKシーホークス)の陣容を整え[4]、2年余りにわたって94連勝という記録を打ち立てるチームの中心となった[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “Kenshichi Yokoyama Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月10日閲覧。
- ^ a b c d “大正-昭和初期の葦原スポーツ黄金期 籠球・柔道・庭球をはじめ全国制覇も数多く”. 新潟県立新潟商業高等学校 葦原同窓会. 2023年7月9日閲覧。
- ^ a b c “年表”. 資料室. 早稲田大学バスケットボール部. 2023年7月9日閲覧。
- ^ a b c 「日本鋼管の94連勝 池田博氏に聞く」, p. 4.
- ^ 「日本鋼管の94連勝 池田博氏に聞く」, pp. 4, 8.
参考文献
[編集]- 「日本鋼管の94連勝 池田博氏に聞く」『バスケットボールプラザ』第33号、NPO法人日本バスケットボール振興会、2007年 。2022年4月21日閲覧。